【皐月の句】
① 上州路 皐月の落暉に 佐久影絵
② 雨が抜け 玉葱の畝 緑さす
③ 昼の庭 芍薬咲いて しづまれり 《故郷慕情》
今年の4月末から5月中旬は、久しぶりに公私共に少し多忙な日々が続いた。
本来、「公」など、ほとんど無く、今年も「薬師堂花祭り」当番が無かったので、ゆったりできると安心していたが、まず、地区山林の財産区議員に選挙で選出される手続きがあった。定員9に対して、立候補者9名というやや形式的なものではあったが、市の選挙管理委員会の差配の下で厳格に行なわれることに驚いた。供託金もしっかりと納めた。無投票で全員が当選し、その初会合(5/15)があった。また、都会の学習塾の自然科学体験の講師を依頼された。何年か前に引き受けた経緯もあるので、断れない。その為の資料作りや、孫らを連れて下見もしてきたので、緒準備に数日は、かかってしまった。


5月1日の竜巻注意報、3日の曇り、8日午前中の雨降り以外は、連日晴天が続いた。 5月の佐久地方は、とても過ごしやすい。
* * * *
国際政治の世界では、イラン戦争の先行きが、なかなか見えてこない。米国とイスラエル軍が、イランに攻撃(2/28)を仕掛けた紛争は、一時停戦で合意(4/7)したが、革命防衛隊によるホルムズ海峡の事実上の封鎖、さらに米軍によるイランの港湾に出入りする船舶の封鎖が行われ、その結果は世界経済に深刻な影響を与えている。

イランの石油輸出基地ともいえる珊瑚礁の島・カーグ島の沖で、石油の流出が衛星画像で確認(5/6)された。60km2と推定された。2日後には、西に広がり、さらに南に流れて大きく広がった。(5/11)
施設が爆撃で破壊されたという訳ではなさそうだ。ホルムズ海峡の封鎖により、イランは輸出ができず、カーグ島の石油貯蔵施設が満杯状態に近づいていて、何らかのトラブルがあったと推測されている。
世界保健機関(WHO)は、イランの石油関連施設への攻撃で起きた火災で、有毒物質が放出され、深刻な大気・水の汚染や呼吸器の健康被害のリスクがあると懸念を示した。(3月10日)有毒物質と混ざり「黒い雨」が降ったとされる。雨は強い酸性の可能性があり、皮膚疾患や肺の損傷につながる危険がある・・・という報道もあった。まったく、呆れるほど無駄で、馬鹿な戦闘行為である。
そんな世界に生きる私が、のうのうと生きていることに、少し心苦しい思いもするが、毎日が、当たり前に生活できていることに、まずは感謝である。
さて、ここ2年ほど無所属であった私は、今月から「からまつ会」という俳句会の会員となり、初めて句会に参加する。月の第2土曜日が定例会で、発表する俳句は、前の月の25日までに提出するというルールがあるので、5月の俳句と言っても、実際は4月が中心となる。5月後半の話題は、寧ろ翌月となる。4月下旬に高速自動車道から、佐久を眺めた故郷の光景が印象的だったので、今月の題材とテーマは、《故郷慕情》としてみた。
【俳句-①】は、日没時刻に、群馬県の高速自動車道を西に向かって走行していると、群馬~長野県境の山並みが、影絵(シルエット)となって見えてきた。山の向こうは、私の故郷、佐久地方である。落日と雲の織りなす美しさに加え、故郷への慕情が湧いてきて、感動したことを詠んだ。季語は「皐月」で、五月、初夏である。
時期的背景については、既に説明したように、皐月(五月)と詠みながら、4月25日(土)の 18時を少し回った頃のことであった。

千葉県の「つくばエクスプレス・流山おおたかの森駅」の広場で、私の長女が仲間と共に、流山市のイベントに協力して、音楽ライブを開いた。音楽仲間は、全員が主婦だが、それぞれ大学などで音楽を専攻してきているので、素人集団だと言っても、ある程度のレベルにはある。今回は、仲間の男性は、見守り応援隊であった。
親馬鹿である私たち夫婦は、片道約200kmをダイハツの軽自動車「タント」に乗って、娘らへの「推し活」のつもりで参加した。俳句に詠んだ光景と心情は、自宅への帰路の出来事である。
『ふるさとは遠きにありて思うものそして悲しくうたふもの』(室生犀星の詩集『抒情小曲集』に収録)では、ありませんが、故郷を長く離れていたからこそ懐かしく思い、哀愁を帯びて詠むべきものであるかもしれません。
この気持ちは、私が大学生の時に経験しました。当時(昭和50年前後)の、北海道という遠隔地に居たという理由に加え、所属していたWV部の「遭難対策要員」として、札幌に留まる任務があった為、2年生以降、あまり多く帰省できませんでした。
だから、大東亜戦争で満州に出征し、終戦で帰国できたにも関わらず、自宅で戦病死した父の兄(私の伯父)が、『帰省する船や汽車の車窓から見えた、どんな大邸宅があっても、我が家が一番いい所だ』と、私の祖母に語ったとの逸話を聞いたが、まさに、歌唱『埴生の宿』の思い、そのものである。

だが、この俳句の場合、家を空けたのは、たった十数時間のことである。ただ、その理由を考えてみると、思い当たる節がある。
私の場合、「故郷に居過ぎた!」と思う。
つまり、家と畑と、せいぜい用事の為に近間を行き来する程度で、故郷・佐久を外から見る機会がほとんど無かった。それが今回、自分の住んでいる場所を、外から客観的に、しかも美しい光景と共に見たので、郷愁・慕情が湧いてきたのだろうと、自分なりに分析してみた。
ところで、既に載せた話題だが、追記したいこともあるので、敢えて載せる。
長野自動車道・八風山トンネル(4471m・下り線)を通過する度に、香坂川の最上流部地質調査のことを思い出します。何んと、トンネルの上には普通の自然が広がり、沢には水が流れ、香坂層(新第三紀中新世後期)の地層と共に、第四紀の地層(表土を含む)が分布している。私たちは、そんな大地の地質調査をしたことがある。(【香坂川最上流部のルート・マップ】を参照)
さらに、新たな知見が加わった。八風山の南に「香坂山遺跡」が発見された。付近で採取できる「ガラス質黒色安山岩」を利用した「八風山遺跡群」や「下茂内遺跡」といった旧石器時代から縄文時代にかけての石器製作遺跡が形成されていた。
(以下、佐久市教育委員会の資料)
1997年(平成9年)、佐久市香坂の上信越自動車道八風山第2トンネル換気塔建設に伴い、長野県埋蔵文化財センターによる発掘調査が行われた。その結果、姶良Tn火山灰(約3万年前)よりも下位の地層で、石刃を含むガラス質黒色安山岩製の石器が見つかった。出土した地層や年代測定の結果、石刃石器群としては最古のものであることが判明したが、当時の日本列島での「旧石器編年」に当てはめることが難しく、石器群の評価は保留とされた。
2020年(令和2年)、香坂山遺跡から出土した石刃に着目した奈良文化財研究所の国武貞克氏は、香坂山遺跡で発掘調査を実施し、『大型石刃・小石刃・尖頭形剥片というユーラシア大陸初期後期旧石器時代の石器群』と共通する石器組成だと確認した。
2022年(令和3年)からは、香坂山遺跡の学術的重要性に鑑み、佐久市教育委員会による遺跡の範囲確認調査を実施した。直接調査することが難しい地点に関してはボーリング調査を実施し、香坂山遺跡のある尾根上約2250m2 が、遺跡の範囲だということがわかった。

【俳句-②】は、昨年の秋に植えた玉葱が越冬し、春から初夏に向かい、ひと雨を経る度に、緑の度合いを深めていく頼もしさを詠んだ。季語は、「緑さす」で、夏である。ちなみに、「玉葱」も夏の季語であるので、厳密には『季重なり』の俳句となる。(※後述する!)

我が子の学校の授業参観に行くと、意識しないように努めても、どうしても他の子と発達程度を比べたり、集団での関係性などを気にしたりしてしまいがちである。
同じ理由からなのか、我が家で育てている野菜の生育状況を、周囲のお宅と比べてしまう。作付けした時期や、畑の土壌、日照・気象条件などの違いから、差はあって当たり前なのだが、我が家のものは、どうも成績があまり良くない。
堆肥や化学肥料が少ないせいなのか、夏野菜を中心に育てている方の畑は、水田地帯にポツンとある1反歩ほどの耕作地であるが、日当たりは悪くないものの、とにかく風が強い。
この為、例えば「キュウリ」苗を定植する時、支柱や棚も一緒に作り、周囲を厳重にビニルシートで覆って、防風壁を設置しないと、苗が弱ってしまう。(ちなみに、霜害の経験から定植時期は五月連休明けと、遅くしている。)
今季は、タマネギとニンニクの成績が良く、楽しみにしていた。特に、昨年は、山の畑に植えたニンニクが、深緑に向かう時期に突然枯れ、ほとんど実にならなかったので、今年の期待度は高かった。
それで、題材は「タマネギ」ではなく、「ニンニク」にしたかった。しかし、俳句の世界では、「ニンニク」は、春の季語である。それ故、夏の季語「緑さす」と一緒にするわけにはいかなかった。
ところで、早春から順調に育ってきたニンニクだが、5月に入り、「さび病」が出始めた。病変した葉を丁寧に取り除き、集めて石油をかけて焼却処分した。しかし、少し忙しがって手を抜いていたら、あっと言う間に広がった。仕方なく収穫まで放置することにした。(収穫は6月14日、午前中にタマネギ、午後にニンニクと、同じ日にすることになる。)

【写真】のように、中央から「花芽」や「つぼみ」ができてきて、それらを収穫できた年もあったことが懐かしい。ここ数年、「さび病」や原因不明(水不足か?)で立ち枯れなど、満足いくような収穫を体験していない。
それ故に、越冬し、緑が深まっていくのを誇らしげに見守っていた。
【俳句-③】は、牡丹に続いて咲き出した「芍薬」だが、我が家の昼時の庭は、まるで芍薬が、空気をも含めて、全ての植生や辺りを鎮(しず)めるかのように静寂な空間を醸し出していた。芍薬の花の存在には、不思議と威厳がある。季語は、「芍薬」で初夏である。

我が家から少し離れた山の中を、中部横断自動車道が通っているが、通称「お薬師さんの山」と呼ぶ山の裏側を抜けているので、大型トラックのエンジン音は聞こえてくるが、気にするほどの大きさではない。朝夕の通勤時と違って、お昼時は車の行き来も少ない。寧ろ、小鳥の囀りの方がうるさいくらいである。
それに、郵便屋さんになったつもりで家々を回ってみればわかるが、昼間は皆勤めに出ていて誰も居ないお宅が多い。その点、我が家界隈は、老人が多いせいか、比較的、在宅しているものの、人の気配もあまりないので、実際、物理的にも静かである。
陽気も良くなってきたので、昼食後、廊下で横になって庭を眺めていると、芍薬の花に目が向いた。牡丹も良い花だと思うが、どちらかと言うと、芍薬の方が好きだ。桜も好きだが、梅の花の方が、もっと好きという意味である。牡丹や桜、それに白木槿(むくげ)は、咲いているときは綺麗だが、散る姿が好きになれない。花も、花の命を自分の努力で直せないのだから、酷な評価をしていて、申し訳なく思うのだが・・・。
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という言葉を思い出した。
* * * *


ところで、牡丹と芍薬は似ているが、良く見るとかなり違う。
花の色は白系~深紅まで様々だが、牡丹の茎は木質で固く低木(冬も残る)なのに対して、芍薬は緑色で多年草(冬は根だけ残る)である。先ほど話題にした散り方では、牡丹は1枚ずつ落ち、芍薬は花全体で落下する。花の咲き出す前の蕾(つぼみ)に着目すると、尖っている方(牡丹)と、丸みがある方(芍薬)という違いもある。
葉にも特徴があって、ギザギザがあって艶の無い方が牡丹、切れ込み無く艶のある方が芍薬である。
そして、決定的な違いは、開花時期である。佐久地方で、牡丹の咲くのは、4月下旬~5月中旬であるのに対して、芍薬は、6月にならないと咲き出さない。
・・・この俳句を作った時、芍薬は、まだ咲いていなかった。
第1句に続き、第3句も季節の見切り発車であった。
【編集後記】《令和8年6月20日》
特別養護老人ホームに入っていた母が、97歳10ヶ月で亡くなった。仏教の世界では、享年を99歳と数えるらしい。母の兄弟姉妹7人の中で、ふたつ上の姉の満100歳には届かなかったが、兄の満95歳は上回り、長寿の銀メダルと言ったところである。
但し、軽い認知症は出てきたが、亡くなる少し前まで、多少の会話ができたから、限りなく「ピンピンコロリ」に近かった。大往生であった。
令和3年の大晦日の朝、朝食を二人で食べている最中に、母が倒れた。血圧・脈拍を計っても正常なので、お昼まで横になって休んでいた。娘の『お父さん、お婆ちゃんは朝から少しも改善していない。病院は明日から3連休だよ』という言葉に促されて、救急搬送後、S医療センターへ入院することになった。
「左アテローム血栓性・脳梗塞」と診断された。
1月27日に、S病院へ移り、さらに4月14日に、「老健」に入りました。少し下火になりつつも、「新型コロナ・ウイルス感染症」のせいで、面会もガラス窓越しという状況でした。
3ヶ月後の7月14日、運良くS苑に入ることができた。母は、入所した2日後、94歳の誕生日を、皆様に祝っていただきました。
そして、入所3年と半年後、令和8年1月14日に、低血圧から一時意識不明となり、「看取り看護」体制になりました。
なぜか、父の誕生日が、4月14日ということもあり、「14」という数字に縁がある。『願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃』、西行法師の辞世の句ではありませんが、私は、母が2月14日に亡くなるだろうと覚悟して心準備をしました。
ところが、新型コロナ・ウイルスに感染しても回復してきた母は、減らした食事でも完食して、老衰速度をどこまでも「零」に近づけました。
私は、毎月、14日が来ると緊張して過ごし、5月14日の晩、夢枕に母が出たものの、生きながらえたので、あと2ヶ月乗り切って、98歳の誕生日を迎えられるかもしれないと、期待していました。
しかし、5月20日から食事が喉を通らなくなり、5月21日から水だけになります。5月23日に妹夫妻が見舞いに訪れました。5月24日、水も飲まなくなったと言います。そして、その晩、午後10時頃、母は息を引き取りました。医師による死亡確認は、翌朝だったので、5月25日午前8時が死亡時刻となりました。
* * * *

母の亡くなる1日前、妹たちは、特別老人介護施設S苑から我が家に立ち寄りました。妹は、2羽の燕を見つけます。「安心できる家とわかると、燕は巣を作るのかな」とつぶやきました。翌日、家内が一人でS苑を訪ねました。妹や家内に会って安心したのか、その晩に母は亡くなりました。
そして翌5月25日から、何と燕が、軒下に巣作りを始めました。26日、既に、巣作りの土が落ちて、下が汚れていたので、急いで片付けました。逃げてしまうかと警戒したが、その後、27・28日と巣作りを続けます。
そして、29日(葬儀の日)もです。
母は、入所してから丸2年が過ぎようとする頃、母の生家と菩提寺、嫁ぎ先の我が家を訪れることがありましたが、その後は、葬儀社の安置場から火葬場に行き、我が家に戻ることはありませんでした。
だから私は、亡くなった「母の魂」が、「燕」に姿を変えて、我が家に帰ってきてくれたのではないかと思いました。
*
科学的に分析すると、玄関脇にある「南天(ナンテン)」が水不足なのか、葉の一部が赤くなるので、家内が春先に大きく剪定しました。『お母さんも、この時期に、かなり剪定していたわよ』と言う。しかし、切断が大胆過ぎる。そのせいで、電線に止まった燕からは、軒下が見えるようになったので、巣作りをしたのだろう。
佐久市で「燕の巣調査」をした年(15年ほど前)に、二階の軒下(今回のほぼ真上)に巣作りをしたことがあった。洗濯物を干すベランダの上なので、可愛そうだが、私が作成中の巣を壊した。それ以来である

燕(ツバメ)が巣を作ると、「縁起が良い」と、私の子どもの頃は、今の位置とあまり違わない軒下に、毎年巣作りをさせていた。糞が落ちたが、それを気にする時代や風土ではなかった。
巣から落ちた雛(ヒナ)も見たし、巣に青大将(アオダイショウ)蛇が侵入した悲惨な事件も目撃したこともあった。 玄関が新設されてからは、追い出された燕たちだったが、今の場所なら、下がコンクリートで水洗いすれば良いので、OK(いい)ですよ。
毎朝晩、燕の巣をガラス窓越しに眺めるのが日課になっている。
(おとんとろ)























































