北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-134

第Ⅶ章 中部域の沢

 谷川(やがわ)は雨川の南、余地川(よじがわ)は、更にその南を流れる河川で、内山層分布域の中部域に当たります。この地域は、主に平成16年と平成18年に調査をしました。
平成17年度は、後述する熊倉川に挑戦していました。調査年度より、北側からの地域別に紹介していきます。谷川左股沢(8/4 2006)・谷川本流(10/17 2004&5/29 2005)・余地ダム湖周辺(9/3 2006&11/6 2004)・余地川支流、湯川~温泉の沢(5/27 2006)の順です。


1. 谷川左股沢の調査から

 平成18年(2006)8月4日、既に調査済みの谷川本流との関係を明らかにする目的で、左股沢に入りました。(【谷川左股沢のルートマップ】を参照。谷川本流は、概略)

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谷川左股沢のルート・マップ(本流は、概略のみ)

 第2堰堤から沢に入ると、すぐに本流と左股沢の二股になります。

その上流(【図-①】)では、珪質の黒色泥岩層、白色チャート層、凝灰質の帯青灰白色中粒砂岩と黒色泥岩の互層が見られました。互層部で、N32°E・50°NWでした。
 蛇行する川の湾曲部(【図-②】)では、凝灰質中粒砂岩層が、また、【図-③】では、石英閃緑岩(Quartz-Diorite)が見られました。標高860m付近(【図-④】)では、帯青灰色(珪質)中粒砂岩層と黒色泥岩層(礫を取り込み、pyriteが入る)の間で、目視できる小規模断層が見られました。ちなみに、断層面はEW・44°Nでした。

 そして、標高860~870mまでの間の接近した露頭、【⑤】・【⑥】・【⑦】・【⑧】では、この地層のでき方を考える上で重要な情報を提供してくれました。
 【⑤】露頭は、【④】→(東南東へ30m:S70°E)→【⑥】に至る流路で、小さな滝が2つあります。黒色泥岩層の中に礫が、様々な形態で含まれていました。

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黒色頁岩層の中に砂岩層の一部が入る(滝の上)

 いわゆる、「含礫頁岩」に似た、泥岩層です。特に、2つの滝に挟まれた露頭(写真)では、薄い中粒砂岩層が、層の形態を残しながら、泥岩層に不連続に入っていました。ちなみに、層理面が見えず傾斜は不明でしたが、走向と長さは、上流側から、N30°W(2m)切れて、N20°W(2.5m)~N10°W(0.5m)~N40°W(1.5m)、少し曲がり(0.3m)と連なります。(拡大ルート・マップを参照)
 混濁流による堆積物のようにも思えます。

 【⑥】露頭では、黒色泥岩の中に、更に大きな(2m×1.5m)の砂岩岩塊が入っていました。
 【⑦】露頭では、砂泥の関係が逆で、全体が中粒砂岩層の中に、黒色泥岩が層の形態を残しながら、N60°W・60°N(下流側)~N20°W・70°NE(上流側)で取り込まれていました。滝の間と反対で、泥岩層が砂岩層に取り込まれていました。
 その上流では、黒色泥岩層から帯青灰色中粒砂岩層に変わり、次に、礫岩層となりました。礫は、黒色頁岩片や中粒~粗粒砂岩で、短径と長径の関係や級化層理から、重力方向がわかるタイプで、下流側が堆積時の下位を示していました。(⑦の北東落ちから見ると、逆転していることを意味します。)

 【⑧】露頭は、黒色泥岩と凝灰質中粒砂岩の互層で、N50°W・80°SWでした。
垂直に近い傾斜ですが、すぐ下流の礫岩の産状から、上下は逆転しています。(谷川本流のデータからも、背斜構造の東翼に当たり、逆転を支持します。)

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谷川左股沢の①~⑧のルート・マップ(拡大)

 

南東から小沢が合流する標高875m付近(【図-⑨】)では、礫岩層が、また、その少し上流の北からの小沢が合流する所では、珪質の灰色中粒砂岩層が見られました。
 標高880m付近(【図-⑩】)では、帯青灰色中粒砂岩と黒色泥岩の互層が見られました。走向・傾斜は、N50°W・垂直でした。
 標高910m付近(【図-⑪】)では、沢が荷通林道に接近し、露頭が少なかったですが、再び、黒色泥岩層が露頭幅30mにわたり現れました。わずかに、中粒砂岩層も含みます。
 南東から流入する小さな沢との合流点(【図-⑫】)では、黒色泥岩層が見られ、N50~60°W・50°NEでした。黒色泥岩層や灰色中粒砂岩層との互層が続きました。

 両側からの沢状地形、標高918m付近(【図-⑬】)では、黒色泥岩層が見られました。
しばらく黒色泥岩層が点在します。林道は、沢に迫って併行していました。
 標高940m二股(【図-⑭】)では、廃屋があり、左岸では、砂岩岩塊の巨礫(全体が直角三角形で、1m×1mほど)を含んだ黒色泥岩層が見られました。
 二股から、右股に沿って新しい林道が敷設されていて、少し入った所(【図-⑮】)で、
灰色中粒砂岩層が見られました。熱変質した内山層の砂岩に似ているとの感触を得ました。
林道は、この先も続きますが、車で入れる規格は標高1000mまでです。
 標高1000m付近(【図-⑯】)では、珪質の灰色砂岩の大岩塊が見られました。
 標高1040m付近(【図-⑰】)では、玢岩(pophyrite)の岩脈が見られました。
 尾根の手前、沢が南東に振る標高1080m付近まで調査しましたが、露頭も無さそうなので引き返しました。谷川本流で見られた内山層基底礫岩層が延長は、見られませんでした。(ちなみに、谷川本流935m付近で接している石英閃緑岩体と基底礫岩層の間に断層があり、P1145辺りまでの間で、連続が絶たれていると推測しています。)

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崩れた法面に青シートがかけられている

標高940m二股まで戻った後、沢は土砂が崩れていて露頭は埋まっていそうなので、荷通林道を登りました。この年(平成18年)の7月18日~19日の豪雨被害で道路が崩れ、その修復工事が行われていました。林道は、さらに雨川ダム湖方面まで通じていますが、車での進入は、標高1020mまでです。

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林道工事の重機や大型ダンプカー

 

  谷川左股沢の調査が早めに終了したので、駐車してあった荷通林道入口・鳥居から車で移動して、不老温泉・湖月荘側から「雨川砂防ダムの沢」に入りました。
 雨川ダム湖の放出口の反対側、南に延びる沢を「雨川砂防ダムの沢」と名付けました。沢の入口、地図上の「崖」付近では、岩盤が表土と共に崩れていました。およその方向は、N50°Eで、沢の延びる方向にほぼ一致した、小規模断層と思われま す。二股付近は、熱変質した(内山層の)灰色中粒砂岩でした。
 左股を進み、南に延びる沢の標高900m付近の二股では、熱変質した灰白色泥岩層で、N60°E・30°SEでした。
 この後、標高1060m付近まで沢を詰めましたが、転石ばかりで露頭が無いので、引き返しました。転石情報でも、基底礫岩に関する手がかりは得られませんでした。

            *   *   *   * 

 不老沢:2カ所で泥岩層中にコングロ・ダイク露頭があり、標高1060~1090mで粗粒砂岩層が見られました。(六川資料)

 

  【編集後記】

 調査当日に同行した渡辺正喜先生が、『頁岩の中に礫、特に、「偽礫(ぎれき・slump ball  or  pseudo  conglomerate)」が入るのは、付加体に多く見られると、由井俊三先生(元北海道大学教授)が言っていたぞ!』と話されたことが印象に残っている。由井先生(故人)に、この地を実地に見ていただきたかった。

 谷川本流の調査を紹介した後で、「地質柱状図」を載せる予定であるが、『含礫頁岩層』の見られた地層は、従来の分帯では、海瀬層」と呼ばれている。地団研が示した「関東山地の地体構造区分帯」では、秩父累帯北帯 に属している。 

 かつて、地層名の由来となった佐久穂町海瀬(一の淵)から二畳紀フズリナ化石が発見されたことから、古くは、「秩父古生層」と呼ばれた歴史もあるが、今日では、ジュラ紀の付加体だと、ほぼ確定している。

 そんな渡辺先生から聞いた話を思い出して、「含礫頁岩層」を調べてみた。

 『いわゆる異常堆積について(三梨 昴 ・垣見俊弘)』(インターネット情報)によると、混濁流の結果と位置付けないで、個々のケースに応じた調査・研究の必要性を強調しながらも、大別すると、”表層地滑り型”と、”深層地滑り型”があると述べている。

 雪崩に例えた、表層雪崩全層雪崩はわかりやすかった。大陸棚の比較的浅い所と、深い所というような場合もあるが、堆積物が堆積してからどのくらい時間を経て、固結状態がどの程度進んでいたかも影響する。

 論文の詳しい内容は省略するが、ひとつ残念なことは、発見した目視できた断層が、「固結断層」であったかどうかを見極めていないことである。これも、成因を推定する大切な情報であると言う。

 ところで、令和3年・4月~7月の俳句シリーズを、「はてなブログ」に挙げてから、2週間近い中断がありました。

 途中、みゆき会7月の句会があって、事前に載せたブログを修正しましたが、梅雨明けで、農作業が忙しくなりました。一番は、夏野菜の収穫と水遣りですが、我が家の場合、ジャガイモ掘りに3日かかりました。

 家内と私の、コロナ・ワクチン接種が入ったので、農作業を控えた日も入りましたが、それ以外は、畑の除草を兼ねる耕作もありました。

 この後、畑の周囲や片貝川堤防の除草(草刈り)なども、生活計画に目白押しです。

ただ、嬉しいことに、体重コントロールにいいてす。食事の量を控えていますが、体重が微減していくことに一喜一憂しています。

 ちょっと「平和ぼけ」した話題で済みません。

 しかし、最近のSNS情報を見ると、東京五輪に関して、『過去のことや、、イメージ作りではなく、今の気持ちや現実をを最優先した対応」が大切だと思うのですが。

( おとんとろ)

令和3年文月の句(蛍袋の異名三題)

 【文月の句】

 ① 寄り添いて 万葉語る 風鈴草
 ② 雨上がり 提灯花の 薄暮かな
 ③ 母語るとっかん花咲く遠き夏 《蛍袋の異名三題》 

 

 7月の句会は「暑気払い」を兼ねて少し遠出をし、「吟行」の真似ごとをしてみるのが恒例だったが、コロナ禍が続くので、もうしばらく我慢をして地域公民館で、マスクを付けて開催することとなった。
 今月のテーマは、「蛍袋(ホタルブクロ)」に決めた。我が家の「向山」と呼ぶ畑の土手に蛍袋が咲いている。花株の時期や大きさによって、花がひとつから、見た限りで5つまで、バリエーションがあった。それで、蛍袋は、様々な呼び名があることを知っていたので、花の印象を「異名三題」としてみることにした。

 

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寄り添う蛍袋の花(2花)

 【俳句-①】は、一株に蛍袋の花が2つ付いている印象を詠んだものである。
寄り添う2つの花が、あたかも恋人同士に見えてくる。万葉歌人を真似て、恋文や恋歌を交換しているようである。そんなイメージには、「風鈴草(ふうりんそう)」の異名が、似合うと思った。
 ただ、現代の若者なら、隣り合っていても、携帯電話でメール交換をしているかもしれない。ましてや、恋文という雰囲気ではなく、省略系の短文なのかもしれない。しかし、万葉を語るように感じた爺さんもいたとしておこう。

            *   *   *

 ところで、恥ずかしい秘密ではないが、のろけ話を聞いて、笑って欲しい。
 高校生の頃、ある女性と交際していて、時折、野外でデートをしたことがあったが、校内では、手紙の交換をしていた。鍵は付いていないが、各自専用の蓋付きの下足置き場があって、互いに、小瓶に挿した野草や手紙を入れて置いた。それも、日替わりぐらいの頻度となることもあった。

 さすがに、和歌や短歌を交わしたわけではないが、文書を通じて心の交換をするという雰囲気に、双方が似たような趣味だったのかもしれない。高校卒業後は、進路も違って、離ればなれとなった。

 就職後何年かして、お見合いをして、私が結婚することになる女性が現れた。一年ほどの交際を経て、結婚した今の妻である。

 ある時、『結婚しませんか?』という意味を込めた私なりの恋愛和歌を作って妻となる人に送った。私は、高校時代の彼女のように、返歌があるものと期待していたら、何んと電話が掛かってきた。まったく意味不明だったようだ。
 そんな妻との結婚生活も、来春で40年目を迎える。

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一番下に5つ目の花が付いている

 【俳句―②】は、一株にいくつもの蛍袋の花が付いている印象を詠んだものである。私が、土手で観察した限りでは、5つ目の花を付けたのが最大数であったが、株が大きく成長すれば、もっと多くなるのかもしれない。

 蛍袋の花が、ひとつだけだったら、寺院の鐘楼に吊されている釣り鐘(梵鐘)のようで、『釣鐘草(ツリガネソウ)』が似合う。
 スズランやアマドコロのように、花が小さいと、鈴やベルのイメージだが、蛍袋の花の数が多くなると、『提灯草(ちょうちんぐさ・そう)』かなと思う。

 それで、庭先に咲いていたら、雨上がりの夕暮れ時に、実際に観察したかもしれないが、少し離れた墓地に隣接する畑の土手に咲いているので、出かけて見た訳ではない。
 しかも、名前の「蛍」のように、発光している訳でもないので、辺りが薄暗くなった薄暮には、寧ろくすんでいるだろう。

 それで、想像を逞しくすれば、梅雨の雨が上がった東南東の空に十三日月が見えて、月明かりが微かにあって、それが、あたかも提灯のように見えているのではないか。・・・そんな創作である。
 ちなみに、月齢は11~12日でも良いが、満月(15日)では困る。

 

 

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佐久地方の俗称「とっかん花」


【俳句―③】は、花好きの母に蛍袋を一株手折って持って行ったら、佐久地方での別名「とっかん花」だと懐かしんだので、それを詠んでみた。
 「とっかん花(ばな)」が果たして季語となるかどうか自信はないが、蛍袋のことなので、いいかなと思うが、やはり季語は公式なものだろうと考え、夏を入れた。

 例えば、植物分類で同じ「科(Family)」となる桔梗(キキョウ)の蕾(つぼみ)を、私が子供の頃、指先でつぶして遊んだものだが、今では、可愛そうだし、もったいなくてする気にもならない。

 母たちも子供の頃、袋の下から息を吹き込んで、「とっかんさせる(割る)」のだろうと思ったら、そうではないらしい。

 蛍袋の花を野山から採ってきたら、丁寧に萼(がく)ごと切って、紫蘇の葉の入った梅漬けの汁に良く浸して、全体を柔らかくするのだそうだ。割れたり、切れたりしないようにする。

 そして、遊びでは、穴の開いている方から息を吹き込んだり、吸い込んだりして楽しんだらしい。私たちの知る感覚では、「風船ガム」という粘性の強いガムで、舌先から息を吹き込んで風船を作った時の、楽しみ方に似ている。
 膨らませる過程で、割れてしまうこともあったので、「とっかん花」と言うのかなと想像する。

 遊んだのは、次第に戦争へと進んで行く時代の、小学校低学年の頃だという。皆で遠くまで蛍袋を求めて捜しに行ったり、少し街場の子で手に入らない子には、分けてあげたりした。授業の業間休みには、「とっかん花」で遊んだり、持参した他の遊び道具で、仲間遊びをしたようで、先生から、不要物だと没収されることもなかったそうだ。

 実際、野山の草花を口に含んで楽しむのを、止めさせる理由もなかっただろう。

 

               *  *  *

 

 ふと、20年以上も前になるが、台湾で「檳榔(ビンロウ)

Areca catechu」を噛んで、それを道路に吐きだした真っ赤な跡を見て、汚いなあと感じたことを思い出した。(公衆衛生上、さすがに、今は禁止されていると思うが・・)

 今年の7月で満93歳を迎える母が、「とっかん花」との遠い日の思い出話を、夢中になって語ってくれた。それを孫たちにも伝えたいと思いました。

 

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実生からの蛍袋

 

  【編集後記】

  今月(7月)の「みゆき会」の俳句会は、7月14日(水)に予定されているので、今日(7/9)「はてなブログ」に載せている俳句は、まだ未発表の段階である。

だから、「編集後記」ではないかもしれない。しかし、今朝の信濃毎日新聞(朝刊)の文化面を読んだ後なので、少々、「未来」を進んでいることで、うきうきしている。

 いきものがたり・水野良樹の そして歌を書きながら 『今も未来を食えているか』 と題する文章に共感したからである。

  「起・承・転・結」のある文章の最後(結)の部分を見れば、内容がわかると思うので、転記します。(信毎も含めて、著作権の問題は、宜しく!)

・・・・10代の頃は無知ゆえの根拠のない自信もあってこの先には面白い日々があるはずだと信じることができた。言うならば未来を食って生きてきた。今の自分はこの先に思いをはせ、未来を食うことができているだろうか。自分は、今日ではなく明日のために時間を使うことができているだろうか。

 それはもしかすると精神が若くあるために最も重要な心がけなのかもしれない。今そう思って手を動かしている。 ・・・・・

 共感しました。なぜなら、私の「はてなブログ」の内容は、多くは、何年か前に既に書かれた文章や研究・調査内容を載せ、唯一、【編集後記】とする部分にだけ、少し新しい内容を書き足しているからです。それが、今日の内容は、全てが未来の発表前の内容で構成されていることに、嬉しくなりました。

        *   *   *

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ハナアブ

 ところで、蛍袋の別名「釣鐘草」も使って俳句ができればと頭を捻りましたが、思い浮かびません。しかし、我が家の畑の土手から、南西方向に少し行ったカラマツ林の近くに、ホタルブクロの群生地を見つけ、写真撮影中に「グッド・アイディア」が浮かびました。

 【下の写真】の蛍袋の花群(右上)の一番下の花に、ハナアブが写っています。

「釣鐘(梵鐘)」のような蛍袋の花の中に入り込み、しばらくしてから出てきた瞬間をとらえました。この時、Mさんとの面白いやりとりを思い出し、俳句の代わりに紹介しようと思いました。

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下向きの蛍袋の花の中から、虫が出てきた

 私は、子供の頃、『安珍清姫(あんちん・きよひめ)』の話を読んで、疑問に思っていたことがありました。

 奥州白河の若い僧侶が、熊野神社に参拝に来た折り、宿を借りた家の娘に惚れられてしまいます。僧があまりに美男子であったからです。しかし、思いを寄せた僧(安珍)に裏切られた少女(清姫)は、激怒のあまり大蛇に変身します。恐れをなした安珍は、清姫から逃げて、紀州道成寺へと駆け込み、梵鐘の中に隠れました。しかし、梵鐘に大蛇は巻き付いて、安珍を殺してしまった・・・というような伝説話でした。

 梵鐘は、下が開いているのに、隠れるなんて変だと思っていた。下から覗かれれば、発見されるし、鐘の中で手足で踏ん張っていないと、下に落ちてしまうではないかと。ところが、話を良く吟味すると、なぜか、釣り鐘は鐘楼から外されて、その中に入ったらしい。こうなると、シェルターなので合点がいく。しかし、重い釣り鐘をうまく外して、その中に入ることは、至難の技だと思うが・・・。

 大人になってからの疑問は、梵鐘の中に入ったら、どんな感じだろうか。特に、鐘を突いた時、中ではどんな音がするのだろうか? と想像した。

 『やってみよう!』と行動をする前に、予想した。私は、これでも理科系の科学者の端くれである。【音が聞こえるのは、物体が振動し、その揺れが空気を変形させ、粗密波(縦波)となって、鼓膜に届き、神経繊維が大脳へ伝えて、感知するからである。】

 要は、空気がどう振動するかを予想すれば良い。

 私の出した結論は、外で鐘の音を聞く時より、寧ろ、小さな音で聞こえるのではないか、場合によっては、こもった低い音程になるかもしれないである。そして、薬師堂の鐘楼に掛かっている梵鐘で試してみた。

 すると、ほぼ予想通りであった。音は空気振動だから、鐘楼の中の空気は、下が開いてはいても、限られた量しかない状態に近く、水の流れに例えれば、淀んでいる。しかも、例えば鐘の中心部では、常に反対方向からの粗密波がぶつかり合っているので、振動は弱められるはずである。

 そんな実験をした日から、何十年の歳月が流れただろうか。

 平成27年春、私は年齢順に回ってきた地区の役員となり、M区長さんらと、区有林の点検作業や神社仏閣の整備作業、それに行事や祭りの仕切などをした。その準備作業の折り、薬師堂の鐘楼へMさんらと登った。そして、私が、少し茶目っ気を出して、『安珍清姫安珍さんは、梵鐘の中に隠れたと言うが、外で鐘を突いたら、どんな音に聞こえると思いますか?』と、疑問を投げかけてみた。すると、Mさんは、『おもしろいな』と、実行に移すことになった。

 鐘の中に、すっぽりと入り、私が外から鐘を突いた。しばらくして、中から出てきて、『頭が割れるような音がするかと思ったが、案外、大きな音がしないものなんだ』と驚いたようであった。他の若手の方にも、体験を勧めたが、断ったところをみると、M氏は、好奇心に溢れた行動派なんだと思った。

 私は、何度も薬師堂の梵鐘を突く機会があるが、その後、Mさんのように試してみたことは無い。Mさんには、伝えなくて申し訳なかったと思うが、釣り鐘の鉄製金具が錆びてきているし、強く打つと激しく揺れて、鐘楼全体が、震度1~2ぐらいの感触で揺れる体験をしたことがあるからだ。

 大きな音を出す為に、強く鐘を突く時は、梵鐘の振動の様子を観察していて、突く棒に鐘が向かってくる時に、打ち付ける。その反対に、遠ざかる時に打つと、横揺れ振動は増幅され、釣ってある金属部分が軋み、しかも、揺れの振動が建物に伝わり、少々の恐怖感を味わうことになるからだ。

 ★最後に、今日も雨の1日で、とりとめもなく、「はてなブログ」の内容が、増えたようだ。

『瑠璃色の 五輪待つ空 燕交ふ』(令和2年度)

『夏空に 届け薬師の 鐘聖し』(令和3年度)

 2年続けて、東京五輪パラリンピック大会の成功を祈願した、薬師堂鐘楼に掲げた奉燈俳句であったが、大会競技のかなりな会場では、無観客で競技が実施されることが発表された。元々、私はテレビでしか観戦しないものの、とても残念でならない。

 しかし、日本が、ここまで真剣に対策を講じ、さらに国民一人一人が、冷静かつ誠実に、大会運営に理解ある言動ができれば、新型コロナ・ウイルス感染拡大の状況下で、国民として、民族として、それなりの成果を上げられると思います。(おとんとろ)

 

令和3年・水無月の句(夏の花三題)

 水無月の句】・・・《夏の花 三題》

 ① 木天蓼(またたび)の 白葉癒す 緑雨かな
 ② 花見つけ 現の証拠や 祖母の味
 ③  白日下 桑の実採りし 夫婦の手  

 

 今年の5月中旬から6月中旬にかけての天気は、適度な量の雨降りの後、必ず一週間ぐらい晴天が続き、野菜の水遣りをしたことがなかった。
 気象予報士の解説では、偏西風が例年よりも大きく蛇行し、その波が変わらない状態が続いたことが原因だと言う。日本列島の快適さに対して、北京やモンゴルの高温・異常乾燥と、太平洋を夾んだアメリカ西海岸の記録的猛暑は、地球規模で関連があった気象現象のようだ。

 さて、今月の句会には、「夏の花」を題材にしようと決め、実地に捜したり、俳句歳時記を手がかりに、花の候補を選考した。

 詠んだことのない花をと考えているが、俳句歴の短い私なので、よりどりみどりで、花の名前が挙がる。それでも、実体験の素材であった方が良いとの思いで、3つの花を選んだ。

 

 【俳句-①】は、新緑に静かに雨が降り注いでいるが、木天蓼(マタタビ)の白色の葉を、癒して元の緑色の葉に戻してくれるかのように感じて、詠んでみた。
 雑木林の中で見かける「マタタビ」や「アケビ」の葉は、病気になって葉が白くなる訳ではないが、新緑の木々の中で、葉緑体の抜けた「斑入り葉」や「白葉」は目立つ。どんな理由で、白くなるのか知らないが、緑色が無くなった可愛そうな存在に思えてしまう。
 新緑の頃に降る雨のことを、俳句の季語で、「緑雨(りょくう)」と言うようだ。

 あたかも白葉に治療薬を注ぎかけるかのように、雨水が優しく癒してくれるような気がした。しかも、緑色の雨という表現も、面白いなと考えた。

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木天蓼(マタタビ)の葉


 【俳句-②】は、特徴のある葉と、白い可愛い花を付けた「ゲンノショウコ」をみると、祖母の煎じた薬草茶の苦い味を思い出すことを詠んだ。
 胃の弱かった私の祖母は、野山から薬草を採ってきたり、それらを敷地に植えたりして利用した。

 子供心に覚えているのは、ドクダミ、クコの実、センブリ、そしてゲンノショウコである。
 これらの葉や茎・根などを乾燥させ、和手ぬぐい製の手縫い袋に入れて、煮沸する。要するに、「煎じ薬」にする。

 漢方薬の伝統的民間薬としては有名なものだと聞いた。時々、私も祖母と一緒飲んだ。言うまでもなく苦い。諺の『良薬は口に苦し』と言うのはこのことだと実感した。

 余談ながら、祖母の胃は、漢方治療だけではだめで、入院して胃潰瘍手術をすることになった。父は仕事で遅く、母が付き添いで病院に泊まり、小学低学年の私と妹の食事は、祖父が作ることになった。大きく切断した野菜が、生煮えで、とても奇妙な食事を、2晩ほどいただいたことを覚えている。


 「現の証拠」は、薬草の効果がすぐに(現に)証拠となって現れることから命名されたと聞くが、私にとって、まさに現の証拠は、祖父母との思い出と共に、なぜか強烈な味の印象も残っている。

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現の証拠(ゲンノショウコ)の花 (白花)

 

 【俳句-③】は、私たち夫婦で、ジャムに加工しようと、桑の実を採ったが、
手袋を外してみると、指先は「どどめ色」になっていて、誰の目にも隠しようもないくらい(白日の下に晒された)証拠となっていたことを詠んだ。

 上句の「白日下」には無理があると思う。本来の意味は、太陽の照っている真昼にと言う意味なのだが、隠そうにも、簡単に洗い流せない色素が証拠だという意味を込めた。まさに、コンビニ店や銀行等を対象に実施する、逃走犯人や車に「カラーボール」を投げつけた跡のようなものである。

 佐久地方で、桑の実は、『メド』と呼ばれる。これを食べると、舌(べろ)を中心に、口の中は濃い青紫色に染まる。この色を「どどめ色」と呼ぶようだ。藍(あい)の濃い青紫色より、少しだけ赤の要素がある。

 私の父母の世代までは、桑の実を食べたようだが、私たちの世代は、「スグリ」や「グミ」は食べたが、「メド」は敬遠した。しかし、最近になって、健康食ブームから、桑の実ジャム作りに励んでいる。

 ところで、私が桑の実を取っている桑は、俗称「おうしゅう桑」と呼ばれる桑の木である。かつて、養蚕が盛んであった頃、植えられた低木の桑は「いちのせ」と俗称され、実の成る前に、枝ごと伐採されて蚕に供せられたので、桑の実を見たことはない。

 俗名の「おうしゅう桑」の大木は、佐久地方で養蚕産業が廃れた昭和40年代後半(1970年以降か)に、「いちのせ桑」が根ごと抜かれて畑になっていった中で、畑の周囲に、そのまま残ることとなった。

 昨今、蚕(カイコ)の糸は、絹糸としての利用というより、例えば絹糸タンパク質から人工血管となったり、遺伝子組み換えの素材に使われたり、様々な目的で注目されていると聞く。また、桑の葉も健康食品やお茶に加工されているようだ。

 我が家の場合、大木を伐採するのを躊躇したから残っているのわけだが、蚕からの絹織物の歴史は古く、中国では紀元前数世紀に遡ると言う。夏休みに孫たちが田舎に来たら、桑の大木の下にブランコを設置したり、木登りをさせたりして、遊ばせようと思っているが、はたして、その誘いに乗ってくるだろうか。

 可能なら、大人になった時、桑と蚕、その起源や絹の歴史について、実地に桑の木に触れて、思い出のひとつとなれば良い。

 そう言えば、「桑実杯」もある。大学入試で生物を専攻した人なら「桑実杯」を覚えていると思う。受精卵が、細胞の数を殖やしていく卵割段階で、概観が、桑の実に似ていることから名付けられた生物学の科学用語である。しかし、桑の実の実物を見る人も少なくなった現代、「桑実杯」は、そのイメージを若い人々に伝えているのだろうかと、少しだけ不安になる。「苺(イチゴ)に似ている」なんて言うかもしれない。

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桑の実 (メド)

 

【編集後記】

  本文中に、蚕(カイコ)の話題が出てきました。

 養蚕(ようさん)は、天皇家の宮中における伝統行事として、皇后陛下が取り組まれ、蚕に桑の葉を与えられたりするニュースが、報道されることがありますが、逆に、庶民や若い人は、知らないことが多いのではないかと思います。それで、私が子供の頃に関わった、蚕にまつわるエピソードを紹介したいと思います。

 まず、カイコの一生について、概要を理解しておきましょう。(※難しい漢字は、2回目から、ひらがな・カタカナ表記とすることもあります。)

 人工飼育でない自然状態だと、蚕(かいこ)は、繭(まゆ)の中で、蛹(さなぎ)という状態となってが冬越し、春になると、マユを破って、羽化し、外に出ます。カイコ蛾(が)で、成虫です。これには、雄(♂)(幾分小さい方)と雌(♀)(お腹の太く大きい方)があって、互いに相手を見つけて交尾して、卵(たまご)を生みます。

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カイコの一生(生活段階)

 私は、どんな卵か見たことはありませんが、昆虫の卵のイメージでしょう。

 養蚕農家に届けられるのは、この卵が孵化(ふか)して、とても小さな幼虫の段階からです。大きさというか、長さが1cmにも満たないので、何匹というより、何グラムという単位で取引されます。

 最初の幼虫段階では、桑の葉を細かく刻んで与えます。小さな白い塊が動いて、緑色の葉が無くなってしまいます。正確に何日後のことかは子供にはわかりませんでしたが、大人はカイコの桑の食べっぷりから、幼虫が第一脱皮状態(カイコの場合、セミのような脱皮をする訳ではない)になったことを知ります。半日か1日後には、次の幼虫の段階になって、盛んに桑の葉を食べます。こうなると、農家では、1日に2~3回、山の畑へ桑の葉採り(桑採り)に出かけないと間に合いません。

 このようなサイクルを4回経て、長さが5~6cmになると、急に動かなくなります。蚕の体内では、生糸を吐き出す為の変化が進行しているのかもしれません。大人は、「しきた」と言い、『お蚕あげ』の準備をします。

 お蚕あげとは、蚕を一匹ずつ丁寧に掴んで容器に入れて運び、マユを作らせる装置、「まぶし」(昔は、藁(わら)で編んだもの、後に、紙製の仕切りのあるものに代わる)に入れた。よく、ぎっしりと詰まった状態を蚕棚(かいこだな)のようだと言うが、狭い空間の有効利用の為、「まぶし」籠(かご)を棚に保管した。

 この後、蚕に桑の葉を与えて育てた床の片付けをする。蚕が大きくなってくると、葉だけを与えるのではなく、本文で紹介した「いちのせ」桑という枝ごと供していたので、棒も片付ける。しかも、蚕の糞尿(ふんにょう)がたまり、発酵しているので、生暖かく、匂いもある。私は、抵抗感もなく扱ったが・・・。

 さて、「まぶし」の中の蚕は、口から生糸を吐き出して、マユ玉を作っていく。その手順については省略するが、私の中学校の国語の教科書には、この科学レポートが掲載されていた。1匹の蚕が吐き出す生糸の長さは、1.5~2kmにもなるという部分は、覚えている。

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蚕は口から生糸を出していく

 「まぶし」の中にできた蚕のまゆ玉は、中央部の玉と、その回りの部分があり、綺麗な中央部だけ、品質の良いものだけを選別する。「繭掻き(まゆかき)」作業という。手動の装置で行う。そして、養蚕農家は、農協(今のJA)などの仕入れ業者に運んでいく。

 

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蚕の繭(まゆ)玉ができた

 養蚕農家の仕事は、ここまでだが、まゆ玉をお湯に漬けて、生糸をほどいて、長い繊維状の糸を取り出す工程がある。かつての製糸工場である。世界遺産となっている群馬県富岡製糸場などが有名だが、全国各地にあった。

 この繭玉(まゆだま)の中には、糸を吐き出した後の蚕が、茶褐色の塊のような蛹(さなぎ)となって、入っている。製糸工場で扱われた蛹は、もちろん死んでしまうが、自然状態のまま繭の中にいる蛹は生きて、越冬する。再び、カイコガとして蘇り、次の世代へと、生命を繋いでいくのだ。

           *   *   *

 「カイコの一生」の概要と言いながら、養蚕農家の話題も入れたので、長くなってしまいました。

【エピソード-1】 

 「真綿で首を絞める」ようにという表現があるが、若い世代は、真綿の実物を知っているのだろうか? ・・・まず、言葉の意味だが、『いきなりではなく、遠まわしに、じわじわと責めたり、痛めつけたりすることのたとえ』である。

 次に『真綿』だが、これは「繭掻き(まゆかき)」工程の中で、繭玉の周囲から取り除いた蚕の糸や、不良品となった繭玉をほぐした生糸のことである。それを綿状にしたものである。この利用方法は、様々だと思うが、私の知る限り、木綿の綿を入れて布団作り(その昔は、古い布団綿は専門業者が洗って加工してくれていた)をする時、綿がずれないように、外側を覆った。伸縮性があり、しかも切れない。この性質が、最初の「首を絞める」のにふさわしいのだろう。

 私は、スケート大会に出場する時、祖母に、肌着の上に真綿を張ってもらい、その外側にセーターを着た。現代のスケーターは、ワンピー(スケート競技用のワンピースの高性能素材)を着て滑っているが、昔は防寒、防風の為・・・何より、背中に家族の声援を背負っていたようなものである。下の写真は、ある日の松原湖大会である。

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背中に「真綿」を背負ってスケート滑走

 

【エピソード-2】

 「蚕食(さんしょく)する」という表現があるが、これも若い世代では、イメージし難いと思う。 言葉の意味は、『じわじわと侵食していくこと。領地などを端のほうから徐々に侵略していく様子。鯨が、一気に飲み込む様子と併せて、他領を侵略することを蚕食鯨呑(さんしょく・げいどん)との表現もあると言う。

 養蚕農家は、気象条件や供給できる桑の量に応じて、「春蚕(はるご)」・「夏蚕(なつご)」・「秋蚕(あきご・しゅうさん)」・「晩秋」さらに「冬蚕(ふゆご)」まで飼ったようだ。寒さ厳しい信州では、ぎりぎり「晩秋」蚕を少しだけというのが、限界であった。

 私が子供の頃、蚕は家の中で飼うのが当たり前で、特に、量が多くなる夏蚕の場合、人が住む母屋も蚕を飼育する場所となった。我が家は、母屋と長屋、別棟を合わせると、現在19部屋ある。この訳は、養蚕の為に広い空間が必要であったものを、その必要が無くなった後で、空間を簡易壁で仕切ったから、部屋数だけが増えたからである。

 夏蚕の時期になると、今も私が勉強部屋として使用している2階の10畳の部屋の内、南側の板敷4畳分には、蚕を飼育する為の蚕籠が4枚設置され、蚕を飼育されている空間とは、カーテンで仕切られた。

 ほぼ夏休み中のことであり、昼間は、家の北側に物好きで設置した、ビニルシート製の秘密基地ならぬテントで過ごしたり、外で遊んでしたりして良かったが、蚕の隣りの畳の部分が、私の寝室であったので、古典落語の『寝床』に登場する大店の小僧さんではないが、泣きべそになる。しかし、1日遊び疲れた私は、あまり気にしない。

 それでも、寝付くまでの何分間は、夕方に「いちのせ桑」を供せられた蚕が、桑の葉を食べる音を聞いていた。蚕という昆虫の口は小さいが、結構硬い桑の葉を少しずつ、かじっていく。擬音語表現では、『ザワザワ・サワザワ』と、途中に少し音の変化を含みながらというのが、近いのかもしれない。こればかりは、実体験した人でないとわからないと思うが、いずれにしろ、尖閣諸島にしつこくやってくる中国公船のイメージである。

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桑の葉を食べる蚕(何齢かの内、後半の幼虫)

 

【エピソード-3】

 ある日を境に、『はるさめサラダが食べられなくなってしまった』理由。

 世に「トラウマ」という心理的な現象があって、人々を苦しめていると聞くが、どうやら、私にも当てはまりそうだ。

 養蚕農家では、たかが蚕に対して、「お蚕様」と様付で呼んでいた。稲作を通して得られる米の収入が生計を維持する主力ではあるが、比較的、短時間で効率の良い現金収入のあった養蚕は、昆虫飼育に「様」を付けるだけの理由と現実があった。

 冒頭に示した、野菜サラダに「はるさめ」があると食べられない理由は、「蚕あげ」だけでは無いが、うかつにも、上記「エピソード-②」で語ったように、蚕の身近にいて、うっかり蚕を踏みつけてしまったことがあるからだ。

 蚕を摘んでみると、その柔らかさと、冷たいさに驚く。

 無脊椎動物で、変温動物なので、と説明すれば済むが、実際に触ってみた人と、想像する人では違うと思う。

 脱線するが、旅行で訪れた沖縄で、人がようやく抱えられるほどの大きさの「ニシキヘビ」を観光客の首に巻いて撮影させるイベントが行われていた。当時、同世代の若い女性が、首の後ろ側から大蛇を垂らされて、『冷た-い』と、騒ぎながら笑っていた。しかし、私は、恐く無い蛇ではあったが、家内が写真を撮るからと言うものの、本心は恐くて、できなかった。

 私は、本来、蛇を、そんなに嫌いでもない。少年自然の家に勤務していた時、所員旅行で伊豆方面に出かけた昼食時、アオダイショウが、ヒキガエルを飲み込もうとする場面に遭遇したことがある。蛇は無理して、大きすぎる相手を飲み込んだのだろう。蛇の歯や顎の形態から、吐き出すこともできず、飲み込めもできず、苦しんでいた。

 私が『自然の摂理ですから、放っておきましょう』という意見に反して、S次長は、ヒキガエルの体を、蛇の飲み込んだ口から、強引に引きずり出してしまった。

 蛇の締め付けの他、唾液なのか胃液なのか、ヒキガエルの体は変色して、絶命の一歩手前であったが、その状態から、逃げて行った。その後の様子は不明である。

            *   *   *

 さて、「蚕上げ」の日に、うかつにも、私は、「お蚕様」を踏みつけてしまった。

 破裂して、内蔵の腸(消化系)と思われる部分が見える。祖母や母が大切に育てている蚕を、踏みつけた罪は重い。

 そんな思いを抱いて後悔していた時の、何とTVの昼番組で、「少し大型のヘビが、少し小型のヘビを飲み込む場面」を映し出していた。自然現象に関して、かなり残酷と思えるシーンであったとしても、それが、どうしようもない自然現象の一部であれば、手を加えずに、「あるがままに」と言うことが、私の考えである。

 それが、不思議なことに、いつまでも、気待ち悪いというイメージに変わりました。それは、たぶん蚕を踏んでしまったという後悔と、蛇が同じ蛇を飲み込むという場面に「透き通ったカイコの消化管」の視覚映像が重なり、たまたま食べていた「はるさめ」を見て、気分を害したのだと思います。

 それ以来、好きな野菜サラダは、毎朝、作っていますが、「はるさめ」を使うことは無くなりました。

 

 ★最後に、今日は、ほぼ一日中雨降りで、上記のような昔話を集めてしまいました。今の関心事は、梅雨の晴れ間をみつけて畑の除草を兼ねた耕作をしたいということですが、なかなか計画通りにはいきません。梅雨明けを待っています。(おとんとろ)

 

 

 

 

令和3年 皐月の句(5月に殖えたもの)

 【 皐月の句 】

① 築山に 山百合殖えて さき楽し

② 石楠花(しゃくなげ)を 伝ふ滴に 音は無し 

③ 山藤の 山肌粧(よそお)ふ 絹衣     

 

 一時期、長野県下では新規コロナ・ウイルス感染者が、県全体で1日・48人(5月23日)と増えた事もあり、佐久地方でも警戒レベルが上がったが、比較的、早く治まったので、定例俳句会を開いた。
 私は、初夏と共に、5月に「殖えたこと」をテーマにしてみた。捜してみると、次々に題材があつまり、提出した3句の他に5句も出来た。ただし、出来の具合は怪しいが、それだけ、日常に感動のあった5月であったのかもしれない。


 【俳句-①】は、知らぬ間に「ヤマユリ」の株が、庭の築山や路地に殖えたので、花の咲く真夏を楽しみに、大事に管理している様を詠んだ。

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築山の庭石にもヤマユリが殖えた

 秋になると、ヤマユリ(山百合)は、めしべの子房部分が茶色く変化した「朔果」と呼ばれる所に、種子ができる。まるで小さなコイン(金貨)が、ぎっしりと積み重なったような形態で、この種子が散らばって殖えていくようだ。
 だから、知らぬ間にではなく、注意していれば、芽生えが観察できたのだと思う。
 一方、根付いたヤマユリは、百合根という球根ができて、翌年には、こちらからも芽生えていく。ただ、肥料を与えないせいなのか、見学した百合園から購入してきた百合の園芸種は、毎年、小さくなっていってしまった。
 今年、芽生えたヤマユリは、大事に管理して、数株は、8月1日のお墓参りの花として、献花したい。

 

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山百合の花



 【俳句-②】は、庭の石楠花(シャクナゲ)の花に、霧雨が降った後、雨粒が垂れていく様子を詠んでみた。
 石楠花は、本来は高山植物であるが、私の父が若い頃、八ヶ岳山稜から持ち帰り、庭に植えたものらしい。
 何年周期という正確なデーターはないが、明らかに、花が盛んに咲く年がある。今年は、その年度に当たっているらしく、2株とも、見事に花を咲かせた。
 霧雨の後、庭に出てみると、クチクラ層の発達した葉から、雨の滴が垂れていた。物理的に、雨粒が垂れる音は聞こえないと思うが、『音は無し』と表現してみた。

 我が家は、佐久盆地の西端の山裾に位置するので、閑静な所だ。ただ、正確に言うと、中部横断自動車道が出来たので、耳を澄ませば、自動車の加速音が、わずかに聞こえてくる。

 

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庭石に添う石楠花の花


 【俳句-③】は、農作業を終えて自宅への帰路、軽トラックから新緑の山肌の中に、淡い薄紫色の山藤(ヤマフジ)が麗しく見えた様を詠んだものです。
 遠目に里山の雑木林の中の山藤の色合いが、なぜか艶めかしい女性の下着、しかも、西洋的なものではなく、和風の「襦袢」のようなイメージで感じられました。下着の色は、白が一般的ですが、薄紫色も、またいいものです。
 それで、襦袢では露骨過ぎるので、絹の衣(ころも)と洒落てみました。
 私は、普段、こういう俳句はあまり創作しないのですが、俳句会で披露すると、会員から多くの推薦票をいただくこととなり、びっくりしています。
 ただ、中句の「粧う」は、「装う」でよかったかなとも思います。山藤とて、お化粧をした訳ではなく、ただ懸命に綺麗な花を咲かしている自然の営みに過ぎないはずなのです。

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山藤(ヤマフジ)の花

 【5月に殖えたもの(追加版)】

(ア)赤松の新芽が殖えた。そこで、一句 

 『松の芯 百年民家 黙し見ゆ』
 我が家は、今年の秋で、築101年を迎えます。赤松の歴史は、その内の半分強の60年ほどですが、庭から家屋を静かに見守ってくれています。
(赤松の新芽の芽生えは、5月初旬でしたが、松の芯は、春の季語です。)

(イ)雀の囀りが増えたように感ずる。
 『雀殖え 我を目覚ます 初夏の四時』
 番(つがい)の雀が、我が家の近くに新たに住み着いたのか、朝の鳥の囀りに、雀の鳴き声が加わった。

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赤松の新芽(松の芯)



【編集後記】

 5月にと言うより、今年度、意図的に殖やしたものは、アスパラガスの苗である。

【下の写真】のように、小さなポットに市販のアスパラの種子を蒔いて、温室でしばらく育てた後、外に出した。失敗するかもしれないと、2回に分けて挑戦したので、合計48ポット(先)+36ポット(後)、84ポットとなった。これらを、やはり2回に分けて、山の畑に定植した。 

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アスパラガスの苗を育てた(24ポット×3.5=84ポット)

 これには、次のような苦労話がある。

 まず、アスパラガス栽培のきっかけは、好きだからという理由だが、加えて、買い物の折、スーパーで価格をみたら、他の野菜類に比べてかなり高い。これなら、自分で栽培して食べようということになった。

 初年度は、苗を購入してきて植えたが、次の年からは、種を蒔いて育てることにしたが、失敗した。ようやく、3年目から蒔く時期、管理方法がわかり、次々と畝を増やしてきた。そして、念願の「好きなだけ食べる」という夢が実現できた。

 ところが、肥料が少なかったのか、弱り出してきた。慌てて追肥や土壌改良をしたが、間に合わず、加えて害虫被害が出始め、ついに昨年度は、最後に定植した一列を残して、全滅した。食べたのは、数本という悲劇だった。

 家内は、カラマツ林も近く、午後の日差しの少ない環境だから、日照時間不足だと言うが、それも事実だが、明らかなのは、「ジュウシホシクビナガハムシ」が殖えてきてたことが原因と思われる。数年前から、少しずつ被害が出ていた。

 星の数を数えたことはないが、14星というらしく、首も長いのが特徴の葉虫という名前が付いている。ジャガイモに付く「ニジュウホシ・テントウムシ」を毎日、つぶして回るのと同じように、気づけば手でつぶしていたが、ダメだった。

 

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ジュウシホシクビナガハムシ

 インターネット情報では、『 長野県内では山間の山沿いの畑に発生が多く、各地で被害が目立つようになった。・・・春先萌芽を始めると、越冬成虫が逐次固場に移動してきて、寄生し食害を始める。・・夕方になって気温が低くなると、下にくだって土塊の間や茎の切りあとの間隙に入ってしまう。

 食害されると茎は曲がったり、上部の加害部がへこんで変色したりして、次々に萌芽するアスパラガスが加害されるので、被害は大きい。
 ・・・・成虫は体長7~ 8 mmで全体が赤橙色で、14個の黒点がある。幼虫は頭部が黒色で体全体が灰褐色をしている。 3対の脚で動きまわる。』とある。

 これなら、一旦、畑を全滅させようと考え、アスパラガスの地下の根の大きいものだけ少し残し、一列を残して、害虫を見かけなくなってから、畑を白紙状態にした。

 そして、新規に84ポット(本数は、更に多い)を定植した。だから、今年採れて食べたアスパラガスは、たった一本だけだったが、来年は・・・・・と希望を抱いて、畝の除草をしています。(おとんとろ)

令和3年・奉燈俳句

 【倉沢薬師・奉燈俳句】

 

   夏空へ 届け薬師の 鐘聖し

 

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令和3年度 奉燈俳句の俳顎

 【奉燈俳句】は、夏に「東京オリンピック大会・パラリンピック大会」が無事に開催できますようにと、薬師堂の鐘楼に登って鐘を突いては祈ったことを詠んでみた。
 初冬から早春にかけての農閑期には、午後3時を少し回った頃から、寒風の日でも、1時間ほどの散歩に出かけることを日課としていた。そして、帰宅してから、我が家と隣接する薬師堂の鐘楼に登っては、『無事に東京五輪が成功しますように!』と、梵鐘を三回突いて、祈った。時刻は午後4時半前後となろうか。
 季節の移ろいの中で、日没時間は始めは早まり、その後は少しずつ遅くなってきたので、ほぼ同じ時刻でも、江戸時代の寺院のように「刻を報らせる」合図にはならなかっただろうが、近隣の人々は夕暮れの梵鐘の音を聞いていた。風流と感じた人より、迷惑であった人の方が多かったかもしれない。
 その音を『鐘聖し』と表現したのは、東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会の会長・橋本聖子氏よろしく、大会の聖火をイメージしたからだ。ちなみに、橋本聖子さんは、東京五輪大会開会式(昭和39年10月10日)の5日前に、北海道の橋本牧場で生まれたので、聖火に因んで名付けられたと言う。昭和59年サラエボ冬季大会から平成8年アトランタ夏季大会まで、スピード・スケート競技と自転車競技の2種目で、合計7回もの大会に選手として出場しているスーパー・ウーマンでもある。

             *   *   *

 さて、今年の7月23日(臨時の祝日「スポーツの日」)には、第32回東京オリンピック大会の開会式が予定されている。本来は、昨年の7月23日(同じく臨時の祝日)に開催されるはずだったが、新型コロナ・ウイルス感染の世界的大流行(Pandemic)のせいで、一年先送りされた。それでも、流行は治まらず、数ヶ月先に迫った大会開催さえ危ぶまれている。運営方法の制限だけではなく、大会中止を叫ぶ世論調査結果さえ出てきている。
 『それは無いでしょう』というのは、私で、もちろん大会推進派である。投資還元や経済に配慮した立場ではないが、何が何でも開催を叫ぶ狂信派でもない。
情報は冷静に把握して、心を痛めながらも、大会の成功を願う一国民である。

 ただし、私自身が、心理学で言う「正常性バイアス」の意識であることは事実である。危機の可能性についての情報を得ていても、『第18回東京大会を前にして亡くなった池田勇人首相に代わり、佐藤栄作首相が無事に成し遂げたように、持病の悪化で退陣した安倍晋三前首相から、バトンを受けた菅義偉首相が立派に乗り切ってくれる』と、期待している。
 私が、コロナ禍とは比較的縁の薄い田舎に住み、しかも、人と接する現場を離れた野良仕事ぐらいの状況にあるからかもしれない。
 しかし、これらの思い込みに似た状態は、新たに発生した物事を正常の範囲だと、自分に言い聞かせるような、自動的に認識する為の心の働き(メカニズム)だと言う。・・・だから、あまり強硬な発言は控えておこう。 

 ところで、昨年の奉燈俳句は、『瑠璃色の 五輪待つ空 燕交ふ』でした。
 コロナ禍で、2020東京大会が、丸一年延期されることなりました。そうなると、『1年後の晩春から初夏には、大空を燕が飛び交い、数ヶ月後の開催を、楽しみに待っているだろうな』と想像して、五輪大会開催への願いを込めて詠んだものです。まさに、二年越しの祈願を込めた奉燈句となってしまいました。


 【編集後記】

 奉燈俳句の額が出来上がり、快晴だったので4月20日の朝、H会長に電話を入れたら、『もう少し後でも良いかな』との返事でした。一方、4月26日の朝、突然に電話が入り、『風が強くてビニール・ハウスの修繕ができないので、今日やろう』ということになりました。私たち「みゆき会」は、こんな感じで、運営されています。
 令和になってから、薬師堂奉燈俳句の額は、私が担当しています。皆で俳画を描いたり(平成28年~30年)、墨書を書道家に依頼したりしてきましたが、90歳を越えるスタッフの皆さんの限界宣言から、私にお鉢が回ってきました。真実の実態は、やればできそうな人はいますが、最若手の私が引き受けると万事うまく治まるようだ。
 私も、『裸の王様』ではないから、自分の実力の程は、わきまえている。俳画を描くことも、墨書することも負担ではないが、優れているとは思っていない。それでも、敢えて挑戦してしまうのは、前向きな性格なんだと、呆れてしまう。

 奉燈俳額を掲げた後、これまで会から依頼されて墨書を担当していた、みゆき会員の夫で書家の玉峰氏が、鐘楼下の作品を見に来てくれた。偶然にも、私が外に出ていて、お会いすることができた。
 『若い人が伝統を引き継いでいてくれるので、安心しました』と、俳額の奉納を喜んでいただけた。何にも増して、励ましの言葉でした。(おとんとろ)
     

 

令和3年卯月の句(春の子ら三題)

  【卯月の句】《春の子ら三題》

 ① 警泥の 泥ら駆けてく 日永かな
 ② 姉を追い 春の風切る ヘルメット
 ③ 花は葉に 仔犬散歩の 似た姉妹   

 

 少人数での「定例俳句会」ではあるが、新型コロナ・ウイルス感染拡大の影響で、令和3年になってから1月、2月と2度も中止としたが、3月には開催できたので、4月も敢行することした。と言うのも、月遅れの「倉沢薬師堂花祭り」に向けて、奉燈俳句・俳額の製作という大切な恒例行事があるからだ。
 4月14日に南区公民館で、全員が参加して、令和3年度「みゆき会」が発足した。幸先の良いスタートである。

 私の4月の俳句は、佐久地方の学校の春休み中に見聞きした、伸び伸びとした子供らの姿を題材にしてみようと思った。

 

 【俳句-①】は、通称「警泥(けいどろ)」と呼ばれる「鬼ごっこ遊び」に興ずる子供らを応援するように、日が延びていく嬉しさを詠んでみた。
 春休み中の児童館で、子供たちが「警泥(警察と泥棒の略)」遊びをしていた様子を、『最近の子供って、弱い子に優しいんだね』と、私の家内が神妙な面持ちで、次のようなエピソードを語ってくれた。
 かけっこの遅い子が「警」になると、「泥ら」を、いつまでも捕まえられなくなってしまい「警」の子が可愛そうだ。そこで、『タイム』が掛かり、足の速い子が抜擢されて「警」になる。すると、「泥ら」は面白いように捕まって、留置場は、すぐに「泥ら」でいっぱいになる。家内は、最後は笑いながら、事の一部始終を話してくれた。

 ふと、自分の幼い頃の「かくれんぼ遊び」や「缶蹴り遊び」の思い出が蘇る。
鬼になった子が、何度も鬼を繰り返し、最後は泣いて自宅に逃げ帰ってしまったことがあったことを!

 ところが現代の子供は、正義とかルールとか言う前に、現状で困った子がいたら、途中でルールも改正して、皆で仲良くやっていこうという処世力学が働いているようだ。家内は、その点に感動して、私に伝えてくれた。
 私も、学校教育の影響力があるだろうことは理解できる。
 ところで、『泥ら』という響きが、外国語のようでもあり、未知の言語のようでもあり、妙に新鮮に聞こえて、印象に残った。
 それで、子供らの遊びの描写に、「DORORA」を使ってみようと発想した。
 季語としては、日増しに昼間の時間が長くなり、暖かな日差しが溢れる『日永』が、ふさわしいと考えた。

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ごっこ遊びのイメージ


 【俳句-②】 は、春風を切って自転車走行をする子供らの様子を詠んでみたのだが・・・。私の俳句の特徴で、解説を加えないと、描写した背景がわかってもらえないようだ。
 会員から直される前の俳句は、『ノーヘルの春の風切る笑い声』であった。

 小学校低学年の妹は、校則を守り、ヘルメットを被っている。一方、姉の方は、春休みの開放感からか『ノーヘル』で、農道を自転車で併走する友人と、何がおかしいのか、高笑いをしながら、滑るように自転車を走らせていった。
 ところが、妹の方は、変速機の付いていない自転車なので、ペダルを必死に漕いで、姉たちを追いかけて行くのだ。

 私が、そんなエピソードを語ったら、ある会員から、『俳句では、意味のわかり難い略語は厳禁です!と、厳しく指導する先生もいますよ』と、指摘が入った。
「ノーヘル」は、ヘルメットを着用していない「ノーヘルメット」のことだが、好ましくないらしい。それで、姉とその友人の高笑いの情景より、二人に追いつこうとして必死にペタルを漕いでいた妹に、敢えて「ヘルメット」を被せた作品に作り直してみた。
 元々、感動して表現したかったのは、健気な妹のペタル漕ぎの姿だったので、私としては異論はなく、ほぼ満足である。

 ところで、人は、長男・長女であった人と、その弟や妹であった人とで、性格や考え方、他人との対応の仕方など、ずいぶん違う傾向があるという話を聞いた。
 実際、変速機付きの新しい自転車に乗る姉と、多分、姉の乗った後の「おさがり」の自転車に乗る妹の姿を見比べると、兄弟姉妹という小世界の中でさえ、不平等さが、あると思った。
 長男である私は、男の子を大事にする旧来思想の残る田舎で幼児期を過ごしたので、家族ばかりか、地域社会からも、妹と比べて段違いの特別扱いを受けていたと思う。今の、この年齢になって、そのことを振り返る。
 しかし、それを「差別だ区別だ」と騒ぐ以上に、兄弟姉妹の間の愛情があれば、ある程度、宿命的な条件として、互いに折り合いをつけて付き合っていくのも、これまた、幸せへの道筋なのかもしれないと思います。

 

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花から葉桜の季節へ

 【俳句-③】は、仔犬散歩の子に出会った時、それぞれの「生き物」としての宿命的な速さのレベルで、展開していくことに感動して、詠んだ俳句です。
 どうやら、この俳句も、私独特の飛躍があり過ぎて、解説が必要なようです。
 近所のHMさんの子供の姉と弟が、仔犬を散歩させていた。弟は鎖を持たせてもらえずに姉に附いていくだけで、少し不満もあるように見えた。
 ふと、我が家で飼っていた犬たちと、家族のことを思い出していた。母犬(テリー犬)が、4匹の子犬を産んだが、2匹の雄(♂)犬は子犬の時にもらわれて行き、雌(♀)犬2匹が残った。
 その後は、母犬を含めて3匹の犬たちを散歩させる度に、家族の誰が、どの犬の鎖を取って連れて行くかを争ったものであった。

 愛犬飼育は子ども特有の願望のようで、隣家のMMさん宅の子供さんたちも、3人の内、誰の発案かわからないが、犬を飼い始めた。

 一方、桜木は年輪を重ねていくが、基本、一年周期で改まり、春夏秋冬を繰り返す。厳しい冬を経た蕾は、春の日差しを浴びて一斉に咲き出したかと思えば、見る間に散って、葉桜の季節となる。夏から秋は、人々から注目されることもなく、樹齢を重ね、次年度への準備期間に入るのである。

 しかし、動物であるヒトとイヌは、桜と大きく違っている。寿命の差から、子供の頃に育て慈しんだ愛犬は、人が成人した頃には、老犬となって亡くなることも多い。犬の成長は、人間の6~7倍と言われている。

 直接見たのは仔犬散歩の姉弟だが、そこに我が家の姉妹らの犬へ愛情を注ぐ類似した思いを感じたので、『似た』という言葉を使った。

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長生きしたエル犬と成人した娘

 MHさんの子供たちも、私の娘姉妹が成人して結婚し、母となって行ったのと同じように、花から葉桜への移ろいを何回か重ねると、大人になっていくんだなと思い、昔のことが懐かしくもあり、現代の子供らの勢いにも感動した。

 

【編集後記】

 俳句シリーズは、久し振りです。雨降りの日が続き、農作業ができないので、俳句のまとめをする機会ができました。令和3年度の4月~7月を、「はてなブログ」載せていきたいと思います。

 私は、定年退職後、8度目の4月を迎えました。俳句の「みゆき会」には、3年目の4月に入会を誘われて、5月の会から参加したので、卯月(四月)の俳句を作るのは、今回で5回目になります。ちなみに、年度別に選んだ「季語」を振り返ってみると、

(ア)平成29年:里桜/山桜/花藥師

(イ)平成30年:春惜しむ/蕗のとう/甘茶仏

(ウ)令和元年(正確には、平成31年):春選挙/チューリップ/すみれ草

(エ)令和2年:猫の恋/初音/蕗の花

(オ)令和3年:日永/春の風/花は葉に   ・・・・でした。

  登山の折り、途中の尾根で休憩して振り返った時、自分の歩んできたルートを見ると、思わず嬉しくなるのと同じ心境です。ただ、大きな違いは、作品の出来映えには、課題が多いなあと、思うことでしょう。

 会の何人かの先輩からは、『平均年齢81歳の小さな「みゆき会」で満足しないで、立派な指導者のいる会に入って、勉強してみませんか』と促されますが、『私の専門は地質学なので』と断ります。上手に俳句を作れるようになりたいとは思いますが、月に一度の句会の度に、かなり苦しみながら三句を、ようやく作って参加している状態なので、趣味の範囲で構いません。(おとんとろ)

 

  

佐久の地質調査物語-133

雨川水系の沢

9. 仙ヶ沢の調査から

 平成16年8月11日、愛犬エルと一緒に、仙ヶ沢に入ることになりました。地質情報誌に、仙ヶ沢で「熊棚」を見つけたとあり、家内の『エル犬を連れて行けば』という提案を受けて、首輪に鈴を付けてお供させることになりました。綱を外して自由にさせておいても、私が呼べば必ず戻ってくる犬なので、里山とは言え、単独行より心強い。
 他の3匹の犬と共に平成10年10月10日に生まれ、平成27年1月10日に16歳3ヶ月で死んだので、この時は、エル犬(♀)も、5歳10ヶ月と若かった。

 

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仙ヶ沢のルート・マップ【日本の海から一番遠い地点】

 

 (注)正式な沢の名称がわからないので、私たちが「滝ノ沢林道の沢」と名付けた沢の下流部近くで、「仙ケ沢」は合流している。寧ろ、仙ヶ沢が主流であるかもしれない。いずれにしろ、沢の各地点については、上のルート・マップを見て欲しい。

 尚、本文中にも出てくるが、仙ケ沢の支流の「判行沢」を詰めると、『日本の海岸線から一番遠い地点』に到達できる。林道があるので、山歩きがてら訪れる人もいるようです。

 滝ヶ沢林道の橋、標高965m付近(【図-⑥】)から、沢を離れるようにして、林道は尾根の標高沿いに延びています。仙ヶ沢の【図-①】から林道沿いに「日本で海岸線から一番遠い地点」の碑(【図-⑦】)まで調査して、林道を途中まで下山しました。その後、標高950m堰堤の少し上流の二股から、滝の下(【図-⑫】)まで調査しました。

 滝ヶ沢林道の【図-①】では、熱変質した灰白色中粒砂岩層が見られました。標高に沿う林道のコーナー(【図-②】)では、閃緑岩(diorite)が見られました。仙ヶ沢の沢底から標高差で30mあり、標高1000mほどです。

 林道の標高1010m付近(【図-③】)では、熱変質した灰白色泥岩と灰色中粒砂岩の砂泥互層で、走向・傾斜はN60°E・10°Sでした。林道の南側に振るコーナーでは、同質の砂泥互層で、N30°W・10°Sでした。(この下に、閃緑岩(diorite)でできた、推定で落差10m以上の大きな滝がありました。少し大変そうなので、帰路に確認することにして、先に進みました。)

 標高990mほどで、林道と沢が併行するようになります。全体は、熱変質した灰白色泥岩ですが、砂泥互層となる露頭(【図-④】)をみつけ、N70°W・10°Sの走向・傾斜を測定しました。
 南から流入する沢との合流点から少し下流、標高1000m(【図-⑤】)では、熱変質した灰白色泥岩層が見られました。ここから上流へ、同質の泥岩層が観察できました。
 標高1080m二股で、熱変質した灰色中粒砂岩層が見られ、二股を右股へ、南東方向に進みます。小さな沢との合流点(標高1110m・1120m・1155m付近)では、熱変質した灰白色泥岩層~細粒砂岩層がありました。広範囲に渡って熱変質があるのに、熱源となった露頭が見つかりません。

 この沢の関係では、唯一、遙か下流【図-⑥】で、閃緑岩(diorite)が見られた程度です。玢岩の岩脈露頭も、なぜか見られませんでした。

 標高1200m(【図-⑮】)に、「日本で海岸線から一番遠い地点」の碑が立ってしました。【下の写真】

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日本の海から一番遠い地点の標識

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説明板(当時は、南佐久郡臼田街/現在は佐久市

 位置は、「北緯36°10'25''、東経138°35' 01''」で、日本海と太平洋の海岸線から、約114.858km離れているとの説明がありました。一人の大学生の投げかけた疑問に対して、国土地理院のコンピューターが検索した結果だそうです。発表された平成8年(1996年)当時は、長野県南佐久郡臼田町(現在は佐久市)に所属する山奥でしたが、群馬県甘楽郡南牧村との県境から、西へ100mほどです。
(4カ所の海岸線・港からの数値は、「雨川水系の主な沢」の図福に記載しましたので、参照してください。)

 ここに着いた時は、エル犬と私だけでしたが、お昼を食べていたら(11時40分頃)、年配の男性(立科町在住)が一人で登って来ました。そして、コンビニ弁当を日本酒カップで食べているのを見て、定年退職後は、「こんな散策もいいな」と思いました。その後、林道を使って堰堤まで下山しました。
            *   *   *


 標高950m付近の堰堤まで戻り、すぐ上流の二股から仙ヶ沢に入りました。
 標高960m付近(【図-⑧】)では、熱変質した灰白色泥岩層の中に、同質の礫と砂岩塊がわずかに含まれていました。(一部、二次堆積があったか?)
 標高965m付近(【図-⑨】)では、閃緑岩(diorite)(下流側)と、熱変質を受けた灰色中粒砂岩層(上流側)が接触している露頭がありました。
 標高975m付近(【図-⑩】)では、熱変質した中粒砂岩層の中に、比較的、層理面に沿う、軟着陸タイプのコングロ・ダイク(2.5m×3.0m)が認められました。礫種は、やはりチャート礫は無く、砂岩の礫がほとんどで、黒色頁岩片は少なかったです。

 標高980mから995m(【図-⑪】)にかけて、両岸から岩盤が迫り、クランク状の渓谷になっていました。全体は熱変質した灰色中粒~粗粒砂岩層で、中間に露頭幅10mの熱変質した灰白色泥岩層を挟むものの、砂相です。そんな岩相を反映して、沢底は連続露頭になっていました。

 標高1005m、北東に延びる沢と仙ヶ沢本流との合流点(【図-⑫】)です。全体で、4段の小さな滝が連なり、本流の沢は南に延びていました。参考値NS・8°Eの走向・傾斜の熱変質した灰白色泥岩層が、階段状に小滝を形成しています。滝の先の上流部は、午前中に林道の上から簡単に観察した閃緑岩(diorite)が見られるはずです。これらをすべて合わせて、落差10m以上になります。

 ところが、危なくて登攀できないような小滝ではなかったのですが、途中の2段目で沢に落ちて、全身、特に下半身が、ずぶ濡れになってしまいました。こうなると、急にやる気が失せてしまいました。しばらく私の周りから離れていたエル犬を大きな声で呼ぶと、しばらくして鈴の音と共に、やって来ました。とても安心しました。『帰るか、エル』と、帰宅することにしました。

 

 《滝ヶ沢林道の沢と仙ヶ沢で、

       共通することから》

 滝ヶ沢林道の沢の渓谷(標高1000m付近)と、仙ヶ沢の渓谷(標高995m付近)は、熱変質した泥岩層で、沢がクランク状に湾曲しているという共通項があります。
 また、上流にはケスタ状の小滝(滝ケ沢林道の沢)と、4段の小滝(仙ヶ沢)が続き、共に流路を変える二股がある点も似ていて、さらに地質構造も、N5°E・10°E(林道の沢)に対して、NS・8°E(仙ヶ沢)であるので、ほとんど同じと見て良いかもしれません。もっとも直線距離で、500mも離れていないので、同一層準か、似た熱変質条件であったのかもしれません。
 ところで、情報がそろってくると、「滝ヶ沢林道の下流側の砂相の部分が内山層上部層であり、渓谷の辺りに断層がある」と解釈することが、合理的となってきました。【下の図】

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仙ヶ沢と地獄沢付近の地質図(特に、断層に注目してください)

 滝ヶ沢林道の沢では、小規模断層証拠がありましたが、仙ヶ沢では見あたりません。仙ヶ沢【図-⑩】~【図-⑪】間、および尾根の林道の【図-②】~【図-③】間が、推定断層の通過していそうな候補地です。
推定断層は、落差(西側が下がる)もありますが、右横ずれ的要素の大きい断層で、北に向かい落差・横ずれともに解消していくので、証拠は残していないかもしれません。
 仙ヶ沢「4段の滝」の観察が途中だったので、再調査の必要が、あるのかもしれません。再び、知的好奇心に火をつけ、地質調査に挑戦してみますか。

 

【編集後記】

 本文の最後に、小滝からの滑落(正確には、滑り落ちた程度)で観察を断念した地点を含み、推定断層の通過の証拠を捜しにいこうと述べていますが、その後は、訪れていません。

 実地に地質調査をしたことのある人ならお分かりかと思いますが、余程、特別な場所か、どうしても証拠が欲しい地点でないと、広範囲の調査地域を対象とした場合、なかなか二度目の踏査ということは、物理的にもできません。まして、年齢と共に、単独で山に入るという気力も体力も無くなってしまいます。

 

 ところで、令和3年度になってからの俳句が、まだ、一度も「はてなブログ」に登場していないので、4月・5月・6月・7月の俳句を載せようと思います。

 それで、しばらく佐久の地質調査物語は、中断してます。次回からのシリーズは、『中部域の沢』になります。

・・・今日も雨降りです。やはり、田畑に出て太陽を浴びない室内だけの生活は、気持ちが、滅入ってしまいます。それ以上に、新聞やテレビ、インターネット情報を通じて入ってくる大雨による水害や土石流での被害には、胸を痛めております。

 私の住む地域も、2019年(令和元年)10月の台風19号では、大変な水害に見舞われました。江戸中期の「戌の満水(1742年)」に匹敵すると言われましたが、多くの場合、県内や佐久を取り巻く山岳地帯に囲まれ、東・南・西からの強風や雨雲がやってきても、山岳地帯が壁となって、かなり守られているようです。北は浅間山ですが、こちらからの雨雲侵入は、あまり考えられません。

 『みんな、佐久へ引っ越しておいでよ』と言いたいところですが、冬は寒過ぎます。それに、都会から実際に引っ越して来た方が、『夜になると、虫の音がうるさくて、せせらぎの水音が気になって眠れない』という理由で、元の都会生活に戻ったという話も聞きました。やはり、人は、長年その地に適応した生き方を、選んでしまうのでしょうか。(おとんとろ)