北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和8年5月の俳句

      【皐月の句】

 

①  上州路 皐月の落暉に 佐久影絵

②  雨が抜け 玉葱の畝 緑さす 

③  昼の庭 芍薬咲いて しづまれり   《故郷慕情》

 

 今年の4月末から5月中旬は、久しぶりに公私共に少し多忙な日々が続いた。
本来、「公」など、ほとんど無く、今年も「薬師堂花祭り」当番が無かったので、ゆったりできると安心していたが、まず、地区山林の財産区議員に選挙で選出される手続きがあった。定員9に対して、立候補者9名というやや形式的なものではあったが、市の選挙管理委員会の差配の下で厳格に行なわれることに驚いた。供託金もしっかりと納めた。無投票で全員が当選し、その初会合(5/15)があった。また、都会の学習塾の自然科学体験の講師を依頼された。何年か前に引き受けた経緯もあるので、断れない。その為の資料作りや、孫らを連れて下見もしてきたので、緒準備に数日は、かかってしまった。

下見を兼ねた化石採取(内山層)

バッヂを付けるのは初めて


 
 5月1日の竜巻注意報、3日の曇り、8日午前中の雨降り以外は、連日晴天が続いた。   5月の佐久地方は、とても過ごしやすい。

            
                    *  *  *  *
 
 国際政治の世界では、イラン戦争の先行きが、なかなか見えてこない。米国とイスラエル軍が、イランに攻撃(2/28)を仕掛けた紛争は、一時停戦で合意(4/7)したが、革命防衛隊によるホルムズ海峡の事実上の封鎖、さらに米軍によるイランの港湾に出入りする船舶の封鎖が行われ、その結果は世界経済に深刻な影響を与えている。

原油の海洋流出事故

 イランの石油輸出基地ともいえる珊瑚礁の島・カーグ島の沖で、石油の流出が衛星画像で確認(5/6)された。60km2と推定された。2日後には、西に広がり、さらに南に流れて大きく広がった。(5/11) 
 施設が爆撃で破壊されたという訳ではなさそうだ。ホルムズ海峡の封鎖により、イランは輸出ができず、カーグ島の石油貯蔵施設が満杯状態に近づいていて、何らかのトラブルがあったと推測されている。

 世界保健機関(WHO)は、イランの石油関連施設への攻撃で起きた火災で、有毒物質が放出され、深刻な大気・水の汚染や呼吸器の健康被害のリスクがあると懸念を示した。(3月10日)有毒物質と混ざり「黒い雨」が降ったとされる。雨は強い酸性の可能性があり、皮膚疾患や肺の損傷につながる危険がある・・・という報道もあった。まったく、呆れるほど無駄で、馬鹿な戦闘行為である。
 そんな世界に生きる私が、のうのうと生きていることに、少し心苦しい思いもするが、毎日が、当たり前に生活できていることに、まずは感謝である。
 さて、ここ2年ほど無所属であった私は、今月から「からまつ会」という俳句会の会員となり、初めて句会に参加する。月の第2土曜日が定例会で、発表する俳句は、前の月の25日までに提出するというルールがあるので、5月の俳句と言っても、実際は4月が中心となる。5月後半の話題は、寧ろ翌月となる。4月下旬に高速自動車道から、佐久を眺めた故郷の光景が印象的だったので、今月の題材とテーマは、《故郷慕情》としてみた。

 

 【俳句-①】は、日没時刻に、群馬県の高速自動車道を西に向かって走行していると、群馬~長野県境の山並みが、影絵(シルエット)となって見えてきた。山の向こうは、私の故郷、佐久地方である。落日と雲の織りなす美しさに加え、故郷への慕情が湧いてきて、感動したことを詠んだ。季語は「皐月」で、五月、初夏である。

 時期的背景については、既に説明したように、皐月(五月)と詠みながら、4月25日(土)の 18時を少し回った頃のことであった。

山の影絵(シルエット)


   
 千葉県の「つくばエクスプレス・流山おおたかの森駅」の広場で、私の長女が仲間と共に、流山市のイベントに協力して、音楽ライブを開いた。音楽仲間は、全員が主婦だが、それぞれ大学などで音楽を専攻してきているので、素人集団だと言っても、ある程度のレベルにはある。今回は、仲間の男性は、見守り応援隊であった。
 親馬鹿である私たち夫婦は、片道約200kmをダイハツの軽自動車「タント」に乗って、娘らへの「推し活」のつもりで参加した。俳句に詠んだ光景と心情は、自宅への帰路の出来事である。
 
『ふるさとは遠きにありて思うものそして悲しくうたふもの』(室生犀星の詩集『抒情小曲集』に収録)では、ありませんが、故郷を長く離れていたからこそ懐かしく思い、哀愁を帯びて詠むべきものであるかもしれません。
 この気持ちは、私が大学生の時に経験しました。当時(昭和50年前後)の、北海道という遠隔地に居たという理由に加え、所属していたWV部の「遭難対策要員」として、札幌に留まる任務があった為、2年生以降、あまり多く帰省できませんでした。
 だから、大東亜戦争で満州に出征し、終戦で帰国できたにも関わらず、自宅で戦病死した父の兄(私の伯父)が、『帰省する船や汽車の車窓から見えた、どんな大邸宅があっても、我が家が一番いい所だ』と、私の祖母に語ったとの逸話を聞いたが、まさに、歌唱『埴生の宿』の思い、そのものである。

荒船山~兜岩山(佐久側から)

 だが、この俳句の場合、家を空けたのは、たった十数時間のことである。ただ、その理由を考えてみると、思い当たる節がある。
 私の場合、「故郷に居過ぎた!」と思う。
 つまり、家と畑と、せいぜい用事の為に近間を行き来する程度で、故郷・佐久を外から見る機会がほとんど無かった。それが今回、自分の住んでいる場所を、外から客観的に、しかも美しい光景と共に見たので、郷愁・慕情が湧いてきたのだろうと、自分なりに分析してみた。

 ところで、既に載せた話題だが、追記したいこともあるので、敢えて載せる。
長野自動車道・八風山トンネル(4471m・下り線)を通過する度に、香坂川の最上流部地質調査のことを思い出します。何んと、トンネルの上には普通の自然が広がり、沢には水が流れ、香坂層(新第三紀中新世後期)の地層と共に、第四紀の地層(表土を含む)が分布している。私たちは、そんな大地の地質調査をしたことがある。(【香坂川最上流部のルート・マップ】を参照)
 さらに、新たな知見が加わった。八風山の南に「香坂山遺跡」が発見された。付近で採取できる「ガラス質黒色安山岩」を利用した「八風山遺跡群」や「下茂内遺跡」といった旧石器時代から縄文時代にかけての石器製作遺跡が形成されていた。
 (以下、佐久市教育委員会の資料)
 1997年(平成9年)、佐久市香坂の上信越自動車道八風山第2トンネル換気塔建設に伴い、長野県埋蔵文化財センターによる発掘調査が行われた。その結果、姶良Tn火山灰(約3万年前)よりも下位の地層で、石刃を含むガラス質黒色安山岩製の石器が見つかった。出土した地層や年代測定の結果、石刃石器群としては最古のものであることが判明したが、当時の日本列島での「旧石器編年」に当てはめることが難しく、石器群の評価は保留とされた。
 2020年(令和2年)、香坂山遺跡から出土した石刃に着目した奈良文化財研究所の国武貞克氏は、香坂山遺跡で発掘調査を実施し、『大型石刃・小石刃・尖頭形剥片というユーラシア大陸初期後期旧石器時代の石器群』と共通する石器組成だと確認した。
 2022年(令和3年)からは、香坂山遺跡の学術的重要性に鑑み、佐久市教育委員会による遺跡の範囲確認調査を実施した。直接調査することが難しい地点に関してはボーリング調査を実施し、香坂山遺跡のある尾根上約2250m2 が、遺跡の範囲だということがわかった。

長野自動車道「八風山トンネル」の上を香坂川が流れている(最上流部のルート・マップ)

 

 
 【俳句-②】は、昨年の秋に植えた玉葱が越冬し、春から初夏に向かい、ひと雨を経る度に、緑の度合いを深めていく頼もしさを詠んだ。季語は、「緑さす」で、夏である。ちなみに、「玉葱」も夏の季語であるので、厳密には『季重なり』の俳句となる。(※後述する!)

「玉葱(タマネギ)」の畝

 我が子の学校の授業参観に行くと、意識しないように努めても、どうしても他の子と発達程度を比べたり、集団での関係性などを気にしたりしてしまいがちである。
 同じ理由からなのか、我が家で育てている野菜の生育状況を、周囲のお宅と比べてしまう。作付けした時期や、畑の土壌、日照・気象条件などの違いから、差はあって当たり前なのだが、我が家のものは、どうも成績があまり良くない。 
 堆肥や化学肥料が少ないせいなのか、夏野菜を中心に育てている方の畑は、水田地帯にポツンとある1反歩ほどの耕作地であるが、日当たりは悪くないものの、とにかく風が強い。
 この為、例えば「キュウリ」苗を定植する時、支柱や棚も一緒に作り、周囲を厳重にビニルシートで覆って、防風壁を設置しないと、苗が弱ってしまう。(ちなみに、霜害の経験から定植時期は五月連休明けと、遅くしている。)

 今季は、タマネギとニンニクの成績が良く、楽しみにしていた。特に、昨年は、山の畑に植えたニンニクが、深緑に向かう時期に突然枯れ、ほとんど実にならなかったので、今年の期待度は高かった。
 それで、題材は「タマネギ」ではなく、「ニンニク」にしたかった。しかし、俳句の世界では、「ニンニク」は、春の季語である。それ故、夏の季語「緑さす」と一緒にするわけにはいかなかった。
 ところで、早春から順調に育ってきたニンニクだが、5月に入り、「さび病」が出始めた。病変した葉を丁寧に取り除き、集めて石油をかけて焼却処分した。しかし、少し忙しがって手を抜いていたら、あっと言う間に広がった。仕方なく収穫まで放置することにした。(収穫は6月14日、午前中にタマネギ、午後にニンニクと、同じ日にすることになる。)

俗称「ニンニクの芽」

 【写真】のように、中央から「花芽」や「つぼみ」ができてきて、それらを収穫できた年もあったことが懐かしい。ここ数年、「さび病」や原因不明(水不足か?)で立ち枯れなど、満足いくような収穫を体験していない。
 それ故に、越冬し、緑が深まっていくのを誇らしげに見守っていた。

 


 【俳句-③】は、牡丹に続いて咲き出した「芍薬」だが、我が家の昼時の庭は、まるで芍薬が、空気をも含めて、全ての植生や辺りを鎮(しず)めるかのように静寂な空間を醸し出していた。芍薬の花の存在には、不思議と威厳がある。季語は、「芍薬」で初夏である。

昨年の6月初旬頃の「芍薬」とツツジ

 我が家から少し離れた山の中を、中部横断自動車道が通っているが、通称「お薬師さんの山」と呼ぶ山の裏側を抜けているので、大型トラックのエンジン音は聞こえてくるが、気にするほどの大きさではない。朝夕の通勤時と違って、お昼時は車の行き来も少ない。寧ろ、小鳥の囀りの方がうるさいくらいである。
 それに、郵便屋さんになったつもりで家々を回ってみればわかるが、昼間は皆勤めに出ていて誰も居ないお宅が多い。その点、我が家界隈は、老人が多いせいか、比較的、在宅しているものの、人の気配もあまりないので、実際、物理的にも静かである。  
 陽気も良くなってきたので、昼食後、廊下で横になって庭を眺めていると、芍薬の花に目が向いた。牡丹も良い花だと思うが、どちらかと言うと、芍薬の方が好きだ。桜も好きだが、梅の花の方が、もっと好きという意味である。牡丹や桜、それに白木槿(むくげ)は、咲いているときは綺麗だが、散る姿が好きになれない。花も、花の命を自分の努力で直せないのだから、酷な評価をしていて、申し訳なく思うのだが・・・。
 『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という言葉を思い出した。 

                        *   *   *   *

 

深紅の牡丹 (春)

ピンク色の芍薬(初夏)



 
 ところで、牡丹と芍薬は似ているが、良く見るとかなり違う。
 花の色は白系~深紅まで様々だが、牡丹の茎は木質で固く低木(冬も残る)なのに対して、芍薬は緑色で多年草(冬は根だけ残る)である。先ほど話題にした散り方では、牡丹は1枚ずつ落ち、芍薬は花全体で落下する。花の咲き出す前の蕾(つぼみ)に着目すると、尖っている方(牡丹)と、丸みがある方(芍薬)という違いもある。
 葉にも特徴があって、ギザギザがあって艶の無い方が牡丹、切れ込み無く艶のある方が芍薬である。   
 そして、決定的な違いは、開花時期である。佐久地方で、牡丹の咲くのは、4月下旬~5月中旬であるのに対して、芍薬は、6月にならないと咲き出さない。

 ・・・この俳句を作った時、芍薬は、まだ咲いていなかった。
  第1句に続き、第3句も季節の見切り発車であった。
 


 【編集後記】《令和8年6月20日》

 特別養護老人ホームに入っていた母が、97歳10ヶ月で亡くなった。仏教の世界では、享年を99歳と数えるらしい。母の兄弟姉妹7人の中で、ふたつ上の姉の満100歳には届かなかったが、兄の満95歳は上回り、長寿の銀メダルと言ったところである。
 但し、軽い認知症は出てきたが、亡くなる少し前まで、多少の会話ができたから、限りなく「ピンピンコロリ」に近かった。大往生であった。  

 令和3年の大晦日の朝、朝食を二人で食べている最中に、母が倒れた。血圧・脈拍を計っても正常なので、お昼まで横になって休んでいた。娘の『お父さん、お婆ちゃんは朝から少しも改善していない。病院は明日から3連休だよ』という言葉に促されて、救急搬送後、S医療センターへ入院することになった。
「左アテローム血栓性・脳梗塞」と診断された。
 1月27日に、S病院へ移り、さらに4月14日に、「老健」に入りました。少し下火になりつつも、「新型コロナ・ウイルス感染症」のせいで、面会もガラス窓越しという状況でした。
 3ヶ月後の7月14日、運良くS苑に入ることができた。母は、入所した2日後、94歳の誕生日を、皆様に祝っていただきました。
  そして、入所3年と半年後、令和8年1月14日に、低血圧から一時意識不明となり、「看取り看護」体制になりました。
 なぜか、父の誕生日が、4月14日ということもあり、「14」という数字に縁がある。『願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃』、西行法師の辞世の句ではありませんが、私は、母が2月14日に亡くなるだろうと覚悟して心準備をしました。
 ところが、新型コロナ・ウイルスに感染しても回復してきた母は、減らした食事でも完食して、老衰速度をどこまでも「零」に近づけました。
 私は、毎月、14日が来ると緊張して過ごし、5月14日の晩、夢枕に母が出たものの、生きながらえたので、あと2ヶ月乗り切って、98歳の誕生日を迎えられるかもしれないと、期待していました。
 しかし、5月20日から食事が喉を通らなくなり、5月21日から水だけになります。5月23日に妹夫妻が見舞いに訪れました。5月24日、水も飲まなくなったと言います。そして、その晩、午後10時頃、母は息を引き取りました。医師による死亡確認は、翌朝だったので、5月25日午前8時が死亡時刻となりました。
                 

        *   *   *   *

 

軒下で燕の巣作りが始まる

 母の亡くなる1日前、妹たちは、特別老人介護施設S苑から我が家に立ち寄りました。妹は、2羽の燕を見つけます。「安心できる家とわかると、燕は巣を作るのかな」とつぶやきました。翌日、家内が一人でS苑を訪ねました。妹や家内に会って安心したのか、その晩に母は亡くなりました。
 そして翌5月25日から、何と燕が、軒下に巣作りを始めました。26日、既に、巣作りの土が落ちて、下が汚れていたので、急いで片付けました。逃げてしまうかと警戒したが、その後、27・28日と巣作りを続けます。
そして、29日(葬儀の日)もです。
 母は、入所してから丸2年が過ぎようとする頃、母の生家と菩提寺、嫁ぎ先の我が家を訪れることがありましたが、その後は、葬儀社の安置場から火葬場に行き、我が家に戻ることはありませんでした。

 だから私は、亡くなった「母の魂」が、「燕」に姿を変えて、我が家に帰ってきてくれたのではないかと思いました。

                       *

 科学的に分析すると、玄関脇にある「南天(ナンテン)」が水不足なのか、葉の一部が赤くなるので、家内が春先に大きく剪定しました。『お母さんも、この時期に、かなり剪定していたわよ』と言う。しかし、切断が大胆過ぎる。そのせいで、電線に止まった燕からは、軒下が見えるようになったので、巣作りをしたのだろう。
 佐久市で「燕の巣調査」をした年(15年ほど前)に、二階の軒下(今回のほぼ真上)に巣作りをしたことがあった。洗濯物を干すベランダの上なので、可愛そうだが、私が作成中の巣を壊した。それ以来である

口を開けて餌をねだるヒナ(インターネットから)

 燕(ツバメ)が巣を作ると、「縁起が良い」と、私の子どもの頃は、今の位置とあまり違わない軒下に、毎年巣作りをさせていた。糞が落ちたが、それを気にする時代や風土ではなかった。
 巣から落ちた雛(ヒナ)も見たし、巣に青大将(アオダイショウ)蛇が侵入した悲惨な事件も目撃したこともあった。 玄関が新設されてからは、追い出された燕たちだったが、今の場所なら、下がコンクリートで水洗いすれば良いので、OK(いい)ですよ。   
 毎朝晩、燕の巣をガラス窓越しに眺めるのが日課になっている。
                                        (おとんとろ)

 

平成8年4月の俳句

     【卯月の句】

 

① 夕餉にと 花の少なき 薺摘む

②  貴きもの どこもかしこも ぺんぺん草

③ 孫に伝ふ 三味線草の 実のさやぐ 

               《薺(なずな)三題》

 

 信濃毎日新聞・斜面(4月2日付)で、世界でも少数派の「4月年度替わり」となった制度変更の経緯を知った。

 日清戦争(1894~1895年)を前に、軍備費増額を「酒・煙草税」で補おうとしたが、景気低迷も加わり、税収は大幅に減少した。次年度予算から補填したが、賄い切れない。そこで、松方正義大蔵卿は、当時の7月~翌年6月(12ヶ月)の会計単位年度(1885年度)を、1886年度からは、4月~翌年3月に改め、3ヶ月間分の政府支出を棒引きにさせ、財政の立ち直りを果たしたと言う。それ以来、4月からの「年度替わり」の伝統が、140年間も受け継がれていると言う。学校の4月入学や、各種会計年度など、実に多くの機関や人々が、この年度替わりを踏襲していることか。私の俳句収録集も、4月1日から令和8年度版となり、定年退職後3年目から始めた俳句は、11年目のスタートを迎えた。
 そんな折り、佐久俳句連盟総会兼俳句会が、今年は2週間以上も早まる連絡を受けた。当季雑詠2句を、期日までに創作する。さんざん悩んだ末に季語を決め、『薺(ナズナ)』を題材にしてみようと思う。植物を通して見た、私のエピソードや感想である。但し、俳句の出来映えの方は、会の実力者の皆さんと対峙できるかどうかは、危ういものである。


 【俳句-①】は、家内が薺(ナズナ)を「お浸し」にして旬の味を愉しみたいと言うので、春耕の合間に薺を収穫した様を詠んだ。季語を「薺摘む」とすれば、新年(冬)となってしまうので、「花」の話題を入れて、「花薺」の春とした。

薺(ナズナ)の「ロゼット」

 「芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・清白(すずしろ)・春の七草」と五七調で覚える方法がある。
まだ、一度も実践したことはないが、正月七日の「七草粥」は、その響きだけで風情を感じる。
 春の薺(ナズナ)のお浸しは、蕗味噌や、もう少し後の山椒味噌・蕗の佃煮などと共に、我が家で子どもの頃から慣れ親しんできた季節感を味わえる身近な料理である。
 「薺のお浸し」は、薄めの塩茹でにすると、山野の春の土の香りが感じられるようで、風情がある。普段の食材にはない独特な味わいは新鮮であり、待っていた春を迎える儀式をしているようにも思える。
  【写真】は、我が家の冬越しの玉葱やニンニクの黒マルチシートの横で生えていた薺の一株である。少しでも太陽光を獲得しようと、下葉を放射状に広げている。「ロゼット(orタ)」と呼ばれる冬越し多年草によく見られる形式である。畑の土が軟らかいので、すぐに抜けるが、主根が想像以上に長く伸びていて驚く。
 食用にする薺は、花がまだ付いていないか、なるべく少ないものを選んで採取する。食べられないわけではないが、主に葉を中心に食べるので、長い根は切り取る。調理するには、水洗いをして泥を流すだけでなく、冬の間に絡みついた藁くず・枯葉等も丁寧に取り除くので、結構、手間暇がかかる。ここまでが、私の分担である。

 

 

 【俳句-②】は、薺(ナズナ)が、もう少し成長して花が咲き、群生してきた時の印象を詠んだものです。季語は、「ぺんぺん草」で春である。

薺の花は、下の方から咲いていく

 世に「ペンペン草も生えない」という辛辣な言葉もあるので、正直なところ、少し観念的な印象だと思うが、敢えて、私は、花を付けた薺の群生を「貴きもの」と表現した。薺のひと株ごとが、あたかも社会で生活している一人一人の人間のようで、愛おしく感じられたからだ。
 田舎で、のんびりと暮らしていると、自分以外の人間を敵(ライバル)と思うことはかなり少なく、寧ろ好意的に受け止められる。もし、毎朝、通勤電車で座席の取り合いをするようなら、見知らぬ人でも憎しみが生まれるかもしれないが、それでも皆、健気に懸命に生きている社会の仲間で、互いに支え合っているという基本認識はあるだろう。その意味では、皆、日本国民で同胞なのだ。
 【写真】の植物群生を見ると、白い花を付けたのは「ナズナ」である。黄色の花を付けたのは「イヌナズナ」で、普通のナズナの近縁種だ。青色の花を付けたのは「オオイヌノフグリ」である。すぐ近くの踏まれて土の硬くなった所には、「オオバコ」の群落もある。
 これらの植物を眺めていると、例えばナズナが日本人、イヌナズナが東洋系外国人、オオイヌノフグリが欧米系外国人などと、現代日本社会に少しずつ増えて話題になっている、「外国からの移住者や就労などでの残留者らと、従来からの日本人たち」の混住や共生を「象徴」するように、私には見えてきた。 
 性別や年齢、国籍などの違いがあっても互いに尊重し合い、共生する社会集団だというと聞こえは良いが、協調・協働していくことは、かなり難しい要素を抱えている。問題も起き易い。
  私の身近に外国人は少なく、たまに雑踏で見かける程度だが、例えば、松本城へ行くと、外国人観光客の多さと、話している意味不明な外国語が聞こえてくることに、違和感を覚える。 きっと東京など大都会や、時々話題に上がるような都市で、日常的に外国人と接する機会の多い人の中には、様々な状況も加わり、単純に違和感ぐらいなレベルではないかもしれない。
 
「ナズナだけの群生」、反対に「オオイヌノフグリだけの群生」を見ると、どこか安心する。一見同じ草花のようでも、厳密には個体差がある。ただ、遺伝的には同じ染色体をもつ、ひとつの属・種(species)であるからか。
 この点、個体差以上に外見もかなり違うのに、世界の全人種が、ヒト属の一種「ホモ・サピエンス」であることが不思議に思えてくる。理屈から言えば、同一種なのだから、うまくやっていけそうなのに、現実には対立や紛争が絶えない。

ナズナだけの群生

オオイヌノフグリだけの群生



 


  各民族の背景には、歴史の中で培ってきた生活習慣・伝統文化や宗教・道徳観、生後に受けた教育内容などに違いがあり、遺伝や生物学的理屈でない頑固な障壁が厳然とあるのだろうと思う。共生ではなく同化をという主張も聞く。
 人間の歴史は、長い目で見れば、確実に望ましい方向へ向かっていると思っているが、一概にはそうとも言えないようなトラブルや事件も、なぜか良く見聞きする。薺の花の咲く野辺の長閑な世界が、広がって行って欲しいものである。

 


【俳句-③】は、薺(ナズナ)が更に成長してくると、下の方から順次、花弁が散り、めしべの子房の中に種子ができる。この時期のナズナを「でんでん太鼓」を鳴らす要領で振ると、種子が擦れて微かに音がする様を詠んだ。ナズナの別名「三味線草」なので、楽器の演奏技法は師匠から弟子へと伝授される。私は孫に伝えよう。季語は、「三味線草」で、春である。

成長したナズナ

 
 薺の植物学的特徴を理解しておいた方が良さそうなので、概要を説明する。
 学名は、「Capsella bursa-pastoris」である。英名の Shepherd's purse は「羊飼いの財布」の意味で、学名の種小名のラテン語由来の語義も同じである。中国での植物名では、薺(せい)、または、薺菜(せいさい)と言う。これが、漢字で書いたときの「薺(なずな)」である。
 アブラナ科ナズナ属の越年草で、ペンペン草、三味線草との別名もある。田畑や荒れ地、道端など至るところに生えていて、春から夏にかけて白い花と三角形の果実を付ける。
 果実の形が扇型で、三味線の「撥(ばち)」に似ていることや、振ると種子がぶつかり合って音が出ることが、別名の由来である。
 春の七草(七草粥)のひとつで、若い苗や葉は食用になる。麦栽培の伝来と共に、日本に渡来した帰化植物と考えられている。何んと、日本古来の植物かと思いきや、帰化植物であったというのは初耳である。  

子房の拡大(バチor軍配)


  
                         *  *

 

民具「でんでん太鼓」


 

さて、私は今では上記のように、ナズナの概要を、例えばペンペン草を振ると、微かに音が出ることを知っているが、子どもの頃は、どうであったのだろうかと考えてみた。
 ナズナの「お浸し」は、祖母や母の調理したものを口にして、名前と味を知ったと思うが、ナズナから音が出ることは自分が発見したというより、きっと誰かに教えてもらったと思うが、誰であったかは覚えていない。一緒に遊んでいた近所の子からか、それとも大人の人からだったのかも知れない。
 「餅草・モグサ(ヨモギ)」が、手に傷を負った時の血止めになることや、「ゲンノショウコ」や「センブリン」が胃腸薬になることは、祖母から実地に教わった。「ウマノスイコ(イタドリ)」の効用は、級友であった。多分、級友も誰かから教わったのに違いない。だから、子どもに伝えられた情報は、さらに直接または間接的に、交流する人々を通して、拡散して行ったのだと想像する。
 その意味で、私はいつの日にか、少し年上の人や大人の誰かから、ペンペン草を振ると三味線のように音が出る植物だと教わったのに違いない。それで、私は教えてくれた師匠の弟子である。反対に、次の誰かに教えれば、私が師匠になる。 

ベニシダの胞子嚢

 先日、孫と近くの貞祥寺まで散歩に出かけた折、参道で「オシダ」を見つけた。
 孫が、どういう意図で「しゃべれない言語」で質問してくるのか知らないが、枯葉・小石・苔・道の色の変わった所などに、私は丁寧に応えていた。
 その時、逆に孫に伝えたいと思い、オシダの葉を裏返して、胞子嚢を見せた。孫は、興味を覚えたようで、次々と出会う葉の裏側を観察し出した。ただし、成長段階の時期にもより、全ての葉に胞子嚢があるわけではない。
孫は、うまく発見できた時には、にんまりとして、私に成果を知らせてきた。
 ゲームソフトの攻略は教えられないが、こんな小さな自然の秘密なら、孫子へ伝えられそうである。
 ちなみに、檜(ヒノキ)と翌檜(アスナロ)の葉の裏側の違いは、私が大人になってから、正確に言うと約30年前、M少年自然の家勤務に就いてから知ったことだった。

                     
       

檜(ヒノキ)の気孔帯

翌檜(アスナロ)の気孔帯

 

   【編集後記】(はてなブログ)

 「4月の年度替わり」とは、大分縁が薄くなっているが、それでも、4月と聞くと少し気持ちを改めて、新たな方向を模索しようという気になる。
 昨年は、三脚梯子や電動式トリマーなどの機材を購入したので、庭木の剪定に挑戦した。ジャガイモと葱の定植作業と、2~3年周期で複数箇所のトタン屋根をぺンキ塗装するのは、4月の恒例になっている。
 ところが、今年の4月は、大幅に変わってきた。昨年の迎え盆の晩に救急搬送された後、一週間の入院をしたことで、ジャガイモの種芋注文や、葱と玉葱の種蒔きができなかったので、今年度は種苗店で購入してきたものを植えることにした。本当に、楽ではある。
 加えて、2つの状況が変化した。ひとつは、車庫の屋根のトタン塗装作業をする必要がなくなった。雨漏りするようになり、梅雨を前に全面張り替えを業者さんに依頼することにしたからだ。
 もうひとつは、庭木(特に赤松)の剪定ができずに困っていたら、近所のKさんから造園業の方を紹介してもらい、特別に3月初め、剪定してもらうことができたからだ。特に、小気味が良い程の大なたを振るった剪定をしていただいたお陰で、「伸びすぎた長髪を爽快な短髪に」してもらったかのように、清々しい庭木に生まれ変わった。(3月中旬に、剪定で出た軽トラ3杯分の古木や古枝を、畑に運んで焼却処分した。)
 この為、今季の4月は、浮いた時間で、屋内の整理・整頓をすることにした。実際、毎年、少しずつは廃品回収へ協力して、物を減らしてはいるが、我が家には不要な物品が保管され過ぎている。正確に言うと、保管とは名ばかりで、倉庫を乱雑に占領している。倉庫は、充分にあるので今まで隠されていたが、ついに、容量一杯となって、「書斎」や「小座敷」と呼ぶ日常空間に近いスペースにも、保管品が進出してきた。
 その元凶は誰かと言うと、どうやら家内らしい。彼女の名誉に関わるので詳細については語らないが、「もったいない、いつか使うから」と、残しておくことが原因だ。だが、かなりな抵抗を受けながらも、思い切って整理・処分することにした。・・・それにしても、私たちは、必要以上の物品を持ち過ぎているなあと痛感した。

剪定後の庭(翌檜・赤松・一位・籾) 後方は薬師堂境内の檜葉


 

 さて、4月15日には佐久俳句連盟の総会と俳句会があり、参加してきた。
 皆さんのハイレベルの俳句に接すると、いつもながら気が引ける。そして、互いに仲間の俳句を他薦し合うのだが、私の作品への票はあまりに少なかった。
 帰宅後、PCで参加者の俳句作品を打ち込んで、おさらいをした。皆から多くの票を集めた俳句は、確かにうまい。季語も適切だし、表現が華麗で、作者の心情にも共感する。お酒を飲みながら、まとめていたが、しだいに酒量が増えてきていた。
 次回、9月の吟行会では、私が推進係を担当することになった。
心して臨みたい。 (おとんとろ)
 

令和8年3月の俳句

      【弥生の句】

① 雛祭り 嫁した娘の 昔語り

②  老夫婦 二間合わせて 雛飾る

③ 内裏雛 左近右近と 覚えけり 《老夫婦の雛祭り》

 

  誰が言い始めたのか、学校の三学期の短さを「行ってしまう1月、逃げていく2月、去ってしまう3月」と、うまく表現したものだ。中でも2月の28日間は、1月や3月に比べて、たった3日少ないだけなのに、とても短く感じる。だから、光の春に、3月1日が、突然やってきたように感じてしまう。
 日本時間2月7日未明から始まったイタリア「ミラノ・コルチナ冬季五輪大会」での日本選手の活躍に喜んでいたら、国際政治は、とんでもなく深刻な方向へと急転回していた。中国は、日本のことを新型軍国主義に移行していると誹謗している。米国は、空母打撃群を中東に派遣して、反政府デモに揺れるイランへ強硬姿勢を示した。そして2月28日、米国とイスラエルは、イランにミサイル攻撃を開始し、国民に蜂起を呼びかけた。不穏な紛争幕開けで3月1日は始まった。
 これに対して、イスラム教シーア派最高指導者ハメネイ師を爆撃で殺害されたイランは、湾岸諸国へ報復攻撃に出た。さらに、トルコにも攻撃を仕掛け、世界を敵に回してしまった感すらある。
 一方、支援して欲しいロシア・中国・北朝鮮は、傍観したまま。日本政府も、南米ベネズエラの原油管理支配に続く米国の対応に、とても厳しい批判はできない。国際外交の世界では、厳しい現実を前に、それが政治的正解ですと、見解を出さざるを得ない。私も、ただ黙っているだけの国民のひとりだろう。 
 そして、この後、どう転回していくかわからない。石油備蓄の多少の備えだけでは、日本国内はもちろん、世界経済に大きな悪影響が生ずることは確実だ。
 太陽光蓄熱温水器を今冬に導入して、石油負担が軽減した我が家とは言え、少なくとも自家用車や農業用管理機のガソリン使用は減らないので、他人事では済まされない。一刻も早い解決を祈るばかりである。

             *  *  *

団体追抜き(高木が3人?)

 スピードスケートの高木美帆選手が、世界オールラウンド選手権を最後に、今季限りの引退を表明した。(3月4日)
 1500m世界記録の樹立が、彼女の19歳の時であったことを考えれば、その競技人生への求道姿勢には感動してしまう。15歳で「2010バンクーバー五輪」に姉(菜那)より先にデビューしたが、「2014ソチ五輪」を迎える19歳の国内選考会で敗れ、出場できなかった。その後の2大会は、姉と共に、パシュート(団体追抜き)で、金(2018平昌大会)・銀(2022北京大会)に輝いた。そして、今回は、銅(2026ミラノ・コルティナ大会)メダルを獲得した。現役最後となるオランダで開催された「オールラウンドル部門競技会(500m・1500m・3000m・5000m)」で第3位の栄冠を得て、引退することとなった。(3月8日)SNSの一部では、「高市総理、美帆さんに国民栄誉賞を与えて!」という声もあるらしいが、野球の「王 貞治」氏の人気には及ばないかもしれないが、不況下に喘ぐ日本国民に、自信と希望を伝えてくれたことは、受賞対象に相応しいと思う。
 さて、今月は、節句のひとつ「雛祭り」をテーマにしたい。インターネットで調べてみると、思いがけないエピソードも見つかった。

 

 【俳句-①】  納屋部屋に保管してある「雛人形一式」を出して来て飾ると、娘が生まれた私の30歳前後の頃の事を思い出す。普段は少ない夫婦の会話も、昔語りでは盛り上がった様を詠んだ。季語は、「雛祭り」で、春である。

                        *

七段の雛段飾り

【俳句-②】  比較的大きな雛段飾りなので、我が家で御座敷と奥座敷と呼んでいる二間・16畳+を使って、雛人形セットを老夫婦で飾った様を詠んだ。季語は、「雛飾る」で、春である。但し、飾り付けに際しては、毎回ながら「夫婦喧嘩」を繰り返してしまう。

               *

内裏雛の配置に注意(京都方式)

【句俳-③】 雛段飾りでは、雛人形や付属の装飾具の配置が難しく、用意する度に、写真入り説明書を見ながら飾り付けをしている様を詠んだ。実は、雛段飾りが、一通りだけでないことを知り、驚いた。季語は「内裏雛」で、春である。

               *  

 

 結婚して3年目の正月15日、我が家に長女が誕生した。出産予定日より、3週間ほど早い。
 最初のエピソードは、この事を、私は当時担任していた生徒に発表することになった事件だ。
 三学期に入り、黒板の横に、「あと」に続き、
「○○日」という日めくりが登場した。中学3年生3学期には良くあり、高校入試当日までの日数をカウントダウンする為に設けられる。今と違って、当時は全員が同じ日に高校受験するので、受験生の緊張感を高揚させる効果がある。だが私は、こういうプレッシャーは嫌いで、自分ではやったことがない。私の嫌う黒板を汚す訳でもなく、生徒が自主的に始めたことなので、静観していた。
 しかし、数字が次第に少なくなって行ったある日、『あれ、高校入試日までの日数にしては違う』と、気づいた。明らかに、20日以上違っていた。そこで、
首謀者と思われるS君を呼んで詰問してみたが、訳を語らない。もう一人怪しいM君も口裏を合わせていた。極めつけは、情に脆い級長のK君を問いただした。
『先生の奥さんの、出産予定日です』というのが答だった。
 通学路の途中にあった町営住宅にS君らが押し掛け、家内から出産予定日を聞き出していたことが判明した。彼らの「いたずら」を知って嬉しくもあったが、出産が早まったことについては、生徒らに報告しておく義務があったと思う。他にも、笑えるような変な話題は沢山あるのが、これを代表させておこう。 

              *  *

 雛段飾りは、長女誕生から1ヶ月後の2月下旬に、家内の両親からの贈答品として届いた。私たち夫婦では買えない「雛段七段飾り」だと判断したのだろう。
一般的に、長男・長女は、祖父母の初孫に当たり、大事にされるが、次の二男・二女となると、多少ランクが落ちがちである。特に、高価な調度品を、同じ規模で用意することはまず無いだろう。我が家の二女には、雛人形飾りの替わりに、「市松人形」を、私たち夫婦で買って祝うことにした。
 雛段飾りの前横に、ガラス・ケース入りの、ほぼ子どもと等身大の人形を飾るので、二階倉庫から下ろしてきた箱類を一時的にどけて、飾る場所を確保する為だけでも、大仕事になる。

 さらに私は、困るまで、説明書を見るより実物を見て直感で組み立てる方針だが、家内は、慎重に組み立て図や解説を見てからやろうとする。年に一度の事で忘れていることも多く、組み立て手順を巡り、まずは最初の夫婦喧嘩が始まる。
 その次は、五人囃子などの附属の人形の扱いが原因となって更に加熱する。
 彼らは、基本的に「おかっぱ頭」に侍烏帽子(さむらいえぼし)と呼ばれる被り物を付けていて、5人それぞれが異なる楽器などを持っている。問題になるのは被り物の方で、すべすべした小さな頭に、漆塗りの烏帽子を短い紐で被せるのだが、きつく縛ったつもりでもすぐに抜け落ちてしまう。
 業を煮やした私が、『接着剤で頭に貼り付けるか』と提案しただけで、『物の価値がわからない!』とやり込まれてしまう。家内は、両親が子供らに贈ってくれた雛人形に感謝すると共に、人形に対する畏敬の念を持っているからだろう。
そこは、良くわかる。
 私も行動が矛盾している。例えば自分の部屋の模様替えをする前には、設計図を描いてから始めるのに、雛段飾りは、プラモデルの組み立て感覚で始めてしまう。さらに反省すべきは、雛人形の片付けは、ちょうど3月の多忙な時期と重なるので、家内が一人で防虫剤を入れて、丁寧に片付けてくれた。華やかな飾り付けだけ参加して、大切なメンテナンスには無関心である。家内の言う事をしっかりと受け止めなくてはいけない。

              *  *  *

左近の桜・右近の橘(紫宸殿)

 雛人形の飾り付けは、説明書を見て、位置と順番を確認しながら進めたので、色々と「語呂合わせ」を考案して覚えた内容もある。
  まずは、左右の見方だが、天子様(天皇)が南に向いて座っておられる時、左手側が東側となるので、自分が内裏雛に対峙した時は、左右が反対の関係になる。
これは、胸部レントゲン写真を医師が見た時の、左右が逆になる原理と同じである。また、京都市左京区が、御所の東側(北東も含む)であることでも納得できる。
 そこで桜と橘の関係は、「左近の桜」と、「さ・さ」の語呂で覚えた。実際に京都御所の紫宸殿に植わっているのは、高校の修学旅行で見たことがある。
 

五人囃子の順番



 続いて、五人囃子は、『太鼓・大・小・笛・扇』と覚えた。我が家の場合、鼓(つづみ)を打っている人は、立っている。
 三人官女は、座っている人と立っている人の数が違うので、バランスを見れば、すぐに位置が特定できた。次の課題は、左右の大臣と、庭の清掃道具を持った3人の男雛たちの関係であった。

 そこで、急に思い立ち、インターネット検索で、そもそもの「雛祭り」について調べてみた。
 雛祭りは、「五節句」のひとつであり、中国の陰陽五行説に由来する奇数が重なる日に行なわれる。奈良時代に中国から伝わり、江戸時代に幕府によって公式に定められた。
 すなわち、1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)の5つである。それぞれ、「七草の節句」・「桃の節句」・「端午の節句」・「笹竹の節句」・「菊の節句」と別名でも呼ばれている。
 驚いたことは、毎年、私たちが、説明書を頼りに雛段飾りをしていたが、そもそも天子様と皇后様をイメージした雛人形の位置関係については、一通りではなく、大きく京都(関西)方式と関東方式があり、地方独自でも違いがあるようだ。

 特に、私が興味を持ち、印象深かった内容は、「左上右下(さじょう・うげ)」の思想であった。左右、同等でも良いのに、事情によっては序列を付けた方が、秩序が保てるものなのかもしれない。
 この思想によって、京都方式の「内裏雛(♂)」は、向かって右、つまり高貴な左側で、女性(♀)は右側に位置する。なぜなら、男尊女卑的ではあるが、尊い男性と、庇護される女性の位置関係は、「男・女=左・右」と配されることになる。京都方式の雛段飾りは、そんな意味があった。

トランプ大統領が、首相をエスコート

 一方、明治時代以降、欧米から入って来た男女の並び位置は、女性が男性の左腕を掴むエスコート姿勢が普及したらしい。現に、最近の話題では、トランプ米国大統領と、我が国の高市早苗総理大臣の公式な写真がある。つまり、欧米では、女性が男性の左腕を頼り、
男性が右腕をフリーにしておくスタイルが、普通なのである。多分、右利きな人が多いことにも由来すると推測する。

 関東を中心とした雛飾りでは、内裏雛が、向かって左にくる。先ほどの、左を上位とする思想からすれば、「かかあ(♀)天下」になるが、これも地域差である。

 

右大臣と左大臣



 そうなると、刀剣や弓矢を手にした左大臣と右大臣の関係もわかる。白髪の方が年長者と思われるので、こちらを左大臣にすれば良い。
 最後に、庭掃除の道具を携えた3人の男性は、「怒り・泣き・笑い」の表情をしていて、怒り上戸、泣き上戸、笑い上戸で、「三人上戸」とも呼ばれる。
表情だけでなく、年齢にも差があり、喜怒哀楽だけでなく、変わりゆく人生の年齢を表しているのかもしれないと思った。

 



 かつては、子供らと共に祝った雛祭りだが、今では老夫婦ふたりが、「虫干し」を兼ねて飾り付けるのだから、あまり絵になる光景ではないだろう。だが、ここ数年、何かと忙しく、雛人形を箱から出すこともなかったので、その意味では新鮮であった。今年は、私も後片付けをしっかり手伝おうと思う。

 

           【編集後記】

 「雛祭り」の話題は終わるが、インターネット検索で「左右」の話題を発展させて調べていたら、疑問だった色々なことがわかってきて感激した。思わず吹聴してみたくなったので、触れてみよう。

(1)「ご飯は左、味噌汁は右に置きなさい」 ・・・とは、子どもの頃から良く言われ、最近では、私が孫たちに言うことが増えた。 右利きの人が多いので、箸置きには違和感を感じないが、味噌汁が右にあると、箸を移動させていく時に、引っかけて倒し零してしまうように感じた。
 では反対にしたらどうだろうか?今度は、ご飯茶碗を置いて、味噌汁茶碗に手を掛けようとする時、ご飯の存在が気になる。ふたつの茶碗を大きく離して置かない限り、触れて倒す危険は、どちらにもある。要は、落ち着いて礼儀正しく食べれば良いということらしい。しかし、ここに「左上右下」の思想が、あったとは知らなかった。ご飯も味噌汁もどちらも大事だが、ご飯が主(左)で、味噌汁が従(右)という秩序が、食事文化の中にも息づいていた。

ご飯と味噌汁の関係(箸置き)

(2)和服と洋服における左右、

            いわゆる「右前」と「左前」 
 子どもの頃のトランプ遊びや花札で、カードや札を配る方向や回る順番について、「懐回りはいけない」と、大人から教わってきた。つまり、左回り、または反時計回りが正しい。右回りだと、札を胸元(懐)に入れることが可能になるので、不正の温床だというのが理由であるようだ。
 つまり、和服の前を合わせて着る時、右が胸元に近い手前で、その上に左が被さるようにする。右手が懐に入り易いように着る。(∵)「左上右下」の関係によると言う。ちなみに、これを「右前・みぎまえ」の着方と言い、男女に違いはない。
 一方、「左前」の着方というのもあり、こちらは死に装束である。生死という逆の関係から、着方を反対にするという意味らしい。納棺(別名、にっかん)の時に、死者と共にあの世に連れていかれないようにと、遺体を扱う人の腰に巻く荒縄は「縦結び」にする発想と共通しているのかと推理する。

 ところで、洋服文化となると男女は反対で、ボタンで前合わせをするシャツのような場合、男性は「右前」で、女性は「左前」で着ることになる。
  女性の場合、歴史的に高級服は一人で着ないで、手助けが必要だった。着付けをする人から見て右手でボタンを留めやすいように設計されたといわれている。この慣習が現代にも受け継がれ、ブラウスやレディースシャツ等は、左前が一般的となっている。
 ちなみに、昨今では、ボタン位置は男女どっちでもいいというブランド製品も増えているようです。

和服の着こなし

                                                   * * *

 

 今季の佐久は、昨シーズン以上に雪が少なかった。雪かきをしたのは、2回だけである。降った回数はもっと多いが、霙(みぞれ)雨や1~2㎝以下の降雪で、その日の内に消えてしまうので放置した。
 正式な統計データは調べてないが、とにかく冬越し野菜が水不足で、枯れないか心配しているほどであった。
 3月3日のまとまった雨は、まさに慈雨であった。
 佐久地方のみならず、太平洋側での山林火災が相次いだのは、いかに乾燥していたかを物語る。

浅間の冠雪(3月5日)<3月3日の雨は、山では雪>

 山梨県上野原市扇山の森林火災(1/8~1/24)、静岡県藤枝市の森林火災(1/17~1/26)、群馬県藤岡市の森林火災(1/25~2/3)と、森林火災が、何日間も鎮火できずに燃え続けた。米国のカルフォルニア州での大規模火災ニュースにも似た話題が、身近な里山であったことには驚きであった。
 一方、日本海側(今年の場合特に、秋田県~青森県)や、長野県でも北部では大雪であった。偏西風の位置が例年より北に偏り、冬型の気圧配置でも地域的に偏った降り方があったようだ。近年、梅雨の前線の位置についても、平年より北に偏った傾向があるように感じている。

 ところで強い季節風に流された雪雲で、浅間の冠雪は、多く見られた。例えば、3月3日の麓の大雨も、山では雪となった。
 3月5日、松本に行く機会があったので、安曇野まで足を伸ばしてみた。いつもは佐久の里山の間から眺めているだけの北アルプスだが、雪の量と比べてみようと思ったからだ。 
 写真は、同じ日の共に午前中の山岳の雪景色である。平野部は、まだ枯れ野のままで、共通しているが、さすがに積雪量は、北アルプスには敵わない。
 遠目ではわからないが、枯れた草木の下で、早春の芽吹きが始まっているはずである。 

鹿島槍ヶ岳方面〈安曇野から・3月5日〉

 
 ようやく、三月(弥生)の俳句の解説で、「令和7年度のまとめ」冊子が完成する。平成28年5月から俳句を始めたので、10年間分となった。4月からは、次年度がスタートする。
 ただ、「みゆき会」の解散で途絶えてしまった「倉澤薬師奉燈俳句」の「俳額」は、令和6年5月吉日のままで、昨年の4月も寂しい思いがした。今年もと思うと気が重い。倉沢薬師堂花祭りで、再び掲げられればいいなあと、密かに思う。無理かなあ。                                                                                      (おとんとろ)

 

 

佐久の地質調査物語・第215回

 第3章 志賀川~香坂川の地質

 

10-(2) 香坂川支流・第2沢から第1沢への調査から

 

 平成26年(2014年)5月18日の午前中に、香坂川支流・第2沢を調査し、下山した午後には、第1沢に入りました。以下、各沢ごとに記した調査地点番号の順番に説明します。(【ルート・マップ】を参照)

香坂川上流部~最上流部のルートマップ

 香坂川支流・第2沢の標高990m付近(【図-①】)の右岸側斜面には、灰色凝灰岩層を挟むシルト岩層があり、シルト岩層から広葉樹の葉の化石を多産しました。
走向・傾斜は、(ア)凝灰岩層とシルト岩層の境で、N50°E・5°NW、(イ)シルト岩層の層理面で、N30°E・10°NWでした。

広葉樹の葉化石(第2沢)

 標高1000m付近(【図-②】)では、非常に堅い明灰色シルト岩層が、露頭幅15mに渡り分布していました。
 同質の疑似礫を含んでいるものがあり、ノジュールかと間違えるほどでした。シルト岩が堅い理由は、わかりませんでした。ちなみに化石はありません。

疑似礫(第2沢)



                            - 50 -

 

 小さな沢が合流する標高1005m付近から、軽石を含む安山岩塊(溶岩か?が出始め、標高1010m(【図-③】)では、安山岩の巨礫を含む礫岩層と凝灰岩層が見られました。礫岩層の基質は、火山砂や凝灰岩質粗粒砂岩で、巨礫の最大径は25cm×50cmもありました。
 標高1020~1030m(【図-④】)では、同様に安山岩の巨礫(最大径20cm)を含む礫岩層がありました。基質も、火山性の砂礫で、同様な産状でした。
 これら(【図-③・④】)の岩相は、東隣の第3沢の標高1090m(【図-⑦】)のものと似ていて、香坂礫岩層としたものです。

 1040mの二股は、左股に入りました。すぐ上にも小さな二股があり、水は伏流します。標高1055m付近(【図-⑤】)の左岸(尾根斜面)では、落下した志賀溶結凝灰岩塊が重なりあってして、岩塊の窪地に「ヒカリゴケ」の自生が確認できました。

 志賀溶結凝灰岩は、標高1050m以上の尾根を覆っているようです。ここで、昼食にしました。その後、下山して、道路から第1沢に向かいました。 

 

             *  *  *

 

 第1沢の標高960m・舗装道路から林道に入った所に、「私有地に付き立入禁止」の看板があり、今は空のコンクリート製プールがありました。第3沢の標高990mから、山沿いの水路を通じて水を引き、かつては養魚場にしていたようです。ポンプや付随した施設跡も残っていました。

 標高970m二股の左股に入ってすぐの所・標高975m付近(【図-①】)の川底と右岸側では、明灰色シルト岩層の中に、層厚20cmの化石層準層がありました。水平層ないしN50°W・5~10°NEの走向・傾斜です。植物化石と昆虫類の化石を見つけました。葉の形から広葉樹・針葉樹・水辺の芦の類・植物の茎などの有機物が、比較的、保存の良い状態で多産します。また、ハチやアブの腹部(?)・ダンゴムシのような節・水棲昆虫(2種類)も見つけました。

 

平成26年(2014年)10月18日、香坂川支流・第1沢の枝沢と第4沢に入りましたが、露頭がなくて引き返しました。それで、化石を多産するこの場所の再調査をしました。
 化石を多産する層準は、下位から、(ア)暗灰色中粒砂岩層(層厚20cm以上で、下は川底)/(イ)黄土色シルト岩層(層厚10cm)/(ウ)火山砂と礫の混じる礫岩層(層厚10cm)/(エ)黄色を帯びた白色(ベージュ色)凝灰岩層(層厚5cm)/(上位は、化石を含まないシルト岩層へと移行する)です。この内、(ア)と(イ)から化石が見つかりました。
 (ア)から:ブナ類と思われる葉、細長い広葉樹の葉の植物化石/昆虫類の足の一部と思われる化石、昆虫類の羽と思われる化石 
 (イ)から:広葉樹と思われる複数種類の葉の化石

多産する植物化石の一部(第1沢)

水棲昆虫の腹部(第1沢)

クモか? 周囲は茎化石(第1沢)

ダンゴムシの節(第1沢)

内山川の最上流部・舘ヶ沢の奥で観察した「兜岩層のシルト岩層」(湖成層)に似ているという印象を持ちました。私たちでは、鑑定できないので、後日、専門家に見ていただく必要があります。

 標高980m付近(【図-②】)では、凝灰質シルト岩層があり、こちらでは化石はありません。その10m上流、標高985m付近では、保存状態は悪いものの、葉や茎の植物化石が認められました。990mでは、黒色泥岩層に、わずかに葉の化石がありました。
 標高1000m付近(【図-③】)では、シルト岩層がありましたが、化石の兆候はありませんでした。走向・傾斜は、N15~40°E・10°NWでした。
 その後、標高1020mまで調査して、下山しました。

 第1・2・3沢と、植物化石を含む層準は、複数層ありますが、距離的にも近いので、同一層準が分布していて、それを観察した可能性があります。ちなみに、植物化石を多産する場所の標高は、それぞれ975m(第1沢)・990m(第2沢)・1000m(第3沢)でした。

 

              【 閑 話 】

【1】ニホンジカの角で、幹を傷つけた跡

 第2沢の標高1050m付近の立木に、ニホンジカの角で、幹が傷つけられた痕跡がありました。
 ニホンジカの雄(♂)の角は、毎年、生え替わります。
春先に、新しく柔らかい角ができ、角袋の中で、炭酸カルシウムを主成分とする角(骨)が堅くなっていきます。夏~秋にかけて、骨袋の外皮を立木の幹などにこすりつけて、はぎ取ります。雄同士が闘争する、その年の角の誕生です。そして、冬を前に、角は抜け落ちます。山の中を歩いていると、時折、抜け落ちた角に出くわすことがあります。

シカ角でこすられた幹の傷跡

シカの毛

 

【2】溶結凝灰岩塊の窪地にヒカリゴケが自生 
      
 第2沢の標高1055mの志賀溶結凝灰岩塊の重なり合った窪地に、ヒカリゴケを見つけました。
 植物の原糸体の細胞が球形で、これがレンズの役割をして弱い光を集め、それを受容する葉緑体が集まった奥の方で反射して、光ったように見えています。

ヒカリゴケの自生


                    - 52 -

 

      編集後記

  香坂川支流第4沢は、水量は、他の沢と比べて遜色はないものの、露頭が無くて記載内容がありません。ただし、沢の上流部から尾根に出たところで、ニホンシカの住処を見つけたので、写真撮影しました。

 笹(ササ)の葉を、自分の身体の重さで倒して、ベッド状態にしてありました。広さは一畳ほどです。シカの毛も見つけたので確かでしょう。

 ササの水分が無くなるまで、枯れていたので、寝泊まりした期間は、数日というより、例えば、何週間とか使用していたのかもしれません。尾根の方向は、南北です。

シカの寝床・東側から撮影

シカの寝床・南側から撮影

 私たちが、たまたま第4沢に入り、これ以上、沢を詰めても露頭はないと諦めて、尾根に出たので、シカの住処は偶然発見されましたが、誰も寄りつかない場所です。

 この日は、10月下旬でしたが、いつ頃、利用していたのでしょうか?

 ところで、有り難いことに、羆(ヒグマ)【北海道での地質調査や登山】も含め、熊(ツキノワグマ)に遭遇したことは、一度もありません。厳密に言うと、北海道の大雪山系の下山中に、雪渓に黒い物体(明らかに動物)を目撃したのが一度だけあります。

 一方、エゾシカやニホンジカは、何度も目撃しています。しかし、佐久市望月の長者原でのシカの群れ【はてなブログ「動物の不思議な行動」に記載】の例外はあるものの、その多くは、シカが走り去っていく姿でした。

 しかし、唯一、この「尾根の住処」から思い出した貴重な体験があります。

 2003年(平成15年)9月下旬、大学を退官された後、地元佐久に戻り、私たちを誘って、ご指導いただいていたUS先生が、「田口峠」付近に乗っていたバイクを残して失踪する事件がありました。その消息を求めて、警察・消防団・関係者が、付近の山や沢に入り、捜索しました。私も、捜索に2回参加しました。

 正確に、10月の何日だった不明ですが、私は単独で、峠に通ずる尾根を歩いていきました。先生の教え子や消防団の方々の声が聞こえなくなり、枯葉を踏む音と、自身の吐く息の音だけになっていました。何気なく、視線を尾根の北側の下に移すと、そこに一頭の雌鹿(♀)が前足をかがめ、後ろ足を身体の下に入れるようにして、潜んでいました。きっと、大勢の人の声が、勢子のようにして、シカを追い込んだのでしょう。

シカは、自分は勿論、音を出しませんし、微動だにせず、身を伏せています。私は、偶然にも、尾根の中央から少し北側に移動したので、見つけましたが、赤外線装置でも装備したドローンでもない限り、発見できません。

 今、思うと携帯電話とか、カメラとか、あれば良かったと思いますが、しばらく、私は、黙って眺めていました。足音を立てるとか、手を叩くとか、声を発すれば、シカが気づいて逃げ出したかもしれません。しかし、怯えているような、可愛そうなシカを見ていると、そんな行動はできませんでした。

 何分か見ていたように記憶していますが、今度は、自分が音を立てないようにして、その場を離れました。・・・なぜか、今日は、そんなことを思い出した「おとんとろ」です。  
 

 

佐久の地質調査物語・第214回

  第3章 志賀川~香坂川の地質

 

10.香坂川上流部の調査

 香坂ダム周辺から志賀川に至る地域の調査(平成24年度)によって、この地域の地質概要がわかってきました。もっとも、たびたび登場する小坂共栄先生らの論文に記され地層区分の「層序と、その分布の概要の理解に一歩踏み出すことができるようになった」という程度の意味です。特に、化石については、良くわかりません。
 下位から駒込層/八重久保層(下部・上部)/香坂層(下部・上部)/香坂礫岩層は、それぞれ不整合関係としています。駒込層と八重久保層は、八重久保断層という大きな断層で接していることが地質構造からわかります。その他の地層の間の関係を直接証明してくれるような露頭は、見つけられませんでした。しかし、岩相や含まれている化石情報から、あきらかに不整合関係であることは確かだと思われます。
 私たちは、個々の資料を手がかりに地質構造を解明しようと挑戦していますが、十分な情報がなく苦しんでいます。断層などの存在も含め、各地層の境目および、内部の構造は、不明です。しかし、新しい時代の地層ほど、より北側に分布しているという傾向と、実際、そのような資料もあるので、香坂層の上部層が、香坂川の上流側(北側)に分布していそうで、それを確かめる為に調査範囲を広げました。

 主に平成25~26年度(2013~2014年)に調査した香坂川上流部~最上流部のルート・マップを、下に示しました。各沢の露頭や地質内容についての説明は、ぞれぞれ【図-数字】が、沢ごとに対応していますので、参照してください。
 尚、第1沢~第5沢は、香坂川本流に対して、北側から流れ込む支流の小さな無名沢に順番に番号を付け、フィールド・ネームとして命名してあります。

 

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10-(1) 香坂川支流・第3沢の調査から

 平成25年(2013年)11月17日、香坂川支流・第3沢に入りました。香坂川本流を跨いで、寄石山林道と香坂林道へと通ずる橋の少し下流で合流する沢です。ちなみに、本流に掛かる橋は、「大橋(昭和51年10月完成)」とありました。沢の入口の西側には、民家が2軒、東側にはテニスコート付きのペンションがありました。
 沢の入口から約120m、標高990m付近(【図-①】)では、明灰色のシルト岩層に、たくさんの植物化石が含まれていました。葉脈の様子から、広葉樹や単子葉類だとわかります。走向・傾斜は、水平ないし東西(EW)・10°Nでした。

広葉樹の葉化石【図ー②】

 標高1000m付近右岸(【図-②】)では、沢底から2mの高さに凝灰質中粒~粗粒砂岩層(N20~30°W・10°SW)があり、軽石を含み、植物化石が見られました。広葉樹の葉と単子葉類の葉や小枝を多産しました。沢底から7mの高さでは、凝灰角礫岩層(走向・傾斜

N10°W・15°W)がありました。 
 標高1030m付近の右岸(【図-③】)では、沢底から7mの高さで、凝灰角礫岩層が見られました。基質は、灰色凝灰岩で、軽石を含みます。角礫は安山岩で、最大径は12cmで、多くは5~10cmです。小枝の植物化石が含まれていましたが、礫の配列から土石流のような形態で堆積したような印象を受けます。
 この沢の上流には、「志賀溶結凝灰岩(welded tuff)」があり、沢の随所で転石が見られましたが、尾根から落下したと思われる直径4~5mの溶結凝灰岩塊が、ありました。

安山岩:十字や星型の輝石巨晶

 

 標高1040m二股の手前、右岸側(【図-④】)では、斑晶に輝石が顕著な安山岩を含む「凝灰集塊岩(agglomerate)」が見られました。
 二股を右股に入って30mの上流では、凝灰角礫岩(tuff breccia)がありました。安山岩の角礫(最大8×ⅰ0cm)と、亜角礫(最大6×8cm)が見られましたが、岩相は1030m(【図-③】)と同じもののようです。
 標高1060m付近では、東側に、コル(南に延びる尾根の鞍部)が見えるようになり、左岸斜面に露頭がありました。走向・傾斜は、N50°E・10~20°SEで、下位から、シルト岩層(層厚50cm)/軽石入り泥質凝灰岩層(層厚30cm)/茶色く汚れた感じの粗粒な凝灰岩層(層厚40cm)でした。
 標高1070m付近(【図-⑤】)から沢が開けてきて、右岸側5mの高さのシルト岩層の中から、広葉樹の葉・植物化石を見つけました。保存状態は良くありませんでした。

 南に延びた「やせ尾根」の1110m付近(【図-⑥】)の西側に、幅15mを越える露頭が見られ、地層の断面を観察しました。ほぼ中央部が凹み、北側から傾斜10°Sで、南側から20°Nで交わるように層を成していました。下位から亜角礫安山岩(多孔質・最大径5×10cm)の礫岩層(層厚50cm以上)/凝灰質中粒砂岩層(層厚40cm)/
礫の混じる凝灰質粗粒砂岩層(層厚40cm)の順に重なっていました。礫の並びや分級の様子から、水流が関与しているようで、一度堆積したものが、さらに沖合に再堆積(二次堆積)したような産状を示していました。
 標高1090m上二股のわずかに下流(【図-⑦】)では、右岸側に巨礫を含む礫岩層が見られました。礫種は、黒色の安山岩(最大径20×35cm)と緑色凝灰岩(最大径20×30cm)です。基質は凝灰質中粒~粗粒砂で、岩相は「香坂礫岩層の最下部の礫岩」に似ています。

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 標高1110m付近(【図-⑧】)では、凝灰質粗粒砂岩層(層厚3m)が見られ、最後の露頭となりました。その近くに比較的、保存状態の良い「炭焼きの石積みかまど」がありました。
 この後、左股を標高1130m付近まで登り、引き返しましたました。志賀溶結凝灰岩の崖のほぼ直下です。
 標高1250mの狭い尾根の稜線から、1150m付近の崖までは、志賀溶結凝灰岩で覆われています。

志賀溶結凝灰岩の崖露頭

 

        【 閑 話 】

【1】志賀溶結凝灰岩の中の黒曜石

 沢の入口から200mほど、転石ですが、志賀溶結凝灰岩の大きな岩塊が沢底にあり、「ユータキシテック構造」が見られました。火成岩の中の流れたり、押しつぶされたりして縞状模様や横方向に平たくなった構造のことです。この場合、黒曜石が扁平となり、連なるように配列しています。圧縮され,溶けた痕跡で,元は「軽石」です。この構造があると,溶結凝灰岩であることが分かります。

溶結凝灰岩中の黒曜石


  【2】未利用の炭焼きの石積み跡(一部)か?

 第3沢の標高1100mと1110mに、炭焼き用石積み跡がありました。【写真(左)】は、後者のものです。私たちが目撃した炭焼きの「かまど」は、沢の少し開けた所や二股付近が多かったように思います。伐採した材を集積しやすい所が選ばれたと推測します。ところが、これは沢の斜面にあるし、焼いた時に熱で変色した石もありません。集めてくる材の範囲も狭いように思います。一部だけ、きれいに積んで
あるので、途中で止めて未利用のままだったかもしれません。

炭焼きの石積み跡(一部)

【3】おかっぱ童女(河童)に見える自然石

 第3沢の標高1070m付近から沢が開け、傾斜が緩くなった1085m付近で、【写真(右)】のようなおかっぱ頭の童女や河童の顔に見える自然石を見つけました。尾根から落下した志賀溶結凝灰岩塊に苔が生え、そこに枯葉が載って髪の毛のように見えます。飛び出した鼻、眉と細い目は、岩の割れ目と、その陰です。
あまりに印象的な光景なので、写真に納めました。
 特に、この時間帯(午後)に、この方向(下流の南側)から見ないと、岩の割れ目の陰は、こんな姿には見えません。そんな偶然にも、驚きました。

標高1085m付近の自然石

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香坂川上流部~最上流部のルート・マップ

 

            編集後記

  佐久の地質調査物語シリーズと併行して進めている俳句のジャンルで、今月「令和8年3月の俳句」では、「雛祭り」を使った俳句を創作してみたい。まだ、その季語を使ったことがないので、物置に収蔵してある「雛段飾り」を出して、気分を盛り上げようと思ってはみたが、忙しくて実行できなかった。例年であると、家内が2月中旬には、提案して、雛段飾りに参加するのだが、今年は大幅に遅れている。

 雪による降水量が少なく、冬越しの「冬菜・菜の花」に散水するほどで、気温の方はかなり進んでいるので、佐久地方に似合う「雛祭り」も、不釣り合いになる。

 昨日の「太陽系惑星の一方向に見えることの観測」は失敗した。明日は、月食があるので、こちらは忘れずに観察しよう。ただ、予報では雪(もしかすれば雨)である。

 いずれにしろ、毎日、決められた日課をこなしつつ、新しいことを進めるのは大変だと、少し手抜きをしている「おとんとろ」です。

佐久の地質調査物語・第213回

      第3章 志賀川~香坂川の地質

 

9.「香坂礫岩層」の分布域


 南沢林道の沢、香坂川ダム湖の下流側と上流側、さらに霞ヶ沢と、その東の沢の調査をして、香坂礫岩層の分布域の概要を把握することができました。その分布範囲は、極めて狭く、香坂ダム湖の南側と東側に限られていました。分布範囲の北限および東西の幅は、ダム湖上流の片替橋から次の橋の左岸付近までです。南限は、南沢林道の沢や林道高尾線の一部と、霞ヶ沢・その東側の無名沢の下流部まででした。
 【香坂礫岩層の分布域】(下図)の香坂ダム湖の南と東、南北500m×東西1000mほどの範囲です。しかも、ダム湖東側の崖露頭では、香坂層下部層と思われる凝灰角礫岩層が観察されるので、南沢林道の沢付近と、香坂川本流は、連続していないと思います。その意味でも、極めて限られた分布をしています。
 香坂礫岩層を不整合で覆う現世の堆積物は、香坂川の随所で見られました。一方、地質構造や化石情報から、香坂礫岩層の下位に当たると考えられる香坂層との直接的な関係を証明できる露頭(不整合や断層など)は見つけられませんでした。

香坂礫岩層の分布域

 

  【香坂礫岩層分布域の周囲の様子】

 

香坂ダム湖の南と東の崖露頭(凝灰角礫岩・枕状溶岩)と、霞ヶ沢および、その東側の無名沢に分布する凝灰角礫岩~ラピリー凝灰岩~緑色凝灰岩などは、香坂層の下部層だと思われます。
 一方、南沢林道の沢の最上流部(瀬早川に近い尾根) は、八重久保層の上部層だと考えています。
 図版の範囲に分布している地層は、下位から八重久保層(上部層)/香坂層(下部層)/香坂礫岩層の順で、それぞれ不整合関係だと思われますが、それを直接証明できるような露頭は、まだ観察できていません。

  【香坂礫岩層分布域の周囲の様子】

 香坂ダム湖の南と東の崖露頭(凝灰角礫岩・枕状溶岩)と、霞ヶ沢および、その東側の無名沢に分布する凝灰角礫岩~ラピリー凝灰岩~緑色凝灰岩などは、香坂層の下部層だと思われます。
 一方、南沢林道の沢の最上流部(瀬早川に近い尾根) は、八重久保層の上部層だと考えています。
 図版の範囲に分布している地層は、下位から八重久保層(上部層)/香坂層(下部層)/香坂礫岩層の順で、それぞれ不整合関係だと思われますが、それを直接証明できるような露頭は、まだ観察できていません。

 

 ところで、走向・傾斜データーが少なく、傾斜が変わったり水平層だったりして、香坂礫岩層の地質構造は単純ではありません。それでも平均10°前後の傾きと仮定し、露頭の水平距離から層厚を算出し、層序の概要を【下図】のように推定してみました。

 

香坂礫岩層の層序

 2つの沢の資料分析から、全体の層厚は、最大でも100m以内だと推定しました。
全体は礫岩を主体とする礫相で、基質(matrix)は、灰色凝灰岩の粗粒砂で、礫種は、安山岩と凝灰岩塊です。安山岩の礫は、大礫(64~256mm)がほとんどですが、中には巨礫(256mm以上)も頻繁に含まれています。香坂ダム湖の上流・片替橋付近では、「m単位」の巨大な安山岩岩塊も認められました。
 この上に、時々、薄い砂相や泥相が含まれ、有機物や亜炭の層準があります。さらに、植物化石が含まれていることもあります。南沢林道の沢では、直径が1mもある木の幹の化石が見つかりました。
 香坂川露頭では、東側の沢との分岐で、亜炭層の転石が見られました。分級の悪い礫岩層中か、その上の層に亜炭層があるのかもしれません。香坂川露頭の方が、南沢林道の沢露頭より、礫岩層が厚く堆積しているようです。
 最上部には、細礫(2~4mm)から中礫(4~64mm)の礫岩層と、軽石入り凝灰岩、白色凝灰岩などが載っていると思われます。(尚、小坂共栄先生らは、産地を高尾林道からとして、多くの植物化石を報告していますが、層準的には、私たちが「露頭無し」としている辺りの露頭の位置からと思われます。私たちは、見つけられませんでした。)

 香坂礫岩層の層序について極めて大ざっぱにまとめると、下位から(ア)巨礫を含む礫岩層/(イ)亜炭や植物化石が入る砂相・泥相が含まれる礫岩層(ここから植物化石を産出)/(ウ)珪長質な凝灰岩層を含む礫岩層という岩相変化になると思われます。

 そして、これらの岩相変化から堆積環境について、大胆な想像をすると、以下のようになるのではないかと思いました。
 (ア)陸成層の香坂層上部層(植物化石や昆虫化石を産出)が陸化して、しばらく堆積のない浸食期がある。
 (イ)不整合の後、基底礫岩に相当する巨大な礫(岩塊)を含む凝灰質の礫岩層が堆積した。
    (不整合面は観察していない。)
 (ウ)礫の大きさが多少、小さくなり、泥岩や砂岩が含まれ、亜炭層や植物化石が多産することから、湖のような環境になった。
 (エ)やがて、陸上火山(珪長質)の火山灰や礫が、河川を通じて流れ込むような少し内陸の湖になった。・・・そして、陸化していった。
 (オ)最後に、そのままであれば浸食され尽くしてしまうので、新しい時代の堆積物に一端は覆われて保護され、その後、現在のような露頭になっていると思われます。
   

 (この地域では、(エ)の後、志賀溶結凝灰岩などに覆われましたが、陸成層も含めて、  まとまった量の堆積層は発達しなかったと思われます。)

                - 45 -

       【 閑 話 】
 

  【1】寄石山の栃(トチ)の木
 
 霞ヶ沢のひとつ東の無名沢には、湯沢林道が延びていて、2本目林道から上流は、伏流して露頭もないので、沢沿いの雑木林を進みました。標高1040~1050mの沢が急で狭くなる所で、寄石山溶岩が出始めたので、ここで調査を終えました。標高1050m付近の左岸には、栃の大木がありました。根元が出水時に洗われて傾き、やがて倒木になってしまいそうです。【写真(左)】は、標高1010m付近にあって、上部が折れていても、御神木の如く貫禄のある栃の大木です。目印として残したのでしょう。

目印となるような大木が残っている

 

 【2】シカ・イノシシ用の仕掛け罠(ワナ)に引っかかる

 下山途中の標高1000m付近に、「仕掛け罠設置の警告表示」がありました。(【写真】)私は、慎重に歩いたつもりでしたが、罠にかかってしまいました。靴の足先が締められた感触があり、一瞬『やられた』と思いましたが、転ばず止まりました。ワイヤー罠が、倒木の陰にわからないように設置してあったようです。 両手が使える私(ヒト)は、緩めて外すことができましたが、動物なら逃げようと動き回れば、締まるような構造になっていました。(但し、締め付け部分は鋭くないので、動物の手足に傷は付きにくいようです。)
 設置に関しては、10mほど手前に警告もあるので、文句も言えません。倒木の周囲を注意深く観察すると、本体から延びて立木に固定してある伸縮自在ワイヤーの色が周囲と違っています。下流側にも同様な表示があり、設置者の佐久市からの許可番号と氏名も表示されていました。倒木を跨げば、罠に掛かるように配置されている作戦には、完全に脱帽です。
 しかし、放置もできないので、構造を理解した後、復元しておきました。佐久市民、10万人の中でも、シカ・イノシシ用罠に掛かった人間は、私ぐらいだろうなと思い、苦笑いしてしまいました。

罠の存在をしらせる警告表示

構造を理解した後、罠を復元する

 

 【3】コマクサに葉が似てるが、何という花?

 標高980mで湯沢林道と交叉する所で、珍しい花を見かけた。『花の形と色は違うが、葉はコマクサに似ている』と野帳に記してあった。植物名は種名までとなると覚え切れずに、諦めてしまうことが多いが、【写真(右)】の植物は、今まで見たことがなかったので、興味を覚えた。調べると「ミヤマキケマン(Corydaliis pallida var.tenuis)」であることがわかった。
ケシ科・キケマン属の越年草で、毒草だという。ちなみに、コマクサ(駒草)は、コマンソウ亜科(ケシ科の仲間)なので、大きく外れてはいなかった。
 ケマン(華鬘)というのは、唐草や蓮華の透かし彫りなどをほどこした仏具のことで、葉の形が似ていることが、植物名の由来らしい。

ミヤマキケマン(Corydalis pailida tenuis var.)

               - 46 -

 

       編集後記

 

 これらの原稿は、かなり前にできていたものですが、なかなか「はてなブログ」に載せることができませんでした。特に、もう少し後で話題に出す予定ですが、この地域の地層と群馬県側の「本宿」地域の関係がわからなくなり、途中で挫折していました。

 また、地質図も私たちの調査結果を元に作成する意欲もあり、各沢の基礎データーは集まりましたが、これまでの白亜系や内山層の調査のように、点と線を繋いで面にしていけるような露頭が十分にありません。

 唯一、参考にさせていただいている地質図「地球科学1991年5月・小坂共栄先生・鷹野智由先生・北爪牧先生」を見て、先生たちも踏査資料を基に作成しただろうが、推定してある部分も多いだろうなと拝察致します。それで、私たち素人が、地質図を作成しようとしても、多分、先生方を真似たものになってしまうだろうと考え、諦めていました。しかし、せっかく私たちも集めた貴重なデーターがあるので、可能な限り後世の後輩らに残して置こうと、少し考え直し、この200番台のシリーズを続けながら、再挑戦しようと思い直してきました。(おとんとろ)

 

 

 

 

 

 

佐久の地質調査物語・第212回

      第3章 志賀川~香坂川の地質

 

8.「香坂川~霞ヶ沢の東・無名沢」の調査から


 平成25年(2013年)5月19日、片替橋から香坂川本流に入り、霞ヶ沢の一本東側の無名沢を、寄石山溶岩が出る所まで調査をしました。香坂川本流は、1年前の夏に単独調査をしてあり、小坂共栄先生らが『香坂礫岩層』とする特徴的な岩相が見られることがわかっていました。無名沢は、大局的には霞ヶ沢と似ていて、『香坂層(下部層)』とされているようですが、私たちの観察では、地層を構成する岩相の粒度に差があります。
 下図【香坂ダムの上流・ルートマップ】の【図-①】~【図-⑯】を参照してください。

香坂ダムの上流・ルートマップ

 香坂川の「片替橋」の下から入り、上流へ20m地点(【図-①】)では、分級(sorting)
が悪く巨礫が入る礫岩層が見られました。礫種は、(ア)上流部での黒色のものはなくて、灰色の安山岩、最大15cm×20cm、(イ)緑色凝灰岩、最大10cm×ⅰ0cmです。
基質(matrix)は、砂質の灰色凝灰岩で、茎や葉などの有機物も含まれています。特徴は、南沢林道の沢で見られた礫岩と同じです。

巨大な礫(岩塊)

 簡易橋の上流5mの所に、長径2m近い巨大な灰色安山岩礫が見られました。昨年、単独調査をした時、転石だと理解していたものです。委員の協議で、『石堂層の基底礫岩をしのぐ大きさだが、この層準の構成物だろう』ということになりました。川底の礫岩層の最大は、青味を帯びた安山岩礫で、28cm×27cm(実測)でした。

 川が少し流路を東に変える標高835m付近(【図-②】)では、いくぶん砂質な凝灰岩層に、不明瞭ながら層理面のようなものが現れてきて、その一部に【写真】のような亀甲状のクラック(筋目・表面の割れ)のある産状が見られました。筋目については、浸食に弱い水に溶けやすい物質が抜けたと解釈できますが、変色については不明です。

亀甲状のクラック


 
                                 - 41 -

川の大きく湾曲する手前、標高840m付近では、
炭化物を含んだ明灰色凝灰岩と巨礫入りの礫岩の互層が続いていました。境目で、N20°W・10°Wの走向・傾斜でした。(【図-③】)
 
 生活道路のある北側から小さな沢状地形がある湾曲部(【図-④】)では、水路利用を兼ねた4段の小堰堤がありました。一帯は、礫岩です。北側に高さ15mの安山岩の崖がありました。
 南側に延びる川筋(【図-⑤】)では、軽石と緑色凝灰岩礫が入る礫岩層が見られました。
 東側に川が開けた川底は、青味がかる安山岩礫(最大直径は、15cmほど)の礫岩層の連続露頭が、50mほど続いていました。そして、霞ヶ沢との合流点(【図-⑥】)を迎えました。

 香坂川本流を遡ると、無名沢との合流点に至りました。東側に、上流の橋と左岸側の崖露頭が見えます。高さ8mほどの崖は、下半分が礫岩層で、上半分が中粒砂岩層でした。(2012年8月16日の観察)この辺りまでは、礫岩層が見られるようです。また、合流点から少し沢に入って、南沢林道の沢と同じ亜炭の転石も見られたので、礫岩層は無名沢にも延びていそうです。
 合流点から無名沢に入り、標高870m二股までの間(【図-⑦】)では、礫岩層が見られました。礫種は、黒色安山岩、青味がかる安山岩、緑色凝灰岩の3タイプありました。

 この少し上流では、さらに安山岩礫の量が増え、礫岩が造瀑層となる滑滝が続きました。偶然にも、礫岩層の断面露頭が左岸側にあり、【写真】のような角がとれた円礫ではあるものの、分級が悪く乱雑な堆積をした礫岩層の産状が見てとれました。
 特に、ハンマーを載せた細長い礫に注目すると、堆積した時の水平面(堆積面)は、右上から左下へと分布する凝灰岩(基質にもなっている)の多い面で、大きな礫は、この面と調和的です。しかし、周囲の少し小さな礫は、斜めや垂直に堆積していることがわかります。流水で、少しずつ時間をかけて運搬されたというより、岩石雪崩のように一気に堆積したことを物語る産状です。

香坂礫岩層の正体(断面)

 

 標高895m付近(【図-⑧】)では、右岸の尾根側に高さ3.1mの露頭が幅10mに渡って現れました。
下位から、(ア)細かな葉理が顕著な、暗灰色の凝灰岩層
(2m)、(イ)ほぼ同質だが、半分に分かれる軽石入りの灰白色(風化は黄土色)の凝灰岩層(0.3mずつ2層)、(ウ)主に安山岩の巨礫(岩塊)(0.5m)の順に重なっていて、これらが、オーバーハング状態でした。(ア)と(イ)の凝灰岩層の境界で、N50°~70°W・10°Nの走向・傾斜でした。
 (ウ)の安山岩の巨礫は、香坂川(【図-①】)と同様に考えることはできません。全体が崩れて、周囲には表土も入っているので、現世(新しい時代)の山砂利(巨礫)の類が表土と共に崩れたものと考えました。      
 それで、この露頭を境に、『香坂礫岩層』の粗粒岩の特徴が無くなり、凝灰岩層が卓越していくようになります。つまり、【図-⑦】(標高880m付近)と【図-⑧】(標高895m付近)の間に境があることになりますが、明確な場所は不明です。

軽石入り凝灰岩層と現世の巨礫



                                          - 42 -

 標高900m付近から緑色凝灰岩(green tuff)が見られるようになりました。濡れると青緑色を帯びるのが特徴で、小さな滑滝を形成しています。標高905m付近(【図-⑨】)では、軽石の入る緑色凝灰岩になりました。緑色凝灰岩露頭では、流水と中に閉じこめられた石による浸食・甌穴(pot hole)が見られました。 
 標高910m(【図-⑩】)では、含まれていた軽石が無くなり、火山灰だけとなりました。水に濡れていない陸上露頭は、帯青の灰色に見えます。地形の傾斜が緩くなって、川が蛇行し、火山灰粒子が付着して、転石や木の葉までが青緑色をしていました。部分的に緑色凝灰岩が、砂質に見えるのは、火山堆積物分類の火山礫(lapilli 直径4㎜~32㎜)が多い部分のようです。
 
 標高920m(【図-⑪】)で、湯沢林道の直下になる二股にぶつかりました。ここは、火山礫(lapilli) を多量に含んだ堅い凝灰岩で、暗灰色をしています。ただし、割って中を確かめないと、表面は異常に白色をしています。浸食された火山灰が表面に付着した後で乾いたと思われます。ちなみに、安山岩の転石も灰白色をしていて、「石灰岩?」と間違えるほどです。
 本流は左股で、2段の滝があり落差は、合わせて15mはありそうです。右股は、水量が少なく、林道まで急傾斜です。(志賀川の「姥ヶ滝」のパターンに似ています。ちなみに、林道の上流にコンクリート製の治山事業谷止め(平成9年)があるのも同じでした。)
 右股を選び、左岸の尾根を高巻いて、標高930~935mにある「湯沢林道」に出ました。

凝灰岩が造瀑層となる滝(920m二股)

右股を行く(左岸の尾根を高巻く)

 林道の南側も、滝と同質の堅い凝灰岩層でした。また、林道沿いに、本流の谷底を見ると、こちらも同質の火山礫の多い暗灰色凝灰岩層のようでした。(【図-⑫】)
 標高980m付近(【図-⑬】)で、湯沢林道の湾曲部となります。この付近では、火山礫は含むものの緑色凝灰岩層でした。【図-⑪】地点の凝灰岩より、さらに堅いですが、右岸側は平成6年工事で崩壊防止ネットが張られていました。

 標高985m付近(【図-⑭】)から沢に入ると、安山岩の巨礫入りの凝灰岩が、小滝と滑滝(合わせて幅15m)を形成していました。
 標高1025m付近(【図-⑮】)で、香坂林道と交叉します。林道工事で沢の合流点を変えたのか、林道のすぐ上流(南側)に二股があります。大水の時、すぐにダム湖になってしまわないか心配しました。
 沢は露頭がないので、左岸(西側)の雑木林の斜面を進み、沢が急に狭く傾斜が急になる標高1040~1050m付近(【図-⑯】)で、安山岩質溶岩の露頭を見つけました。
ガラス質で真黒な溶岩です。有色鉱物の針状結晶が見られました。文献から、「寄石山溶岩(よせいしやま・ようがん)」と解釈しました。ちなみに、沢水に根が洗われ、倒れてしまいそうな栃(トチ)の大木が2本ありました。(1050mASL) 

 帰路は、湯沢林道を使って下山し、【図-⑦】付近で合流する枝沢の様子を観察しましたが、露頭はありませんでした。最後に「辰巳神社」を経由して、スタートの「片替橋」に戻りました。

                                     - 43 -

 

   編集後記

 「佐久の地質調査物語」シリーズは、(1)山中地域白亜系、(2)内山層、(3)香坂層などで構成されています。地質調査の基礎データを残したいという目的から、ルートマップや踏査の様子を載せています。区別が付くように、200番台が、香坂層などのシリーズです。

 今回は、香坂礫岩層から香坂層へと観察していきました。次回は、特異な「香坂礫岩層の分布」についてまとめます。

 はてなブログでは、かろうじて毎月の俳句で続いてきましたが、長く中断していた地質の話題も載せていきたいと思います。 (おとんとろ)