北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和4年 10月の俳句

 【神無月の句】

① 五十年(いそとせ)を 過ぎし祝いに しむ身かな 

② 摘み菜の お浸し供え 朝の膳

③ 林檎の香 歩調緩まる ウォーキング

               (晩秋の出来事)

 

 10月の俳句会では、佐久市民総合文化祭(今年は11月5日~6日の週休日)に出品する「俳画を添えた俳句」を準備するのが恒例となっている。
 文化祭は、コロナ禍による感染防止対策で、今年も会場を分散させ、分野別に開催する。ちなみに、舞台発表を伴うジャンル等は、来春に延期されている。
 俳句の題材や季語選びのヒントがないかと捜すのは毎回のことながら、今月は、既にひとつは決まっていた。高校卒業50周年記念行事があり、これに決定!
残り二題は、今まで選んだことのない季語を俳句歳時記から捜し、自分の体験と重ね、それらを俳句に詠んでみた。

 

 【俳句-①】は、私たちが高校を卒業してから50年、年齢では69歳を迎える秋に、『高校卒業50周年記念行事、及び懇談会』が開催されることを受け、青春の日々から社会人・職業人としての生活を経て、今日まで何んとか無事に人生を辿ってくることができたことに、感慨深さを覚えて詠んでみた。
「身に入(し)む」が秋の季語で、それを「しむ身かな」と倒置した。

 私は実は、この俳句を、当初、10月の俳句会に下記のように提出していた。
  卒業の 五十年過ぎし しむ身かな
 Sさんの『もしかして、「卒業」って、春の季語になっていないか?』との指摘で、調べてみるとピンポーンである。私は、「卒業式」とか「入学式」は、季語だと理解していたが、「卒業」自体が季語とは、驚きや不満と言うよりは「俳句とは制約のある言葉の中から選ぶ創作なのだ」と観念した。俳句を始めた頃とは大きく違う、ひとつの悟りである。
 それで、「卒業」を外してみたのだが、解釈する人によっては、結婚後50年を迎えた金婚式のことを詠んだ俳句かと思われてしまうかもしれない。

 ところで、式典は10月29日(土)に開催されたので、句会に提出した時は、当日の様子を想像していた背景もある。
 思えば16歳から18歳の高校生活3年間は、少しばかり波瀾もあり、そして悩み多いものの、基本的には、親の庇護の下、大らかに屈託無く過ごして卒業した。それから、半世紀が経った。卒業後、人に自慢できたり、誇れたりするような業績を挙げた訳ではない反面、空しく、そんなに悲しく惨めな生活を送ってきた訳でもない。まあ、平凡であったのだろう。そんな歩みの中でも、嬉しいこと有り、悔しいこと有り、失敗して落ち込んだことも有りながら、生きてきた。
 一方、多くの同窓生が亡くなっていた。ぜひ会って、放課後の体育館でバスケをしたこと、冬の夜道を20km歩行したこと、山や海のキャンプで飲んで騒いだこと、ボクシング練習をしたこと、マラソン大会・体育祭や文化祭・合唱大会で頑張ったこと等、追想して語りたかった友も、その中にいた。

            * * * *

校章(日輪と山桜)

 私は、卒業50周年記念行事の実行委員のひとりとして、1年半ほど前から、準備会に参加してきて、ついに、今月1日に実行決断の時を迎えました。それは、残念なことに、新型コロナ・ウイルス感染症(COVID-19)の影響で、私たちより1~3つ上の学年の卒業生は、記念行事ができなかったからです。
 ・・・・(当時の)国立大学の授業料が3倍になったこと、年金の受給年齢が突然変更になったこと、団塊の世代に続く私たちですが、世の中の動きのいくつかの境目を経験してきました。それが、コロナ禍の中で、記念行事ができる境目になれたことは、幸運だと感謝しています。
 これからの人生も、心身共に健康であることに留意して、そして希望と生き甲斐をもって歩んでいける為に、今回の記念行事がひとつの機会となり、仲間への貢献ができればいいなと思っています。


 【俳句-②】は、10月12日の父の命日に、畑で間引きしてきた葉野菜を「お浸し」にして、お仏壇に供えたことを詠んでみました。『摘(つま)み菜』が、秋の季語です。
 ちょうどこの時期、白菜・大根・野沢菜・小松菜・ほうれん草・人参などが畑で育っていて、昨夕に畑で間引いた野菜を使って、朝飯の味噌汁の具にしたり、お浸しにしていただいています。野菜を水を張った容器に入れて一晩置いておくので、新鮮そのものです。まあ、田舎ならではの贅沢のひとつです。
 ちなみに我が家では、小学生より早寝をしている私が、妻より早く起きてきて、朝飯作りをしています。
妻が怠け者と言う訳ではなく、私が「具だくさんの味噌汁」が好きで自作するのが、趣味のひとつだからです。
 妻は1時間ぐらい遅く起きてきますが、毎朝、仏壇に緑茶と線香を供えています。両親が既に亡くなっていることも関係しています。私は、気の向いた時や命日のような特別の日にお参りするだけです。
 ちょうどこの日は、父の命日で、特別老人ホームに入所した母と面会してきたことを報告しました。
 私など、あまり信心深くなくていけませんが、妻の毎朝の勤行には感心します。
そう言えば、祖母のことも思い出されます。足腰が立たなくなってからも、庭に連れ出してもらい、芝生の雑草を取りながら、伽藍の屋根しか見えない薬師堂に向かい、祈っていました。私が、『何をお祈りしているの?』と尋ねると、祖母は、『皆の健康と幸せを祈っている』と、返事が返ってきました。
 祖母は、大東亜戦争終結から、4ヶ月後に長男(父の兄)を戦病死させています。人の死は、人を信心深くさせ、敬虔な祈りのできるように導いているのかも知れません。
 幸運にも、「肺癌の5年生存率20%」と言われた私が、手術後5年以上無事に生きてこられたのも、祖母や妻の信心によるご加護を受けているからかもしれないなあとも思います。

             *  *  *  *

 余談ながら、畑は白菜・大根などを収穫した後、越冬する「下仁田葱・松本一本葱・玉葱・冬菜(菜の花)・京葱・ニラ」などを残し、「冬ぶち」と呼ばれる枯れ葉・刻んだ稲藁を入れて耕作する作業が行われることになります。

数少なくなった「櫨掛け(はぜかけ)米」



 【俳句-③】は、晩秋の散歩道を歩いていると、水田地帯の一画に「林檎畑」があり、実った林檎の甘酸っぱい独特な香りが漂い、思わず深呼吸して匂いを嗅ぐので、歩くテンポが遅くなり、歩行速度も急低下してしまうことを詠みました。 「林檎の香」が秋の季語です。句会への提出時は、「林檎香に・・・」としていましたが、一般的な表現の方がわかりやすいとのアドバイスをいただいたので、「林檎の香」と直しました。
 下五句「ウォーキング」は、少し迷いました。「散歩道」や「信濃路は」も候補でしたが、今や健康志向から、強歩(速歩)も含め、散歩よりも「ウォーキング」という言い方が一般的になっています。
 それに、佐久地方の林檎畑は、善光寺平(長野市など)のアップル・ラインや飯田市の林檎並木のように集中している訳ではありません。
 日当たりの良い山稜にあり、水田の中にあるのは例外的な存在です。
それで、「ウォーキング」を採用しました。
 ところで、佐久地方では、年配者を中心に、『ポール・ウォーキング』なる散歩が盛んで、その普及団体もあります。地面に接する部分は異なりますが、基本、スキーのストックを両手で持ち、足腰への負担の少ない状態で歩きます。山道や坂道にも安定感が出て、愛好している人もいます。転ばぬ先の杖よりは、より積極的に歩く為の物のようです。
 調べていたら、『ノルデック・ウォーキング』なる速歩、場合によっては競技に活用されている手段もあることを知りました。こちらは、距離競技スキー(ノルデック競技)よろしく、脚力に腕力も駆動手段として利用して、より速く歩く為にストックを使っています。
 かつて、中学生の「コンバインド(ジャンプとノルデック・スキーの2種目)」選手の付き添いで、練習や大会に同行したことがありますが、私は、ジャンプは無理ですが、ノルデック・スキーは購入して、やったことがあります。マラソン・ランニングでも、腕の振りは大切です。距離スキー競技では、両腕による推進力は、更に大切だと体感しました。がんばり過ぎると、腕の方が先に疲れてしまいます。まさに、全身運動です。
 もう少し、年を重ねてきたら、私が選択するのは『ポール・ウォーキング』の方でしょう。そんな頃になっても、林檎畑の脇を通過する時は、林檎の香を楽しめたらいいなあと思いました。

散歩道添いの林檎園

 

 【編集後記】
 

 佐久市民総合文化祭の「俳句の部」に、私たち「前山みゆき会」も参加しました。
           【写真参照】

野沢会館(俳句の部)

 佐久市野沢会館と佐久市民創練センターの2会場とも盛況でした。私は、初日の午後、4時間ほどかけて両方の展示会場を回り、作品を見学しました。多くの方々が、幅広い分野に興味・関心を抱いて、日々研鑽されていることが伝わってきました。

 ちなみに、私の出品作は、今年の7月の【俳句―①】「五位鷺の残す静寂星涼し」と、8月の【俳句―③】「五郎兵衛の稲の香載せて雲走る」の二句でした。
一枚の色紙の下に、もう一枚を入れておき、2日目に取り替えました。

令和4年・文月の句

令和4年・葉月の句



 ところで、私は、玄関に四季折々の草花を生けたり、庭の片隅にワンカップのガラス瓶に野山の草花や枝を挿したりする、風流人の真似事をする趣味もあるので、毎年、そんな展示コーナーも欠かさず見学します。

 「生け花」の部門では、見たことも聞いたこともない珍しい花や、一方で素朴な素材で何を表現しているのだろう?と思わせる作品がありました。   
 例えば、【写真】のような作品です。連立天守閣の松本城本丸のようなイメージと共に、親子・夫婦・兄弟姉妹のような人間関係を連想させます。それでいて、自然現象の一部だと理解して、植物同士が醸し出す一体感を感じました。
蒲(がま)の穂の位置関係にも、興味がありました。斜めの角度や、その交叉するであろう位置についてもです。

生け花



  展示場の関係から、先に見学したのですが、FA(フラワー・アレンジメント)の部門では、素材のひとつひとつが、絵画を描く時の「絵筆の絵の具」やその「タッチ」のような意味合いを持っているように感じました。
 例えば、【写真―上】のように、背の高いガラス製のグラスの上に、草花が「弥次郎兵衛」のように水平に保たれていて、微妙なバランスで空中浮遊しているようにも見えます。素材の名前は知らないのですが、ミニトマトのような赤い果実が、無造作なのか意図的なのか配されていて、気になります。作者の意図を理解しようとすると、さらに興味も湧いてきました。

 【写真―下】は、使われている素材は、比較的、私が目にする草花ですが、題名のように、左側から秋風が吹き抜け、草木をなびかせています。やや人工的な印象は否めませんが、この空間全体が、ひとつの家族や集団(様々な人々の集まる共同体)を象徴していて、ひとつの刺激に対して、少しずつ違う対応はしていても、全体としては共通な方向へなびいているようです。
 他にも、印象的な作品が多くありました。

FA・HORIZONTAL

FA・秋風が吹く

※それぞれ、作者名を紹介しませんが、ご免なさい。許可を得る手段もないので、お許しください。

 その時、思い、今でも疑問に思っているのは、
『生け花とフラワーアレンジメントは、どこが違うのだろう?』と言うことです。

 それで、インターネット検索をしてみると、次のように解説されていました。 共に「花を飾る」という点では共通しているが、下記の点については、違いがみられる。(ア)生け花:空間を豊かに見せる(引き算の美学)(イ)フラワーアレンジメント:空間を埋める(足し算の美学)・・・と。
 生け花は、使用する草花の数はできるだけ少なくし、空間を豊かに見せるのが特徴である。一方、フラワーアレンジメントでは、ふんだんに花を使用し、空間を埋めるのが特徴である。そのため、生け花は「引き算の美学」に対して、フラワーアレンジメントは「足し算の美学」ともいわれている。

 また、芸術性と実用性という点に関しても違いがみられる。(ア)生け花:芸術性が高い、(イ)フラワーアレンジメント:実用性が高い
 生け花は芸術性が高い。なぜなら、花を美しく生けるだけでなく、飾る場所の空間美を表現する芸術であるからである。また、草花を活ける器にもこだわり、中には数十万円以上する高級な器が使われることもある。
 一方で、フラワーアレンジメントは、実用性が高い。飾る場所が限られる生け花に対し、フラワーアレンジメントは、場所や形に制限はない。そのため結婚式やお葬式の装飾、さらにはブーケやプレゼントなどにもすることができる。
 こんな解説を聞いて、少し納得してしまいましたが、いずれにしろ、どちらの作品を見ても、興味・関心を覚え、心豊かにさせていだきました。
 願わくは、コロナ禍が、終息して、従来のように、ひとつの会場に全ての分野や部門の作品が展示され、市民総合文化祭が盛況となることです。

 まだ、白菜・大根などの収穫は終えていませんが、葱の収穫と堆肥作りの為の落ち葉回収が済んで、一息ついているところです。昨日の雨で、庭も濡れているので、落ち葉掃きは午後にと思いつつ、久しぶりに「はてなブログ」に載せることができました。              (おとんとろ) (id:otontoro) 

 

令和4年9月の俳句

     【長月の句】

 

① 天高し すじ雲抜ける 銀ジェット
②  妻と待つ 月白(つきしろ)の山 静まれり 
③ フラ(HULA)踊る 揺れしなやかに 秋桜 

             《仲秋の風景三題》

 

 「黒ニンニク」を自家製している。越冬させる球根の定植を9月1日にした。農作業後に雨が降り出してきて、無事大仕事ができて良かったと思う長月の滑り出しではあったが、グローバルな世界では、様々な苦難に満ちていた。
 ひとつ目は、毎年のこととは言え、台風である。台風11号は、朝鮮半島が、台風14号は、九州地方、特に宮崎県に多大な被害をもたらした。そして、台風15号は、静岡県など東海地方で観測史上最大な24時間降水量を記録した。
 ふたつ目は、ロシア軍によるウクライナ領土への侵攻後、ウクライナ軍の反攻が始まった。焦ったロシアは、部分的動員制度を強いてきている。これに反対するデモがロシア国内で起き、若者の国外脱出も始まった。
 みっつ目は、英国エリザベス女王のご逝去(9月8日)である。(国葬は、9月14日)また、安倍晋三元総理の国葬(9月27日)も、多くの人々の献花があった一方で、追悼行事に反対を唱える人もいて、国内は清々しなかった。
 そんな中ではあったが、今月は、仲秋の風景を題材にしてみようと思った。


 【俳句-①】は、佐久平の上空をジェット旅客機が、すじ雲(巻雲)を擦り抜けて飛んでいく。天高く澄んだ秋晴れの空の様を詠んだものです。
 どこの航空会社のジェット旅客機なのかわからないが、佐久市上空を午後3時過ぎに、西北西から東南東へ、そして午後4時を少し過ぎて、逆ルートで、ジェット旅客機の定期便が飛行している。その日の天候で、高層雲や乱層雲に覆われてしまうと、ジェットエンジンの音だけは聞こえるが、航空機は雲に隠れてしまい見えない。
 この俳句の光景は、高い空にできる巻雲(すじ雲)の快晴の空を飛行する飛行機の姿が、はっきりと見えている。4時過ぎのジェット旅客機は、西日を受けて、ジュラルミンの機体が銀色に輝いて、鮮やかである。
(特に、同じ4時頃でも冬季は、辺りが薄暗くなっているのに、上空はまだ西日が当たってるので、さらに「銀ジェット」は眩い。)

赤い薔薇の花と飛行機雲 (ハイジ村にて)

 

 ところで、光と音の伝わる速度差から、音が聞こえてくる方向と実際に見える機影とがずれる現象も面白い。音の方向に機影が見つからなくて一生懸命に空を捜す。思わぬ所で飛行機を見つけて驚くが、慣れてくると、音の方向より視線を先に移して、すぐに見つけることができるようになるものだ。
 今(秋)は、農作業中や時々の機会に遭遇するだけだが、冬季は、この時間帯が、ちょうど日課の散歩の時間になるので、ジェットエンジンの爆音が聞こえると、空を見上げて、銀色の機影を発見するのが楽しみとなる。百舌鳥(モズ)の高鳴きも聞こえてきたので、そんな時期も、もうだいぶ迫ってきている。

 

部分月食と街の灯 (令和2年12月)

【俳句-②】は、令和4年9月10日、仲秋の名月が東の山の端から上がってくるのを、妻と二人で待っていた時の厳かな気持ちを詠んだものです。
 9月10日の月齢は、13.8日でした。
9月11日の月齢は14.8で、満月(十五夜)に近い気がしますが、月齢は、その日の正午(12:00)時点で計算しているので、夜には寧ろ満月を過ぎてしまいます。
 ちょうど、18:59(ほぼ午後7時)に満月となって、月面の100%が太陽光を反射して輝いているとの情報でした。
 当日、俳句の描写のように、午後6時少し前に、外に出て月の出を待ちました。しかし、上空は晴れているものの、山の端には群雲が懸かっていました。

 それで、現実の行動は、先に夕飯を済ませ、その後で再び空を眺めました。東南東の空に、仲秋の名月(満月)が、煌々と輝いていました。
 ところで、「月白(つきしろ)」の山が秋の季語で、これをぜひ使ってみようと思いました。月白とは、月の出前の空が少し明るくなる光景のことですが、そわそわとして、一瞬の月の出を待つ期待感・緊張感と共に、少し冷静になれば、大自然の厳かな雰囲気が伝わる表現だと感得しました。
   現代では太陰暦による日付利用はなくなりましたが、その時々の出来事と心境で、
いつまでも記憶に残っている月の形や色・輝きがあります。この名月も、重陽節句の翌日のことで、思い出に残りそうです。

皆既月食(平成23年12/10)

コスモス(秋桜)と秋の雲

 

 

 【俳句-③】は、コスモスの花を見ていると、なぜか微風にも揺れているが、細身の葉や茎は高層ビルの耐震構造のように、強風に対しても、したたかでもある。また、群れて咲いていることが多く、少し見方を変えてみれば、多くの女性が「フラダンス」をしているようにも感じられて、詠んでみた。

 ちなみに、私たちは、フラダンスと言うが、ハワイの言葉で「HULA」は、「踊り」という意味だそうで、「フラ」だけで「ダンス」はいらない。また、日本の神社で春や秋に行なわれる「神楽の舞い」と同様に、「フラ」は、神に捧げる舞いという側面もあるようだ。
 俳句会に提出する前に、この俳句を妻に紹介したら、『フラダンスを踊っている女性を眺めている、少しいやらしい男性目線のようだわ』と来た。それで、「フラ」は「神楽舞」の一種の神聖なものだと説明しておいた。

秩序ある小宇宙・コスモス(秋桜

 ところで、寧ろ私は、「コスモス(COSMOS)」という花の名称が気に入っている。コスモスとは、カオス(混沌)に対する秩序ある宇宙(Universe)のことだ。
コスモスの8枚の花弁と中央の「雄しべ・雌しべ」の配列を見ていると、実に良いバランスだと感じ、まさに小宇宙を連想する。だから、多くは人為的に植えた結果だが、コスモスが群生している様を見ると、ひとつひとつの花が、銀河で、それらが集まった大宇宙を構成しているようにさえ思えてくる。


『コスモスの 揺れしなやかに フラ踊る』
  みゆき会の俳句会に最初に提出したのは、上のようであったが、先輩諸氏が、『上の句と下の句を逆にした方が良い』と、アドバイスしてくれた。それで、倒置した格好になったのだが、下の句に「コスモス」では4文字となってしまう。
 そこで、さらにコスモスを和名「秋桜(あきざくら)」としてみた。これで、どうやら、格好が付き、秩序ができた。

HULA 踊る(インターネットから)

【編集後記】 令和4年10月15日(はてなブログ

 編集後記とするように、俳句を創作して「みゆき会」の句会に発表する時点で、ここに語るような気持ちやエピソードの構想は既にあるのだが、実際に文章にまとめようとすると、時間がかかり、しかも日常生活の雑事や予定もあって、ついつい1ヶ月くらい遅れてしまう。宣言した地学関係の話題にも手をつけてなくて、心苦しい。
 何はさておき、進行する時間軸に追いついた感があり、ひと安心である。
 実は、この「ようやく追いついた」という感覚は、私の特性のひとつなのかもしれないと思う。現在の生活でも、懸案の課題を気に懸けつつ、先延ばしをしていて、ある時、まとめて一気にやり遂げて、安堵する瞬間が数多くある。
 思えば、『高校生時代の数学の授業時間』の思い出にも重なる。
 今月末の10月29日(土)には、高校卒業50周年記念行事があり、クラス代表幹事として出席するつもりなので、高校生の頃のことを思い出したのだろう。
 私は、高校3年で理系を選択し、大学でも同様に理類だったが、日本史とか古典とか、進学後は、心理学・考古学などのジャンルにも興味があった。社会人になってから、高校数学Ⅰ~ⅡB~Ⅲの数学の教科書を読み返したこともあるが、今は全く開くことはないものの、数学への興味は今も大いにある。

            *    *    *

 高校生の頃は数学が大好きで、大学受験には数学が得点源となり、私の取り柄だったのかもしれない。ところが、高校時代は、授業についていけずに、悲惨で悩ましい日々を送っていた。
 高校1年の秋頃までは、予習・復習もして、しかも、「Z会」の数学通信講座にも入って、時折、名前が載ることもあるぐらい順調であったが、運動部の「班活」に入ってから、自宅学習をあまりしなくなってしまい、特に、数ⅡBになると、進度が速くてついていけなくなった。
 それで、K先生が丁寧に説明してくれている授業中も、自分が理解し納得するまで自習していたので、いつも1~2週間前の単元に取り組んでいた。しかし、中間テストや期末テストでは、範囲が示されるので、それまでには何んとかして追いついて、テスト数日前には、「ようやく追いついた」という体験を何度かした。懐かしい思い出だが、いつもはらはらしていた。

彩色の花器

 ところで、10月に入ると、急に夏野菜の収穫量が減り、農作業も一段落という状態となってきた。
 そんな折り、かつて同じ職場にいて、退職後はさらに本格的に陶芸をされているI氏から、作品展示会の案内をいただいた。
 それで、かつて通った峠道や懐かしい面影が残る街並みにも感激しながら、妻と二人で会場まで遠出してきた。それ以上に、I氏の益々腕前を上げ、情熱的に作品を追究する姿勢に学ばせていただきました。
 そして、気に入った作品があったので、購入させてもらいました。
独特な色合いで、雪洞(ぼんぼり)のような形なので、花は生けないでそのまま飾ることにしました。(おとんとろ)



 

令和4年8月の俳句

      【葉月の句】

 

① 乳房雲 列島荒れて 盆送る

② 寝そべれば 蕎麦の花揺れ 孤雲去る

③ 五郎兵衛の 稲の香載せて 雲走る【秋の雲・三題】 

 

 例年になく暑い日が続いた8月の日本列島であったが、同時に、東北の日本海側や北陸地方では、一足早く「秋霖」を迎えたかのような気圧配置となって長雨が続いた。朝鮮半島から日本海を経て東北地方へと延びた停滞前線に雨雲の帯が連なった。
 世界に目を転ずると、発生時期は前後するが、欧州では熱波に襲われ、森林火災が頻発した。中国華南地方では河川や湖の水が干上がり、農業被害も出ている。その一方で、パキスタンでは国土の3分の1が水没するほどの大洪水が発生した。 気象科学的に見れば、それぞれ理由があって説明できた自然現象ではあるが、全く雨の降らない所と、まったく逆の降り過ぎる所が生ずるのは、非常に不経済的で理不尽な現象である。これも、地球的規模の異常気象現象なのだろうか。
 今月は、詳しくは後述するが、『秋の雲』を季語(季題)とするNHK俳句に刺激されて、季語は外のものではあるが秋の雲を題材にしてみることにした。


 【俳句-①】は、今年の盂蘭盆会の「送り火」を見ながら詠んだものである。佐久地方では、夕方18時頃から小雨が降り始めた。「迎え盆(8/13)」は、なるべく早く先祖の霊を迎え、「送り盆(8/16)」は、別れを惜しむようにゆっくりと暗くなってからというのが慣例だが、本降りになる前に、皆を急がせて藁束に火を点け、線香を焚いた。

乳房雲(2022年8月16日・佐久市にて撮影)

 そう言えば午後、乳房雲(Mammatus)を見た。前線や低気圧の影響で激しい風雨となる前兆の雲のひとつとして知られている。天気図を見ると、朝鮮半島から日本列島の日本海側、オホーツク海に前線が延び、雨雲レーダーでは線上降水帯が、みごとに発生していた。
 幸い、佐久地方では、この程度の雨で済んでいるが、日本各地での送り盆は、どうなっているのだろうか?
 きっと、家の外に出ることも出来ないくらいの激しい雨が降っている所が多く、
ご先祖様の精霊を送ることなく過ごしていたのではないかと思った。
 もとより、先祖の霊が、稲藁や麦藁を炊いた煙に乗って、天界と地上とを行き来するという伝統的な感性(意識)は、非科学的な発想には違いないが、日本の多くの人々が、送り火を炊くことができずに、残念無念な思いをしただろうなと思うと、悲しくなった。
 さらに、お盆の4日間だけ、奉公先から故郷への帰省が許された時代、送り盆の訪れは、今以上に哀しみを深めただろうなと察する。

 

 

 余談ながら、8月15日は、大東亜戦争終結を発表した日として、日本人にとっても大切な日ですが、佐久に住む人々にとっては特別な思い入れがある日です。野沢・中込商店街や佐久の企業の協賛で、「佐久・千曲川花火大会」が挙行されます。
 コロナ禍の為、2年間中止され、3年振りに開催できました。私は、自宅から家族と眺めることができました。まさに、夏の風物詩として欠かすことの出来ない伝統行事ともなっているのです。改めて、打ち上げ花火の素晴らしさを称え、終戦記念日の夜の意義を感じました。
 ちなみに、当夜は各地で花火大会がありますが、県内では、諏訪湖の花火が有名です。

 

 【俳句-②】は、山奥の蕎麦畑へ生育の様子を見に行って、畑の脇で草を枕に寝そべった時、目に入った風景を詠んだものです。鮮やかな畑一面の白い花や、草生きれのする真夏の蕎麦畑と違い、草花の勢いが温和しく感じられ、涼やかに蕎麦の花が揺れていました。そして、空も夏の雲から秋へと変わり、高積雲から、ひとつの塊が静かに離れていきました。そんな印象的な、蕎麦畑での草枕風景を思い出した俳句です。

蕎麦の花

 今から23年ほど前、「M少年自然の家」という県の施設で働いていたことがありました。
その折、『青空そば大学』と銘打った主催事業を計画し、①種蒔き~②除草・土寄せ~③収穫~④脱穀~⑤そば打ちを体験してもらいました。(子ども連れ参加もありましたが、年配者も多かったです。)参加者は、土曜日の昼前に入所し、夕食の後で、専門家から蕎麦に関する講義や夜のイベント参加等があります。日曜日の昼食後に退所するという日程でした。農作業もしますが、体験程度なので、実際のお膳立ては、所員が担当しました。
 蕎麦の若葉が出てきた頃、ニホンジカの食害に合いました。カセット・テープレコーダーに「人の話し声や歌」のエンドレス・テープを入れ、一晩中、流しておき、朝夕に点検しました。除草・土寄せと言っても一回という訳にもいかず、私たち所員が炎天下に汗水を流して取り組みました。収穫後の天日干し管理も、私たちで、脱穀は精米所に持って行きました。ビニル制シートの上で干して回収した蕎麦の実から、殻を取り除いて蕎麦粉にすると、悲しくなる程、量が少なくなってしまいます。その収量の少なさに驚くと共に、稲作が蕎麦作りより何十倍も効率の良いことを体験して知りました。
 ・・・そんな、裏話のひとつとして、収穫前の蕎麦畑の様子を点検に行き、「まだ、蕎麦の花が枯れずに付いている」と、花の揺れる光景や、寝ころんで見上げた孤雲の青空を覚えていて、懐かしみました。

蕎麦の実

            * * * *

 ところで、メインイベントは、何んと言っても蕎麦打ちで、自分で(種蒔き・収穫した蕎麦粉から)打った蕎麦を食べることです。
これは、参加者のみならず、私たち所員も同感で、最終回となるこの日は格別でした。

 そして、『青空そば大学』ですから、講義や体験等の単位が認められ卒業証書が授与されます。さらに、「年越し蕎麦」用に蕎麦粉3㎏が、お土産として贈与され、参加者は、きっと満足して帰宅されて行ったことと思います。
 私も子どもの頃、「お餅」や「手打ちうどん」を祖母や母が伸すのは見ていましたが、「蕎麦打ち」体験は初めてでした。私も、残った蕎麦粉を所(少年の家)からいただいてきたので、その年の「年越し蕎麦」を、家内の協力を得ながらも、自力で作ってみました。
 『蕎麦粉だけでは切れてしまうので、伸し粉を何割か入れます』とか、『出来上がりの蕎麦の硬さは、茹で方で決まるのでは無く、練った時の硬さで決まる』などと講釈しながら、伸した蕎麦粉を包丁で切断した。大鍋で2回茹でて、少しは成功に近い方を、家内の弟の所へ届け、残りの方を我が家の年越し蕎麦としていただきました。
 結果は、蕎麦というより太いうどん、生茹でではないが少し違和感がある。濃いめの汁に葱と山葵をたくさん入れて食したが、気持ちで満足はしたが、そう美味くはなかった。
 まあ、古典落語の『そばの殿様』のようにならなくて良かったというべきところだろうか。
 翌年も、青空そば大学は継続したが、年越し蕎麦は止めた。何しろ、年末から年越しまでの準備は他にもいろいろあって手が回らなかった。
 そして、3年目は、募集定員に満たず、主催事業を止めることとなった。

盛りそば(イラスト)

 

 【俳句-③】は、風に揺れる稲穂の香りが空高く上り、雲と一緒に流れて行くかのような気がして、俳句にしてみた。
 ただし、厳密に言うと、佐久地方の8月の稲穂は、まだいくぶん青味がかり、種子を潰してみれば、将来の米になる胚乳の部分は、まだ液体状態である。実りの秋のイメージは、もう1ヶ月ほどして、稲穂が黄色くなって、穂先を垂れるようになってからかもしれない。もっとも、俳句の世界では、8月はもう秋なのである。
 浅間山を背に、佐久平に稲穂の波が続く。
生産された米は、JA佐久浅間農協を通じて「佐久米」の名称で出荷され、流通・販売経路に乗る。極めてわずかだが、我が家の水田で取れた米も佐久米だ。
 しかし、敢えて佐久市浅科地域で『五郎兵衛米』のブランド名で販売している米に因んで、名前をお借りした。
 『五郎兵衛』とは、江戸時代の始めに新田開発をした市川五郎兵衛(上野国甘楽郡羽沢村・現「南牧村」の生まれ)に由来している。水利が悪く、荒れ地であった土地に、蓼科山山腹の標高1900m付近の湧き水を引き、新田を開発した。
 江戸時代の佐久地方での新田開発は、五郎兵衛新田(市川五郎兵衛)の他に、「八重原新田(黒沢嘉兵衛)」・「御影新田(柏木小右衛門)」・「塩沢新田(六川長三郎)」の4新田が知られている。いずれも、多大な労力と出費などと共に、忍耐強く取り組み人々を統率したリーダーの存在も大きい。

稲穂が頭を垂れ始める

                           *  *  *  *

 ところで、冒頭で予告しましたが、今月は、季語は別々でも、秋の雲を詠んでみたいと思いました。
 ①盆送る→乳房雲(乱層雲の類)
 ②蕎麦の花→孤雲(高積雲)
 ③稲の香→雲走る(絹雲・巻雲)
季語と登場した雲の関係は、上記のようだが、それは、「秋の雲」を詠んだ代表的な句として、次の俳句が紹介され感動したからだ。
『ねばりなき 空にはしるや 秋の雲』 (丈草)
 内藤 丈草(じょうそう、寛文2年~元禄17年・現在の犬山市出身)は、江戸時代の俳人で、松尾芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人となったと言う。
 秋の空を詠んだ俳句で、「粘り無き」と「走る」が気に入ってしまった。とりわけ、「走る」に魅了され、【第三句】の『雲走る』とした。
 どこか、盗作をしたような気持ちもあるが、実際、秋の絹雲は、箒で掃いたような筋が、清掃の余韻のように見えて、清々しい。それで、採用してみました。

 

野辺山高原(令和4年9月11日撮影)

 

 

【編集後記】

 今日は「秋分の日」(9月23日)で、お彼岸の「お中日」です。
 恒例の同族(同じ名字の方々)会で、共同墓地の清掃と墓参をする日でしたが、生憎の雨降りです。ご高齢の参加者も多くなって、ぬかる参道が大変だろうし、今年もコロナ禍の為に懇親会は中止となっているので、全ての活動を中止することになりました。とても残念ですが、懸案だった「はてなブログ」を挙げられる時間もできたので、頑張ろうと決めました。

 さて、本文(第3句)の中に出てきた「五郎兵衛米(ごろべえまい)」の生産地である「五郎兵衛新田」について、話を少し膨らませます。
 平成17年の夏休み、8月5日に、『五郎兵衛用水を歩く会(第13回)』に参加したことがあります。講師は、斉藤洋一(五郎兵衛記念館学芸員)先生と、山浦清利(五郎兵衛用水理事長)先生でした。(いずれも、当時の役職名です。) 中型バスで、いくつかの拠点へ移動し、付近を歩いて回り、約20カ所の観察場所を巡りました。【図を参照/場所の説明は数字に○の地点】
 解説を聞いたり、現地のスケッチをしたりした内容は残っていましたが、記録写真は見つかりません。代表的な地点について、報告します。

 

(1)佐久の4つの新田開発の中でも、一番大変だった「五郎兵衛新田用水」
 蓼科山山稜の湧き水を細小路川に落とし、鹿曲川との合流点付近で取水した。
【図-⑳地点】それから「掘り抜き」や「掛け樋」、等高線に沿った水路を経て、貴重な水を引いてきた。その距離が長いことと、掘削などの工事が困難であった。

 

(2)水が到達しても大変な工程が残されていた。
 矢嶋・上原・中原・下原などの地名があるが、全体に水を配する為に、用水は一番高い地点【図-①】を通している。地形の高低を無視して用水の高さを一定に保つため、「つちせぎ・土樋」を築いた。盛り土の高さもまちまちであった。特に、漏水していまうので、様々な工夫をしたり、崩れるのでメンテナンスも大変だった。コンクリート製の水路が完成した最近まで、江戸時代から延々と人々は補修工事を毎年続けてきたと言う。

 

(3)市川五郎兵衛真親(いちかわ・ごろべえ・さねちか)の墓【図-⑤】
 94歳で亡くなった五郎兵衛は、出身地の甘楽郡羽沢村・現在の群馬県南牧村(なんもくむら)に埋葬された。浅科の墓は、没後100周年記念で作られた。地域の人々は、戒名から『圓心(えんしん)』様と呼んでいる。

 

(4)江戸初期から優れた土木技術が使われていた。
 入布施の【図-⑮】には、「掛け樋」跡がある。用水は、布施川の上を通過しなければならないからである。耐久性の無い木製の樋なので、どうなるかは自明である。ちなみに、現在は、「サイフォンの原理」で、川の下をパイプを通して水を渡している。
 【図-⑤】~【図-⑮】の用水路の形を見ると、等高線に沿っていることがわかる。水平を保つには高度な土木技術が必要で、他の用水(例えば多摩西部から江戸への飲料水供給の玉川上水など)でも高度な土木・建築技術があったことが知られている。

 

(5)高度な技術を学ぼうとして、悲劇が起きた。
 【図-⑱】の「片倉隧道」~【図-⑯】の「矢田尻跡」まで、隧道(トンネル)が掘られ、用水は地下を流れた。
(参考:現代のトンネル工事では、鞍部は選ばないと言うが、当時(江戸時代)は、掘る距離が一番短くなるルートを選んだと思われる。また、正確に言うと、現在の用水路および隧道の位置は、江戸期のものとは少しずれている。)
 昭和12年11月27日、「御牧ヶ原修練農場」の訓練生が、研修の為に、ここ片倉隧道を訪れ、穴口から中に入った。穴の中で先頭が転倒して、8名が窒息死するという悲劇が起きた。 その慰霊碑が、【図-⑰】にあった。
(古老の話によれば、片倉隧道に人が入れたと言うが、(少し場所は移動したが)今は鉄格子があって入れない。ちなみに、隧道の上下から掘り進んだわけだが、中央部では、左右or上下に少しずれていたという2説が伝わっている。)


 かなり久し振りに、はてなブログが挙げられて満足です。忙しかったのも事実ですが、少しサボっていました。   (おとんとろ)
 

令和4年7月の句

【文月の句】

①  五位鷺の 残す静寂 星涼し

②  池跨ぐ 経路謎めく 蜘蛛の糸

③  小さき手 掬いし金魚 五年経る 《また夏が来て》

 

 異常に短く早い梅雨明けの後、佐久市では、6月24日から7月2日までの9日間、日中の最高気温が30℃を越える猛暑が続いた。特に、6月29日には、佐久市の観測史上最高となる気温37.1℃(15:36pm)を記録した。
 その後は一転して曇りや雨降りの日が多くなり、途中、晴天日を夾みながら、「戻り梅雨」かと思われるような停滞前線が登場した。そんな経緯を経て、本格的な夏がやってきた。但し、暦の上や、俳句の季語の世界で、7月(文月)は、晩夏となるのだが、現実の天候では夏の真っ盛りである。
 7月の句会は、事情があって早めに開催したので、6月の句会から間が3週間も無くて、題材や季語を選ぶのも、一苦労であったが、『また夏が来て』というテーマにして俳句を創作してみた。


 【俳句-①】は、夏の夕暮れ時に、五位鷺里山から水田地帯へと餌を求めて渡って行く。その独特な鳴き声が去ると、急に静かになり、夜空に目をやると、星が涼しげに見えていたこと詠んだ。夏の代表的星座「サソリ座」は、まだ南東の空低く出始めた頃である。

五位鷺ゴイサギ

 【写真】は昼間の姿だが、ゴイサギは本来、夜行性で、夕暮れに飛んでいたので、私は正確な姿を見ていない。ただ、鳴き声だけは、印象深い。俗に「ヨガラス(夜烏)」とも言われているが、聞く時間帯の趣に関連してか、カラスの鳴き声より、もう少し哀愁を帯びて聞こえる。音量は大きくて良く響くので、飛び去った後は、その静寂さが余韻となる。同じく夏の風物詩「打ち上げ花火」の最後の爆裂音が終わった後の余韻と共通するものがある。

 蠍座が南の空高く上り、サソリの真っ赤な心臓(アンターレス星)は、まだしっかりと見えないが、夏の夕暮れを思う時、ゴイサギの鳴き声は、真っ先に思い浮かぶ光景のひとつである。

 しかし、実は近年、ゴイサギが鳴きながら飛んで行く光景を見ていない。私の高校生の頃までは、佐久平の夏の水田では普通に見られたのだが・・・・。青田の水田で鮒(フナ)を飼っている農家が多かったので、それを餌とするゴイサギが多かったようだ。その後の集約的農業大型機械化と共に、養殖鮒もいなくなり、今では、寧ろガン・カモ類やシラサギ(コサギ)が見られる。(ゴイサギは、絶滅した訳ではなく、場所を替えて棲息している。)

             *  *  *

 

 ところで、和名の「五位鷺」は、宮中での官位が付いている。調べてみると、『平家物語』に由来する。冒頭文、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。』と、高校の古典で暗唱したものだが、源平の戦いや無常観と関連がなさそうだが、醍醐天皇の権威を伝えるエピソードとして「朝敵揃の段」に、五位鷺に関する逸話が載せられている。

 要約すると、『醍醐天が神泉苑の池に鷺がいるのを見て、役人(六位の官)に捕まえるよう命じた。役人が、鷺に「陛下の命令である」と告げると、鷺は飛び立たなかったので、捕えることができた。醍醐天皇は、「命令に従い神妙である。五位の位を授ける」と、鷺に五位の官位を与え、鷺の首に札を掛け放してやった。』というものである。

 私は、ゴイサギの哀愁を帯びた鳴き声に感動して、醍醐天皇が官位を与えたのかと勝手に思いこんでいたが、「命令に従順で神妙である」と言うのであれば、専制君主プロパガンダのようで、すっかり興醒めしてしまう。

 

 

【俳句―②】は、池を東西に跨ぐようにして、クモが糸を張った。ちょうど「吊り橋」か「ロープ・ウェイ」のように繋ぐ。しかし、どういう過程を経て蜘蛛の糸を結び付けることができたのかは謎である。私は、しばらく佇み、考え込んでしまったことを詠んだ。
 我が家は、今年の秋で築103年目を迎えるが、敷地は明治~大正期に「染め物屋」をしていた方の跡地を買い取ったので、池がある。薬師堂の山からの湧き水を集めた小さなプール(3m×9mほど)のような池で、問題の蜘蛛の糸は、池の西端の鉄製の棒(50cm)の先端から、東端のマサキの下枝まで、張られていた。ちなみに、鉄製棒は、子どもの頃の私や近所の子が、池に落ちないようにと金網を張ってあった名残である。
 もし、西端が高い木の枝であれば、強い風の時に揺れながら、ターザンのようにして、蜘蛛が糸を利用して池を渡ることができるかもしれないが、低い鉄製棒からでは不可能である。そこで、私の出した結論は、蜘蛛は池の水の上を泳いで対岸に渡り、岸から上陸してマサキの下枝に登ったのではないかというものである。それ以外、考えられない。

 そう言えば、水面にミズスマシ(通称アメンボ)がいるかと思ったら、クモを目撃したことがあった。残念ながら、クモの糸や巣の作り方を観察したことはない。

 クモとの思い出は、ジョロウグモを捕まえて、自分の指に蜘蛛の糸を巻き付けてみたことぐらいである。蚕の吐き出す糸が1km以上になると、本で読んだことがあるが、蜘蛛の糸もずいぶん長い。巻いている指を締め付ける痛さが麻痺し、紫色になってきたので、止めたことがあった。(昔の子はすごい遊びをする。)
 翌日、その後どうなったのか見に行ったら、蜘蛛の糸は消えていた。自分で糸を回収したのか、風で切れてしまったのかは不明である。

四国・祖谷渓の「かずら橋」


   

                                 *  *  * 

 ところで、蜘蛛の糸を見ていて、大学生の頃、仲間と四国へ地学巡検に行ったことを思い出しました。その折、祖谷渓大歩危小歩危を訪ね、深い谷底から遙か空中を繋ぐ吊り橋を見て、異様な気持ちになったのです。
 当時、司馬遼太郎の「空海の世界」という本を読んでいて、空海弘法大師)が土佐室戸の洞窟で修行中、明星を飲み込む体験から悟りを開いたという記述に疑問を持ちましたが、空中の吊り橋を見ていて、私たちの日常や思考は、突然ワープするものなのかなと、四国山中の光景を見て感じたものです。それだけ、私にとり異質体験でした。

スリルのある吊り橋

 

【俳句―③】は、毎日、育てている金魚が、6年目の夏を迎えることに気づき、
その長寿(金魚掬いから5年を生きた)に感動したことを詠んだ。
 夏祭りの金魚掬いの夜店から、孫が小さな手で掬い上げてきた金魚は、すぐに死んでしまうかと思いきや、一匹だけにもめげず、逞しく生き続けてきている。

 同時に、幼かった孫は、今年の4月で小学2年生になった。学年が10クラスある小学校で、クラスでは2番目の長身だと言うので、逞しく成長したものである。そんな年月の流れの不思議さを感じつつ、金魚の水槽をしみじみと眺めた。

水槽の中の金魚(ワキン)

 ところで、金魚は、割合長生きで、15年ぐらいの寿命だと言う。水質管理がうまく行かない一般家庭では、生きても3~4年と言うので、我が家は成功している方かもしれない。水草や小石などを入れてみたが、水替え時に支障があるので、エアーを送る装置以外何も入れていない。週1ぐらいで水道水を入れ替える。これが良かったかも知れない。
 『コメットさん』の愛称で親しまれているが、前に飼った柴犬「エル」の寿命が、16歳4ヶ月だったのに比べれば、まだ先は長いが、少しずつ家族の一員となりつつある。

 こうやって、数年間生きる生き物は、愛着と共に、人間との歴史を共有できるが、数日または一夏の命しかない生き物との付き合いは、辛いものがある。
 昨年の夏、都会のイベントでもらった「カブトムシ」を虫かごに入れて、孫家族が帰省してきた。お盆の後で、大型水槽に木の株(とっこ)や植物も入れた環境を作ってあげたら、その2日後には死んでしまった。遺骸となったカブトムシが、そのままとなっていたので、孫にお墓を作ることを提案し、庭の松の木の下に埋めることにした。
 墓石は、娘(孫の母)が小学校の修学旅行で静岡県の美保の松原に行き、記念に拾ってきた平べったい石英斑岩の転石である。感心なことに、孫は、ひらがなで『かぶとむしのおはか』と書けたので、年号碑銘は私が付け加えた。ちなみに、令和の「令」を「命」と間違えて書いて、ごまかしてある。
 今年の夏にも帰省してくるようだが、また、カブトムシを持参してくるらしい。今度は、弟の方もカブトムシに興味が出てきて、二人で共有しているので、少し面倒なことに発展しそうである。

石英斑岩の転石(美保の松原)

 

 【編集後記】

 今朝の起床は、4時45分頃。それから自己流の「ストレッチ体操と脳トレ」を床で寝たままする。内容の順番と詳細は省くが、様々な機会に得た健康情報を元に、次々と内容を増やしてきたので、省略しないで全てやってから起きるとなると、15分~20分はかかる。

 スタートは、登山家の田部井淳子さんがエベレストでもやっていたという「足の指を手で動かしてマッサージ」することである。股の付け根のリンパ節への刺激や、変則的に指で数える運動、最近では、「股関節を回すことが、歩行姿勢を保つのに良い」とのインターネット情報を得たので、それも加えた。途中、少し後半では、NHK「ためしてガッテン」で視聴した「小脳を鍛える眼球運動」とか、「あいうえお」を逆に言ったり、早口言葉を無言でしたりする。最後は、始めた頃からずっと変わらない、腰を反転させた後で、「CT撮影をする格好で一直線に伸びる」姿勢で終了する。

 それから、床を離れ、①血糖値測定、②体重測定(体脂肪率BMI)、③血圧測定(最高―最低、脈拍数)を記入する。これらの、ルーティーンがきちんとできるようなら、健康体であり、味噌汁をはじめとする朝食作りに取りかかる。

 今朝は、味噌汁、ポテトサラダ、ピーマンとトマトの炒め物、茄子の新焼きを作った。この時期、夏野菜が豊富なので、サラダは止めていたが、りんごとセロリが残っていて、もったいないので、今朝は使い切った。(ちなみにポテトサラダは、ほぼ通年の基本献立である。)

 午前7時のBS「WORLD  NEWS(国際ニュース)」を見ながら、朝食をとるのが通常パターンだが、今日は日曜日で無し。少し、余裕時間があるので、先に新聞を読もうと思ったら、家内が見ていたNHK「朝の体操」に続き、『俳句』の放送があったの で、視聴した。

(講師:高柳克弘先生、司会:武井 壮 氏、ゲスト:釈 由美子さん)

 季題は、『秋の雲・秋雲』で、入選作9句が紹介された。どれにも感動しました。また、比較的、平易な表現の句が多く、素人の私にも理解できました。これなら、次週にも見てみようかと思いました。 

 ところで、秋の雲の代表作として、講師の先生が紹介してくれた句

『ねばりなき 空に走るや 秋の雲』(丈草)

・・・(江戸期の俳人松尾芭蕉の門人)が、気に入りました。平易な表現でありながら、趣深いと思いました。

 興味をもって調べてみると、内藤 丈草(ないとう じょうそう、寛文2年(1662年)~元禄17年2月24日(1704年3月29日)。

 現在の愛知県犬山市出身の俳人。本名は本常(もとつね)、通称は林右衛門、号を丈草、別号を仏幻庵など。松尾芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人となった・・・・とありました。 

コスモスと絹層雲(インターネットから)

 そういえば、今日は暦の上で、『立秋』です。そして、長野県知事選挙の投票日です。コロナ禍の影響なのか、県知事選の広報車が、私の住む近くまで一台も来ないまま投票日を迎えています。

 新聞報道によると、台風19号災害(2019年)やコロナ禍(2019年~)で、長野県の一般会計予算が、ここ数年で鰻登りに増えているようです。もっと、県の行政に関心をもって検討しなければいけないですが、何んとなく傍観しています。それでも、今日は妻とふたりで、無事、投票を済ましてきました。(おとんとろ)

 

令和4年6月の俳句

   【水無月の句】

① ゆすら梅 種吹き飛ばす 昭和の子

② 雨過ぎて 雲間に懸かる 虹の橋

③ 影法師 夏至の太陽 南中す     《六月の心証》

 

 今年の6月の天気は、異常だった。6月に入り、曇りがちな天気が少し続いたかと思ったら、6月6日には、九州・四国・西日本地域より先に、関東甲信地域の「梅雨入り」が発表された。
 今シーズンは「陽性の梅雨」だったようで、じとじと連日雨が降ると言うより、短時間に集中した豪雨や雷雨が特徴的であった。俗に「男梅雨」と言うらしいが、昨今のジェンダー・フリーの観点から、俳句の季語にはあるが、あまり公式には使われていない。
 更に異常気象であったのは、同じ月の27日には、早々と「梅雨明け」が発表されたことだ。観測史上、最も早かっただけでなく、梅雨の期間が、わずか21日間という短さも、初めてのことであった。

 今月は「6月の心証」と題して、心に浮かんだ印象深い光景や、その時の心情を詠んでみようと思っている。俳句会は6月22日と、梅雨明け直前だったので、短かった「男梅雨」や、その後に猛暑日が続いたことは題材とはしなかったが、これも6月の強烈な心証であった。


 【俳句-①】は、庭の「ユスラウメ(山桜梅)」の果実が色付き始めたのを見て、果実をほおばって口に入れた後、種を吹き飛ばしながら食べた子どもの頃のことを思い出し、懐かしさを詠んだ。

 昭和30年代後半が子ども時代なので、物がまったく無くてという訳ではないが、下校後の夏のおやつは、自生の果物が多かった。(おやつ等、無いのが普通だが・・・)ユスラウメ、グミ、スグリ、スモモ、桑の実(メド)などを食べた。

 その中で、当地では通称『コーメ』と呼んでいた「ゆすら梅」は一番人気で、自分の家のものばかりでなく、近所の家まで『○○さん、コーメください』と言って、取りに行ったものである。大人も食べるが、欲しがる子どもより、欲しい訳ではないので、家に子どもが入り込んできても、特に嫌がられずにいた。
 さすがに、他人の家で食べて種を吐き出すことはしないで、ビニル製の袋に収穫して、場所を替えた遊び場で、食べながら遊んだ。だから当然、手がふさがっているので、ほおばって一度に口に入れ、口の中で果実から種子を分離させ、吹き飛ばしていた。女の子の中には、一粒ずつ食べて、種を手で受け取って出す上品な子もいたかもしれないが、私を取り巻くおてんば娘たちは、私たちと同様な文化の中で生きていた。
 しかし、今(令和)では、ゆすら梅を食べる子は、ほとんどいないだろうし、仮に食べても種を口から吹き飛ばす下品な子もいないだろう。そんな意味を込めて、「昭和の子」は、当初「子らも無し」と詠んだ。ただ、次のエピソードを思い出して、昭和の子に戻した。

 実は、我が家の庭にあった「ユスラウメ」の木は、次々ともう少し高級感のある観賞用植物に置き換わり、いつしか絶えてしまっていた。近年、私たちに孫ができて、家内が『孫に食べられる植物を伝えよう』と苗を買ってきた。既に植える場所もなくて、西口と呼んでいる敷地の外れに定植することになったからだ。

 

ユスラウメの果実

 

 【俳句-②】は、雷雨の後で晴れ間が現れたので、散歩に出かけたら、「虹」が、里山の上に懸かる雲と雲の間を繋ぐ架け橋(太鼓橋)のように見え、感動したことを詠んだ。

虹の橋(rain bow bridge)  【インターネットから】

 残念ながら、【写真】のように空いっぱいの「レインボー・ブリッジ」では無くて、半円形の一部が、雲と雲を結んでいた。

 私の記憶に残る最も印象的な虹は、梅雨時の雨上がり、佐久市の東の里山の上に出現した、二重の虹である。PC関連の買い物をして店を出たらあった。急いで車で自宅に帰って写真撮影をしようとしたが、間に合わなかった。道々、多くの人々が、携帯電話のカメラで写真に納めていたことも良く覚えている。

 ところで少し理科的に言うと、虹は、空気中に水滴がたくさんあって、太陽光が水滴の中で屈折→反射→屈折をする過程で、太陽光(電磁波)を構成している可視光の屈折率が異なる為に分光する、言わば自然界でのプリズム実験のような現象である。いくつかの水滴は、昆虫の複眼のように作用して、太陽と反対側に大パノラマを創り出す。滝の水飛沫、霧吹きや散水時にも、小さな虹を観察できるが、空にできる虹は、雷雨や俄雨の雨上がりの午後、東側に見えることが多い。原理的には、朝方、西の空の虹でもいいのだが、私は、まだ見たことがない。

 「七色の虹」と、日本では言うが、調べてみると、世界の民族・文化によって2色~8色に見えるらしい。連続した波長(振動数)なので、数え切れないというのが正解なのだが、ヒトの目(肉眼)での区別はせいぜい4色ぐらいな所を、他の色は想像と知識で、7色と見ているらしい。
 ちなみに、半円形の帯の7色は、内側から、紫・藍・青・緑・黄・橙・赤の各色である。
 実は、この色の順番に関して「申し訳ない」と後悔するエピソ―ドがある。その昔、初めて小学校に勤務して、全校音楽会のステージ・バック装飾のお手伝いをしたことがあった。装飾の虹を見て、担当の教諭に、『これって、二次虹(副虹)じゃないですか』と、ついつい自然科学知識をひけらかして伝えてしまった。彼女は、前任者が製作した虹のデザイン装飾を張るのを止め、空からのトランペットに改め、ステージ・バックを作り直したのだ。翌日、それに気づいて、『忙しいのに本当に申し訳ない』と、謝罪の気持ちを伝えたが、パワハラだったかもしれないと、今でも思い出す。

 ちなみに、初めて体験した小学生の音楽会は、感動して身震いするほどだった。

私のせいで、ごめんなさい?

 

 

【俳句-③】は、夏至の日(今年は6月21日)の正午少し前、庭に出て足下を見ると、自分の影法師が短くなっている様を詠んだ。この日が、1年中で一番日が長く、南に来た太陽は一番高い。つまり、影法師が一番短くなる。但し、庭に出てみたのは事実だが、あいにく梅雨明け数日前の曇り空で、影法師は確認できなかった。だから、想像上の作品なのだが、この句には、私が常々感じている次のような背景があります。

 古典的には、英国のグリニッジ天文台(東経・西経の基準0°)の世界標準時を基準にして、日本標準時は、東経135.0°の兵庫県明石市へとにずれた分の+9時間だけ、早い時刻としている。現在は、長さのm単位などと共に、極めて微少な原子の動きにより決められている。

 しかし、日常生活レベルでは、古典的な方法で十分に事足りるだろう。
 私の住む佐久市は、東経138.5°なので、明石市より+3.5°分だけ早く太陽は南中する。太陽は、1日24時間で一周(360°)するので、角度を時間換算すると、15°が1時間(60分)、3.5°は、14分に相当する。つまり、我が家の庭では、午前11時46分に、太陽が南中する。

透明半球による太陽の動きの観察

  【写真】は、昔懐かしい中学校の理科・地学的領域の透明半球を使って、太陽の1日の動き(日周運動)を観察する例である。台紙の中心とマーカー・ペンの先端を結んだ延長上(約1.5億km先)に太陽がある。 
 南中(なんちゅう)とは、天体(太陽や月・星)が、観察者に対して真南に来た状態で、見上げる角度(南中高度)が最大となる。ちなみに、方位磁石が示した南は、佐久市付近で、5°ほど、西側にずれている。(西方偏位)  

 素人ができる天文に関する計算は、これくらいが限界だが、天文物理学などの専門家が、大型コンピューターを使って天体の軌道予測をすると、すごいことまで予言できる。
 2035年9月2日(日曜日)に、皆既日食佐久市で観察できます。皆既帯が茨城県(水戸・宇都宮)~群馬県(前橋)~長野県~能登半島と、本州を横断する。月食と違い、日食それも皆既日食だから、曇っていようが、雨が降っていようが、仮に形が見えなくても、何分間かは真夜中のように真っ暗になります。

 ちなみに、長野市のデーターでは、午前10時04分頃に、太陽は月によって完全に隠されます。多分、佐久市でも、しっかりと観察できるはずです。
 問題は、その時、私が生きているか、どうかです。
 こんな何十年も先の、ほぼ確実に起きる自然現象が予測できるのに、なぜ私の人生や行動は未知なのだろうかと、常々思います。
 私は、地球の大地に生き、地球と共に自転しながら、太陽の回りを公転しています。そして、銀河系の中を想像もできないほどの高速で移動しているはずです。それらの運行は、恐ろしいほどの正確さです。

 以前、「はてなブログ」に、千曲川の瀬音を聞きながら、流れゆく光景を見た時の心境を載せたことがありました。『行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。』方丈記鴨長明)ではありませんが、千曲川の水が日本海へ注ぐという大きな運命の中で、一緒に流れている木片は海に流れ着くとは限らない。まして泡(うたかた)は、もっと短命な存在としてあるのかなと思いました。
 「集合」というものの考えでは、微細な物が集まって、少し大きな物ができ、さらにそれらも大きな物の一部となりますが、大自然というものは、そんな単純な寄せ集めで構成されている訳ではないのかもしれません。良く言われるように、「自然界の階層性」なのかもしれません。
 私や、人類や、生き物、鉱物や水、大気など、地球を構成するあらゆる物質が集まっての地球ですが、私は地球の一部などと、大それた考えを抱いてはいけないのかもしれません。少し子どもっぽい発想をすれば、育てているジャガイモに付いたテントウムシやトントウムシダマシの幼虫を、私は懸命に手で潰しています。命を奪って可哀想だと思うものの、仕方が無い。まさに、生死を握る私と昆虫の関係は、同じ地球の生命体ではあっても、同レベルではない。非情にもそう思う時、私も何ものかによって生かされていると発想した方が良さそうです。

 

銀 河 系

 

【編集後記】
 

 「令和4年6月の俳句」は、当月初めにはできていましたが、先に、内山層についての話題を「佐久の地質調査物語」として、まとめてきていましたので、それを優先させました。最近、「はてなブログ」の載せる頻度が落ちています。夏野菜の管理や草刈りも忙しくてと、言い訳をしていますが、本音の部分はサボり気味なところもあります。今日、7月31日に載せて、月別の回数を増やそうと決意しました。

 今日、7月31日は、7月最後の日曜日です。実は、「31日」というより「最後の日曜日」ということの方に意味があります。それは、8月1日の為の、準備日程だからです。

 ご存じの方も多いかと思いますが、佐久地方では、地域全体でお墓参りを8月1日にする慣例、風習があります。言い伝えでは、江戸中期・1742年(寛保2年)の旧暦8月1日(新暦では寧ろ防災の日・9月1日に近い8月30日に相当)に、千曲川水系で大洪水があり、多くの人が亡くなりました。(千曲川下流部での広範囲の水害被害も含め、「戌の満水」と称されます。)

 それで、地域の先祖の慰霊祭のような意味合いがあり、お盆やお彼岸に、個人の都合の良い日という訳でなく、とにかく8月1日という日に、一斉に、各先祖の墓を参拝します。この点、自分の直接的な先祖がと言うより、自分を含む地域の先祖という発想です。ちょうど、6月23日の「沖縄忌」のようです。ただ、県民の4人に1人が亡くなったという規模の悲惨さの比ではありませんが、280年もの長きに渡り続いているという点では、日本人特有の感覚だと思います。

一族の先祖(右衛門・左衛門)兄弟の墓と伝わる

 ただ、時代と共に、日常生活の時間の使い方が変わって来て、私の子どもの頃は、曜日に関わらず、7月31日の早朝(6時)から、墓地の清掃をしていました。それが、今では、比較的多くの方が自由時間を作れる7月最後の日曜日となっています。今年は、8月1日が月曜日なので、7月31日が、お墓掃除の日となったわけです。

 一方、少し前には、8月1日を定休日として指定し、仕事や営業を休んだり、定期休業日を予め変更したりしている企業や会社も、佐久地方にはありました。従業員や社員が、余裕をもってお墓参りに出かけられるよう配慮されていた結果のようです。しかし今では、ほとんど無くなったようなので、会社務めの方は、出社前の朝の内に墓参をしたり、帰宅後の夕方に出かけたりする人もいると聞きました。もっとも、家族全員が揃ってというルールを改めれば、家族の誰かが、従来通りの方法で、お墓参りをしていると思います。

 実は、その時間が大切です。8月1日のいつ頃、お墓参りをするかというのも、各家庭の文化や風習があるようです。真夏の時期ですので、日中は炎天下となります。それを避けて、午前中の早い時期に行くか、反対に、午後の夕暮れ時に行くか、それとも日中か、様々なようです。

 ちなみに、我が家は、午前中の9時頃に出かけ、帰宅した10時頃に、冷えたスイカや飲み物を飲むという、当地としては平均的なパターンでした。ですから、午後、行く家族を見て、不思議に思いました。

さらに古い先祖の墓(五輪塔)・・時代不詳

 

 ただ、孫たち家族が帰省するようになって、移動部隊が多くなった年は、そうしたくても準備が間に合わなくて、炎天下に出かけたこともありました。

 時代と共に、また、生活様式の変化と共に、この「8月1日・お墓参り」という風習も変化しつつあります。

 ちなみに、明日の「お墓参り」は、家内と私の二人だけとなりそうです。今までの中で、最少人数となります。少し、寂しいです。(おとんとろ)

 

 

 

 

 

 

佐久の地質調査物語-164(最終回)


          お わ り に

 

 続・佐久の地質調査物語は、その題名のように、先に山中地域白亜系を中心にまとめた「地質調査物語」の続編です。

 ブランク期間がややあって、地学委員会の調査活動に復帰した時、内山層を中心とした地質調査で、私は、異常堆積構造「コングロ・ダイク」の産状に、特に関心が向きました。それで、コングロ・ダイクの産状に焦点を当てて、内山層分布域の調査を進めてきました。調査結果から、仮説に都合の良い情報を得て、正しさを確信できたことも多くありましたが、全ての産状を説明することができませんでした。寧ろ、小規模なものの精密な産状からは、仮説の内容は無理なのかもしれないとも、思い始めています。
 それは、仮説を実証することの限界というより、仮説に無理があったのかもしれません。ただ、そう思うと、これまでの調査活動に費やしてきたことの空しさと徒労感が、どっと身に押し寄せてくるような気がします。
 一方で、自説の正否に固執しなくても、『私たちがフィールドを歩き回り、見聞きしたり集めたりした基礎資料は、何とか後世に、後輩へ残すことができたのだから、目的のひとつは達成できたのではないか』という思いもあります。特に、昨今は、地質学という分野でも、旧来のハンマーとクリノメーターを手に、地道にフィールドを歩き回る人々は、多くないようです。貴重な歴史的基礎資料になるかもしれません。
 『今は理解できないことでも、何年か後には、奇妙で不可解な露頭の謎を、もののみごとに解いてくれるのが、自然科学の歩みだと信じています』と、序文(はじめに)で書きましたが、まさに偽らざる気持ちで、自然科学の発展に期待しています。

        *  *  *  *


 ところで、第11章・地球の歴史では、視聴したNHK番組に触発され、地球生命の人類までの進化や日本列島の誕生について、まとめました。素人なりの独自資料を基本にして、まとめてきましたが、この章の内容は、インターネットを駆使して、人様の研究成果や資料の寄せ集めです。

 しかし、私が理解できなければ、わからない人も多いかもしれないという気持ちで、わかり易くすることを心がけました。
 今の地球に生命を得ている自分のありがたさに感謝すると共に、現在の科学が示してくれる、知的好奇心を、大いに奮い立たせてくれるものでした。

 その中で、新たな感慨は、『そう言えば、内山層が堆積していた時代に、日本海は拡大しつつあったんだ』と気付いたことです。高校物理の時間に、走行中の電車の中でボールを投げ上げるのを、車内で見たのと車外から見たのの、相対的な違いに気付いた心境です。
 次にまとめを計画中の内山層より新しい時代の地層は、まさに拡大の最盛期に当たります。実際のフィールドの中で、日本海の拡大中の影響が見つけられるとは思いませんが、大きなものの中で動いている、こちらもまた大きなものという多重的な現象であることに、畏れを感じながら、「続々」にも挑戦していこうと思います。

謎の多い棚倉構造線

大陸の構造線と繋がっていた日本の構造線

 

  【編集後記】

 Yahoo! JAPANのニュース記事(岐阜新聞社)で、小学6年生が、「トゲナナフシ(Neohirasea japonica)」の雄(♂)を発見したという情報を得た。

 新聞記事によると、『極めて珍しい雄のトゲナナフシを愛知県田原市の小学6年の森下泰成君(11)が21日、岐阜市大宮町の名和昆虫博物館に寄贈した。雌単体で卵を産む「単為生殖」で繁殖するトゲナナフシを約5年間飼育する中で、初めて生まれた雄の個体だ。同館などによると、これまで国内での雄の発見報告は2例のみ。名和哲夫館長(67)は「生きた状態で見るのは初めて。まだ謎が多いトゲナナフシの生態を知る上で大変貴重な資料となる」と話す。22日から公開する。トゲナナフシはナナフシの一種で、体に多数のとげ状の突起があるのが特徴。本州、四国、九州に広く分布しているが、雌の単為生殖で繁殖できるため、雄の発見例は繁殖で1件、野生の捕獲で1件のみという。

 森下君は、小学1年生の時に三重県で行われた昆虫キャンプに参加し、そこで捕まえたカミキリムシをスタッフが持っていたトゲナナフシと交換。自宅に持ち帰って飼育を始めた。毎年卵を産ませ、今年1月には7世代目となるトゲナナフシを100匹以上ふ化させた。7月6日に小さなままの1匹がいることに気付き、「もしかして雄なのではないか」と考え、別の大きな1匹と一緒に別のケースに移した。すると、2匹が交尾をしたため、小さい方が雄と分かったという。雄は体長4センチほどで、雌の約7センチと比べると、胴体が細く、一回り以上小さい。細い体の特徴から「ポッキー」と名付けてかわいがっていた森下君は「雄だと分かった時は『見つけちゃった』と興奮した。ポッキーを調べることで、これまで分からなかったトゲナナフシのことが分かるようになったらうれしい」と話す。  

 名和館長は「死んだ後は標本にし、DNA検査を行う予定。単為生殖が可能にもかかわらずなぜ雄が存在しているのか、種の根源に迫れるかもしれない」と期待に胸を膨らませた。』(岐阜新聞の記事)とある。

 このニュースを見聞きし、森下君のお父さんとか、お母さんとかも、きっと昆虫好きで、もしかすると専門家で、幼少の頃から生物に対する研究意欲に大きな影響を与えてきたのだろうなと思ったが、同時に、ひとつの事を地道に、粘り強く追究・探究していくことの大切さを、改めて教えてもらった。

 私たちも、手段こそ未熟であるが、それでも地道に佐久の地質を調べてはきたが、今はやや引退気味である。ブログに載せる内容も過去の遺物である。

 大部、体力・気力ともに衰えつつあるが、仲間を誘い、フィールドに出かけるようにしたいものである。そう思いつつ、夏野菜の手入れや収穫に毎日追われています。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-163

内山層に関する内容(目次)

 

○  は じ め に  

Ⅰ.研究課題の発見
     ○ 内山層について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P1
  ○ 内山川水系の主な沢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P2
  1.釜の沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P3~4
  2.釜の沢・左股の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P5~6
    3.ホド窪沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P8~11      4.中村林道の沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P11
       5.所沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P12
  6.  富沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P13
  7.  八重蒔沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P14
  8.  温泉の西側沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P14 

 

Ⅱ.コングロ・ダイクとは何か?
    ・コングロ・ダイクの定義
     1.延びるコングロ・ダイク ・・・・・・・・・・・・・・・・・・P15~16
   2.広がるコングロ・ダイク   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・P16~17
   3.深さを知らせるコングロ・ダイク ・・・・・・・・・・・・・・P18
     4.最大幅のコングロ・ダイク・・・・・・・・・・・・・・・・・・P19~20
  5.コングロ・ダイクの様々な産状・・・・・・・・・・・・・・・・P20
     6.武道沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P21~25
  7.柳沢の調査(1)から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P26~28
     8.柳沢の調査(2)から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P29
     9.大沼沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P29~31

 

Ⅲ.内山層の化石
    ○ 館ヶ沢~神封沢のルートマップ・・・・・・・・・・・・・・・・P32
  1.神封沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P33
     2.ワチバ林道の沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・P34~35
     3.細萱林道の沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P35~37
  4.館ヶ沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P37
     5.館ヶ沢付近の化石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P38~41

 

Ⅳ.内山層の基底礫岩層群
   1.内山川本流(1/3)の調査から・・・・・・・・・・・・・・・P42~45
     2.内山川本流(2/3)の調査から・・・・・・・・・・・・・・・P45~48
       3.内山川本流(3/3)の調査から・・・・・・・・・・・・・・・P49~51

 

Ⅴ.北部域の沢(大月層や駒込層との関係)
   1.内堀沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P52~54
      2.尾滝沢付近の調査から
    (1) 苦水の沢  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P54~55
           (2) 尾滝沢  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P55~57
   3.初谷沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P58~59
     4.牛馬沢の調査から  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P59~60
        5.根津古沢の調査から ・・・・・・・・・・・・・・・・・・P63~65
                                                                    (未完成)

 

Ⅵ.雨川水系の沢
  ○ 雨川水系の沢の名称など・・・・・・・・・・・・・・・・・P66~67
   1.広川原・馬坂川支流の調査から・・・・・・・・・・・・・・P68~69
     2.小唐沢~大唐沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・P69~70
        3.中原倉沢~ヌカリ久保沢の調査から・・・・・・・・・・・・P71~72
   4.西武道沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P73~74
         5.林道・東山線の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・P75~76
   6.アザミ沢~片原沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・P77~78
      7.小屋たけ沢~程久保沢の調査から・・・・・・・・・・・・・P79~81
   8.滝ヶ沢林道の沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・P82~84
      9.仙ヶ沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P85~86

 

Ⅶ.中部域の沢
   1.谷川左股沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・P87~89
      2.谷川本流調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P90~94
         3.余地ダム湖周辺の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・P95~97
   4.湯川~温泉の沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・P98~99
   

 ○ 《秘境・熊倉川》  ・・・・・・・・・・・・・・P100~101
   5.熊倉川(象ヶ滝付近)の調査から・・・・・・・・・・・・P101~103
      6.熊倉川(上流部)の調査から・・・・・・・・・・・・・・P104~107

 

Ⅷ.南部域の沢
   1.灰立沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・P108~109
      2.矢沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P110~113
         3.内山層の分布する抜井川支流の沢
         ○山中地域白亜系と内山層の地質図・・・・・・・・・・・・・・P114
     (1)古谷集落北側の沢の調査から・・・・・・・・・・P115~116
           (2)腰越沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・P117~118
     (3)大野沢支流・第4沢の調査から・・・・・・・・・P118~120
        (4)大野沢支流・第3沢の調査から・・・・・・・・・P121~122
               (5)大野沢支流・第5沢と大上林道の調査から・・・・P123~124


Ⅸ.内山層の層序
   1.北部域の地質柱状図データーから・・・・・・・・・・P125~127
      2.中部域・雨川水系の地質柱状図データーから・・・・・P127~128
         3.中部域・谷川の地質柱状図データーから・・・・・・・・・・P128
         4.南部域・矢沢の地質柱状図データーから・・・・・・・・・・P129
       5.南部域・抜井川支流の地質柱状図データーから・・・・P130~131
          6.層序や岩相から示唆されたこと(まとめ)・・・・・・・P131~132
      6-(1)滝ヶ沢林道の沢~仙ヶ沢付近の下部層と上部層・・・・・P132
      6-(2)熊倉川の内山層分布について・・・・・・・・・・・・・P133
         6-(3)大上林道沿い露頭と第5沢の内山層分布について・・・・P134

 

 


Ⅹ.コングロ・ダイクの成因
   1.コングロ・ダイクの礫の特徴・・・・・・・・・・・・P135~137
      2.コングロ・ダイクの類型・・・・・・・・・・・・・・P137~141
         3.コングロ・ダイクと熱変成の関係・・・・・・・・・・P142~143
         4.岩石学的特徴からみた成因(まとめ)・・・・・・・・・・・P143
      5.成因の考察
     5-(1) 玢岩の貫入との関わり・・・・・・・・・・・・・・・P144
             5-(2) メタンハイドレート説・・・・・・・・・・・・・・・P144
        5-(3) 砕屑岩脈説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P145
                5-(4) 地震時の液状化説・・・・・・・・・・・・・・・・・P146
      6.混濁流による運搬と重力落下説・・・・・・・・・・・・P147~148
   

         7.混濁流説を裏付ける露頭証拠
    7-(1) 混濁流で運ばれた礫、砂、泥が海水中で分級される

                                                                                       ・・・・・・P149~150
               7-(2) 軟着陸しているコングロ・ダイクがあった・・P150~152
               7-(3) 軟着陸タイプは、分級では砂相と同じレベル・・・・P152
 

         8.内山層堆積盆とコングロ・ダイク
    8-(1) 内山層堆積輪廻の2回目は、極めて小規模である。・・・P153
              8-(2) 内山層堆積盆は、中央部西端に高まりがあった。・・・・P154
 

      9.混濁流説の問題点
    9-(1) 形が精巧過ぎる小規模コングロ・ダイク・・・・・・・P155
    9-(2)  海底に尖塔となっていたコングロ・ダイク・・・・P155~157


Ⅺ.地球の歴史

 ◆微化石から人類へ (生命の道程)
  1.太陽系の中で、地球ができた・・・・・・・・・・・・・・・・・Gの1
        ・地質時代年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Gの2
  2.原始の海洋と大気は、少しずつ変化した・・・・・・・・・・・・Gの3
  3.生命は、38~40億年前に誕生したらしい・・・・・・・・・・Gの3
  4.シアノバクテリアが、酸素を地球大気に登場させた・・・・・・・Gの4
  5.全球凍結の後、原核生物から真核生物への進化があった・・・・・Gの5
  6.カンブリア紀の爆発的進化と脊椎動物への道・・・・・・・・・・Gの6~7
  7.海から上陸して、緑の河畔を歩く生物が現れた・・・・・・・・・Gの8
  8.地球最大の生物大量絶滅で、恐竜の時代を迎えるようになった・・Gの9
  9.鳥類は、ハチュウ類から進化して、空を飛べるようになった・・・Gの10
 10.巨大隕石落下で恐竜が絶滅した後の世界・・・・・・・・・・・・Gの11
 11.人類は高い視力を獲得した・・・・・・・・・・・・・・・・・・Gの12
 12.人類の進化:ホモ・サピエンス・サピエンスへの道のり・・Gの13~14

 

 ◆日本列島の成り立ち
 ・日本列島の広がり  (日本を取り巻くプレート)・・・・・・・・・・Jの1~2
    1.「プレート・テクトニクス」と「プルーム・テクトニクス」・・・Jの2~3
    2.「付加体」という考え方の証拠 ・・・・・・・・・・・・・・・・Jの4~5
    3.他の構造帯の「付加体・メランジェ」について・・・・・・・・・J5~6 
    4.日本海の成り立ち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・J7~8
    5.大和堆の存在と、日本海を拡大させた営力・・・・・・・・・・・J9~10
 
○  お わ り に  

 

【編集後記】

 既に何度も掲載した「修正・内山層地質図」を、最後に載せたい。

修正の要点は、(ア)谷川上流部に、明確な中心軸は設けられないが、向斜構造があること、(イ)大上峠の南東、大野沢林道の最上流部は、瀬林層(上部)と内山層下部・内山層上部に分帯できることなど、です。

 詳しくは、それぞれ関係する章や項目で見てください。

 尚、この地質図で、最大な課題は、『一律に、兜岩層』としてある部分です。

この内山層や、その前の山中地域白亜系の調査段階では、それらに属さない新しい部分を、兜岩層として、詳しい調査をしないできたからです。

 次のシリーズ『続・続佐久の地質調査物語』では、この部分に関連した内容について述べていく予定です。

 

修正・内山層の地質図

 

 原稿は、既に何年も前に出来上がっていたものがほとんどですが、ようやく、ひとつのシリーズをまとめられて、少し自己満足しています。(おとんとろ)

 次は、「おわりに」を載せて、完全に終了予定です。