北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和6年 3月の俳句

      【弥生の句】 

 

 ① 春暁に サソリ座南 早十年(とうとせ)

 

 ② 啓蟄や 酒虫疼(うず)く 宵の口

 

 ③ 春風に ベロニカの青 囁(ささや)けり

             《古稀の春を迎えて》

 

 3月1日は、能登半島地震発生から、ちょうど2カ月目に当たる。災害被害の凄さのせいもあるが、大型重機が入り難い険しい地形や交通インフラも災いして、復興はなかなか進まない。
 一方、同日未明(5:43am)、千葉県東方沖の深さ30㎞を震源とするM5.2の地震が発生した。その後も頻繁に地震が起こり、どうやらプレート境界がゆっくりと滑る「Slow Slip」に起因して誘発された地震の可能性があると指摘されている。
空が落ちてくる方の心配は「杞憂」かもしれないが、大地の破壊による地震被害の方は、極めて現実的な確率の問題であり、絶えず脳裏を過る心配の種である。

 ところで、今月の定例俳句会で、令和5年度が終わる。また、「みゆき会」に私が入会してから8年が経過する。いつものように、どんな季語を選ぼうかと思案していたら、「古稀(70歳)の春」を迎えたことに改めて気づいた。

 定年退職時に手続きした生命保険や外国債の運用も10年満期を迎え、次のステップへと再契約することになる。楽天的に考えてスタートした60歳代だったが、途中病いあり、大手術も経験しつつ、何んとか10年が過ごせて、今はまあまあ健康体でいる。
 しかし、次の10年間を安寧に過ごし、80歳を迎えられるかどうかと考えると、一抹の不安がある。それほど深刻ではないが、今までとは少し違った心がけで過ごして行こうと、殊勝な気持ちにもなった。それで、そんな願いを俳句に託してみようと思う。テーマは、「古稀の春を迎えて」である。


  【俳句-①】は、春の日の出前、まだ暗さが残る南の空に、サソリ座が見えた。特に、サソリの心臓にあたる1等星「アンタレス」が目に付く。毎年のように、この時期、この時刻頃に見る星座だが、10年の年月の経ったことの感慨を詠んでみた。季語は、「春暁」で春である。

 だが、定例の「みゆき会」で、この句を披露したが、評判が悪かったと言うより、「わからない」との評であった。
 どうやら、私は季節を代表する星座の位置関係と出没時刻、方向の概要から、季節変化を感得できるのだが、そういう経験のない人には、日の出前に星空が見えたぐらいの意味でしか無いようなのだ。考え直してみれば納得する。もし、私が他の専門分野のことを話題にした俳句と出逢ったら、やはり同様な鑑賞しかできないはずだと思うからである。注意しておかなくてはいけない観点だとわかった。

蠍(サソリ)座のα星(アンタレス)

 ところで、せっかくだから星座について語ろう。
 「サソリ座」は、射手座などと共に夏の星座である。その季節を代表する星座は、地球の日周運動の関係で、夕方、東の空から昇り、夜中に南中し、明け方、西の空に沈む。つまり、かなり長時間に渡って見えている訳である。


 ところが、一般的な言い方で夏の頃は、日没が遅く日の出が早い。つまり日が長く、反対に夜が短いので、「サソリ座」は、日が暮れて星の存在に気づいた頃、既に南南東から南の空に、大きく立ち上がるようにして現れている。動物などの形を表した星座の中で、一番、その実際の姿に近いと言われ、心臓に当たる位置に一等星「アンタレス」が、赤々と見えるので印象深い。ただし、夏と言っても、南方向に見えるのは、6月には夜中頃、8月には日暮れから夜の始め頃と、今度は、公転による年周運動の影響を受けている。(参考ː星座の位置は、日周運動で90°/6時間、年周運動で90°/3カ月の割合で、東側からより西側へと移動しているように見える。)
 この実際に見て感動した夏の夜空のことを記憶していると、「まだ春先なのに、日の出近くにサソリ座が南の空に見えている!」という違和感が、新たな記憶となって強く残るものらしい。それが、ちょうど、3月上旬~中旬の、私が起きて東の空を眺めてみるタイミングとなる。
 具体的な数値を入れてみると、例えば3月10日、午前5時30分、サソリ座は、ほぼ南に見える。日の出は、午前6時頃なので、真っ暗ではないが、まだ薄暗い。
そして、学校では、3学期が終わろうとしている時期である。本年度やり残した事への反省、新学期への抱負。転勤する場合は、去ることの寂しさと、新任地への不安感などが交錯していた。そんな年度末の最後は、数週間後に定年退職を迎える年の春だった。その後、思い描く中身は変わってきたが、サソリ座を見る度に思い出す。あれから10年、今年は古稀の春を迎えた。来年の春は、そして、さらに10年後の春は、どんなことになっているだろうか。

 


 【俳句-②】は、暖かくなり土の中の虫が這い出してくるように(啓蟄)、宵闇が近づいてくると、「お酒が飲みたいなあ」という気持ちが、心の奥底から湧いてくる様を詠んでみた。季語は「啓蟄」で、春である。

 改めて解説するのはくどいが、「啓蟄」は、二十四節季のひとつで、「雨水」の次、「春分」の前で、現代の暦で3月5~6日頃になる。土の中で冬越した虫が這い出してくるという意味だけではなく、暖かな日差しの下で、目覚め始める全ての「生き物」のことを表していると解釈して良いようだ。その意味で、土筆【写真】は、そのイメージ通りの姿です。但し、佐久地方で実際に観察できるのは、もう1カ月ほど後になります。
 ところで、「啓蟄」なので、「酒虫」と洒落た訳ですが、ついでに、「宵の口」は「酔ひの口」ともなるかな等と、作為しました。但し、俳句の世界では、あまりこういう掛詞のような技巧は無いようです。

土筆(ツクシ)が出てきた

 それより肝腎な今月のテーマとの関係は、切実な生活課題があるからです。
 私は、大学生の頃からお酒が好きになり、就職後の現役時代にも良く飲んでいました。そして、退職後は、農作業や散策して、身心共にリフレッシュすると、翌日の予定を意識せずに深酒をすることが多くなりました。インターネット情報によると、暇な老後生活からアルコール依存となる人が多いと聞きます。私も似た条件を供えているので、要注意です。そこで、「Sober-Curious」宣言はして、節制しています。ただ、負けそうになることもあり、その都度、「まだ、希望も、やりたい事もあるぞ」と言い聞かせ、自分と闘っています。

 


 【俳句-③】は、まだ微かに寒さも運ぶ春風が吹くと、華麗な青い花を咲かせた「オオイヌノフグリ」が、思い思いに揺れる。それが、囁き頷きながら会話をしているかのように感じた様を詠んだ。季語は「春風」である。

 「オオイヌノフグリ」は、路傍や土手に群れて咲く。背丈が低いので、春颯のような強風に対しても、しなやかに対応している。可憐な青系統の花の色と淡い葉のコンビは、爽やかで、色の少ない春先には良く目立つ。どこでも見かけるという意味では平凡だが、多くの人々から愛されていると思う。
 但し、名前がいけない。私は、何んとか他の呼び名はないかと捜したら、学名を「Veronica persica」と言い、オオバコ科の越年草とある。それで、「ベロニカ」と呼べは良いかなと考えた。と言うのも、「いぬのふぐり」は春の季語だからである。姑息な手段だが、「季重なり」が避けられると理屈をつけたのだが・・・。

春の訪れを知らせる「オオイヌノフグリ

 文字通りの意味は、早春の春の訪れを最初に知らせる「オオイヌノフグリ」の爽やかな青の華麗さを称えたつもりだが、今月のテーマの観点からは、風に翻弄されて揺れる姿に、「自分の意思ではどうすることもできない憐れさと、それでも楽天的に受け止め、淡々と生きていく逞しさがある」と感じたという私の思いがある。


 と言うのも、新聞やインターネットで、日々のニュース・国際情報のチェックに多くの時間を割いて、戦争や紛争、自然災害や事件、政治・経済など、世界各国の情報を見聞きしている。それら人の世界の営みも、「オオイヌノフグリ」が風に翻弄されている姿と妙に重なるからだ。そして、知り得た知識や情報を話題に挙げると、妻からは、『外国のこと、他人のことはどうでもいいから、我が家の家計や自分のことを心配しなよ』と激を飛ばされる始末である。
 ・・・・然り。私もまた、明日をも知れぬ運命の中、生きているからである。
既に60歳代を生き抜いてきたように、もう少し慎重さを加えながらも、どうせなら、楽天的に、希望を見失わないようにして、前向きに生きて行きたいものだ。
 私の自作の座右の銘は、「有為(うい)・恒心(こうしん)」であった。移ろい易い世界にあって、安定して変わらぬ気持ちを持ち続けたいと思う。

                                        *  *  *

 この俳句の話を妻にしたら、「ベロニカ」という商品名で販売されている園芸種は、何種類かあり、「いぬのふぐり」ではないと言われた。
 例えば、写真の「ルリトラノオ」や「ヒメトラノオ」も「ベロニカ」とも呼ばれている内の仲間のようだ。
ちなみに、オオバコ科・クワガタソウ属に分類され、多くの人は、こちらの花などをイメージするようだ。

「瑠璃虎の尾(ルリトラノオ)」

 そうなると、
 『そよ風に おおいぬのふぐり 囁けり』などと、直さないといけないかもしれない。
 「ルリトラノオ」等の花丈では、背が高すぎて可憐なイメージが湧きにくい。 

まあ、いっか!

 

   【編集後記】

 冒頭で、地震を話題に挙げたが、能登半島地震発生後の動静に興味をもって、気象庁発表の地震情報を検索してみた。地震の規模を表すM(マグニチュード)に関わらず、最大震度が4以上の地震の回数を月別にカウントした。
 「最大震度4以上の地震」【最大震度5弱以上の地震】≪能登地方の地震≫の順に示す。ただし、能登地方は、能登半島沖・上中越沖・佐渡付近を含む。
〇1月ː「58回」【17回(最大震度7能登半島地震本震を含む)】≪56回≫
〇2月ː「6回」【0回】≪2回≫  〇3月「10回」【2回】≪0回≫となる。

 震度1や2の地震まで含めれば、日本列島付近では絶え間なく揺れているし、その増減やエネルギー放出量は、素人にはわからない。しかし、能登地方に限ると、2月~3月と最大震度4以上の地震回数は減ってきた。但し、これが収束に向かいつつあると言う意味ではないと警戒した方が良い。震度階は小さいが、今も地震は続いているし、専門家が指摘するように、本震で一緒に動かなかった既存の断層の存在が不気味である。

 

         *   *   *

 

 昨年の暮れから2月にかけて、いつもの冬田道の散歩コースを変えて、自家用車で数分の東京電力の杉の木貯水池へと出掛けたことがある。
 冬木立の樹上に、「ヤドリギ」のようなものを見つけて興味をもった。1本の木に何箇所かあり、しかも随分かたまっていたので、写真に収めた。
この時に、カメラの望遠機能を使って、その正体を確かめておけば良かったが、私は、宿り木(ヤドリギ)が、群生しているものと思い込んでいた。

東京電力・杉の木貯水池

 しかし、2月29日に、同じ場所を訪れてみると、鳥の巣の集中している営巣地だとわかった。鳥類図鑑で確かめると、川鵜(カワウ)であるらしい。 

樹上の巣と川鵜(カワウ)の番

 森上の畑の農作業中に、上空から激しい風切り音を立てて土手の向こうの片貝川に急降下して行った鳥(カワウ)と同じだ。昔、目撃した隼(ハヤブサ)が、航空機の墜落かと驚いた時の感激が蘇ってきた。
 さすがに、この貯水池では、水面が広がっているので、急降下は目撃できなかったが、水面に対して水平飛行に入ったかと思うと、すぐさま、小魚を嘴でくわえていた。
 観光旅行で観賞した岐阜市長良川の「鵜飼」のカワウと同種類か確信はもてないが、外見は同じようだ。鵜匠(うしょう)から伸びた綱を首に繋がれ、水中に潜って鮎を獲る鳥と、自然の中でダイナミックに漁労する鳥とは、同じようには見えなかった。

長良川の川鵜(カワウ)

 カワウの番(つがい)を撮影してから、既に一カ月が過ぎてしまっているが、その後、どうなっているのか興味が湧いてきた。雛は、巣立っているかもしれない。少し、気がせいてきました。(おとんとろ)

 

 

佐久の地質調査物語・第207回

1 志賀川流域の地質

 

(1)八重久保断層は確認できた

 私たちは調査に先立ち、『地球科学45巻3号(1991)』の地質図付きの論文を読みました。正式には、『関東山地北西部の第三系(その1)長野県東部香坂川~内山川流域、特に駒込帯の地質と、その地質学的意義について(1991年・5月)【小坂共栄(ともよし)・鷹野智由(ともよし)・北爪牧(おさむ))】という内容です。
 志賀川本流と、その支流の八重久保川の調査を通して、論文でいう『八重久保断層』の通過位置を確認できました。

                            *   *   *

  志賀川流域に分布する駒込層と八重久保層は、化石を含む層準や特徴的な岩相で比べると違いは明らかですが、全体的には凝灰質砂岩層や砂泥互層、凝灰岩層を含んでいて、岩相を手がかりにして区別することはできません。しかし、大局的な地質構造の違いから、ふたつの地層が区分できそうです。
 それは、駒込層の走向・傾斜が「N60°W・30~40°SW」と、南落ち傾斜であるのに対して、八重久保層は「N60°WないしEW・20°NE~N」と、緩い北傾斜だからです。これに着目すると、東側は志賀川の「無名橋」付近と、西側は八重久保川・標高838m湾曲部付近を結ぶ直線が、境目になります。肝腎な両地点間は表土で覆われ、露頭は見られませんが、ほぼ東西方向へ断層が連なっていると思われます。詳細については後述しますが、これが「八重久保断層」で、八重久保層(北側)と駒込層(南側)は、断層で接しています。
(【志賀川-八重久保川付近のルートマップ】図を参照)

 志賀川本流・標高895mの無名橋付近の地層は、断層による影響なのか、周囲が乱れていて、推定断層の正確な通過位置を決めるのは難しいです。
 露頭の様子は、以下のようでした。
(ア)無名橋の下流40m(標高892m):

凝灰質灰色細粒砂岩と黒色泥岩の互層の上に、風化すると黄土色となるのが特徴 的な凝灰質粗粒砂岩層が載っています。全体はN30°E・20°NWと北落ち です。

(イ)無名橋(標高895m付近)の前後:

○橋の直下~少し下流:礫岩層(八重久保川標高870m「林道入口橋」の礫岩に似るが、礫の直径が小さい。安山岩礫が少ない。)
○橋の少し上流:礫岩層と灰色シルト岩層。地層の境では無く、シルト岩層の傾向からN60°W・10~20°N。

(ウ)無名橋の上流10m:

凝灰質粗粒砂岩層と灰色シルト岩層。境で、N60°E・20°Nと北傾斜、走向が東に振る。

(エ)川の湾曲部(標高905m)付近:

川底は緑色凝灰岩層の滑滝ができている。右岸側には、幅25m以上の緑色凝灰岩の崖露頭。N80°E・20°Nと、北傾斜で、さらに東振りとなる。

 

駒込層地質柱状図

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 これより上流の志賀川での緑色凝灰岩露頭との関連から見ると、(エ)は、北傾斜と岩相の特徴から八重久保層に属すると解釈して、間違いないと考えられます。
 一方、(ア)露頭は厳密には北西傾斜だが、北落ち傾向から八重久保層となるところだが、それより下流側からの凝灰質の砂泥互層・粗粒砂岩の岩相への変化は、下流側から駒込層が続いてきていると見る方が自然です。いくぶんの北西傾斜は、断層の形成過程などによる影響で乱れていると解釈した方が良いだろうと考えました。
 
 そこで、(イ)無名橋の前後と・(ウ)上流10m露頭をどちらに分類するかで、断層の通過地点が決まることになります。
 2012年(平成24年)の段階では、礫岩層の特徴(八重久保層の礫岩に似ているが、礫種と分級に違いもある)ことと、走向が西振りと東振りの違いから、(イ)と(ウ)の間、すなわち、無名橋の少し上流に「八重久保断層」が通過していると解釈しました。
 しかし、原稿を修正した2017年(平成29年)時点では、無名橋付近の「シルト岩の岩相を分けることの不自然さ」、「(ア)露頭から礫岩層までを岩相の漸移ではなく、礫岩層は八重久保層と解釈した方が良いこと」という見直しから、断層通過地点の修正をしました。(イ)の無名橋前後は、既に、断層の北側ブロックに属していると解釈する方が自然だと考えました。
 それで、無名橋の少し下流の礫岩層は、八重久保層に属します。つまり、八重久保断層は、無名橋の少し下流付近を通過しているのではないかと推定しました。

 また、志賀川上流部の河童淵から姥ヶ滝付近の走向・傾斜(NS走向・W落ち)は、八重久保層に属すると思われますが、それより下流側の一般的な構造と比べると極めて異質です。これらは、凧の峰・玢岩岩体の貫入が後からあった影響だと解釈しました。

               *   *   *

 このような解釈で、調査した範囲の志賀川に分布する駒込層の地質柱状図を作成すると、【前ページ・右図】のようになります。八重久保断層で断たれた部分が、観察できる下位となりますが、修正前の図なので、最下部の『礫岩層』は、八重久保層に属し、含まれません。下流側ほど、駒込層の上位層となります。層厚は、1250m(当初の1277mから、礫岩層付近の27m分を引いた値)と算出されました。
 ちなみに、観察範囲の更に下流側にも、緑色凝灰岩層は露出しています。
  また、駒込層全体の岩相情報や地質構造から見ると、観察した当地域の地層は、駒込層の比較的上部層と思われます。

 地質柱状図を見ると、全体は、凝灰質傾向と凝灰岩層で特徴付けられますが、下位から、
①凝灰質粗粒砂岩や砂泥互層が多く挟まる部分、

軽石(P:pumice)を含む凝灰岩層、

③典型的な凝灰岩層(緑色凝灰岩green tuff) という傾向があり、3分帯できそうです。

最上位③のタイプは、志賀川水系を越えた内山川・相立(あいだて)地域西側から中村集落にかけて見られる川底露頭と類似しています。共に、観察できる駒込層の最上位に当たる層準だと思われます。

  ちなみに、小坂共栄先生(信州大学)たちは、「八重久保断層」は西側ほど落差が大きく、最大1000mに達すると推定しています。
 八重久保断層の北側に分布する八重久保層は、走向・傾斜を見ると、観察した範囲で、東西の端がそれぞれ比較的下位層と考えられ、北側ほど新しい時代の層準となっています。これに対して、断層の南側に分布する駒込層は、西側ほど新しい時代の層準になっています。
 その両者が、八重久保断層を介して接しているから、西側ほど地層年代のずれが大きくなります。当然、落差も増大していくはずです。さらに西側に分布が予想される緑色凝灰岩層を加えていない数字で、私たちの推定した駒込層の層厚は、1250mほどなので、落差1000mという数値は矛盾しないと思いました。

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(2)研究者の間でも、問題の多い八重久保層
 
 志賀川で観察できる八重久保層の最下位の層準は、姥ヶ滝の下流で見られる黒色泥岩層(層厚43m)で、後から貫入してきた玢岩と接しています。また、八重久保沢でも、最下部の層準は断層で切られているので、さらに下位の様子は不明です。何より、八重久保沢(北側)と志賀川上流部(南側)の間は、表土で覆われて露頭が見られないので、それぞれの層準の対応関係が、データーからは正確にわかりません。
 さらに、八重久保川の中流部付近に、断層とも褶曲構造とも、その他の構造にも解釈できそうな部分があり、構造解析が難しいです。具体的には、二股から右股に入った「林道の入口橋(標高905m)」付近で、八重久保川下流側~左股沢と、上流側の地層(下図の右股)は、岩相ばかりか、走向から見ても、対応関係が認められず、繋がりません。それで、ここで分けて扱いました。右股は、香坂層なのかもしれません。
 また、八重久保層は、大局的に見ると、北への緩い単斜構造であるとした方が良さそうなので、志賀川上流部の方が、下位の層準になるだろうと考えました。それで、下図のような地質柱状図(【八重久保層地質柱状図】)を作成してみました。
 (尚、前述の平成29年の修正箇所があるので、志賀川の「八重久保断層」と緑色凝灰岩の間に、礫岩層が加わります。)

 ところで、これまでの研究者の報告について、私たちの調査から、以下のことが明らかになりました。

 笠井 章 (1934年)、および、渡部景隆(1954年)は、『八重久保層は、不整合で駒込層を覆っている』と述べましたが、論文(小坂ら)と、私たちの観察による「推定断層案」を採ると、不整合とする露頭は、観察できないことになります。
 ただ、八重久保層が、駒込層より上位の地層であることは、次の事実からも確実です。
 駒込地区最終集落に懸かる「標高870mの橋」の下から少し上流にかけて、礫入りの凝灰岩層があり、一部の礫種から駒込層から供給されたものと推定できます。

 礫の種類は、①真黒なガラス質安山岩礫(最大径15cm×13cm)、②斑晶が小さく、艶のない黒色安山岩礫(最大径5cm)、③堆積後の続成作用も加わり緑色に変質した凝灰岩礫(最大径7cm×5cm)、④灰白色凝灰岩礫(最大径5cm)の4タイプが認められました。
 この内、③と④の凝灰岩に関係した礫は、駒込層起源である可能性が極めて高く、凝灰岩層が破壊された二次堆積と考えられます。だから少なくとも、二次堆積礫ができるぐらいの地質学的間隙があった(ie,不整合)と解釈できると思います。

 ちなみに、八重久保層の下部層は、駒込層上部に属するとし、駒込層の上部層の「堆積環境の違い」であると考え、八重久保層が、駒込層を平行不整合で覆っているという見解もあるようです。《佐久市誌・自然編・昭和63年発行》
 しかし、私たちの調査から、尾根を越えた瀬早川にも八重久保層・下部層が分布することがわかりました。(後述します。)

 

八重久保層地質柱状図


 

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     【編集後記】

 

凝灰岩の渓谷、無名橋の上流二股付近の滑滝

 

河童淵を下流から望む

※こんなにきれいな風景が、台風19号により、山の木々が倒され、流木がひっかかり、見る影もないほどの姿になっています。(令和3年の夏に訪れた時のことです。)

 

ヒン岩と、やや砂質の黒色泥岩(一部頁岩)の接触部(旧道)

安山岩の板状節理 (旧道)

第一砂防ダム、対岸は緑色凝灰岩の崖

第一砂防ダムの上流は、小さな湖のようになってしまう

 他の項目では、調査した各露頭の代表的な内容を載せましたが、この項は、佐久教育のいうジャーナルに、要点のみにして載せた原稿が元ですので、その他の地点の写真を載せました。

 今日は、午後は、「前山みゆき会」なる定例の3月俳句会があります。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語・第206回

 第3章 志賀川・香坂川流域の地質調査へ


 私たちは、平成4年度(1992年度)から、それまでの南佐久広域調査から拠点調査へと、調査の方法を変えました。南佐久郡誌刊行の為の調査が、一段落したからでした。
 平成4年度は、抜井川の都沢を手始めに、山中地域白亜系のひとつ瀬林層の模式地となっている群馬県の間物沢川の調査を行ない、比較することから佐久地域の白亜系研究が展開していきました。その後、5年間(平成4年~8年)に渡り、抜井川水系の沢を丁寧に歩き、データーを集めました。
 続いて、平成9年~19年の10年間は、内山層の分布する内山川から抜井川水系の北部の沢の調査をしました。北部の内山川水系から、雨川・谷川・余地川と南へ少しずつ調査範囲を広げていきました。矢沢は、平成8年に調査済みでしたが、再挑戦でした。圧巻は、平成17年(2005年)の夏に2度の踏査をした熊倉川です。この秘境は、佐久市群馬県南牧(なんもく)村に所属します。今の私たちには、当時の体力はもう無いので、3度目挑戦は無理でしょう。それだけに、貴重な資料となっていると思います。

駒込集落の東から八ヶ岳(赤岳)を望む



 そして、平成20年度(2008年度)からは、志賀川本流付近の駒込層、八重久保層(H22年~)と、千曲川の東側地域を少しずつ北へと調査の範囲を進めてきています。
 私たちの多くは次々と定年退職し、佐久教育会「地学委員会」会員としての活動参加は遠のきましたが、折りを見て一緒に調査をしたり、その後、不明箇所の再調査をしたりして、資料を集めています。それらも含めて、紹介していきます。

 【長野県周辺地図と調査範囲の概要】(左図)と、次頁の【調査地域・水系の主な沢の名称】を参照してください。点線部分が、調査範囲です。)

長野県佐久市 (本調査域)

 

 

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千曲川の東側(川東)地域の河川名

 

 

 

 

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1.志賀川流域の地質

 4年間、佐久を離れていた私は、平成24年度から地学委員会の調査に復帰しました。当年度は、後述する「瀬早川」や林道「高尾線・南沢線」、「霞ケ沢」が主なフィールドでしたが、地質構造を解読する手がかりは、見つけられませんでした。また、ブランクがあるので、私には内山層分布の北側の様子は、実地に見てみないとわかりませんでした。
 それで9月になってから急に思い立ち、八重久保川へは土曜日・日曜日と2日続けて、翌週の運動会振替で、できた3連休には3日連続して、駒込(こまごめ)から志賀川を遡行し、凧の峰(たこのみね・1292.8m)の南に残る旧市道跡の途中までの実地踏査をしました。それを佐久教育会誌『佐久教育』へ、「ジャーナル」として発表することにしました。
 これには、昨今のクマやイノシシなどの野生動物の出没騒ぎや、放射性セシウム汚染を警戒して、特に「里山離れ」が益々進みそうな世相に抗して、里山散策や沢歩きの楽しさを伝えることも目的にして、志賀川流域の地質を紹介しようと思いました。
 【志賀川~八重久保川付近のルート・マップ】 を参照。佐久教育への寄稿文(原文)は、修正してあります。

                                 *  *  *

 佐久市群馬県下仁田町との県境・物見岩付近にある志賀牧場~内山牧場~神津牧場は、歴史のある牧場です。今日では観光牧場として人気があります。市街地から、ここへ至るには、いくつかルートがありますが、農林省「長野種畜牧場」から、志賀集落を経て、駒込集落の北側にできたバイパスを経由するのが、道路状況も良く一番早いと思います。
 かつては、駒込集落の中を抜けた後、志賀川に沿って東進し、凧の峰(1292.8m)付近では、つづら折りとなり、狭い谷筋を縫うようにして、内山牧場へと市道が繋がっていました。その頃、設置されたのか、夏草の中に観光案内の看板が立っていました。草を多少かき分けますが、遊歩道らしきものも残っていました。

【写真-①】凝灰岩の渓谷

 

 志賀川上流域の岩相は、凝灰岩層および凝灰質砂岩層が主体で、一部に泥岩層を挟んでいます。特に、標高895m付近の「無名橋」より上流では、凝灰岩から成るU字谷渓谷が見られます。水量が少ないので、残念ながら半分だけです。(【写真①】参照)
 そのさらに上流へ進んだ標高938m付近には、『河童淵(かっぱぶち)』と呼ばれる二段の滝があります。浸食されて上流側にできた滝壺(【写真②】)の水深は推定3m、西側の縁が内側に削られています。滝壺から溢れた沢水は、下の小滝へと流れ出ています。水の勢いが弱いので、勇気を出せば潜れそうな気もしますが、底まで透き通っていることが、寧ろ不気味で、神秘的です。河童淵という命名は、妙を得たものだと納得してしまいました。
 これらは、海底火山の噴火で噴出した火山灰が、いくぶん海の上を流され海底に堆積したものです。変成(変質)の程度は典型的ではありませんが、大谷石(おおやいし)という名前で知られる緑色凝灰岩とほぼ同じものです。
 随所に滑滝(なめたき)もあり、少々野生味を好む子どもを遊ばせるのには、適当な場所です。有名な景勝地となるには水量不足だと思いますが、凝灰岩地帯特有の素晴らしい浸食地形です。

【写真-②】河童淵の滑滝を登る

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 凧の峰(たこのみね)・玢岩(ひんがんPophyrite)が出てくる標高980m付近には、『姥ヶ滝(うばがたき)』と呼ばれる落差12mの滝があります。(【写真③】)
玢岩が造瀑層となっています。

【写真-③】姥ケ滝

 高所が好きな人なら登攀してみたくなる自然滝ですが、背後(990mASL)にあるコンクリート砂防ダムが重なって見えてしまいます。滝とダムとの間に旧市道が走り、その安全確保の為には不可欠な構造物だったのでしょうが、美観という点に関しては、完全に興ざめしてしまいます。
 その先は未踏査ですが、地形図によれば、沢筋は、ほぼ玢岩岩体との境に沿って延び、長野・群馬県境の物見岩(ものみいわ1375.4m)に至ります。
 駒込地区と内山牧場を結ぶ旧道は、アスファルト舗装こそ残っていますが、荒れ果てて草茫々です。替わる新道が、凧の峰の北側に敷設されたので、無名橋から500m奥に「車両進入禁止」の表示がありました。地元の方が立てた「河童淵・姥ヶ滝」案内板は、その300m先にあります。

 ところで、近年、佐久市内でもニホンジカによる食害被害は深刻な問題です。当地域でも、民家に隣接する畑にシカの足跡があるのは普通の出来事です。侵入防止柵(ネット)や、最先端技術のソーラー発電による高圧電気柵でも、まま成らない状況です。
 山中には、かつて炭焼きや山仕事で使った人の踏み分け道が残っている所もありますが、今では、だいぶ失われています。代わりに、シカの通り道(獣道)が増え、私たちが利用させてもらっています。ヒトと違って動物は、必要以上に道を広げません。1頭が通過しても、草木の弾性でほとんど元に戻ってしまいます。だから、人が歩けるほどの小径となるには、頻繁に利用している証拠です。餌を求めて動き回ることが、彼らの日常生活だとは言え、獣道は、まさに「森のハイウェイなんだ」と思うこと、しきりでした。

 

 

    【編集後記】

 今回は、「はてなブログ」に載せるのに、たいへんなハプニングがありました。

何と、最後の【写真-③】以外の図版や、写真の元のファイルが紛失して、ありませんでした。

そこで、既に紙ベースで打ち出してあるものを、スキャナーで読み取り、写真加工をして載せることになりました。

 その為、写真の緑色凝灰岩(グリーン・タフ)の色が、本来の色より赤味がかってしまいました。

 原因は、この凝灰岩の渓谷に私の娘を連れて、入りました。図版も含めて、写真など

も、人物が写っているものと、そうでないものに分けて、別のフォルダーに移していて、肝心なファイルを消してしまったものと思われます。

 逆に、ブログに載せるために、図版や写真を確認していくことで、不足していたことがわかりました。かなり、整理して保存しているつもりでも、写真の場所を見つけてくるのは大変なこともあります。

 今日は、そんなハプニングがあったので、午後の散歩にいかれませんでした。(おとんとろ) 

 

 

 

佐久の地質調査物語・第205回

 

  第2章 佐久地方の新第三系

 

 平成20年度以降、私たちの地質調査は、内山層から、主に駒込層および新しい時代の地層(八重久保層・香坂層・兜岩層ほか)へと対象が移りました。調査した内容の具体は、これから順に述べていきたいと思いますが、先だって「日本海の成立(第1章)」で話題にしたように、新第三紀以降、日本列島が日本海を拡大しつつ、大陸との相対的位置を変えてきたことを意識して、佐久地方の地質概要を眺めてみたいと思います。


1.日本海拡大前の「山中地域白亜系・佐久地域」

 

 日本海の拡大前(白亜紀後期~古第三紀~新第三紀暁新世)には、後の日本列島はユーラシア大陸の東縁にあり、中央構造線や、その他の構造線は、【図-下】のように南北方向に延びていたと推定されています。
 山中地域白亜系は、黒瀬川構造帯の一部に属していて、中央構造線の東側(太平洋側)にできた、横ずれ断層などによる凹地が堆積盆となって、白亜紀前期(高知世~有田世~宮古世)に形成されたと考えられています。
 基盤岩となるジュラ紀の付加体(御座山層群・白井層の後背地=新三郎沢層)の上に、白亜系の白井層、石堂層、瀬林層(一部で上部層を欠く)、三山層(佐久地域では上部層を欠く)が重なっています。

日本海拡大前の地体構造(再掲・大藤 茂 教授の原図)

 【図-下】は、基盤岩と白亜系の境となる蛇紋岩帯断層と、褶曲構造が形成される前の姿がわかるように復元したものです。山中地域白亜系は形成された後、日本列島が移動する過程で、90°近く右回転してしまったので、元の方向に戻るように、90°反時計回りに回転させました。現在の方位では、図の上が東側、山中地域白亜系分布の群馬県側となり、図の右が南側、ジュラ紀付加体(御座山層群)が分布する地域です。
 山中地域白亜系の堆積盆は、当時の方向で、北側(図の上)と西側(図の左)に広がり、湾状に海が浸入していたと推定できます。一方、佐久側の調査から、堆積物の供給方向は、東側(図の右)および南側(図の下)からだとわかりました。
 最上位の三山層の堆積時期は「宮古世」に当たり、凡世界的な海進(宮古海進)時期に相当します。しかし、佐久地方では、石堂層の分布域を超えることはなく、かつ三山層上部層を欠いています。佐久地域は、全域の中の南端に位置し、堆積盆が早めに陸化に向かっていた結果かもしれません。
 その後、全域は陸化して削剥期間があり、この間に、褶曲構造を形成するような圧縮を受け、地層は変形と共に、断層による変位・移動もありました。
 白亜系の褶曲構造の特徴から、当時の方向で、東側(図の右)からの地塊が、潜り込むような力に対して、西側(図の左)からのやや上向きないし、覆い被さるような応力が働いていたのではないかと推定できます。

 

佐久地方の白亜系(復元図)


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 つまり、現在分布している方向でみると、【図】のように、褶曲(背斜・向斜)面が著しく南側に傾いた非対象な構造になっています。

 

 これらの構造が形成された時期は、7000万年前(白亜紀後期):北上していたイザナギ・プレートの移動する方向が北西方向に変わり、四万十帯の付加体が、海溝で形成されるようになった。中央構造線が形成された時期以降になるのか、または、その後のことかもしれません。3000万年前(漸新世前期):大陸から離れ始める。2500万年前(漸新世後期):イザナギプレートが消滅し、太平洋プレートとフィリピン海プレートができてきた。これに伴い、伊豆・小笠原弧(海底火山列)ができた。日本列島の西南日本東北日本は、一列に並び、北海道はまだ合体していない。大陸の内部に細長い湖ができていた時期まで、かかって形成されたはずです。
 いずれにしろ、当時の方向で、ほぼ東西方向(復元図の左右)からの応力による、地層の褶曲・断層が形造られたのではないかと想像します。尚、一部の断層は、内山層の堆積後にも活動していたと考えられる証拠があります。

 

2.日本海のでき始めの頃と「内山層」

 

 1700万年前(新第三紀中新世前期):ユーラシア大陸の東縁で「地溝」ができ、日本海ができ始めました。地下のプレートの動きによって、断層群による大地の割れ目が大地を引き裂きました。その後、極めて短い間に、日本海は拡大が進みました。
 1500万~1450万年前(中新世中期):日本列島は西南日本東北日本の間で、移動しながら折れ曲がるようになります。西南日本は、時計回り(右回り)に、東北日本は、反時計回り(左回り)に、回転したことが、地磁気などの証拠から明らかにされています。
そしてこの後、日本海の拡大は、一応収まります。オホーツク海も拡大して、千島弧ができました。また、伊豆・小笠原の海山列が移動して衝突が始まりました。
 
 800万年前(中新世後期):伊豆・小笠原海山列の衝突が続き、千島弧の前部が北海道に衝突しました。中新世中期(1200万年前頃に最盛期となる)の「グリーン・タフ変動帯」の緑色凝灰岩層(まだ海底)の上で、カルデラ活動が盛んに起こっていました。

 さて、佐久地方では、山中地域白亜系の中央構造線寄り(現在の方向で北側)には、海成層の「内山層」が分布しています。さらに、より北側には新しい時代の地層(八重久保層・香坂層など)が重なります。
 この「内山層」の形成された時代は、1900万~1600万年前(中新世前期)と言われています。形成時期に注目すると、内山層は日本海ができ始める少し前に堆積が始まり、堆積中は、日本列島全体と共に移動しつつあったことになります。
 そして、内山層の堆積に引き続き、ほぼ整合的に漸移して堆積した「駒込層」の時代には、西南日本東北日本とに分かれて大きく回転するように動いていく日本列島(西南日本に属する)の上で、大陸との相対的位置を大きく変えていったと考えられます。

                                        - 12 -

 

 ちなみに、日本列島全体(特に、東北日本日本海側)では、緑色凝灰岩層の堆積した最盛期(グリーン・タフ活動)は、1200万年前頃と言われています。しかし、佐久地方での緑色凝灰岩層は、駒込層で特徴的に見られます。(佐久地方に隣接する上小地域では、同等層準として内村(うちむら)層が知られています。)
 上位の「八重久保層(上部層)」の溶岩の地質年代情報(12.2Ma~12.4Ma)があるので、日本列島全域でのグリーン・タフ活動時期の中で、いくぶん早い時期に、海底火山活動に伴う緑色凝灰岩層の堆積が始まっていたのかもしれません。

 内山層の堆積盆は、現在分布する方向で見ると、南と北からと西側から堆積物が供給され、東側の群馬県側に開かれた海があり、内山層と対比される下仁田層などの堆積盆とも繋がっていた時期もあると考えています。

内山層の堆積物運搬の2系列(仮説)

 【上図】は、現在の方向(上が北方向)なので、白亜系の図版で行なったように、反時計回りに90°回転させると、当時の方向になります。すなわち、当時の方向では、北(右)・東(下)・南(左)・西(上)となります。
 山中地域白亜系と同様に、日本列島が移動する前に堆積した内山層だとすれば、当時の方向で、北側に海が広がり、南側を中心とした西・南・東の3方向から堆積物が供給されたと推定できます。
 私たちの観察から、特に、当時の南側からの堆積物に粗粒物質が多いという情報(例えば谷川)から、中央部に浅瀬があり、コングロ・ダイクの混濁流は、その両側2系列からもたらされたと思われます。当時の北に向かって広がっていた海の大きな入江の陸側になります。

                               *  *  *  *

【閑話】 コングロ・ダイクの礫は、どこから供給されたのか?

 内山層下部層で、「小規模な棒状のものから、最大で厚さ1.2m・幅5m・長さ15mほどの直方体か層状だと推定できる礫岩層」が、正常に堆積した黒色泥岩層の中に、不調和に貫入している産状が、頻繁に見られます。礫岩(コングロメレイト)が、岩脈(ダイク)のように見えるので、コングロ・ダイクとフィ-ルドネームで呼ぶことにしました。私たちは長年、調べてきましたが、その原因が解明できていません。
(詳しくは、「続・佐久の地質調査物語」の中の項目を参照してください。)
 ここで、話題にしたいのは、異常堆積構造としての特徴より、コングロ・ダイクの礫種構成の特徴が、佐久地域のどこでも見られる礫岩層と違っていることです。
 それに対して、堆積層の形成される常識に従って見ないで、『日本海を移動してくる前の大陸の中か、日本海に沈んだ地域からのものとするくらいの奇抜な発想をしてみたら?』という助言をしてくれた友がいます。

 

 次の頁に、「山中地域白亜系を中心とした佐久地方の地質」(佐久の地質調査物語から)を載せました。下部白亜系の層序や、内山層の関係、断層や褶曲構造の形成時期などについて参照してください。
 また、その次の頁に、佐久地方の新第三紀~第四紀の主な地層の層序と、佐久を代表する3火山(荒船山八ヶ岳浅間山)の話題を記入した「地質学的歴史年表(Geological Time Table)」を載せました。絶対年代については、比較的、流布している数値を選んだつもりですが、文献や研究者によって、異なる場合もあるようです。

                                   - 13 -

佐久地方の新第三系(修正版)

 

 

  編集後記

 佐久の地質調査物語では、「山中地域白亜系」の後、「内山層」を扱いました。

 この段階では、「日本海の成立」という考えがイメージがありませんでしたが、もう少し新しい時代を扱うようになり、内山層の堆積する時代は、日本海が形成されつつ、後背地も一緒に動いていることを強く意識しました。

 これって、地球の自転レベルでは、公転のことを意識しないで、また、銀河系の中での回転の中に太陽系全体が回転していることを知らないという感じです。しかし、地球の大地は、どんなレベルから見ても動いていたのです。

 慣性系の中で生活していると、私の場合、類似したサブ・ルーチンの退屈さから、時には、別なものを求めるのかもしれません。今日は、天気が良いのに散歩をしないで、だらだらしていたことを後悔しています。明日は、すっきりとして過ごしたいと思っています。  (おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語・第204回

第1章 日本列島の成り立ち

 

5.大和堆の存在と、日本海を拡大させた営力

 地球上の海と陸は、元々成分組成の異なる地殻でできていて、マントルの上に釣り合うように浮かんでいるようなものです。(アイソスタシー・isostasy)
 だから、日本海という海の中に、陸地と同じ組成をもつ「大和堆」が存在していることについて、大陸地殻と海洋地殻が入れ替わる仕組みを考え、諸説を提案した経緯もありました。
 今日、プレート及びプルーム・テクトニクスの考え方では、次のように説明しています。

日本列島が大陸から離れるモデル

 吉田晶樹(地球物理学)・日本海洋開発機構主任研究員:                   
①地球最大の太平洋プレートは、ユーラシアプレートに沈み込んでいるが、物質の相転換換のある670km付近までくると、湧き上がるような動きをする。     

②湧き上がる対流は、ユーラシアプレートを太平洋プレート側に引き延ばそうとする。
やがて、薄くなって裂けると、それらを移動させ、日本海は拡大した。     

③割れた部分は海洋地殻(玄武岩)が埋めた。大和堆は、プレートによって移動させることができずに、残してしまった大陸地殻の一部である。                     

日本海の海底の様子・大和堆の位置

 移動する日本列島を追いかけてきた大和堆を、約800km北西方向へ戻すと、ウラジオストク辺りの沿海州の地形と、ぴったりと合うと言う。
 A.ウェーゲナーが、アフリカ大陸のギニア湾付近と、南米大陸のブラジル辺りを合わせてみて、隙間無く合わさったのと同じ原理です。
 また、海洋底を生み出すような上部マントルの上昇が3000万年前(漸新世後期)~1500万年前(中新世中期)の間であり、海底では玄武岩が多量に噴出して海洋地殻を作ったと思われます。

 

                       *   *   *

 

 日本海の拡大に伴い、今日の地体構造を分ける構造線(断層)の関係がわかりやすく説明されている資料(大藤 茂 ・富山大学教授)がありますので、紹介します。
 【図-下】は、日本海拡大前の復元図です。日本列島と大陸・沿海州との地体構造の関連性、及び、中央構造線からシホテアリン断層までの各断層の関係が、よくわかります。

日本海拡大前の地体構造・(復元案)

 離れた所にあった領家帯(内帯)と三波川帯(外帯)を区切る中央構造線(古MTL)は、棚倉構造線~バルチザンスク断層~シホテリアン中央断層へと繋がっているように見えます。また、古い時代の基盤が残る飛騨帯(内帯)に対して、東北日本阿武隈・南部北上帯の中を、畑川(双葉)構造線~シホテアリン断層へと繋がる構造も見えます。
 これらの構造線は、日本海の拡大に伴い変位して、【次頁:付加体の分類と分布】のようになりました。かつては、南北方向に近い状態で連続した位置関係が、日本列島の折れ曲がりによって、「ねじれの位置」のようになっています。

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【凡例】1 飛騨変成帯(大陸の一部?) 2 三郡変成帯(変成を受けたペルム紀付加体)

2' 上越変成帯3 山口帯(ペルム紀付加体) 4 舞鶴帯(ペルム紀三畳紀陸棚相) 5 丹波・美濃帯(ジュラ紀付加体)5' 足尾・八溝帯(ジュラ紀付加体) 6 北部北上帯(ジュラ紀付加体) 6' ジュラ紀付加体?7 領家帯(変成を受けたジュラ紀付加体)  8 三波川帯(変成を受けたジュラ紀付加体) 8'西彼杵帯 9 秩父帯(ジュラ紀付加体) 10 三宝山帯(ジュラ紀付加体) 11 四万十帯(白亜紀第三紀付加体) 
12 阿武隈帯(先白亜紀陸棚相・ジュラ紀付加体を含む) 13 南部北上帯(先白亜紀陸棚相)14 神威古潭帯(変成を受けたジュラ紀付加体) 15 幌加内オフィオライト(ジュラ紀末海洋底)16 蝦夷層群(白亜紀砕屑相) 17 日高帯(白亜紀付加体) 18 湧別帯(白亜紀付加体)19 日高変成帯(第三紀に衝上した島弧地殻) 20 常呂帯(ジュラ紀付加体) 21 根室帯(白亜紀末~第三紀初頭弧海盆) 22 伊豆・南部フォッサ・マグナ新生代衝突・付加体(島弧地殻を含む)
A;飛騨外縁構造帯  B;長門構造帯  C;中央構造線  D;黒瀬川構造帯  E;フォッサ・マグナ 
F;棚倉構造帯     G;双葉構造線  H;早池峰構造帯

 

 ところで、別な見方をすれば、中央構造線、棚倉構造線、畑川構造線、さらには仏像構造線(ジュラ系と白亜系を分ける)は、かつて海洋プレートが日本列島の下に付加体を押し込み、「海溝型巨大地震」を発生させた、堆積物とプレートの境界面だったとも考えられます。次の付加体で押し上げられ、侵食され、地表で観察できるようになったのだと思います。

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【参考】日本の地質区分  

                        (インターネット資料から)

 

 

 【編集後記】

 今回(第204回)も、インターネット情報やNHK番組視聴で知り得たことを、私が理解できる程度のレベルで、解説した内容です。
 前回の「編集後記」では、同じ地球儀や地形図(作成方法の違い)でも、どちらを上にしたり、中心にしたりして見るかによって、かなり違うように見えて、そのことから新たな発想を生み出してくれたという話題でした。そして、日本海東シナ海の違いがわかりました。

【図-③】オホーツク海の海底の様子

  最後に、オホーツク海(【図-③】の話題です。

 オホーツク海は、北は大陸(シベリア)、西はサハリン(樺太)~北海道、南は千島列島、東はカムチャツカ半島で囲まれた海域です。
 水深2000mを越える深海部分は、千島列島の北側にあり、「千島海盆」と呼ばれている。水深2000m~3000mに至る海盆の周囲は、傾斜20°に近い急傾斜で、一気に深海底になる。(ちなみに最深部は、3374mの記録がある。)こんな深海なのに、既に、厚さ5000mの陸上起源の堆積物があると推定されている。
 千島海盆の北側には、水深1000m~500m(200m以上~500m)の海底が広がり、さらに、北の大陸側は、水深200m以浅となる。
 東西の陸域、カムチャツカ半島やサハリンの海岸からは、比較的、浅海部分が少なく、深海へと移行している。

 ところで、オホーツク海と言えば、冬の終わりから春先にかけての「流氷」が有名です。オホーツク海へは、間宮海峡の北端付近に、大河アムール川(黒竜江)の河口があって、アルタイ山脈以東の広範囲の陸水が流れ込んでいます。大量の淡水は、海水より密度が小さいので、海水とはすぐに混じらずに、水深50mくらいまで、塩分濃度の低い表層水域を作ります。冬になると、海面には、シベリアからの−40℃以下の寒気が吹き付けて、オホーツク海の西側沿岸付近の海水が冷やされます。その結果、塩分濃度の低い水は凍結して、氷の塊にまで成長します。
 オホーツク海は、周囲を陸域で囲まれているので、河口の沿岸でできた氷塊は、季節風と海流によって運ばれ、海面を流氷で覆い尽くします。それらの一部は、風と海流によって南下して、北海道の沿岸に流れ着きます。
 沿岸で流氷が確認できた最初の日は「流氷初日」と言い、平年だと1月中旬から下旬頃で、1月下旬から2月上旬頃には接岸(「流氷接岸初日」)します。一方、春が近づき、沿岸から見渡せる海域の流氷が5割以下となって、船舶の航行が可能になると「海明け」が宣言されます。最後に流氷が見られた日が「流氷終日」です。

 

                     *   *   *   *

 

 話は変わります。オホーツク海の深海部、すなわち「千島海盆」を見ていて、疑問が湧いてきました。
 (ア)なぜ、千島海盆は、千島列島に添った北側にあるのか? 
 (イ)なぜ、水深が2000m~3000mに至る海盆の周囲は急傾斜になっているのか?(海溝ほどではないにしろ、陥没したり、割れ目ができたりしているような構造をしている。)
 (ウ)千島海盆のような存在は、千島列島のような「島弧」に対して「背弧海盆」と言うが、そもそも、どんなメカニズムで形成されるのか?(前述の東シナ海で話題にした「沖縄舟状海盆」は円弧を成しているが、千島海盆も列島の伸延方向(NE-SW)に添って、底辺が短く高さの高い三角形のような形状をしている。) 

 ・・・そこで、インターネットで、いくつかのキーワードを検索中に、地学雑誌(1985)「千島弧と千島海盆~上盤プレート回転、後退と背弧海盆の拡大~(木村学・玉木賢策)」を見つけました。論文の前半内容は、難しくてわかりませんでしたが、千島海盆形成の概要は、私なりに理解できたので、研究の詳細には触れずに、私が理解できたレベルで説明します。(説明図は、原図を元にさらに簡略化したものです。)
                  

 大雑把な言い方をして、「千島海盆」は、地質時代の漸新世~中新世(中期)の間に形成されたと考えられています。≪熱流量から24Ma~27Ma以降と推定される。≫
 (※日本海の成立も、ほぼこの頃ですが、詳しくは、調べて後日に報告します。)

 背弧海盆である「千島海盆」の形成は、当時の「オホーツク・プレート」が、カムチャツカ半島の少し南西付近を中心とした「時計回り(右回り)」の回転をした為、海底(大陸地殻)が裂けるようにして拡大して、海洋地殻の場所となって、海盆となったという説明です。 (【図-上】を参照)

 陸上での地質調査の結果では、オホーツク海の北西~北の大陸側では「左横ずれ断層」が顕著です。一方、北海道東部~サハリンの地域では、「右横ずれ断層」が認められます。 この時、「北海道~サハリンの動き」は、アジア大陸側が不動とした場合なら、真逆の動きとなってしまう上に、オホーツク・プレートが時計回りに回転しているので、さらに矛盾する。この矛盾した「右横ずれ断層の動き」を説明するには、(ⅰ)オホーツク・プレートが南下したか、(ⅱ)相対的にアジア側(アムール・プレート)が北上したかである。
 そこで、木村博士は、少し前の時代の、大規模なインド大陸がアジア大陸にぶつかり、ヒマラヤ山脈を形成した大変動により、ブロック化された「アムール・ブレート」の北上(北東方向)を想定しました。これにより、対立する断層の動く方向についての問題は解決しました。

 一方、プレート・テクトニクスによる、「オホーツク・プレート」の時計回り(右回り)があったという仮説は、現在の地形を合理的に説明できるように思いました。

北海道の市町村と姉妹都市から引用

 (ア)カムチャツカ半島の中軸部「スレジニー山脈」は、かつて、オホーツク海側(西)とペーリング海側(東)の陸地が合体するようにして中央に山脈が形成されたようだ。
 (イ)千島海盆の形は、南西側を底辺とし、高さ(北東方向)が高い二等辺三角形のような形をしている。これは、千島列島の前弧プレートと、背弧プレートが分離して、あたかも扇を広げた時のように、「千島海盆」が広がったと解釈できる。
 (ウ)サハリン(樺太)の中央部は、凹地となっている。
中央部は、かつての「右横ずれ断層」の名残であろうか? ふと、成因は違うが、日本海に浮かぶ「佐渡島」は、並列する大・小佐渡山脈の間「国中平野」の中央凹地があることを連想する。

国中平野の存在


 
(エ)北海道とサハリンの方向関係を求めると、北海道には、東側「北見山地日高山脈」と、西側「天塩山地芦別岳・夕張岳」の2系列の山地が南北にあり、その間は、名寄盆地・上川盆地富良野盆地などの中央凹地があるが、それらの関係は、(ウ)の内容とも関連があるように思う。
 共に、火山活動などによる高地の形成ではない点が共通している

 

 日本海の海盆と比べると、オホーツク海の方が、単純である。千島海盆が、海域の南東端、千島列島の北側にある。
 一方、日本海では、大和堆の存在が特異で、それを囲むように3つの海盆がある。
日本海大和堆と海盆については、本文で「仮説」を説明してある。2つの海域の形成については、まったく別な考えが述べられている。

 

           *  *  *  *

 「編集後記」で、日本海のことを調べている内に、東シナ海オホーツク海のことも気になってきて、内容が随分と膨らんできた。日本海のことは、まだ読んでいない論文もある。それらも、まとめて、これらを新たな章の下の「節」にしようかと考えた。

 最近になく、2日連続して「はてなブログ」を挙げることができた。今日は、午後、雨が降ることがわかっていたので、昼前に散歩に行ってきた。出かける時に、少し小雨が降りだしてきたので、軽トラででかけ、冬田道の周回コースを歩くことにした。

 今朝、You Tube番組で、健康の為、膝関節の為、「散歩は、8000歩も歩けば十分で、10000歩を越えて長く歩いても効果が出にくい。寧ろ、膝が痛いようなら逆効果だ」という情報を得た。それで、私の歩くペースを計測してみることにした。

 歩数を数える(カウント)のに、1歩ずつでは煩雑なので、行進で4歩進む間に、数をゆっくり数えるようにした。それで、軽トラの駐車場所から諏訪神社経由でスタート地点に戻ると、正確には895回だが、約900回とし、歩数は900×4=3600歩とした。所要時間は、30分弱であった。時速は、5km/時前後となる。

 次に、コースを軽トラで回ってみると、約2.4kmあった。※軽トラの計測は、単位がkmなので精度が低いが・・。およそ、2400m/3600歩≒0.66m/歩であった。私の一歩は、66cmぐらいになる。

 ちなみに、私は地質調査で「ルート・マップ」を作る必要上、意識的に自然体で歩く時の歩測の経験がある。それは、かなり正確で、70歩で50mである。短い距離なら、7歩で5mとなるが、割合、正確であるのは確かめてある。「0.71m/歩」となる。

 そうなると、散歩の歩行だと、やや速足で、少し歩幅が狭くなっているようだ。

少し、散歩と歩測の違いに興味が出てきたので、これからも調べていこうと思いました。(おとんとろ)

 

 

佐久の地質調査物語・第203回

    ( 第1章 日本列島の成り立ち )

 

4.日本海の成り立ち

 

(1)飛騨片麻岩・隠岐片麻岩・沃川片麻岩の類似性

 

朝鮮半島の地質概念図

 【図-上】は、朝鮮半島の地質構造の概要を示したものです。「地塊」というのは先カンブリア時代の古い岩石からなる安定した岩盤地帯(クラトン・Craton)のことです。(地震の少ない地帯でうらやましいです。)また、平安盆地や慶尚盆地は、主に白亜紀以降の地層が堆積している所です。

 ところで、沃川帯(オクチョン・Ogcheon Belt)に注目すると、片麻岩(へんまがん・gneiss)が、見られます。片麻岩は、広域変成作用でできた変成度が高い変成岩で、縞状構造が見られます。「黒雲母片麻岩」のように主要鉱物名を付けて呼んだり、「泥質片麻岩」というように構成物を強調して呼ぶこともあります。

 この片麻岩と極めて良く似た岩石が、日本海隠岐島後(とうご)島と、飛騨地方で見つかります。それぞれ、地名をつけて隠岐片麻岩・飛騨片麻岩と呼ばれます。

 泥質片麻岩の中に含まれているジルコン(zircon)という鉱物を、ウラン-鉛法(U-Pb)で年代測定をすると、古いものは20億~30億年前の年代を示しました。これは変成される前、ジルコン粒子が泥や砂と一緒に海底に堆積したものですが、堆積物を供給した花崗岩などに含まれていたジルコンの年代で、花崗岩ができた年代を示しています。現在の日本列島には、そんな古い時代の火成岩は無いので、日本列島がアジア大陸の一部であった時代に、大陸の古い花崗岩から供給されたと考えられます。

 また、飛水峡(岐阜県加茂郡七宗町)のチャート(三畳紀ジュラ紀)が、ロシアの極東、ハバロフスクのチャートと極めて良く似た産状をしていると言います。

 つまり、現在の飛騨地方や隠岐は、かつて大陸の一部か、かなり接近した位置に存在し、朝鮮半島南部の沃川片麻岩と連続していたと考えられます。さらに、飛騨地方はロシアの沿海州と繋がっていたことも考えられるのです。


(2)プレートの動きが変わる

   (~イザナギ・プレートの消滅)

◆7000万年前(白亜紀後期):北上していたイザナギ・プレートの移動する方向が、北西方向に変わり、四万十帯の付加体が、海溝で形成されるようになった。
 中央構造線が形成された。

◆3000万年前(漸新世前期):大陸から離れる。◆2500万年前(漸新世後期):イザナギプレート が消滅し、太平洋プレートとフィリピン海プレー トができてきた。これに伴い、伊豆・小笠原弧(海 底火山列)ができた。日本列島の西南日本と東日本は、一列に並び、北海道は、まだ合体していな い。大陸の内部に湖ができていたらしい。

 ちなみに、日本の主な石炭産地は、北海道・常磐 九州北部であるが、石炭のつくられ始めた時代は、 古第三紀・始新世(5600万年~3390万年 前)である。北海道の夕張炭田の場合、海溝と陸 地の間の地向斜のような所で堆積したと推定されている。

2500万年前 (古第三紀・漸新世)

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(3)大陸に地溝ができ、日本海が拡大し始めた

◆1700万年前(新第三紀・中新世前期~中期): ・・・内山層が堆積している頃です。
 ユーラシア大陸の東縁で「地溝」ができ、日本海ができ始めた。地溝は、graben(小規模) rift valley・rift systemと表記されるが、断層群による大地の割れ目のことで、地下のプレートの動きによって、大地が引き裂かれ、離されている場所です。
 その後、極めて短い間に、日本海は拡大が進みました。

 日本海の拡大していく様子は、約1500万年前(中新世中期)より古い時代の溶岩や火成岩を使い、地磁気の記録を調べることにより、明らかになってきました。東北日本は、反時計回りに回転し、西南日本は、時計回りするようにして、太平洋側に移動しました。また、北海道は、西部・中部・東部が、現在の姿に近づくように接近していきました。

1700万年前 (新第三紀・中新世)

 

◆1500万~1450万年前(中新世の中期):
 日本列島は西南日本東北日本の間で、折れ曲がるようになります。この頃、日本海の拡大は、一応収まります。オホーツク海も拡大して、千島弧ができました。また、伊豆・小笠原の海山列が移動して衝突が始まりました。

日本海の拡大(観音開き)

 

◆1400万年前(中新世の中期):西南日本が回転 しながら移動してくるタイミングで、フィリピン 海プレートの上に乗り上げるような状況になりました。基盤岩の下では花崗岩質マグマが大量にで きました。密度の軽いマグマは基盤岩を押し上げ ます。そして、カルデラ噴火、または破局噴火(Ultra plinian)とも呼ばれる大規模な噴火が起きました。この跡は、東海地方から紀伊半島・四国・ 九州の一部に残されています。

◆800万年前(中新世後期):伊豆・小笠原海山列 の衝突が続き、千島弧の前部が北海道に衝突しました。中新世中期の「グリーン・タフ変動帯」の緑色凝灰岩層(まだ海底)の上で、カルデラ活動が盛んに起こっていました。

◆500万年前(鮮新世前期):火山列で今日確認される最後の衝突があり、丹沢山地を形成していきました。南西諸島に海水が浸入しました。

500万年前(新第三紀鮮新世)

◆300万~200万年前(鮮新世後期~第四紀・更新世):フィリピン海プレートの北進が止まり、
 太平洋プレートの沈み込み位置が西へ移動した。
東日本の「東西圧縮」が始まり、日本海側の陸化、山岳の隆起が起きました。

 

◆18000年前(第四紀・更新世末):フィリピン海プレートの動きが、北西から西向きに変わった。北米ブレートと太平洋プレートの境界は、少しずつ西側に移動し、現在の姿に近づいてきました。
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日本付近のプレート

【編集後記】

 今回(第203回)も、インターネット情報やNHK番組視聴で知り得たことを、私が理解できる程度のレベルで、解説した内容です。ただ、こういった地球規模での地質学的歴史(地史)がわかると、知的好奇心が高まると共に、今までなかった視点にも気づかされます。

 そのひとつは、地球自体や地球上の対象物を、今までとは違った方向から見ることで、新たな視点がきっかけとなって別な発想が生まれます。
 前者は、今では遥か昔になった大学生の頃、樋口敬二氏(北大・中谷宇吉郎先生の門下生で、当時は名古屋大学教授)の著した「地球からの発想」を読んだ時に体験しました。
(ちなみに、1973年日本エッセイスト・クラブ賞に輝いた著書で、自然科学研究を通しての貴重なエピソードが盛られていて、まさに、エッセイ(随筆)と言うべき内容でした。)
その中で、感動的だったエピソードは、『地球儀を北極を上にして見るのではなく、南極を上にしたり、他の場所を上にして見る』と言う記述でした。そして、地球の現在の大陸配置が、一番氷を貯めやすい配置であるという見方でした。(これには納得です。)
 後者は、ふだん見慣れている地図でないものを見たり、北が真上という地図を回転させて反対側から見たりしてみるという体験です。
 【図-下】は、球体の地球を平面で表現しようとする時、高緯度地方ほど実際の面積が拡大されてしまうという欠点を補う為に、いくつかに分割して作られた「グード図法」による世界地図です。ふだん多く見る「メルカトル図法」による地図では、グリーンランド(デンマーク領)やロシア共和国(広大なシベリアなど)が、とても大きく見えてしまいます。

「グード図法」による世界地図

 また、私たちは、日本列島と太平洋が図幅の中央になる地図を見る機会が多いので、ヨーロッパを西欧と呼ぶことに違和感がありませんが、日本が極東にあるという認識がなかなか湧きません。欧米を挟んだ大西洋を中心にすれば、本当に東の端に日本列島はあります。その意味で、ただの東側ではなく、極東(Far East)なのです。
 これは、差別・偏見の類ではありません。実際、同じ位置関係にあるのに、どこを中心に見ているかによって、そう見えてしまっているからに過ぎません。
 この時、インターネットで、大変に面白いソフトウェアを見つけました。自分の見たい場所の緯度・経度を入力して、そこを中心点とし、さらに自由回転ができるものです。
 【図-下】は、私の住む長野県佐久市を中心とし、中国の黒竜江省の哈爾濱(ハルピン)市から佐久市を見たら、それぞれの地域が、どのように見えるかに設定した時の図です。

中華人民共和国黒竜江省の「ハルピン市」から見た地図



 今まで普通に見てきた地図では、「太平洋の西端に日本列島が南北に連なり、日本海を隔ててユーラシア大陸が、どーんと構えている」という風に見ていました。
 ところが、中国の哈爾濱(ハルピン)から日本を見ると、「あたかも汽水性の大きな湖のような日本海があり、しかも、日本列島は太平洋の荒波に対する防波堤のように」見えてきます。本質的な位置関係は、まったく変わらないものの、日本列島が独立した存在というより、大陸に付随した島や半島のようなイメージで見えてくるから不思議です。

 【図-下】は、意図的に日本列島をユーラシア大陸側から見る視点で、真上を東南東にして表した地形図です。陸上部では、平野と山岳地域の区分、海洋では水深200m以下の浅海か否か(深海)の区分を示しています。

 

 詳細に見れば、いくつかの話題を見つけるかと思いますが、私は、『同じ海洋でも、水深だけに注目すれば、日本海(オホーツ海)と東シナ海は、違うんだなあ!』と思いました。かつて見聞きしたことがある、「氷河期の海水面の大きな低下により、日本列島と大陸を繋ぐ陸橋のような浅瀬が存在したことがある」という話題に通ずる内容です。

 それで、それぞれの海洋の海底図を調べてみることにしました。
 【図-①】は日本海、【図-②】は東シナ海、【図-③】はオホーツク海の、それぞれ海底の深さを色で示したものです。
 日本海の一番深い所は、4000m近く(測定値では3742m)あり、太平洋など外洋の深海底と同じくらいの水深があります。日本海のほぼ中央部には、「大和堆(やまと・たい)」と言って、周囲の深海底からの高まりがあります。大和堆の海底からの岩石サンプルにより、大陸地殻の一部だと推定されました。かつては日本列島と共に、大陸に接していた状態から、日本海の誕生に伴い、大陸から引き離されてきたものの、十分に移動できないまま、取り残された名残だと考えられています。

【図-①】日本海の海底の様子

また、図から推理することになりますが、陸地の周囲の浅海域の端には「大陸棚斜面」があって、一気に深海底へと深くなって、そこから先は寧ろ平坦な深海底が広がります。

 日本海には代表的な深海底があって、「日本海盆(深さ3000~3800m)」・「大和海盆(深さ2500~3000m)」・「対馬海盆(深さ1500~2500m)」が「大和堆」を取り巻くように分布しています。

【図-②】東シナ海の海底の様子

 

 一方、東シナ海【図-②】の水深は、ほとんど200m以下の浅海が占めています。
 そして、大陸棚斜面があって、1000m~最深2200m(沖縄舟状海盆・「しゅうじょう・かいぼん」)などの深海底に繋がります。
 これは、「沖縄トラフ」と呼ばれる円弧状の深海底です。そして、その外洋側には、南西諸島(大隅諸島・吐噶喇列島・奄美諸島沖縄諸島宮古列島八重山列島など)が連なり、さらに琉球海溝・太平洋となります。

 ※ちなみに、沖縄のサンゴ礁などの海が、きれいな理由は、島や周囲の外海の水質が良いことが直接原因ですが、中国大陸から東シナ海に流れ出す、特に細かな泥質浮遊物が「沖縄トラフ」の深海底に堆積してしまって、沖縄まで届かないからという理由もあります。

※西南諸島の島々は、太平洋側からプレートによって運ばれて、付加したと考えられています。火山島もあります。

                                              *  *  *


 さて、日本海東シナ海を比べてみると、水深など海底地形が、上記のようにかなり違いました。これは、その基盤となる岩石・地形と共に、海洋の地史が、大きく異なるからです。観点別に簡潔にまとめてみます。
(1)基盤岩の時代と様子ː
 日本海は、20Ma~17Ma(2000万~1700万年前・・・中新世前期)の玄武岩など、海洋地殻。
 一方、東シナ海は、白亜系(145Ma~66Ma、1億4500万年~6600万年前)の中でも後期・白亜紀の地層で、大陸地殻。
(2)堆積期間と堆積物の供給の背景ː
 日本海は、基盤岩の噴出以後なので、大まかに約1500万年間と短い。日本海流入する大河は無く、堆積物の供給量は少ない。日本列島全体で300万t/年と推定されるが、日本海側は極めて少ない。
 一方、東シナ海は、白亜紀以降なので、おおまかに6500万年間と長い。大陸からは、「黄河(10.8億t/年)」・「長江(4.78億t/年)」という2大大河を始め、陸地から堆積物は多量に供給される。堆積層は海面近くまであるので、優に2000mを超すのではないか。
 大まかに見ても、隣接する2つの海の違いがわかってきた。

          *   *   *   *

【図-③】オホーツク海の海底の様子

 ※オホーツク海の話題は、次回・第204回に載せます。

  今日は、大陸から移動してきた高気圧に日本列島は覆われ、日中は風もなく、とても暖かく感じました。午前中は、三月の「前山みゆき会」に提出する俳句の構想を練りました。そして、午後は雪の浅間山を眺めながら散歩をしてきました。それから、この編集後記をまとめました。

 そう言えば、今日は3.11でした。震災から13年を経た今でも、行方不明のまま、つまり遺体が見つからない方も多いと聞き、残された方々の無念さをお察しします。毎朝の仏壇に供えるお線香を少し増やしました。・・・大地震のあった翌朝、3時59分に「長野県北部地震(特に栄村など)」が発生し、その後の余震の度に、当時勤務していた北信地方の村に鳴り響く「J-アラート放送」を聞いて、どきどきしていました。(おとんとろ)

令和6年 二月の俳句 

     如月の句

①春の縁 ハイハイ競う 老いの膝

②爺孫の ゴッチンコ見てた 楓の芽

③嬰児や 掴まえようと 牡丹雪  《孫の育ち三題》

 

 正月の能登半島地震から1カ月が経過した。懸命な復旧作業でも、まだ生活再建への目途は立っていない様子が伝えられる。国際政治では、世界各地で戦闘に明け暮れている。ウクライナパレスチナガザ地区ミャンマー、中東、紅海、西アフリカ、コンゴなどの他に、人権を踏みにじられ、治安の乱れた地域に住む人々も多い。
 そんな地球にあって、日本の片田舎で住む私は、平和に眠れることの有難さを痛感している。基本的に農閑期の今は、デスクワークと散歩を日課にしている。そして、昨年の4月に生まれた孫との交流を楽しみにしている。今月は、そんな孫の育ちをテーマに、俳句作りをしてみようと考えた。


 【俳句-①】は、日当たりの良い縁側で、高速ハイハイができるようになってきた孫と、競い合うように這いまわる爺さんの様を詠んだ。「老いの膝」には、膝関節痛になったことを言外に匂わせた。季語は、「春(の縁)」である。

高速ハイハイ

 子ども(赤子)の成長は、日々著しい。寝返りを打てるようになったのを喜んでいたら、「ずりばい」の時期に入った。さっきの場所に居なくて驚くと、横や後ろに進んでいた。「おすわり」から、バランスが崩れて、後頭部を打って泣いたこともあったなあ。
 そして、両足を伸ばして、腹部を持ち上げた。『両生類から、爬虫類に進化したぞ!』と騒いでいたら、「ハイハイ」へと移行した。同時に、周囲の物や人の動きにも興味・関心が出てきて、絶えず見守っていないと、とんでもない事をしたり、あちこち動き回ったりしてしまう。忙しい時は、一坪ほどの囲いの中に入れておこうとするが、泣き出してしまって機能しなかった。
 爺・婆も関わるので、独りだけで「檻(おり)」の中で過ごすのは苦手なようだ。今は、「高速ハイハイ」もできる。既に、高い所にも手を伸ばそうとしているので、やがて「掴まり立ち」から、ヨチヨチ歩きも、もうすぐだろうと思う。
 老人は、ゆっくりと老化していき、あまり変わり映えがしない。それに対して、赤子は、日一日一日と、何らかの新しい要素が加わっていく。寧ろ、新たに加わると言うより、身体の中から新たな要素が湧きだしてきていたと表現した方が正解なのかもしれないと思う。

お座りができた

 我が子の場合は、子育ての多くを妻に任せっぱなしであった。寧ろ、孫たちの方が、良く観察し、日々の変容に気づくことができている。

 

 

【俳句-②】は、孫を抱いて庭に出た爺さんが、「おでこ」同士を軽くぶつけることを「ゴッチンコ」と呼んで遊んでいる。ふと、楓(カエデ)の小枝を見ると、赤紫色の芽生えが始まっていた様を詠んだ。

 楓の芽が、爺孫を見たとする擬人化表現だが、二人の戯れを温かく見守ってくれているようだった。季語は「楓の芽」で、春である。

楓(カエデ)の芽

 

 山が赤く染まるのは、「モルゲンロート(Morgen rot)」や「夕焼け」であるが、もう少し拡大すれば、落葉樹の「紅葉や黄葉」もある。さらに、もうひとつある。
早春の木々の芽生えの頃、種類によっては芽(つぼみ)や芽生えが、いずれも赤褐色から赤紫色に染まり出し、ひとつでは弱弱しいが、木々や山全体が色合いを帯びてきて、独特な「赤色」を演出する。楓は、その演出メンバーの一員である。
  春先の新緑の葉を付けた楓も、夏の日差しを遮る掌のような葉を茂らせる楓も、秋に紅葉へと変容していく楓も、そして、初冬に枯れ葉となって散っていく姿も風情がある。しかし、そんな楓の一年間の変化を知っているだけに、楓という植物の原点ともいうべき、新たな生命が誕生してきた風景が、愛おしいと思った。
 好きな季語のひとつになりそうだ。

赤紫色の芽生え

【俳句-③】は、孫を抱いて、雪の降りだした様子を見に庭に出たら、牡丹雪であった。天から、ゆらゆら舞いながら落ちてくる大粒の雪に興味をもった嬰児は、それを掴まえようと必死に幼い掌を動かしていた様を詠んだ。季語は「牡丹雪」で、春である。

牡丹雪

 

 雪の降りだしたのは、2月5日午前9時で、大粒の雪だが、正確には牡丹雪というほどではなかった。
 南岸低気圧による降雪で、俗にいう「上雪(かみゆき)」で、湿雪となって、我が家の築山の松の枝が折れないか心配するケースだが、気温が低かったので、割と乾いたまま降り続いた。
 午後に雪の止む時間帯ができて、急いで外に出て、玄関から門、家の周りの道路の雪かきを2時間もした。積雪は、12cmほどであった。
 「これで安心」と家に入ろうとしていた頃から、再び激しく降りだしてきて、それからも続いた。未明には、降り止んだようだが、朝起きて庭を見たら、【写真】のような大雪の光景になっていた。雪かきをした後で、18cmほど雪は加わり、積雪は約30cmに達していた。

 

2月6日の朝(積雪30cm)

【編集後記】(はてなブログ

 積雪30cmと言えば、佐久地方では滅多に無い大雪です。豪雪地帯に住んでいる人にとっては見慣れた光景でも、時々降る場合でも、せいぜい積雪5cm以下で、10cm以上も積もれば、大騒ぎです。状況によっては、近所のMさんが土木用重機を使って除雪していただけることもあります。今回は、降りしきる夜中に出動していただきました。過疎地なので、昼間でも良いのに、夜間作業で事故がないようにと祈っていました。翌朝には、普通乗用車が、十分通れる幅に雪が道路脇に寄せられていました。本当に感謝しています。
 2月の雪は、名残雪です。降った翌日の朝は快晴で、数日で雪は消えてしまいます。ところが、朝の冷え込みと最高気温の低い日が続き、加えて重機で固めてあるので、道路脇の雪は淡雪どころか、その後、10日間以上も解け切らずに残りました。
 ところで、子どもたちが小さかった頃、雪が降るとイグルーのようにして、庭先でかまくら作りをしました。【写真-下】

 

庭の「かまくら」(平成7年2月)



 ちなみに、平成26年2月14日~16日の積雪は、1mを優に超えた大雪でした。私が生まれて初めて経験した豪雪地帯並の積雪でしたが、私の定年退職する直前の出来事で、長女の海外での結婚式を控えていたり、退職に伴う後任者への引継ぎ準備で、とても優雅に、「かまくら作り」どころではありませんでした。

                  *  *  *    

鼻顔神社の鳥居

 

 令和6年2月7日に、鼻顔(はなづら)稲荷神社の「初午・奉燈俳句額」掲示のお手伝いに行ってきました。2月5日からの大雪で、一日延期しての実施です。
 地元商工会議所と佐久俳句連盟共催による年中行事ですが、今年度は、私が携わることになりました。と言うのも、俳句指導者のK(91歳)さんが高齢になられ、引き継ぎたいようです。しかし、俳額の準備や掲示方法の手順を示そうと、脚立に元気よく昇る姿を見ていると、たじろぎました。来年は、私たちで担当してくれるよう、依頼されました。

初午の「奉燈俳句」の額

 ところで、奉納した俳句額の裏側には、古くに奉納した額があり、養(カイコ)の繭(マユ)を使った作品も挙がっていました。かつての殖産興業の願いを込めた郷土の熱意にも感動しました。

繭玉(まゆだま)による作品の額

 最後に、前回の「はてなブログ」から、一カ月近く時間が立っていますが・・・・。

 予定では、「続々・佐久の地質調査物語・第203回」を載せるつもりでいましたが、
その編集後記で、「大陸側から見た日本海」と「日本海東シナ海」に触れようと思いました。しかし、この話題は、以前のブログで使っていたのではないかと思い、それまでの約4年間分のものを、振り返って読んでいました。なかったようなので、そのエピソードを載せた内容で、次は載せたいと思います。

 そろそろ、三月(弥生)の俳句の創作をと思い、散歩しながら季語や題材を捜してきました。今朝(3月1日)は、大雪なのに、午後には道路はすっかり解けていました。「名残雪」とは言うものの、本当にさらっと「さよならー」と別れるように消えていくのですね。同じ日本列島の南岸を通過していく低気圧による降雪でも、三月に入るとだいぶ違います。春は、着実に近づいてきていると感じました。(おとんとろ)