北海道での青春

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佐久の地質調査物語・第204回

第1章 日本列島の成り立ち

 

5.大和堆の存在と、日本海を拡大させた営力

 地球上の海と陸は、元々成分組成の異なる地殻でできていて、マントルの上に釣り合うように浮かんでいるようなものです。(アイソスタシー・isostasy)
 だから、日本海という海の中に、陸地と同じ組成をもつ「大和堆」が存在していることについて、大陸地殻と海洋地殻が入れ替わる仕組みを考え、諸説を提案した経緯もありました。
 今日、プレート及びプルーム・テクトニクスの考え方では、次のように説明しています。

日本列島が大陸から離れるモデル

 吉田晶樹(地球物理学)・日本海洋開発機構主任研究員:                   
①地球最大の太平洋プレートは、ユーラシアプレートに沈み込んでいるが、物質の相転換換のある670km付近までくると、湧き上がるような動きをする。     

②湧き上がる対流は、ユーラシアプレートを太平洋プレート側に引き延ばそうとする。
やがて、薄くなって裂けると、それらを移動させ、日本海は拡大した。     

③割れた部分は海洋地殻(玄武岩)が埋めた。大和堆は、プレートによって移動させることができずに、残してしまった大陸地殻の一部である。                     

日本海の海底の様子・大和堆の位置

 移動する日本列島を追いかけてきた大和堆を、約800km北西方向へ戻すと、ウラジオストク辺りの沿海州の地形と、ぴったりと合うと言う。
 A.ウェーゲナーが、アフリカ大陸のギニア湾付近と、南米大陸のブラジル辺りを合わせてみて、隙間無く合わさったのと同じ原理です。
 また、海洋底を生み出すような上部マントルの上昇が3000万年前(漸新世後期)~1500万年前(中新世中期)の間であり、海底では玄武岩が多量に噴出して海洋地殻を作ったと思われます。

 

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 日本海の拡大に伴い、今日の地体構造を分ける構造線(断層)の関係がわかりやすく説明されている資料(大藤 茂 ・富山大学教授)がありますので、紹介します。
 【図-下】は、日本海拡大前の復元図です。日本列島と大陸・沿海州との地体構造の関連性、及び、中央構造線からシホテアリン断層までの各断層の関係が、よくわかります。

日本海拡大前の地体構造・(復元案)

 離れた所にあった領家帯(内帯)と三波川帯(外帯)を区切る中央構造線(古MTL)は、棚倉構造線~バルチザンスク断層~シホテリアン中央断層へと繋がっているように見えます。また、古い時代の基盤が残る飛騨帯(内帯)に対して、東北日本阿武隈・南部北上帯の中を、畑川(双葉)構造線~シホテアリン断層へと繋がる構造も見えます。
 これらの構造線は、日本海の拡大に伴い変位して、【次頁:付加体の分類と分布】のようになりました。かつては、南北方向に近い状態で連続した位置関係が、日本列島の折れ曲がりによって、「ねじれの位置」のようになっています。

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【凡例】1 飛騨変成帯(大陸の一部?) 2 三郡変成帯(変成を受けたペルム紀付加体)

2' 上越変成帯3 山口帯(ペルム紀付加体) 4 舞鶴帯(ペルム紀三畳紀陸棚相) 5 丹波・美濃帯(ジュラ紀付加体)5' 足尾・八溝帯(ジュラ紀付加体) 6 北部北上帯(ジュラ紀付加体) 6' ジュラ紀付加体?7 領家帯(変成を受けたジュラ紀付加体)  8 三波川帯(変成を受けたジュラ紀付加体) 8'西彼杵帯 9 秩父帯(ジュラ紀付加体) 10 三宝山帯(ジュラ紀付加体) 11 四万十帯(白亜紀第三紀付加体) 
12 阿武隈帯(先白亜紀陸棚相・ジュラ紀付加体を含む) 13 南部北上帯(先白亜紀陸棚相)14 神威古潭帯(変成を受けたジュラ紀付加体) 15 幌加内オフィオライト(ジュラ紀末海洋底)16 蝦夷層群(白亜紀砕屑相) 17 日高帯(白亜紀付加体) 18 湧別帯(白亜紀付加体)19 日高変成帯(第三紀に衝上した島弧地殻) 20 常呂帯(ジュラ紀付加体) 21 根室帯(白亜紀末~第三紀初頭弧海盆) 22 伊豆・南部フォッサ・マグナ新生代衝突・付加体(島弧地殻を含む)
A;飛騨外縁構造帯  B;長門構造帯  C;中央構造線  D;黒瀬川構造帯  E;フォッサ・マグナ 
F;棚倉構造帯     G;双葉構造線  H;早池峰構造帯

 

 ところで、別な見方をすれば、中央構造線、棚倉構造線、畑川構造線、さらには仏像構造線(ジュラ系と白亜系を分ける)は、かつて海洋プレートが日本列島の下に付加体を押し込み、「海溝型巨大地震」を発生させた、堆積物とプレートの境界面だったとも考えられます。次の付加体で押し上げられ、侵食され、地表で観察できるようになったのだと思います。

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【参考】日本の地質区分  

                        (インターネット資料から)

 

 

 【編集後記】

 今回(第204回)も、インターネット情報やNHK番組視聴で知り得たことを、私が理解できる程度のレベルで、解説した内容です。
 前回の「編集後記」では、同じ地球儀や地形図(作成方法の違い)でも、どちらを上にしたり、中心にしたりして見るかによって、かなり違うように見えて、そのことから新たな発想を生み出してくれたという話題でした。そして、日本海東シナ海の違いがわかりました。

【図-③】オホーツク海の海底の様子

  最後に、オホーツク海(【図-③】の話題です。

 オホーツク海は、北は大陸(シベリア)、西はサハリン(樺太)~北海道、南は千島列島、東はカムチャツカ半島で囲まれた海域です。
 水深2000mを越える深海部分は、千島列島の北側にあり、「千島海盆」と呼ばれている。水深2000m~3000mに至る海盆の周囲は、傾斜20°に近い急傾斜で、一気に深海底になる。(ちなみに最深部は、3374mの記録がある。)こんな深海なのに、既に、厚さ5000mの陸上起源の堆積物があると推定されている。
 千島海盆の北側には、水深1000m~500m(200m以上~500m)の海底が広がり、さらに、北の大陸側は、水深200m以浅となる。
 東西の陸域、カムチャツカ半島やサハリンの海岸からは、比較的、浅海部分が少なく、深海へと移行している。

 ところで、オホーツク海と言えば、冬の終わりから春先にかけての「流氷」が有名です。オホーツク海へは、間宮海峡の北端付近に、大河アムール川(黒竜江)の河口があって、アルタイ山脈以東の広範囲の陸水が流れ込んでいます。大量の淡水は、海水より密度が小さいので、海水とはすぐに混じらずに、水深50mくらいまで、塩分濃度の低い表層水域を作ります。冬になると、海面には、シベリアからの−40℃以下の寒気が吹き付けて、オホーツク海の西側沿岸付近の海水が冷やされます。その結果、塩分濃度の低い水は凍結して、氷の塊にまで成長します。
 オホーツク海は、周囲を陸域で囲まれているので、河口の沿岸でできた氷塊は、季節風と海流によって運ばれ、海面を流氷で覆い尽くします。それらの一部は、風と海流によって南下して、北海道の沿岸に流れ着きます。
 沿岸で流氷が確認できた最初の日は「流氷初日」と言い、平年だと1月中旬から下旬頃で、1月下旬から2月上旬頃には接岸(「流氷接岸初日」)します。一方、春が近づき、沿岸から見渡せる海域の流氷が5割以下となって、船舶の航行が可能になると「海明け」が宣言されます。最後に流氷が見られた日が「流氷終日」です。

 

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 話は変わります。オホーツク海の深海部、すなわち「千島海盆」を見ていて、疑問が湧いてきました。
 (ア)なぜ、千島海盆は、千島列島に添った北側にあるのか? 
 (イ)なぜ、水深が2000m~3000mに至る海盆の周囲は急傾斜になっているのか?(海溝ほどではないにしろ、陥没したり、割れ目ができたりしているような構造をしている。)
 (ウ)千島海盆のような存在は、千島列島のような「島弧」に対して「背弧海盆」と言うが、そもそも、どんなメカニズムで形成されるのか?(前述の東シナ海で話題にした「沖縄舟状海盆」は円弧を成しているが、千島海盆も列島の伸延方向(NE-SW)に添って、底辺が短く高さの高い三角形のような形状をしている。) 

 ・・・そこで、インターネットで、いくつかのキーワードを検索中に、地学雑誌(1985)「千島弧と千島海盆~上盤プレート回転、後退と背弧海盆の拡大~(木村学・玉木賢策)」を見つけました。論文の前半内容は、難しくてわかりませんでしたが、千島海盆形成の概要は、私なりに理解できたので、研究の詳細には触れずに、私が理解できたレベルで説明します。(説明図は、原図を元にさらに簡略化したものです。)
                  

 大雑把な言い方をして、「千島海盆」は、地質時代の漸新世~中新世(中期)の間に形成されたと考えられています。≪熱流量から24Ma~27Ma以降と推定される。≫
 (※日本海の成立も、ほぼこの頃ですが、詳しくは、調べて後日に報告します。)

 背弧海盆である「千島海盆」の形成は、当時の「オホーツク・プレート」が、カムチャツカ半島の少し南西付近を中心とした「時計回り(右回り)」の回転をした為、海底(大陸地殻)が裂けるようにして拡大して、海洋地殻の場所となって、海盆となったという説明です。 (【図-上】を参照)

 陸上での地質調査の結果では、オホーツク海の北西~北の大陸側では「左横ずれ断層」が顕著です。一方、北海道東部~サハリンの地域では、「右横ずれ断層」が認められます。 この時、「北海道~サハリンの動き」は、アジア大陸側が不動とした場合なら、真逆の動きとなってしまう上に、オホーツク・プレートが時計回りに回転しているので、さらに矛盾する。この矛盾した「右横ずれ断層の動き」を説明するには、(ⅰ)オホーツク・プレートが南下したか、(ⅱ)相対的にアジア側(アムール・プレート)が北上したかである。
 そこで、木村博士は、少し前の時代の、大規模なインド大陸がアジア大陸にぶつかり、ヒマラヤ山脈を形成した大変動により、ブロック化された「アムール・ブレート」の北上(北東方向)を想定しました。これにより、対立する断層の動く方向についての問題は解決しました。

 一方、プレート・テクトニクスによる、「オホーツク・プレート」の時計回り(右回り)があったという仮説は、現在の地形を合理的に説明できるように思いました。

北海道の市町村と姉妹都市から引用

 (ア)カムチャツカ半島の中軸部「スレジニー山脈」は、かつて、オホーツク海側(西)とペーリング海側(東)の陸地が合体するようにして中央に山脈が形成されたようだ。
 (イ)千島海盆の形は、南西側を底辺とし、高さ(北東方向)が高い二等辺三角形のような形をしている。これは、千島列島の前弧プレートと、背弧プレートが分離して、あたかも扇を広げた時のように、「千島海盆」が広がったと解釈できる。
 (ウ)サハリン(樺太)の中央部は、凹地となっている。
中央部は、かつての「右横ずれ断層」の名残であろうか? ふと、成因は違うが、日本海に浮かぶ「佐渡島」は、並列する大・小佐渡山脈の間「国中平野」の中央凹地があることを連想する。

国中平野の存在


 
(エ)北海道とサハリンの方向関係を求めると、北海道には、東側「北見山地日高山脈」と、西側「天塩山地芦別岳・夕張岳」の2系列の山地が南北にあり、その間は、名寄盆地・上川盆地富良野盆地などの中央凹地があるが、それらの関係は、(ウ)の内容とも関連があるように思う。
 共に、火山活動などによる高地の形成ではない点が共通している

 

 日本海の海盆と比べると、オホーツク海の方が、単純である。千島海盆が、海域の南東端、千島列島の北側にある。
 一方、日本海では、大和堆の存在が特異で、それを囲むように3つの海盆がある。
日本海大和堆と海盆については、本文で「仮説」を説明してある。2つの海域の形成については、まったく別な考えが述べられている。

 

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 「編集後記」で、日本海のことを調べている内に、東シナ海オホーツク海のことも気になってきて、内容が随分と膨らんできた。日本海のことは、まだ読んでいない論文もある。それらも、まとめて、これらを新たな章の下の「節」にしようかと考えた。

 最近になく、2日連続して「はてなブログ」を挙げることができた。今日は、午後、雨が降ることがわかっていたので、昼前に散歩に行ってきた。出かける時に、少し小雨が降りだしてきたので、軽トラででかけ、冬田道の周回コースを歩くことにした。

 今朝、You Tube番組で、健康の為、膝関節の為、「散歩は、8000歩も歩けば十分で、10000歩を越えて長く歩いても効果が出にくい。寧ろ、膝が痛いようなら逆効果だ」という情報を得た。それで、私の歩くペースを計測してみることにした。

 歩数を数える(カウント)のに、1歩ずつでは煩雑なので、行進で4歩進む間に、数をゆっくり数えるようにした。それで、軽トラの駐車場所から諏訪神社経由でスタート地点に戻ると、正確には895回だが、約900回とし、歩数は900×4=3600歩とした。所要時間は、30分弱であった。時速は、5km/時前後となる。

 次に、コースを軽トラで回ってみると、約2.4kmあった。※軽トラの計測は、単位がkmなので精度が低いが・・。およそ、2400m/3600歩≒0.66m/歩であった。私の一歩は、66cmぐらいになる。

 ちなみに、私は地質調査で「ルート・マップ」を作る必要上、意識的に自然体で歩く時の歩測の経験がある。それは、かなり正確で、70歩で50mである。短い距離なら、7歩で5mとなるが、割合、正確であるのは確かめてある。「0.71m/歩」となる。

 そうなると、散歩の歩行だと、やや速足で、少し歩幅が狭くなっているようだ。

少し、散歩と歩測の違いに興味が出てきたので、これからも調べていこうと思いました。(おとんとろ)