北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和6年 二月の俳句 

     如月の句

①春の縁 ハイハイ競う 老いの膝

②爺孫の ゴッチンコ見てた 楓の芽

③嬰児や 掴まえようと 牡丹雪  《孫の育ち三題》

 

 正月の能登半島地震から1カ月が経過した。懸命な復旧作業でも、まだ生活再建への目途は立っていない様子が伝えられる。国際政治では、世界各地で戦闘に明け暮れている。ウクライナパレスチナガザ地区ミャンマー、中東、紅海、西アフリカ、コンゴなどの他に、人権を踏みにじられ、治安の乱れた地域に住む人々も多い。
 そんな地球にあって、日本の片田舎で住む私は、平和に眠れることの有難さを痛感している。基本的に農閑期の今は、デスクワークと散歩を日課にしている。そして、昨年の4月に生まれた孫との交流を楽しみにしている。今月は、そんな孫の育ちをテーマに、俳句作りをしてみようと考えた。


 【俳句-①】は、日当たりの良い縁側で、高速ハイハイができるようになってきた孫と、競い合うように這いまわる爺さんの様を詠んだ。「老いの膝」には、膝関節痛になったことを言外に匂わせた。季語は、「春(の縁)」である。

高速ハイハイ

 子ども(赤子)の成長は、日々著しい。寝返りを打てるようになったのを喜んでいたら、「ずりばい」の時期に入った。さっきの場所に居なくて驚くと、横や後ろに進んでいた。「おすわり」から、バランスが崩れて、後頭部を打って泣いたこともあったなあ。
 そして、両足を伸ばして、腹部を持ち上げた。『両生類から、爬虫類に進化したぞ!』と騒いでいたら、「ハイハイ」へと移行した。同時に、周囲の物や人の動きにも興味・関心が出てきて、絶えず見守っていないと、とんでもない事をしたり、あちこち動き回ったりしてしまう。忙しい時は、一坪ほどの囲いの中に入れておこうとするが、泣き出してしまって機能しなかった。
 爺・婆も関わるので、独りだけで「檻(おり)」の中で過ごすのは苦手なようだ。今は、「高速ハイハイ」もできる。既に、高い所にも手を伸ばそうとしているので、やがて「掴まり立ち」から、ヨチヨチ歩きも、もうすぐだろうと思う。
 老人は、ゆっくりと老化していき、あまり変わり映えがしない。それに対して、赤子は、日一日一日と、何らかの新しい要素が加わっていく。寧ろ、新たに加わると言うより、身体の中から新たな要素が湧きだしてきていたと表現した方が正解なのかもしれないと思う。

お座りができた

 我が子の場合は、子育ての多くを妻に任せっぱなしであった。寧ろ、孫たちの方が、良く観察し、日々の変容に気づくことができている。

 

 

【俳句-②】は、孫を抱いて庭に出た爺さんが、「おでこ」同士を軽くぶつけることを「ゴッチンコ」と呼んで遊んでいる。ふと、楓(カエデ)の小枝を見ると、赤紫色の芽生えが始まっていた様を詠んだ。

 楓の芽が、爺孫を見たとする擬人化表現だが、二人の戯れを温かく見守ってくれているようだった。季語は「楓の芽」で、春である。

楓(カエデ)の芽

 

 山が赤く染まるのは、「モルゲンロート(Morgen rot)」や「夕焼け」であるが、もう少し拡大すれば、落葉樹の「紅葉や黄葉」もある。さらに、もうひとつある。
早春の木々の芽生えの頃、種類によっては芽(つぼみ)や芽生えが、いずれも赤褐色から赤紫色に染まり出し、ひとつでは弱弱しいが、木々や山全体が色合いを帯びてきて、独特な「赤色」を演出する。楓は、その演出メンバーの一員である。
  春先の新緑の葉を付けた楓も、夏の日差しを遮る掌のような葉を茂らせる楓も、秋に紅葉へと変容していく楓も、そして、初冬に枯れ葉となって散っていく姿も風情がある。しかし、そんな楓の一年間の変化を知っているだけに、楓という植物の原点ともいうべき、新たな生命が誕生してきた風景が、愛おしいと思った。
 好きな季語のひとつになりそうだ。

赤紫色の芽生え

【俳句-③】は、孫を抱いて、雪の降りだした様子を見に庭に出たら、牡丹雪であった。天から、ゆらゆら舞いながら落ちてくる大粒の雪に興味をもった嬰児は、それを掴まえようと必死に幼い掌を動かしていた様を詠んだ。季語は「牡丹雪」で、春である。

牡丹雪

 

 雪の降りだしたのは、2月5日午前9時で、大粒の雪だが、正確には牡丹雪というほどではなかった。
 南岸低気圧による降雪で、俗にいう「上雪(かみゆき)」で、湿雪となって、我が家の築山の松の枝が折れないか心配するケースだが、気温が低かったので、割と乾いたまま降り続いた。
 午後に雪の止む時間帯ができて、急いで外に出て、玄関から門、家の周りの道路の雪かきを2時間もした。積雪は、12cmほどであった。
 「これで安心」と家に入ろうとしていた頃から、再び激しく降りだしてきて、それからも続いた。未明には、降り止んだようだが、朝起きて庭を見たら、【写真】のような大雪の光景になっていた。雪かきをした後で、18cmほど雪は加わり、積雪は約30cmに達していた。

 

2月6日の朝(積雪30cm)

【編集後記】(はてなブログ

 積雪30cmと言えば、佐久地方では滅多に無い大雪です。豪雪地帯に住んでいる人にとっては見慣れた光景でも、時々降る場合でも、せいぜい積雪5cm以下で、10cm以上も積もれば、大騒ぎです。状況によっては、近所のMさんが土木用重機を使って除雪していただけることもあります。今回は、降りしきる夜中に出動していただきました。過疎地なので、昼間でも良いのに、夜間作業で事故がないようにと祈っていました。翌朝には、普通乗用車が、十分通れる幅に雪が道路脇に寄せられていました。本当に感謝しています。
 2月の雪は、名残雪です。降った翌日の朝は快晴で、数日で雪は消えてしまいます。ところが、朝の冷え込みと最高気温の低い日が続き、加えて重機で固めてあるので、道路脇の雪は淡雪どころか、その後、10日間以上も解け切らずに残りました。
 ところで、子どもたちが小さかった頃、雪が降るとイグルーのようにして、庭先でかまくら作りをしました。【写真-下】

 

庭の「かまくら」(平成7年2月)



 ちなみに、平成26年2月14日~16日の積雪は、1mを優に超えた大雪でした。私が生まれて初めて経験した豪雪地帯並の積雪でしたが、私の定年退職する直前の出来事で、長女の海外での結婚式を控えていたり、退職に伴う後任者への引継ぎ準備で、とても優雅に、「かまくら作り」どころではありませんでした。

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鼻顔神社の鳥居

 

 令和6年2月7日に、鼻顔(はなづら)稲荷神社の「初午・奉燈俳句額」掲示のお手伝いに行ってきました。2月5日からの大雪で、一日延期しての実施です。
 地元商工会議所と佐久俳句連盟共催による年中行事ですが、今年度は、私が携わることになりました。と言うのも、俳句指導者のK(91歳)さんが高齢になられ、引き継ぎたいようです。しかし、俳額の準備や掲示方法の手順を示そうと、脚立に元気よく昇る姿を見ていると、たじろぎました。来年は、私たちで担当してくれるよう、依頼されました。

初午の「奉燈俳句」の額

 ところで、奉納した俳句額の裏側には、古くに奉納した額があり、養(カイコ)の繭(マユ)を使った作品も挙がっていました。かつての殖産興業の願いを込めた郷土の熱意にも感動しました。

繭玉(まゆだま)による作品の額

 最後に、前回の「はてなブログ」から、一カ月近く時間が立っていますが・・・・。

 予定では、「続々・佐久の地質調査物語・第203回」を載せるつもりでいましたが、
その編集後記で、「大陸側から見た日本海」と「日本海東シナ海」に触れようと思いました。しかし、この話題は、以前のブログで使っていたのではないかと思い、それまでの約4年間分のものを、振り返って読んでいました。なかったようなので、そのエピソードを載せた内容で、次は載せたいと思います。

 そろそろ、三月(弥生)の俳句の創作をと思い、散歩しながら季語や題材を捜してきました。今朝(3月1日)は、大雪なのに、午後には道路はすっかり解けていました。「名残雪」とは言うものの、本当にさらっと「さよならー」と別れるように消えていくのですね。同じ日本列島の南岸を通過していく低気圧による降雪でも、三月に入るとだいぶ違います。春は、着実に近づいてきていると感じました。(おとんとろ)
             



 

佐久の地質調査物語・第202回

   (第1章 日本列島の成り立ち)

 

2.「付加体」という考え方の証拠

 

 日本列島の地質構造は、一般的に帯状配列をしていて、特に中央構造線を境に、外帯の地質構造は、太平洋側の配列の方が新しい時代の地層から構成されていることが、明治期のH.E.ナウマンの頃から知られていました。しかし、その一番太平洋側の「四万十帯(しまんと・たい)」の地質構造は、構成地質の時代が複雑で、多くの謎を残していました。
 そこで、その解明の為に、四国沖の南海トラフ(比較的浅い海溝)が選ばれ、ボーリング(boring)調査が、1982年に行われました。水深4800mで採集された「ボーリング・コア」650mの内、上部550mは、砂(30cm)と泥(5cm)が繰り返す砂泥互層でした。内容物を調べると、砂は隆起の激しい南アルプスや箱根火山起源で一気に堆積し、泥は、その後で静かに堆積したことがわかりました。これは、混濁流(または乱泥流・turbidity current)によって大陸棚斜面を流れ下り、600kmも離れた四国沖まで運ばれて堆積したこと、及び、地震などを契機に、平均500年周期で起こり、全体の堆積までに55万年を要したことが推定されました。

 一方、陸上で見られる地質を調べると、頁岩層(7000万年前)・枕状溶岩(1.3億年前)・チャート層(1億年前)が、接近して見られる場所がありました。また、中央海嶺付近で枕状溶岩の上に降り積もった「ナンノプランクトン」起源の石灰岩(1.3億年前)や、遠洋性の頁岩層(9000万年前)が混じった場所もありました。これらの研究を可能にした背景には、放散虫(Radiolaria)の進化による編年を明らかにしたり、古地磁気からの緯度・経度の位置を推定した情報が得られるようになったりしたからです。

 これらの複雑な地質現象を説明するキーワードは、『付加体』と『メランジェ』です。どんなメカニズムなのか、説明します。
 【上図】は、マントルが東太平洋海嶺から湧き上がり、太平洋をゆっくりと西に進み、南海トラフ(海溝)から日本列島の地下に沈み込んでいるプレートの動きを模式的に示したものです。
 マントルからもたらされたマグマは、地下深部で固まればハンレイ岩(gabbro)、海嶺から噴出すると玄武岩(basalt)、海水に触れて枕状溶岩となり堆積します。他の火山噴出物も加わり、変質が進めば緑色岩類になります。赤道や低緯度地方の海底には、石灰質ナンノプランクトンからできた石灰岩が、この上に堆積します。プレートの動きによって移動し、深海底では放散虫からできたチャートが、この上に載ります。さらに、移動した先では、それらの上に泥岩(頁岩)などが堆積していきます。

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 一方、陸域側からは混濁流によって運ばれた砂泥互層が、海溝の近くまで運ばれます。
海洋プレートの沈み込みによって、陸側と海側からの堆積層は、海溝に集められますが、密度が小さいので沈むことができず、堆積物は、はぎ取られたり、底付けされたりして、陸側に押しつけられます。堆積物は褶曲したり、衝上断層で切られたりしながら、帯状に配列します。このようにして、大陸地殻に海底の堆積物が、次々に付加された地質体を付加体といいます。(付加体:accretionary prism   or  accretionary wedge)  陸上で観察される地層は、付加体が隆起したり、上の地層が浸食されたりして現れたものです。 
 また、本来の堆積場所からプレートによって移動し、寄せ集められた堆積物が、混ぜ合わせられたような地質、および地質構造を「メランジェ・melange」と言います。
 ちなみに、付加体のうち、海洋プレートの沈み込みに伴って地下深くにまで押し込まれた部分は、高い圧力や熱を受け、変成岩になります。また、沈み込んだ海洋プレートは、
一緒に取り込んだ水の影響を受け、地下深部で一部が溶けてマグマをとなり、火山活動や深成岩の貫入を起こします。
 時代の異なる、様々な地層が混じり合った「四万十帯」の地質構造は、海洋プレートによって運ばれてきた堆積物による付加体であり、また、メランジェだったことがわかりました。


3.他の構造帯の「付加体・メランジェ」について

 

(1)秩父帯はジュラ紀の付加体で、メランジェがあった

 

 四万十帯のひとつ大陸側は「秩父帯」で、ここにも、メランジェの証拠がありました。秩父帯のチャート層を見ると、四万十帯のチャート(約1億年前)よりもさらに時代が古く、3.5億~1.8億年前(石炭紀ジュラ紀)のものが見つかりました。
 これらの岩石は、付加体の考え方の及ばなかった時代には、古生代の化石が含まれていると、その時代に日本で堆積していたと考えられていた曲解の経緯もあります。
 また、石灰岩鉱山として有名な秩父市武甲山(ぶこう・さん)は、1.5億年前の当時の海溝に沈み込めずに付加された海山で、ジュラ紀の付加体です。海嶺から噴出した玄武岩や輝緑凝灰岩からできている層の上に、石灰岩が載っています。暖かい海に浮かぶ火山島の周囲に発達したサンゴ礁石灰岩となったもので、ウミユリやクサリサンゴ・フズリナなどの化石が含まれています。化石は、三畳紀の赤道付近で堆積したことを示しています。つまり、海底火山島と周囲のサンゴ礁は、数千kmもの距離を、1億年近い年月をかけてプレートによって運ばれてきました。


(2)黒瀬川構造帯もジュラ紀の付加体で、

  小大陸のまま移動していた可能性がある

 

 西南日本(外帯)の大きな断層帯にそって、まわりとは異質な岩石が見られる場所があり、黒瀬川構造帯と呼ばれています。石灰岩から産出される化石を見ると、サンゴや三葉虫、腕足類の化石を含んでいて、4億2400万年前(シルル紀)の赤道付近の暖かい海に棲息していたサンゴ礁だったと推定されました。
 また、高知県越智町・横倉山の凝灰岩層からは、4億年前の植物化石(リンボク)や三葉虫が見つかりました。この内、陸上の植物化石が発見されたことは貴重な情報で、この共通種は、オーストラリア大陸と中国南部からも発見されています。

リンボク・幹の様子

 一方、黒瀬川構造帯で見つかる様々な岩石は、かつて、小大陸を作っていたのではないと考えられる古いものもあります。(ちなみに、同様な岩石は、「飛騨外縁帯」と「南部北上帯」でも見つかります。)
 つまり、「黒瀬川古陸」と呼ばれるような小大陸と、その周囲の海に棲息していた生物が、プレートによって赤道地方から北上してきて、現在の位置に移動したのではないかと考えられています。
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(3)プレート・テクトニクスからの推理 (仮説)

 

◆4.2億年前(シルル紀):アジア大陸となるいくつかの小大陸は、赤道付近にあった。

◆2億年前(ジュラ紀):アジア大陸の原型ができ、そこに小大陸の「黒瀬川帯」が北上し てきて、アジア大陸に近づいた。周囲の海溝では、「秩父帯」が付加体となって、形成されていた。

◆1.3億年前(白亜紀前期):イザナギ・プレート の北上に伴い、アジア大陸の東縁で、横ずれ断層 ができた。南北に長い日本の原型の東側半分は、付加体に沿って北に移動した。断層は、やがて、「中央構造線」になる。

 

1億3000万年前の日本の原型


  【下図】は、1994年(平成6年)、さいたま市(当時の浦和市)で地団研埼玉大会が開催され、中・古生界プレシンポジウム『関東山地はどこまでわかったか?』が行われ、その成果が、世話人会でまとめられ、地球科学49巻(1995年)で発表されたものです。その地球科学『P22の第1図』に色付けし、従来佐久地方で呼称されている地層名を付け加えたものです。
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佐久地域と関東山地の地帯構造区分の関係

 

概要を述べてきた「秩父帯」や「黒瀬川帯」は、さらにいくつかの地質構造帯に区分されています。
 関東山地の大きな地質区分(地体区分)として、概要は、北側から以下のような配列になると説明しています。
「領家帯」・中央構造線・「三波川帯」・「跡倉ナップ群」・御荷鉾(みかぶ構造線・「秩父累帯北帯」・「南縁帯」・「黒瀬川帯」・「秩父累帯南帯」・仏像構造線・「四万十累帯」です。


 従来の見解と違う点は、「五日市-川上線」が、秩父帯と四万十帯を分ける構造線とされてきましたが、両帯を分ける仏像構造線の一部ではなく、四万十帯の中の一構造線であると考えられていることです。

 中央構造線(MTL)に相当する構造線は、佐久側から、「内山断層」・「大北野-岩山断層」・「牛伏山断層」へと延び、さらに「平井断層」・「奈良梨断層」と続いているのではないかと考えられています。
 ちなみに、私たちの調査した山中地域白亜系(+蛇紋岩帯)は、黒瀬川帯に入ります。

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 【編集後記】

 今回(第202回)も、専門家の皆さんの図福や、インターネット情報などを、私が理解できる程度のレベルで、解説した内容です。ただ、こういった地球規模で日本列島というような基盤のことがわかると、知的好奇心が少しずつ高まっていきます。

国産み(神話の世界)

 さて、日本の神話の世界(古事記日本書紀)でも、日本列島が、どのようにしてできたかを説明していますので、概要を物語たいと思います。

 日本列島、すなわち、大八島(おおやしま・大八洲)は、【写真-上】のように、 男神イザナギ(伊邪那岐)」と、女神「イザナミ(伊邪那美)」の二神が、天浮橋(あまのうきはし)に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」という枝付の鉾を使って、渾沌とした地上を掻き混ぜることから始まりました。

 この時、矛の先から滴り落ちたものが積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」となり、二神は、島に降り立ち、結婚しました。そして、天を支える「天の御柱(みはしら)」と、広大な屋敷「八尋殿(やひろどの)」を建てたと言います。・・・『古事記』からの引用。

 ・・・その後の記述は、しばらく略。

 始めに造った「大八島」は、①淡路島、②四国(伊予之二名島)、③隠岐島、④九州(筑紫島)、⑤壱峻島、⑥対馬、⑦佐渡島、⑧本州(大倭人秋津島)です。

 さらに、六っの島を追加して造った。

 ①吉備児島(現在の児島半島、金印の発見された江戸期は島)、②小豆島、③屋代島(周防大島)、④姫島(国東半島の沖)、⑤五島列島、⑥男女群島です。

 

 さて、現在の北海道・本州・四国・九州の日本列島の4島の内、北海道の記述の無いのは、日本史上、しかたのないことかと思いますが、日本海に浮かぶ、南西-北東の順に、「壱峻島」・「対馬」・「隠岐島」・「佐渡島」が、4島と同格の扱いとは、歴史があるんですね。そして、瀬戸内海の「淡路島」が、一番最初に記述されているのを見ると、島の面積ではなく、もっと違った序列があったのかと思ってしまいます。

 それ以上に、大八島に続く、六島の顔ぶれが面白いです。

 瀬戸内海に浮かぶ小さな島や、東シナ海側への小島、さらには博多湾の「児島」までもが、もっと重要な場所や地域がありそうなものなのに、堂々と記載されているからです。

 今日のような自然科学という観点での発想でないのは、十分に理解できますが、宇宙というような大世界と、非常にローカルな、それも、あまりにもローカル過ぎる話題や場所が、ほぼ同列に扱われていることに驚きと共に、ほのぼのとした温かみを感じました。

草薙の剣

 話は変わりますが、私は、古事記日本書紀の話題を、ぜひ小・中学校の教材の一部にして欲しいと思っています。「因幡の白兎」のような「おとぎ話」的扱いの内容は、時々見受けられますが、そうではなくて、大昔の日本の人々が、どんな風に自然や人の住む社会を見ていたかを理解する一助としてという意味合いからです。
 

              *  *  *  *

 

 それには、こんなエピソードを語れば、わかってもらえるかもしれません。

(1)今は昔、米ソが宇宙開発を巡って、ロケットや宇宙衛星を打ち上げ競争をしていた時代です。小学低学年生であった私は、『ロケットが、空高く飛んで行って空の壁にぶつかったらどうなるのだろうか?』と真剣に考えました。私は、洋の東西を問わず、古代の人々が考えたように、太陽や月が、その壁を使って移動しているような宇宙観をもっていたようです。・・・特別な知識を注入されない限り、天球をイメージする宇宙観は、人類共通なものなのかもしれません。

(2)江戸時代の長屋に住む与太郎さんや、その兄さん、お父さんが登場する「落語」があります。1年は何か月かを親子で話題にします。与太郎さんが、『1月、2月・・』と数えていくと、兄が、12月の次に『お正月』を加え、『13カ月』と言うと、それを聞いていたお父さんが、『馬鹿、お盆が抜けてる』と言う落ちです。

 そんなお父さんが、与太郎さんの『そらに星があるのはなぜ?』という質問に、『あれは、天の神様が雨を降らす時の穴だ!』と説明します。私は、それを聞いて笑ってしまいました。まさに、「如雨露(じょうろ)」を傾けて水を撒く時、先端部に穴が開いているイメージにそっくりだからです。・・・その馬鹿馬鹿しさ、しかし、水撒きと如雨露と降雨現象が、イメージで繋がる可笑しさが、たまらなく素敵でした。

 迷信や偏見は、科学で払拭しなければいけないと思います。それには、常に冷静で中立的な判断や証拠集めが必要です。しかし、科学のメスの入らない状態を心の余裕をもって楽しみながら、科学的証拠を追求できるような雰囲気も好きです。(おとんとろ)

 

 

 

 

 

佐久の地質調査物語・第201回

  第1章 日本列島の成り立ち


 日本国土の主要部は、北海道・本州・四国・九州の4つの島だが、周囲のオホーツク海日本海東シナ海・太平洋上に浮かぶ島々も含めた広がりは、東西3000km、南北2500kmにもなり、大陸国家と肩を並べるほどである。実際、排他的経済水域面積で見ると、日本は世界第6位になり、国土(陸域)面積の12倍以上にも拡大される。
 もっとも、一部の島については、国際紛争に発展しないまでも、外交上の懸念事項として、依然として燻り続けている。ここでは、国土の帰属問題はさておき、日本列島や周辺の島々の壮大な広がりと共に、それらが秩序をもって並んでいる姿に注目して欲しい。

 

日本海溝南海トラフの大陸側に島が弧状配列されていること、オホーツク海日本海などの縁海(えんかい)があること、そして、日本海の中にある大和堆(やまと・たい)の存在も気に掛かる地形的特徴です。
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 日本列島付近の島弧の配列は、【上図】の4つのプレートと、その移動(沈み込み)する境に生じた海溝の形によって、みごとに説明される。また、『地質学的には極めて最近の短期間で、日本列島はユーラシア大陸から裂けるように離れて、今の位置に移ってきた。そして、日本海などの縁海が生まれた』という、奇想天外とも思える事実が明らかにされてきた。こんなことが、どうしてわかったのだろうか?

 

1.「プレート・テクトニクス」と

   「プルーム・テクトニクス」

 

 ドイツの気象学者(地球物理学)

ルフレート・ウェーゲナー(Alfred Wegener)が、1912年(明治45年=大正元年)に発表した『大陸移動説』は、その後の実証研究から確実なものとなった。
 地理的特徴や生物化石・氷河堆積物などの証拠から、今は離ればなれになっている大陸が、かつては繋がっていたはずだと考え、グリーンランドでの研究調査中の遭難事故で生涯を閉じた。生前は、「大陸を動かすメカニズム」を説明できず、異端視された。その時代の科学認識では無理もない限界だった。しかし今では、彼の先見性とコペルニクス的ひらめきについて、天才性を疑うものは、誰一人としていないと思う。
 海底地形や古地磁気データーが集まり、海底が拡大していることや、地理的特徴、火山・地震の発生メカニズムを説明する理論として、プレートテクトニクス(Plate tectonics)は、地球物理学・地質学の教科書になった。

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2億5000万年前の超大陸パンゲア

 【図】は、Aウェーゲナーが、仮定した超大陸パンゲア(Pangea)の2.5億年前頃の推定図です。
 現代の手法では、地質構造や化石に代表される実証的証拠に加えて、コンピューターによる地球物理的なシュミレーション加工技術も加わり、視覚にも訴えかけ、説明ができます。
 パンゲア大陸は、3億年前(石炭紀末)から2億年前(三畳紀末)まで存在し、その後、分裂・移動して、現在の6大陸の位置に分かれたと考えられています。
 図は、大陸が集まっていた期間・1億年間の、ちょうど中頃です。

 地球内部の構造は、特に、地震が起きた時の地震波(Seismic wave)の伝わり方の分析を通して、A.ウェーゲナーの時代から、「核・マントル・地殻」の層状構造があるらしいことは、わかっていました。しかし、地殻(プレート)が、マントルの対流によって動いているという事実には気付けませんでした。

 今日では、プレートを動かしている「マントルの内部」にも科学のメスが入りました。
プルーム(or プリューム)・テクトニクス(Plume tectonics)理論です。
 1990年代以降の地球物理学の新しい学説で、マントル内の対流の中でも、大規模な運動をプルーム (plume) と呼び、この動きを検討しています。地殻表面の約100kmの厚さのプレートに加え、この理論では、深さ2900kmまでのマントル全体の動きを含めて検討しています。

 

 

 地球内部の核は、内核外核の層状に分かれていて、外核は液体状態だと推定されています。(【上図】参照)
 プレートの沈み込んだ先は、さらに周囲より低温となってマントル内部へ落ち込みます。この動きは、コールド・プルーム(Cold  plume)と呼ばれます。反対に、外核で暖められ高温となって湧き上がる動きは、ホット・プルーム(Hot plume)です。
 沈み込むor湧き上がるプルームも、深さ670km付近に、『圧力・温度条件から物質の相(そう)転換点』があり、動きは、しばらく留まるといいます。ここが、上部マントルと下部マントルの境目です。
 ところが、この正常な相の転換ができないほど急激に移動してしまう場合があるようで、この状態をスーパー・プルーム(Super plume)と呼んでいます。過去の地球で大きな変動があった時に活動して、影響を与えた形跡があります。例えば、今から2.51億年前(P-T境界)、シベリアの大規模火山噴火では、スーパー・ホット・プルームの活動があった影響ではないかと考えられています。
 ちなみに、現在の地球では、東太平洋とアフリカ大陸の地下に「ホット・プルーム」が、ユーラシア大陸南アメリカ大陸の地下に「コールド・プルーム」ができているのではないかと、推定されています。

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  編集後記

 「はじめに」では、自分たちの見聞きした基礎データを後世(後輩に)残す為と言いながら、いきなり、小・中学生の「夏休み一研究」の如く、インターネット情報を集めたような話題で、すみません。

 しかし、もうひとつの視点「素人でもわかるように」という観点から、私たちの歩き回り調査している場所(フィールド)が、地球規模や地球の歴史的観点から見た時の背景の理解を深められるのではないかと考えたからです。

 ※尚、-数字-は、A4版にした時のページを示しています。シリーズ「内山層」では

このページを全て消してブログに載せた所、私自身が見てもどの辺りだかわからなくなったからです。

 ちなみに、最初のシリーズ「山中地域白亜系」では、ページだけでなく、第何回という表示もなく、ひとつひとつに「題」を付けたら、私には前後の関係はわかるものの、読者は多分、全体の中のどの辺りの内容かを理解し難くなっていたと思います。

 冬晴れの午後、冠雪の浅間山を眺めながら「冬田道」を1時間ほど、散歩してきてから、内容と写真をチェックして載せました。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語 第200回(はじめに)

                            は じ め に

 題名を『続々・佐久の地質調査物語』としましたが、「山中地域白亜系」を扱ったものが最初で、次に「内山層」を扱いました。そして、今度のシリーズが、それよりも新しい時代の「駒込層・八重久保層・香坂層」等について語るので、三番目の意味で「続々」となります。
 尚、「物語」と名付けましたが、「フィクション」ではありません。ただ、物語という言葉に敢えてこだわったのは、自然科学を題材にした易しい話で、地質に興味のある人が、親しみを感じて欲しいと願ったからです。
 地質学に限らず、学術論文は難しいです。対象とする人のレベルや目的から仕方のない事情もわかりますが、もう少し私たち素人にもわかるように伝えて欲しい。また、一枚の地質図にしても、苦労して作られているはずなのですが、その大変さは見えてきません。そこで、地質調査がどんな風に進められてきたか、そこには、どんな失敗や人間ドラマがあったのか、そんな裏話やエピソードを知れば、マイナーな地質学の話題も面白くなるのではないかと思いました。
 そして、もうひとつの願いは、観察者としての記録を後世に残したいと思います。
 調査活動を通して得た実感は、『知りたい、見つけたい』と念じても、期待する対象物は容易に見つけられないことが多く、反対に、見てもわからないことだらけです。だから、私たちがフィールドを歩き回り、見聞きしたり集めたりした基礎資料は、何とかして後世に、後輩へ残すことに大きな意義を感じます。今は理解できないことでも、何年か後には、奇妙で不可解な露頭の謎を、もののみごとに解いてくれるのが、自然科学の歩みだと信じています。
                                    *  *  *

千曲川の御影橋下流-① 

 

 【写真-①】は、台風19号(2019.10/12~13)で川底が埋まった千曲川の中州に重機が入って整備した後の姿です。撮影は、2024年1月6日です。
遠くに見えるのは、重機で片づけられなかった巨礫で、手前が瀬です。
 整備されたばかりなので、川底は全面が平らで、どこもほぼ同じ流速で流れています。この後の河川の歴史の中で姿を変えていきます。

 

香坂ダムの上流(香坂礫岩層の巨礫)-②

 【写真-②】は、香坂川の片替橋上流25m付近の巨礫で、「香坂礫岩層」のメンバーです。
転石かと思うほどでしたが、「内山層」基底礫をしのぐほどの大きさです。巨礫(安山岩)の下も、礫岩です。撮影は、2013年5月19日です。

 現在の産状だけみると、川底に張り付いた巨大な岩の塊ですが、千曲川のものは、
この先、流されて移動するかもしれません。
 一方、香坂川のものは、河川の規模からかなりな確率で無理でしょう。
 既に、400万年前には、香坂礫岩層の中に取り込まれ、ずっと存在してきました。ただし、風化・浸食は受けていますが・・

 こんな風に、現在の地表にある岩石や地層を見ていくと、興味深い事実があり、壮大なドラマを創造することができます。

 

    もくじ

 

○ はじめに

第1章 日本列島の成り立ち
 ◇日本列島の広がり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P1
 1.「プレート・テクトニクス」と「プルーム・テクトニクス」・・P2~P3
 2.「付加体」という考え方の証拠・・・・・・・・・・・・・・P4~P5
 3.他の構造帯の「付加体・メランジェ」について・・・・・・・P5~P6
 4.日本海の成り立ち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P7~P8
 5.大和堆の存在と、日本海を拡大させた営力・・・・・・・・・P9~P10


第2章 佐久地方の新第三系

 1.日本海拡大前の「山中地域白亜系・佐久地域」・・・・・・・P11~P12
 2.日本海のでき始めの頃と「内山層」・・・・・・・・・・・・P12~P13
  ◇ 表-「山中白亜系を中心とした佐久地方の地質」・・・・・・P14
   ◇ 表-「中新世~第四紀の佐久地方の地質概要」・・・・・・・P15

第3章 志賀川~香坂川の地質

  ○ 志賀川・香坂川流域の地質調査へ・・・・・・・・・・・・・P16~P17
 1.志賀川流域の地質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P18~P19
       (1)八重久保断層は確認できた・・・・・・・・・・・・・・P20~P21
   (2)研究者の間でも問題の多い八重久保層・・・・・・・・・P22
 2.瀬早川流域の地質・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P23~P26
 3.八重久保層の層序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P26~P27
 4.八重久保層・上部層のゆくえ・・・・・・・・・・・・・・・P28~P33
 5.「八重久保層・上部層」の層序と地質構造 ・・・・・・・・・P33~P36
 6.「南沢林道の沢」の調査から・・・・・・・・・・・・・・・P37~P39         

 7.霞ヶ沢の調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P40
 8, 「香坂川~霞ヶ沢の東・無名沢」の調査から・・・・・・・・・P41~P43 
 9.「香坂礫岩層」の分布 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・P44~P46 
10.香坂川の上流部の調査
      ○香坂川上流部~最上流部のルートマップ・・・・・・・・・P47
      (1)香坂川支流第3沢の調査から・・・・・・・・・・・・・P48~P49
      (2)香坂川支流第1沢・第2沢の調査から・・・・・・・・・P50~P52
      (3)香坂川支流第5沢から妙義荒船林道の調査から・・・・・P53~P56
      (4)最上流部・香坂林道の調査から・・・・・・・・・・・・P57~P59

第4章 兜岩層と本宿層

 1.兜岩層の湖成層・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P60~P61
 2.兜岩層の湖成層の下にくる層準
   (1)舘ヶ沢の観察から・・・・・・・・・・・・・・・・・・P62~P63
    (2)牛馬沢の観察から・・・・・・・・・・・・・・・・・・P63~P64
   (3)小屋場付近から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P64
   (4)熊倉川の調査から ・・・・・・・・ ・・・・・・・・・P65~P66
 3.「本宿層」とは? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P67~P68
  4.陥没盆地について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P68~P69
  5.兜岩層と本宿層(本宿層群)の関係について・・・・・・・・・P70~P72

 

 編集後記

 これから、「続々編」として『佐久の地質調査物語』を、「はてなブログ」に載せていきます。

 実は、この内容の元原稿は、2022年(令和3年)~2023年(令和4年)に出来上がっていて、令和5年4月から手掛けることを決めていましたが、なぜか意欲が沸いてこなくて、その後、1年近く停滞していました。

 理由は、この地域の露頭が少なく、正確な地質図が作れないので、「次は、この沢へ行ってみよう」というような気持になれなかったことがひとつの理由です。ふたつ目は、定年退職後、10年も経つと、だんだん怠けた生活になりがちで、学術的な方向への意欲も減退気味になっています。

 ところが、詳しい訳は機会があったら触れますが、「せっかく元原稿があるのだから、最新情報を入れながらまとめてみよう」という気持ちになりました。

 それで、2022年に「内山層」に関するシリーズが、第100回~第164回で終わっているので、数字を続けると混乱するから、第200回をスタートとして行こうと考えました。

 既に、「もくじ」もあるので、掲載します。ただし、これから毎回、元原稿の清書や点検、画像の確認などをしながら、まとめていきますので、増えるかもしれないし、減るかもしれません。

 現時点での課題は、「佐久側の地質と本宿地区の地質の関係は?」という所で、2年以上停滞しています。やって行く中で、解決に向かうことができることを期待しています。

 尚、原稿の内容については、各シリーズの「はじめに」などで紹介したように、調査した「ルートマップ」や撮影した「露頭写真」・「化石や自然に関する写真」を中心にまとめています。「夏休みの自由研究」の観察ノートという発想です。

 いつか、もう少し、専門家の方に見てもらって、専門誌にも提出できる形にまとめたいと考えてはいますが、どんどん年齢も増えていってしまうので、そこまで脳と意欲が耐えられるか不安はあります。

 

 最後に、数年来、月1回ぐらいの割合で、「〇〇月の俳句」シリーズが中心でしたので、そのギャップに驚かれる方もいるかもしれません。でもまあ、両方が趣味であり、関心事ですので、ご了承ください。   (おとんとろ)

 

平成6年度 鼻顔稲荷・初午奉燈俳句

   鼻顔稲荷初午奉燈俳句

 

① 春の夢 狐の輿(こし)の 残り香よ 

② 赤鳥居 潜(くぐ)りて今日も 梅暦

③  父詰めし 春の遠足 お稲荷さん    

              (稲荷神社に寄せて)

 

 

 令和5年秋に、所属する会の先輩に誘われて、佐久俳句連盟に入会することになった。早速、師走8日に「冬の俳句大会」があって、参加した。ひとり3句ずつ持ち寄り披露し合い、その後、当日の「席題」を創作して解説し合った。
 私は、「前山みゆき会」霜月句会の3句を提出した。また、当日の俳句は、師走句会にと準備しておいたもので対応した。ちょうど12月8日(当日)より2日後の12月10日朝の金星と月(二十六夜)の情景なので、良いだろうと披露した。私が即席で、俳句が詠めるほどの段階(レベル)に達していないので、仕方ない。
 今回の参加者は、私も含めて4人が新顔であった。他の方々は、それぞれ名前の知れた他の俳句会に所属していて、この通称「佐久俳連」にも入って活躍されているベテランばかりなので、私には「なるほど」と、納得させられる素晴らしい俳句ばかりであった。
 さて、会の終了時に、佐久市岩村田にある「鼻顔(はなずら)稲荷神社」の初午に際して、奉燈俳句を募集する旨が伝えられた。奉燈日は、建国記念の日の2月11日(日)である。
私たちが「倉澤薬師堂の花祭り」での奉燈俳句は、会員が少ないので全員の作品を載せているが、こちらは、会員だけでなく、会員外からも募集し、選考委員が正式に選ぶようである。私も、会員となったので、指定された葉書で2句提出することにした。
 それが、上に掲げた①と②の俳句です。
 ただし、句会の癖で3句用意した。また、いつもは、自分の体験を元に創作することが多いのだが、今回は、稲荷神社なので、「神の使いの狐」にテーマを絞ってみようと思いました。フィクション要素が多いです。指定の募集内容は、「当季雑詠」とあるので、奉燈日の2月11日、春の季語で良いかと思いました。


 【俳句-①】は、「狐の嫁入り」道中を見ていて、花嫁の乗った輿が、私の前を通過していく時に、突然、目が醒めた。しかし、お化粧の香りが残っているが、これは春の日の夢だったのか・・・・と、納得できない自分を振り返るファンタジーの世界を詠んでみた。
季語は、春(の夢)で、春である。 

 

 ヒントは、次女が学生時代に購入して読んでいた「百鬼夜行抄(今市子著)」シリーズの「狐の嫁入り」(ネムキ2000年7月号)にある。特異なコミックで、シリーズ全体を読まないと理解できないことも多いと思うが、「狐の嫁入り」については、およそ次のようなストーリーである。
 定年退職後の冴えない男が、ほろ酔い気分で帰宅した。男は居酒屋はおろか、スナックやバーで飲むこともないのに、有頂天で『金杯』を持ち返った。
不審に思う女房の心配通りに、熱病に襲われたが、治ってからは、金運が付きまくる。やがて、妖怪による「金杯返却の催促」が続くようになり、不眠に陥る。そこで、このシリーズ主人公に相談に来て、最後は解決という運びになる。(略)
 ところで、『金杯』は、この男が偶然に出遭った「狐の嫁入り」道中での宴会に招待された折り、盗んだものだった。しかも、「嫁入り道具目録」の重要な物だったので、婿に当たる妖怪(龍)の怒りに触れたという設定である。

 男と、その妻は、たかが狐と思い、メッキの金杯と狐の好きな油揚げをやれば良いと理解していたが、妖怪世界の凄さを知ることとなった。それで、狐から盗んだ本物の『金杯』を返却した。

 

 

 人間と妖怪世界の付き合いを知らない夫婦は、そこまでだが、主人公の律(りつ)たちは、さらに、人間界の行く末を模索し、危惧していく。
 ※かつて人間と妖怪は、その交流能力のある場合、密かに交流していた。しかし、人間界の方が、自然環境や伝統文化・習慣を大きく変えてしまったので、交流できなくなった。また、妖怪世界に住む者は、人間と共存する世界では生きられなくなり、姿を変えて生き永らえる場所を求めていった。⇒「イラスト」参照
・・・と言うように話は展開していく。

                      *  *  *

 さて、私たちが子どもの頃、『お天気雨』のことを指して、「狐の嫁入り」と呼んでいた。「狐の嫁入り」が行われているという迷信である。体験では、新学期の4月中旬、「家庭訪問(*注)」の頃、空は晴れて青空なのに雨が降っているような気象現象である。他の季節にもあるかもしれないが、春の不安定な天気という印象が強い。
 拡大解釈では、青空が突然曇って激しい雨になったかと思えば、雨雲が通り過ぎると急に日差しが射して快晴に戻るようなこともあった。気象学的には、上空に寒気が入ると共に、激しい風が吹いていて、離れた所の雨雲を吹き飛ばして晴れている地域に移動させたり、反対に、不安定な大気の動きを強風が大きくかき混ぜたりして、目まぐるしく天気を反転させているようだ。

狐の嫁入り (イラスト)

 興味があったので、インターネットで調べてみると、『お天気雨』に関する俗信は日本だけでなく、世界各国にあるようだ。
 マレーシアでも「狐の嫁入り」と言い、韓国では「狐の雨」、スリランカでは「狐の結婚式」と、狐が共通して使われている。
 さらに、韓国では、「狐の雨」より「虎の結婚」がよく使われ、インドでは「ジャッカルの結婚」や「サルの結婚」、フランスでは「オオカミの結婚」などもあると言う。
 いずれにしろ、世界中の人が、天気雨を不思議な気象現象だと感じ、幻想的な光景を想像したのだと思う。それにしても、動物が人間のように結婚行事をしているとする発想が、似ているのは興味深い。
 ところで、俳句の下五句に「残り香よ」としたのは、日本のいくつかの地域で、大名行列よろしく、人が狐に扮して練り歩くお祭企画があることを知ったからだ。花嫁は、狐の面を被る場合もあるが、狐のように口が尖って見えるように化粧粉(フェイス・パウダー)を塗りたくっている写真を見た。こんなに厚化粧していれば、さぞや、香水の香りだけでなく、化粧粉の匂いも強く残るだろうなと想像してみた。

 

 

 【俳句-②】は、神社の赤鳥居を潜って主殿に進むと、梅の木があって、毎日の散歩の折り、梅の蕾(冬芽)がどのくらい膨らんできたかと眺めていることを詠んでみた。ただし、
農閑期に私は、毎日のように散歩はするが、自宅から離れた鼻顔神社を訪れているわけでもないし、神社の境内に梅の木があるかどうかは知らない。その意味で、フィクションである。季語は、梅(暦)(うめ・ごよみ)で、春である。 
 この俳句は、かなりすらすらと短時間で創作できた。それは、上五句の「赤鳥居」と、下五句の「梅暦」というフレーズを、かつて使った俳句があったからだ。

梅暦(蕾の膨らみ)

 『寒詣 曾孫に引かれ 赤鳥居 (平成29年1月)』 ・・・私の母が、新年の初詣に薬師堂へ行き、曾孫が本堂まで案内しようとするが、階段の段差があり過ぎるので、下でお参りした時の様子を詠んだ俳句である。厳密には、鳥居のある神社ではないが、Tさんがアドバイスしてくれて、赤鳥居となった。
  『歩を止めて 逢瀬重ねる 梅暦 (令和4年2月)』 ・・・農閑期に冬田道を散歩していると、小さな梅の木があり、その冬芽(蕾)の生長を観察しつつ、春の訪れ(開花)を楽しみにしていた。梅を恋する女性に例え、「逢瀬を重ねる」と、洒落てみたら、Wさんが「イイネ!」を出してくれたので、印象的な俳句のひとつである。

                  *   *   *

 そこで、私としては気に入っていた2つの俳句の、それぞれを採用し、中七句に、それらを繋ぎ、少なくとも状況がわかるフレーズをと考えました。
 音読してみると、流れもスムーズで、私なりに気に入っています。
 ところで、前述の私の俳句を推してくれたWさん
を始め、他の何人かのベテラン(この俳句の道60年以上関わっている)の皆さん中には、数年前に詠んだ俳句と、部分的に、具体的には、俳句の上句・中句・下句や、季語の一箇所しか違わない俳句を定例の句会に提出する場合がありました。
 私は、俳句を冊子にまとめ、編集する係を仰せ付かっているので、良くわかるのです。敢えて、指摘しませんでしたが、一部を変えても、どれもこれも、すばらしい俳句であるからです。
 私は、俳句に携わって日も浅い輩なので、「同じ季語は、なるべく使わないで、新しい季語に挑戦しよう」という方針で、定例俳句会への提出を進めていますが、今回の場合、実際に俳句を創作してみると、自分の好きなフレーズを使うと、うまく俳句がまとまるということが、わかりました。
  私は、専門の地質学と共に、これからも、俳句を続けたいと思っていますが、 好きなフレーズや、何度使っても飽きない季語を使った俳句を作りたいと思いました。


 【俳句-③】は、フィクションでありません。父子家庭の児童が、春の遠足に、「稲荷寿司」弁当を持って来たという内容ですが、弁当箱の他の副菜や、そのアレンジに感動したことを詠みました。季語は、「春の遠足」で、春です。「遠足」だけでも春の季語になります。実在の方々の話題なので、プライバーに配慮して、内容を少し変えてあります。

 私が単身赴任をして、ある小学校勤務をしていた時のことです。小学1年生の春の遠足に、引率の付き添いで参加しました。
 楽しみなお昼となり、皆でシートを敷いて、お弁当を広げます。児童らの様子を見ていると、互いのお弁当の中身やアレンジを見せ合い、副食の物々交換をしているようです。
 何人かの児童らと共に、Mちゃんも私の所へ来て、交換しようとしますが、私のお弁当は、梅のお握りとポテトサラダだけなので、交渉は成立し難いです。
(参考までにːたった2品目のお弁当ですが、早朝に梅を刻んでお握りを作り、海苔を巻く。一方、ジャガイモを蒸かしている間に、野菜やハム・チーズを刻み、塩とオリーブオイルを混ぜて、そこへポテトをつぶして入れてかき回すと、1時間近くかかります。割とまめな方なので、朝食の味噌汁も作るので、このくらいかかるのです。) 
 それでも、私の「梅のお握り」とMちゃんの「稲荷寿司」を交換しました。『これあげる』と、いくつかの副菜を私にくれました。彼女のお弁当箱やタッパー類を見ると、稲荷寿司を始め、10種類近い副菜がふんだんに詰め込まれていました。友と交換した食材があったかもしれませんが、明らかに食べきれないくらいの量です。

 

 誰が用意してくれたのかと聞くと、お父さんが用意してくれたと答えましたが、お父さんの出勤時間になってしまったらしく、『こちらは、お姉ちゃんが詰めてくれた』と。

通称・お稲荷さん



 私は、Mちゃんが父子家庭であることも、また、お父さんも知っているので、朝の家族のやり取りが想像できました。朝のご飯や味噌汁を作るのは、私と同じですが、多分、娘の遠足用食材は、前日にスーパーなどで仕入れてきておいて、少し早起きして詰めた。しかし、出勤時刻が迫ってきたので、残りは、Mちゃんの姉に託して家を出たのだと思います。品数も量も多く、丁寧に詰めてあるお弁当を見て、お父さんの娘に寄せる愛情の深さを感じました。
 交換していただいた「稲荷寿司、通称お稲荷さん」が、今でも、強烈な印象のまま思い出されます。利発なMちゃんも、今はきっと、皆から愛される素敵なお嬢さんになっていることと思います。

 

 【編集後記】(はてなブログ)

 本文の【俳句-①】の解説で、「お天気雨」の所で出てきた「家庭訪問(*注)」について説明します。長野県で実施されている「家庭訪問」は学校行事ですが、全国のどの地域でも(※注)行なわれている訳ではないと思うからです。 
 (※注ː「行って」は、文章の前後の意味から、『おこなって』とも『いって』とも読めます。それが嫌で、「行う」でなく「行なう」という記述にしますが、お許しください。)

 4月1日に新任地の中学校に赴任した私は、4月中旬には学級担任として、学級39名の各家庭を4日間で訪問し、事前に提出していただいた書類内容の確認と共に、どんな地理的場所・家庭環境・親の雰囲気等の情報を収集してきました。大学を出たばかりの若造が、一丁前の仕事に挑戦したわけです。その後、中学1年生を担任しては中学3年生で卒業させるという3年サイクルで、担任を繰り返し、毎年4月に、家庭訪問も実施してきました。
 私は、大して負担と感じませんでしたが、同僚の中には『緊張して疲れる』と愚痴をこぼす人もいました。中には、『生徒が、家庭学習をしている部屋を見せてください』と、その子の勉強部屋や、場合によっては居間を家庭訪問場所に指定した同僚もいました。
 しかし、いつしか「家庭訪問は、担任が変わった学級のみ」という学校も出てきました。授業時間数確保の為や、訪問を受ける保護者の多忙さも背景にあったのかもしれません。世の中が、そして、保護者と学校・教員との関係も少しずつ変化してきたと思います。・

                     *  *  *

 私は、現在は、小麦粉製品でアレルギーが出ます。長年、学校給食で食べてきたパンや、大好きなラーメンを食べてきたはずなのに、食べた2時間後ぐらいに症状が現れます。
遅延性アレルギーのようです。いつも現れる訳ではありませんが、ビスケットを食べて、散歩中にアナフラキシーとなり、救急搬送されたこともありました。
 もう少し前は、「海老」でした。寿司ネタの海老や、刺身の海老を食べると、すぐに胃で異変を感じ、吐いてしまいました。これも、いつもという訳ではないので、自宅では食べましたが、宴会などで、外では食べないようにしていました。
 そして、いよいよ本題に入ります。

バナナと家庭訪問

 かつて、私は、「バナナ・アレルギー」でした。
今でこそ、バナナはスーパー・マーケットで、比較的安価で売られていますが、私たち世代の子どもの頃は、バナナ(主に台湾産)は高価であると言うことに加え、品薄で、めったに手に入るものではありませんでした。色が変わって黒ずんだものでも、争って食べたものです。
 ところが、私が高校生となった頃、バナナを食べると、すぐに唇に違和感を覚え、腫れてくるのです。吐くことはありませんでしたが、不快でした。しかし、高級食材のバナナを諦める気持ちには至りません。バナナの薄黄色筋を取り除いて、洗って食べても症状が現れました。それで、しばらく、バナナは食べないことに決めました。

 

 さて、私が赴任した地域の子らは、その土地の雰囲気も含めて、純朴で、他から来る人を温かく受け入れてくれました。私は、家庭訪問を前に、「先生の好きな食べ物や嫌いな食べ物」という誘導尋問に引っかかり、バナナ・アレルギーのことを白状してしまったのです。
 そして、家庭訪問の2日目、N君のお宅を訪問しました。『先生が、お好きだと伺ったものですから』と、何んと、バナナを山盛りにして出してくれたのです。これは、N君が、自分の大好きなバナナを、「先生が好きだから」と、母親にねだって用意させたことは明らかです。同時に、担任の先生の為に、バナナを用意しようとする、そんな時代でした。
 私は、母親の勧めにも関わらず、バナナは、1本も食べずに帰りました。そして、家庭訪問の終わった週休日に、近くの小売店でバナナを購入して、食べてみました。
 忘れていた高級感のイメージのあるバナナの味が蘇りましたが、かつて経験したことのある違和感やアレルギー症状は起きませんでした。
 今は、バナナも平気で食べていますが、N君のお陰です。ちなみに、その後、Nくんの結婚式以来、年賀状だけの交流ですが、彼らも、もう定年退職世代になるのですね。

                 *  *  *

 バナナに関して、もうひとつの思い出があります。「バナナと日本人~フィリピン農園と食卓のあいだ~(鶴見良行・著)」(岩波親書1982年刊行)を読みました。私が次に赴任した中学校で、「先生の紹介する図書を読んでみよう」企画があって、この本を紹介しました。

 私が、「おいしいとだけ感じて食べている異国のバナナが、どんな場所で、どんな生産方法で、そして、生産に携わる人が、どんな生活をしているのか」と、生徒にぶつけてみた。
 すると、多くの生徒が、反応した。書籍は安いので、購入した生徒もいた。だが、こんな社会問題を中学生にぶつけて、生徒と共に考えられたのも、今では時代の情熱なのかと思う。
 簡単に背景に触れると、アメリカの4大バナナ企業の資本が、フィリピン農家を買収し、まるで現代の奴隷のようにして働かせている。肥料代金も紐付けされるので借金も増えていく、そして、消毒薬付けとなった完全に青いバナナを、コンテナの中で燻蒸し、少しずつ黄色し、ちょうど良い色になった所で日本に輸出してくる。
 ・・・現在でも、中華人民共和国で、国有企業が少数民族の人々を半強制労働のような方法で安い賃金で働かせ、生産物を国外に輸出していることが、人権問題として批難の的となっているが、先進国からの資本投資で、発展途上国の安い労働力を使って生産するという搾取は、戦前の植民地時代が一応終わったとされた後でも、面々と続いていた。

バナナは、薬付け(人は借金付け)

 参考までに、現在のバナナ生産量トップ10は、インド、中国、インドネシア、ブラジル、エクアドル、フィリピン、アンゴラグアテマラタンザニアコスタリカの順となる。(FAO統計2021年)。インドが世界生産量の約1/4ということには驚いた。
 バナナは感染病などに弱いので、化学薬品を多量に使うようだ。また、上記で紹介したフィリピンの場合より少しは改善されてきているが、バナナ生産者の生活は貧しいと言う。
確かに、おいしく簡単に食べられる食材だが、相対的に昔より安く手にはいる。その訳は、生産者の安い労働力と大量生産に支えられているからなのだろう。(おとんとろ)

令和6年 1月の俳句

     【睦月の俳句】

 

 ① 掌(てのひら)に 温もり残る 寒卵  

 ② 炬燵まで 届きし日差し 縁の先

    ③   空白む 田圃スケート 子らの声

            《冬の思い出・幼少編》

 

 令和6年(甲辰きのえ・たつ)を迎えた年始は、大変な出来事の連続で幕開けした。地域の皆さんと新年の挨拶を交わした後、氏神様や菩提寺などを歩いて回り、年賀のご挨拶を兼ねて参拝してきた。風は強かったが比較的暖かな冬晴れの下、写真撮影をしながらだったので、昼近くまでかかった。帰宅後、元旦の大仕事が終わった安堵感から、お神酒をいただいたら寝てしまった。午後4時頃、激しい揺れで起こされると、能登半島で最大震度7の大地震が発生していた。佐久地方でも震度4を記録した。だが、情報収集しようとする意欲が湧いてこなかった。
 翌2日、怠け心が出てきて、You-Tubeを視聴しながら、布団にくるまって寝ることになってしまった。夕方、日本航空の旅客機(379名)と海上保安庁の航空機(6名)が、羽田空港C滑走路で衝突炎上したという緊急ニュースが飛び込んできた。だが、この時も、ぼんやり頭で情報収集するのが面倒となり、いつしか眠ってしまった。
 そして、3日、信濃毎日新聞朝刊を見て、すっかり目が覚めた。能登半島の寒空の下で被災された方々の落胆と苦悩を慮ると、気の毒でならなかった。その被害の甚大さにも胸が傷んだ。さらに、亡くなられた海上保安庁職員5名の方々も、被災地への物資輸送任務前だったということを知り、その無念さを思った。日航機の乗客と乗員全員が、燃え盛る炎を避けて、脱出シェルターで無事退避できたことは、せめてもの救いの話題であり、快挙に感動した。
 私の惰眠の間に、大惨事が起きていたことは、忘れ得ぬこととなった。改めて、地震や事故で亡くなられた方々のご冥福を祈ります。復興にも協力していきたいです。
 さて、睦月の俳句は「新年」をテーマにと思っていましたが、年の瀬に、冬の季語を選んでいたら、そこから連想する幼少期の冬の思い出の光景がいくつか浮かんできたので、それらを俳句にしてみようと考えました。


 【俳句-①】は、産みたてのまだ暖かさが残る鶏卵を、掌(手の平)で包んだ時の感触を詠んだものです。鶏卵は未受精卵ですが、白い殻の中に命の温もりがあるような錯覚を覚えます。やがて外気の寒さから、生暖かさは失われていってしまいます。
 現在は、産みたての鶏卵を直接手にする機会は、私にもありませんが、子どもの頃の思い出があります。だが、少し複雑で、ローカルな背景があるので、補足説明してみようと思います。
 昭和30年代の一時期だが、農家で育てた鶏卵を農協に出荷して、祖母らは小遣い稼ぎをしていた。俗に言う「卵貯金」である。
 幼児の私は、農協へ祖母に連れられて行き、竹籠に入れて持って行った出荷前に割れてしまった卵(寒卵)を、「もったいないから」と、祖母から促されて吸い込むようにして飲んだことがあった。当たり前だが、産みたてのそれと違い、殻の割れた卵は、冷たく一部が滲み出ていた。脳裏に残っている寒卵の温もりとは逆の、よけい冷たさを感じた。それぞれの時の掌の光景が思い出され、その様を詠んだ。季語は、寒卵で冬である。

 「寒卵」は、特に寒い「寒中」に生み出された鶏卵のことで、特別に栄養豊富なので「生」で食べるのが良いとされる。現代でも、比較的安価で滋養のある鶏卵は人気だが、昔は貴重な存在で、経済的にも高価であったし、卵を持って病気見舞いに行くこともあった。そんな時代の話である。


 そう言えば、【写真-下・大草原の小さな家】のローラの母親、キャロラインも、手提げ籠に鶏卵を入れて街の雑貨店に売りに行き、卵を買い取ってもらった代金で布地や砂糖、雑貨などを買い求めてくる場面があったなあ。

大草原の小さな家

1974年から8年間米国で放送されたTVドラマ「大草原の小さな家」;ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝を基にした実写ドラマ「Little House on the Prairie」は、開拓精神や家族愛、敬虔な宗教心、実直な米国人の琴線に触れて大人気となった。日本でも翌年(昭和50年)からNHKで毎週放送された。再放送もあった人気番組である。

 

 現代のように透明軟プラ容器に入ってスーパーで売られている鶏卵は割れないが、籠に入れて持ち運びすると、殻が割れないまでも、ひびが入ることがある。だから、鶏卵の運搬は丁寧にしなければいけないし、卵の殻が丈夫になるようにと、シジミ貝を細かく砕いて鶏の餌に混ぜて与えたこともあった。
 しかし、殻にひびが入れば、商品価値は無いので、当然はじかれる。当時は、貴重な卵なので、それを捨てるということは在り得ず、祖母は、滋養のある生卵を、かわいい孫に飲ませた。古き良き時代の感覚である。
 幼かった私は、何をどのように理解していたか不明だが、産みたての温かった卵が割れてしまうと、今度は逆に、掌の中では冷たい殻ごと温めてから口にしなければならないことを体験した。そして、掌の中の生卵を、すすった感触を今でも覚えている。
 
 祖母が、少し欲を出して、一羽ずつ鶏を入れて飼育できるゲージを買ってきた。それまでの飼育小屋の中で放し飼いにした状態より、卵の収穫管理が楽にできる。ただ、そんな装置で本格的に飼育しようとしたら、世の中の市場流通体制が変わり、農協での買取は無くなってしまった。

         *   *   *

 俳句の解説は以上ですが、若い世代では、鶏(ニワトリ)を飼った経験など無いと思うので、鶏談義をもう少し続けてみよう。

輸卵管の中で卵が大きくなってくる

 昨今は、動物愛護の精神から、闘犬や闘鶏など見かけないが、鶏はなかなかの格闘家と言うより、いじめっ子である。飼育小屋で放し飼いにしておくと、必ず、1~2羽の鶏が他の鶏に嘴でつつかれて羽毛が無くなり、血だらけになる。良く観察すると、いじめの中心となる鶏もいるが、複数による「リンチ」である。何かのストレスを解消する手段なのかとも思う半面、雌鳥だけで飼っているので、順位付けの本能なのかとも思った。いずれにしろ、醜い姿だ。私は良く、いじめた鶏に仕返しをしてやった。
 時には、いじめられ丸裸になった鶏が弱ってしまったり、老齢で卵が産めなくなったりして場合、廃鶏されることがありました。


 祖父が、小屋に入っただけで、けたたましく泣き叫び、逃げ回ります。屠殺されることを察知するのでしょうか。鶏は、捕らえられた後でも、断末魔の悲鳴を上げました。首を包丁で落とされて、叫び声は聞こえなくなるのです。
 次に鶏の足を荒縄で縛り、梅の木(我が家の庭にあった)に吊るして首から血抜きをします。バケツで受けます。かなりな量になりましたが、使われなかった部位と共に畑に捨てていました。
 その次に、バケツの熱湯に浸けて羽毛を剥ぎ取ります。(この辺の姿になると、スーパーで売られている皮付鳥肉のイメージに近づきます。)
 ただし、【写真・輸卵管の中で卵が大きくなってくる】の光景は、見たことがないでしょう。動物(鳥)には春や秋を繁殖期とするものがいますが、鶏は一年中卵を生むことができるので、毎日でも卵を産むことができます。時々、休卵する日はありますが、一日で2回産卵したのを見たこともあります。だから、輸卵管の中には、数日先に産み落とされる卵の原型が入っていて、少しずつ生長していく様子が見られます。これを最初に目撃したのは、小学校の低学年の頃でしたが、驚き不思議に思いました。 
 今では、私自身も、パッケージされた鶏卵や鳥皮、軟骨・鶏肉を買い求めて、調理するだけです。他の臓器を見る機会もないし、ましてや、断末魔の叫び声を聞くこともありません。しかし、生卵や鶏肉の正体を実際に見たことのある経験は、ぜひ、若い世代にも伝えたいと思っています。

 

 【俳句-②】は、冬至には日影(日差し)が炬燵布団まで届いていたのに、いつの間にか日中でも縁側の端に当たるほどとなり、季節が進んだと実感したことを詠んだ。季語は「炬燵(こたつ)」で、冬ですが、俳句の内容からは春の日が近づくことへの喜びの詠嘆で、「春近し」と同義語のようなものです。

四畳半の掘り炬燵に家族6人

 上述の文字通りの解釈ならば、何も幼少期の思い出と言わず、今でも良い訳ですが、これには少し背景を説明する必要があります。
 私が子どもの頃、【イラスト】のように、我が家は三世代六人家族でした。ただし、炬燵に座る家族とは、決定的に違う点が、2つあります。
 ひとつは、家族の座る位置です。
我が家の構造から上座は西側で、ここに祖父が座りました。横座は北と南方向で、北に父、南に祖母と私、特に名前はありませんでしたが、台所に近い東側に母と妹が座りました。6人が4方向に座るのに、正方形の炬燵板の幅は同じなので、身体の小さい女性と子どもがコンビになるのには合理性がありますが、基本的に座る位置が決まっていたのが、昔からの、そして当時の常識でした。

 ふたつ目が、重要です。現在、我が家は「離れ」も含め、数字だけ聞くと16部屋ある大邸宅ですが、当時は、二階が養蚕用の大広間だったので、区切られた部屋は10部屋しかありませんでした。ところが、家族で一番多く使う居間が、一番狭い四畳半でした。夏場は開放して広くなりますが、冬場はこの狭い空間で家族6人が肩を寄せ合って寒さをしのいでいました。石油ストーブも設置していない時代なので、省エネという観点より、これが合理的だったのだと思います。


 定期的にやって来た叔父が、自分が加わると、あまりの窮屈さと我が家の窮状に鑑み、「座って足が伸ばせる広々とした炬燵」を設置してくれることを提案しました。夏に我が家へ資材・材料を持って訪れ、大きな掘り炬燵を作ってくれました。
 そんな経緯があって、冬季には我が家の居間は、西隣の12.5畳の仏間に移りました。これなら、肩を寄せ合わなくても座れるし、足も伸ばせて温かいのですが、寧ろ背中は冷たいです。父は、慌てて大型石油ストーブを購入してきました。しかし、暖気は天井に昇ってしまうので、やはり背中と腰は冷たく感じました。
 さて、俳句の話題に戻ると、12.5畳の居間には、廊下(縁側)と障子を挟みますが、冬の太陽光が差し込みました。日差しは、人工的な火種や石油ストーブからの物理的熱量を超えて、暖かさを伝えてくれました。太陽光は、身体だけでなく、心への赤外線を与えてくれているようでした。

                              *

 もう少し、古い民家(農家)の構造について話題にすると、現在のような玄関はありません。南側に面した縁側のどこからでも、訪問者が声を掛ければ、そこが玄関です。もっとも、家族が出入りする場所は、勝手口に近い方に決まっています。また、注意深く見れば、玄関の上り框(あがりかまち)となる敷石などがあるので、来客は、そこが玄関だとわかりました。
 その後、我が家は建物全体は大きく変わりませんが、内部の部屋割りや内装工事をして、現在に通ずる正式な玄関もできました。
 俳句に詠んだ当時の居間(12.5畳)は、押し入れ部分ができたので10.0畳となり、神棚と仏壇のある、普段は誰もいない空間となっています。相変わらず、日当たりの良い場所です。

 

 

 【俳句-③】は、具体的な活動の様子は、受け手の想像力にお任せしますが、冬の佐久平に臨時に作られた田圃スケートリンクで、まだ日の出前にスケートを滑っていることは、わかると思います。季語は「(田圃)スケート」で、冬です。

私が履いた「下駄スケート」より、少し古いタイプ

 

 佐久地方は、年間降水量も少ないですが、冬季の積雪量も少なく、天然の湖が凍結するので、昔からスケート競技が盛んでした。
 規模の大きなスケート大会は、松原湖(猪名湖・大月湖など湖沼群の総称)に代表される天然氷の湖で開催されましたが、子どもが練習で滑るのは近くの水田に水を引き、凍結させた田圃スケート場でした。
 私は保育園の頃から下駄スケートで滑り始めました。最初は、父らが履いた【写真】のような全体が鉄板タイプです。次に、刃の上にパイプが付いたタイプで、小学1年生の冬に1年間履きました。
 下駄スケートは、靴下を履いた後、足袋(たび)を履いて、鼻緒に入れます。それから、通称「真田紐」と呼ばれる丈夫な木綿製の平たいテープ状の紐で、足の甲や踵(かかと)を、それなりの方法で固定します。きつく縛ると足が痛いし、緩いと転倒した時の捻挫の原因にもなります。寒さで手がこごえるので、小さな子どもには、なかなか難しい技です。


 小学2年生の冬に、クラスで2番目に靴スケートを履きました。小学3年生になると、クラスのほとんど全員が靴スケートになりました。昭和30年代という時代は、1年違うだけで物量や内容が、大きく様変わりしました。このスケートに関する話題だけでも、世の中の移り変わりの激しさがわかります。
 田圃スケートの辛さは、寒さより朝の暗さです。一年中で日の出が一番遅いのは、1月7日頃で、佐久地方では日の出が東の山塊に遮られるので、7時を10分ほど回らないと太陽は昇りません。自宅で簡単な食事をして、田圃に歩いて移動し、難しい下駄スケートの準備をするのは、暗い中でします。
 そして、寒ければ寒いだけ、晴れる佐久の空が白み出す頃、子どもらは氷上に立つのです。俳句では、ちょうどこんな情景を表現したいと思いました。

佐久地方最後の「田圃スケート」(平成27年冬)

 ところで、学校が休みの日には、昼近くまで滑っていると、氷が緩んで割れる
ことがあります。割れないまでも、氷にひびが入ったり、穴が開いて水が噴き出
したりします。これも、思い出の光景です。ただ、田圃は水深が浅いので、安心
して滑ることができたことも事実でした。悲しい出来事なので、詳しくは語りま
せんが、天然氷が割れてスケート事故があったことは、生涯忘れ得ぬ辛い教訓に
もなりました。ちなみに、【写真】は、縁あって私が最後に勤務した小学校で写
した記録です。多分、「田圃スケート場の歴史」では最終記録になったと思いま
す。暖冬の続く今では、二度と再現されないと思うからです。

 

【編集後記】

 年始めの「ぐーたら」からは、信濃毎日新聞・1月3日朝刊で蘇り、能登半島地震の被害状況や地震発生に関する科学的情報などを集めています。
 地震で亡くなられた方が、日毎に増えて行く中で、ご高齢の方が奇跡的に助かった話題は、感動しました。反対に、故郷の正月に帰省し幸せ進行中の方々の突然の不幸を見聞きすると、他人事とは思えず、涙ぐみました。

 

 私は、大学で地質学を専攻したので、地震には興味・関心が高いです。先日は、地震後の海岸線隆起の話題を、新聞記事から切り抜きました。能登半島の北側が隆起しました。

 少し専門的には、逆(衝上)断層の動きによる地殻変動でしたが、短時間で顕著な動きをしました。その結果、かつての漁港の海底が隆起し、小型船でも移動できないほどの浅瀬になってしまいました。


 ・・・これらの記事を見ていて、思い出した光景があります。
 私は、北海道で学生時代を過ごしましたが、信州へ帰省する折り、東北地方の様々な鉄道路線を、意図的に利用しました。昭和49年の冬、青森駅からは羽越本線を使って日本海側を進み、直江津駅信越本線に乗り換えるルートを選んだことがありました。
 夕暮れ近く、車窓から砂の平坦地が見え、停車した駅名が、「象潟」と知り、驚きました。

 あの有名な『象潟や鶴に身を借れ時鳥(ほととぎす)』(松尾芭蕉奥の細道)の象潟なのです。その瞬間は、驚きだけでしたが、後日、調べて見ると、江戸時代の文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時ごろ)に、地震が発生し、その後で隆起した地形だと知りました。松尾芭蕉が紀行した地震前には、日本三景のひとつ「松島」にも匹敵する美しさと噂されたそうですが、今回の能登半島地震の後の豹変ぶりに似ています。(ちなみに現在は、稲作ができる状況です。)

 今度の能登半島地震については、プレート沈み込みに伴い地下まで供給された海水の影響が取りざたされていますが、そもそも、新第三紀を通じて日本列島が大陸から離れ、日本海が誕生したメカニズムを思う時、地殻は、かなりいくつかのブロックに割れていたのかもしれません。
 いくつかのプレートの境目にある能登半島を含む、日本列島本州の地下深部である。更に細かなプレート細部の情報も調べてみました。

 

輪島市・鹿磯漁港の防潮堤

 ◆追記ː
 令和6年1月18日に、前山みゆき会の睦月(1月)句会が行なわれましたが、私の修正前の第①句『出荷前 寒卵割れ 手の平に』は、先輩諸氏から集中砲火が浴びせられました。
 趣旨は、詠み手本人だけが了解している表現は駄目で、仮に、それらを説明したとしても、シャッター・チャンスのようにして印象場面を切り取ってこそ俳句の真髄と言えるというものです。指摘に対しては同感で、帰宅後に修正しました。
 会員の中には、『能登地震(ない)・・・』と、地震災害の悲惨さを憂い、地形の大きく変貌した驚異を俳句にした人がいました。
【写真-上】の地殻変動(隆起)が、主要動の伝わる数10秒間という地学的には瞬時とも言える短時間に、一気に生じたと推定されています。はたして、この地下の様子は、どうなっていたのかと思うと、学術的な興味は湧いてきますが、同時に脅威そのものです。(おとんとろ)

 

令和5年 12月の俳句

            師走の俳句

① 山入り日 裸木射抜く 波動砲

② 凍てる朝 二十六夜の 太白星(たいはくせい)

➂ 春を待つ 「いのちの歌」で 目覚む吾  

               《この星に生まれて》

 

 定年退職して10年目の冬越し野菜作りで、白菜と大根を「道の駅」直売所で購入してくるという、極めて不名誉な冬を迎えることになった。
 種蒔きをした後の8月中~下旬の段階では順調に育っていたが、急に害虫被害が発生した。その後、白菜については種蒔きを3回もし直したが、同様であった。最期に蒔いたものが、何んとか育ったが、その名前にふさわしいものにはならなかった。白菜は、あたかも「青梗菜(チンゲンサイ)」であり、大根は、「蕪」ぐらいであった。例年なら取れ過ぎた大根の一部は、畑の隅に掘った「地中保管庫」にも入れて置く程なのだが・・・、今季は入れる物が無い。
 「虫の被害」の原因は、やや異常気味な今年の気候もあるのかも知れないが、今までの無農薬農法の結果とも考えられる。もともと高価だったが、原材料となる尿素や燐酸アンモニウムの輸入制限の影響を受けてさらに高騰した「石灰窒素」を散布したことは、ここ10年間は無かった。
 ちなみに、石灰窒素という肥料は、散布後しばらくの間は、毒薬となって作用して除草・殺虫をする。その後で、化学成分は肥料に変わって行くという優れものである。零細農家でも、私が担当する前の、母や家内が携わっていた頃には、きちんと散布していた。
 そこで「ケチらない」で、今秋は、最低限度量ではあるが石灰窒素を散布することにした。
 ところで、今月は、「この星に生まれて」というテーマにしようと思う。理由は、それぞれの俳句の説明で述べたいが、昼間より夜が長くなると、夜空の星に関心が向く。そもそも、私たちの地球も星(天体)であることに気づいた。

 

 【俳句-①】は、「軽トラ」で夕陽を追いかけるかのように、山道を運転し、高原(開拓地)に登ったら、冬の夕陽が、カラマツ林を射抜く光の束となって目に飛び込んできた時の感動を詠んでみた。季語は「裸木」で、冬です。

 【写真-右】はイメージです。

カラマツ林の入り日(インターネットから)

 実際は、あまりの眩しさに、サンバイザー無しでは運転ができないほどで、「宇宙戦艦ヤマト」(松本零士・作)に登場する『波動砲』を浴びたぐらいの印象を受けました。
 「冬ぶち」と呼ぶ耕作を最後に、今季の農作業は一応終了し、12月1日には、管理機を水洗いしたり、農機具を研いだりして、一区切りでした。
 冬越しのニンニクに追肥をした(12/4)後、西の山に入る夕陽を追いかけてみたくなって、
軽トラックで、山道を登り詰め、前山開拓地という高原に出ました。ここはまだ、冬の夕陽が残っていました。


 夕陽というと、一日の太陽の営みの最後という雰囲気もありますが、日差しが低角度で差し込むので、目に届く光量は寧ろ増大するせいか、まさにゴール間際のラストスパートという感触で、濃い朱色が強烈でした。
 ところで、「下五句」は悩みました。強烈な光の束を表現するのに、何が良いかと思案しました。
 「ドラゴンボール」という漫画(鳥山明・作)の中で登場する「カメハメ波」や、ウルトラマンが太陽エネルギーを使って放出する「スペシウム光線」もいいかなと考えました。ただ、私より少し年上の年配者に伺うと、どれも知らないようです。
 それなら、一番無難な、アニメ「宇宙戦艦ヤマト波動砲」にしておこうと判断しました。
それでも、波動砲の威力は、原子爆弾にも匹敵する兵器ですので、俳句の表現としては穏やかではありませんが、それでも、それくらい強烈な夕陽の太陽光ビームを受けたからです。
 加えて、季語の「裸木」は、「冬木」でも「枯れ木」でも意味は十分に通じますが、カラマツは針葉という衣を脱ぎ去った裸木となって、寒い冬季を生き抜いているんだという、強い生命力を連想させるのも面白いなと思いました。

ウルトラマン(スペシウム光線)

 

 【俳句-②】は、師走10日の未明、南東の空に「明けの明星こと、金星」と「二十六日月」が並んで見えている様に感動し、詠んだものです。季語は「凍てる(朝)」で、冬です。

月齢25.7日(12/9)と26.7日(12/10)の月と「金星」の見え方

 今年になって、屋外のゲートを夜間だけ閉めることにしました。
しかし、早朝5ː35~5ː45には、新聞配りのSさんがやって来るので、5ː30までにゲートを開けることが私の仕事になりました。
 夏場は辺りが明るくなって自然に目覚めましたが、冬場になると、暗さと寒さの二重苦で、結構負担に感じます。
 しかし、その時に救いとなるのは、南東の空に輝く金星を眺めることです。既に、春の代表的な星座の「おとめ座・スピカ」も見えます。ここに、「二十六日月」が、金星と並んで見えるという天体ショーが加わりました。
 ちなみに、同じ時刻に月を観察すると、一日で約12°東に移動していきます。同じ方向を観察していると、時間にして、48分遅れて見えるようになります。
だから、12月9日と10日の金星と月の位置関係を見ると、月が、東側に移動したので、金星の上に見えていた月は、一日後には下になりました。金星や恒星のスピカも実際は移動していますが、月よりずっと遥か遠くにあるので、一日ではあまり位置関係を変えていません。


 次の俳句は、「前山みゆき会」の先輩方が詠んだ金星に関する俳句です。
『冬落暉(らっき)峡に夕星瑞瑞し(佐々木久子)』
『太白星(たいはくせい)光顕はに冬日落つ(本間秀則)』
そして、『家路急く 宵の明星 受験生 』は、昨年一月の私の俳句です。3つの創作年度は違いますが、冬の夕闇が訪れた西の空に、一番星として知られる宵の明星こと、金星(Venus)の輝きの美しさを詠んでいます。
 今年(令和5年)の金星の見え方は、夏から秋、冬を経て、来年(令和6)の春にかけては、明けの明星が観察されます。そして、しばらく見えにくい時期があり、再び、西の空に宵の明星として見えてきます。
 もし、俳句に「俳句考古学」という分野があれば、
私の師走に詠んだ俳句は、「2023年12月10日の朝」だと、金星と月の位置関係から、日時が推理できることになります。

「乙女座」の見つけ方

 

 【俳句-➂】は、私が毎朝、目覚めてから起きて床を離れる前に行なっている「いのちの歌」をYou-Tubeで視聴(主に聞く方)していることを俳句に詠んだものです。季語は、「春を待つ」で、冬です。時期的には、師走をもう少し過ぎた冬の終わりの方が良いのかもしれませんが、若い頃と違い、冬は寒いだけでなく、暗い朝が長いのが嫌いになりました。一日も早く春の訪れを待ちわびています。

 いきなり私事で恐縮ですが、私は、目覚めてから、外の鳥の鳴き声を聞きながら俳句のネタを考えることもありますが、多くは、床の上で約15分間のストレット体操をしてから床を離れます。内容の詳細は省略しますが、早口言葉や眼球運動なども取り入れた独自の関節などの柔軟運動をしています。
 その際、運動をしながら聞いているのは、行進曲やブラスバンド、最近は、前にも紹介しましたが、京都橘高校マーチングバンドの演奏(2022年10月10日・台湾双十節)が多いです。これに、「いのちの歌」が加わりました。

 この歌は、2009年(平成21年)放送のNHK朝の連続テレビ小説「だんだん」の劇中歌としてオンエアされた楽曲で、作曲は村松崇継さんが、作詞は竹内まりや(Miyabi)さんです。多くのシンガーによって歌われ続けてきた『いのちの歌』で、
教科書にも載せられ、学校(文化祭など)での合唱曲としても人気があるようです。
 私も、今までに何回か聞いたことがあり、歌詞が温かで趣深く、特に間奏の後の部分は、崇高な精神性があると感動しました。ただ、私は、日常的にステレオや、ラジオ・TV番組等で音楽を聞く習慣も無いので、すっかり忘れていました。

 ところが、音楽同好の仲間と、毎年晩秋に、素人の音楽イベントを企画している私の娘が、今年は、『いのちの歌』を歌うことになりました。いつもはピアノ伴奏か、参加者のカラオケ歌に合わせた即興演奏や弾き語りをしていましたが、仲間の歌い手さんが参加できなくなったのでピンチ・ヒッターでした。それを、娘の夫が録音して、You-Tubeに載せたと言うので、聞いてみることにしました。

 

 歌の「でき」がどうかと言うより、自分の娘が歌っているという身びいきで、興味深く聞きました。特に、歌詞の『命は継がれてゆく、生まれてきたこと、育ててもらえたこと・・・ありがとう』の辺りは、実感がこもっています。

 ここで、歌詞を紹介します。

 『いのちの歌』 作詞ːMiyabi(竹内まりや)・作曲ː村松崇継

  生きてゆくことの意味  問いかける そのたびに
  胸をよぎる 愛しい人々の あたたかさ
  この星の片隅で めぐり会えた軌跡は
  どんな宝石よりも たいせつな宝物
  泣きたい日もある 絶望に嘆く日も
  そんな時 そばにいて 寄り添うあなたの影
  二人で歌えば 懐かしくよみがえる
  ふるさとの 夕焼けの 優しいあなたのぬくもり
  本当にだいじなものは 隠れて見えない
  ささやかすぎる 日々の中に かけがえない喜びがある
      *   *   *
  いつかは 誰でも この星にさよならを
  する時が来るけど 命は継がれてゆく
   生まれてきたこと 育ててもらえたこと
  出会ったこと 笑ったこと
  そのすべてに ありがとう  この命に ありがとう

この星に生きて

 作曲(編曲)者の村松崇継さん自身が歌ったものもあるようですが、まず、竹内まりやさんのオリジナルを聞いてみました。(案外、低いキーなのですね。)
 陸上自衛隊・中部方面音楽隊の鶫真衣(つぐみ・まい)さんの爽やかなソプラノの歌声も聞きました。さらに、「だんだん」に出演した双子の茉奈・佳奈(まな・かな)さんの歌声も聞いてみました。
 最後に、合唱曲と村松さんのも聞いてみて、私的には、女性のボーカルの方が曲に合っていると思いました。深い理由はありませんが、作詞した方が女性としての感性で綴り、受け取る私が男だからかもしれません。


 そして、もう一度、元の話に戻りますが、身びいきで、娘の歌も、音楽的に見て、案外捨てたものではないなあと思い直しました。
 しかし、悲しいかな。視聴者は、私と私が紹介した妹の家族ぐらいしか聞いていないようなので、カウント数は、極めてわずかなものですが・・・。
 娘の歌う『この命にありがとう』の余韻を、ゆっくりと味わうことなく、外ゲートを開けに起きていきます。春の訪れが待ち遠しい。

春の訪れが待ち遠しい


 【編集後記】

 月一度の「みゆき会」の定例句会の開催前に、なぜか「俳句の解説」が完成しています。普段なら、少なくとも1カ月以上は確実に遅れて「はてなブログ」へ載せているので、驚異的な早さですが、これには、いくつか理由があります。
 ひとつは、本年度、佐久俳句連盟(通称、佐久俳連)に入会することになり、夏の吟行はお断りしましたが、「冬の俳句大会(12月8日)」に初参加することになりました。予め創作して、各自が持ち寄る3句は、霜月(11月)の「みゆき会」に出したものにしましたが、当日に出された「席題」で創作して披露する俳句があるというので、定例の「12月みゆき会」の俳句と「冬の季語」の準備をして臨みました。そのくらい緊張していたので、既に俳句3題は完成していました。
 もうひとつの理由は、農閑期を迎え、家の清掃や整備作業はあるものの、融通の効く活動で、デスクワークの時間が増えました。本心は、念願である「佐久の地質調査物語・その3(香坂層と本宿層との関係)」に着手したいので、俳句の方は早めに終わりにして、早く本命に入りたいという思いからです。そんな訳で、今日(12月14日)、俳句会が終わったので、帰宅後に載せます。

熱燗の日本酒

 さて、今日の俳句会では、新たに少なくとも2つのことを学びました。
 ひとつは、佐久俳連で指導を受けた「季語が、一見無縁に思えるようで繋がっていたり、反対に題材に適確であったり、微妙な感覚で創意工夫されているか」という点について、
提出作品に寄せて議論し合いました。まだ、到底結論には至りませんが、研鑽できました。
 もうひとつは、小さな事かもしれませんが、「燗の酒」の俳句で、「燗」の字の「門」の中に入る字が、「日」でなく「月」であることに驚きました。
 『二人旅少し多めの燗の酒(茂木俊則)』の俳句で、当人の最初に挙げた俳句を皆で修正している時、気づきました。当人曰く、「日で無く月なら、熱燗が直ぐに冷めてしまいそう」と。
 私は、月見酒をするような季節になると、冷酒より熱燗の方が良いのではないか等と、勝手に解釈しましたが、なぜなのでしょう。
 そんな話題から思い出したのは、「臥竜点睛」のことでした。
  私は、長いこと、「睛」の字を「晴」だと思い込んで、書いていました。改めて、良く見ると、編は、「日」では無く「目」ですが、これは、この故事の意味を理解すればわかります。しかし、「靑」であって「青」でないのはわかりません。(多分共に同じ、青という意味らしいが・・・・。)

 ところで、来年の干支は、『甲辰(きのえ・たつ)』です。平たく言えば、辰年
「竜または龍」になります。

 

臥竜点睛の年にしよう!


 私は、「巳年」なので、「辰」の次の年に年男の12×6=72歳になります。
 そこで、臥竜点睛の故事に因んで、何かのきっかけで目を描くことができて、天に昇る龍になって年男を迎えたいなあと思いました。
 昇天が、天国では絶対に困りますが、何か少しでも社会に有意義な事が為せればいいなあと思う「おとんとろ」です。