北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和8年 9月の俳句

      【長月の句】

 

 ① 猫じゃらし戯れる風とジャズダンス

               (志津田の里にて)
 ②  干支地蔵色なき風の通り道 

               (福王密寺にて) 
 ③ 松籟(しょうらい)や龍跳虎臥(りゅうちょうこが)の 筆つかひ

               (天来記念館にて)

        ≪秋風三題・望月吟行会≫

 

 昨年の9月は、最高気温が30℃を越える真夏日が、9月18日まで、ほぼ毎日続いた。それに比べれば、今年の9月は、優しい。24~25℃が最高気温で、朝は20℃ほどと、気温だけ見れば快適であるが、秋雨前線が日本列島に、ひつこく停滞して、雨の日が多い。ついつい外に出ないでいるので、畑は草茫々である。専業農家は、稲刈りの計画が立てられなくて困っている。
 ところで、こんな変則的な気象状況だが、今年の場合、明らかに異常と思われる気象現象をいくつか目撃した。
 そのひとつは、台風15号(Chan-hom)の進路と、千葉県の線状降水帯による洪水被害
である。

台風15号の東から西に移動する様子

 スーパー・エルニーニョ により、太平洋高気圧が大きく北上して縮小した。日本の南東に寒冷渦(Monsoon Gyre)ができたことで、日本への台風の進入経路が異なり、しかも東から西に進むという極めて稀な気象現象が発生した。
 加えて、日本海に抜けて、熱帯低気圧になった後、もう一度台風に戻った。台風13号による「藤原効果」もあったようで、さらに関東平野の特殊事情で、千葉県を中心とする洪水被害をもたらした。

台風18号と24号の変則的な動き

 

もうひとつは、台風18号(Soudel)    と、台風24号(Krovanh)である。
 台風18号は、中国の華南に上陸して熱帯低気圧になった後、復活して、ずっとループして居座り続けた。
台風24号も、一旦、北上した後で、南下して、沖縄近海で停滞していた。
 いずれも、例年の気圧配置下では起こり得ない異常行動で、長期間にわたり風水害をもたらした。
 そして、今年が直接的な契機という訳ではなさそうだが、ヒマラヤのネパールと中国国境付近で発生した8月26日の氷河と岩盤の崩壊に端を発した大洪水であった。明らかに、気候変動の積み重ねの結果だと言えよう。


          *   *   *   * 
 
 国際政治の動きは、それぞれの国々で静かだが、着実にある方向に向かって動いているように感ずる向きがある。しっかりと見届けたい。
 さて、今月は、9月11日(木)に、佐久市俳句連盟「吟行会」があったので、そこで詠んだ句でまとめてみた。

 

 【俳句-①】は、「猫じゃらし」こと「えのころ草」が、やや強い風に揺れ、リズム良く反復運動している様を、ジャズダンスを踊っていると表現してみた。季語は、「猫じゃらし」で秋である。

風に揺れる「猫じゃらし」

 子犬の尻尾に似ていることから名付けられた「狗尾草、エノコログサ、学名:Setaria viridis」は、イネ科エノコログサ属の植物で、一年生草本である。夏から秋にかけてつける花穂の特徴から名付けられたと言う。「猫じゃらし」の俗称は、花穂を子猫の視界で振ると、じゃれつくことからと言う。

 さて、佐久市望月小平の「雫田(しずくだ)山竹仙院・福王密寺」という真言宗の古刹を吟行で訪れた。寺の仁王門に通じる参道の入り口に「佐久三十二番観音札所」の石碑があり、この地が「雫田」ではなく、かつて、「志津田」と呼ばれていたことを知った。現在、参道の両脇は稲穂が波打っていて、他の雑草と共に「エノコログサ」が繁茂していた。
 風に揺れ、規則正しいリズムで「ツイスト・ダンス」をしている訳だが、異性とのダンスを期待して、戯れ誘った方は風であろう。「猫じゃらし」は、誘われた方である。それで、戯れる風が誘ったことを強調した。ただ、ダンスが始まれば、双方に楽しむのがいい。
 ちなみに、ジャズのイメージから、私はジャズ・ダンスを正しく理解していなかったようだ。かつて私が、学生時代に札幌の「デスコ」で酔っ払って、適当に腰を振って踊っていたダンスのような質とレベルではないようだ。関係者の皆様には、大変に失礼したと思う。
  
                    *  *  *

 

 ところで、私は「えのころ草」が好きになってしまい、玄関の小さな花瓶に挿して楽しんでいる。野趣の良さである。紫蘇の葉やジャガイモの花なども時々、登場する。

「えのころ草」の玄関飾り

 

 

  【俳句-②】は、福王蜜寺の弁財天の祭られた蓮池の南側に、「花崗岩に彫られ、十二支をかたどった地蔵尊」があり、そのユニークさと、寺の雰囲気の良さを詠んでみた。季語は、「色なき風」で、秋である。

 吟行会で披講してみたところ、私のこの俳句が、一番人気の5票を得てしまい、とにかく驚きである。今月は、「秋風」をテーマにしているが、かつての俳句会(みゆき会)で、私が季語をあまり多く知らなかった頃、先輩Wさんが披露したのを覚えていて、いつか使ってみようと考えていたというのが真相である。
  ちなみに、干支(えと)地蔵に加え、季語の「色なき風」と、下七句の「風の通り道」という組み合わせが良かったという感想である。

干支地蔵の前で(8月の下見)

おそろいの薄紫色の頭巾を被っていた

 

春の福王密寺 (しだれ桜)

 

 

【俳句-③】は、比田井天来(1872・明治5年3月2日生~1939・昭和14年1月4日・68歳没)を顕彰して建てられた「天来記念館」を訪れた時、目に留まった「龍跳」の書に感動し、詠んだものです。季語は、「松籟(しょうらい)」で、秋です。
 数年前の佐久市民総合文化祭の書道会場で、この書を見たことがありました。
そして、今回、佐久市俳句連盟の「望月吟行会」で、私が会の担当係となったので、吟行場所の下見をしたり、下調べをしたりしました。

庚申秋日 天來  大正九年(四十九歳作)

 この「龍跳」の文字は、「六曲屏風」の中に書かれていて、漢詩等を題材に、漢字文字数の多い比田井天来の作品の中で、大きな文字で「揮毫」のような性質を帯びた作品は珍しいという説明がありました。それで、「龍が跳躍する」とはどういう意味かと疑問に思い、調べてみると、「龍跳虎臥(りゅうちょうこが)」という故事があることを知りました。
 「筆の勢いを、竜(龍)が、天に向かって跳び上がったり、虎が大地に伏せったりしている様子にたとえた言葉で、中国の南北朝時代の「梁(りょう)の武帝」が、晋(しん)の王羲之(おうぎし)の書を褒め称えたことに由来する」という情報を得ました。
 それで、今月のテーマ秋風が、素晴らしいと表現する為に、この故事をヒントに、俳句にまとめることにしてしまいました。
 但し、「秋風」では釣り合いません。購読している新聞の「信毎俳壇」で、漢字が読めなくて覚えた「松籟」の堅い表現がふさわしいと、採用したというのが真相です。

木内恵理子館長の説明を受け、展示内容を鑑賞した

 いつもは、比較的素直に感動を俳句にまとめている私ですが、今回は少し肩肘を張って、言葉選びにインターネット情報などを使い過ぎた感があります。理性的な俳句と言えば聞こえは良いですが、少し違和感もありました。

 

 

              【編集後記】

  何んと今回は、同じ9月の中で、「はてなブログ」に載せることができそうである。しかも、新たに所属した「からまつ俳句会」は、前の月の25日までに、代表Mさん宛てに俳句を提出するシステムとなっているので、実は10月の俳句も完成(第1案)してある。
 私は、平成28年5月に俳句会(みゆき会)に入会して以来、翌年の7~8月に手術入院した2ヶ月を除き、"毎月3句を創作するというノルマ(Norm)"を果たしている。新型コロナ・ウイルスの影響で、何ヶ月も俳会が中止となった時も、令和6年6月「みゆき会」が廃会となって、私が所属会もなく一人だけとなった23ヶ月(約2年間)も、途絶えることなく実行してきた。
 半分は冗談だが、『お酒と「ハニトラ」には弱い』と公言している極めて意思の弱い私だが、それでも、「はてなブログ」に俳句を載せるということを実践し続けていることには、自分でも不思議である。
 『俳句が好きですか?』と問われれば、『まあ、好きな方です』とは応えるものの、『本業は、地質です』というのが、本心である。ところが、原稿は既に、できている部分もあるものの、「佐久の地質調査物語ーⅢ」が続かない。
 直接的原因は、新しい時代(白亜系や内山層から、もう少し新しい地層)に入って、(ア)露頭条件から地質図が作成できないことと、(イ)群馬県本宿地域との関係がわからないまま、(ウ)退職後、地学委員会を離れて指導者もいなくなっていることに尽きる。自分が生きたことの証として、佐久の地質を少しでも解明したいという夢がある。だが、その夢への挑戦力が薄れ、なかなか前進・実現へと向かわない。  

 ・・・なぜか? 自分では、正面切って自覚できないが、多分、俳句の創作が、地学研究の進まないことへの「逃げ道」であるのかもしれないと分析する。
 だから、夢は消えないので、苦しく辛く、かなり面倒で煩わしい俳句創作が、代償として機能して、創作活動が途絶えないのかもしれない。毎月に3句以上、俳句創作することは、滅多にない。
 ただ、生きれば生きただけ、その分だけ老い、そして、確実に死は近づいてくる。夢も実現できないまま終わる。どこかで、日常を転換しなければいけないと思っている。

               *   *   *   *

 今年の初夏から晩秋にかけては、緊張の日々が続いた。それが故に、ある意味、先を見越して行動ができたかもしれない。
 母の葬儀~四十九日法要が終わり、吟行会も無事に終えた。残りは、先祖祭りのような同族会総会があり、そこで共同墓地整備工事の代表として、来年初夏の竣工までを推進する。数日後には、地区財産区の研修旅行があり、その幹事も担当する。そして、10月始めには、ある団体の地学研修会のお手伝いがある。今は、その資料作りを始めた。 
 

地域の方とモルック競技を楽しみました


 

多忙とは言いながら、雨降りの一日となった今日、民生児童委員と保健指導委員らの主催による「いきいきサロン」に、家内と孫と共に参加して、北欧フィンランド発祥の「モルック」競技をしてきました。               
 今は皆、70~80歳前後か、中には90歳を越えた方もいましたが、子供の頃に遊んだ時の呼び名の『〇〇ちゃん』などと呼び合い、楽しんできました。(おとんとろ)

 

 

令和8年8月の俳句

      【葉月の句】

 

① あの朝か 別れを告げて 燕帰る

② 庭に咲く 鉄砲百合持て 妣(はは)訪ぬ 

③ 寂寞(せきばく)と 新盆の月 庭照らす ≪母の新盆≫

 

 母の亡くなった晩の翌朝から、我が家の軒下で巣作りを始めた燕は、何んと、母の「四十九日法要」の日の朝、5羽の子燕たちの巣立ちを完成させていた。
 満年齢、97歳と10ヶ月で亡くなった母は、「敬徳院慈晃壽淙大師」という戒名をいただき、我々の住む、現世から去ったのだが、まだ、遺影と位牌は、そのままなので、毎朝、それらと接する度に、母との惜別の思いが断ちきれないでいた。
 そんな折り、気持ちを癒やしてくれているのが、燕たちの動向であった。
 7月25日の朝には、身体が小さいので、多分、子燕だと思うが、一羽の燕が、かつての古巣を見に訪れた。 
  巣立ちの後の行動範囲は、我が家の北側に移ったようだが、このところ、燕特有な「ペチ・プチ・パチュ」の鳴き声が聞こえないので、心配している。
 もしかして、既に、この地を離れて、南国へと移動してしまったのだろうか。特に、縁あって、何年か振りに巣作りをしてくれた燕である。今季こそは、燕の帰る時期を、正確に特定しようと、注目している。

巣の外で過ごした5羽の子燕 (朝のシルエット)

 

 ところで、今年の7月下旬から8月初旬・中旬にかけては、繁茂の勢い知らずの夏草との戦いと共に、野菜の管理、収穫に加え、昨年には無かった様々な組織の事務局としての仕事が押し寄せてきてしまい、ものすごく大変である。
 不平・不満を言っても解決するものでもないので、農作業の合間を見つけて、ひたすら関係者らとの協議に取り組んでいる。これも、何も好き好んで参加する組織の「企画・運営」を希望した訳では無く、巡り合わせで、たまたま4つの組織の仕事が、しかも近接する時期に舞い込んできた結果である。
 これらと、母の「新盆(にいぼん)」行事が重なったが、一生には、二度と無い行事だと覚悟して、この夏を乗り切りたい。

 この八月の「テーマ」は、≪母の新盆≫として、それにふさわしい季語を見つけ、俳句を創作しようと思う。
 尚、新たに所属した「からまつ会」の句会が、長野県知事選挙で3週間延期となり、同時に、佐久市俳句連盟への「当季雑詠」俳句の提出時期が重なったので、同じ俳句3題を出すことにしようと思う。(正直、月に3句の創作で限界だ!)

 

  【俳句-①】は、燕親子が我が家の巣から離れた後で、本当に最後に、お別れを告げに来たのが、あの日の朝だったのかと知った驚きと共に、擬人化してしまうが、燕の義理堅さに感動したことを詠んだ。季語は、「燕帰る」で秋である。

子燕の巣立ち第1日目の朝(7月13日)

 燕に関しては、印象的な思い出がある。小学何年生かは不明だが、4月に学んだ国語の教科書の詩である。
 『山々の雪をあつめて
  ごうごうと谷にあふれて
  流れくだる
  このすさまじい水音は
  緩みかけた雪の下から
  一つ一つ木の枝が
  はね起きる
  それらは固い芽の
  たまをつけ
  不敵なむちのように

  人の額を打つ
  やがて山すその林は
  うっすらと緑いろに
  色付くだろう
  その中に早くも
  こぶしの白い花も
  ひらくだろう
  朝早く授業の始めに
  一人の女の子が手を挙げた 先生つばめがきました』

 丸山 薫さんの『北の春』らしいのですが、記憶にありません。しかし、最後の「先生、燕が来ました」は、当時から印象的で、しっかりと覚えています。
 ある日、燕がやってきて、家屋や田畑・通学路で見つけることは、できますが、なぜか、燕がいなくなった時の事は、正確に覚えていません。
 それで、私は、平成2年9月に、

『沙汰も無く コロナ禍残し 燕去る』なる俳句を当時の句会へ提出しました。燕が我が家の周辺に居なくなったことに気づいたからですが、正確に、いつであったかは不明で、燕が帰る時期は長年の謎でした。
 それが今年は、燕が我が家の軒下で巣作りをした縁もあり、興味をもって観察してきていたので、燕の動向について、いくつかのエピソードと共に、燕が帰る時期が正確にわかりそうです。
(1)5月25日朝:親燕2羽で巣作り開始
(2)6月中:いつ産卵し、孵化したのかは不明(※餌やりは2羽だけでない!) 
(3)7月 2日朝:大雨の後、玄関を開けると「ヤマカガシ」蛇が侵入
         子燕が巣から顔を出して泣くので、聞きつけたのか?
(4)7月 3日夕:ハクビシンなどの対策として、夜間の太陽電池照明開始
(5)7月11日朝:子燕が巣の外へ飛び出た(飛行は未熟)
                  ≪母の四十九日法要(厳密には48日目)≫
(6)7月12日朝:燕14羽(※)が自宅付近の電線に集結、こちらを向く
(7)7月13日朝:子燕5羽は、寄り添って一夜を外で過ごし朝を迎えた
(7)7月14日朝:居なくなる。家の北側の電線にいた。
(8)7月15日終日:燕を見かけない。
(9)7月16日朝(7:00):燕14羽が自宅付近の電線に集結
(10)7月25日朝:燕(子燕)1羽が、我が家の巣を見に訪れた【俳句①】
(11)8月12日朝(9:55~10:00):燕2羽(※)庭の電線に留まる


(12)8月14日朝(10:10~10:30):燕2羽、庭の電線に留まる
(13)同じ日の夕方(17:00~17:10):近くの電線に留まる
(14)8月15日夕方(17:30分)庭の電線に留まる
(15)8月17日朝(6:00)家の南側で1羽が囀る(もう1羽いそう?)
(16)「燕帰る」は、いったい何時(いつ)になるのか?  
      
 【俳句-①】は、7月25日の朝に1羽の燕を見かけたのが、最後だと思ったので詠んだが、それから18日後の8月12日に、2羽の燕(多分、子燕か?)を目撃した。さらに、その2日後(8/14)、再び、同じ2羽と思われる燕を見た。「燕帰る」時期は、7月下旬ではなく、8月中旬、お盆の頃なのかもしれない。

 ところで、観察内容の中で、「※印」をしたことには疑問がある。
 (ア)6月に親燕が子燕(雛)に餌を運んで来る場面で、明らかに2羽以上の燕が餌を運んできていた.(∵)同時に4羽が餌を運んできた状況を目撃した。仮に、2羽は親(カップル)として、他の2羽は誰(どういう関係)なのか?
 (イ)7月12日、14羽の燕が集結し、一列になって、群れの全員が我が家の方向(西向き)を向いて、電線に留まっていていた。
 『皆んな、来て!』娘の大声で外に出た時に目撃した光景である。
 『お別れの挨拶に来たのかな?』と、孫の一人がつぶやいた。私も同感である。
 問題は、14羽の中身である。

最後の昼餉 (平成29年6月2日)

【写真】は、平成29年6月2日、6羽の子燕が巣立ちした後、最後の餌やりをしている親燕(左端)の様子を、我が家の庭で撮影したものです。
 今、話題にしている5羽の子燕の巣立ちより、1ヶ月半早い。 燕の番(つがい)は、シーズン中に2度子育てをすると聞いたことがある。
 そう考えると、今季に育てた1回目(先)と2回目(後)の子燕が、いるのかもしれない。つまり、親(2)+先の子(7)+後の子(5)=14という計算式になる。
 これが正しいとすると、(ア)の疑問は、親と共に、先に育った子燕が協力して、後の子燕(雛)に餌を運んでいたと解釈すれば、謎が解けるかもしれない。
 しかし、新たな疑問が生まれる。後の子5羽は、我が家の軒下の巣で育ったことは事実だが、先の子7羽は、どこの巣で育ったのだろうか?

       *   *   *   *

台風15号が去った後に訪問 (平令和8年8月12日)

 

 発想を転換してみよう。
「巣作り・産卵・孵化・巣立ち」の周期は、およそ「四十九日」であった。周期Aは、4月中旬~6月初旬、周期Bは、5月下旬~7月中旬であると、我が家周辺(佐久地方)の観察例からは、推測できる。
 事例が少ないとは思うが、この時、佐久地方で生まれた燕には、早生まれ(A)と、遅生まれ(B)がいる。

人間の感覚では、せいぜい出生が1~2ヶ月しか違わないと、同学年生であるが、燕の場合にも、はたして、それが、当てはまるのだろうか?

 繁殖期の無いことは、「ヒト」(Homo sapiens)の極めて大きな特徴のひとつである。一方、多くの動物には、繁殖期がある。出生時期に関するAとBの燕の子に、繁殖期の差があるのではないか?
 言い換えると、同じカップルが2度の子育てをしているように見えるが、実際は、そうでは無く、繁殖期にAとBの2つのタイプがあるのではないか?
 そう考えると、ご近所付き合いをしていた2組の燕カップルの家族(共に親燕夫婦2羽と5羽の子燕を合わせて7羽×2)の合計が14羽なのかもしれない。つまり、我が家で子育てした燕カップルは「Bタイプ」で、相方は、「Aタイプ」の先輩カップルということになる。
 もっとも、動物の観察に、擬人法は「禁じ手」であると言われるようだ。詳細で、客観的な観察事実の分析と共に、多くのサンプルを得て、さらに燕を捕獲して、遺伝子(DNA)検査でもしない限り、真実は、わからないだろうと思う。
 (ウ)それにしても、いつ「燕が帰る」のかは、皆目わからない。最後に挨拶にやって来たかと思ってから、1ヶ月近くも経った8月12日に、さらに2日後に、2羽でやってきたのは、なぜだろうか?
 我が家で育った燕のようにも感じられたが、観察できたのは、わずか10分間程度であり、根拠は無い。しかも、我が家に直接的な縁のあった7羽の内、どの2羽だったのか、それとも、新たなカップルなのか、まるでわからない。

 「燕帰る」は、もう少し先を観察しよう。日付を決めて一気に帰るというより、少しずつ東南アジアなど、南方の地へ移動していくようだ。もうしばらく注意深く観察してみようと思う。

 

 

鉄砲百合(テッポウユリ)

 【俳句-②】は、8月1日の「お墓参り」に、母の好きだった「鉄砲百合」の花だからと言う理由もあるが、寧ろ、以下に述べるエピソードのことを強く意識して、母との思い出を花に託して詠んでみた。季語は、「鉄砲百合」で、夏である。

 【写真】の鉄砲百合は、園芸種で、商品として流通するような大変に綺麗な花である。我が家の庭に昔からあって咲いていた鉄砲百合は、もう少し地味で素朴な感じがした。また、花弁に斑紋のある山百合や鬼百合の花も咲いていて、開花時期には、百合花粉独特な匂いに満ちていた。
 佐久地方では、「戌の満水(寛保2年、1742年)」と呼ばれる千曲川の大洪水による死者を追悼する風習があり、現在は新暦の8月朔日(ついたち)に、墓参りをする。子どもたちは夏休み中だが、大人は勤めの関係で休みが取れない人もいる。かつては、定休日にしていた企業もあったと聞くが、今日では、ほとんど無いようだ。
 さて、我が家では、三世代家族6人が揃って、午前10時半頃、500mほど離れた先祖代々の墓地へ徒歩で参拝した。「線香」・「水」・「庭の花」・「水の子(※)」などを分担して携えて行く。
 そして、同族先祖の80基ほどの石塔を回って線香で焼香する。30分近くは要した。


 徒歩で往復する時間も加えれば、優に40分以上、炎天下の中で活動してから帰宅する。早速、山の清水が流入する池の中に沈め冷やしておいた西瓜(スイカ)を切って食べる。麦茶か緑茶を飲んで、汗の引いていくのを待つ・・・・というのが、私の子どもの頃の墓参り光景であった。
 その折り、私の目から見て、冷静沈着で、極めて健康的で、あまり失敗をしたことを見たことのない母が、お墓参り用に庭の花を切って、新聞紙にくるめる時に、鉄砲百合の花粉を白いブラウスの袖に付けてしまった。
 献花する庭の花と言っても、豊富にあった桔梗や、ダリヤ・ヒメジオンが主力だが、皆が大事にしていた鉄砲百合も、急遽、献花に加えようということになり、母が少し慌てて用意しようとした矢先の事故であった。

 母は、ブラウスを着替えることもなかったが、とても汚れを気にしながら墓参りをした。
 私は、小学校高学年生になっていたかと思うが、几帳面な母が、衣服の汚れを気にしている光景を思い出す度に、母の性格や、当時のお墓参りの様子を思い返し、懐かしくなる。

鬼百合 (オニユリ)

 

山百合 (ヤマユリ)

               *  *  *

 時代も移り行き、お墓参りの風習にも、変化が出てきた。
 (※印)を付けた「水の子」は、洗った生米と、賽の目に切った茄子・胡瓜を、重箱に入れて持っていき、墓石の上に少しずつ供えていた。多分、衛生上の理由
からだと思うが、私の小学低学年生の頃が最後で、その後は止めてしまった風習である。「やかん」に水を入れて持って行ったのは、いつしか「ペットボトル」に入れていくようになった。
 一番大きく変わったのは、1人1基の墓石ではなく、迦陵塔(佐久地方では、この漢字を当て、「かろーとう」と発音する)という共同墓地施設になったことである。つまり、一カ所に納骨した施設に設けられた「焼香・献花台」で参拝すれば、全ての精霊にお参りが済むようになった。もっとも、戦死した私の伯父に当たる人や、6代前までの直接的な先祖、五輪塔、伝「仁左衛門・仁右衛門」兄弟像などには、今でも参拝して回る。それでも、10分もあれば墓参は終わるので、極めて能率的になった。記念写真の撮影をしても、多くの時間は要さない。
 家に帰れば、クーラーの部屋で、冷蔵庫で冷やした西瓜を食べる。今も、暑いことには変わりはないが、その快適さには隔世の感がある。

 ちなみに、我が家には、母が老人介護施設に入る前に、群馬県の百合園へ見学に行き、買い求めてきた園芸種の何種類かの百合が、庭に植えてある。しかし、不十分な手入れが原因か、球根の勢いが落ちてきて、美しい開花が少なくなってきている。
 園芸趣味を楽しんだ母は、庭園作りや盆栽を愛好した父の残したものを守ろうとした背景もある。その後を受け継いだのは,私の家内で、それなりに、うまく経営している。私は、庭の芝生の刈り取りと、西口~北口~東口の除草を担当している。こちらも、結構、大変なことではありますが・・・。

「カサブランカ」(園芸種)

 

【俳句-③】は、母の新盆を迎えた、例えば8月13日の晩のことを想像して、詠んでみた。家内と2人だけとなった静かな夜に、母の霊が迎え火の煙に乗って我が家にやって来て、辺りに漂っているのだろうか。覚悟はして、心準備はしていたが、母という大切な存在を失った寂しさと空しさ、そして今までとの違和感などが絡み合う。季語は「新盆の月」で、秋である。

「新盆の月」(イメージ)

 「生者必滅、会者定離」とは、生命のあるものは必ず死ぬこと、出会った者は必ず別れる運命にあるという意味で、仏教のひとつの究極の「悟り」の境地を端的に表現している。この境地は、確かに、人生の儚さを象徴している一方で、この世の無常観を越えれば、次の希望が見えてくると言うような、明るい受け止め方もできるようにも思い始めている。
 と言うのも、私たちの場合、最後の最期まで、母とは何んとか意思疎通ができたので、心の準備はできていた。人の死に悲愴感は、あまりなかった、また、遠路何度も、見舞いに来てくれた妹夫婦も含め、充分に母への孝養を尽くすことができたと思っている。
 だから、俳句に詠んだ「寂寞」という表現は、ひっそりとしてもの寂しいが、悲しむと言うより、絶えず何かに押さえつけられていた心(緊張)が解けて、澄んでくるような気持ちがしていた。

 ところで、「新盆の月」とは表現したが、今年(2026年)の8月13日(迎え盆)の晩は「新月」であった。月影が庭を照らすことは、全くなかったはずだ。
 しかし、実際の月齢とは大きく違うが、先に述べた気持ちを象徴するように、「満月」でもよかった。

 

                        【編集後記】

 佐久地方では、8月12日を「花市(はないち)の日」と呼んでいる。今では、昭和60年8月12日「日本航空123便墜落事故(御巣鷹山)」の方が有名であるが、翌8月13日の「迎え盆」に飾る花を、売り買いした歴史がある。
 例年だと、盆飾りに供える花は、家の庭に咲いている花を切ってきて、花瓶に挿しているが、今年は、8月16日(送り盆)に、近親者を自宅に呼んで、「新盆供養」をするので、花屋さんから少し高価な飾り花を購入してきた。こちらの用意は、家内が担当した。
 私は、先祖の位牌を並べたり、盆提灯を組み立てたりした。母の遺影と位牌を中心に置き、隣に夫(父)と母の実母の位牌を配置した。いつもは、戦病死した伯父(海軍将校)の位牌も、前面に出すが、今年は、少し多くなるので、後方へ移動してもらった。私の祖父母と家内の両親(父母)、さらに、祖父母の、それぞれの両親の位牌が並ぶ。私から数え、3代前までの先祖の位牌である。

 次に、家の畑で収穫した夏野菜と「米粉団子」、贈っていただいた梨・ブドウ・桃などを供え、恒例の「胡瓜の馬と茄子の牛」を用意した。

「茄子の牛と胡瓜の馬」



 最期に盆提灯に火を入れる。(実際は、スイッチを入れ、電球を点灯する。)
先祖の霊を迎え入れる体制が整ったことに安堵し、ふと昨年の悪夢のような「お盆前後10日間」のことを思い出していた。

「救急車で搬送された」(イメージ)

 8月1日の小学校の同級会の後、翌日の向かい酒が過ぎて、二日寝込んだ。その後、減った体重を戻そうと食べるが、一向に回復しない。
 その内、便秘になり、水を飲むと吐くようになる。花市の日に、お盆飾りができなくて、『御先祖様、迎え盆の日に飾りますから、お許しください』と寝るが、とうとう、経口補水液も飲んだら、しばらくすると全て戻していた。
 意識もはっきりしているし、痛みも無いが、不快な思いでひと晩越せる自信がなくなってきた。
 私たちの世代は、意識不明か、出血多量でもないと、救急車を呼ぶのは、申し訳ないと思ってしまう。
 迷っていたら、母の救急搬送の時と同じで、娘が119番通報をして、私は救急車で運ばれることになった。

 『娘焚く 門火見て乗る 救急車』
      ・・・・・・その時の光景を、退院間際の病床で俳句に詠んだ。

 4月下旬には体重80㎏(BMI:25~26 )を越さないようにと警戒していたが、8月初旬には、72~73㎏になって、減っていく体重に不安を感じていた。
 結局、真の原因はわからなかったが、「腸閉塞」になっていて、開腹手術をした。その後は、調子も良く、しかも、体重は74~75㎏で安定している。更に、今年の夏は、血糖値や血圧も正常値の範囲になり、体調も快調で、調子が良すぎる。今度は、そのことを少し心配している。(おとんとろ)

 


    

 

平成8年7月の俳句

        【文月の句】

 

 ① 合歓(ネム)咲いて 空の深さを 透かし見ゆ
 

 ② 水面に落つ 菩提樹の花 砂時計 

 

 ③ 百日紅(サルスベリ) 続く通りを 老ひ二人   

 

              ≪母の四十九日まで≫     

  今年の佐久地方の梅雨の雨は、6月に分散して適度に降ってくれて、夏野菜への水遣りの必要もなくて助かった。7月に入って1日深夜~2日未明、7月5日と6日の午後の俄雨があっただけで、最後に、7月16日深夜と、18日午後の雨降りで、7月20日の「海の日」には、梅雨が明けた。

風が吹かないと風鈴も鳴らない!

 それ以来、暑さは朝から厳しく、日中の最高気温が35℃を超える「猛暑日」が続いている。もっとも日本各地では、さらに1ランク上の「酷暑日(40℃以上)」なる記録を観測し、報告されている。
 我が家では、2年前にようやく寝室と台所、お座敷にクーラーを入れた。夜の寝苦しさから解放された。今年は、もう1台増やすことにした。しかし、2階の私の部屋は、昔通りで、網戸付きの窓を全開にして、扇風機を回している。あまりの暑さに、入り口側からも、もう1台の扇風機を使って、北(裏山)からの風を拡散していると言う涙ぐましい実態である。
 家の中にいる限り、熱中症の恐怖は感じないが、熱波の影響で、欧州では亡くなる人の数が万単位に上ったと聞くと、驚くばかりである。地球温暖化は、進行中なのだろうか?
 ふと、1993年(平成5年)8月15日の昼間、同じ私の部屋で、冬物を出して羽織り、しかも石油ストーブを焚いたことを思い出している。夏の終わりとは言え、冷たい北東風が吹く異常な冷夏で、国産米が実らない地域もあって、外国から米を緊急輸入した。
 当時、学校給食の週1であった米飯給食では、家庭から、御飯を弁当箱に入れて持ってくることになっていた。我が家は米農家なので、「ジャポニカ米」である。輸入の「インディカ米」を食べてみたいと、私は生徒に頼んで、「おにぎり」にして持ってきてもらって食べた。私が40歳を迎える夏の出来事であった。 
 伝え聞くところによると、私の生まれた1953年(昭和28年)の夏も、記録的な冷夏であったと言う。私が80歳を迎える2033年の夏は、どんなことになるのだろうか?

イラン・ハメネイ師の国葬

 さて、7月4日、米軍とイスラエル軍による先制攻撃で死亡したイラン最高指導者ハメネイ師の国葬(初日)が執り行われた。

米国建国250年を祝う花火

 一方、米国建国250年式典が、米国各地で開催された。首都ワシントンでは、85万発の煙火で、大気汚染が通常の6倍となったと言う。
 紛争がなかなか解決しない両国の対照的な日であった。7月11日(土)、我が家では、母の曾孫まで含め、20名の参加で「四十九日」法要があった。

 

合歓(ネム)の木

 【俳句-①】は、合歓(ネム)の木に花が咲く頃になり、下から見上げると、マメ科特有の対生の葉が羽毛のようで、その隙間から青空が見える。夏簾の内側から外の景色を見ているようであり、透けて見える青空は、遠くにあるというより、深い淵の奥を想像しながら覗いているような錯覚を覚えた様を詠んだ。
 季語は、合歓(ネム)で、夏である。

 ネムノキ(合歓・棔) 学名: Albizia julibrissinは、オジギソウ連、ネムノキ属の落葉高木。夜になると、小葉が閉じて垂れ下がる就眠運動を行うことが知られている。オジギソウの葉に触れて閉じる現象は、実際にやってみたが、ネムノキは、まだ、検証したことはない。しかし、切れ込んだ細長い対生葉は、とても神秘的である。
 また、タンポポの綿毛を連想し、白から赤(ピンク)へのグラデーションとなる花の形態も印象深い。

花の拡大



 近づいて見ると、細い糸のような花弁が、まるで手作りの「ボンボン」のようであるが、遠くから眺めていると、違う印象をもつ。チョウチョが群れているようにも見えるし、人が人工的に着たり飾り付けたりした「ショール」や「ストール」のようにも見えてくる。
  和名は、「眠る木」を意味し、夜になると葉が合わさって閉じて眠るように見えることに由来する。漢字名「合歓木」は、葉が合うところからで、中国において夫婦円満の象徴とされていることを改めて知った。

花のグラデーション

 

 【俳句-②】は、池の水面に菩提樹の黄色の花が落ちる。木の上で咲いている分にはきれいだが、落下時期には毎日のように、網で掬い上げないといけない。
(秋~冬にかけて、今度は枝と茶色に枯れた葉が、水面に落ちる。殻付きの実も加わる。こちらも、粘り強く網で掬い上げる日々が続く。)
 こんなにも、清掃に時間をかけさせる菩提樹は、無い方が良いと一瞬、思うのだが、「砂時計」を繰り返し、反転させてしまうような、貴重な思い出の場面と時間が流れていく。そんな心境を詠んだ。
 季語は、菩提樹の花で、夏である。

菩提樹の花

  ボダイジュ・学名: Tilia miquelianaは、アオイ科シナノキ属の落葉高木。別名「コバノシナノキ」、中国原産で、中国名は「南京椴・ナンジンドゥァンnánjīngduàn」である。寺院などに植えられることが多いと言う。
 桜(ソメイヨシノ)が咲いて、花が散り始める頃、ばらばらになって水面に落ちた花弁は、「花筏(はないかだ)」の季語で詠われ、静かに流れていく光景を眺めていると、大自然のミニチュアのようで気宇広大な気持ちになる。
 また、少し強めの風が吹くと、一斉に花びらが舞い散り、「花吹雪(はなふぶき)」の季語で詠われる。遠くから眺めているのも良いが、舞い散る花びらの中で佇むと、かつての結婚式で、紙吹雪(Confetti shower)で祝福された場面を思い出す人もいるかもしれない。 
 どちらの花の散り方も優雅で、それを愛でることは、風流だと思う。しかし、いつも感じることだが、散った花びらの後片付けをしたり、清掃したりしている人は、大変だろうなと必ず思う。ふと、季語の良さが薄れてきて、下々のことを顧みないで、優雅を愉しむだけの貴族趣味かもしれないなあと思うことがある。

水路の掃除

 

菩提樹の花が池の水面に落ちる




 我が家の池と菩提樹の関係は、眺め見て楽しむ人と、水面に落ちた花や枯れ枝、実を片付ける人が、同一人物であるという点で、大きく違っている。

 さらに菩提樹について、「砂時計」を何度も反転させた時のようにと表現したが、繰り返される四季の移ろいの中に、決して尽きることの無い思い出が詰まっていると感じているからだ。

枝と葉 (秋に落ちる

昨年の殻付きの実


 私の祖母(明治28年生れ~昭和62年没1985-1987)は、私に良く昔語りをしてくれた。   
 この菩提樹は、当地に嫁いできた年から3年目の秋、7歳年上の兄が、苗木を持ってきてくれて植えたもののようだ。昔の建築方式で、新居ができ上がるまで、2年半かかり、大正9年の秋に完成した。新築祝いに招かれた兄が、『この菩提樹が、お前(祖母)を見守っているからな』と励ましてくれたと言う。   
 薬師堂の敷地内に植えたわけだが、遠慮して、端に植えたので、大木に育った今では、隣接する我が家の池に大きく被さり、花や実を池に落下させている。
 祖母の兄は、向学心旺盛な人で、佐久地方にまだ中学校が無かった時代、上田中学に進学したが、家の都合に経済的理由も加わり、中途退学させられることとなった。兄が一晩中泣き明かしていた姿を見聞きした祖母は、学ぶことの大切さを思い、自分の子らには高等教育を受けさせようと願ったようだ。一昔前には良くある話だが、他にも様々な感動的なエピソードがある。
   
 祖母が亡くなってから、今年で39年目。
 母の「四十九日」法要と共に、父の「三十七回忌」も併せて執り行った。
 もう、すっかり大昔の出来事となっているのに、菩提樹の黄色い花を見るたびに、そして、その花を網で掬い取って片付け、池の水面をきれいにするたびに、祖母の兄が、一番下の妹(祖母)に寄せる思いが伝わってくるようで、思わず「砂時計」を連想した。
 ちなみに、増えすぎる「オオカナダ」も、定期的に除去し、綺麗にしている。

 

 

 【俳句-③】は、真夏の昼下がり、暑さをものともせずという風情で、サルスベリの花が元気に咲いている。その花の群れが、並木道となって連なっていると、なぜか、少し大げさな「人生」とでも言うような、自分の生きてきた、そして、もう少し生きて行くだろう、この先の道筋を眺めているような心境になった。そんな気持ちになった様を詠んだ。
 季語は「百日紅(サルスベリ)」で、夏である。

百日紅(サルスベリ)の花

 かつて我が家の庭にも、父の植えた百日紅の木があって、真夏に咲く赤い花と共に、木肌の特徴も良く覚えている。
  和名「サルスベリ」の語源は、木登り上手なサルでも、滑り落ちるほど樹皮が滑らかであるとの例えから名付けられたと言う。そして、花が咲いている期間が長いことから、和名・漢名でも「百日紅」である。
 我が家の百日紅の木が、どうして消滅したのかという詳細のほどは、わからないが、かつてあった場所には、200Lと250Lの石油タンクが設置されている。
 ところで、この俳句に詠んだイメージは、かつて勤務したことのある佐久市立U中学校前の「サルスベリの並木道」である。
 同時に、二学期の始業式に学年を代表して、抱負を述べた教え子(Rさん)の、大人をも感動させたサルスベリの引用文のことも思い出す。

 「人に千日の好(こう)なく、花に百日の紅(くれない)なし」とは、幸福や栄華は永遠に続かないことを示す、中国から日本に伝わった諺です。
 「人の幸運や良い時期は長く続かず、花の美しさも永遠ではない」という意味で、花が百日間も鮮やかに咲き続けられないように、人生の幸福や栄華も長くは続かないことを比喩的に表現しています。つまり、絶好調の時期であっても過信しないで、世の中の変化に備えることの大切さを教えているようです。
 出展は、中国の元(モンゴル帝国)代の楊文奎による『児子団円』に由来し、「人无千日好、花无百日红」と表記されました。中国語の慣用句として、友情や幸福の移ろい易さを喩えています。日本には、この意味で伝わり、特に「花の命の短さ」を強調する諺として定着してきました。 
 
 当時の彼女が、これらの意味を込めて発表したかは覚えていませんが、夏休みの前に咲き出し、夏休み後にも、同じように咲いていた「サルスベリ」の元気さに着目した眼力は本物だと、今でも思っています。 

 

 

【①】北海道大学のポプラ並木



【②】旧制松本高校跡地・あがたの森公園

【③】佐久市・長野牧場 (麦の芽生え)

  これから、私は、「並木道」の思い出について語ろうと思います。 

 【写真①】は、北海道大学の農場にある平成のポプラの並木道です。かつて、私たちが冬山に備えてランニングした時の昔の並木道とは、位置と方向が違うようです。しかし、農場から眺めた手稲山との思い出は、今でも強烈に記憶に残り、尽きることがありません。
 【写真②】は、旧制・松本高校(信州大学の前身)の跡地、「あがたの森公園」の樅(モミ)の木の並木道です。落ち着きのある重厚な幹の趣に、帝大を目指して学んだ当時の学生たちの情熱が伝わってくるような気がします。松本へ行く度に、アルプス公園と共に、良く訪れる場所です。

 

 【写真③】は、家畜改良センター茨城農場・長野支場(通称・長野牧場)のカラマツの並木道です。西北西に延びた麦の列が、かつてあった戦時下の滑走路のようだと詠んだことがありました。(令和元年の句)
  並木道は、その木の本数が多いという応援してくれるような効果の他に、どこか、果てしなく未来に続くイメージがあります。反対に、振り返った時は、自分の歩みを確かめるような気持ちにもなります。
 「サルスベリの並木道」の元気さにあやかりたいとの思いと共に、最近、私だけで無く、家内も衰えてきたような気がして、敢えて二人の歩みとしてみました。私たちも、あと5年で金婚式を迎えます。
       

        【編集後記】

 8月の俳句会(第二土曜日)に提出する俳句の提出締め切り日(25日までに)を既に2日も過ぎています。定年退職した私たちには、「今日やる用事がある事」すなわち、「教養=今日用」が必要ですが、少し、ストレスになっています。
 8月の俳句とは言え、提出締め切りが、前の月の下旬なので、少し時期がずれてしまい、季節に合いません。人数が多くもない俳句会なので、当日までに持ち寄るようなシステムでも、いいかなと、M代表には変更を伝えようと思います。  

 ところで、菩提樹の「実」を集めて楽しんでいます。

実を集めて遊ぶ (春先)

 




 殻付きの実を集めて、殻を破って、黒い実だけを集めます。通称、「鐘撞き堂」の、薬師堂鐘楼を支える梁には、いくつもの節穴があって、そこへ、菩提樹の実を、孫と一緒なって入れているのです。もっとも、70年前の私の遊びを、孫が受け継いでいるからです。
 鐘撞き堂の同じ穴(木の節目)、まだあったんだという思いと共に、確かな自覚も無く、長い年月が過ぎたことに対して、驚いています。(おとんとろ)

 

 

 

令和8年6月の俳句

      【水無月の句】

 

① 新茶には 白湯が似合うと 母の声

 

② 朝ぼらけ アカシアの風 頬(ほお)に受く

 

③ 伽羅蕗の 歯ごたえあらわ 喜寿なかば

                 ≪初夏の味≫

 

 今年の関東・甲信地域の梅雨入りは6月7日で、平年と同じだと言うが、雨降りが二日続いた後は、曇り空を一日経た後の6月10日は、しっかりと晴れた。
 日照時間の長い時期を利用して、まだ本州で、一度も足を踏み入れたことのない「鳥取~島根の観光旅行(特に、足立美術館と松江城・出雲大社)」を計画しているが、老人ホームに入所中の母が心配で、なかなか実現できないでいた。
 しかし、母の葬儀(5/29)が済んで自由時間もできたので、「One-Day Trip」ならと、国宝で有名な富山県高岡市の「曹洞宗・高岡山瑞龍寺」を中心に、周辺の名所旧跡などを訪ねることにした。

瑞龍寺・法堂

 瑞龍寺の第一印象は、奈良の東大寺大仏殿を初めて訪れた時の木造建築の大きさへの驚きと、開放的な雰囲気で、共通していた。
 我が家の菩提寺・貞祥寺のように、木立に覆われ苔生した伽藍を想像していたが、地面空間は芝生で覆われていて、少し違和感を覚えた。元々は白砂か裸地であったかもしれないが、寺を含めた自然環境の維持・管理という観点からは、うまい対策だと思った。
 そして、日本3大「大仏」と称せられる高岡大仏を、訪れることができた。 ただ、高岡市内の商圏が他に移ったのか、駅周辺のシャッター街の多さには驚いた。綺麗に整備された町並みなのに、極めて短期間で大きな変化があったのだろうと推測した。北陸新幹線の高岡駅が、少し南側にできたことの影響もあるかもしれない。
 最後に、雨晴海岸(あまはらし・かいがん)を訪れた。梅雨時にも関わらず、富山湾と立山連峰を、しっかりと見ることができた。

富山湾(新湊)と立山連峰(剣岳)

 さて、6月の農作業の大イベントと言えば、タマネギとニンニクの収穫だが、
もうひとつ大事なのは、「梅の実取り」である。今年は幸運にも大豊作であったのだが、事情があって4回に分けて収穫した。 
 『もう嫌だ!』と妻が叫ぶ。毛虫が大量発生し、梅の木の枝に、びっしりと付着いているからだ。私は、毛虫の毛が皮膚に触れるとアレルギー症状が出るが、それでも気にもしていない。剪定も兼ねて、大きな枝ごと切り取り、毛虫退治もしながら梅の実取りをした。
 さて、今月は、テーマを初夏の味として、体験したいくつかの味覚や食事に関する内容を俳句にしてみた。

 

 

 【俳句-①】は、妹から贈られてきた新茶を飲もうとしたら、妻が、「熱湯は駄目よ!」と制止して、「お母さんのように白湯でね」と言うので、懐柔されてしまった。妻は、大切な要求時には、「お母さん(お父さん)なら○○する」と、説得作戦を練って攻撃してくる。「母の声」だ思い観念した。新茶をぞんざいに扱ってはいけないと自覚した時の思いを詠んだつもりである。
季語は「新茶」で、夏、特に初夏である。

新茶には白湯が似合う

 母は、夜の睡眠に配慮して、午後は緑茶を控えて、白湯(さゆ)を飲んでいた。夜中に起きた時は、白湯で口を注ぎ、乾きをしのいでいた。睡眠導入剤に頼っていた時期もあったが、晩年は、「白湯療法」で、寝不足は解消されたようだ。これが、長寿の秘訣なのかもしれない。
 一方、白湯に関しては、長女のこだわりからも情報も入って来る。
 印度の「アーユルヴェーダ(Ayurveda)」による白湯のイメージは、母の飲んでいた「湯冷まし」とは、少し違うようだ!
  アーユルヴェーダでは、白湯は「ウシュナ・ジャラ(温かい水)」と呼ばれ、単なる水分補給ではなく、アグニ(agni消化の火)を燃やし、アーマ(àma未消化の毒素)を洗い流す浄化の飲み物として位置づけられている。印度5000年の歴史を持つアーユルヴェーダの健康法のひとつが、白湯なのだ。
 健康の秘訣は「アグニ」にあり、これが強ければ、しっかりと消化・吸収され、弱ければ「アーマ」が体内に蓄積して、不調の原因になると説く。白湯は、このアグニに働きかける。温かさがアグニを活性化させ、消化器官に負担をかけないで、流動性でアーマを溶かして、排出を助ける。
 人の体質は、3つのドーシャ(Dosha・体質タイプ)、すなわち、「ヴァータ(Vata)」・「ピッタ(Pitta)」・「カパ(Kapha)」的要素の傾向で異なり、その白湯の温度や量、生姜を加るなど、処方が少しずつ違う。
 しかも、先天的要素と共に後天的要素のあるプラクリティ(Prakriti)は、日々変わりつつあるので、その変化にも注意が必要だと説かれている。
    

            *  *  *  *

「白湯」を作るには、一旦沸騰した後、さらに10~15分間煮沸し続ける。長く沸騰させることで、水の性質が変わると考えられている。
 (∵) (ⅰ)長く沸かすほど、水の軽さ(ラグ)が増し、消化しやすくなる。
(ⅱ)やかんの蓋を取ることで、空気に水が触れ、風(ヴァーユ)の元素が入り、3元素(火・水・風)が統合される。
(ⅲ)塩素やミネラルの一部が蒸発し、不純物が無くなる。・・と説明されている。

 

「地・水・火・風・空」の組み合わせ


     

 
 私は、白湯の効用を否定する気持ちは、毛頭無いが、再沸騰させた結果、水の性質が変化するというくだりには、少し疑問を感じる。 
 充分に沸騰させれば、溶けていた気体は蒸発するし、沸点の違いから蒸留され不純物は除かれ、純粋に近い水になることは理解できる。しかし、ある気圧下でどんなに加熱しても、水の沸点に達すれば、水蒸気となって空中に一散していくだけで、温度はそれ以上にはならない。だから、必要以上に加熱しても、無駄である。 
 それに、物質の状態変化と化学変化は、まったく違う。原子や分子構造という観点からは、異次元の内容なのだ。液体の水を冷やせば、氷となり、加熱すれば水蒸気となるが、水(H2O)分子は、そのままである。

鉄瓶を載せた火鉢

 だから、長く煮沸させておくだけで、水の性質が変わるとは、とても思えない。

 ただ、その昔、我が家では、さすがに「囲炉裏」は既になかったが、冬季には、居間に「火鉢」があって、絶えず湯を沸かしていた。そして、それを茶器用容器に移して、多少冷ませてから「急須」でお茶を入れていた。
 やがて、ガスコンロが普及し、沸けばすぐに火を止めていた私に対し、お茶好きの祖父から『坊主臭いお茶にならないよう、ちんちんと煮立てて、しっかりと沸かせ!』と良く言われたものだ。どうやら問題は、お湯の温度のことだけではなかったのかもしれないと、少し思い直している。

アーユルヴェーダのイメージ

 

 【俳句-②】は、朝の庭に出ると、近隣の雑木林に咲くニセアカシアの花の香がしてきた。その独特な花粉(密)の甘い香りは、風に乗って私に届くのだが、敢えて、嗅覚ではなく、頬への触覚として感じた様を詠んだ。季語は、「アカシア(の花)」であり、夏である。

ニセアカシアの花

 いつものようにSさんのバイクの音を聞いた後、新聞を取りに外に出ると、いつもと違う匂いがした。近隣の雑木林で増えた「ニセアカシア」の花が、一斉に開花し、それが微風にのって広がってくる。
 快適な気温と共に、薄明るくなった空から、朝日の気配を感じていると、この上ない幸せを感じる。今日一日の成すべき予定を思い浮かべる。
              
               *   *   *

「アカシア」の季語を使ったのは、4度目である。
H29年6月:アカシアのひと葉ずつ捨つ帰り道

H30年5月:匂い立つニセアカシアの曇り空

 R7年5月:朝の庭アカシア香る良き日かな
 
 養蜂家と蜜蜂にとっては貴重な植生だが、繁殖力の強いアカシア類は、他の木々を圧倒して環境を改変してしまう。花房の天麩羅は毎年美味しくいただくが、開花時期を良く観察していて、匂いがしてくる少し前に採取するのが良い。

増えてきているアカシアの林

 

 【俳句-③】は、大好きな山蕗(ヤマブキ)の「伽羅蕗」ではあるが、加齢と共に歯が弱くなってきていて、歯が抜けないように慎重に噛んでいる様を詠んだ。

私の齢(よわい)も、古希(70歳)と喜寿(77歳)の半ばになったなあと思うことを詠んだ。季語は「伽羅蕗」で、夏である。

①蕗の薹(ふきのとう)

  向山の畑の大土手に山蕗(ヤマブキ)が生えている。丈が小さいので、最初の草刈り時には残して置いて、二度目の草刈り時になって、少し大きくなった山蕗を先に採取してから、土手草を刈る。
 家に持ち帰って家内に煮付けてもらう時に、少しは負担を軽減させようと、蕗の葉を落とし、茎の部分だけにして持ち帰る。
  家内は、山蕗を適当な長さに切って、砂糖と醤油で煮込む。これが、「伽羅蕗(きゃらぶき)」である。 
 これだけを食べるというより、お茶請けにしたり、酒の肴にしたり、ご飯のおかずにしたりと、その苦みと味付けを楽しみながら食する。・・・・まあ、実際に味わった人のみがわかる、独特な風流である。
 ところで、【写真①】の蕗の薹の段階では、早春の蕗の味を楽しむ、例えば「蕗味噌」という調理方法がある。  これも、季節感を味わえる、すばらしい素材となる。 
  放置すると、蕗の華が咲く季節を迎える。 

②蕗の花(ふきのはな)

 『同じ土手 母がみつけて 蕗の花』(令和2年4月)と言うように、いつしか季節が移ろい、やがて、お皿のような葉をつけるようになる。ただし、この状態では小さいので、もう少し待つ。
 そして、ある程度、茎も太く長くなってきて、いよいよ収穫時期を迎えるわけだ。

③蕗の葉(ふきのは)


 


 伽羅蕗の作り方は、関係の専門的な情報に、お任せする。
 とにかく、美味しいが、良く煮ても、山蕗は、歯ごたえがあり、奥歯や前歯も使って、しっかりと噛まないと、飲み込めない。最近になって、お煎餅をかじっただけで、治療した歯が抜けた経験があり、それで、噛みごたえには、ついつい慎重にならざるを得ない事情がある。なんとも、お粗末な話だが、歯のフレイルは、進みつつある。 

④伽羅蕗(ふきの煮物)


      *    *    *    * 

ヒトの歯の並び方(上顎と下顎)

 【写真:歯の様子】を見ると、最近のヒトの歯は、俗に言う「親知らず歯」を欠いている人も多く、上下・左右で、2×(7×2)=28本があるようだ。
 私の場合、下顎の歯は全て残り、上顎の奥歯が8本抜けて、現在20本である。ただし、下顎の3本は、薬剤で貼り付けてあるだけで、固いものをかじった時に、みごとに抜けてしまうのだ。まさに、それを恐れている。

 かつての自慢の歯は、ものすごいことを経験してきた。
 焼き魚は、骨ごと、全て食べることを常としてた。時には、若い人を挑発して、焼き魚(サンマ・ナマズ・サケなど)の骨の食べ比べもした。
 さらに、「ピスタチオ」や「いかり豆(大型のそら豆)」は、殻ごと囓ることが、少しも苦労ではなかった。
 まさに、今は昔である。
 下顎と上顎の弱い歯の一部は、治療の都合上、薬品で固定してあるだけなので、少し無理な力が加われば、いつでも抜け落ちてしまうのだ。

 

 

  【編集後記】《令和8年7月16日》

 

 『令和8年5月の俳句』の編集後記では、「母の亡くなった晩の翌日(5月25日)の朝から、我が家の軒下に燕が巣を作り始めた。そして、燕の抱卵~子育てが始まったのを楽しみに眺めている」という話題を載せた。

我が家玄関の脇・軒下に作った燕の巣


 今回は、その後の経過についてである。   
 泥と藁などを利用して作った巣が完成したのは、3~4日間ほどであったようだ。それから、いつ産卵し、いつ孵化したのかは観察・記録できなかったが、気づけば、雛の鳴き声がしていて、親燕の尻尾の先に、雛が何匹かいるだろうなと想像していた。   

 7月2日の朝、5時少し前、外の新聞受けに朝刊を取りに行こうとして、玄関の引き戸を開けると、私の足下を蛇がすり抜けて、家の下足置き場の下に侵入してきた。まずは、無視して先に新聞を取ってきた。
 それから蛇を探す。下足置き場の中に入り切れなくなった靴を箱に入れて、箱がいくつか積み重なっているので、懐中電灯で照らしながら、箱を除けていくと、隅に「とぐろを巻いた蛇」がいた。傘の先で、つつくが動かない。仕方ないので、身体の中央を引っかけて放ることにした。上手く玄関の外に出せたが、今度は、「裏口」と呼ぶ玄関戸口の方に向かう。小さいと思ったが、伸びた体長は、それでも45~50㎝はある。これが家内の言う『小さな毒蛇みたいな蛇が棲み着いている』と大騒ぎしていた蛇が成長したものなのかもしれないと思う。
 裏口も困るので、もう一度、傘の先で腹部を引っかけて、外門(南側)方向へ放り投げた。ここで、蛇の正体が、わかった。頭の大きさは、ヒトの指先ほどの小ささだが、口を開け、舌を出し、「ファイティング・ポーズ(鎌首をもたげる)」
をしたからだ。 「ヤマカガシ」である。
 私の知る佐久地方での「ヤマカガシ」はオレンジ色掛かった典型的がものが多いが、他の蛇は、あまり「ファイティング・ポーズ」を取らない。

ファイティング・ポーズ(今回の蛇の体色とは違うが・・)

 ・・・私が、比較的冷静に対処できたのは、既に、何度か経験していたからである。詳細については、「令和元年度の皐月の俳句・正体を知る三題」のひとつ、
『鎌音に 滑り出ず蛇 ヤマカガシ』の解説を参照してください。・・・・・

 さて、豪邸ではないが、我が家のような農家の敷地は広い。3回目の放り投げで、車庫の前まで移動した。やはり、鎌首をもたげてくるが、子どもがヤクザににらみを効かせている程度である。最後に、4回目の大きな放り投げで、我が家の前の道路(アスファルト)の上に、少し鈍い音を立てて落下した。
『ごめんな。痛くないかい?』というような気持ちでいた。
 一度、玄関に戻り、どかした傘立てや靴箱を直してから、道路に戻って見ると、蛇はいなくなっていた。

 

 実は、この話題を出したのは、(ア)この朝は、昨晩から未明にかけて大雨が降り、蛇は、我が家の濡れていない玄関コンクリートの上に避難してきていて、私が引き戸を開けたので、驚いて移動した先が、下駄箱の下であったようだ。(イ)この時期、燕の雛たちが、早朝から(日の出は4時半なので明るい)お腹を空かせて鳴き叫んでいるのを、蛇が聞きつけて巣を探し回っていた・・・のではないかと考えたからである。

別れの昼餉(平成29年6月2日)

餌を子燕に与える親燕(平成29年6月2日)

 そして、母の四十九日法要の7月11日(土)を迎えた。(正確には48日目となるが、遠方から来る子や孫、曾孫らの都合で、土・日曜日となるよう計画した。)
 奇しくも、この日の朝、我が家の軒下の巣で育った5羽の子燕が巣立った。最後の1羽に、親燕が初飛行を促すような場面を目撃した。
 7月12日午前、『皆、来て』と娘が呼ぶ。全部で14羽の燕が、我が家周辺の電線に留まり、一斉に私たちの方を向いている。『我が家に、お別れにきたのかな?』とつぶやく孫ら。
  想像するに、平成29年の6月2日頃の巣立ちと、今回は、一ヶ月半ほど離れている。親燕の番(つがい)が、1度目の子育て、そして2度目の子育てをした全員が揃ったのではないかと? 親(2)+先の子(7)+後の子(5)=14という計算になる。
 それとも、ご近所付き合いしていた2組のカップルの家族(子燕が5羽ずつ)なのかもしれないなあ。いずれにしろ不思議な光景だった。

子燕5羽は外で夜を越した(令和8年7月13日)

 そして、7月13日朝、印象的な光景を目撃した。子燕たちは、巣を出て、一晩を電線上で過ごしたらしい。5羽が寄り添い、中央3羽が東向き、外側2羽が西向きで留まっていた。
 7月15日、巣には一度も戻らない。燕はもう南方に帰ったのかと思ったら、7月16日午前10時、再び鳴き声がしたので、外を見ると14羽の燕が、電線に留まっていた。
 明日は、どんな行動をするのか楽しみである。

   

         *    *    *

 

 ところで、今日、7月16日は、母の誕生日で、満年齢98歳になるところであった。位牌には、行年99歳と記された。
 奇しくも、母の亡くなった後の四十九日の間に、燕の子は生を受け、巣立ち、これから大空を飛んで、南国(例えば東南アジア)に向かうことになる。
 100年近くを生きた母に対して、燕は1年~せいぜい2年ほど、場合によっては、もっと短い命を生きるのだろうなと思う。昆虫などは、もっと短いだろう。
 生物種によって、寿命に大きな差はあるだろうが、生きることの貴さを実感した四十九日間であった。
 そんな生命観に浸り、少ししみじみとした。1ヶ月後は、新盆である。
                        (おとんとろ)

 

令和8年5月の俳句

      【皐月の句】

 

①  上州路 皐月の落暉に 佐久影絵

②  雨が抜け 玉葱の畝 緑さす 

③  昼の庭 芍薬咲いて しづまれり   《故郷慕情》

 

 今年の4月末から5月中旬は、久しぶりに公私共に少し多忙な日々が続いた。
本来、「公」など、ほとんど無く、今年も「薬師堂花祭り」当番が無かったので、ゆったりできると安心していたが、まず、地区山林の財産区議員に選挙で選出される手続きがあった。定員9に対して、立候補者9名というやや形式的なものではあったが、市の選挙管理委員会の差配の下で厳格に行なわれることに驚いた。供託金もしっかりと納めた。無投票で全員が当選し、その初会合(5/15)があった。また、都会の学習塾の自然科学体験の講師を依頼された。何年か前に引き受けた経緯もあるので、断れない。その為の資料作りや、孫らを連れて下見もしてきたので、緒準備に数日は、かかってしまった。

下見を兼ねた化石採取(内山層)

バッヂを付けるのは初めて


 
 5月1日の竜巻注意報、3日の曇り、8日午前中の雨降り以外は、連日晴天が続いた。   5月の佐久地方は、とても過ごしやすい。

            
                    *  *  *  *
 
 国際政治の世界では、イラン戦争の先行きが、なかなか見えてこない。米国とイスラエル軍が、イランに攻撃(2/28)を仕掛けた紛争は、一時停戦で合意(4/7)したが、革命防衛隊によるホルムズ海峡の事実上の封鎖、さらに米軍によるイランの港湾に出入りする船舶の封鎖が行われ、その結果は世界経済に深刻な影響を与えている。

原油の海洋流出事故

 イランの石油輸出基地ともいえる珊瑚礁の島・カーグ島の沖で、石油の流出が衛星画像で確認(5/6)された。60km2と推定された。2日後には、西に広がり、さらに南に流れて大きく広がった。(5/11) 
 施設が爆撃で破壊されたという訳ではなさそうだ。ホルムズ海峡の封鎖により、イランは輸出ができず、カーグ島の石油貯蔵施設が満杯状態に近づいていて、何らかのトラブルがあったと推測されている。

 世界保健機関(WHO)は、イランの石油関連施設への攻撃で起きた火災で、有毒物質が放出され、深刻な大気・水の汚染や呼吸器の健康被害のリスクがあると懸念を示した。(3月10日)有毒物質と混ざり「黒い雨」が降ったとされる。雨は強い酸性の可能性があり、皮膚疾患や肺の損傷につながる危険がある・・・という報道もあった。まったく、呆れるほど無駄で、馬鹿な戦闘行為である。
 そんな世界に生きる私が、のうのうと生きていることに、少し心苦しい思いもするが、毎日が、当たり前に生活できていることに、まずは感謝である。
 さて、ここ2年ほど無所属であった私は、今月から「からまつ会」という俳句会の会員となり、初めて句会に参加する。月の第2土曜日が定例会で、発表する俳句は、前の月の25日までに提出するというルールがあるので、5月の俳句と言っても、実際は4月が中心となる。5月後半の話題は、寧ろ翌月となる。4月下旬に高速自動車道から、佐久を眺めた故郷の光景が印象的だったので、今月の題材とテーマは、《故郷慕情》としてみた。

 

 【俳句-①】は、日没時刻に、群馬県の高速自動車道を西に向かって走行していると、群馬~長野県境の山並みが、影絵(シルエット)となって見えてきた。山の向こうは、私の故郷、佐久地方である。落日と雲の織りなす美しさに加え、故郷への慕情が湧いてきて、感動したことを詠んだ。季語は「皐月」で、五月、初夏である。

 時期的背景については、既に説明したように、皐月(五月)と詠みながら、4月25日(土)の 18時を少し回った頃のことであった。

山の影絵(シルエット)


   
 千葉県の「つくばエクスプレス・流山おおたかの森駅」の広場で、私の長女が仲間と共に、流山市のイベントに協力して、音楽ライブを開いた。音楽仲間は、全員が主婦だが、それぞれ大学などで音楽を専攻してきているので、素人集団だと言っても、ある程度のレベルにはある。今回は、仲間の男性は、見守り応援隊であった。
 親馬鹿である私たち夫婦は、片道約200kmをダイハツの軽自動車「タント」に乗って、娘らへの「推し活」のつもりで参加した。俳句に詠んだ光景と心情は、自宅への帰路の出来事である。
 
『ふるさとは遠きにありて思うものそして悲しくうたふもの』(室生犀星の詩集『抒情小曲集』に収録)では、ありませんが、故郷を長く離れていたからこそ懐かしく思い、哀愁を帯びて詠むべきものであるかもしれません。
 この気持ちは、私が大学生の時に経験しました。当時(昭和50年前後)の、北海道という遠隔地に居たという理由に加え、所属していたWV部の「遭難対策要員」として、札幌に留まる任務があった為、2年生以降、あまり多く帰省できませんでした。
 だから、大東亜戦争で満州に出征し、終戦で帰国できたにも関わらず、自宅で戦病死した父の兄(私の伯父)が、『帰省する船や汽車の車窓から見えた、どんな大邸宅があっても、我が家が一番いい所だ』と、私の祖母に語ったとの逸話を聞いたが、まさに、歌唱『埴生の宿』の思い、そのものである。

荒船山~兜岩山(佐久側から)

 だが、この俳句の場合、家を空けたのは、たった十数時間のことである。ただ、その理由を考えてみると、思い当たる節がある。
 私の場合、「故郷に居過ぎた!」と思う。
 つまり、家と畑と、せいぜい用事の為に近間を行き来する程度で、故郷・佐久を外から見る機会がほとんど無かった。それが今回、自分の住んでいる場所を、外から客観的に、しかも美しい光景と共に見たので、郷愁・慕情が湧いてきたのだろうと、自分なりに分析してみた。

 ところで、既に載せた話題だが、追記したいこともあるので、敢えて載せる。
長野自動車道・八風山トンネル(4471m・下り線)を通過する度に、香坂川の最上流部地質調査のことを思い出します。何んと、トンネルの上には普通の自然が広がり、沢には水が流れ、香坂層(新第三紀中新世後期)の地層と共に、第四紀の地層(表土を含む)が分布している。私たちは、そんな大地の地質調査をしたことがある。(【香坂川最上流部のルート・マップ】を参照)
 さらに、新たな知見が加わった。八風山の南に「香坂山遺跡」が発見された。付近で採取できる「ガラス質黒色安山岩」を利用した「八風山遺跡群」や「下茂内遺跡」といった旧石器時代から縄文時代にかけての石器製作遺跡が形成されていた。
 (以下、佐久市教育委員会の資料)
 1997年(平成9年)、佐久市香坂の上信越自動車道八風山第2トンネル換気塔建設に伴い、長野県埋蔵文化財センターによる発掘調査が行われた。その結果、姶良Tn火山灰(約3万年前)よりも下位の地層で、石刃を含むガラス質黒色安山岩製の石器が見つかった。出土した地層や年代測定の結果、石刃石器群としては最古のものであることが判明したが、当時の日本列島での「旧石器編年」に当てはめることが難しく、石器群の評価は保留とされた。
 2020年(令和2年)、香坂山遺跡から出土した石刃に着目した奈良文化財研究所の国武貞克氏は、香坂山遺跡で発掘調査を実施し、『大型石刃・小石刃・尖頭形剥片というユーラシア大陸初期後期旧石器時代の石器群』と共通する石器組成だと確認した。
 2022年(令和3年)からは、香坂山遺跡の学術的重要性に鑑み、佐久市教育委員会による遺跡の範囲確認調査を実施した。直接調査することが難しい地点に関してはボーリング調査を実施し、香坂山遺跡のある尾根上約2250m2 が、遺跡の範囲だということがわかった。

長野自動車道「八風山トンネル」の上を香坂川が流れている(最上流部のルート・マップ)

 

 
 【俳句-②】は、昨年の秋に植えた玉葱が越冬し、春から初夏に向かい、ひと雨を経る度に、緑の度合いを深めていく頼もしさを詠んだ。季語は、「緑さす」で、夏である。ちなみに、「玉葱」も夏の季語であるので、厳密には『季重なり』の俳句となる。(※後述する!)

「玉葱(タマネギ)」の畝

 我が子の学校の授業参観に行くと、意識しないように努めても、どうしても他の子と発達程度を比べたり、集団での関係性などを気にしたりしてしまいがちである。
 同じ理由からなのか、我が家で育てている野菜の生育状況を、周囲のお宅と比べてしまう。作付けした時期や、畑の土壌、日照・気象条件などの違いから、差はあって当たり前なのだが、我が家のものは、どうも成績があまり良くない。 
 堆肥や化学肥料が少ないせいなのか、夏野菜を中心に育てている方の畑は、水田地帯にポツンとある1反歩ほどの耕作地であるが、日当たりは悪くないものの、とにかく風が強い。
 この為、例えば「キュウリ」苗を定植する時、支柱や棚も一緒に作り、周囲を厳重にビニルシートで覆って、防風壁を設置しないと、苗が弱ってしまう。(ちなみに、霜害の経験から定植時期は五月連休明けと、遅くしている。)

 今季は、タマネギとニンニクの成績が良く、楽しみにしていた。特に、昨年は、山の畑に植えたニンニクが、深緑に向かう時期に突然枯れ、ほとんど実にならなかったので、今年の期待度は高かった。
 それで、題材は「タマネギ」ではなく、「ニンニク」にしたかった。しかし、俳句の世界では、「ニンニク」は、春の季語である。それ故、夏の季語「緑さす」と一緒にするわけにはいかなかった。
 ところで、早春から順調に育ってきたニンニクだが、5月に入り、「さび病」が出始めた。病変した葉を丁寧に取り除き、集めて石油をかけて焼却処分した。しかし、少し忙しがって手を抜いていたら、あっと言う間に広がった。仕方なく収穫まで放置することにした。(収穫は6月14日、午前中にタマネギ、午後にニンニクと、同じ日にすることになる。)

俗称「ニンニクの芽」

 【写真】のように、中央から「花芽」や「つぼみ」ができてきて、それらを収穫できた年もあったことが懐かしい。ここ数年、「さび病」や原因不明(水不足か?)で立ち枯れなど、満足いくような収穫を体験していない。
 それ故に、越冬し、緑が深まっていくのを誇らしげに見守っていた。

 


 【俳句-③】は、牡丹に続いて咲き出した「芍薬」だが、我が家の昼時の庭は、まるで芍薬が、空気をも含めて、全ての植生や辺りを鎮(しず)めるかのように静寂な空間を醸し出していた。芍薬の花の存在には、不思議と威厳がある。季語は、「芍薬」で初夏である。

昨年の6月初旬頃の「芍薬」とツツジ

 我が家から少し離れた山の中を、中部横断自動車道が通っているが、通称「お薬師さんの山」と呼ぶ山の裏側を抜けているので、大型トラックのエンジン音は聞こえてくるが、気にするほどの大きさではない。朝夕の通勤時と違って、お昼時は車の行き来も少ない。寧ろ、小鳥の囀りの方がうるさいくらいである。
 それに、郵便屋さんになったつもりで家々を回ってみればわかるが、昼間は皆勤めに出ていて誰も居ないお宅が多い。その点、我が家界隈は、老人が多いせいか、比較的、在宅しているものの、人の気配もあまりないので、実際、物理的にも静かである。  
 陽気も良くなってきたので、昼食後、廊下で横になって庭を眺めていると、芍薬の花に目が向いた。牡丹も良い花だと思うが、どちらかと言うと、芍薬の方が好きだ。桜も好きだが、梅の花の方が、もっと好きという意味である。牡丹や桜、それに白木槿(むくげ)は、咲いているときは綺麗だが、散る姿が好きになれない。花も、花の命を自分の努力で直せないのだから、酷な評価をしていて、申し訳なく思うのだが・・・。
 『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という言葉を思い出した。 

                        *   *   *   *

 

深紅の牡丹 (春)

ピンク色の芍薬(初夏)



 
 ところで、牡丹と芍薬は似ているが、良く見るとかなり違う。
 花の色は白系~深紅まで様々だが、牡丹の茎は木質で固く低木(冬も残る)なのに対して、芍薬は緑色で多年草(冬は根だけ残る)である。先ほど話題にした散り方では、牡丹は1枚ずつ落ち、芍薬は花全体で落下する。花の咲き出す前の蕾(つぼみ)に着目すると、尖っている方(牡丹)と、丸みがある方(芍薬)という違いもある。
 葉にも特徴があって、ギザギザがあって艶の無い方が牡丹、切れ込み無く艶のある方が芍薬である。   
 そして、決定的な違いは、開花時期である。佐久地方で、牡丹の咲くのは、4月下旬~5月中旬であるのに対して、芍薬は、6月にならないと咲き出さない。

 ・・・この俳句を作った時、芍薬は、まだ咲いていなかった。
  第1句に続き、第3句も季節の見切り発車であった。
 


 【編集後記】《令和8年6月20日》

 特別養護老人ホームに入っていた母が、97歳10ヶ月で亡くなった。仏教の世界では、享年を99歳と数えるらしい。母の兄弟姉妹7人の中で、ふたつ上の姉の満100歳には届かなかったが、兄の満95歳は上回り、長寿の銀メダルと言ったところである。
 但し、軽い認知症は出てきたが、亡くなる少し前まで、多少の会話ができたから、限りなく「ピンピンコロリ」に近かった。大往生であった。  

 令和3年の大晦日の朝、朝食を二人で食べている最中に、母が倒れた。血圧・脈拍を計っても正常なので、お昼まで横になって休んでいた。娘の『お父さん、お婆ちゃんは朝から少しも改善していない。病院は明日から3連休だよ』という言葉に促されて、救急搬送後、S医療センターへ入院することになった。
「左アテローム血栓性・脳梗塞」と診断された。
 1月27日に、S病院へ移り、さらに4月14日に、「老健」に入りました。少し下火になりつつも、「新型コロナ・ウイルス感染症」のせいで、面会もガラス窓越しという状況でした。
 3ヶ月後の7月14日、運良くS苑に入ることができた。母は、入所した2日後、94歳の誕生日を、皆様に祝っていただきました。
  そして、入所3年と半年後、令和8年1月14日に、低血圧から一時意識不明となり、「看取り看護」体制になりました。
 なぜか、父の誕生日が、4月14日ということもあり、「14」という数字に縁がある。『願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃』、西行法師の辞世の句ではありませんが、私は、母が2月14日に亡くなるだろうと覚悟して心準備をしました。
 ところが、新型コロナ・ウイルスに感染しても回復してきた母は、減らした食事でも完食して、老衰速度をどこまでも「零」に近づけました。
 私は、毎月、14日が来ると緊張して過ごし、5月14日の晩、夢枕に母が出たものの、生きながらえたので、あと2ヶ月乗り切って、98歳の誕生日を迎えられるかもしれないと、期待していました。
 しかし、5月20日から食事が喉を通らなくなり、5月21日から水だけになります。5月23日に妹夫妻が見舞いに訪れました。5月24日、水も飲まなくなったと言います。そして、その晩、午後10時頃、母は息を引き取りました。医師による死亡確認は、翌朝だったので、5月25日午前8時が死亡時刻となりました。
                 

        *   *   *   *

 

軒下で燕の巣作りが始まる

 母の亡くなる1日前、妹たちは、特別老人介護施設S苑から我が家に立ち寄りました。妹は、2羽の燕を見つけます。「安心できる家とわかると、燕は巣を作るのかな」とつぶやきました。翌日、家内が一人でS苑を訪ねました。妹や家内に会って安心したのか、その晩に母は亡くなりました。
 そして翌5月25日から、何と燕が、軒下に巣作りを始めました。26日、既に、巣作りの土が落ちて、下が汚れていたので、急いで片付けました。逃げてしまうかと警戒したが、その後、27・28日と巣作りを続けます。
そして、29日(葬儀の日)もです。
 母は、入所してから丸2年が過ぎようとする頃、母の生家と菩提寺、嫁ぎ先の我が家を訪れることがありましたが、その後は、葬儀社の安置場から火葬場に行き、我が家に戻ることはありませんでした。

 だから私は、亡くなった「母の魂」が、「燕」に姿を変えて、我が家に帰ってきてくれたのではないかと思いました。

                       *

 科学的に分析すると、玄関脇にある「南天(ナンテン)」が水不足なのか、葉の一部が赤くなるので、家内が春先に大きく剪定しました。『お母さんも、この時期に、かなり剪定していたわよ』と言う。しかし、切断が大胆過ぎる。そのせいで、電線に止まった燕からは、軒下が見えるようになったので、巣作りをしたのだろう。
 佐久市で「燕の巣調査」をした年(15年ほど前)に、二階の軒下(今回のほぼ真上)に巣作りをしたことがあった。洗濯物を干すベランダの上なので、可愛そうだが、私が作成中の巣を壊した。それ以来である

口を開けて餌をねだるヒナ(インターネットから)

 燕(ツバメ)が巣を作ると、「縁起が良い」と、私の子どもの頃は、今の位置とあまり違わない軒下に、毎年巣作りをさせていた。糞が落ちたが、それを気にする時代や風土ではなかった。
 巣から落ちた雛(ヒナ)も見たし、巣に青大将(アオダイショウ)蛇が侵入した悲惨な事件も目撃したこともあった。 玄関が新設されてからは、追い出された燕たちだったが、今の場所なら、下がコンクリートで水洗いすれば良いので、OK(いい)ですよ。   
 毎朝晩、燕の巣をガラス窓越しに眺めるのが日課になっている。
                                        (おとんとろ)

 

平成8年4月の俳句

     【卯月の句】

 

① 夕餉にと 花の少なき 薺摘む

②  貴きもの どこもかしこも ぺんぺん草

③ 孫に伝ふ 三味線草の 実のさやぐ 

               《薺(なずな)三題》

 

 信濃毎日新聞・斜面(4月2日付)で、世界でも少数派の「4月年度替わり」となった制度変更の経緯を知った。

 日清戦争(1894~1895年)を前に、軍備費増額を「酒・煙草税」で補おうとしたが、景気低迷も加わり、税収は大幅に減少した。次年度予算から補填したが、賄い切れない。そこで、松方正義大蔵卿は、当時の7月~翌年6月(12ヶ月)の会計単位年度(1885年度)を、1886年度からは、4月~翌年3月に改め、3ヶ月間分の政府支出を棒引きにさせ、財政の立ち直りを果たしたと言う。それ以来、4月からの「年度替わり」の伝統が、140年間も受け継がれていると言う。学校の4月入学や、各種会計年度など、実に多くの機関や人々が、この年度替わりを踏襲していることか。私の俳句収録集も、4月1日から令和8年度版となり、定年退職後3年目から始めた俳句は、11年目のスタートを迎えた。
 そんな折り、佐久俳句連盟総会兼俳句会が、今年は2週間以上も早まる連絡を受けた。当季雑詠2句を、期日までに創作する。さんざん悩んだ末に季語を決め、『薺(ナズナ)』を題材にしてみようと思う。植物を通して見た、私のエピソードや感想である。但し、俳句の出来映えの方は、会の実力者の皆さんと対峙できるかどうかは、危ういものである。


 【俳句-①】は、家内が薺(ナズナ)を「お浸し」にして旬の味を愉しみたいと言うので、春耕の合間に薺を収穫した様を詠んだ。季語を「薺摘む」とすれば、新年(冬)となってしまうので、「花」の話題を入れて、「花薺」の春とした。

薺(ナズナ)の「ロゼット」

 「芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・清白(すずしろ)・春の七草」と五七調で覚える方法がある。
まだ、一度も実践したことはないが、正月七日の「七草粥」は、その響きだけで風情を感じる。
 春の薺(ナズナ)のお浸しは、蕗味噌や、もう少し後の山椒味噌・蕗の佃煮などと共に、我が家で子どもの頃から慣れ親しんできた季節感を味わえる身近な料理である。
 「薺のお浸し」は、薄めの塩茹でにすると、山野の春の土の香りが感じられるようで、風情がある。普段の食材にはない独特な味わいは新鮮であり、待っていた春を迎える儀式をしているようにも思える。
  【写真】は、我が家の冬越しの玉葱やニンニクの黒マルチシートの横で生えていた薺の一株である。少しでも太陽光を獲得しようと、下葉を放射状に広げている。「ロゼット(orタ)」と呼ばれる冬越し多年草によく見られる形式である。畑の土が軟らかいので、すぐに抜けるが、主根が想像以上に長く伸びていて驚く。
 食用にする薺は、花がまだ付いていないか、なるべく少ないものを選んで採取する。食べられないわけではないが、主に葉を中心に食べるので、長い根は切り取る。調理するには、水洗いをして泥を流すだけでなく、冬の間に絡みついた藁くず・枯葉等も丁寧に取り除くので、結構、手間暇がかかる。ここまでが、私の分担である。

 

 

 【俳句-②】は、薺(ナズナ)が、もう少し成長して花が咲き、群生してきた時の印象を詠んだものです。季語は、「ぺんぺん草」で春である。

薺の花は、下の方から咲いていく

 世に「ペンペン草も生えない」という辛辣な言葉もあるので、正直なところ、少し観念的な印象だと思うが、敢えて、私は、花を付けた薺の群生を「貴きもの」と表現した。薺のひと株ごとが、あたかも社会で生活している一人一人の人間のようで、愛おしく感じられたからだ。
 田舎で、のんびりと暮らしていると、自分以外の人間を敵(ライバル)と思うことはかなり少なく、寧ろ好意的に受け止められる。もし、毎朝、通勤電車で座席の取り合いをするようなら、見知らぬ人でも憎しみが生まれるかもしれないが、それでも皆、健気に懸命に生きている社会の仲間で、互いに支え合っているという基本認識はあるだろう。その意味では、皆、日本国民で同胞なのだ。
 【写真】の植物群生を見ると、白い花を付けたのは「ナズナ」である。黄色の花を付けたのは「イヌナズナ」で、普通のナズナの近縁種だ。青色の花を付けたのは「オオイヌノフグリ」である。すぐ近くの踏まれて土の硬くなった所には、「オオバコ」の群落もある。
 これらの植物を眺めていると、例えばナズナが日本人、イヌナズナが東洋系外国人、オオイヌノフグリが欧米系外国人などと、現代日本社会に少しずつ増えて話題になっている、「外国からの移住者や就労などでの残留者らと、従来からの日本人たち」の混住や共生を「象徴」するように、私には見えてきた。 
 性別や年齢、国籍などの違いがあっても互いに尊重し合い、共生する社会集団だというと聞こえは良いが、協調・協働していくことは、かなり難しい要素を抱えている。問題も起き易い。
  私の身近に外国人は少なく、たまに雑踏で見かける程度だが、例えば、松本城へ行くと、外国人観光客の多さと、話している意味不明な外国語が聞こえてくることに、違和感を覚える。 きっと東京など大都会や、時々話題に上がるような都市で、日常的に外国人と接する機会の多い人の中には、様々な状況も加わり、単純に違和感ぐらいなレベルではないかもしれない。
 
「ナズナだけの群生」、反対に「オオイヌノフグリだけの群生」を見ると、どこか安心する。一見同じ草花のようでも、厳密には個体差がある。ただ、遺伝的には同じ染色体をもつ、ひとつの属・種(species)であるからか。
 この点、個体差以上に外見もかなり違うのに、世界の全人種が、ヒト属の一種「ホモ・サピエンス」であることが不思議に思えてくる。理屈から言えば、同一種なのだから、うまくやっていけそうなのに、現実には対立や紛争が絶えない。

ナズナだけの群生

オオイヌノフグリだけの群生



 


  各民族の背景には、歴史の中で培ってきた生活習慣・伝統文化や宗教・道徳観、生後に受けた教育内容などに違いがあり、遺伝や生物学的理屈でない頑固な障壁が厳然とあるのだろうと思う。共生ではなく同化をという主張も聞く。
 人間の歴史は、長い目で見れば、確実に望ましい方向へ向かっていると思っているが、一概にはそうとも言えないようなトラブルや事件も、なぜか良く見聞きする。薺の花の咲く野辺の長閑な世界が、広がって行って欲しいものである。

 


【俳句-③】は、薺(ナズナ)が更に成長してくると、下の方から順次、花弁が散り、めしべの子房の中に種子ができる。この時期のナズナを「でんでん太鼓」を鳴らす要領で振ると、種子が擦れて微かに音がする様を詠んだ。ナズナの別名「三味線草」なので、楽器の演奏技法は師匠から弟子へと伝授される。私は孫に伝えよう。季語は、「三味線草」で、春である。

成長したナズナ

 
 薺の植物学的特徴を理解しておいた方が良さそうなので、概要を説明する。
 学名は、「Capsella bursa-pastoris」である。英名の Shepherd's purse は「羊飼いの財布」の意味で、学名の種小名のラテン語由来の語義も同じである。中国での植物名では、薺(せい)、または、薺菜(せいさい)と言う。これが、漢字で書いたときの「薺(なずな)」である。
 アブラナ科ナズナ属の越年草で、ペンペン草、三味線草との別名もある。田畑や荒れ地、道端など至るところに生えていて、春から夏にかけて白い花と三角形の果実を付ける。
 果実の形が扇型で、三味線の「撥(ばち)」に似ていることや、振ると種子がぶつかり合って音が出ることが、別名の由来である。
 春の七草(七草粥)のひとつで、若い苗や葉は食用になる。麦栽培の伝来と共に、日本に渡来した帰化植物と考えられている。何んと、日本古来の植物かと思いきや、帰化植物であったというのは初耳である。  

子房の拡大(バチor軍配)


  
                         *  *

 

民具「でんでん太鼓」


 

さて、私は今では上記のように、ナズナの概要を、例えばペンペン草を振ると、微かに音が出ることを知っているが、子どもの頃は、どうであったのだろうかと考えてみた。
 ナズナの「お浸し」は、祖母や母の調理したものを口にして、名前と味を知ったと思うが、ナズナから音が出ることは自分が発見したというより、きっと誰かに教えてもらったと思うが、誰であったかは覚えていない。一緒に遊んでいた近所の子からか、それとも大人の人からだったのかも知れない。
 「餅草・モグサ(ヨモギ)」が、手に傷を負った時の血止めになることや、「ゲンノショウコ」や「センブリン」が胃腸薬になることは、祖母から実地に教わった。「ウマノスイコ(イタドリ)」の効用は、級友であった。多分、級友も誰かから教わったのに違いない。だから、子どもに伝えられた情報は、さらに直接または間接的に、交流する人々を通して、拡散して行ったのだと想像する。
 その意味で、私はいつの日にか、少し年上の人や大人の誰かから、ペンペン草を振ると三味線のように音が出る植物だと教わったのに違いない。それで、私は教えてくれた師匠の弟子である。反対に、次の誰かに教えれば、私が師匠になる。 

ベニシダの胞子嚢

 先日、孫と近くの貞祥寺まで散歩に出かけた折、参道で「オシダ」を見つけた。
 孫が、どういう意図で「しゃべれない言語」で質問してくるのか知らないが、枯葉・小石・苔・道の色の変わった所などに、私は丁寧に応えていた。
 その時、逆に孫に伝えたいと思い、オシダの葉を裏返して、胞子嚢を見せた。孫は、興味を覚えたようで、次々と出会う葉の裏側を観察し出した。ただし、成長段階の時期にもより、全ての葉に胞子嚢があるわけではない。
孫は、うまく発見できた時には、にんまりとして、私に成果を知らせてきた。
 ゲームソフトの攻略は教えられないが、こんな小さな自然の秘密なら、孫子へ伝えられそうである。
 ちなみに、檜(ヒノキ)と翌檜(アスナロ)の葉の裏側の違いは、私が大人になってから、正確に言うと約30年前、M少年自然の家勤務に就いてから知ったことだった。

                     
       

檜(ヒノキ)の気孔帯

翌檜(アスナロ)の気孔帯

 

   【編集後記】(はてなブログ)

 「4月の年度替わり」とは、大分縁が薄くなっているが、それでも、4月と聞くと少し気持ちを改めて、新たな方向を模索しようという気になる。
 昨年は、三脚梯子や電動式トリマーなどの機材を購入したので、庭木の剪定に挑戦した。ジャガイモと葱の定植作業と、2~3年周期で複数箇所のトタン屋根をぺンキ塗装するのは、4月の恒例になっている。
 ところが、今年の4月は、大幅に変わってきた。昨年の迎え盆の晩に救急搬送された後、一週間の入院をしたことで、ジャガイモの種芋注文や、葱と玉葱の種蒔きができなかったので、今年度は種苗店で購入してきたものを植えることにした。本当に、楽ではある。
 加えて、2つの状況が変化した。ひとつは、車庫の屋根のトタン塗装作業をする必要がなくなった。雨漏りするようになり、梅雨を前に全面張り替えを業者さんに依頼することにしたからだ。
 もうひとつは、庭木(特に赤松)の剪定ができずに困っていたら、近所のKさんから造園業の方を紹介してもらい、特別に3月初め、剪定してもらうことができたからだ。特に、小気味が良い程の大なたを振るった剪定をしていただいたお陰で、「伸びすぎた長髪を爽快な短髪に」してもらったかのように、清々しい庭木に生まれ変わった。(3月中旬に、剪定で出た軽トラ3杯分の古木や古枝を、畑に運んで焼却処分した。)
 この為、今季の4月は、浮いた時間で、屋内の整理・整頓をすることにした。実際、毎年、少しずつは廃品回収へ協力して、物を減らしてはいるが、我が家には不要な物品が保管され過ぎている。正確に言うと、保管とは名ばかりで、倉庫を乱雑に占領している。倉庫は、充分にあるので今まで隠されていたが、ついに、容量一杯となって、「書斎」や「小座敷」と呼ぶ日常空間に近いスペースにも、保管品が進出してきた。
 その元凶は誰かと言うと、どうやら家内らしい。彼女の名誉に関わるので詳細については語らないが、「もったいない、いつか使うから」と、残しておくことが原因だ。だが、かなりな抵抗を受けながらも、思い切って整理・処分することにした。・・・それにしても、私たちは、必要以上の物品を持ち過ぎているなあと痛感した。

剪定後の庭(翌檜・赤松・一位・籾) 後方は薬師堂境内の檜葉


 

 さて、4月15日には佐久俳句連盟の総会と俳句会があり、参加してきた。
 皆さんのハイレベルの俳句に接すると、いつもながら気が引ける。そして、互いに仲間の俳句を他薦し合うのだが、私の作品への票はあまりに少なかった。
 帰宅後、PCで参加者の俳句作品を打ち込んで、おさらいをした。皆から多くの票を集めた俳句は、確かにうまい。季語も適切だし、表現が華麗で、作者の心情にも共感する。お酒を飲みながら、まとめていたが、しだいに酒量が増えてきていた。
 次回、9月の吟行会では、私が推進係を担当することになった。
心して臨みたい。 (おとんとろ)
 

令和8年3月の俳句

      【弥生の句】

① 雛祭り 嫁した娘の 昔語り

②  老夫婦 二間合わせて 雛飾る

③ 内裏雛 左近右近と 覚えけり 《老夫婦の雛祭り》

 

  誰が言い始めたのか、学校の三学期の短さを「行ってしまう1月、逃げていく2月、去ってしまう3月」と、うまく表現したものだ。中でも2月の28日間は、1月や3月に比べて、たった3日少ないだけなのに、とても短く感じる。だから、光の春に、3月1日が、突然やってきたように感じてしまう。
 日本時間2月7日未明から始まったイタリア「ミラノ・コルチナ冬季五輪大会」での日本選手の活躍に喜んでいたら、国際政治は、とんでもなく深刻な方向へと急転回していた。中国は、日本のことを新型軍国主義に移行していると誹謗している。米国は、空母打撃群を中東に派遣して、反政府デモに揺れるイランへ強硬姿勢を示した。そして2月28日、米国とイスラエルは、イランにミサイル攻撃を開始し、国民に蜂起を呼びかけた。不穏な紛争幕開けで3月1日は始まった。
 これに対して、イスラム教シーア派最高指導者ハメネイ師を爆撃で殺害されたイランは、湾岸諸国へ報復攻撃に出た。さらに、トルコにも攻撃を仕掛け、世界を敵に回してしまった感すらある。
 一方、支援して欲しいロシア・中国・北朝鮮は、傍観したまま。日本政府も、南米ベネズエラの原油管理支配に続く米国の対応に、とても厳しい批判はできない。国際外交の世界では、厳しい現実を前に、それが政治的正解ですと、見解を出さざるを得ない。私も、ただ黙っているだけの国民のひとりだろう。 
 そして、この後、どう転回していくかわからない。石油備蓄の多少の備えだけでは、日本国内はもちろん、世界経済に大きな悪影響が生ずることは確実だ。
 太陽光蓄熱温水器を今冬に導入して、石油負担が軽減した我が家とは言え、少なくとも自家用車や農業用管理機のガソリン使用は減らないので、他人事では済まされない。一刻も早い解決を祈るばかりである。

             *  *  *

団体追抜き(高木が3人?)

 スピードスケートの高木美帆選手が、世界オールラウンド選手権を最後に、今季限りの引退を表明した。(3月4日)
 1500m世界記録の樹立が、彼女の19歳の時であったことを考えれば、その競技人生への求道姿勢には感動してしまう。15歳で「2010バンクーバー五輪」に姉(菜那)より先にデビューしたが、「2014ソチ五輪」を迎える19歳の国内選考会で敗れ、出場できなかった。その後の2大会は、姉と共に、パシュート(団体追抜き)で、金(2018平昌大会)・銀(2022北京大会)に輝いた。そして、今回は、銅(2026ミラノ・コルティナ大会)メダルを獲得した。現役最後となるオランダで開催された「オールラウンドル部門競技会(500m・1500m・3000m・5000m)」で第3位の栄冠を得て、引退することとなった。(3月8日)SNSの一部では、「高市総理、美帆さんに国民栄誉賞を与えて!」という声もあるらしいが、野球の「王 貞治」氏の人気には及ばないかもしれないが、不況下に喘ぐ日本国民に、自信と希望を伝えてくれたことは、受賞対象に相応しいと思う。
 さて、今月は、節句のひとつ「雛祭り」をテーマにしたい。インターネットで調べてみると、思いがけないエピソードも見つかった。

 

 【俳句-①】  納屋部屋に保管してある「雛人形一式」を出して来て飾ると、娘が生まれた私の30歳前後の頃の事を思い出す。普段は少ない夫婦の会話も、昔語りでは盛り上がった様を詠んだ。季語は、「雛祭り」で、春である。

                        *

七段の雛段飾り

【俳句-②】  比較的大きな雛段飾りなので、我が家で御座敷と奥座敷と呼んでいる二間・16畳+を使って、雛人形セットを老夫婦で飾った様を詠んだ。季語は、「雛飾る」で、春である。但し、飾り付けに際しては、毎回ながら「夫婦喧嘩」を繰り返してしまう。

               *

内裏雛の配置に注意(京都方式)

【句俳-③】 雛段飾りでは、雛人形や付属の装飾具の配置が難しく、用意する度に、写真入り説明書を見ながら飾り付けをしている様を詠んだ。実は、雛段飾りが、一通りだけでないことを知り、驚いた。季語は「内裏雛」で、春である。

               *  

 

 結婚して3年目の正月15日、我が家に長女が誕生した。出産予定日より、3週間ほど早い。
 最初のエピソードは、この事を、私は当時担任していた生徒に発表することになった事件だ。
 三学期に入り、黒板の横に、「あと」に続き、
「○○日」という日めくりが登場した。中学3年生3学期には良くあり、高校入試当日までの日数をカウントダウンする為に設けられる。今と違って、当時は全員が同じ日に高校受験するので、受験生の緊張感を高揚させる効果がある。だが私は、こういうプレッシャーは嫌いで、自分ではやったことがない。私の嫌う黒板を汚す訳でもなく、生徒が自主的に始めたことなので、静観していた。
 しかし、数字が次第に少なくなって行ったある日、『あれ、高校入試日までの日数にしては違う』と、気づいた。明らかに、20日以上違っていた。そこで、
首謀者と思われるS君を呼んで詰問してみたが、訳を語らない。もう一人怪しいM君も口裏を合わせていた。極めつけは、情に脆い級長のK君を問いただした。
『先生の奥さんの、出産予定日です』というのが答だった。
 通学路の途中にあった町営住宅にS君らが押し掛け、家内から出産予定日を聞き出していたことが判明した。彼らの「いたずら」を知って嬉しくもあったが、出産が早まったことについては、生徒らに報告しておく義務があったと思う。他にも、笑えるような変な話題は沢山あるのが、これを代表させておこう。 

              *  *

 雛段飾りは、長女誕生から1ヶ月後の2月下旬に、家内の両親からの贈答品として届いた。私たち夫婦では買えない「雛段七段飾り」だと判断したのだろう。
一般的に、長男・長女は、祖父母の初孫に当たり、大事にされるが、次の二男・二女となると、多少ランクが落ちがちである。特に、高価な調度品を、同じ規模で用意することはまず無いだろう。我が家の二女には、雛人形飾りの替わりに、「市松人形」を、私たち夫婦で買って祝うことにした。
 雛段飾りの前横に、ガラス・ケース入りの、ほぼ子どもと等身大の人形を飾るので、二階倉庫から下ろしてきた箱類を一時的にどけて、飾る場所を確保する為だけでも、大仕事になる。

 さらに私は、困るまで、説明書を見るより実物を見て直感で組み立てる方針だが、家内は、慎重に組み立て図や解説を見てからやろうとする。年に一度の事で忘れていることも多く、組み立て手順を巡り、まずは最初の夫婦喧嘩が始まる。
 その次は、五人囃子などの附属の人形の扱いが原因となって更に加熱する。
 彼らは、基本的に「おかっぱ頭」に侍烏帽子(さむらいえぼし)と呼ばれる被り物を付けていて、5人それぞれが異なる楽器などを持っている。問題になるのは被り物の方で、すべすべした小さな頭に、漆塗りの烏帽子を短い紐で被せるのだが、きつく縛ったつもりでもすぐに抜け落ちてしまう。
 業を煮やした私が、『接着剤で頭に貼り付けるか』と提案しただけで、『物の価値がわからない!』とやり込まれてしまう。家内は、両親が子供らに贈ってくれた雛人形に感謝すると共に、人形に対する畏敬の念を持っているからだろう。
そこは、良くわかる。
 私も行動が矛盾している。例えば自分の部屋の模様替えをする前には、設計図を描いてから始めるのに、雛段飾りは、プラモデルの組み立て感覚で始めてしまう。さらに反省すべきは、雛人形の片付けは、ちょうど3月の多忙な時期と重なるので、家内が一人で防虫剤を入れて、丁寧に片付けてくれた。華やかな飾り付けだけ参加して、大切なメンテナンスには無関心である。家内の言う事をしっかりと受け止めなくてはいけない。

              *  *  *

左近の桜・右近の橘(紫宸殿)

 雛人形の飾り付けは、説明書を見て、位置と順番を確認しながら進めたので、色々と「語呂合わせ」を考案して覚えた内容もある。
  まずは、左右の見方だが、天子様(天皇)が南に向いて座っておられる時、左手側が東側となるので、自分が内裏雛に対峙した時は、左右が反対の関係になる。
これは、胸部レントゲン写真を医師が見た時の、左右が逆になる原理と同じである。また、京都市左京区が、御所の東側(北東も含む)であることでも納得できる。
 そこで桜と橘の関係は、「左近の桜」と、「さ・さ」の語呂で覚えた。実際に京都御所の紫宸殿に植わっているのは、高校の修学旅行で見たことがある。
 

五人囃子の順番



 続いて、五人囃子は、『太鼓・大・小・笛・扇』と覚えた。我が家の場合、鼓(つづみ)を打っている人は、立っている。
 三人官女は、座っている人と立っている人の数が違うので、バランスを見れば、すぐに位置が特定できた。次の課題は、左右の大臣と、庭の清掃道具を持った3人の男雛たちの関係であった。

 そこで、急に思い立ち、インターネット検索で、そもそもの「雛祭り」について調べてみた。
 雛祭りは、「五節句」のひとつであり、中国の陰陽五行説に由来する奇数が重なる日に行なわれる。奈良時代に中国から伝わり、江戸時代に幕府によって公式に定められた。
 すなわち、1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)の5つである。それぞれ、「七草の節句」・「桃の節句」・「端午の節句」・「笹竹の節句」・「菊の節句」と別名でも呼ばれている。
 驚いたことは、毎年、私たちが、説明書を頼りに雛段飾りをしていたが、そもそも天子様と皇后様をイメージした雛人形の位置関係については、一通りではなく、大きく京都(関西)方式と関東方式があり、地方独自でも違いがあるようだ。

 特に、私が興味を持ち、印象深かった内容は、「左上右下(さじょう・うげ)」の思想であった。左右、同等でも良いのに、事情によっては序列を付けた方が、秩序が保てるものなのかもしれない。
 この思想によって、京都方式の「内裏雛(♂)」は、向かって右、つまり高貴な左側で、女性(♀)は右側に位置する。なぜなら、男尊女卑的ではあるが、尊い男性と、庇護される女性の位置関係は、「男・女=左・右」と配されることになる。京都方式の雛段飾りは、そんな意味があった。

トランプ大統領が、首相をエスコート

 一方、明治時代以降、欧米から入って来た男女の並び位置は、女性が男性の左腕を掴むエスコート姿勢が普及したらしい。現に、最近の話題では、トランプ米国大統領と、我が国の高市早苗総理大臣の公式な写真がある。つまり、欧米では、女性が男性の左腕を頼り、
男性が右腕をフリーにしておくスタイルが、普通なのである。多分、右利きな人が多いことにも由来すると推測する。

 関東を中心とした雛飾りでは、内裏雛が、向かって左にくる。先ほどの、左を上位とする思想からすれば、「かかあ(♀)天下」になるが、これも地域差である。

 

右大臣と左大臣



 そうなると、刀剣や弓矢を手にした左大臣と右大臣の関係もわかる。白髪の方が年長者と思われるので、こちらを左大臣にすれば良い。
 最後に、庭掃除の道具を携えた3人の男性は、「怒り・泣き・笑い」の表情をしていて、怒り上戸、泣き上戸、笑い上戸で、「三人上戸」とも呼ばれる。
表情だけでなく、年齢にも差があり、喜怒哀楽だけでなく、変わりゆく人生の年齢を表しているのかもしれないと思った。

 



 かつては、子供らと共に祝った雛祭りだが、今では老夫婦ふたりが、「虫干し」を兼ねて飾り付けるのだから、あまり絵になる光景ではないだろう。だが、ここ数年、何かと忙しく、雛人形を箱から出すこともなかったので、その意味では新鮮であった。今年は、私も後片付けをしっかり手伝おうと思う。

 

           【編集後記】

 「雛祭り」の話題は終わるが、インターネット検索で「左右」の話題を発展させて調べていたら、疑問だった色々なことがわかってきて感激した。思わず吹聴してみたくなったので、触れてみよう。

(1)「ご飯は左、味噌汁は右に置きなさい」 ・・・とは、子どもの頃から良く言われ、最近では、私が孫たちに言うことが増えた。 右利きの人が多いので、箸置きには違和感を感じないが、味噌汁が右にあると、箸を移動させていく時に、引っかけて倒し零してしまうように感じた。
 では反対にしたらどうだろうか?今度は、ご飯茶碗を置いて、味噌汁茶碗に手を掛けようとする時、ご飯の存在が気になる。ふたつの茶碗を大きく離して置かない限り、触れて倒す危険は、どちらにもある。要は、落ち着いて礼儀正しく食べれば良いということらしい。しかし、ここに「左上右下」の思想が、あったとは知らなかった。ご飯も味噌汁もどちらも大事だが、ご飯が主(左)で、味噌汁が従(右)という秩序が、食事文化の中にも息づいていた。

ご飯と味噌汁の関係(箸置き)

(2)和服と洋服における左右、

            いわゆる「右前」と「左前」 
 子どもの頃のトランプ遊びや花札で、カードや札を配る方向や回る順番について、「懐回りはいけない」と、大人から教わってきた。つまり、左回り、または反時計回りが正しい。右回りだと、札を胸元(懐)に入れることが可能になるので、不正の温床だというのが理由であるようだ。
 つまり、和服の前を合わせて着る時、右が胸元に近い手前で、その上に左が被さるようにする。右手が懐に入り易いように着る。(∵)「左上右下」の関係によると言う。ちなみに、これを「右前・みぎまえ」の着方と言い、男女に違いはない。
 一方、「左前」の着方というのもあり、こちらは死に装束である。生死という逆の関係から、着方を反対にするという意味らしい。納棺(別名、にっかん)の時に、死者と共にあの世に連れていかれないようにと、遺体を扱う人の腰に巻く荒縄は「縦結び」にする発想と共通しているのかと推理する。

 ところで、洋服文化となると男女は反対で、ボタンで前合わせをするシャツのような場合、男性は「右前」で、女性は「左前」で着ることになる。
  女性の場合、歴史的に高級服は一人で着ないで、手助けが必要だった。着付けをする人から見て右手でボタンを留めやすいように設計されたといわれている。この慣習が現代にも受け継がれ、ブラウスやレディースシャツ等は、左前が一般的となっている。
 ちなみに、昨今では、ボタン位置は男女どっちでもいいというブランド製品も増えているようです。

和服の着こなし

                                                   * * *

 

 今季の佐久は、昨シーズン以上に雪が少なかった。雪かきをしたのは、2回だけである。降った回数はもっと多いが、霙(みぞれ)雨や1~2㎝以下の降雪で、その日の内に消えてしまうので放置した。
 正式な統計データは調べてないが、とにかく冬越し野菜が水不足で、枯れないか心配しているほどであった。
 3月3日のまとまった雨は、まさに慈雨であった。
 佐久地方のみならず、太平洋側での山林火災が相次いだのは、いかに乾燥していたかを物語る。

浅間の冠雪(3月5日)<3月3日の雨は、山では雪>

 山梨県上野原市扇山の森林火災(1/8~1/24)、静岡県藤枝市の森林火災(1/17~1/26)、群馬県藤岡市の森林火災(1/25~2/3)と、森林火災が、何日間も鎮火できずに燃え続けた。米国のカルフォルニア州での大規模火災ニュースにも似た話題が、身近な里山であったことには驚きであった。
 一方、日本海側(今年の場合特に、秋田県~青森県)や、長野県でも北部では大雪であった。偏西風の位置が例年より北に偏り、冬型の気圧配置でも地域的に偏った降り方があったようだ。近年、梅雨の前線の位置についても、平年より北に偏った傾向があるように感じている。

 ところで強い季節風に流された雪雲で、浅間の冠雪は、多く見られた。例えば、3月3日の麓の大雨も、山では雪となった。
 3月5日、松本に行く機会があったので、安曇野まで足を伸ばしてみた。いつもは佐久の里山の間から眺めているだけの北アルプスだが、雪の量と比べてみようと思ったからだ。 
 写真は、同じ日の共に午前中の山岳の雪景色である。平野部は、まだ枯れ野のままで、共通しているが、さすがに積雪量は、北アルプスには敵わない。
 遠目ではわからないが、枯れた草木の下で、早春の芽吹きが始まっているはずである。 

鹿島槍ヶ岳方面〈安曇野から・3月5日〉

 
 ようやく、三月(弥生)の俳句の解説で、「令和7年度のまとめ」冊子が完成する。平成28年5月から俳句を始めたので、10年間分となった。4月からは、次年度がスタートする。
 ただ、「みゆき会」の解散で途絶えてしまった「倉澤薬師奉燈俳句」の「俳額」は、令和6年5月吉日のままで、昨年の4月も寂しい思いがした。今年もと思うと気が重い。倉沢薬師堂花祭りで、再び掲げられればいいなあと、密かに思う。無理かなあ。                                                                                      (おとんとろ)