≪プロローグ≫
誰のアイディアから始まった山行計画だかわからないが、メンバーを見ると、Kさん・Oさん・Iさんの、3人の発想の合作だったのではないかと思う。厳冬期のトムラウシ山(2141m)などを、十勝連峰東部の樹林帯を経由して登頂しようという試みで、10泊11日・停滞日4日の計画であった。
パーティーは、11名という大所帯で、2つのグループから構成されるという今までにない形態の編成だった。1つのパーティーとして行動するが、例えば、ラッセルなどがあると、2つのグループ・パーティーが、前後を交替しながら進み、互いに補い合うというものであった。
【Aグループ・パーティー】
☆◎CL(チーフリーダー)Kさん(4年生) ◆SL(サブリーダー)Oさん(4年生)
◇Tdさん(3年生) ◇Ko君(2年生) ◇Th君(2年生) ◇S君(2年生) 6名
【Bグループ・パーティー】
◎L(リーダー)I氏(OB生) ◆SL(サブリーダー)Tさん(3年生)
◇Sさん(3年生) ◇Tk君(2年生) ◇私(2年生) 5名
チーフリーダーのKさんは、積丹岳遭難事故の時のパーティーの一員であった。
Kさん自身は、今回の十勝連峰東部森林帯山行について、『楽しいワンデリングであったが、幸運な条件で容易に楽しさを得られたから、本当の快楽(das Gipfel Glunks)は、感じられなかった』と、反省の一端で述べている。しかし、『若すぎたのかな?』とも述べているように、共に、多分もう二度と体験できない山行ではあるが、苦労はあったものの、それを苦痛と感じられない若さがみなぎっていた。立場や学年、それに山行経験も違う私には、十分に成就感を味わえたし、思い出の1ページに、しっかりと記憶される山行となった。
一方、サブリーダーのOさんは、アルピニズムや難しい山行をめざしていた。はたして、今回の山行に満足したかどうかは、大変に疑問である。
さらに、私の所属したBグループのリーダーとなったI氏は、一年間大学を休学して、活動資金をアルバイトで稼ぎ出し、南米チリのパタゴニアの氷河や山岳地帯を踏破してきた人だから、厳冬期とはいえ、安全な森林地帯をスキーで行く山行には、充実感が得られなかったかもしれない。しかし、3人の大きく異なるワンデリング観や、複雑な思いが重なっていたことは事実だが、部としては、大計画であった。
北大ワンダーフォーゲル部(HUWV)では、私が大学へ入学する数ヶ月前、「積丹岳遭難事故(パーティーからはぐれた部員一名が、二晩雪山でビバークし、自力で下山した)」があり、また、入部した数ヶ月後には、大雪山系で部員一名が滑落して頭部に重傷を負い、道警のヘリコプター「銀嶺号」による遭難救助事件があった。
だから、計画の安全性に対する緊張感がみなぎっていた。特に、積雪期の山行については、計画審議が厳しくなっていた。
「遭難事故は三度と繰り返したくない」という雰囲気の中で計画され、しかも慎重審議の上で許可された山行のはずである。実のところ、下級生であった私には、詳しい内部事情はわからなかったが、普通なら最大でも6人ぐらいのパーティーなのに、11名で構成されたという辺りも、冬山への安全配慮があったのではないかと思う。
* * *
トムラウシ山の山頂では、-26.5℃、風速20m/秒を越える体験もしたが、安定した冬型の気圧配置が続き、言わば太平洋側に当たる十勝の森林地帯は、好天続きの毎日であった。
下山日の前夜、大雪に見舞われたものの、結局、本格的な停滞日はなかった。7日目に、やや天候が不安定のため、休養を兼ねて停滞日(1日)としただけだった。最終日は、麓に下る営林署の大型トラックに乗せていただくという、ご厚意に甘えてしまった。
それで、夜行泊も含め、実質的には、昭和50年(1975年)1月8日~1月18日の11日間の山行となった。
【編集後記】 今日から、「十勝連峰東部森林帯」と題して、厳冬期のトムラウシ山をめざした山行の様子を伝えます。夏のトムラウシ山へは、いずれも5月連休の頃、二度、五色沼側(東側)から登頂していますが、冬期は初めてでした。大雪山系の山は、どれも魅力ある山ですが、どっしりと安定感のあるトムラウシ山は格別です。