(第1章 日本列島の成り立ち)
2.「付加体」という考え方の証拠
日本列島の地質構造は、一般的に帯状配列をしていて、特に中央構造線を境に、外帯の地質構造は、太平洋側の配列の方が新しい時代の地層から構成されていることが、明治期のH.E.ナウマンの頃から知られていました。しかし、その一番太平洋側の「四万十帯(しまんと・たい)」の地質構造は、構成地質の時代が複雑で、多くの謎を残していました。
そこで、その解明の為に、四国沖の南海トラフ(比較的浅い海溝)が選ばれ、ボーリング(boring)調査が、1982年に行われました。水深4800mで採集された「ボーリング・コア」650mの内、上部550mは、砂(30cm)と泥(5cm)が繰り返す砂泥互層でした。内容物を調べると、砂は隆起の激しい南アルプスや箱根火山起源で一気に堆積し、泥は、その後で静かに堆積したことがわかりました。これは、混濁流(または乱泥流・turbidity current)によって大陸棚斜面を流れ下り、600kmも離れた四国沖まで運ばれて堆積したこと、及び、地震などを契機に、平均500年周期で起こり、全体の堆積までに55万年を要したことが推定されました。
一方、陸上で見られる地質を調べると、頁岩層(7000万年前)・枕状溶岩(1.3億年前)・チャート層(1億年前)が、接近して見られる場所がありました。また、中央海嶺付近で枕状溶岩の上に降り積もった「ナンノプランクトン」起源の石灰岩(1.3億年前)や、遠洋性の頁岩層(9000万年前)が混じった場所もありました。これらの研究を可能にした背景には、放散虫(Radiolaria)の進化による編年を明らかにしたり、古地磁気からの緯度・経度の位置を推定した情報が得られるようになったりしたからです。
これらの複雑な地質現象を説明するキーワードは、『付加体』と『メランジェ』です。どんなメカニズムなのか、説明します。
【上図】は、マントルが東太平洋海嶺から湧き上がり、太平洋をゆっくりと西に進み、南海トラフ(海溝)から日本列島の地下に沈み込んでいるプレートの動きを模式的に示したものです。
マントルからもたらされたマグマは、地下深部で固まればハンレイ岩(gabbro)、海嶺から噴出すると玄武岩(basalt)、海水に触れて枕状溶岩となり堆積します。他の火山噴出物も加わり、変質が進めば緑色岩類になります。赤道や低緯度地方の海底には、石灰質ナンノプランクトンからできた石灰岩が、この上に堆積します。プレートの動きによって移動し、深海底では放散虫からできたチャートが、この上に載ります。さらに、移動した先では、それらの上に泥岩(頁岩)などが堆積していきます。
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一方、陸域側からは混濁流によって運ばれた砂泥互層が、海溝の近くまで運ばれます。
海洋プレートの沈み込みによって、陸側と海側からの堆積層は、海溝に集められますが、密度が小さいので沈むことができず、堆積物は、はぎ取られたり、底付けされたりして、陸側に押しつけられます。堆積物は褶曲したり、衝上断層で切られたりしながら、帯状に配列します。このようにして、大陸地殻に海底の堆積物が、次々に付加された地質体を付加体といいます。(付加体:accretionary prism or accretionary wedge) 陸上で観察される地層は、付加体が隆起したり、上の地層が浸食されたりして現れたものです。
また、本来の堆積場所からプレートによって移動し、寄せ集められた堆積物が、混ぜ合わせられたような地質、および地質構造を「メランジェ・melange」と言います。
ちなみに、付加体のうち、海洋プレートの沈み込みに伴って地下深くにまで押し込まれた部分は、高い圧力や熱を受け、変成岩になります。また、沈み込んだ海洋プレートは、
一緒に取り込んだ水の影響を受け、地下深部で一部が溶けてマグマをとなり、火山活動や深成岩の貫入を起こします。
時代の異なる、様々な地層が混じり合った「四万十帯」の地質構造は、海洋プレートによって運ばれてきた堆積物による付加体であり、また、メランジェだったことがわかりました。
3.他の構造帯の「付加体・メランジェ」について
四万十帯のひとつ大陸側は「秩父帯」で、ここにも、メランジェの証拠がありました。秩父帯のチャート層を見ると、四万十帯のチャート(約1億年前)よりもさらに時代が古く、3.5億~1.8億年前(石炭紀~ジュラ紀)のものが見つかりました。
これらの岩石は、付加体の考え方の及ばなかった時代には、古生代の化石が含まれていると、その時代に日本で堆積していたと考えられていた曲解の経緯もあります。
また、石灰岩鉱山として有名な秩父市の武甲山(ぶこう・さん)は、1.5億年前の当時の海溝に沈み込めずに付加された海山で、ジュラ紀の付加体です。海嶺から噴出した玄武岩や輝緑凝灰岩からできている層の上に、石灰岩が載っています。暖かい海に浮かぶ火山島の周囲に発達したサンゴ礁が石灰岩となったもので、ウミユリやクサリサンゴ・フズリナなどの化石が含まれています。化石は、三畳紀の赤道付近で堆積したことを示しています。つまり、海底火山島と周囲のサンゴ礁は、数千kmもの距離を、1億年近い年月をかけてプレートによって運ばれてきました。
小大陸のまま移動していた可能性がある
西南日本(外帯)の大きな断層帯にそって、まわりとは異質な岩石が見られる場所があり、黒瀬川構造帯と呼ばれています。石灰岩から産出される化石を見ると、サンゴや三葉虫、腕足類の化石を含んでいて、4億2400万年前(シルル紀)の赤道付近の暖かい海に棲息していたサンゴ礁だったと推定されました。
また、高知県越智町・横倉山の凝灰岩層からは、4億年前の植物化石(リンボク)や三葉虫が見つかりました。この内、陸上の植物化石が発見されたことは貴重な情報で、この共通種は、オーストラリア大陸と中国南部からも発見されています。
一方、黒瀬川構造帯で見つかる様々な岩石は、かつて、小大陸を作っていたのではないと考えられる古いものもあります。(ちなみに、同様な岩石は、「飛騨外縁帯」と「南部北上帯」でも見つかります。)
つまり、「黒瀬川古陸」と呼ばれるような小大陸と、その周囲の海に棲息していた生物が、プレートによって赤道地方から北上してきて、現在の位置に移動したのではないかと考えられています。
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(3)プレート・テクトニクスからの推理 (仮説)
◆4.2億年前(シルル紀):アジア大陸となるいくつかの小大陸は、赤道付近にあった。
◆2億年前(ジュラ紀):アジア大陸の原型ができ、そこに小大陸の「黒瀬川帯」が北上し てきて、アジア大陸に近づいた。周囲の海溝では、「秩父帯」が付加体となって、形成されていた。
◆1.3億年前(白亜紀前期):イザナギ・プレート の北上に伴い、アジア大陸の東縁で、横ずれ断層 ができた。南北に長い日本の原型の東側半分は、付加体に沿って北に移動した。断層は、やがて、「中央構造線」になる。
【下図】は、1994年(平成6年)、さいたま市(当時の浦和市)で地団研埼玉大会が開催され、中・古生界プレシンポジウム『関東山地はどこまでわかったか?』が行われ、その成果が、世話人会でまとめられ、地球科学49巻(1995年)で発表されたものです。その地球科学『P22の第1図』に色付けし、従来佐久地方で呼称されている地層名を付け加えたものです。
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概要を述べてきた「秩父帯」や「黒瀬川帯」は、さらにいくつかの地質構造帯に区分されています。
関東山地の大きな地質区分(地体区分)として、概要は、北側から以下のような配列になると説明しています。
「領家帯」・中央構造線・「三波川帯」・「跡倉ナップ群」・御荷鉾(みかぶ構造線・「秩父累帯北帯」・「南縁帯」・「黒瀬川帯」・「秩父累帯南帯」・仏像構造線・「四万十累帯」です。
従来の見解と違う点は、「五日市-川上線」が、秩父帯と四万十帯を分ける構造線とされてきましたが、両帯を分ける仏像構造線の一部ではなく、四万十帯の中の一構造線であると考えられていることです。
中央構造線(MTL)に相当する構造線は、佐久側から、「内山断層」・「大北野-岩山断層」・「牛伏山断層」へと延び、さらに「平井断層」・「奈良梨断層」と続いているのではないかと考えられています。
ちなみに、私たちの調査した山中地域白亜系(+蛇紋岩帯)は、黒瀬川帯に入ります。
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【編集後記】
今回(第202回)も、専門家の皆さんの図福や、インターネット情報などを、私が理解できる程度のレベルで、解説した内容です。ただ、こういった地球規模で日本列島というような基盤のことがわかると、知的好奇心が少しずつ高まっていきます。
さて、日本の神話の世界(古事記や日本書紀)でも、日本列島が、どのようにしてできたかを説明していますので、概要を物語たいと思います。
日本列島、すなわち、大八島(おおやしま・大八洲)は、【写真-上】のように、 男神「イザナギ(伊邪那岐)」と、女神「イザナミ(伊邪那美)」の二神が、天浮橋(あまのうきはし)に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」という枝付の鉾を使って、渾沌とした地上を掻き混ぜることから始まりました。
この時、矛の先から滴り落ちたものが積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」となり、二神は、島に降り立ち、結婚しました。そして、天を支える「天の御柱(みはしら)」と、広大な屋敷「八尋殿(やひろどの)」を建てたと言います。・・・『古事記』からの引用。
・・・その後の記述は、しばらく略。
始めに造った「大八島」は、①淡路島、②四国(伊予之二名島)、③隠岐島、④九州(筑紫島)、⑤壱峻島、⑥対馬、⑦佐渡島、⑧本州(大倭人豊秋津島)です。
さらに、六っの島を追加して造った。
①吉備児島(現在の児島半島、金印の発見された江戸期は島)、②小豆島、③屋代島(周防大島)、④姫島(国東半島の沖)、⑤五島列島、⑥男女群島です。
さて、現在の北海道・本州・四国・九州の日本列島の4島の内、北海道の記述の無いのは、日本史上、しかたのないことかと思いますが、日本海に浮かぶ、南西-北東の順に、「壱峻島」・「対馬」・「隠岐島」・「佐渡島」が、4島と同格の扱いとは、歴史があるんですね。そして、瀬戸内海の「淡路島」が、一番最初に記述されているのを見ると、島の面積ではなく、もっと違った序列があったのかと思ってしまいます。
それ以上に、大八島に続く、六島の顔ぶれが面白いです。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島や、東シナ海側への小島、さらには博多湾の「児島」までもが、もっと重要な場所や地域がありそうなものなのに、堂々と記載されているからです。
今日のような自然科学という観点での発想でないのは、十分に理解できますが、宇宙というような大世界と、非常にローカルな、それも、あまりにもローカル過ぎる話題や場所が、ほぼ同列に扱われていることに驚きと共に、ほのぼのとした温かみを感じました。
話は変わりますが、私は、古事記や日本書紀の話題を、ぜひ小・中学校の教材の一部にして欲しいと思っています。「因幡の白兎」のような「おとぎ話」的扱いの内容は、時々見受けられますが、そうではなくて、大昔の日本の人々が、どんな風に自然や人の住む社会を見ていたかを理解する一助としてという意味合いからです。
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それには、こんなエピソードを語れば、わかってもらえるかもしれません。
(1)今は昔、米ソが宇宙開発を巡って、ロケットや宇宙衛星を打ち上げ競争をしていた時代です。小学低学年生であった私は、『ロケットが、空高く飛んで行って空の壁にぶつかったらどうなるのだろうか?』と真剣に考えました。私は、洋の東西を問わず、古代の人々が考えたように、太陽や月が、その壁を使って移動しているような宇宙観をもっていたようです。・・・特別な知識を注入されない限り、天球をイメージする宇宙観は、人類共通なものなのかもしれません。
(2)江戸時代の長屋に住む与太郎さんや、その兄さん、お父さんが登場する「落語」があります。1年は何か月かを親子で話題にします。与太郎さんが、『1月、2月・・』と数えていくと、兄が、12月の次に『お正月』を加え、『13カ月』と言うと、それを聞いていたお父さんが、『馬鹿、お盆が抜けてる』と言う落ちです。
そんなお父さんが、与太郎さんの『そらに星があるのはなぜ?』という質問に、『あれは、天の神様が雨を降らす時の穴だ!』と説明します。私は、それを聞いて笑ってしまいました。まさに、「如雨露(じょうろ)」を傾けて水を撒く時、先端部に穴が開いているイメージにそっくりだからです。・・・その馬鹿馬鹿しさ、しかし、水撒きと如雨露と降雨現象が、イメージで繋がる可笑しさが、たまらなく素敵でした。
迷信や偏見は、科学で払拭しなければいけないと思います。それには、常に冷静で中立的な判断や証拠集めが必要です。しかし、科学のメスの入らない状態を心の余裕をもって楽しみながら、科学的証拠を追求できるような雰囲気も好きです。(おとんとろ)