北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和4年6月の俳句

   【水無月の句】

① ゆすら梅 種吹き飛ばす 昭和の子

② 雨過ぎて 雲間に懸かる 虹の橋

③ 影法師 夏至の太陽 南中す     《六月の心証》

 

 今年の6月の天気は、異常だった。6月に入り、曇りがちな天気が少し続いたかと思ったら、6月6日には、九州・四国・西日本地域より先に、関東甲信地域の「梅雨入り」が発表された。
 今シーズンは「陽性の梅雨」だったようで、じとじと連日雨が降ると言うより、短時間に集中した豪雨や雷雨が特徴的であった。俗に「男梅雨」と言うらしいが、昨今のジェンダー・フリーの観点から、俳句の季語にはあるが、あまり公式には使われていない。
 更に異常気象であったのは、同じ月の27日には、早々と「梅雨明け」が発表されたことだ。観測史上、最も早かっただけでなく、梅雨の期間が、わずか21日間という短さも、初めてのことであった。

 今月は「6月の心証」と題して、心に浮かんだ印象深い光景や、その時の心情を詠んでみようと思っている。俳句会は6月22日と、梅雨明け直前だったので、短かった「男梅雨」や、その後に猛暑日が続いたことは題材とはしなかったが、これも6月の強烈な心証であった。


 【俳句-①】は、庭の「ユスラウメ(山桜梅)」の果実が色付き始めたのを見て、果実をほおばって口に入れた後、種を吹き飛ばしながら食べた子どもの頃のことを思い出し、懐かしさを詠んだ。

 昭和30年代後半が子ども時代なので、物がまったく無くてという訳ではないが、下校後の夏のおやつは、自生の果物が多かった。(おやつ等、無いのが普通だが・・・)ユスラウメ、グミ、スグリ、スモモ、桑の実(メド)などを食べた。

 その中で、当地では通称『コーメ』と呼んでいた「ゆすら梅」は一番人気で、自分の家のものばかりでなく、近所の家まで『○○さん、コーメください』と言って、取りに行ったものである。大人も食べるが、欲しがる子どもより、欲しい訳ではないので、家に子どもが入り込んできても、特に嫌がられずにいた。
 さすがに、他人の家で食べて種を吐き出すことはしないで、ビニル製の袋に収穫して、場所を替えた遊び場で、食べながら遊んだ。だから当然、手がふさがっているので、ほおばって一度に口に入れ、口の中で果実から種子を分離させ、吹き飛ばしていた。女の子の中には、一粒ずつ食べて、種を手で受け取って出す上品な子もいたかもしれないが、私を取り巻くおてんば娘たちは、私たちと同様な文化の中で生きていた。
 しかし、今(令和)では、ゆすら梅を食べる子は、ほとんどいないだろうし、仮に食べても種を口から吹き飛ばす下品な子もいないだろう。そんな意味を込めて、「昭和の子」は、当初「子らも無し」と詠んだ。ただ、次のエピソードを思い出して、昭和の子に戻した。

 実は、我が家の庭にあった「ユスラウメ」の木は、次々ともう少し高級感のある観賞用植物に置き換わり、いつしか絶えてしまっていた。近年、私たちに孫ができて、家内が『孫に食べられる植物を伝えよう』と苗を買ってきた。既に植える場所もなくて、西口と呼んでいる敷地の外れに定植することになったからだ。

 

ユスラウメの果実

 

 【俳句-②】は、雷雨の後で晴れ間が現れたので、散歩に出かけたら、「虹」が、里山の上に懸かる雲と雲の間を繋ぐ架け橋(太鼓橋)のように見え、感動したことを詠んだ。

虹の橋(rain bow bridge)  【インターネットから】

 残念ながら、【写真】のように空いっぱいの「レインボー・ブリッジ」では無くて、半円形の一部が、雲と雲を結んでいた。

 私の記憶に残る最も印象的な虹は、梅雨時の雨上がり、佐久市の東の里山の上に出現した、二重の虹である。PC関連の買い物をして店を出たらあった。急いで車で自宅に帰って写真撮影をしようとしたが、間に合わなかった。道々、多くの人々が、携帯電話のカメラで写真に納めていたことも良く覚えている。

 ところで少し理科的に言うと、虹は、空気中に水滴がたくさんあって、太陽光が水滴の中で屈折→反射→屈折をする過程で、太陽光(電磁波)を構成している可視光の屈折率が異なる為に分光する、言わば自然界でのプリズム実験のような現象である。いくつかの水滴は、昆虫の複眼のように作用して、太陽と反対側に大パノラマを創り出す。滝の水飛沫、霧吹きや散水時にも、小さな虹を観察できるが、空にできる虹は、雷雨や俄雨の雨上がりの午後、東側に見えることが多い。原理的には、朝方、西の空の虹でもいいのだが、私は、まだ見たことがない。

 「七色の虹」と、日本では言うが、調べてみると、世界の民族・文化によって2色~8色に見えるらしい。連続した波長(振動数)なので、数え切れないというのが正解なのだが、ヒトの目(肉眼)での区別はせいぜい4色ぐらいな所を、他の色は想像と知識で、7色と見ているらしい。
 ちなみに、半円形の帯の7色は、内側から、紫・藍・青・緑・黄・橙・赤の各色である。
 実は、この色の順番に関して「申し訳ない」と後悔するエピソ―ドがある。その昔、初めて小学校に勤務して、全校音楽会のステージ・バック装飾のお手伝いをしたことがあった。装飾の虹を見て、担当の教諭に、『これって、二次虹(副虹)じゃないですか』と、ついつい自然科学知識をひけらかして伝えてしまった。彼女は、前任者が製作した虹のデザイン装飾を張るのを止め、空からのトランペットに改め、ステージ・バックを作り直したのだ。翌日、それに気づいて、『忙しいのに本当に申し訳ない』と、謝罪の気持ちを伝えたが、パワハラだったかもしれないと、今でも思い出す。

 ちなみに、初めて体験した小学生の音楽会は、感動して身震いするほどだった。

私のせいで、ごめんなさい?

 

 

【俳句-③】は、夏至の日(今年は6月21日)の正午少し前、庭に出て足下を見ると、自分の影法師が短くなっている様を詠んだ。この日が、1年中で一番日が長く、南に来た太陽は一番高い。つまり、影法師が一番短くなる。但し、庭に出てみたのは事実だが、あいにく梅雨明け数日前の曇り空で、影法師は確認できなかった。だから、想像上の作品なのだが、この句には、私が常々感じている次のような背景があります。

 古典的には、英国のグリニッジ天文台(東経・西経の基準0°)の世界標準時を基準にして、日本標準時は、東経135.0°の兵庫県明石市へとにずれた分の+9時間だけ、早い時刻としている。現在は、長さのm単位などと共に、極めて微少な原子の動きにより決められている。

 しかし、日常生活レベルでは、古典的な方法で十分に事足りるだろう。
 私の住む佐久市は、東経138.5°なので、明石市より+3.5°分だけ早く太陽は南中する。太陽は、1日24時間で一周(360°)するので、角度を時間換算すると、15°が1時間(60分)、3.5°は、14分に相当する。つまり、我が家の庭では、午前11時46分に、太陽が南中する。

透明半球による太陽の動きの観察

  【写真】は、昔懐かしい中学校の理科・地学的領域の透明半球を使って、太陽の1日の動き(日周運動)を観察する例である。台紙の中心とマーカー・ペンの先端を結んだ延長上(約1.5億km先)に太陽がある。 
 南中(なんちゅう)とは、天体(太陽や月・星)が、観察者に対して真南に来た状態で、見上げる角度(南中高度)が最大となる。ちなみに、方位磁石が示した南は、佐久市付近で、5°ほど、西側にずれている。(西方偏位)  

 素人ができる天文に関する計算は、これくらいが限界だが、天文物理学などの専門家が、大型コンピューターを使って天体の軌道予測をすると、すごいことまで予言できる。
 2035年9月2日(日曜日)に、皆既日食佐久市で観察できます。皆既帯が茨城県(水戸・宇都宮)~群馬県(前橋)~長野県~能登半島と、本州を横断する。月食と違い、日食それも皆既日食だから、曇っていようが、雨が降っていようが、仮に形が見えなくても、何分間かは真夜中のように真っ暗になります。

 ちなみに、長野市のデーターでは、午前10時04分頃に、太陽は月によって完全に隠されます。多分、佐久市でも、しっかりと観察できるはずです。
 問題は、その時、私が生きているか、どうかです。
 こんな何十年も先の、ほぼ確実に起きる自然現象が予測できるのに、なぜ私の人生や行動は未知なのだろうかと、常々思います。
 私は、地球の大地に生き、地球と共に自転しながら、太陽の回りを公転しています。そして、銀河系の中を想像もできないほどの高速で移動しているはずです。それらの運行は、恐ろしいほどの正確さです。

 以前、「はてなブログ」に、千曲川の瀬音を聞きながら、流れゆく光景を見た時の心境を載せたことがありました。『行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。』方丈記鴨長明)ではありませんが、千曲川の水が日本海へ注ぐという大きな運命の中で、一緒に流れている木片は海に流れ着くとは限らない。まして泡(うたかた)は、もっと短命な存在としてあるのかなと思いました。
 「集合」というものの考えでは、微細な物が集まって、少し大きな物ができ、さらにそれらも大きな物の一部となりますが、大自然というものは、そんな単純な寄せ集めで構成されている訳ではないのかもしれません。良く言われるように、「自然界の階層性」なのかもしれません。
 私や、人類や、生き物、鉱物や水、大気など、地球を構成するあらゆる物質が集まっての地球ですが、私は地球の一部などと、大それた考えを抱いてはいけないのかもしれません。少し子どもっぽい発想をすれば、育てているジャガイモに付いたテントウムシやトントウムシダマシの幼虫を、私は懸命に手で潰しています。命を奪って可哀想だと思うものの、仕方が無い。まさに、生死を握る私と昆虫の関係は、同じ地球の生命体ではあっても、同レベルではない。非情にもそう思う時、私も何ものかによって生かされていると発想した方が良さそうです。

 

銀 河 系

 

【編集後記】
 

 「令和4年6月の俳句」は、当月初めにはできていましたが、先に、内山層についての話題を「佐久の地質調査物語」として、まとめてきていましたので、それを優先させました。最近、「はてなブログ」の載せる頻度が落ちています。夏野菜の管理や草刈りも忙しくてと、言い訳をしていますが、本音の部分はサボり気味なところもあります。今日、7月31日に載せて、月別の回数を増やそうと決意しました。

 今日、7月31日は、7月最後の日曜日です。実は、「31日」というより「最後の日曜日」ということの方に意味があります。それは、8月1日の為の、準備日程だからです。

 ご存じの方も多いかと思いますが、佐久地方では、地域全体でお墓参りを8月1日にする慣例、風習があります。言い伝えでは、江戸中期・1742年(寛保2年)の旧暦8月1日(新暦では寧ろ防災の日・9月1日に近い8月30日に相当)に、千曲川水系で大洪水があり、多くの人が亡くなりました。(千曲川下流部での広範囲の水害被害も含め、「戌の満水」と称されます。)

 それで、地域の先祖の慰霊祭のような意味合いがあり、お盆やお彼岸に、個人の都合の良い日という訳でなく、とにかく8月1日という日に、一斉に、各先祖の墓を参拝します。この点、自分の直接的な先祖がと言うより、自分を含む地域の先祖という発想です。ちょうど、6月23日の「沖縄忌」のようです。ただ、県民の4人に1人が亡くなったという規模の悲惨さの比ではありませんが、280年もの長きに渡り続いているという点では、日本人特有の感覚だと思います。

一族の先祖(右衛門・左衛門)兄弟の墓と伝わる

 ただ、時代と共に、日常生活の時間の使い方が変わって来て、私の子どもの頃は、曜日に関わらず、7月31日の早朝(6時)から、墓地の清掃をしていました。それが、今では、比較的多くの方が自由時間を作れる7月最後の日曜日となっています。今年は、8月1日が月曜日なので、7月31日が、お墓掃除の日となったわけです。

 一方、少し前には、8月1日を定休日として指定し、仕事や営業を休んだり、定期休業日を予め変更したりしている企業や会社も、佐久地方にはありました。従業員や社員が、余裕をもってお墓参りに出かけられるよう配慮されていた結果のようです。しかし今では、ほとんど無くなったようなので、会社務めの方は、出社前の朝の内に墓参をしたり、帰宅後の夕方に出かけたりする人もいると聞きました。もっとも、家族全員が揃ってというルールを改めれば、家族の誰かが、従来通りの方法で、お墓参りをしていると思います。

 実は、その時間が大切です。8月1日のいつ頃、お墓参りをするかというのも、各家庭の文化や風習があるようです。真夏の時期ですので、日中は炎天下となります。それを避けて、午前中の早い時期に行くか、反対に、午後の夕暮れ時に行くか、それとも日中か、様々なようです。

 ちなみに、我が家は、午前中の9時頃に出かけ、帰宅した10時頃に、冷えたスイカや飲み物を飲むという、当地としては平均的なパターンでした。ですから、午後、行く家族を見て、不思議に思いました。

さらに古い先祖の墓(五輪塔)・・時代不詳

 

 ただ、孫たち家族が帰省するようになって、移動部隊が多くなった年は、そうしたくても準備が間に合わなくて、炎天下に出かけたこともありました。

 時代と共に、また、生活様式の変化と共に、この「8月1日・お墓参り」という風習も変化しつつあります。

 ちなみに、明日の「お墓参り」は、家内と私の二人だけとなりそうです。今までの中で、最少人数となります。少し、寂しいです。(おとんとろ)