北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語・第203回

    ( 第1章 日本列島の成り立ち )

 

4.日本海の成り立ち

 

(1)飛騨片麻岩・隠岐片麻岩・沃川片麻岩の類似性

 

朝鮮半島の地質概念図

 【図-上】は、朝鮮半島の地質構造の概要を示したものです。「地塊」というのは先カンブリア時代の古い岩石からなる安定した岩盤地帯(クラトン・Craton)のことです。(地震の少ない地帯でうらやましいです。)また、平安盆地や慶尚盆地は、主に白亜紀以降の地層が堆積している所です。

 ところで、沃川帯(オクチョン・Ogcheon Belt)に注目すると、片麻岩(へんまがん・gneiss)が、見られます。片麻岩は、広域変成作用でできた変成度が高い変成岩で、縞状構造が見られます。「黒雲母片麻岩」のように主要鉱物名を付けて呼んだり、「泥質片麻岩」というように構成物を強調して呼ぶこともあります。

 この片麻岩と極めて良く似た岩石が、日本海隠岐島後(とうご)島と、飛騨地方で見つかります。それぞれ、地名をつけて隠岐片麻岩・飛騨片麻岩と呼ばれます。

 泥質片麻岩の中に含まれているジルコン(zircon)という鉱物を、ウラン-鉛法(U-Pb)で年代測定をすると、古いものは20億~30億年前の年代を示しました。これは変成される前、ジルコン粒子が泥や砂と一緒に海底に堆積したものですが、堆積物を供給した花崗岩などに含まれていたジルコンの年代で、花崗岩ができた年代を示しています。現在の日本列島には、そんな古い時代の火成岩は無いので、日本列島がアジア大陸の一部であった時代に、大陸の古い花崗岩から供給されたと考えられます。

 また、飛水峡(岐阜県加茂郡七宗町)のチャート(三畳紀ジュラ紀)が、ロシアの極東、ハバロフスクのチャートと極めて良く似た産状をしていると言います。

 つまり、現在の飛騨地方や隠岐は、かつて大陸の一部か、かなり接近した位置に存在し、朝鮮半島南部の沃川片麻岩と連続していたと考えられます。さらに、飛騨地方はロシアの沿海州と繋がっていたことも考えられるのです。


(2)プレートの動きが変わる

   (~イザナギ・プレートの消滅)

◆7000万年前(白亜紀後期):北上していたイザナギ・プレートの移動する方向が、北西方向に変わり、四万十帯の付加体が、海溝で形成されるようになった。
 中央構造線が形成された。

◆3000万年前(漸新世前期):大陸から離れる。◆2500万年前(漸新世後期):イザナギプレート が消滅し、太平洋プレートとフィリピン海プレー トができてきた。これに伴い、伊豆・小笠原弧(海 底火山列)ができた。日本列島の西南日本と東日本は、一列に並び、北海道は、まだ合体していな い。大陸の内部に湖ができていたらしい。

 ちなみに、日本の主な石炭産地は、北海道・常磐 九州北部であるが、石炭のつくられ始めた時代は、 古第三紀・始新世(5600万年~3390万年 前)である。北海道の夕張炭田の場合、海溝と陸 地の間の地向斜のような所で堆積したと推定されている。

2500万年前 (古第三紀・漸新世)

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(3)大陸に地溝ができ、日本海が拡大し始めた

◆1700万年前(新第三紀・中新世前期~中期): ・・・内山層が堆積している頃です。
 ユーラシア大陸の東縁で「地溝」ができ、日本海ができ始めた。地溝は、graben(小規模) rift valley・rift systemと表記されるが、断層群による大地の割れ目のことで、地下のプレートの動きによって、大地が引き裂かれ、離されている場所です。
 その後、極めて短い間に、日本海は拡大が進みました。

 日本海の拡大していく様子は、約1500万年前(中新世中期)より古い時代の溶岩や火成岩を使い、地磁気の記録を調べることにより、明らかになってきました。東北日本は、反時計回りに回転し、西南日本は、時計回りするようにして、太平洋側に移動しました。また、北海道は、西部・中部・東部が、現在の姿に近づくように接近していきました。

1700万年前 (新第三紀・中新世)

 

◆1500万~1450万年前(中新世の中期):
 日本列島は西南日本東北日本の間で、折れ曲がるようになります。この頃、日本海の拡大は、一応収まります。オホーツク海も拡大して、千島弧ができました。また、伊豆・小笠原の海山列が移動して衝突が始まりました。

日本海の拡大(観音開き)

 

◆1400万年前(中新世の中期):西南日本が回転 しながら移動してくるタイミングで、フィリピン 海プレートの上に乗り上げるような状況になりました。基盤岩の下では花崗岩質マグマが大量にで きました。密度の軽いマグマは基盤岩を押し上げ ます。そして、カルデラ噴火、または破局噴火(Ultra plinian)とも呼ばれる大規模な噴火が起きました。この跡は、東海地方から紀伊半島・四国・ 九州の一部に残されています。

◆800万年前(中新世後期):伊豆・小笠原海山列 の衝突が続き、千島弧の前部が北海道に衝突しました。中新世中期の「グリーン・タフ変動帯」の緑色凝灰岩層(まだ海底)の上で、カルデラ活動が盛んに起こっていました。

◆500万年前(鮮新世前期):火山列で今日確認される最後の衝突があり、丹沢山地を形成していきました。南西諸島に海水が浸入しました。

500万年前(新第三紀鮮新世)

◆300万~200万年前(鮮新世後期~第四紀・更新世):フィリピン海プレートの北進が止まり、
 太平洋プレートの沈み込み位置が西へ移動した。
東日本の「東西圧縮」が始まり、日本海側の陸化、山岳の隆起が起きました。

 

◆18000年前(第四紀・更新世末):フィリピン海プレートの動きが、北西から西向きに変わった。北米ブレートと太平洋プレートの境界は、少しずつ西側に移動し、現在の姿に近づいてきました。
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日本付近のプレート

【編集後記】

 今回(第203回)も、インターネット情報やNHK番組視聴で知り得たことを、私が理解できる程度のレベルで、解説した内容です。ただ、こういった地球規模での地質学的歴史(地史)がわかると、知的好奇心が高まると共に、今までなかった視点にも気づかされます。

 そのひとつは、地球自体や地球上の対象物を、今までとは違った方向から見ることで、新たな視点がきっかけとなって別な発想が生まれます。
 前者は、今では遥か昔になった大学生の頃、樋口敬二氏(北大・中谷宇吉郎先生の門下生で、当時は名古屋大学教授)の著した「地球からの発想」を読んだ時に体験しました。
(ちなみに、1973年日本エッセイスト・クラブ賞に輝いた著書で、自然科学研究を通しての貴重なエピソードが盛られていて、まさに、エッセイ(随筆)と言うべき内容でした。)
その中で、感動的だったエピソードは、『地球儀を北極を上にして見るのではなく、南極を上にしたり、他の場所を上にして見る』と言う記述でした。そして、地球の現在の大陸配置が、一番氷を貯めやすい配置であるという見方でした。(これには納得です。)
 後者は、ふだん見慣れている地図でないものを見たり、北が真上という地図を回転させて反対側から見たりしてみるという体験です。
 【図-下】は、球体の地球を平面で表現しようとする時、高緯度地方ほど実際の面積が拡大されてしまうという欠点を補う為に、いくつかに分割して作られた「グード図法」による世界地図です。ふだん多く見る「メルカトル図法」による地図では、グリーンランド(デンマーク領)やロシア共和国(広大なシベリアなど)が、とても大きく見えてしまいます。

「グード図法」による世界地図

 また、私たちは、日本列島と太平洋が図幅の中央になる地図を見る機会が多いので、ヨーロッパを西欧と呼ぶことに違和感がありませんが、日本が極東にあるという認識がなかなか湧きません。欧米を挟んだ大西洋を中心にすれば、本当に東の端に日本列島はあります。その意味で、ただの東側ではなく、極東(Far East)なのです。
 これは、差別・偏見の類ではありません。実際、同じ位置関係にあるのに、どこを中心に見ているかによって、そう見えてしまっているからに過ぎません。
 この時、インターネットで、大変に面白いソフトウェアを見つけました。自分の見たい場所の緯度・経度を入力して、そこを中心点とし、さらに自由回転ができるものです。
 【図-下】は、私の住む長野県佐久市を中心とし、中国の黒竜江省の哈爾濱(ハルピン)市から佐久市を見たら、それぞれの地域が、どのように見えるかに設定した時の図です。

中華人民共和国黒竜江省の「ハルピン市」から見た地図



 今まで普通に見てきた地図では、「太平洋の西端に日本列島が南北に連なり、日本海を隔ててユーラシア大陸が、どーんと構えている」という風に見ていました。
 ところが、中国の哈爾濱(ハルピン)から日本を見ると、「あたかも汽水性の大きな湖のような日本海があり、しかも、日本列島は太平洋の荒波に対する防波堤のように」見えてきます。本質的な位置関係は、まったく変わらないものの、日本列島が独立した存在というより、大陸に付随した島や半島のようなイメージで見えてくるから不思議です。

 【図-下】は、意図的に日本列島をユーラシア大陸側から見る視点で、真上を東南東にして表した地形図です。陸上部では、平野と山岳地域の区分、海洋では水深200m以下の浅海か否か(深海)の区分を示しています。

 

 詳細に見れば、いくつかの話題を見つけるかと思いますが、私は、『同じ海洋でも、水深だけに注目すれば、日本海(オホーツ海)と東シナ海は、違うんだなあ!』と思いました。かつて見聞きしたことがある、「氷河期の海水面の大きな低下により、日本列島と大陸を繋ぐ陸橋のような浅瀬が存在したことがある」という話題に通ずる内容です。

 それで、それぞれの海洋の海底図を調べてみることにしました。
 【図-①】は日本海、【図-②】は東シナ海、【図-③】はオホーツク海の、それぞれ海底の深さを色で示したものです。
 日本海の一番深い所は、4000m近く(測定値では3742m)あり、太平洋など外洋の深海底と同じくらいの水深があります。日本海のほぼ中央部には、「大和堆(やまと・たい)」と言って、周囲の深海底からの高まりがあります。大和堆の海底からの岩石サンプルにより、大陸地殻の一部だと推定されました。かつては日本列島と共に、大陸に接していた状態から、日本海の誕生に伴い、大陸から引き離されてきたものの、十分に移動できないまま、取り残された名残だと考えられています。

【図-①】日本海の海底の様子

また、図から推理することになりますが、陸地の周囲の浅海域の端には「大陸棚斜面」があって、一気に深海底へと深くなって、そこから先は寧ろ平坦な深海底が広がります。

 日本海には代表的な深海底があって、「日本海盆(深さ3000~3800m)」・「大和海盆(深さ2500~3000m)」・「対馬海盆(深さ1500~2500m)」が「大和堆」を取り巻くように分布しています。

【図-②】東シナ海の海底の様子

 

 一方、東シナ海【図-②】の水深は、ほとんど200m以下の浅海が占めています。
 そして、大陸棚斜面があって、1000m~最深2200m(沖縄舟状海盆・「しゅうじょう・かいぼん」)などの深海底に繋がります。
 これは、「沖縄トラフ」と呼ばれる円弧状の深海底です。そして、その外洋側には、南西諸島(大隅諸島・吐噶喇列島・奄美諸島沖縄諸島宮古列島八重山列島など)が連なり、さらに琉球海溝・太平洋となります。

 ※ちなみに、沖縄のサンゴ礁などの海が、きれいな理由は、島や周囲の外海の水質が良いことが直接原因ですが、中国大陸から東シナ海に流れ出す、特に細かな泥質浮遊物が「沖縄トラフ」の深海底に堆積してしまって、沖縄まで届かないからという理由もあります。

※西南諸島の島々は、太平洋側からプレートによって運ばれて、付加したと考えられています。火山島もあります。

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 さて、日本海東シナ海を比べてみると、水深など海底地形が、上記のようにかなり違いました。これは、その基盤となる岩石・地形と共に、海洋の地史が、大きく異なるからです。観点別に簡潔にまとめてみます。
(1)基盤岩の時代と様子ː
 日本海は、20Ma~17Ma(2000万~1700万年前・・・中新世前期)の玄武岩など、海洋地殻。
 一方、東シナ海は、白亜系(145Ma~66Ma、1億4500万年~6600万年前)の中でも後期・白亜紀の地層で、大陸地殻。
(2)堆積期間と堆積物の供給の背景ː
 日本海は、基盤岩の噴出以後なので、大まかに約1500万年間と短い。日本海流入する大河は無く、堆積物の供給量は少ない。日本列島全体で300万t/年と推定されるが、日本海側は極めて少ない。
 一方、東シナ海は、白亜紀以降なので、おおまかに6500万年間と長い。大陸からは、「黄河(10.8億t/年)」・「長江(4.78億t/年)」という2大大河を始め、陸地から堆積物は多量に供給される。堆積層は海面近くまであるので、優に2000mを超すのではないか。
 大まかに見ても、隣接する2つの海の違いがわかってきた。

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【図-③】オホーツク海の海底の様子

 ※オホーツク海の話題は、次回・第204回に載せます。

  今日は、大陸から移動してきた高気圧に日本列島は覆われ、日中は風もなく、とても暖かく感じました。午前中は、三月の「前山みゆき会」に提出する俳句の構想を練りました。そして、午後は雪の浅間山を眺めながら散歩をしてきました。それから、この編集後記をまとめました。

 そう言えば、今日は3.11でした。震災から13年を経た今でも、行方不明のまま、つまり遺体が見つからない方も多いと聞き、残された方々の無念さをお察しします。毎朝の仏壇に供えるお線香を少し増やしました。・・・大地震のあった翌朝、3時59分に「長野県北部地震(特に栄村など)」が発生し、その後の余震の度に、当時勤務していた北信地方の村に鳴り響く「J-アラート放送」を聞いて、どきどきしていました。(おとんとろ)