北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和4年5月の俳句

    【皐月の句】

 

①  八重むぐら シャツに張り付け パリコレか
②  植え終えて 妻に感謝の 初鰹 

③  緑雨かな 雨の匂いの アスファルト 

              《5月連休とその後》

 

 長野県下では新規コロナ・ウイルス感染者が、県全体で1日・745人(4月19日)と、ピークを迎え、その後も600~500人以上の日が続いた。佐久市内でも連日感染者が出ていたが、社会経済活動を継続させながら「With Corona」という日本全体の動きの中で、5月の定例俳句会は予定通り開いた。

 今月は、孫たちが大きくなってしまえば学校も休めないだろうからと、長女が5月連休に帰省したので、そのエピソードを題材にした。また、新緑から次第に緑深まる初夏の風情を生活の中から選んで、俳句の季語を捜してみた。

 

 【俳句-①】は、草木の名前を覚えながら山道を散歩中に、「ヤエムグラ」を見つけた。群生したものを良く観察すると、茎の節ごとに細長い卵形の葉が8枚輪生している。そして、茎には下向きに細い棘(とげ)があって、洋服に着く。
孫のひとりが、それを発見して、Tシャツや体中に張り付けて遊びだした。見ると、前衛的な有名デザイナーによるファッションのように思えて、思わず仏蘭西「パリ・コレクション」かと感動してしまったことを詠んだ。同時に、子どもは自然を楽しむ方法を良く知っているなあと感心した。自分では、子どもの頃に知らなかった遊びであった。

ヤエムグラの花

 「ヤエムグラ」と言えば、百人一種の恵慶法師の和歌に、「八重むぐら 茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり」というのがある。それで、「やえむぐら」という響きは知っていたが、どんな植物かは知らなかった。
 茅葺き屋根に似合う「ノキシノブ」のようなシダ類かと連想していたが、便利なもので、散歩中に携帯電話で検索したら、八重むぐらだとわかった。完全に普段、見落としていた雑草であり、寧ろ、農作業をする時、邪魔者扱いをしていた草花である。
 その時は、花は咲いていなかったが、その後に見ると可愛い小さな花を付けることがわかった。
 それで、人々から見向きもされないような雑草が、静かに繁茂し、そこに佇む法師の秋の風情を体感した心情が少しわかってきたような気がした。
 ところで、キク科の「オナモミ」の実が服に着くので、互いに投げつけ合って遊んだことがあるが、友達の誰かか、大人の誰かが教えないと、子どもが偶然に発見することは難しい時代になるのかもしれません。

ヤエムグラの群生


 【俳句-②】は、野菜の苗を植え終えて、安堵すると共に、妻に感謝しながら初鰹(はつがつお)の夕餉をいただいたことを詠んだ。

ただ、この時期なので、多くの人は「田植え」が終わったものと解釈するかもしれないので、少し解説が必要だと思う。
 「米」という字は「八十八」と書くくらい、人が多くの手間暇をかけて稲を育ていると言われるが、中でも田植えは大仕事である。私が子どもの頃は、一家総出と「結い」と呼ばれる近所の互助で、皆で田植えをした。次第に機械植えが、主流となっていったが、今では、大型機械を使った専業農家等による委託栽培が増えて、家族による田植えは、少なくなった。我が家では何年も前から、水田は委託栽培してもらっている。だから、定年退職後に張り切って農業を始めたとは言え、自家用の野菜を栽培・収穫するに過ぎない。
 初期の頃は、急いで苗の植え付けをしては、遅霜にやられたり、防風対策が不十分で枯らしたりした経験から、
最近は連休が明けて5月も中半になってから植え付けることにした。今年は、7日から苗床作りを始め、14~15日に、妻との二人掛かりで植え付けた。
・・・と大袈裟に言うのも、春先から神経痛に悩まされていたが、2日に悪化して、左肩甲骨付近から左腕・左手が痛くて耐えられない。その中、往復3時間、120kmの整骨院で治療を受けながら農作業をしていたからだ。
折しも、9・10・11日に佐久地方で米軍戦闘機や輸送機の低空飛行訓練があり、畑にいた私は、目撃しようにも首や視線が上がらずに、音だけ聞いていた。それでも、八ヶ岳上空を3周回する大型輸送飛行機4機編隊を確認した。(10日)
 神経痛が治らない中、棚を組んだり、杭を打ったり、苗を支柱に縛ったりと、特に首を持ち上げると負担の大きい仕事を妻に手伝ってもらった。それ故の特別感謝である。
 そして、安堵と感謝の夕餉だったが、正確には、私の好きな「締め鯖」だった。
しかし、季語には無いので、「初鰹」としてみた。そう言えば、亡父は初鰹と年越しの鰤(ブリ)が好きで、この時期、何時も母にねだって買わせていたなあ。

 

植え終えてから3週間後(森上の畑)



 【俳句-③】は、今の暦の5月、良く晴れて乾燥した大地に恵みの雨が降った時、何とも表現できないが、独特な「雨の匂い」に感動して詠んだ。舗装道路のアスファルトとでは少し情緒が無いかなとも思ったが、雨粒が当たった所が黒い染みとなり、そこから匂いが湧いてくる。五感が刺激されていた。
 新緑の頃に降る雨を「緑雨(りょくう)」と言うが、この季語が好きで使いたいと思っていた。そんな折り奇しくも、昼に視聴している「ひるおび」で森 朗 気象予報士の「雨のにおい」の話を聞いた。
 雨の降り始めや、降った雨上がりの時、アンケート調査によれば、97%の人が、雨にはにおいがあると感じていて、好き(36%)・どちらでもない(44%)・嫌い(17%)と回答している。3%は、においに気づいていないと言う。
 実は、物理化学的に、雨の降り始めと雨上がりの匂いには違いがあって、学術用語がある。ぺトリコール(Petrichor)は降り始めの匂いで、石やアスファルトに付着したカビ、排気ガスを含む埃が水と混ざり、気化したもの、ギリシャ語の「石の匂い」の意味がある。
 一方、ゲオスミン(Geosmin)は雨上がりの匂いで、土中のバクテリアが作り出す有機化合物の匂いが雨水の蒸発によって強化される。語源は「大地の匂い」である。

関連した匂いとして「オゾンO3」もあると言うが、こちらは雷雨の時に経験したことがある。・・・そんな話を聞いて、俳句を作ってみた。

剪定を待つ庭木

 

 【編集後記】

 関東甲信越地方では、西日本を追い抜いて、「梅雨入り」となった。少しずつ、梅雨前線が太平洋高気圧に押されて北上してくる過程が普通のパターンだから、言わば飛び級みたいなものである。もし、このまま更に北上すれば、西日本は空梅雨で旱(ひでり)となってしまうが、気象変化は、そんな単純なものでもないようだ。

 自称「ウルトラマン」の私は、太陽光を浴びていないと調子が出てこない。まして、曇り空では気持ちが沈みのに、雨降りでは具合が悪くなる。特に、農作業や外での活動が無いと、治りかけていた神経痛が、再び出始めてきた。

 そんな健康上の理由も加わり、自分としては、『やや目標が見えなくなって、鬱っぽいなあ』と最近、感じている。

 それで、1年前の今頃は、何をしていたのかと、日記帳を出して振り返ってみることにした。

 社会面では、ミヤンマー・クーデターの4ヶ月後の様子、韓国大田の徴用工像の裁判所判決、中国公船の尖閣侵入、ウイグルや香港問題などと、コロナ禍に苦しんでいた。しかし、私は、地区のごみ拾いボランティアに参加したり、協同草刈り活動があったりと、活躍していた。そして、青梅の実を6月12日には収穫していた。

・・・今日が、6月8日だから、あと4日後かと思う。

 

青梅の実

 さらに、6月21日には、ニンニクを収穫していた。あと13日後のことである。

今年のニンニクに「さび病」が発生し、全滅してしまうかと心配しながら毎日、暗い気持ちで眺めているが、あと約2週間、ニンニクが頑張ってくれれば、いいかもしれないと希望も見えてきた。

 もっと嬉しいことに、数年前の百合の2株の、ちょうど今頃の写真を見つけた。2株が、次々と花を咲かせて行くのを、あたかも、小学生の運動会で紅白の得点争いを見ているように楽しみにしていた。(写真では、つぼみの数まで入れると、同点である。)

急に、嬉しくなってきた。 

百合の二株

 『うかうかしていられない。』この終末頃には、青梅を収穫しなければ・・・・

『ニンニクも、がんばれ』もう少しで、収穫するからな・・・

  今日の午前中も、ダンシャクイモ(ジャガイモ)の花が咲き出してこないのを心配して気落ちしていたが、元気が出てきた。・・・ただ、昨年は、この時期、まだずっと晴れの日が続いていたが。

 希望が薄れ、先が不安になった時、過去を振り返って見ることも大切なことだと感じた。そして、やはり、人は適度な運動を毎日続けていないと健康状態は保てないようだと実感する。傘を持って散歩に出かけてこよう。(おとんとろ)