北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和4年 10月の俳句

 【神無月の句】

① 五十年(いそとせ)を 過ぎし祝いに しむ身かな 

② 摘み菜の お浸し供え 朝の膳

③ 林檎の香 歩調緩まる ウォーキング

               (晩秋の出来事)

 

 10月の俳句会では、佐久市民総合文化祭(今年は11月5日~6日の週休日)に出品する「俳画を添えた俳句」を準備するのが恒例となっている。
 文化祭は、コロナ禍による感染防止対策で、今年も会場を分散させ、分野別に開催する。ちなみに、舞台発表を伴うジャンル等は、来春に延期されている。
 俳句の題材や季語選びのヒントがないかと捜すのは毎回のことながら、今月は、既にひとつは決まっていた。高校卒業50周年記念行事があり、これに決定!
残り二題は、今まで選んだことのない季語を俳句歳時記から捜し、自分の体験と重ね、それらを俳句に詠んでみた。

 

 【俳句-①】は、私たちが高校を卒業してから50年、年齢では69歳を迎える秋に、『高校卒業50周年記念行事、及び懇談会』が開催されることを受け、青春の日々から社会人・職業人としての生活を経て、今日まで何んとか無事に人生を辿ってくることができたことに、感慨深さを覚えて詠んでみた。
「身に入(し)む」が秋の季語で、それを「しむ身かな」と倒置した。

 私は実は、この俳句を、当初、10月の俳句会に下記のように提出していた。
  卒業の 五十年過ぎし しむ身かな
 Sさんの『もしかして、「卒業」って、春の季語になっていないか?』との指摘で、調べてみるとピンポーンである。私は、「卒業式」とか「入学式」は、季語だと理解していたが、「卒業」自体が季語とは、驚きや不満と言うよりは「俳句とは制約のある言葉の中から選ぶ創作なのだ」と観念した。俳句を始めた頃とは大きく違う、ひとつの悟りである。
 それで、「卒業」を外してみたのだが、解釈する人によっては、結婚後50年を迎えた金婚式のことを詠んだ俳句かと思われてしまうかもしれない。

 ところで、式典は10月29日(土)に開催されたので、句会に提出した時は、当日の様子を想像していた背景もある。
 思えば16歳から18歳の高校生活3年間は、少しばかり波瀾もあり、そして悩み多いものの、基本的には、親の庇護の下、大らかに屈託無く過ごして卒業した。それから、半世紀が経った。卒業後、人に自慢できたり、誇れたりするような業績を挙げた訳ではない反面、空しく、そんなに悲しく惨めな生活を送ってきた訳でもない。まあ、平凡であったのだろう。そんな歩みの中でも、嬉しいこと有り、悔しいこと有り、失敗して落ち込んだことも有りながら、生きてきた。
 一方、多くの同窓生が亡くなっていた。ぜひ会って、放課後の体育館でバスケをしたこと、冬の夜道を20km歩行したこと、山や海のキャンプで飲んで騒いだこと、ボクシング練習をしたこと、マラソン大会・体育祭や文化祭・合唱大会で頑張ったこと等、追想して語りたかった友も、その中にいた。

            * * * *

校章(日輪と山桜)

 私は、卒業50周年記念行事の実行委員のひとりとして、1年半ほど前から、準備会に参加してきて、ついに、今月1日に実行決断の時を迎えました。それは、残念なことに、新型コロナ・ウイルス感染症(COVID-19)の影響で、私たちより1~3つ上の学年の卒業生は、記念行事ができなかったからです。
 ・・・・(当時の)国立大学の授業料が3倍になったこと、年金の受給年齢が突然変更になったこと、団塊の世代に続く私たちですが、世の中の動きのいくつかの境目を経験してきました。それが、コロナ禍の中で、記念行事ができる境目になれたことは、幸運だと感謝しています。
 これからの人生も、心身共に健康であることに留意して、そして希望と生き甲斐をもって歩んでいける為に、今回の記念行事がひとつの機会となり、仲間への貢献ができればいいなと思っています。


 【俳句-②】は、10月12日の父の命日に、畑で間引きしてきた葉野菜を「お浸し」にして、お仏壇に供えたことを詠んでみました。『摘(つま)み菜』が、秋の季語です。
 ちょうどこの時期、白菜・大根・野沢菜・小松菜・ほうれん草・人参などが畑で育っていて、昨夕に畑で間引いた野菜を使って、朝飯の味噌汁の具にしたり、お浸しにしていただいています。野菜を水を張った容器に入れて一晩置いておくので、新鮮そのものです。まあ、田舎ならではの贅沢のひとつです。
 ちなみに我が家では、小学生より早寝をしている私が、妻より早く起きてきて、朝飯作りをしています。
妻が怠け者と言う訳ではなく、私が「具だくさんの味噌汁」が好きで自作するのが、趣味のひとつだからです。
 妻は1時間ぐらい遅く起きてきますが、毎朝、仏壇に緑茶と線香を供えています。両親が既に亡くなっていることも関係しています。私は、気の向いた時や命日のような特別の日にお参りするだけです。
 ちょうどこの日は、父の命日で、特別老人ホームに入所した母と面会してきたことを報告しました。
 私など、あまり信心深くなくていけませんが、妻の毎朝の勤行には感心します。
そう言えば、祖母のことも思い出されます。足腰が立たなくなってからも、庭に連れ出してもらい、芝生の雑草を取りながら、伽藍の屋根しか見えない薬師堂に向かい、祈っていました。私が、『何をお祈りしているの?』と尋ねると、祖母は、『皆の健康と幸せを祈っている』と、返事が返ってきました。
 祖母は、大東亜戦争終結から、4ヶ月後に長男(父の兄)を戦病死させています。人の死は、人を信心深くさせ、敬虔な祈りのできるように導いているのかも知れません。
 幸運にも、「肺癌の5年生存率20%」と言われた私が、手術後5年以上無事に生きてこられたのも、祖母や妻の信心によるご加護を受けているからかもしれないなあとも思います。

             *  *  *  *

 余談ながら、畑は白菜・大根などを収穫した後、越冬する「下仁田葱・松本一本葱・玉葱・冬菜(菜の花)・京葱・ニラ」などを残し、「冬ぶち」と呼ばれる枯れ葉・刻んだ稲藁を入れて耕作する作業が行われることになります。

数少なくなった「櫨掛け(はぜかけ)米」



 【俳句-③】は、晩秋の散歩道を歩いていると、水田地帯の一画に「林檎畑」があり、実った林檎の甘酸っぱい独特な香りが漂い、思わず深呼吸して匂いを嗅ぐので、歩くテンポが遅くなり、歩行速度も急低下してしまうことを詠みました。 「林檎の香」が秋の季語です。句会への提出時は、「林檎香に・・・」としていましたが、一般的な表現の方がわかりやすいとのアドバイスをいただいたので、「林檎の香」と直しました。
 下五句「ウォーキング」は、少し迷いました。「散歩道」や「信濃路は」も候補でしたが、今や健康志向から、強歩(速歩)も含め、散歩よりも「ウォーキング」という言い方が一般的になっています。
 それに、佐久地方の林檎畑は、善光寺平(長野市など)のアップル・ラインや飯田市の林檎並木のように集中している訳ではありません。
 日当たりの良い山稜にあり、水田の中にあるのは例外的な存在です。
それで、「ウォーキング」を採用しました。
 ところで、佐久地方では、年配者を中心に、『ポール・ウォーキング』なる散歩が盛んで、その普及団体もあります。地面に接する部分は異なりますが、基本、スキーのストックを両手で持ち、足腰への負担の少ない状態で歩きます。山道や坂道にも安定感が出て、愛好している人もいます。転ばぬ先の杖よりは、より積極的に歩く為の物のようです。
 調べていたら、『ノルデック・ウォーキング』なる速歩、場合によっては競技に活用されている手段もあることを知りました。こちらは、距離競技スキー(ノルデック競技)よろしく、脚力に腕力も駆動手段として利用して、より速く歩く為にストックを使っています。
 かつて、中学生の「コンバインド(ジャンプとノルデック・スキーの2種目)」選手の付き添いで、練習や大会に同行したことがありますが、私は、ジャンプは無理ですが、ノルデック・スキーは購入して、やったことがあります。マラソン・ランニングでも、腕の振りは大切です。距離スキー競技では、両腕による推進力は、更に大切だと体感しました。がんばり過ぎると、腕の方が先に疲れてしまいます。まさに、全身運動です。
 もう少し、年を重ねてきたら、私が選択するのは『ポール・ウォーキング』の方でしょう。そんな頃になっても、林檎畑の脇を通過する時は、林檎の香を楽しめたらいいなあと思いました。

散歩道添いの林檎園

 

 【編集後記】
 

 佐久市民総合文化祭の「俳句の部」に、私たち「前山みゆき会」も参加しました。
           【写真参照】

野沢会館(俳句の部)

 佐久市野沢会館と佐久市民創練センターの2会場とも盛況でした。私は、初日の午後、4時間ほどかけて両方の展示会場を回り、作品を見学しました。多くの方々が、幅広い分野に興味・関心を抱いて、日々研鑽されていることが伝わってきました。

 ちなみに、私の出品作は、今年の7月の【俳句―①】「五位鷺の残す静寂星涼し」と、8月の【俳句―③】「五郎兵衛の稲の香載せて雲走る」の二句でした。
一枚の色紙の下に、もう一枚を入れておき、2日目に取り替えました。

令和4年・文月の句

令和4年・葉月の句



 ところで、私は、玄関に四季折々の草花を生けたり、庭の片隅にワンカップのガラス瓶に野山の草花や枝を挿したりする、風流人の真似事をする趣味もあるので、毎年、そんな展示コーナーも欠かさず見学します。

 「生け花」の部門では、見たことも聞いたこともない珍しい花や、一方で素朴な素材で何を表現しているのだろう?と思わせる作品がありました。   
 例えば、【写真】のような作品です。連立天守閣の松本城本丸のようなイメージと共に、親子・夫婦・兄弟姉妹のような人間関係を連想させます。それでいて、自然現象の一部だと理解して、植物同士が醸し出す一体感を感じました。
蒲(がま)の穂の位置関係にも、興味がありました。斜めの角度や、その交叉するであろう位置についてもです。

生け花



  展示場の関係から、先に見学したのですが、FA(フラワー・アレンジメント)の部門では、素材のひとつひとつが、絵画を描く時の「絵筆の絵の具」やその「タッチ」のような意味合いを持っているように感じました。
 例えば、【写真―上】のように、背の高いガラス製のグラスの上に、草花が「弥次郎兵衛」のように水平に保たれていて、微妙なバランスで空中浮遊しているようにも見えます。素材の名前は知らないのですが、ミニトマトのような赤い果実が、無造作なのか意図的なのか配されていて、気になります。作者の意図を理解しようとすると、さらに興味も湧いてきました。

 【写真―下】は、使われている素材は、比較的、私が目にする草花ですが、題名のように、左側から秋風が吹き抜け、草木をなびかせています。やや人工的な印象は否めませんが、この空間全体が、ひとつの家族や集団(様々な人々の集まる共同体)を象徴していて、ひとつの刺激に対して、少しずつ違う対応はしていても、全体としては共通な方向へなびいているようです。
 他にも、印象的な作品が多くありました。

FA・HORIZONTAL

FA・秋風が吹く

※それぞれ、作者名を紹介しませんが、ご免なさい。許可を得る手段もないので、お許しください。

 その時、思い、今でも疑問に思っているのは、
『生け花とフラワーアレンジメントは、どこが違うのだろう?』と言うことです。

 それで、インターネット検索をしてみると、次のように解説されていました。 共に「花を飾る」という点では共通しているが、下記の点については、違いがみられる。(ア)生け花:空間を豊かに見せる(引き算の美学)(イ)フラワーアレンジメント:空間を埋める(足し算の美学)・・・と。
 生け花は、使用する草花の数はできるだけ少なくし、空間を豊かに見せるのが特徴である。一方、フラワーアレンジメントでは、ふんだんに花を使用し、空間を埋めるのが特徴である。そのため、生け花は「引き算の美学」に対して、フラワーアレンジメントは「足し算の美学」ともいわれている。

 また、芸術性と実用性という点に関しても違いがみられる。(ア)生け花:芸術性が高い、(イ)フラワーアレンジメント:実用性が高い
 生け花は芸術性が高い。なぜなら、花を美しく生けるだけでなく、飾る場所の空間美を表現する芸術であるからである。また、草花を活ける器にもこだわり、中には数十万円以上する高級な器が使われることもある。
 一方で、フラワーアレンジメントは、実用性が高い。飾る場所が限られる生け花に対し、フラワーアレンジメントは、場所や形に制限はない。そのため結婚式やお葬式の装飾、さらにはブーケやプレゼントなどにもすることができる。
 こんな解説を聞いて、少し納得してしまいましたが、いずれにしろ、どちらの作品を見ても、興味・関心を覚え、心豊かにさせていだきました。
 願わくは、コロナ禍が、終息して、従来のように、ひとつの会場に全ての分野や部門の作品が展示され、市民総合文化祭が盛況となることです。

 まだ、白菜・大根などの収穫は終えていませんが、葱の収穫と堆肥作りの為の落ち葉回収が済んで、一息ついているところです。昨日の雨で、庭も濡れているので、落ち葉掃きは午後にと思いつつ、久しぶりに「はてなブログ」に載せることができました。              (おとんとろ) (id:otontoro)