北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-104

   ホド窪沢・中村林道の沢・所沢の調査から

 この年(平成12年度)の夏の調査は、天野和孝先生をお迎えし、内山層の化石について学ぼうと、神封沢や細萱林道の沢に入りましたが、まずは、コングロ・ダイクを中心に話を進めたいと思うので、今年度と翌・平成13年度に調査域を西側に広げた沢の様子を、先に見てみようと思います。【ホド窪沢~所沢のルートマップ】

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ホド窪沢のルートマップ

 

3 ホド窪沢の調査から

 ホド窪沢は、その中流部から上流部にかけて、コングロ・ダイク露頭が、非常に多く、注目すべき沢でした。

 内山川本流から調査を始めました。釜の沢付近と同様に、火成岩の影響を受けたのか、黄鉄鉱の入る黒色頁岩層がありました。沢に入ると、しばらく露頭がなく、南西から入る沢の手前で、下位から黒色泥岩、凝灰岩層(30cm)、凝灰質粗粒砂岩層(50cm)、黒色泥岩の砂泥互層(N40°E・20°SE)を確認しました。(【図-①】)

 尚、添字「t」は、凝灰岩層(tuff)が含まれていることを示します。


 標高865m付近て、沢が小さく湾曲します。黒色泥岩はいくぶん粘板岩化(slate)しています。黒色泥岩と凝灰質粗粒砂岩の境で、N20°W・12~20°NEを測定しました。湾曲部の泥岩中から、二枚貝化石(Macoma とYoldia sp. )を見つけました。
その上流で、薄い凝灰岩層を挟む中粒砂岩層で、N60°W・40°Nです。(【図-②】)

 【図-③】は、標高870~880m付近を示します。全体は、黒色泥岩層で、ここに貫入しているコングロ・ダイクがありました。上流側と下流側、それぞれの先端は土砂に埋もれて見えなくなっています。幅30cmで、長さ3.5m(下流側)、そして3.5m途切れ、長さ2.5m(上流側)の2露頭です。

 周囲の黒色泥岩層(N60°E・10~12°SE)の、東西方向に近い走向に対して、コングロ・ダイクは、南北に近い方向で非調和的に貫入しています。ちなみに、下流側のデータは、N5°W・垂直ないし、部分的に70°Wの傾斜です。

 

 コングロ・ダイクの礫種や配列について、次のような特徴がありました。

 

(ア)礫種:暗灰色~黒色細粒砂岩・黒色頁岩~粘板岩・灰色中粒砂岩

(イ)最大経は、9cm×11cm ・亜角礫が多い。

  ・チャートや火成岩起源は認められない。

(ウ)コングロ・ダイクの東側が平坦で、西側は多少変化する。・平坦面に対して、礫の長径が並ぶ。(ある種の堆積時の特徴か?) ※東西の方向については、ここだけの特徴であった。

(エ)コングロ・ダイクの内部に「ひじき」構造(下の図を参照)の部分がある。黒色泥岩や砂岩が、角礫(直径2.5cm)や岩片がちぎれて入っている。

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 上流側のコングロ・ダイクの少し上流は、黒色泥岩が優勢な砂泥互層で、滑滝を形成していました。泥岩は、粘板岩にはなっていませんが、砂の部分が硬く造瀑層となっているようです。滑滝の上で、凝灰岩層(30cm)を挟む砂泥互層で、N60°E・10°SEの走向・傾斜を示し、黒色泥岩は下流部とほぼ同様な傾向を示していました。(【図-③】)

 標高885m付近でも、幅10cmとやや薄くなりましたが、長さ2mのコングロ・ダイクがありました。

 周囲の黒色泥岩層や礫の特徴についても、同様です。黒色泥岩層には5cmの凝灰岩層が挟まれていました。そして、標高890mの二股付近では、黒色泥岩(主)に明灰色粗粒砂岩との互層(最大30cm厚の砂岩層)で、滑滝を形成していました。(【図-④】)

 標高895m付近では、黒色泥岩層(全体が均一で走向・傾斜は測定できず)の中に、隣接した大小のコングロ・ダイクが見られました。大きい方は、NSに長さ10m延び、最大幅は12cmで、両端では消滅します。この東側に、上流側で30cmほど離れて、幅3cm×長さ2mの小さなコングロ・ダイクが、付随していました。例え話をすれば、シロナガスクジラの母子が泳いでいるかのような気がして、思わず微笑んでしまいました。(【図-⑤】)(【下の図】様々な小型コングロ・ダイクの産状の産状【エ】を見てください。)

 標高900m付近で、二枚貝スミゾメソデガイ Yoldia sp.・シラトリガイMacoma sp.と、ウニ(カンパンウニ?)の化石を見つけました。(【図-⑥】)


 標高910m(【図-⑦】)から標高920m(【図-⑧】)にかけて興味深い露頭が見られました。写真は、【図-⑦】付近のもので、上流側の滝(標高915m)を写したものです。全体が均一で、層理面の不明瞭な黒色泥岩層です。そこで、少し下流の凝灰岩層(10cm)を挟む黒色泥岩層との境で測定した走向・傾斜(N30°E・6°SE)を採用すると、上流(南東側)に向かって緩く傾斜していることになります。

 

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ホド窪沢の標高915m付近の滝(下流側から観察)

 水の落ちている滝口から手前に、一直線に見える部分がコングロ・ダイクです。ちょうどコングロ・ダイクの幅20cmで、流れ出ています。長さは、17mで、方向は(N5°W)です。35°ほどのずれで、互いに交わっています。礫種は、灰色中粒砂岩や黒色頁岩です。
 滝自体は、風化すると黄土色となる暗灰色(凝灰質・火山砂に見える部分もある)粗粒砂岩層が造瀑布層となっていました。  
 滝の上にでると、黒色泥岩層の中に、コングロ・ダイク(幅20cm×長さ15m・N10°E延びの方向)が現れました。そして、暗灰色火山砂の粗粒砂岩層が、小さな滝を形成していました。
 砂岩層の規模が小さいので、小さな滝となっていたのだと思いますが、下流部のパターンが繰り返されていました。(【図-⑧】)・・・成因に関わり、後で詳しく再登場させます。
 少し上流で、二枚貝ナギナタソデガイYoldia spを見つけました。付近の走向・傾斜は、N60~80°E・10~12°Sでした。

 

 標高930m付近では、乳白色となった砂岩や泥岩が見られました。層理面が残っていて、EW・10°Sです。その少し上流に小さな滑滝があり、滝の下にコングロ・ダイク(幅が5~13cmと変化する、長さ2m、延びの方向N20°W・垂直)が見られました。滝の上では、乳白色砂泥互層は、EW・10°Sでした。標高1040mの二股にも同様な産状の砂泥互層があります。

 そして、二股の少し上流で、玢岩(porphyrite)の露頭が見られました。(【図-⑨】)このことから、乳白色~明灰色で、いくぶん光沢のある岩相は、黒色泥岩や灰色砂岩が、玢岩により熱変質されたものではないかと考えました。

 標高950mの二股から上流へ、【図-⑩】の二段滝(965mASL付近)および、【図-⑪】(980mASL付近)まで、様々なコングロ・ダイクの形態や産状が見られました。
 標高950m二股では、黒色泥岩層に黄鉄鉱(pyrite)が多量に晶出しているのに、なぜか熱変質を受けていない。ここから水平距離で10m上流で、小規模コングロ・ダイク(幅8cm×長さ45cm)がありました。その上流、黒色泥岩の川底にコングロ・ダイクが、産状【様々な小型コングロ・ダイクの産状(オ)】のように見られ、東側部分(図の左側一部)は、灰白色となって熱変質されていました。

 標高965m付近(【図-⑩】)には二段滝があり、下流側から、落差1.5m、3.5mの棚、落差2.5mと続きます。注目すべきは、元は泥岩と推定されますが、乳白色~灰色~黒色と、玢岩により熱変質される程度の違いが観察できました。(詳細に記録・観察してないのは、残念です。)

 この少し上流に、幅20cm×長さ1mのコングロ・ダイク(延びの方向N40°E・垂直)がありました。注目すべきは、礫種が、結晶質灰色砂岩や黒色頁岩の岩片と共に、【様々なコングロ・ダイクの産状(キ)】のような黒色細粒砂岩と粗粒砂岩の一度堆積した証拠のある地層の一部と思われる礫が見られたことです。

 その少し上流部で、幅20cm×1mほどの小規模コングロ・ダイクの露頭に続き、標高980m付近では、【様々なコングロ・ダイクの産状(カ)(P10)】のように、熱変質された黒色泥岩層の中に、コングロ・ダイクがEW方向に貫入していました。この露頭では、泥岩が南北走向を示していて、少し下流の泥岩は熱変質されていませんでした。

 

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小規模コングロ・ダイクの産状(スケッチ)

 【編集後記】

 久しぶりの「はてなブログ」に載せる話題は、ホド窪沢のコングロ・ダイクを中心とした話題でした。この後、ふたつの情報がありますが、長くなるので、次回に回しました。ただし、重要な産状で、この後、何度も出てくる内容なので、分けたという理由もあります。

 また、標高915m付近の滝も写真で紹介しましたが、これも、滝の上と下を観察すると、成因を説明できる情報が得られました。それにつけても、コングロ・ダイクを語る時、その産状の多さ、多様さを観察できるのが、ホド窪沢でした。

 ところで、「はてなブログ」が10日間以上、中断していましたが、前半は農作業で、後半は所属している俳句会が、毎年、倉沢薬師堂に奉納している「俳額」の制作に没頭していました。それが、昨晩で一応、完了したので、後は、良い日を選んで、昨年度の俳額と入れ替え作業を半日ほどかけてすれば、本当の終了です。

 好きな活動ですが、実際にやってみると大仕事で、ようやく肩の荷が降りたという心境です。元の日常に戻れそうです。本格的な野良仕事も始まってきます。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-103

2. 釜の沢・左股沢の調査から

 平成12年の単独調査は、標高910m付近まででした。それで、天野和孝先生が同行された平成14年(2002年)9/22の調査も合わせて報告します。

(下のルートマップは、再掲です。)

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 沢の名称は、「ため池」の少し上流で二股となり、左に分岐しているので、左股沢と呼ぶことにしました。左股沢は、雨川水系との分水嶺P1219から三角点1138.2mに延びる尾根を挟んで、釜の沢本流とほぼ併行して流れています。
 分岐してすぐの上流には、黒色頁岩層があり、火山砂の挟みで測ると、走向・傾斜は、N40°E・20°NWでした。しかし、水平距離で上流へ20mほどでは、粘土化した凝灰岩層を挟む黒色頁岩層の境で、N60°W・20°SWと、南落ち傾斜に変わりました。(【図-⑬】)
 標高835m~840mでは、風化すると黄土色になるの粗粒砂岩が卓越し、層理面に対して垂直な割れ目ができていました。N20°W・10°Wです。しかし、わずか上流では、N60°W・10°Nと、走向・傾斜は定まりません。(【図-⑭】)
 標高845m付近に、不規則な黒色頁岩片の入る「ひじき」構造が見られる暗灰色粗粒砂岩(N70~80°W・12°S)の滑滝がありました。付近の傾向は、砂優勢な砂泥互層です。(【図-⑮】)

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 標高860m付近(【図-⑯】)では、黒色頁岩を主体とした中粒砂岩層との砂泥互層(EW~N80°E・10~20°S)の中に、幅10cm(上流側)~15cm(下流側)×長さ2.5mのコングロ・ダイクがありました。N50°W・垂直で、層理面と不調和に貫入しています。礫種は、黒色頁岩と灰色砂岩です。すぐ上流にも、黒色頁岩片の入る粗粒砂岩相と灰色中粒砂岩層の滑滝があり、中粒砂岩層にコングロ・ダイクが見られました。(標高865m付近)
 標高920m付近(【図-⑰】)では、下流側から黒色頁岩層の中に、露頭幅2mの礫岩層(傾斜10°とすれば層厚は40cmほどか)が認められました。礫種は、石英閃緑岩(最大8×20cm)・黒色頁岩(20cm)・灰色砂岩(円礫)です。黒色頁岩層は、N40°E・10°SEでした。
 また、沢の合流手前の標高930m付近では、黒色頁岩層(N40°E・10°SE)の中に、コングロ・ダイク(幅10cm×長さ2m)がありました。途中が欠けて、内部が観察できました。深さ10cmで周囲の黒色頁岩が見えているので、「礫岩でできた棒」(10×10×200cm3)という産状かと思います。

 標高960m付近では、沢底が黒色頁岩層(N20°E・5°NW)の階段状となっていました。標高970mの第一堰堤の手前は、水平幅で30mに渡り礫岩層が見られました。堰堤は、この固い礫岩層(注-*)を利用して建設されたものらしく、「平成11年・復旧治山事業第105号工事・佐久市宇坂入№1」と記されていました。(【図-⑱】)
(注-*)礫岩層の厚さ:水平幅で30mにも及ぶ礫岩層ですが、下流側5°北落ち、上流側5°南落ちの傾斜データーを見ると、堰堤付近は水平層に近いので、礫岩層の層厚は、それほど厚くはないと思われます。仮に5°どちらかの傾きとすれば、2.5mほどとなります。

 

 第一堰堤の上に出て、歩測で150mほど上流では、礫を含む黒色頁岩層の走向・傾斜は、N50°E・5°Sで、南落ちでした。第二堰堤の手前、15m下流側で、南落ちの砂泥互層部があり、その砂岩部分に「ロードキャスト」のような産状が認められ、見かけの層理面と逆転しているのではないかと、皆で話題にしました。 (【図-⑲】)
 左股沢を詰めて行くと、標高1000m付近で、林道「東山線」にぶつかりました。

 その後は、灰色中粒砂岩と黒色頁岩との互層の繰り返しで、砂優勢の砂泥互層が所々で見られました。1095mASL二股付近では、川底の岩肌に、ニホンジカの爪跡が続いていました。両岸に鞍部があって、獣道のひとつかと思いました。
 標高1110m付近の互層部で、N60°E・15°Sを記録しました。
 標高1150m付近まで踏査して、沢を下り、林道「東山線」にまで戻りました。
 林道に戻り、沢との合流点から西側へ約25m付近で、目視できる断層がありました。黒色頁岩層をわずかに挟む暗灰色粗粒砂岩層で、南側が落ちているように見えました。断層帯の幅は2mほどで、断層面は、N70°E・垂直です。延びの方向を見ると、左股沢・第二堰堤の少し上流部の凝灰質暗灰色粗粒砂岩層の分布位置に当たります。(【図-⑳】)

 

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釜の沢左股の林道・崖露頭

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崖露頭の説明図



 そこから、林道に沿って北へ200mほど行った地点(三角点の北東、標高1010m付近)で、林道の道路から更に10mほどの切り通しがあり、ここで大規模なコングロ・ダイクが見られました。【図-※印】
 崖に、北に面して2本のコングロ・ダイクが見られ、礫岩層の幅は、50cm(左)と70cm(右)あります。
 下の方に黒色泥岩層が2層挟まり、全体は灰色細粒~中粒砂岩層で、写真で見ている方向から奥側(南側)に、緩く傾斜しています。この正常な堆積構造に対して、コングロ・ダイクは、垂直よりいくぶん西傾斜(70°W)で、切るようにして貫入しています。そして、コングロ・ダイクや砂岩層の蓋をするかような格好で、黒色頁岩層が最上位に載っています。(【崖露頭の説明図】を参照) 

 黒色泥岩層の下の砂岩層の中から、二枚貝のカキ殻が見つかりました。(図のA)
 また、同じ層準の西側(図の右側A')では、二枚貝のソデガイ(Yoldia sp.か)がありました。その下の黒色泥岩層の下の砂岩層からは、巻き貝のタマガイ(Natica)が見つかりました。(図のB)

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タマガイ(Natica)

 この露頭は、礫層の層厚が厚いことでも注目されますが、コングロ・ダイクの深さ(高さ)がわかるという観点からも、とても貴重なデータです。現在見えている部分の高さが、下から貫入した長さ、反対に、落下した深さだと解釈すれば、推定でも8mは優にあることになります。後述する第Ⅱ章「コングロ・ダイクとは?」でも紹介します。

 

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 大型コングロ・ダイクの露頭から、林道を西に進み、三角点1138.2の北に延びる尾根の、標高1150~1160m付近では、貫入した玢岩岩体と、その影響で熱変質したと思われる露頭がありました。(写真・上)

 玢岩の露出している岩体は、幅3m×高さ2mと大きくはないが、熱による変質部分と、影響を受けていない部分があるのが不思議である。
 同時に、次のような感触も抱いた。
 私は、単純に黒色泥岩が、火成岩体の熱で変成を受け黒色頁岩(slate)になると理解していたが、
長い間かなりな高温に触れていないと変成まで到達しないのではないか? 泥岩や砂岩は乳灰色~明灰色になっている。これは、熱変成というより、まだ熱変質の状態ではないかと思いました。

 

 【編集後記】

 前回(102回)でも話題としましたが、黒色泥岩や泥岩が、熱変質(熱変成の弱い状態を想定している)した時の産状が、どうしても、良く理解できません。

 ちなみに、後の所(ホド窪沢)で詳しく述べますが、コングロ・ダイクが、ヒン岩の熱で変質されたのか、色が変わっています。釜の沢上流部での観察です。

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熱変成されたコングロ・ダイク

  写真の未整理で、今日も、余分に時間がかかりました。お陰で、主審整理も同時進行しています。それにつけても残念なことは、ちょうどこの当時の写真の多くが、容量を節約して、画質と共に、サイズも小さく処理していたことです。後で、画像処理をしましたが、小さいものを大きくはできません。鮮明でない写真ですが、ご容赦ください。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-102

1. 釜の沢の調査から

 まずは、周辺域を見てみようと、釜の沢の上流部と左股沢に入ってみました。

 山中地域白亜系の山深い沢と違い、国道脇に駐車して沢を調査した後は、林道を使って下山できるので精査でなければ、一日で調べられます。(図を参照)

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釜の沢のルートマップ

 内山川本流を見てから、釜の沢に入りました。本流右岸には、黄鉄鉱(pyrite)を含み珪質で灰色の中粒砂岩層が、釜の沢の左岸には黒色泥岩層(*-注)があり、わずかながら二枚貝が認められました。(【図-①】)
 (*-注)黒色泥岩は、厳密な粒度分類に従うと、砂質泥岩ないし極細粒~細粒砂岩になるかもしれません。しかし、当地域では代表的な岩相であり、また砂相と泥相を対比させた方が岩相変化がわかるという意味で、「黒色泥岩」と統一しておこうと思います。
 ただし、剥離性があるものについては「黒色頁岩」、さらに、それらが熱変成されたものを、「粘板岩(slate)」と呼ぶのは言うまでもありません。

 

 釜の沢は、国道254号線の下をトンネルで流れています。トンネルのすぐ上流は、黒色泥岩層にコングロ・ダイクが見られました。礫層(層厚10cm)が途中で、2.5mずれています。礫種は、灰色砂岩(最大6×4cm)と結晶質砂岩です。(【図-②】)

 すぐ上流の送電線の真下でも、黒色泥岩に挟まり、正常な堆積構造をする灰色砂岩層に、ぶつかるようなコングロ・ダイクが見られました。

 水田からの水路が見える付近(【図-③】)から、黒色泥岩層は剥離性が出てきました。ここにもコングロ・ダイクがあり、先端部分が割れて枝分かれしている産状でした。

 【図-④】は、ため池付近で、東側は、黄土色に風化しやすい粗粒砂岩と黒色頁岩の互層です。変色の原因は凝灰質のせいだと思われます。黒色頁岩層(5~10cm)を挟み、下位から粗粒砂岩層が30/30/20/25/15/45/100cm以上と、7互層を確認しました。ため池の南側の黒色泥岩層から、二枚貝化石(Macoma sp. Yoldia sp. )と、ウニの殻(種名?)の印象化石を見つけました。

 釜の沢の左股沢との合流点から上流は、凝灰質粗粒砂岩(主)と黒色頁岩(従)の砂泥互層が続きます。
 標高830m付近(【図-⑤】)では、新鮮な粗粒砂岩が多く、凝灰質の特徴でもある「青味を帯びた灰色」の露頭が見られました。

 標高835m(【図-⑥】)付近から、855m付近にかけて、同様な砂泥互層は続きますが、走向と傾斜が少しずつ変わっていきます。
 標高860m付近(【図-⑦】)で、暗灰色の中粒砂岩の中に、黒色泥岩~黒色頁岩の角礫や岩片を取り込んだ産状が見られました。

 私たちがフィールドネームで、「ひじき」構造と呼ぶものです。取り込まれた岩片は、二次~三次堆積を意味しているものだと解釈しています。

 続いて、同質の砂泥互層(砂が主)が続きました。
 標高890m二股でも、「ひじき」構造が見られる暗灰色中粒砂岩層あり、滑滝を形成していました。右股沢にも、対応する層準が延びていて、同様な滑滝がありました。南傾斜から層位的に、その上位層となる砂泥互層部(砂:泥=3:1)が、「ケスタ(cuesta)状ie,《(浸食に弱い泥相が削れて無くなり、浸食に強い砂相が残るという差別的な浸食地形の縮小版》」となって、階段のような小滝を成していました。南へ10°ほどの傾斜なので、砂泥の層厚15~45cmが、段差となって、とても登りやすいです。(【図-⑧】)

 少し上ると沢が開け、林道が見えてきたので、この日の調査(2000年8月5日)は、標高905mで終わりにしました。

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【ひじき構造】と名付けた黒色頁岩片入り砂岩


 

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 6日後、少々無理をすれば、林道は普通車でも入れそうなので、沢の奥まで入り、単独調査をしました。
 第一堰堤付近(【図-⑨】)では、黒色頁岩層が主体で、わずかに暗灰色中粒砂岩層を挟みます。堰堤の下では、N70°E・10°Sと南落ちでしたが、堰堤の上流側では、N20°W・20°NEと落ちが変わりました。しかし、林道の橋の下で、N30°E・20~30°SEなので、南落ち傾向は、変わらないと見て良いようです。

 第二堰堤までの間で、わずかに二枚貝化石が出ます。第二堰堤は、層厚50cmの礫岩層が見られました。
 標高930mと935mの二股では、それぞれ滑滝を形成していて、礫岩層を挟んでいました。この内、930m二股の右岸側は、落差3.5mの滝の中間に層厚1mの礫岩層があり、礫の形が扁平であるという特徴がありました。礫層自体が造瀑層というわけではありませんが、浸食に対して強く、地形に反映されているようです。

 標高940m付近(【図-⑩】)から標高980m付近まで、明らかに火成岩の影響を受けたと思われる産状が確認できました。しかし、問題は、これが玢岩(ひんがん・porphyrite)なのか、斑岩(はんがん・porphyry)なのか、それとも堆積岩が熱変質~変成されたものなのかを決められないのです。岩石顕微鏡下で調べる手だてがありません。

(下山後、いったんは玢岩露頭と解釈した経緯もありますが、その後、新鮮な玢岩露頭をあちこちで目撃し、これは堆積岩の熱変質(変成)であると扱うことにしました。しかし、黒色泥岩が熱変成されれば、粘板岩(slate)になるとばかり思っていた私には、理解しにくい産状でした。) 

 光沢があり灰白色~暗灰色の堆積岩が変質した地域としておきます。(【図-10~12】に熱変質との記載のある辺りです。)

 

 標高990mの二股の少し下流で、林道の下に敷設したトンネルをくぐります。明灰色粗粒砂岩と暗灰色中粒砂岩の互層で、砂相が多くなりました。N80°E・35°Sと、南落ち傾斜でした。(【図-⑪】)
 標高1030m付近(【図-⑫】)では、熱変質した礫岩層と泥岩層が15m幅で見られました。ただし、この礫岩層は、第二堰堤【図-⑨】や930・935m二股での礫岩層と同じだと思われます。これらが、玢岩体の熱の影響で、礫岩層は暗灰色から黒色へ、泥岩層は黒色から灰白色へと変色していました。

 そして、黒色頁岩層が多くなり、標高1070m付近の礫混じりの暗灰色中粒砂岩層を最後に、露頭はなくなりました。推定1100mまで登り、下山しました。

 

 【編集後記】

 この前後のことは、良く覚えています。平成9年度~11年度の3年間、県の「少年自然の家」という野外教育活動を推進する施設勤務で、仲間との調査を中断していました。

 21世紀を迎えた最初の年(平成12年)の夏休み、釜の沢の下流で見た露頭のことが気になっていました。多くの方も同じだと思いますが、地質現象や露頭は、他の人の説明や写真を見ただけでは、十分にわかりません。どうしても、自分の目で見てみないと納得がいきません。特に、私にとっては、いきなりの内山層との出会いでもありました。

 それで、どうしても疑問の先の情報が知りたくて、単独で出かけました。

 そんな、探求心に支えられた一人の調査も大事ですが、実際は、複数の人の目で見る方が、正確に観察できます。どんなに事実を正確に読み取ろうとしても、先入観や思い込みが有りがちです。それで、仲間で観察して、その事実を口に出すと、誰かが反応して、間違いに気づいたり、新たな気づきがあったりします。

 家内は、単独で山に入ることの危険を指摘します。確かにあります。山中地域白亜系の調査で、夏休み中に「三段滝」を登攀中に滑って水中に落ち、全身びしょ濡れになって、すぐに帰宅してきたことがありました。

 大学卒業論文の調査で、北海道の小頓別(しょうとんべつ)付近の南側の山中へ一人で入りました。目撃した訳ではないのに、沢水の落下する瀬音が、ヒグマのうなり声に聞こえてしまい、走って逃げました。沢を下って林道に出て、林業関係者に出会って安心したという、恥ずかしい思い出もあります。もう少し、見通しが利いて、明るい感じの沢であればよかったのですが・・・。調査対象の中新統(中新世の地層)と白亜系との境は、地形から決めてしまいました。

 信州佐久の山では、さすがにそんな恐怖はありませんが、やはり単独調査は心細いものです。ただ、この時は、そんな一抹の不安も感じないほど、燃えていました。(おとんとろ)

 

 

 

 

 

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佐久の地質調査物語-101

         《 内山層について 》

 内山層(うちやまそう)は、新第三紀・中新世の海成層です。
 北は、佐久市の内山川の上流部から、佐久市田口の雨川(あまかわ)流域、佐久市入沢の谷川(やがわ)上流域を経て、南は、南佐久郡佐久穂町大日向の抜井川(ぬくいがわ)にかけて分布しています。南北方向に約9km、東西方向に約5kmの幅で広がっています。
 いくつかの褶曲構造があり、繰り返して分布しています。また、海進~海退に至る堆積輪廻(りんね)が2回あったことが認められ、堆積盆の変動があったらしいことも示唆されます。南側には「山中地域白亜系」が、そして北側には「大月層(初谷層)」があり、一部、断層で接することもありますが、基本的には、それらの地層を不整合関係で覆っています。(【下の図・内山層の分布(概要)】を参照)

 内山層の分布域を説明する場合、大きく3つに分けて扱います。

(ⅰ)北部域:内山川本流とその左岸側・右岸側の支流、

(ⅱ)中部域:雨川水系と谷川・余地川

(ⅲ)南部域:灰立沢・矢沢・抜井川の北側支流です。

 さらに、(ⅳ)熊倉川(くまくらがわ)上流部と余地峠付近、馬坂川の支流等は、中部域に属しますが、項目を別に挙げて説明します。

     

        *  *  *  *

 

 地質絶対年代では、内山層は、今から約1900万~1600万年前に堆積したと推定されています。新第三紀・中新世前期に当たります。
 中新世中期(今から1200万年前を中心に、前後数百万年間)は、日本列島規模で、海底火山活動(いわゆる、グリーン・タフ変動)があった時代なので、内山層の堆積した時代は、その少し前の頃になります。

 ところで、これらの地層の佐久地方から関東平野に至る分布は、日本列島規模の地質構造を考える上で、大きな意義があります。
 それは、今日の研究で、中央構造線(Median Tectonic Line)が、佐久地方を通り、関東地方へ抜けていると考えられているからです。
 日本列島を二分する大きな断層である中央構造線は、九州地方から四国・紀伊半島赤石山脈を経て、長野県の伊那谷・諏訪盆地までは、かなりはっきりと追跡できますが、糸魚川-静岡構造線(フォッサ・マグナ西縁)で途切れてしまい、佐久地方では、わかり難くなっています。

 しかし、諏訪湖付近が分岐点となって大きく東に折れ曲がり、関東地方へとつながっていると推定されています。つまり、佐久地方の地下には、中央構造線延長の証拠が残されている可能性があり、その謎を解く鍵があるかもしれないのです。

 この時、佐久地方の千曲川以西は、第四紀八ヶ岳火山群の噴出物などで広く覆われてしまい、手がかりは極めて少ない状況です。千曲川以東は、ジュラ系・白亜系から新第三系などが広く分布しています。内山層の分布域と、その周辺地域は、まさに地質構造を研究する上で大きな意義をもち、手がかり発見の可能性を秘めた場所なのです。

 

 

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内山層の分布(概要)


  

 第Ⅰ章 研究課題の発見

 平成9~11年度の3年間、私は、「長野県望月少年自然の家」勤務の為、佐久教育会地学委員会を離れていました。ここでは、それまでの白亜系調査をまとめる機会が得られましたが、実地のフィールド調査については、ブランク期間となりました。
 この間、地学委員会の調査対象は、山中地域白亜系から新第三系(内山層など)に移りました。(本格的には平成10年度から)
 調査は、六川源一委員長を中心に、内山川水系の東側から始め、館ケ沢(たてがさわ)や、内山層の模式地とされる大沼沢・柳沢などの調査が行われていました。また、当委員会のご指導を天野和孝先生(上越教育大学教授)にお願いするようになっていました。
 私は、平成12年度(2000年)から、再び委員会の調査に加わりました。武道沢の最上流部の調査(6/10)を皮切りに、夏休みは釜の沢下流部に入りました。帰宅後、調査資料をまとめていた時、次のような疑問が湧いてきました。(平成12年8/5)

 

○黒色泥岩層の層理面を切るようにして、その大きさや形は様々ですが、「礫岩層」が 貫入している「異常堆積構造」が認められます。その産状から「コングロ・ダイク」 とフィールドネームで呼ぶことにしました。「コングロ」は、conglomerate(礫岩) から、「ダイク」は、dyke(dike)(岩脈)からの地学用語をもじって繋げ、命名した ものです。もちろん、正式な用語ではありません。

 ①コングロ・ダイクを構成する礫の出所は、一体どこからなのか?

 ②そもそもコングロ・ダイクの成因は、どうなっているのだろうか?

 どうしても私は、この疑問を解決したくなってきて、その次の週末、単独で釜の沢左股沢(8/11)と、釜の沢上流部(8/12)へ入りました。

 


         【内山川水系の主な沢】

 地図がないと位置関係がわからないと思いますので、内山川水系の主な沢を示します。
ちなみに、内山川は、千曲川の支流「滑津川(なめずがわ)」の上流部になる川です。
滑津川には、北側から香坂川・志賀川・内山川・田子川などが流入しています。)

 

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内山川水系の主な沢

 

【編集後記】

 既に原稿ができている内容について報告している訳ですが、「はてなブログ」の場合、文章と画像を別々に入力することになります。今日の場合、【内山層の分布】は、すぐに見つかったのですが、【内山川水系の沢】の図版が、なかなか見つからなくて苦労しました。

 ・・・でも、「はてなブログ」に載せるに当たり、うまく整理してなかった資料がわかり、改めて系統的に分類・整理したファイル管理が進行しています。

 とても有り難いです。ただし、内山層の掲載が始まったばかりで、この状況ですので、この先が危ぶまれます。

 まずは、3年間のブランクの後、地学質委員会に復帰し、自分なりの課題を発見したことを載せました。(おとんとろ)

 

 

 

 

佐久の地質調査物語-100

           は じ め に

 題名を『続・佐久の地質調査物語』としましたが、「フィクション」ではありません。ただ、物語という言葉に敢えてこだわったのは、自然科学を題材にした易しい話で、地質に興味のある人が、親しみを感じて欲しいと願ったからです。
 地質学に限らず、学術論文は難しいです。対象とする人のレベルや目的から仕方のない事情もわかりますが、もう少し私たち素人にもわかるように伝えて欲しい。また、一枚の地質図にしても、苦労して作られているはずなのですが、その大変さは見えてきません。そこで、地質調査がどんな風に進められてきたか、そこには、どんな失敗や人間ドラマがあったのか、そんな裏話やエピソードを知れば、マイナーな地質学の話題も面白くなるのではないかと思いました。
 そして、もうひとつの願いは、観察者としての記録を後世に残したいと思います。
 調査活動を通して得た実感は、『知りたい、見つけたい』と念じても、期待する対象物は容易に見つけられないことが多く、反対に、見てもわからないことだらけです。だから、私たちがフィールドを歩き回り、見聞きしたり集めたりした基礎資料は、何とかして後世に、後輩へ残すことに大きな意義を感じます。今は理解できないことでも、何年か後には、奇妙で不可解な露頭の謎を、もののみごとに解いてくれるのが、自然科学の歩みだと信じています。
 写真は、平成25年の夏、信州理研の調査で訪れた東京都三宅島「ひょうたん山」と、北東側海岸で見つけた「玄武岩質溶岩・流紋岩質溶岩・花崗閃緑岩」の礫です。【写真・下】

 また、炕火石(こうがいし)と呼ばれる流紋岩質の軽石を見つけました。
 島は、風化して土壌ができている場所もありますが、基本的には玄武岩質溶岩です。特に、アスファルトのような玄武岩質スコリア丘(昭和15年噴火)のひょうたん山付近では、白いものは特に目立ちます。同じく火山島の新島や式根島では、流紋岩露頭の分布も認められますが、三宅島には無いはずです。
 炕火石は、普通の軽石よりも更に軽く、遠き島より流れ着いた椰子の実の如く、新島から太平洋上を流れ渡ってくることは理解できましたが、海水に沈む流紋岩や花崗閃緑岩が、なぜここにあったのでしょうか?
(花崗閃緑岩礫は、ここだけでしたが、流紋岩礫は極めて希であっても付近全域で目についたので、人為的なものではないと思われます。)
 露頭として存在するほどの規模ではないが、火山島の内部に岩体があって、火山噴火の時に吹き飛ばされ、海岸で角がとれたのだろうと説明するのが、一番自然です。しかし、不思議に思いました。

(cf:佐久の地質調査物語「山中地域白亜系」の中の【編集後記】で、バイモーダル火山活動の話題をに触れました。)

 

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三宅島の流紋岩と花崗閃緑岩

 ちなみに、ひょうたん山の東側露頭で、スコリアと火山弾の中に、3cmを超える灰長石(anorthite)の巨大な塊(結晶)を見つけました。火山学や鉱物学的には、有名さと貴重さで、こちらの方が、数段高級な話題のようですが、残念ながら私には良くわかりません。
 こんな例のように、「黒い物の中から白い物」を見つけるぐらいのことなら、暑いのを我慢して現地に行った人は、誰でも発見できます。しかし、比較的長持ちのする「さざれ石」も永遠なものではなく、いつか姿を変えてしまいます。それ故に、拙い観察記録でも、残しておくことの貴重さを感じます。
 ですから、ルートマップを示した場面では、細々した情報も伝えたいので、くどいと感ずるかもしれません。また、基礎データーも大切にし、当時の状態を忠実に伝えたいです。そんな願いを込め、佐久地方の内山層について、語っていこうと思います。

 

 【編集後記】

 今日から、「内山層」についての情報を紹介していきます。原題は「続・佐久の地質調査物語」としてありますが、「山中地域白亜系」に次いでの内容だからです。

 そのシリーズは、2月~3月で終了しましたが、反省点として、『もし、見る人がいたら、順番がわかりにくいだろうな』と気づきました。そこで、今回は、「はじめに」を100番として、次回から、101番という風に、番号を増やしていくことにします。

 尚、物語とした理由は、前回と同様な理由です。今度は、農繁期になるので、「はてなブログ」への掲載は、飛び飛びになることが予想されます。その意味からも、番号を増やしていくのは、良いアイディアかもしれません。そして、自分への励ましにもなるかもしれません。

 よろしくお願いします。(おとんとろ)

 

 

 

 

春の風(弥生の句)

       令和3年3月の俳句

 

① 春一番 パシュートの如 群れ雀

② 強風も 地吹雪無きは 佐久の幸(よさ)

③ 白き嶺 山紫を残し 霞けり

 

 令和2年度最後の「みゆき会(句会)」は、新型コロナ・ウイルス感染者数が減ってきたので、2月分も併せて、3月17日に開催することとなった。
 農閑期は、ほぼ毎日、60分間程度の散歩を日課にしているが、「3月の題材はないかな?」と思いながら歩いていたら、何とか見つかった。
 題して、春の風三題である。


 【俳句-①】は、春の疾風が吹いてくると、木の枝に留まっていた雀の群れが、一斉に同じ方向に飛び立ち、途中で突然向きを一斉に変えて飛んで行った様子が、スピードスケートの団体パシュート競技を見ているようで感動した様を詠んだ。

 春の強風なので、春疾風(はるはやて)が、季語でも良いかなと思ったが、パシュート競技を連想したので、第一位・優勝をイメージして、「春一番」の季語にしてみた。

 ちなみに気象用語としての春一番は、春先に吹く南寄り(ESE~WSW)の強風のことである。気温が上昇して本格的な春の陽気となるが、その後で寒さが戻ることが多い。これを「寒の戻り」と言うようだ。季語には、春一番しか無いが、春二番~春三番もある。
 ところで、【写真】の平昌(ピョンチャン)冬季五輪大会、女子団体パシュート・日本チームの優勝シーンは良く覚えている。高木奈邦・美帆姉妹、佐藤綾乃選手に、準決勝戦では北相木村出身の菊池彩花選手も加わった。ベンチから応援の押切美沙紀さんの涙にも共感し、感動した。
 小平奈緖選手の500m優勝と、韓国・李相花(イ・サンファ)選手を慰める名場面もあった。2010年、カナダ・バンクーバー冬季五輪大会では、小平選手もパシュートで準優勝したメンバーの一人だった。全てが、とても懐かしい。

 群れ雀に感動したという俳句なのだが、本音は、自分でも幼少の頃から滑ってきたスピードスケートが好きで、しかも、団体パシュートでの優勝や会見場面が、あまりに印象的だったので、こんな俳句となったのかもしれない。

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パシュート(2018年・平昌冬季五輪)

 


 【俳句-②】は、非常に強い冬型気圧配置で、東北地方や北海道に、暴風雪・大雪・波浪警報などが発令されていた日にも、散歩にでかけたが、佐久平では地吹雪が無い分だけ幸せかと、心境を詠んだものである。

 前線を伴った低気圧は、日本海からオホーツク海に抜けて、発達し、爆弾低気圧となった。等圧線の詰まった日本列島は、荒れに荒れた。目出帽とまでの重装備ではなかったが、厳重な身支度で、冬田道へ午後の散歩にでた。あまりの強風で、吸う方も、吐き出す方も、とにかく息継ぎができない。目尻から涙も吹き飛ばされる。

 学生時代、冬山は何度も経験しているので、強風で雪が吹き付ける吹雪の激しさは知っている。ただ、「ホワイト・アウト」して、視界が効かなくなるような状況下では、テントの中で停滞日を過ごしていたので、地吹雪の体験は無い。

 『佐久地方でさえ台風並の強風なので、積雪のある北国では、吹雪や地吹雪に苦しんでいるだろうな』と慮る。どんなに強風でも、風だけで雪の伴わない佐久地方は、ありがたい、良い所だと思った。私は、寒いのは、我慢できます。

 【写真】は、小諸市飯縄山公園(富士見城)山頂から北アルプスを眺め、望遠レンズで槍ヶ岳をズーム・アップ、PC加工したものです。この時期の晴れた日には、雪のある地域の山々が良く見えます。

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北アルプス槍ヶ岳の遠望(小諸市飯綱山公園から)

 


 【俳句-③】は、冬から早春の頃までは、遠くの白い嶺が良く見えていたのに、いつしか冠雪も薄れて、近くの山並と紛れ、見え難くなっている。春霞の中で、ぼんやりとしている山の変容を詠んでみた。

 農閑期は、佐久の冬田道で散歩をしている。北に浅間山、東に荒船山、南東に茂来山から関東山地、南西に八ヶ岳連峰が見える。
 北西方向には、北アルプス穂高岳槍ヶ岳から、鹿島槍ヶ岳、白馬岳方面が見えている。

 ところが、浅間山から稜線を志賀高原の根古岳まで辿り、そこから低くなっていく先に、雲とも見まがえる白い嶺がある。

 良く晴れた日に確かめると、NNW方向にある雪山だとわかった。ちょうど、千曲川が北へと流れ下っていく方向が低くなっていて、北信五岳(戸隠山飯綱山黒姫山斑尾山妙高山)のひとつが見えているのだろう。白き嶺は、新潟県境に近い豪雪地帯の山でもある。
 北信地方に暮らしたことがあるので、特徴的な山容の妙高山(2454mASL)でないことは確かである。

 高気圧が日本列島を覆った2月最後の日に、白き嶺の正体を突き止めるべく、いつもの散歩道より、少し標高の高い所から観察してみることにした。
【下の写真】は、佐久市青沼から撮影したものである。白い建物は、故郷創生事業で建てられた旧臼田町の「コスモ・タワー」である。

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白き峰の正体(佐久市青沼から)


 その後で、コスモ・タワーのある稲荷山に登った。北アルプス日本海側に白馬岳方面が見え、もう少し北を見ると、【写真―下】のような白い嶺がふたつ見えた。
 ギザギザした稜線の特徴から、左側の山は戸隠山(1904mASL)だろう。それより北東側にあって、やや標高が高い山となると、黒姫山(2053mASL)ということになるかなと、推理した。飯綱山(1917mASL)では、手前の山に隠されてしまうだろう。

 ところで、日よって、見えたり見えなかったする小さな白い嶺を、毎日の散歩で楽しみにしていた。歩く方向によって正面となる浅間・八ヶ岳(蓼科)・北アルプスの山々を見るのも、胸の透く思いがする。しかし、見え隠れする白い嶺も、気に懸かる。
 ♯MeToo時代に、下世話な例えで、顰蹙(ひんしゅく)を買いそうだが、北アルプスは、スタイルも抜群な女優さんが水着姿となっているようで、見ていて飽きない。一方、小さな白い嶺は、女子高校生が自転車ペタルを漕いでいて、スカート丈から、白い脛や太ももが現れるような感じである。少し気が引けて、堂々と見られないが、見たいようでもあり、男心をくすぐる。山の名前が「黒姫」らしいとわかったが、神秘性は少しも薄れない。

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戸隠山(左)と黒姫山(右)の遠望(佐久市臼田・稲荷山公園から)

【編集後記】

 令和2年度の俳句が、3月(弥生)の句で終了した。これで、5月中旬頃までに、会員の一年間の俳句をまとめ、印刷して、令和2年度の俳句集にする予定である。

 ところで、その前に大仕事がある。

 5月連休に開催される薬師堂の花祭り(一月遅れ)に掲げる「奉灯俳句」の額を用意しなければならない。載せる奉灯句もさることながら、俳画のアイディアも練らないといけない。

 昨年の私の句は、『瑠璃色の 五輪待つ空 燕交ふ』で、俳画には、地元の浅間山を背景に、咲き誇るアヤメを描いた。

 なんとか、東京五輪パラリンピックができますようにという願いからだったが、今年は、そのことをもっと祈ったものにしようと思う。密かに、画題を考えてはいるが、やや難しいかなと心配もしている。

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 奉燈句の方は、なんとかできたが、あまり良い出来映えと思っていない。自分でも、そう思うくらいなので、先輩諸氏からは、選句されないだろうな。

 それでも、平成28年5月に入会してから、5年間も続けてこられたことに、少しは自信をもって、更なる精進をしていこうと思います。(おとんとろ)

 

如月の句(寒の入りから立春へ)

令和3年2月(如月)の俳句

 

① 日の出待つ 朝餉(あさげ)におろす 寒大根

② コロナ禍に 産土(うぶすな)ごとの 鬼やらひ

③ 春立ちぬ 巡る時空に 我も生く 

④ 早春の 枝間に懸かる 上り月

 

 例年2月下旬に、公民館主催の「区民の集い」という作品展示発表会があるのだが、中止となった。コロナ禍の第3波、非常事態宣言の発令を前に、令和2年の暮れに、開催中止のお知らせが回覧板で回ってきた。

 俳画を添えた作品で参加していたので、少し救われた思いもあるが、1月に続いて、2月も定例句会が中止となるかもしれないと思うと、残念である。

 そこで、待ち遠しい春を詠んでみようと思い、寒の入りから、少しずつ気温も日差しも増えていき、節分を経た立春を迎える自分自身の心境を俳句にしてみようと考えた。

 

 【俳句-①】は、朝飯に「大根おろし」を擦りながら、遅い日の出を待っていた小寒の頃を振り返り、懐かしんだものである。
 私は早起きで、午前7時~7時15分が、朝食を食べ始める時刻である。もっとも、時間が正確なのは、母の朝食時間に私が合わせているからである。

 私の理想とする健全な朝のパターンは、5時起床、ストレッチ体操、血糖値・血圧・体重の測定、5時半から朝食作りで約1時間、母の購読している信濃毎日新聞を読んで、必要箇所を切り抜く。(付箋を貼っておいて、後でもらう事もある。)

 それから、渡り廊下で棟続きの建物に住む母の所へ、新聞と朝飯を持って行き、NHK・BSの国際ニュースを見ながら、一緒に食べる。この時刻が、ちょうど7時だと、最高の孝行息子ということになる。

 元旦・初日の出は7時10分頃、一番遅くなるのは、小寒の頃の7時13分頃である。それから、少しずつ早まり、7時前後となるのは、大寒が過ぎた頃で、立春で6時台に突入し、2月7日の朝は、午前6時55分であった。

 我が家の日の出時刻は、群馬県との境界山稜のせいで、海面補正値より遅れるが、それでも、佐久盆地の西に位置する高台にあるので、佐久市民の中では、一番早く朝日の恩恵に浴している方だと思う。また、夜明けが遅い季節であっても、冬型の気圧配置となって、寒さや季節風が強まれば強まった分だけ、紺碧の空が広がる冬晴れの佐久平である。だから、朝日を浴びて、朝食をいただける幸せには、ひとえに感謝である。

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八ヶ岳・夏沢峠付近からの日の出


 【俳句-②】は、コロナ禍で、例えば善光寺の「豆まき」も自粛して、本堂で僧侶だけの儀式をしたとのTVニュースを見て、狭い地域や家庭での節分を迎えたのではないかと、詠んでみた。
 『恵比寿、大黒、豆参り』と、神棚に枡に入れた大豆を捧げた後、『鬼は外、福は内』と、結構、真剣な大声を張り上げて、豆まきをした。
 【写真】の年度は、孫がいたので、鬼のお面も用意したが、今年は、老夫婦だけの節分だった。ちなみに、食べるのは落花生豆でした。 

 ところで、今では12月31日が大晦日、1月1日が元旦で、新年の始まりとなっているが、その昔は、立春が新年の始まりだったと言う。そのため、立春の前日である節分が、大晦日だった訳だ。だから、1年を締めくくる節分は、その年の中でもとくに重要な日となる。来たる新年に向け、「厄や災難をお祓いする」行事が行われたのだろう。これが豆まきの由来になったと言われている。

 今でも中国や韓国では、「春節」と言って旧暦で正月を祝っている。日本でも、クリスマスを日本の行事に取り入れたぐらいなので、旧暦の正月も残しておいてくれてもいいのにと思う。

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節分の豆まきの後で


 【俳句-③】は、前述の「春節」の発想に立つと、一年が巡り、新たな自分の年の始まりを迎えたことに感慨を覚えたことを詠んだ。
 太陽の周囲を自転しながら公転する軌道を、地球が一周してくると、「立春」を迎える。
 今年の立春は、これらの軌道を修正する影響で、2月2日が節分、2月3日が立春となった。明治30年以来、124年ぶりのことであると言う。(ちなみに、昭和59年の立春が2月5日という変則もあった。)

 ところで、軌道計算をして、地球と太陽の位置を基準値に合わせれば、暦の上では、一年が巡って来たことになるが、「時空」の世界では、一瞬たりとも同じものはなく、増してや、元に戻ったという状態はまったく無い。
 たとえ、地球と太陽の相対的位置関係が戻ったとしても、肝心な太陽系自体も、銀河系の中で位置を変えている。更に、無限大の宇宙の中で、銀河系も動いている。同じ場所、同じ時間は、二度とあり得ない。
 そんな時空の中に、自分がいる。昨年より一歳年をとり、知らず死へと一歩ずつ近づいていくだろう自分がいる。生かされていて、ありがたいと思う。でも、自分は、「生きようとして、生きていたい」と思う。

 尚、「連歌」というものがあるが、試みに、「節分と立春」という意味で、俳句の連作というつもりで創作してみた。

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雪の日の朝(唐沢林道)


 【俳句-④】は、散歩の折、見上げた梅や桜の枝の向こうの青空に白く浮かび上がる、上弦の月が爽やかに見えた様を詠んだ。
 花と言えば桜、月と言えば秋の季語というのが、俳句の世界での決まりだが、月はどの季節に眺めても趣深いと思う。
 また、どの大きさ(三日月~満月~二十六日月など)の月も、その時々の状況や心情を反映して、様々な感動が生まれ、味わい深い。
 ここに詠んだ青空に浮かぶ白い月もいい。

 気圧配置の関係で、季節が一ヶ月以上も進んだ春本番の暖かさを運び、心身共に陽気になっている。見上げる冬芽も膨らんで、指で突ついてみたくなる。
 青空に白く孔を空けたような月は、これから一日ずつ太って満月へと成長していく上弦の月である。伸びゆくものの、爽やかさと明るい将来性に期待してしまう。

 【写真】の小さく見える白い点が、南天に懸かる上弦の半月より少し前の月である。となると、撮影した時刻は、午後3~4時頃か。

 

 

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梅の冬芽の向こうに白い月が懸かる

【編集後記】

 4月という月は、新入生や新入社員、新天地に赴任した等の人に限らず、普通に生活している私たちにとっても、大きな節目となります。

 「シイタケの種駒(菌)を、ホダ木に打つ」作業を、3月中に完了しようというのが、懸案事項でしたが、尾垂(おたる)の山へクヌギの木を取りに行き、3月30日と31日の2日で、500個の駒打ちをなんとか終えました。

 気を良くして、4月1日から、春ぶち(耕作)にも精を出して、農作業のスタートを切りました。ずいぶん暖かな日が続くので、ジャガイモの種芋も畑に伏せました。

 そして、今日は、曇り空で、午後から雨降りというので、次の懸案事項のひとつである『令和2年度の俳句のまとめ』に取りかかりました。

 それで、「はてなブログ」では、令和3年の1月以来となりますが、まず2月の俳句を載せました。(おとんとろ)