北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和5年度 4月の俳句

         【卯月の句】

 

 ① 列島の 黄砂清める 禊(みそぎ)雨


 ②  松の芯 黙して語る 山路かな


 ③ 産声で 歴史が増えし 若緑  《緑立つ季節》

 

 昨年12月末からの臨時講師勤務は、令和5年3月31日までであったが、担当した卒業生の高校進学先も決まり、必要な書類提出も済んだので、4日を残して元の「自由人」に戻った。学校勤務という厳密な制限時間を意識した生活から、時間を自己制御する生活に戻れたという意味である。ストレス・フルな生活から解放されたという意味ではない。確かに一時期は大変であったが、健康的に過ごせたことの方が多かった。毎朝測定している血糖値・血圧・体重は良好であった。どうやら私は、多少のプレッシャーがあった方が、良い生き方ができるようだ。

 さて、佐久市役所で「国民健康保険」への復帰手続きを終えた後は、予定通りに進まなかった。私の農作業の相棒となる管理機の修理が手惑い、加えて、気が抜けてしまい、怠け気味な生活態度で、今季初の農作業は、4月8日となった。
まずは、JAからかなり前に届いていた種ジャガイモ10㎏・119個(半分にするので、238片)を土中に伏せた。
 今月一番印象深かったのは、不快な「黄砂」現象であった。しかし、これでは俳句に詠みにくいと思い、もう少し爽やかな題材を必死に見つけることにした。
そして、「緑立つ」の季語を見つけ、一句以外は、それらで詠むことにした。


 【俳句-①】は、とても不快な黄砂現象が、雨によって解消されたこと、いつもは大嫌いな雨降りだが、今回ばかりは、大気や地上の汚れ・穢れをお祓いしてくれたようで、感謝しつつ、厳かな気持ちで受け入れられたことを詠んでみた。
 季語は、「黄砂(黄沙)」である。
少し難しい言い方では、『霾(ばい・つちふる)』や『霾(よな)ぐもり』、『霾風(ばいふう)』、『霾天(ばいてん)』がある。私としては、わかりやすく気象用語でもある『黄砂』がいいと思い、採用した。
 佐久地方では、4月13日が特に酷かった。どの方向を見ても、ぼやけて見える。わかってはいても、思わず眼鏡を外し、レンズを拭いてから見直して見たが、同じであった。くすんだ四方の景色の上空は、太陽光が溢れ、晴れていることは明らかである。普通の曇り空と違って、十分な明るさは伝わってきているからだ。
 しかし、「春霞」や「朧月夜」と出会った時のような、ベール越しの情緒や風情を楽しむ気持ちには、なれない。似た気象現象なのに、原因が違うと科学的には理解できても、どこか生理的に拒否反応が起きていたのかもしれない。

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例年より激しい黄砂に見舞われた

 ちなみに、「黄砂」とは、中国大陸のタクラマカン砂漠ゴビ砂漠、黄土高原(黄河の中~上流部)などの乾燥地域で、風によって上空(数1000m)まで巻き上げられた土壌・鉱物粒子が、偏西風に乗って日本に飛来し、浮遊しつつ降下する現象であると、気象庁資料などでは説明されています。

 ところで、『大陸の黄砂が、日本海を越え3000㎞も飛んで来られるの?』と、疑問に思う人もいると思うので、黄砂粒子の大きさを話題にしたい。非常に小さくて、直径が「4μm(マイクロ・メートル)のオーダー」だと言う。大気汚染物質として最近話題となる「PM2.5(直径2.5μm以下の物質の総称)」並である。              ※1μm=1/100万m=10-6 m
 さらに、雲粒と雨粒の大きさの違いがわかると、粒子の違いによって生ずる現象を理解しやすい。
 雲は、高度や密度の違いはあるが、小さな水滴や氷の粒で、大気中の上昇気流によって、重力バランスを保って浮いている。その大きさは、直径10μmほどある。これが雨粒になって落下するには、もっと大きく重たくならないといけない。少なくとも直径が1mm以上(ようやく聞き覚えのある単位である)にならないと雨粒にはなれないと推定されている。1mm=1000μmなので、雨粒は雲粒の直径の100倍以上の大きさである。体積は3次元なので、100の3乗(106)個が集まって、ようやく落下できる状態となる。これは、地球を100万個集めた太陽と地球の大きさの関係と同じである。それ程、同じ水の粒子であっても、大きさは重力に関して敏感である。つまり、自然界で普通に発生する上昇気流が無くても、もっと小さな粒子であれば、大気中で十分に浮いていられるという訳である。

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 学生時代のある時期、私はNHK気象通報を毎晩聞いて、天気図を記入していました。山行に必要な技術でもあったからです。その折、滅多に登場しない「地吹雪」や「砂塵」がアナウンスされた時のことを懐かしく思い出します。前者は「猛吹雪、white-out、blizzard」のこと、後者は「砂嵐、sand-storm」のことです。どんな気象状況なのかは想像できますが、本物に出会ったことはありません。
 春先、松本平の穀倉地帯を車で通過していた時、春颯を受け、乾燥した畑から一斉に砂埃が舞い上がる光景を目にしたことがありました。きっと「黄砂」になるには、もっと大規模で、かなりな上空まで吹き上げられた砂嵐の中で、さらに細かな粒子が選別されて大気中に浮遊するようになるのだろうと想像しました。

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中国の集落を襲う砂嵐

 さて、黄砂現象は、日本の平安時代の文献にも載っているようで、昔から自然現象であると理解されてきましたが、近年、その頻度と被害が甚大化しています。4月13日のインターネット情報では、中国の北京でも例年以上に視界が遮られるほど激しく、さらに今年は長江を越えて、黄砂が上海にも達したと伝えられていました。
 かつて黄土地帯は、広く森林に覆われていたと言います。それが、都市建設や要塞・長城の建設に伴なう建材利用、煉瓦製造・金属精錬・生活用などの燃料利用により森林伐採が、長い歴史の中で続き、荒地になって行った経緯もあります。それが近年、急速に悪化してきています。その原因として、草原での過放牧や、山林から農地への転換により、土地が劣化し、さらに砂漠化していることが指摘されています。
 一方で、条件の悪い農地を森林に戻したり、農家に補助金を出して果樹栽培への転換を促したり、植樹による緑化を推進したりと、環境へ働きかける動きもあると聞きました。
 ・・・佐久地方は、4月15日、珍しく一日中(24時間以上)雨降りでした。私の気を滅入らせていた黄砂を、一気に洗い流してくれました。こんな雨が、大陸の乾燥地帯にも降ってくれれば、一気に問題は解決しそうですが、神様・仏様にお願いしても、とても叶わぬ願いだと思いました。

 

 

 【俳句-②】 は、赤松の芯(雄花と雌花)を見ていると、なぜか、「山路」に関する私自身の昔の思い出が浮かんできて、しみじみとしたことを詠みました。
季語は、「松の芯」です。

『山路きて何やらゆかしすみれ草』(松尾芭蕉・1685年2月、京都伏見から大津へ向かう小関越え(峠道)の時の作品と言われている。)

 上記の「山路」は、文字通り峠を越える細い道のことですが、私がここで使ったものは我が家の慣例で「山路(やまじ)」と呼んでいた山奥の畑地の意味もあります。
 我が家は代々農家で、先祖から引き継いだ田畑・山林などがあります。昔は、男子を中心に土地を分割相続しました。相続分の無い場合は、他家に婿養子に行くか、何か他の職業に就いたようです。私の祖父は、直系に対して次男でしたが、土地を相続し、(本家に対する新宅として)居を構えました。それから、半世紀近く経って生まれた私の子供時代の話です。
 何箇所かある畑の内、「坂峰(さかみね)」と「めめず原(みみず原)」と呼んでいた畑は、その地名からも想像できるように、既に住んでいる所も山間地ですが、さらにそのまた山の中にあります。但し、「原」からわかるように山の上にある程度の平坦地が広がっています。この場所へは、リヤカー(荷車)を人力や牛の力で引いて行くと、1時間近くかかる山道の先にあったので、総称して「山路」と呼んでいました。
 参考までに地質学的に言うと、第四紀更新世に南佐久層群と呼ばれる湖成層が八ヶ岳の周囲に発達しました。その後の完新世になって、現在の千曲川水系が、山を削り浸食して、佐久平を形成していきます。現在は、比高数100mの高台になっていますが、かつての平坦面の名残です。千曲川の東西に、こんな坂の上、山の中に、なぜ平坦地があるの?と驚くような所に、集落や開拓地があります。地質学的には、ほぼ1万2000年前頃の「縄文海進」を境に、土地の相対的隆起や沖積平野が拡大するなど、地殻変動が急速に起きた結果なのかもしれません。
 さて、現在では軽トラで、7~8分も走れば着く「山路の畑」ですが、当時は行き来が大変なので、野良仕事は天気の良い日を選び、お弁当持参の一日作業となりました。坂道では、農機具などを載せたリヤカーを引いたり、押したりして進みますが、平坦となると畑に着きました。枯れ木を集めてきて、火を起こし、鉄瓶には湧き水を集めて、お湯を沸かしました。休憩や昼食時のお茶の為です。
 ある時、母が缶切りを忘れてしまい、「鯖缶」が開けられなくて困った事態になりました。祖父が、桑の芽掻き用の鎌で器用に開けて食べたこともありました。
 大人の作業中は、手伝えることが無ければ、焚火をいじったり、山野で遊びを見つけたりして過ごしていました。同様な農作業で付いてきた子らと遊ぶこともありました。小学校低学年の頃が最後だったと思います。農作業の内容は正確に覚えてはいませんが、状況から考えると、夏蚕(なつご)に向けた桑畑の手入れをしていたのだと思います。
 昭和60年代始めの頃、NHKで「大草原の小さな家」番組が放送されていて、良く視聴しました。小説を元に、米国の開拓時代のインガルス一家の生活を描いた作品で、3姉妹のローラ達の姿が、私の山路での体験と重なりました。話題として見れば長閑には映りますが、共に必死に生きた農家の光景だったはずです。
 ところで、なぜ「松の芯」なのかと言うと、確かに黄色い蝋燭のように赤松の花が、いっぱいに生えていたことが記憶に残っています。時期的には、梅雨入り前の5月中下旬であったのかもしれません。戦後植林したカラマツ林ではなく、広葉樹の雑木林の中に、赤松が点在し、その花が一斉に咲いていた光景でした。

 


【俳句-③】は、私の娘の子(孫)が誕生し、その子の人生としての歴史的第一歩が、現世に加わっていく様を、松の新芽「若緑」に例えて詠んでみました。
季語は、「若緑」です。
 みゆき会の句会は、4月13日のことで、その時点で孫は、まだ生まれてはいなかったが、出産予定日は今月中で、予め男児だとわかっていたので、無事を祈りつつ、俳句にした。
 若い頃の私が鈍感だったのか、我が子の出産は、妻任せで、妊娠の後は知らぬ間に進んでいた感がある。ところが、娘たちの出産までの様子を見聞きして、女性にとって自らの生命を掛けた危険な営みであることを痛切に感じた。同時に、誕生してくる生命の尊さと有難さについて、多少なりと言えども私なりに理解が深まった気がした。  
 私の3番目の孫が、4月19日の夜9時に誕生した。
 出産までの道程は大変で、夜中に出血があったと救急外来へ既に2度も行った。先に名前を思いつき、私の父の一字を付けることになり、父の誕生日4月14日も怪しかった。翌、4月15日に入院して出産(本格的な陣痛など)を待つことになった。そして、幸いにして、母子共に元気に出産を終えることができた。私も心配していたが、私以上に心身を込めて気をもみ、応援に駆け付けていた妻は、安堵したことだろう。しかし、これで終わりではないことが、まさに子育てである。学童期から、その後の苦労もあるが、まずは、乳幼児の介護が大変で、人生の第一歩は、親の苦しみの始まりであるとも言える。同時に、それを支える喜びと使命感が涵養されていく過程であるのかもしれない。

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月齢(新月→三日月→満月・十五夜→二十六日月→新月)

 ところで、4月の月齢を見ると、孫の誕生時刻が限りなく「新月」に近いことに気づいた。4月19日は月齢28.8、4月20日は0.3である。刻々と変わる月齢なので、それぞれの日の正午(12:00)を基準としている。
 月の一周期は29.5日なので、比例配分して計算してみると、厳密な意味での新月は、4月20日の明け方少し前、午前4~5時頃となる。我が孫の出産時刻が、かなり新月の時刻に近くて驚いた。
 ちなみに、調べてみると、満月や新月の時は、その他の月齢の時より、1~2割ほど出産人数が多いらしい。
 そう言えば、学生時代、古生代の珊瑚の化石情報から、地球の自転速度が今より速かったことが推定されることを学んだ。珊瑚の産卵時期が、月齢に関係していることから、当時の天体(地球と月)の運動の様子を計算したものである。
 脱線ついでに、人の誕生時期について、「大型動物の中で、ヒトだけが繁殖期をもたないで、一年中、生まれている」ということは、良く知られた話である。多くの動物は、栄養がたくさん取れる春~夏に子が成長できるように、春に子を生む。熊のように冬眠中の穴の中で出産して春を迎えるようなサイクルで子育てをしている例もある。だが、それ以外の季節での出産例は、皆無である。
 そんな情報を得るにつけ、それだけ自由に、出産時期を選べるのに、細かな女性の体内サイクル(月経など)の中では、目に見えない天体の動きが関係しているのかと思うと、進化の歴史の奥深さと共に、とても不思議なことだと思った。

 

 編集後記

  厳しい時間制約のある学校現場や勤務形態から解放され、再び「自由人」に戻れたことは嬉しかったが、やはり、生活の大きな変化は、安定して恒常状態になるまでに、多少の時間を要した。それでも、農作業や家の維持・管理(庭の手入れ、敷地内外の整備、車庫などの屋根のペンキ塗装など)が始まると、『今日はここまでにして、明日の課題は〇〇!』と、小市民的ではあるが、良く言われる『きょうようが大事』すなわち、今日することと、用事があることが、小回りの利く老人を生かせるコツらしい。

 私は、昔から、懸案の用事は、一気にやるというタイプだったが、定年退職した今でも、メインとなる課題に対して、ついでに、あれこれもやるといった感じで、延び延びになっていた事を、一気にやり遂げて満足をしている。

 4月8日の、いつもより小さいなと思いつつ、農協斡旋の北海道産「種ジャガイモ」を伏せたのが、今シーズンの農作業始めだったが、次々と、毎日の課題を決めて取り組んだ。今年度は、定年退職してから、いよいよ10年目となる。人生のひとつの目標の区切りとなる年にしたいと思う。(おとんとろ)