北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-144

南部域の沢

 

3.内山層の分布する抜井川支流の沢

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山中地域白亜系と内山層の地質図 (2007年版を一部変更・緩い向斜構造)

 内山層の分布する南端は、抜井川の北側(右岸)の支流です。下部瀬林層を不整合関係で、内山層基底礫岩層が接している様子が観察できます。各沢ごとに紹介していきます。

  (尚、すでに「佐久の地質調査物語・「山中地域白亜系」で紹介している内容と重複する内容もあります。」)                               

 

(1) 古谷集落北側の沢調査から

 平成5年の秋、「古谷集落北側の沢」の調査に初めて入りました。この沢は、柏木橋下流で抜井川に右岸側から合流する無名の支流ですが、古谷(こや)集落の北側にあるので、フィールドネームとして、沢の名前にしました。

 沢の地質概要は、内山層の基底礫岩層(【図-⑨~⑩】)を境に、上流側は内山層、下流側は白亜系が分布しています。
 薄く下部瀬林層(【図-①】)があり、「矢沢断層」と続きます。その北側は、抜井川本流の向斜構造の北翼に相当し、三山層(【図-②・③・④】)、上部瀬林層(【図-⑤~⑥】)、下部瀬林層(【図-⑦~⑨】)です。また、推定した落差の小さい「馬返(まけし)断層」は、この沢付近で落差が解消されていると思われます。

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古谷集落北側の沢のルート・マップ

 沢の入口(【図-①】)は、礫岩層と珪質塊状の明灰色細粒砂岩層で、下部瀬林層です。

 これは重要な情報です。向斜構造北翼の三山層の連続が予想されるにも関わらず、わずかでも下部瀬林層が露出している事実は、矢沢断層が通っていることを意味します。同時に、都沢付近で上部瀬林層は欠如していますが、下部瀬林層は存在し、さらに西側へと延長してることを裏付けてくれます。

 沢に少し入った標高945m付近(【図-②】)と標高955m付近(【図-④】)には、三山層を特徴付けるストライプ層準があります。それぞれ北落ちと南落ちで、傾斜が反対なので、向斜構造が考えられます。中間の小向斜構造の軸部に当たる(【図-③】)には、薄紫色~青緑色を帯びた光沢のある結晶質砂岩がありますが、熱水による後からの富化した岩相だとわかり、三山層として良いとわかりました。
(山中地域白亜系調査で、スカルン鉱物を観察した折、故・由井俊三先生(北海道大学教授)から、変色する理由を伺いました。)                      

 沢の標高960m付近(【図-⑤】)から上流は、上部瀬林層が分布しています。結晶質で、明灰色~黄緑色を帯びた灰色中粒砂岩が、露頭幅15mに渡り見られます。ここから水平距離で20m上流(【図-⑥】)には、同質の中粒砂岩の上に礫岩層がありました。
 標高970m付近(【図-⑦】)では、砂質の黒色頁岩層があり、熱変成されずに層理面を残しています。これが、シダ植物を含む化石層準に相当し、下部瀬林層の最上位層準です。
 標高990mの二股(【図-⑧】)の上下は、滑滝になっていて、粘板岩の間に礫岩層が挟まれていました。いずれも、礫岩は全て角礫で、最大12~15cmのチャートの角礫が見られました。【図⑤】~【図⑧】が瀬林層(上部層)です。内山層の基底礫岩層と比べると、分級が悪いという共通点はありますが、礫の大きさに関わらず円礫である内山層に対して、瀬林層の礫は、「大礫は角礫~亜角礫で、小さな礫は全て角礫」という特徴があります。礫の摩耗度から、両者は区別がつきます。

 標高1015mの二股付近(【図-⑨】)では、粗粒砂岩層(川底露頭)と、礫岩層(左岸側)がありました。粗粒砂岩層の中には、コングロ・ダイクが見られました。全体は、折れ曲がる形態で、長さは3.7m×幅15~20cmです。コングロ・ダイクの西側から、方向(長さ):「N70°E(1m)+N60°W(1.5m)+EW(1.2m)」でした。

 標高1030m付近(【図-⑩】)では、最大直径15cmの円礫を含む礫岩層が見られました。やや下流の【図-⑨】も含めて、内山層の基底礫岩層群として良いと思います。

 1050m二股(【図-⑪】)のわずかに下流では、灰色中粒砂岩層があり、わずかに黒色泥岩を挟んでいました。境で、N18°W・32°NEでした。
 1060m~1070m(【図-⑫】)では、粘板岩が優勢です。変成度が低い砂質の黒色泥層には、サンドパイプや生痕化石も見られました。

 標高1100m付近(【図-⑬】)では、細粒砂岩と黒色泥岩の互層が、「N40°W・12~32°NE」と、極めて安定した走向・傾斜を保ちながら、緩やかな傾きの地層が観察できます。水量が少なくなる上流部では、南傾斜の沢に対して、地層の傾斜が北落ちなので、ちょうど尾根に向かって続く階段のような露頭の上を歩くことになりました。
 粘板岩の原岩は、泥岩~黒色頁岩と思われますが、北側ほど強く熱変成されています。これは、北側の地下に変成の熱源となった火成岩体が潜伏しているのではないかと思われます。腰越沢上流部にも、同様な熱変成による粘板岩が認められたので、潜伏した熱源の存在を裏付けます。

 標高1130m二股(【図-⑭】)では、粘板岩が見られました。この少し下流では、白チャートの角礫が薄く入る礫層がありました。一方、少し上流で、コングロ・ダイクが見られました。幅40cmから消滅×長さ3mで、先端に向かい粒度が小さくなっていました。
 二股から右股へ進みます。標高1150m(【図-⑮】)では、厚さ50cmの礫岩層がありました。泥相の中で、固い礫岩があるので小さな段差となっています。礫種は、結晶質砂岩とチャート礫で、最大直径は、白チャート(30cm)・結晶質砂岩(6cm)でした。正常な礫岩層には、チャート礫が含まれています。N40°W・10°Nの走向・傾斜の礫岩層のすぐ上流に、鉱泉が湧きだして、「硫黄バクテリア」らしきものが認められました。

 標高1070m(【図-⑯】)付近では、砂相はほとんど無くなり、粘板岩だけになりました。かろうじて見つけた薄い砂層との境で、N70°W・12°Nでした。
 標高1200m二股(【図-⑰】)では、N40°W・16°Nの粘板岩層の中に、コングロ・ダイクをみつけました。この沢では3例目です。(【図-⑨⑭⑰】)
 さらに、上流部に向かって粘板岩の階段は続き、尾根に至るようです。推定、1230m付近まで登り、引き返しました。

 

 余談ながら、内山層では、サンドパイプ(sand pipe・泥凄貝類の巣穴化石)【図-⑭'】、小さな鉱泉【図-⑮】の湧き出し(硫黄バクテリアが棲息)を見つけたり、素手イワナを捕らえたりする快挙もあったりと、話題の多かった沢でした。
 また、沢の入口の東側、柏木橋付近には、かつて長福寺があり、跡地に看板があります。

             *  *  *  *

 

 平成18年10月1日の調査では、上流部、標高1130mの二股から左股沢に入り、標高1160~1175mのガレ場【図-⑱】で、海棲生物化石を採集しました。同行した天野和孝先生(上越教育大学教授)から、次のような化石種の説明をいただきました。  素人が採集するにはいいですが、正確な種名までは分かり難いです。

○Echinoidea (ウニ類) 

○Periploma (異靱帯類・斧足綱の二枚貝)
○Acilana(トクナガ貝)

○Lucinoma (キヌタレ貝) 
○Delecto pecten(デレクトペクテン・ホタテ貝の類)

 

【編集後記】

 「古谷集落北側の沢」の調査は3回行ないましたが、私たちの会員の興味の多くは、標高1160~1175mのガレ場【図-⑱】で、海棲生物化石を採集したことにあると思います。

 一方、私の興味は、沢に少し入った標高945m付近(【図-②】)と標高955m付近(【図-④】)の間にある向斜構造でした。小向斜構造の軸部に当たる(【図-③】)には、薄紫色~青緑色を帯びた光沢のある結晶質砂岩がありました。これらが、顔つきから古そうに見えて、内山層より下位にある白亜系、場合によっては更に下位のジュラ系かとも疑いました。(もっとも、背斜構造でないと可能性は小さいはずですが・・・)それに、矢沢断層が、微妙な位置関係で抜けていたので、興味はさらに高まりました。しかし、結晶質砂岩の色の正体は、黒雲母の熱変成であるという理由を故・由井俊三先生からお聞きしたり、周囲の石英閃緑岩体からの岩枝の影響を考慮したりして、規模の小さな三山層内での向斜構造だと結論付けました。様々な経緯で地質図を作成してきたことを思い出しました。

 ところで、懐かしい話題は、このくらいにして、最近の地質的現象で興味深いのは、今月(2021年10月)7日(木)22:54pm、千葉県北西部の地下80㎞を震源とする地震が発生したことです。マグニチュード6.1で、最大震度は「5強(川口市や足立区など)」でした。

 私の住む佐久市では、「震度3」でしたが、発生が、午後11時と深夜で、結構長く揺れが続いたので、寝床の中で揺れの治まるのを待っていました。我が家は築101年目の木造家屋で、私は2階で寝ていたので、『天井が崩れてくるか、一階がつぶれてしまうか』と、そんなことを想像しながら、耐えていました。揺れが治まり次第、階下に行ってテレビを点けて、上記のような情報を得ました。

 地震発生場所は、まさに私の娘夫婦と孫たちの住む所に近く、心配しましたが、高層マンンション15階住まいでも、比較的最近の構造物なので耐震構造はしっかりしているはずので、我が家より安心かもしれません。後で、情報も入りましたが、やはり驚いたようです。

 翌日のニュースでは、都会に住む多くの人々が、一斉に「3.11、東日本大震災(通称)」を想起して、首都直下型の地震発生の可能性にまで不安を募らせたという話題を拾っていました。『杞憂(きゆう)』の話ではありませんが、同じ地震でも、田舎と都会(人口過密による混乱や流言騒ぎ、交通網・生活インフラの遮断など)とでは、心配の中身が大きく違ってくるはずですので、心配の背景は笑い事では済まされないのだと思いました。 

 天変地異や自然災害の無いことを祈りつつ、一日も早いコロナ禍の終息を願っています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-143

  《 南部域の沢 》

 

2. 矢沢の調査から

 

 小さな河川ながら、抜井川は標高850~860m付近で蛇行し始めます。その右岸にある矢沢集落に、東西方向で流れ込む抜井川の支流が矢沢です。
 矢沢では、沢の入口の石英閃緑岩の露頭から始まり、千枚岩化した黒色泥岩・砂岩の互層や、珪質砂岩層、チャート層などからなる先白亜系が、下流側で見られます。ちょうど、コンクリート橋付近【図-⑨】が境目で、上流側が内山層(新第三系)となります。
 ここ矢沢から、古谷集落北側の沢入口付近を抜け、都沢を経由して四方原山の西側にまで達する「矢沢断層」が推定されます。断層は、北方にも延び、灰立沢~余地川~谷川~雨川中流部に達していると考えています。

 矢沢(やざわ)の調査は、平成8年に、石英閃緑岩体の分布と、推定した矢沢断層の通過位置の証拠を求めて、2日間行ないました。既に、『佐久の地質調査物語・山中地域白亜系』の中で、「矢沢調査で、ひとまずのまとめ」として、白亜系に関係した地域の調査の区切りとしてありました。

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矢沢のルート・マップ

 国道299号線に懸かる橋の下から入ると、入口付近から石英閃緑岩が見られました。石英閃緑岩は、石英と斜長石、角閃石を主体とする深成岩です。肉眼でカリ長石と斜長石を区別することはほとんどできません。ホルンブレンドのような長柱状の角閃石が入っているので、石英閃緑岩として良いと思いました。(【図-①】)
 石英閃緑岩の露頭は、小さな木橋(900mASL)を過ぎた標高910m付近までは、川底にほぼ連続して見られます。
 標高890m付近では、石英の斑晶がなく、流紋岩のように見える産状の岩体が、滑滝を形成している箇所がありました。貫入岩体のほとんど西端に当たるので、急に冷やされて固まった「急冷周縁相」を示しているのかもしれないという議論もありましたが、本当のところはわかりません。この産状は、ここだけで、再び正常な石英閃緑岩になりました。

 木橋の手前8m付近では、細粒の有色鉱物が多く、玄武岩と見間違えるような岩体がありました。黄鉄鉱(pyrite)も異常に多く含まれ、捕獲岩ではないかという話題も挙がりました。(【図-②】)

 標高910m付近で、黄鉄鉱と、薄紫色の黒雲母の細粒結晶が、二次富化された部分をみつけました。由井教授からスカルン鉱物の説明を受けた産状と類似しているので、そう判断しています。ちょうど、この辺りまで、石英閃緑岩の連続した露頭が見られました。

 川が急に開け、落葉松林となります。ここにレンズ状の石灰岩(図のls)がありました。さらに、水平距離で45m上流にも、同様な露頭がありました。石灰岩自体は、熱変成されていませんが、かなり結晶質でした。
 

   沢の標高918m付近にコンクリート製橋、すぐ上流に堰堤(920mASL)があります。
この一帯(【図-③】)は、灰色チャートや珪質砂岩が卓越していました。ここにも、薄紫色に見える黒雲母細粒結晶や黄鉄鉱の二次富化がみられます。また、非常に小さな石英の晶洞(druse)が認められ、堰堤の上流側に幅3mの石英閃緑岩が岩枝状に露出していました。石英閃緑岩体との接触交代や熱水の移動による産状だと思われます。
 後述する「捕獲岩か?(925mASL)」とした岩体も含め、石英閃緑岩の影響は、沢の標高925m付近までと思われます。

 沢の標高925m付近(【図-④】)では、地質構造から目視できる断層がありました。沢水の流れる川底に断層面(N40°E・40°SE)が見られ、右岸側が黒色細粒砂岩、左岸側が千枚岩化した黒色泥岩と砂岩の互層(N60°W・S落ち)でした。左岸の互層部分と断層面は、ほぼ直交した関係になります。

 このすぐ上流にも、砂泥互層部があり、全体は黒色ですが、薄紫色を帯びた部分があり、千枚岩化されていました。これが、前述の「捕獲岩か?」とした岩体と接しています。有色鉱物が点紋状に集まり、閃緑岩に似た感じでした。

 標高928m、右岸を北東から流入する沢との合流点付近(【図-⑤】)では、硬い珪質砂岩が造瀑層となり小滝を形成しています。縮尺の大きい地形図ではわかりずらいですが、流路が南南東(上流側)から西南西(下流側)へと、ほぼ直角近く急変します。これは、矢沢本流と合流する支流方向を結ぶ方向に、断層(断層面:N60°E・80°NW)が走っていることが、原因と思われます。左岸側は、滝を構成する結晶質砂岩で、右岸側は、下流側から続く砂泥互層(千枚岩化はされていない。)でした。左岸側には、青味を帯びた灰色の断層粘土が認められました。

 沢の標高930m~950mにかけては、滑滝が連続していました。
 【図-⑤】の滝は、下位から灰色・黒色・再び灰色と粒度の違いで色彩を変えますが、珪質の砂岩層で構成され、滝の上は、最大経2cmの白色~灰色チャートの円礫を含む灰色珪質砂岩層でした。
 続いて、標高940m付近(【図-⑥】)では、滑り台のような四段の滝がありました。黒色と灰色の珪質砂岩で構成されています。黒色に見えるのは細粒砂岩です。

 その上流でも滑滝が随所に見られました。傾向として、次第に珪質な砂岩が減り、黒色細粒砂岩が多くなります。その中で、「白チャートと暗灰色砂岩が、縞模様となった」層準が認められました。産状を見ると、チャート(図のch)が1cmにも満たない層状で、これを切るようにして薄い砂岩層が、レンズ状または層状に、乱れて重なっています。今までフィールドで見たことのない珍しい産状なので、記載しておきます。いつか、話題になることがあるかもしれません。(【図-⑦】)

 再び、滑滝(露頭幅20m)が続きますが、珪質砂岩と普通の砂岩が混じり、灰色珪質中粒砂岩の中に、シルト片が入るような産状も認められました。
 南東から支流沢が流入する標高958m付近では、青味を帯びる明灰色の細粒砂岩がみられます。

 標高965m~975m付近(【図-⑧】・図のchの多い部分)では、黒色細粒砂岩や灰色中粒砂岩の中に、灰色~白色チャートが頻繁に挟まります。下流部の類似の砂岩と比べると、珪質傾向ではなく、明らかにチャート層が入っていることに注目してください。チャート層が卓越する範囲です。

 ちょうど、コンクリート橋付近(【図-⑨】・標高978m~979mほど)が境目です。下流側へ石英閃緑岩までが先白亜系で、上流側が新第三系(内山層)です。形成年代が大きく異なる両者は、断層で接していると考えています。
 そこで、矢沢から、古谷集落北側の沢入口付近を抜け、都沢を経由して四方原山の西側にまで達する「矢沢断層」を推定しています。ただし、一般的に言えるようですが、時代の異なる岩相では明らかに区別できるものの、目視できるような断層の証拠は認められませんでした。

   コンクリート橋(【図-⑨】)から上流へ約30m、南から小さな沢との合流点付近では、暗灰色中粒砂岩層と黒色細粒砂岩層が見られました。最初に確認できる内山層と思われます。地層の境目で、「N0°~20°W・30~35°E」と、東落ちでした。
 その10m上流では、黒色細粒砂岩層に挟まれた礫岩層があり、「N60°E・60°SW」でした。白色チャート礫が多く、粘板岩や砂岩の礫も含まれていましたが、角礫や不規則な形の礫が多いという特徴があります。これは、「礫の大きさに関わらず円礫」という内山層基底礫岩層の特徴とは明らかに違います。岩質は硬く、沢は走向に沿って流れていました。

 標高985m~1005m(【図-⑩】)に、第1・第2・第3「クランク」と私たちが名付けた特徴的な地形が、連続して展開します。
 かつて、地質情報が十分でなかった頃、内山層は、「内山中生層」と言われていた時代もあるくらいですが、少なくとも、矢沢の第1~第3クランクの産状を見る限り、非常に硬い岩質で、下流側の先白亜系よりも時代が古いのではないかという感触すらしました。
 その中でも、珪質の明灰色細粒~中粒砂岩は特に硬く、これらが黒色~灰色中粒砂岩に挟まっていると、その部分は浸食に強いために削られず、沢は流路を90°近く転向して流れるようになります。その形が、日本の城郭施設の枡型(ますがた)や工具の「クランク」に似ているので、フィールドネームで呼ぶことにしました。

                                     *   *   *

 第1クランク(標高985m付近)では、黒色中粒砂岩層・珪質の明灰色細粒砂岩層・礫岩層(直径3cm白チャート)を挟む黒色中粒砂岩層という構成で、幅10mほどの珪質部分(方向N10°W)に対して、沢が「卍」文字の片方のように「クランク」に似た流路となります。

 第2クランク(標高1000m付近)では、全体的に珪質ですが、黒色中粒砂岩層・明灰色細粒砂岩層・灰色チャートを挟む黒色~暗灰色中粒砂岩層の構成で、下流側から、それぞれ「N20°W~N40°E~N70°E」と、流路が変わります。矢沢全体は、切り立った沢ではありませんが、ここだけは両岸が10m以上の崖に囲まれた渓谷です。下流側の黒色中粒砂岩層に、二枚貝や巻貝の化石層準があり、鏨(たがね)で叩いて、ようやく採集できました。巻貝の抜け落ちた跡も数多く観察できました。私たちは、詳しい種まで化石鑑定をすることができません。もし、文献による予備知識がなければ、砂岩の硬さから、とても新第三紀層とは思えないような印象の地層でした。

 第3クランク(標高1005mより少し下流)は、小規模で、粘板岩片の入る黒色中粒砂岩・明灰色細粒砂岩で構成され、クランクの中軸は珪質細粒砂岩「N30°~50°W・NW落ち」で、小さな滝を形成していました。

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矢沢の第1~第3クランク(ルート・マップ)

 

 

沢の標高1005m付近で、北からの小さな沢と合流します。岩質は硬いものの、砂岩は珪質でなくなり、泥質な部分を挟むようになります。互層の滑滝では、泥が浸食されて小さな「ケスタ状」構造が観察できました。「N10~30°W・10~20°E」と、緩やかな東落ちでした。
 沢が南に振り始める標高1015m付近から、風化色が黄土色の粗粒砂岩が出始めてきました。クランク部分と標高1015m付近の間で、岩質と構造が大きく変化していますが、原因はわかりません。

 標高1020m付近(【図-⑪】)では、同質の粗粒砂岩層と暗灰色中粒砂岩層の境で、「N60°W・20°SW」と、緩やかな南西落ちに変わります。
 これより上流の標高1040m二股付近までは、同様な岩相と地質構造が変わりません。
風化色が黄土色の粗粒砂岩と塊状の黒色細粒砂岩が主体です。この黄土色は、凝灰質であると思われ、黒色細粒砂岩との組合わせも、標高1015mより下流域とは異なった岩相です。

  

 標高1040m二股から右股沢に入りました。風化色が黄土色の粗粒砂岩と黒色細粒砂岩に加え、明らかに凝灰質の砂岩層が多くなりました。
 二股上流の小滝(【図-⑫】)の造瀑層、黒色細粒砂岩層と黄土色粗粒砂岩層の境で、
「N40°E・18°SE」のデーターを得ました。
 これより上流での走向は、N20~30°Wと安定し、20~30°Eと、東落ち傾向でした。沢は、走向に沿っていると思われ、黒色細粒砂岩と黄土色(風化色・元は暗灰色)粗粒砂岩、凝灰質中粒砂岩の互層が繰り返し観察できました。
 標高1150m付近(【図-⑬】)では、黒色で、やや珪質な細粒砂岩層の中に、3本の白色チャート層(10cm層厚)が認められました。内山層の中にはあまり見かけない産状です。
 また、標高1200mの上二股を左股に入って、すぐの所(【図-⑭】)で、石灰岩塊の転石をみつけました。転石情報ではありますが、内山層の分布域では、あまり目にすることのない石灰岩ですので、奇妙に思い記載しました。

 この後、急斜面の沢のブッシュ漕ぎをして林道に出ました。
 黒色頁岩層の露頭がありました。少し下った、標高1250m付近(【図-⑮】)の黒色頁岩層から、二枚貝と魚鱗(ぎょりん)化石を見つけました。
 林道を進み、林道の西へ張り出した標高1280m付近(【図-⑯】)では、凝灰岩露頭があります。新鮮な部分は、緑色凝灰岩として良いかと思います。
 林道の標高1260m付近では、凝灰岩の間に、斜長石が点紋状に入る安山岩質溶岩がありました。これより、林道沿いの山側露頭で、安山岩質溶岩が認められます。良く見ると、斑晶の大きさは変化しています。矢沢本流を越えた右岸側(山側)に、同質の安山岩質溶岩が観察できました。(【図-⑰~⑱】)「板石山溶岩」だと思われます。
 林道の標高1160m付近(【図-⑲】)で、黒色細粒砂岩(主)と凝灰質な黄土色(風化色)粗粒砂岩(従)の互層部の、黒色細粒砂岩層から、二枚貝化石とウニの殻模様の化石を見つけました。ちなみに、走向・傾斜は、N55°W・20°Nでした。
 林道を下った標高1120m付近(【図-⑳】)では、灰色中粒砂岩層と凝灰質粗粒砂岩層の互層部分で、N30~70°W・30~40°NEでした。

 林道が大きく北側へ「ヘアピンカーブ」する所の東側、標高1040m付近(【図-21】)で、珪質の灰色中粒砂岩層に、岩脈状に入る礫岩の異常堆積構造(コングロダイク)を見つけました。尾根を挟んだ古谷集落北側の沢でも3露頭認められています。

 

 【 閑 話 】
 残念でならないことは、矢沢に関する写真資料が無いことです。調査には携帯していくはずのカメラですが、平成8年の2回の調査では忘れたようです。それで、不確かですが、昔のフィールド・ノートを見返して、矢沢の第1~第3クランクのイメージを描いてみました。なぜ、200mにも満たない流路だけ、珪質砂岩層が卓越しているのか不思議です。

 『灰色チャートに見える層』と記載した内容は、当時のメモ書きでは「チャート層」と記されていました。この後、大野沢支流第5沢で、「珪酸分が表面に付いただけの珪質砂岩層をチャート層」と間違って解釈した話題が出てきますが、まさに、その原点でした。
 珪酸(SiO2 )の多い砂岩層とチャート層は、大きな違いです。放散中の化石を含むチャート層は、深い海洋底で堆積したものがプレートによって運ばれてきた付加体の産物だからです。 

 

【編集後記】

 本文中に出てきた『矢沢断層』についての話題です。

 地質図を作成する時、本来は繋がっていたと考えられる地層が連続していなかった時、地質構造の立体的な矛盾が解決できるようにと考えて、断層の存在を推定します。いわゆる「推定断層」です。・・・・もっとも、詳しいボーリング調査でもしない限り、地下の様子は目視できないので、どうしても推定せざるを得ません。

 しかし、地質構造だけでなく、明らかに堆積した時代の異なる地層が接している場合は、かなり確かな証拠として良いです。運良く、断層面が観察できたり、断層粘土があったり、崩れやすい断層帯があったりした場合は、さらに証拠として強化されます。

 『矢沢断層』の場合、推定断層とは言え、「推定」の文字を取り除いても良いくらいのいくつかの証拠に裏付けされた断層構造です。

 矢沢では、先白亜系(ジュラ系か)と内山層が至近距離で接しています。

 また、南側で、抜井川~都沢では白亜系の中の地層同士の不連続、蛇紋岩帯のずれが証拠です。一方、北側で、余地川から谷川では、先白亜系と内山層が接していることが証拠です。詳細は省きますが、都沢の奥から内山川まで、断層の道筋が追跡できました。(下図は、灰立沢と矢沢での断層の位置と、石英閃緑岩や板石山溶岩の分布がわかるように、部分的に載せたものです。)

 

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灰立沢から矢沢付近の地質図(矢沢断層や石英閃緑岩・板石山溶岩)

 今頃になって、改めて地質図を作成した頃を思い出してみると、いくつかの断層の位置や構造についての証拠集めや、地質柱状図などを作成して、断層の落差や「ずれ」を計算したことが、とても懐かしく思い出されます。

 私たちレベルの地質学や地質図は、いい加減さも確かにあると思いますが、それでも、詳細で多くのデーターを集め、最善の推理方法と、数理的処理で何んとか解明しようと努力してきています。

 さらに、現代のコンピューターを使った「3D」機能で、地質図が、立体的に視覚的に表現できれば、多くの人にわかりやすく伝えられるのになあと思っています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-142

 

第Ⅷ章 南部域の沢


 内山層の分布域を①北部域(内山川水系)、②中部域(雨川~谷川~余地川)+②'余地峠~熊倉川、③南部域(灰立沢~矢沢および、抜井川の支流など)と、大きく3つに区分した時、灰立沢は、南部域に入ります。
 ところが、灰立沢の下流部はジュラ系(海瀬層)で、中流部は石英閃緑岩が広く分布し、上流部は板石山溶岩(安山岩)に覆われ、内山層は、ほんの限られた範囲でしか観察できませんでした。
 灰立沢には石英閃緑岩の採石場があり、霧久保沢と共に大規模に掘り出されています。
 また、板石山(1240m)には、鉄平石(板石山溶岩)の石切場もあります。

 

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灰立沢(はいだてさわ)の位置

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石英閃緑岩の切り出し場

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秦(はた)採石の加工場

 

1. 灰立沢の調査から

 平成16年8月9日、灰立沢の調査に入りました(【灰立沢のルートマップ】を参照。図-数字は、露頭番号に対応している。矢沢や抜井川支流との関係がわかるように、他の沢のデータも添えてあります。)

 

 「秦(はた)採石」さんの加工場に挨拶に行き、写真撮影をさせてもらいました。その後、林道終点の標高1100m(【図-①】)まで車で上りました。
 川底は、石英閃緑岩(Quartz-Diorite)が広く露出していて、真っ白でした。石英閃緑岩の中に、「8cm~厚い所で15cmの幅×長さ2.5~3m」の層状の縞模様が見られました。石英閃緑岩が砕けた礫や他の結晶質砂岩の礫が礫岩層のように入り込んでいます。原因が良くわからない構造でした。

 南から小さな沢の合流する標高1110mでは、石英閃緑岩の滑滝が、見られました。川底を覆っています。

 北からの沢が合流する標高1115m付近では、石英閃緑岩が、周囲の結晶質砂岩層の地層に入り込み、シル(sill・板状の貫入)のように貫入している様子が観察されました。岩相からは、基盤岩(ジュラ系)の可能性もありますが、断層の東に位置するので、内山層が熱変成されている可能性もあります。

 現段階では、石英閃緑岩の貫入がずっと後の出来事なので、貫入によって押し上げられ、仮に内山層があったとしても、削剥されていると考えた方が良いと考えています。

 

   

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石英閃緑岩の岩枝がシル(sill)状に貫入する

この上流側、標高1130m・1145m・1190m地点(【図-②】)でも、石英閃緑岩が見られました。

 そして、標高1205m付近(【図-③】)では、結晶質砂岩層が見られました。内山層の砂岩や泥岩が、玢岩などの熱で変質した灰白色~灰色とは違い、もっと緻密で堅いので、熱変成の程度が強いのではないかと思われます。わずかに、分布する内山層が熱変成されたゾーンだと考えました。

 北からの沢が合流する標高1220m(【図-④】)では、再び石英閃緑岩が見られました。そして、標高1240m付近(【図-⑤】)では、板石山安山岩の溶岩が出始めました。これより上流側に分布していると思われます。

 

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灰立沢のルートマップ(cf:矢沢断層の資料も併記)

 【編集後記】

  内山層の分布域を①北部域(内山川水系)、②中部域(雨川~谷川~余地川)+②'余地峠~熊倉川、③南部域(灰立沢~矢沢および、抜井川の支流など)と、大きく3つに区分し、各地域ごとの紹介している最後となります。

 灰立沢は、矢沢で確認できた「矢沢断層」の北への延長部分に当たり、その証拠を探りましたが、石英閃緑岩体の貫入した一部分などに当たり、直接の証拠は得られませんでした。それで、断層の延びの方向から【図-①】付近だと推定しました。

 前の章で紹介した「熊倉川」のような派手さはありませんが、沢の狭い範囲で内山層が確認でき、地味ながら貴重なデータとなりました。写真の加工で、データー容量を減らしてしまったのは残念です。ちなみに、六川先生と二人だけの調査でした。

 ところで、本文中に出てきた『北からの沢が合流する標高1115m付近では、石英閃緑岩が、周囲の結晶質砂岩層の地層に入り込み、シル(sill・板状の貫入)のように貫入している様子が観察されました。・・・』という所の『シル』という言葉には、懐かしい響きがあります。

 地質学や岩石学を選択した人なら、その初年度や基礎の段階で、火成岩の貫入の様式を学びます。「シル(sill)」というのは、火成岩が地下深部から地層に貫入してくる時に、層理面に平行になるように侵入してくる産状です。一方、地層を断ち切って貫入してくるのは、「岩脈(dyke)」です。そう言えば、もっと大規模な、主に花崗岩の産状で、「バスリス(底盤・batholith)」というのもあったなあ。

 50年近く前に、K教授の岩石学の講義で聴いたことを懐かしく思い出しています。

              *  *  *  *

 9月は、秋野菜の種蒔きや定植、畑周辺の草刈りなどの整備作業、それに、家の敷地の除草や倉庫・車庫の片付けなど、忙しいというより、次々と「今日(キョウ)やるべきこと、何か用(ヨウ)事がないか」と捜し、俗に言う「キョウ・ヨウ」を大事にした生活に徹したせいか、『はてなブログ』が疎かになっていました。

 月が改まった10月1日は、台風先触れの雨天で、室内で一日休養して過ごしましたので、今日は、がんばろうと、「灰立沢の調査から」を載せました。さらに9月の『俳句のまとめ』もしなければ・・・と懸案事項を思い出しました。(おとんとろ) 

佐久の地質調査物語-141

      《中部域の沢》

6. 熊倉川 (上流部) の調査から

 平成17年8月2日午前7時、青沼小学校へ集まり、熊倉川への2度目の挑戦が始まりました。全員が揃い、7時20分に出発し、余地峠には8時12分に着きました。(余地ダム湖から余地峠に至る林道は、封鎖されています。許可を受けて解錠・通過しました。)
 合流する沢の二股が、滝の落下口になっている珍しい滝(【図-⑫】)で、先頭を歩いていた二人が「ジバチ」に刺されるという事件がありましたが、午後4時半には青沼小学校へ、無事に着くことができました。

 

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熊倉川上流部のルート・マップ

 余地峠の少し手前で、Rav4(渡辺車)と新車の軽トラ(中沢車)を置いて、10分ほど歩いて峠に出ました。余地峠は、標高1270mほどあります。江戸時代に作られたらしい「馬頭観音像」が佇んでいました。(【図-①】)

 余地峠からの林道は国有林区で、最近まで利用されていたのか良く整備されていました。標高1260m付近(【図-②】では、熱変質した灰白色細粒砂岩層が見られ、走向・傾斜は、N25°W・20°NEでした。岩相から、内山層だと思われます。

 林道の標高1230m付近(【図-③】)では、熱変質した灰色細粒砂岩層で、黄鉄鉱(pyrite)の晶出が顕著でした。N20~30°W・10°NEでした。熱変質に関しては、火成岩の露頭は見つけられませんでしたが、余地峠の南側には、石英閃緑岩(Quartz-Diorite)の大きな岩体があるので、岩枝状に貫入して、熱変質させたのかもしれません。

 林道の分岐点(標高1140m)を少し過ぎた(【図-④】)では、粘板岩(slate)が見られました。黒色泥岩の熱変成岩です。N40~50°W・15°SWとなり、特に、傾斜が東落ちから西落ちに変わりました。

 前回の調査(7/9 2005)で、林道に目印を残して置きましたが、今回は、もっと手前から入りました。源頭の大きな欅(ケヤキ)の木【☆】を目指し、旧林業小屋の横を下りました。前回の調査で発見した熊倉川に降りられるルートです。9時05分に源頭から下降し始めて、ノンストップで、9時30分には熊倉沢に到達しました。

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標高840m滑滝の右岸(全体の様子)

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標高840mの滑滝の右岸(拡大)

 標高840mの滝の周辺(【図-⑤】)は、前回の調査で観察してあります。(記載内容は、そちらを参照。) 水の流れている滝の左岸側から登り、滝の上に出ました。ちなみに、高所が嫌いな六川先生は、滝の少し手前から雑木林の中を経由して、気の毒なほど遠回りをして滝を越えました。
 滝の上(【図-⑥】)は、約40mにわたり礫岩層からなる滑滝が続いていました。全体は亜角礫で、最大径は白チャートの4×8cmでした。

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滑滝の上(礫岩が連続して分布している)

 滝の50m上流から、次の南からの滝の手前50mの区間(【図-⑦】)は、千枚岩化された灰白色細粒砂岩と、いくぶん泥岩層が混じる互層が見られました。

 南からの滝、標高865m付近(【図-⑧】)の下流50mから滝を含む、次の滝までの間は、南西側に湾曲した崖で、チャートの円礫を主体とする礫岩層でした。礫岩層の走向・傾斜は、EW~N70°W・30~60°Nでした。湾曲部の奥まった所は、結晶質の灰色細粒砂岩層で、黄鉄鉱の晶出が見られました。
 支流の滝なので、水量が少なくやや迫力不足ですが、山の斜面から本流へと直接落下しています。北海道の知床の沢にもこんなタイプの滝が多く見られたので、「知床滝」と呼ぶことにしました。

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「知床滝」と名付けた、いきなり川底に落下する小滝と六川先生

 湾曲した崖が終わり、流路を西に振る所(【図-⑨】)に、落差2mほどの滝がありました。白チャートの円礫を主体にした(黒色チャート無し)礫岩層が造瀑層で、左岸側が割れていました。この滝から続く左岸側に、白チャートの巨礫(最大40×70cm、多いのは30cm程度)を含む礫岩層が見られました。

 標高880m付近(【図-⑩】)では、幅80cmの破砕帯が見られました。【写真の中央】破砕帯の周囲の珪質灰白色砂岩層の走向・傾斜は、N15~20°E・30°NWでしたが、
破砕帯の部分を境に、落差があるのか、横ずれがあるのかは、わかりませんでした。

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破砕帯(左岸側・北側を向いて撮影)

 この上流は、帯青灰白色の中粒~粗粒砂岩層の滑滝が続きました。
 そして、塊状の灰色中粒砂岩層からなる滑滝が見られました。落差のある滝というより、滝壺が美しい円形をしているのが特徴でした。露天風呂には最適です。

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円形の滝壺 【破砕帯の上流】

 ちょうど標高900m付近(【図-⑪】)の南西側一帯は、大きな崖になっていて、看板表示で「障子岩国有林」とあったので、障子岩と呼ぶのかもしれません。
 地形図を見ると、標高差で40mぐらいあります。【写真】の遠くの人と比べると、それ以上にも感じられます。

 標高895mで南から流入する小さな沢から、標高905mで北から流入する小さな沢までの間が断崖で、この下を熊倉川は(下流側から見て)S字の逆に湾曲して流れています。

 下流側から、塊状の灰白色粗粒砂岩層、小さな滝(粗粒砂岩)、少し礫が混じり珪質な灰白色粗粒砂岩層、滑滝(礫岩層)、再び灰白色粗粒砂岩層(最大径80cmの白チャートの巨礫が入る、pyrite が晶出)と岩相が変わりましたが、全体は粗粒砂岩層で形成されていました。
 なぜ、障子岩のような大断崖ができたのか、不思議です。

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「障子岩」の断崖



 ちなみに、山中地域白亜系や内山層全体の地質をまとめ、地質図を作成する段階で、この障子岩付近を通過する推定断層の解釈が生まれました。それは、「知床滝」の礫岩層あたりと障子岩付近の間の小さな沢(【写真-右】)と、破砕帯(【図-⑩】)を結ぶ線にあるのではないかと考えました。
 さらに南側から見てくると、『山中地域白亜系の中から、大上峠を経て障子岩付近、馬坂川支流の大滝を通り、田口峠付近、そして初谷沢』で、内山断層に至るような大きな断層を想定しています。

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障子岩の手前(少し下流)にある小滝

                              *  *  *

 

 標高905m~910m(落差5mほど)に珍しい滝がありました。(【図-⑫】)
 熊倉川の本流は北西から、余地峠方面から流れる支流は南西から、ちょうど直角に沢が合流し、合流点から沢水が流れ落ちています。造瀑層は、結晶質の灰色粗粒砂岩層です。滝の上も同質の粗粒砂岩層でした。
支流の沢のわずか上流では、クラックがあると、穴あき状に崩れ、小さなくぼみができていました。また、堅い岩盤のはずですが、クラックの入った所から崩れやすく、滝の下の左岸側の一部は、ブロックで崩れていました。

 (話は少しそれますが、昼食を食べた後、この滝の右岸側を高巻いて滝の上に出る時、先頭を歩いていた中沢先生と星野先生が、ジバチの巣を踏んで刺されました。中沢先生は、蜂アレルギーがあるので、簡易の吸い出し器で蜂毒を除き、事無きを得ました。)
 

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「ジバチ」滝と命名した滝(下流から撮影)

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沢の合流点から滝の下を望む【図-⑫】

 支流の沢のわずか上流では、クラックがあると、穴あき状に崩れ、小さなくぼみができていました。また、堅い岩盤のはずですが、クラックの入った所から崩れやすく、滝の下の左岸側の一部は、ブロックで崩れていました。

 

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穴あきクラックの様子

                                
 滝の上、西から流入する小さな沢との合流点、標高910m付近(【図-⑬】)では、少し手前に極めて分級の悪い礫岩層が見られました。白チャートと粗粒砂岩が多いのですが、現世の河床礫のような印象を受けました。合流点から上流は、極めて崩れやすい粗粒砂岩層の崖が続きました。

 北からの沢との合流点、河床がゆるやかになる標高920m付近(【図-⑭】)では、暗灰色粗粒砂岩層とわずかに礫岩層が見られました。その少し上流から、分級の悪い礫岩層が続きました。チャート礫が少なくなり、砂岩や火成岩の礫が多くなりました。

 沢の幅が広くなる標高930m付近(【図-⑮】)では、砂岩岩塊の巨礫を含む礫岩層が見られ、その少し上流では、暗灰色細粒砂岩層がありました。
 北から沢、北北西から沢と、15mも離れないで、ふたつの沢の合流が続きます。そして、938m二股(【図-⑯】)では、熱変質した灰白色極細粒砂岩~泥岩層が見られました。全体的に礫岩や粗粒砂岩が目立つので、泥相は寧ろ目立ちます。
 滝(【図-⑫】)の上の分級の極めて悪い礫岩層(【図-⑬】)あたりが境目で、この礫岩層を含めた上流部が、兜岩層ではないかと考えています。

 

 標高938m二股から、右股の本流を少し進みました。

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「人面岩」と名付けた凝灰角礫岩の大岩塊

 標高940m付近(【図-⑰】)では、二人の人の顔が向き合っているような(【写真】)凝灰角礫岩(tuff breccia)の大岩塊がありました。岩塊の間をくぐり抜けることができます。その上流にも、凝灰角礫岩が続いていたので、兜岩層だろうと判断して引き返すことにしました。大岩塊は「人面岩」と名付けました。

 二股に戻り、左股から余地峠に戻ろうと思います。時間は、午後1時30分ですが、帰路も沢の厳しい登攀とブッシュ漕ぎが待ち受けているはずです。
 標高980m二股(【図-⑱】)では、帯青灰色の粗粒砂岩層と角礫の礫岩層が見られました。
 次の二股、標高990m付近では、凝灰角礫岩層が、また、標高1020m付近では、凝灰質の粗粒砂岩層が見られました。
 標高1040m付近(【図-⑲】)では、凝灰質の粗粒砂岩層の中に、幅1.5mや4mの角礫層が挟まっていました。
 標高1070mで沢水が伏流、1080mで再び湧き水がありました。しかし、すぐに途絶え、標高1100m付近からは、ガレ場が多くて落石の危険が伴うので、低木帯に入ることにしました。ヒノキの植林の斜面を登り、最後は、ネマガリダケの中をブッシュ漕ぎして、推定1260m付近で、笹の刈ってある道を発見し、道なりに尾根を越えて、林道に出ました。(14:50)

 そして、林道を歩いて、余地峠の少し下の車を置いた場所に無事到着です。(15:20) 朝出発した青沼小学校へは、午後4時30分に着きました。

 

 【編集後記】

   本文中に出てきた「ジバチの滝」の写真と、そのエピソードは、既に紹介している『山中地域白亜系の中の、瀬林層・「腰越沢の調査から」の編集後記』で触れています。腰越沢本流の両側から小さな沢が合流する三俣があって、その5mほど下流に、瀬林層下部層(白亜系)と内山層との境となる内山層の基底礫岩層があるという話題です。「滝にはならなかったが、基底礫岩層が硬いので、下流が浸食されずに上流部が削られて三俣が形成された」という内容です。

 ここの「ジバチの滝」は、造瀑層が礫岩層で、2方向からの沢筋が、ちょうど滝の流れ出す口で直角に交わっています。まだ、上流部を浸食仕切れていないようでしたが、滝の上は、しばらく平坦となって土砂を溜める小さな河原ができていました。川の上流部で「V字谷」ができるという単純パターンではないことを教えてくれます。ひとえに、周囲より硬い地層が存在することで生じる現象だと思います。

 ところで、「内山層」の話題の次に、それより新しい時代の地層の話題を予定していますが、本文に紹介した調査当時は、『内山層の上位層は、単純に兜岩層だ』と理解し、兜岩層の凝灰角礫岩などを見つけると、その先(主に上流)の調査は止めていました。先人の調査内容で満足して、深く追究しませんでした。(たまたま、この地域は、それで良かったようですが・・・・・)

 それにしても、この「人面岩」は、二人の人物が「おでこ~口」辺りをくっつけているように見える印象的な大岩塊でした。アメリカ・インディアンが奇岩に名前を付けるのを真似てみましたが、地形図で標高などの情報が伝えられない時代には、特徴的な岩や大木、特異な地形に、その姿を印象付ける名前を付けて、部族の中で共通認識をしていたのだろうと想像します。

 例えば、本文中の『障子岩』の大断崖も、家庭にある障子の例えでは、その迫力を伝えるのに不十分ですが、立てた障子のように垂直であるという意味合いにおいては、十分に地形の特徴を説明できます。

 ただし、障子岩を境に(実際は断層ですが)、地質時代は、ジュラ紀と新第三紀(中新世)ほど大きな時空の隔たりがあるのですから、室内と屋外を隔てる障子程度の差でないことには、触れて置きたいと思います。

 

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秘境・熊倉川の位置(再掲)

 

  最後に・・・、今日の午前中、TOYOTAの「PRIUS」車から、1年前に新車で購入したDAIHATSUの「TANTO 」車の定期点検がありました。その後、しばらく雨が止んでいそうなので、夏野菜を収穫に畑に出かける予定でしが、なかなか「はてなブログ」が進みません。夕方から明日にかけての降雨なので、遅くなるほど雨降りは確実です。

 夏の果てを迎え、夏野菜も勢いがだいぶ衰えてきましたが、オクラとミニトマトは、例外です。収穫を1~2日延ばすと、オクラは固くなり、トマトは熟れてしまいます。今から、急いで野菜の収穫に出かけます。(おとんとろ)

佐久地質調査物語-140

 《中部域の沢》

 

5. 熊倉川 (象ヶ滝付近) の調査から

 平成17年7月9日、午前7時に青沼小学校に集合。いつもは8時半集合なので、少々遅刻をした人もいて、打ち合わせをしていたら、結局、7時50分の出発になってしまいました。車で大上峠を越えて、熊倉集落には9時半に着きました

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熊倉川・象ヶ滝付近のルート・マップ

 熊倉集落にはバス停があり、下仁田行きのバス便がありました。道路のコンクリート防護壁の無い所で見ると、黒色泥岩と砂岩の互層が、千枚岩(phyllite)化していました。所々に蛇紋岩(serpentine)が染みこんでいました。(【図-①】)熊倉川の川底にも、同じような連続露頭が見えました。
 千枚岩(phyllite)は、一般に泥質起源で、粘板岩(slate)から結晶片岩(crystalline schist)への中間変成度のものです。熱変成に加え動力変成の影響も受けたものです。ここだけの観察ですが、山中地域白亜系の調査で、鍵掛沢で観察した先白亜系(御座山層群)の産状と良く似ていると思いました。

 北からの沢の合流点、標高600m(【図-②】)では、黄土色砂岩と白色砂岩の互層で、走向・傾斜はN60°W・50°SWでした。

  北からの沢の合流点、尾根が南から張り出す川の湾曲部、標高650m(【図-③】)では、いくぶん砂が多くなり、千枚岩(phyllite)でした。橋の手前(【図-④】)では、砂質の千枚岩で、N40°W・40~50°SWの走向・傾斜でした。

 橋を渡ると、林道の遙か下を流れていた沢の標高が、林道へと近づいてきたので、沢に降りました。河床は千枚岩(phyllite)でできた美しい滑滝が続いていました。

 南西から小さな沢が入り、沢沿いに「自然公園」へ繋がる歩道があります。沢の先に、堰堤(【図-⑥】)がありました。

 標高700m付近(【図-⑦】)から、象ヶ滝を撮影しました。【写真】滝まで70~80mですが、落下する水の震動が伝わってくるようです。全貌がようやく捕らえられるほどの落差(推定20m)がありました。

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象ヶ滝 【図-⑦】から撮影

 

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象ヶ滝 【図-⑨】左岸側から

 滝の右岸側の川原露頭(【図-⑧】)では、緑色岩で、NS・40°Eの走向・傾斜でした。
 滝の左岸側露頭(【図-⑨】)では、やはり緑色岩で、N60°E・80°NWでした。
 滝自体には触れられませんでしたが、滝の下は、礫岩層でした。礫種は、白色~黒色チャート、結晶質砂岩、堅い粗粒砂岩で、全体は円礫、7cm×8cmが、最大径でした。
 地形から見ても、北からの尾根と西からの尾根が交わる場所で、熊倉川が狭められ、ちょうど風化浸食に強い礫岩層が造瀑層となって、象ヶ滝を形成しているようです。

 問題は、象ヶ滝は、【写真】からもわかるように、両岸のどちらからも高巻くことができません。この滝の上に出ることだけを目的にすれば、かなり急ですが、木々の生えている尾根を登攀する方法があります。
 しかし、私たちの目的は、もう少し広範囲に地質を概観することでしたので、堰堤の下まで戻り、歩道を利用して滝の上流に出ることにしました。

 自然公園へと繋がる歩道の途中、標高700m付近(【図-⑪】)では、結晶質黒色砂岩層が見られ、走向・傾斜は、N60°E・30°SWでした。
 歩道は、小さな沢を離れ、杉林のつづら折りの山道に変わっていきます。ちょうど道の分岐点(【図-⑫】)に、観世音像がありました。

 雑木林の中が歩けそうなので、標高900m付近から道を外れ、沢に降りようとしましたが急過ぎて危険でした。それで、コンタ沿いに進みながら、熊倉沢に降りられる場所を探しました。

 1本目の沢の標高920m付近(【図-⑬】)では、暗灰色中粒砂岩層(N10~20°W・15~18°NE)が見られました。走向・傾斜に幅があるのは、かなり崩れているからです。この沢からの下降も無理でした。

 2本目の沢の標高930m付近(【図-⑭】)では、熱変質した灰白色細粒砂岩層が見られました。N30~40°W・10°NEでした。先ほどの中粒砂岩層も含め、岩相から内山層だと思いました。貴重なデータです。ここからの下降も無理と判断しました。

 3番目の沢の少し手前、標高1000m付近、尾根からの傾斜が変わり始める所で、昼食にしました。(【図-⑮】)
 3本目の沢は、かなり急で滑りやすい沢でしたが、降りることにしました。
 沢の標高900~960m付近(【図-⑯】)では、風化色が黄土色になる暗灰色中粒~粗粒砂岩層でした。凝灰質で風化色の特徴から、内山層の上部層だと思いました。

 
 熊倉沢に降り、北からの沢が接近して流入する標高830m付近(【図-⑰】)では、千枚岩化された灰白色細粒砂岩層にリニエーション(lineation・条線のようなもの)が見られました。上流側に向けて少なくなりました。
 そして、標高840m付近(【図-⑱】)では、滝がありました。【写真】では、白い水しぶきでわかり難いですが、三段になっています。上からA(2m)・B(2m)・C(2.5m)・滝の基盤です。
 Aは、白色(主)や黒色チャートを含む礫岩層で、白っぽく見えました。Bは、珪質の灰白色中粒~粗粒砂岩層です。Cは、チャート礫を多く含む珪質の粗粒砂岩層で、全体は少し黄土色がかる灰色です。
 そして、基盤は、【図-⑰】で見られた千枚岩化した砂岩層でした。

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標高840m付近の滝 【図-⑱】

 今日の調査は、ここまでです。
 勝手知ったる佐久の里山と違い、帰路にも不安が残ります。しかし、全体が、先白亜系(ジュラ系)かと思っていた熊倉川の沢底から、少し標高の高い斜面には、露頭の状態は良くないものの、岩相から内山層(上部層か?)と思われる証拠が見つかりました。
 実は、それにも増して嬉しいことに、熊倉川に降りるには、この「象ヶ滝の上流、3番目の沢が使える」ということがわかり、これからの更に上流部調査に向けて明るい展望が見えてきました。

                                  *  *  *

 しかし、正直なところ、帰路はとても辛かったです。
 石ころだらけの急坂を登って沢を詰めてくると、傾斜の変わる所に目印となるように、欅(ケヤキ)の大木(【図-⑲】)がありました。ここから、コンタ沿いに南東に進めば林道に出られそうなので、比較的平坦な草地を抜けて林道に出ることにしました。(【図-⑳】)
それから林道を降り、観世音像の分岐(【図-⑫】)を経て、熊倉集落に戻りました。 
 駐車してあった車に乗って、帰路は県道93号線を経由して、田口峠を越えて、出発点の青沼小学校に戻りました。到着時刻は、午後6時半でした。

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自然公園への遊歩道から見上げる杉林 【図-⑪】の少し上

 とにかく、筋肉痛です。
 普通なら、数日してから症状が出てくる筋肉痛が、その日の内に出たのは久しぶりでした。
 しかし、私はとても満足していました。学生時代から野山を歩き回ることが好きで、特に、地図だけを頼りに未踏の、沢や尾根筋のブッシュ漕ぎをしたり、目印のない雪原をスキー歩行したりすることにスリルを感じ、苦労をしても、やり遂げた時の成就感が喜びと感じられた青春の日々への郷愁があったのかもしれません。

 この日から1ヶ月後の夏休みに、2度目の熊倉沢に入ります。当時、地学委員長だった六川先生から相談を受けた時、象ヶ滝の上流・3番目の沢ルートが使えるので、余地峠を越えることを提案しました。

 

【編集後記】
 佐久の地質調査物語-139「秘境・熊倉川」で紹介したように、長野県佐久市(旧臼田町)と群馬県南牧村(なんもく)の境を流れる熊倉川(くまくら・がわ)は、入口を象ケ滝(ぞうがたき)で封じ込まれ、それから上流部は尾根から川底へ容易に降りられないので、ハイカーはもちろん、釣り人が訪れることもないと思います。

 上流部の森林地帯(国有林)は、林業関係者が入ることはありますが、本流や沢を歩いたのは、非常に限られた人でしょう。その中に、私たち地学委員会の数名が含まれると思いますが、わずかに3回です。内、1回は、偵察を兼ねた熊倉集落までです。

 本格的な訪問は、象ヶ滝付近~第3沢(やや下流部)と、第3沢合流点から上流部の併せて2回だけです。しかし、「もう一度、行ってみたい」と口にすることはあっても、体力的に無理だということは、自身が一番良く知っています。

 ・・・それだけに残念なのは、記録写真のことです。ひとつは、今回の「象ヶ滝」などの写真は、編集時にはあったのですが、保存板に収録してありませんでした。それで、原稿から複製したものを載せました。

 また、次回に多く紹介する予定ですが、上流部の写真は、画像の大きさと画質を落としてしまったので、鮮明さを欠いてしまいました。今のように、十分な容量がある処理ができなかったので、低画質にした保存していたからです。

 繰り返しになりますが、二度と行けない所なので、貴重な記録や画像は、丁寧に扱いたいと、改めて思いました。

 ところで、今年の夏は、お盆を夾む一週間ほどが、時ならぬ「秋霖パート1」となり、その異常気象ぶりに驚きました。その後、残暑は、佐久地方では、盛夏より寧ろ暑く、今季最高気温を記録したほどでした。その間、夏野菜は、次第に勢いを失っていき、8月の下旬には、枝豆や隠元豆、トウモロコシの片付けをしました。

 そして、9月に入ると再び「秋霖パート2」となりそうだとわかり、8月31日には、急遽、キュウリの棚を片付け、ネギや玉葱の種蒔きをしました。

 それで、今日の雨です。

 農作業もできないので、久し振りに「はてなブログ」を挙げることにしました。

 今日の未明からの雨は、かなりな降雨量だったので、蒔いた種が、苗床から流されていないかと心配しています。(おとんとろ)

 

令和3年8月(葉月)の俳句

【葉月の句】 

   【辛丑(かのとうし)の夏】

① 五京(けい)粒 迎えて送る 雨の盆

② 山滴(したた)る 瑞穂の國は 空に川

③ コロナ禍の 次を記念し 夏五輪

 

 長引いた雨の影響で、野菜の生育が大幅に遅れた昨年の夏は、お盆になってようやく茄子が採れ始め、夏らしい食卓となったが、今年の夏は、正反対だった。
 例年より少し早い梅雨明けの後は、晴天が続き、毎夕、水遣りをした。夏野菜は良く育ち、採れ過ぎる野菜の料理メニューや、保存方法を考えるほどとなった。

 ところが、雨降りで迎えたお盆(盂蘭盆会)は、送り盆になっても、雨降りが続いた。日照時間0分の異常な気象現象は、たとえ科学的に説明できたとしても、早過ぎる「秋霖」の訪れには、心底驚いた。

 今季は、中国内陸部の大規模砂嵐や大洪水、欧州ではドイツ・ベルギーの大洪水の一方で、地中海沿岸では熱波からの山火事など、世界各地で記録破りな異常気象があった。お盆の長雨も、その日本版なのかもしれない。

 幸い、東京オリンピック大会は、コロナ禍にあっても、ウイルス感染拡大という危機を伴いながらも、大過なく達成することができ、8月8日に閉会式を迎えた。
 今月は、「花鳥風月」というイメージの俳句からは大きく外れてしまう。日本列島の現実の姿を、敢えて「今月のテーマ」として、俳句を創作してみた。


 【俳句-①】は、夕立のお盆行事はあったが、秋霖での迎え盆は初めてです。しかも、お盆の4日間、断続的に雨が降り続き、日照時間も皆無のまま、送り盆も雨だったという異例さに複雑な気持ちになって、その思いを詠んでみました。

 お盆を夾んだ8月12日夕方から8月18日の午後までの一週間で、佐久地方でも300mm弱の降水量があった。8月の平均降水量は100mm強なので、3倍に近い数値です。
 普通に降る雨粒の直径は、0.1mm以下。だから、300mmに達するには、雨粒を3000粒以上積み重ねる計算になる。これが、私の住む地域だけでなく、更に日本列島規模の広範囲に降り注いだわけだから、雨粒の数は、億や兆の単位を越えた京(けい・10の16乗)でも足りないかもしれない。『とにかく多い』という気持ちを込めて、上五は『五京粒』と表現することにしました。

 それにしても、経験したことのない長雨のお盆でした。私は、平年の気候を大きく外れた暖冬や厳冬、それに冷夏と猛暑の夏などの天候を経験したことはありますが、還暦を迎えた頃以降、特異な体験が顕著です。
 佐久地方で積雪が1m以上(平成25年2月)、1日で300mmを越えた降水量(令和元年10月・台風19号)は、初めてでした。

野菜作りを始めてから雹(ひょう)被害にも遭いました。これらは、ここ数年の出来事です。そして、今年、辛丑(かのと・うし)年のお盆でした。

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「辛丑」年の夏

 ちなみに、特異なお盆の思い出は、平成5年(1993年)の冷夏でした。8月15日に、2階の部屋で夏休み中に地質調査してきた資料を整理していましたが、あまりに冷たい北東風に、ストーブを焚きました。まるで、オホーツク海側・知床の番屋と同じだと思いました。

 休みが明け、学校に行くと、またびっくり!冷夏で日本米が不足し、タイ国から米を緊急輸入することになりました。当時、学校給食は週一で「ご飯持参の日」が設けられていて、自宅からご飯を持って登校しました。(忘れて大騒ぎなこともありました。)

 お米を店で購入している家庭は、タイ国産のインデカ米を持ってきていました。米農家の私は、物珍しさから、生徒に「インデカ米のお握りを持ってきて」と、お願いして、食べてみました。その独特な食感触は、良く覚えています。


【俳句-②】は、夏の晴れた日に、里山や盆地を取り巻く少し離れた山々を眺めると、青緑とも深緑とも、いくぶん紫がかったとも表現し難いが、独特で趣ある色合いがすばらしい夏山が広がる。これも、瑞穂の国とも呼ばれる、我が国土・日本の夏の日照と降水に恵まれたお陰なんだという気持ちで詠んでみた。

 真夏の晴れ上がった日には、雄大な積乱雲が発達し、夕立となって水を大地に還元してくれる。あたかも、空にも川が流れていて、適度に水を循環させてくれているかのようである。

 俳句歳時記で夏の季語を捜していて、『山滴る』が気に入った。解説によれば、中国の北宋時代(平安時代後半)の画家・郭煕の画論「伏遊録」の中に、春夏秋冬の山を表現した記述があると言う。
 『春山淡冶(たんや)にして笑うが如く、夏山蒼翠(そうすい)にして滴るが如く、秋山明浄(めいじょう)にして粧うが如く、冬山惨淡(さんたん)にして眠るが如く』とある。もちろん原文は漢文だと思うが、漢文に素養のある俳人が、「山笑う・山滴る山粧う・山眠る」と四季の季語にしたようだ。

 ところで、俳句は夏山の青々とした美しさを詠んだものだが、下五を『空の川』としたのは、気象用語の『大気の川』を意識したからである。
 停滞前線に沿って、南方海上から湿った大量な大気が大河のように流れる現象が伴うことがあるようだ。上空3000mほどまでの範囲で、本州付近だと、西南西→東北東方向に移動することが多い。
 このお盆の秋霖の雨雲の動きを、PC画像で見ると、複数ルートで、雨雲は次々と流れている。まさしく、豪雨被害を増幅させている「線状降水帯」の原因の説明にもなる。
 日本の夏山の美しさを保つには、適度な降雨量が不可欠だが、「大気の川」では災害となってしまう。せめて、空から水を運んでくれる川、それも小川があるぐらいの解釈がいいのかもしれない。
 さらに補足すれば、敢えて「日本の夏山」と強調したのは訳がある。藷外国の中には、熱波と乾燥から山林火災が頻発する例もあり、火災に見舞われなかったとしても、夏山は日照りが続き、木々が枯れ葉になっていることも多いと聞いた。
改めて、瑞穂の国の自然環境に感謝である。

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豪雨をもたらした「大気の川」


 【俳句-③】は、東京五輪大会名誉総裁の天皇陛下が、開会式で、「私は、ここに、第32回近代オリンピアードを記念する東京大会の開会を宣言します」と述べられたこと、及び、新型コロナ・ウイルス感染の拡大はあったが、なんとか大会が大過なく運営されて閉会式を終えられた喜びを、詠んでみた。
 特に、新型コロナ・ウイルス及び、その変異株に対抗するワクチン接種体制が十分に整い、世界全体がコロナ禍を乗り越えた「希望の持てる」新時代の到来を願っている。民族・人種・宗教・信条等の対立によって、既に世界は、様々な人権侵害や紛争の渦の中にある。ここにコロナ禍が加わり、病疫的災害だけでなく経済的な側面からも、人々の生きようとする意欲を蝕んでいる。
 せめて、まずはコロナ禍を人類の英知で克服し、疾病を制御できる時代の実現を切に希求している。

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国立競技場とドローンが描いた地球(開会式)

 ところで、1964年(昭和39年)東京大会で、昭和天皇の、開会式での宣言文にあった「祝い」が、「記念する」に変更されたことが話題になった。

 そこで、背景をインターネットで調べてみたら、宣言の内容は、五輪憲章で短い定型が決められていると言う。原文はフランス語が優先され、次に英文があり、次のように規定される。

I declear open the Games of Tokyo clebrating the thirty second Olympiad of the modern era.

 私なりに直訳すれば、『第32回目の近代オリンピアードを祝して、(開催される)東京競技大会を開催することを、私は宣言致します』となるだろうか?

 訳していて気になった「オリンピアード」という意味は、『夏季五輪の開催される年の1月1日から、4年目の12月31日までを近代オリンピアードと規定している』とのことだ。つまり、1年が1月1日~12月31日と定義されるのを、4年分をひとつの期間として規定されているという訳だ。

 だから、新年に「良い年であることを祝い、ご挨拶申し上げます」と言う感じで、「良い4年間であることを祝う為に開催される式典(五輪)です」と言うのと同じ感覚となる。

 ただし、東京五輪は異例の1年延期となり、オリンピアードは3年となった。
また、いつの時代も平和とは言い難いが、少なくともコロナ禍で苦しむ時代ではなかった。
 それで、大会組織委員会は、世界的なコロナ禍(パンデミック)を踏まえて、和訳の一部を、すなわち原文の「celebrating」の解釈を祝祭色の薄い言葉に変えるという判断をしたらしい。
 私の検索した情報では、この判断に、外国語に堪能な天皇陛下自身も関わったようだとあったが、少し疑問には感じたが、与えられた文章を代読するような、天皇陛下ではないと、私も思う。

 五輪憲章は、開催国の元首が開会宣言を行うと定められていて、宣言の内容の変更には国際オリンピック委員会IOC)の承認が必要だが、和訳のみの変更とあって、事前に承認を得られたという説明であった。

 

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中国ペアを破り金メダル

 

【編集後記】

 五輪大会の開催の中止や再延期まで含めて、世論を大きく賑わせてきたが、新型コロナ・ウイルス感染の拡散防止対策として、結局、「無観客での競技続行」という結論となった。開会式会場となった国立競技場も、6万8000人収容の施設が、完全に空いたままのスタートとなったのは、残念でならない。
 しかし、競技種目が始まり、連日、様々な種目で日本人選手の活躍する様子が、テレビ映像で紹介されるにつれ、国内の熱気も盛り上がってきた。お家芸の柔道やレスリング、体操、今大会から採用されたスケート・ボードやスポーツ・クライミング、サーフィンでは、驚くような結果がでた。
 人によって興味のある種目は違うし、選手に寄せる期待も様々なので、一概に、どの競技種目・選手という話題には絞り難いが、結果のメダルの色や順位に違いはあっても、全選手は、国内の競技者を代表して、精一杯やってくれたと思う。 日本選手に限らず、全アスリートたちが、誘惑に負けず、日々の鍛錬に情熱を注いできたことは一般的には理解しているが、インタビューや裏話を見聞きして、改めて感動したことも多かった。
 また、地元長野県に縁のある選手へは、少し別な意味から応援していた。ちょうど、高校生の駅伝全国大会や野球の甲子園大会で地元を応援するのと同じ発想である。

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女子バスケが銀メダルの快挙

 ところで、心配された新型コロナ・ウイルス感染の拡大は、オリンピック開催のせいだとも言い切れないが、結果として感染者は急増した。
 地元紙「信濃毎日新聞」掲載の国内の様子を見ると、大会初日(7月23日)の全国の新規感染者は、4,225人/日であった。2日後に5,020人/日で5千人を越えた。7日後に10,693日/日で1万人を越えた。13日目には15,232人/日で1万5千人を越えた。よく、実際の感染から潜伏期間を経て2週間後ぐらいで顕在化すると言われるので、もし、五輪が引き金だったとすれば、3倍増だった。(ただし、より感染力の強いコロナδ(デルタ)株が、主原因だとも推理されている。)
 そして、大会日程17日間を終えた閉会式の8月8日には、14,472人/日と、ちょうど1日当たり1万人を上乗せした状況だった。その後も増え続け、迎えお盆(8月13日)には2万人/日を突破した。ピークかどうかは不明だが、その後、幾分減少してきたが、1日の新規感染者2万人レベルの危機的な状況は続いている。
 8月24日には、東京パラリンピック大会が始まる。9月5日までの13日間という、また次の試練がやってくる。

           *   *   *

 新型コロナ・ウイルス感染拡大の第5波とも言われるが、その影響は、静かな山里の、私たちの句会(みゆき会)にも影響した。
 一番若い私ですら高齢者で、8月11日にワクチン接種の2回目が終わった。それより遙かに、ご高齢の皆さんは、疾(と)うの昔に接種済みで、元気だが、会長の判断で、8月18日に予定していた俳句会は中止とした。
 それで、その会に提出するつもりで創作してきた8月の俳句3題を、「はてなブログ」に載せることにしました。
 まだ、『佐久の秘境・熊倉沢』シリーズに入ったばかりで、地質調査の様子を載せる予定が完了していませんが、今日も、朝から降ったり止んだりの天気なので、外の作業は止めて、俳句のまとめをしていました。

 今晩は晴れそうですが、本格的な太陽の日差しが戻るには、もう1日か2日ほど先のようです。太陽の日差しが、とても待ち遠しいです。(おとんとろ)

 

 

 

 

 

 

 

佐久の地質調査物語-139

 中部域の沢 

 

 《 秘 境 ・ 熊 倉 川 》【(序章)】

 

 平成17年には、内山層の東側への広がりを確かめる為に、「熊倉川」に入りました。
 ところで、『熊倉川が佐久市内を流れている川であること』を、はたして何人の佐久市民が知っているでしょうか? まずは、熊倉川周辺の道路状況と河川について、概略

図をご覧ください。

 

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秘境「熊倉沢」の位置はどこか?

 実のところ、私たちも、「内山層の地質調査」という縁があって、初めて知りました。
 熊倉川の最上流部、象ヶ滝付近から上流域は、熊倉川自体が、長野県佐久市(旧・臼田町)と群馬県甘楽郡南牧村との県境になっているのです。だから地形から見た日本海と太平洋の分水嶺を、少し太平洋側に越えて、佐久市の版図は、田口峠を越えた馬坂川水系の広川原~狭岩付近と、熊倉川最上流部の北側にまで広がっています。


 換言すると、仙ヶ沢の奥「日本で海岸線から一番遠い地点」に降った雨は、滝の沢林道の沢から雨川を経て千曲川へ、そして犀川の水と一緒になって信濃川を経由して日本海に流れていきますが、その地点から、わずか200m東に降った雨は、太平洋へと注ぎます。


 熊倉川の支流(佐久市)から熊倉川本流へと流れくだり、南牧川(砥沢付近から)、鏑川(下仁田町付近から)、最後は利根川(本庄市付近から)を経由して、太平洋へ到達します。
そんな海岸線から最も遠い、県境の山奥にある熊倉川ですので、まさに「佐久市の秘境」と呼ぶのにふさわしい場所でした。

 さて、第1課題は、熊倉川までどういうルートで往復するかです。
 5月の連休に、自家用車で熊倉集落付近まで偵察しました。自宅(佐久市前山)を出て、国道141号線を通り、佐久穂町から国道299号線、古谷大橋の手前から大上(おおかみ)林道に入り、大上峠を越えて、熊倉集落に着きました。集落から象ヶ滝方面へは、道幅が軽トラック1台分しかないので、普通車での進入は難しいです。(実際、私は数10m進み、旋回できないことに気づいてバックで戻りました。ただし、それは、最初の100mほどの区間だけであったとは、後日わかりました。)

 帰りは、県道93号線を通り、広川原から田口峠を越え、田口、臼田を経由して、国道141号線に出ました。そして、自宅に戻りましたが、調査をした訳でもなく、ただ車を走らせていただけで、優に4時間以上かかりました。

 

 【編集後記】

 今日、8月12日が、特別な日であることを、午後になって気づきました。

 思えば、36年前の1985年(昭和60年)の同じ日の18時56分頃、日本航空123便(羽田空港発~大阪・伊丹空港行きの定期旅客便)が、伊豆半島上空付近から機体の操縦機能を失ってダッチ・ロールしながら、最後は、群馬県上野村高天原山の尾根(1565mASL・通称御巣鷹の尾根)に墜落しました。

 ジャンボ・ジェット機なので搭乗員は524名と多くて、奇跡的に助かった生存者4名以外の人々は、亡くなるという航空事故史上最大の惨事となりました。

 今年は、東京オリンピック大会の為に、急遽、「山の日」が変更されましたが、7月の「海の日」に対向して、「山の日」を、お盆前の8月12日にして休みを増やそうという計画は、この事故で亡くなった人々の命日と重なることで、1日前の8月11日に移された経緯もあります。 

             *   *   *

 

 ところで、『あの日に、私が何をしていたか?』は、今でも鮮明な記憶に残っています。

 夏休み中、地質調査を終えた南佐久群北相木村で解散し、帰宅してから点けたテレビのニュースで、航空機墜落事故の第一報を伝えていました。何んと、私たちが解散した場所から、そう遠く無い地点で、しかも約1時間後に起きた事故だったからです。

 当初は、御座山(おぐらやま)付近と推定され、佐久側から北相木を経て、自衛隊の捜索隊が動員されました。(実際、自衛隊先発隊の一部は、佐久側から山に入る手前までトラックを進ませました。)

 しかし、長野~群馬県境の御座山より少し東側の「御巣鷹の尾根」だとわかり、拠点基地は群馬県の藤岡に設置され、群馬県側からの捜査・救助・そして遺体収容活動に変更されました。

 

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 当時、私は南佐久群南牧村の中学校に勤務していて、「南佐久郡誌・自然史偏上」の地質を担当する一員として、南佐久地方のちしつと、長野県~山梨県群馬県境付近の山岳地帯の地質を調べていました。
 地質学の最新情報から見ると、地質資料の基礎データは貴重ですが、解釈や解説は、やや時代遅れの感も否めませんが、懐かしくなって、「南佐久郡誌」に掲載した私の資料をみつけました。(詳細な地質の説明は、省略します。)

 夏休み中の8月5日には、ジュラ紀付加体の「御座山(おぐらやま)層」の名称の由来となった御座山に登り、8月12日には、「栗生(くりゅう)の北にある大理石採石場」の実地調査と共に、上記の林道「栗生~小池線」の調査をしました。

 『図の16と17で、地層の傾斜が北落ちから、南落ちに変化していますが、ここが断層で接していると思われる、基盤岩と新第三紀層・北相木層との境です。』

 北相木層については、資料がありますので、後日、紹介する予定です。

 

 ところで、今日は、コロナ・ウイルス・ワクチン接種の翌日なので、副作用が出てはいけないかと、午前中に、お盆の飾り付けを帰省している孫たちとして、午後は夕立の合間を縫って夏野菜収穫をしました。そして、夕方になってから、「はてなブログ」を挙げました。気づけば、日航機事故から、もうそんなに歳月が経っていたんでするね。

明日は、叔父の新盆にでかける予定ですが、併せて皆さんのご冥福を祈ってきたいと思います。(おとんとろ)