北海道での青春

紀行文を載せる予定

原始原を越えて

 原始原(げんしがはら)という言葉の響きが好きだ。
 『どんな所なのだろうか?』と想像をかきたててくれるようなネーミングで、ぜひ訪ねてみようという気にさせる。私は、この地名を初めて聞いた時、「桃源郷」のような所をイメージした。

 「原始人」・「原始生活」・「原始的」などという言葉は、どちらかと言うと、あまり良い意味で使われてこなかった。時代の最先端や流行、最新の科学技術に乗り遅れた人や物を侮蔑するような、意地の悪い意図を込めて使われたりもする。
 一方、「原始」という言葉は、人々の詩的情感や郷愁を呼び覚ますだけでなく、実際に原始的な生活体験をしてみようという憧れにも似たイメージにも転じてきた感もある。
 原始原には、ぜひ一度は行ってみたいと憧れていたが、私は、二度訪ねることになった。
 一度目は、今回の厳冬期の山行で、二度目は、翌年の初夏の大雪山系への山行からの下山途中であった。

 原始原は、十勝火山群の活動で生じた裾野の一部にあり、広大な窪地にできた高層湿原地帯である。ただ、長い年月の間に、湿原には植物が侵入して、ササを中心とした草原となり、周囲からも針葉樹の原生林が迫ってきている。湿原地帯を抜ける明確な川筋もできていて、全体的には湿原というイメージはなくなりつつある。
 大きな湖沼はないものの、今まで訪ねた有名な場所では、明神池の散策道のイメージに近い。だが、それらは、二度目に訪れた初夏にわかったことで、今回の山行では、一面の雪の原であった。

 富良野市・布礼別(ふれべつ)の東側を流れる布部川(ぬっぺがわ)の下二股で、スキーをはいた。沢は雪崩の心配もあるが、傾斜の緩い標高760m付近までは、雪に埋もれた沢の中を行き、それから標高尾根を登った。シール(seal)も利き、快調に進むことができた。
 原始原に出るには、最後に、傾斜のやや急な支流の沢を横切らなくてはならない。積雪期は、雪崩の心配がいつも付いて回る。幸いにも、沢の急斜面には樹木も密生して生えていて、これだけの理由で安全が保障されたわけではないが、一人ずつが離れて行くことにした。そして、急斜面をラッセルして雪原に出ると、そこが原始原だった。タンネの森の端で、これから雪原の始まる入口で、1泊目のテントを張った。

 ちなみに、タンネは、ドイツ語・タンネンバウム(Tannen baum)の省略で、モミ(樅)の木のことである。周辺の針葉樹には、トドマツやエゾマツも多かった。 

 

                *  *  *

 朝の気温は、-15℃だった。
 標高1000mの原始原とすれば、驚くには値しない気温で、厳冬期とすれば寧ろ高い方の部類に入るかもしれない。気圧配置は、西高東低の冬型で、晴れ間も見える穏やかな日だった。「原始原」という響きに感激しながら、雪原にスキーを滑らせた。

 原始原もそろそろ終えて、トウヤウスベ山(1407m)と「1216」のピークを結ぶ鞍部に近づきつつある頃だった。晴れているのに、雪が舞うように降ってきた。ミトンの上に雪片を載せて観察すると、ひじょうに大きな雪の結晶が見えた。直径が1.5cmもある。正六角形をした氷の結晶が壊されることなく、空から次々とミトンの上に舞い降りてきた。見上げると、ちょうど太陽光のスポットライトを浴びた晴れ間から、金属光沢を放ちながら、雪が湧き出るように現れた。
 「ちりん、ころん」
 「ちろん、りろん」
 舞い散る雪の輝きから、微かな鈴の音のような調べが聞こえてくる。神秘的で、幻想的な光景だった。
 『雪は天から送られた手紙である。』という言葉を思い出していた。氷雪の物理研究で有名な中谷宇吉郎(なかや うきちろう)博士の随筆の一節である。私が中学生の頃、国語の教科書に載っていた。人工雪の生成実験にも興味は覚えたが、この言葉とともに、雪(氷)の結晶の美しさや、それを手にした時の感激が語られている辺りが強く印象に残っていて、原始原の幻想的な光景と妙に重なるものがあった。そう言えば、中谷博士が、雪の顕微鏡写真撮影(昭和9年)をしたのも、この十勝山系である。

 原始原のある十勝山系一帯は内陸部にあるので、日本海で蒸発した水蒸気は、季節風と上昇気流によって上空に運ばれ、ゆっくりと時間をかけて氷の結晶へと成長するから、こんなに大きく麗しい雪の結晶ができるのかもしれない。

 雪で覆いきれなかったタンネの下枝の幾分黒い深緑色の他は、全て真っ白な世界である。その風景のさらに細部も、美しい氷の芸術で加工されていると思うと、雪原のシュプールも、別な見方ができる。
 高村光太郎の詩「道程」の一節ではないが、「目の前の処女雪に、明日への希望を見て、振り返った雪原に描かれたシュプールとストックの跡に、歴史を生きてきた」というような文学的感動を覚えたが、シュプールを付けることが、急に、大自然の芸術作品に傷を付けてしまっている行為のような気がしてきた。美しい雪原の全てが、さらに華麗な氷の結晶で形作られているからである。しかし、数日もすれば、雪原にも雪が新たに降り積もり、私たちの足跡も消えていくだろうなと思い直し、ただ、あるがままという気持ちになった。

 私たちは、原始原を北西から南東方向に横切り、トウヤウスベ山を背に、東にルートを変えた。そして、下ホロカメットク山(1668m)の北西コル(鞍部)で、2泊目のテントを設営した。

 

                 *  *  *

 

 ところで、後日、「十勝日誌」という本を読むことがあり、幕末の探検家・松浦武四郎(まつうら たけしろう)が、和人(わじん)では初めて原始原を越えた人であることを知った。
 「十勝日誌」は、松浦武四郎自身が著した紀行文で、安政五年(1858年)の踏査記録を起こし、万延元年(1860年)に出版されたものである。漢文や古文に縁の薄い私が、これを読めたのには理由がある。丸山道子さんという方が、武四郎の文章や北海道での足跡などを研究され、現代語訳とともに解説してくれた本を手に入れたからだ。

 最初に、「後方羊蹄日誌(しりべしにっし)」を買った。次いで、天塩川下り(昭和49年)の後で「天塩日誌」を買い求めた。興味をもったので、書店で見つけるたびに、「石狩日誌」、「夕張日誌」と買い集めた中に、「十勝日誌」があった。

 これらの「日誌」の類は、江戸時代末期の印刷方法で出版されたようだが、あまり売れなかったようだ。踏査行動の記録や地理、アイヌの人々との交流、生活の様子、それに逸話や風景の説明用に墨絵も収録されている。さらに、和歌なども詠まれていて、松尾芭蕉の「奥の細道」を連想させる。私には、たいへん興味深く思われるが、文学作品としての評価は得られず、当時の人々には受けなかったらしい。

 さて、松浦武四郎は、文政元年(1818年)、伊勢国一志郡三曇村の郷士の家に生まれた。(現在の三重県松坂市となる。)青年期は、日本各地を遍歴したようで、弘化二年・三年(1845~1846年)と嘉永二年(1849年)には、自費で、北海道の海岸、択捉島国後島樺太を探検して、「初航・再航・三航蝦夷日誌」を著している。

 安政三年(1856年)から約3年間、幕府函館奉行所付御雇となり、北海道や樺太内陸部の調査を行なっている。「十勝日誌」は、その時の記録を元に書かれたものである。
 明治2~3年に開拓判官になるが、北海道へ再び渡ることはなかった。
 明治21年(1888年)、東京神田五軒町で、70歳の人生を閉じている。

 

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 松浦武四郎が、どんなふうに原始原を越えたのか、興味があるので、調べてみた。
 【戌午・十勝日誌(松浦武四郎・著/丸山道子・現代語訳)】から

 ここ石狩の地では、遠くの山々は春めき、霞んで、草木の芽がふくらみはじめた。
積雪も日に日に減って、川には雪解け水が滝のように流れている。私は命の縮む思いで、虻田のアイヌたちに、手当や帰途の食糧を渡し終えると、早速この石狩場所の支配人に、新たに十勝方面への案内人や人足の人員を集めるよう命じる。
 さて、石狩川の河端で眺めると、河口の渡し舟は、大きな氷片の間を縫うように往来している。その中には数十丈もの長い氷や、山のような氷雪の塊が、濁流に押し流されて来るので、見ているだけで肝が冷えるようである。もっと寒い北の海で、大きな鯨が雪解けの河口近くの氷に打たれて、死ぬことが間々あるというが、これを見ていると、まんざら嘘でない気がして来る。このような河の状態では、小さな舟で遡ることなど思いもよらないので、陸行に決めた。そして、ここ石狩の詰合、飯田某にも同行を勧める。

 三月六日(前半部略)・・野営した。さて、ここからの眺望は、東にはビエ岳の麓から西はソラチの西の山まで、その間十二、三里あるだろうか、また南北には五、六里の間、見渡す限りの広野であり、ちょうど山に囲まれた地形なので、暖かく、本土の一国にも相当する広さである。同行の飯田氏も「こんな土地のあることは誰も知らないだろうし、帰ってから皆に話したところで、信用してもらえそうにない」と、しきりに嘆息しておられた。

                  *

 旧暦の3月6日は、今の4月中旬に当たる。既に雪解けが始まっていて、川を渉れずに迂回したり、冷たい水に入って苦労したりしている。飯田氏が、その眺望の広大さに驚いた場所は、富良野盆地と思われる。
 そして、武四郎たちの一行は、私たちが原始原に入ったルートより北側から、前富良野岳と富良野岳の間の鞍部(アイヌの人々の冬の道で、峠に相当する。)をめざした。鞍部(コル)の手前で野宿し、翌日に原始原を越えたようである。日記には和歌が載っていたり、古い山の名前もあったりして、たいへん興味深い。

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 三月七日 (前半部略)  この辺りは、とど松やえぞ松のうっそうとした森で、
空も見えないほどである。この森の中で野宿したが、雪をとかした水で炊事する。
その夜明けの雪の底を流れる水の、微かな音を聞いたので、一首、傍らの樹の皮を
はいで書き付けておいた。 今朝はやや 岩間の氷 とけそめて
               落ちくる音に 夢もくだけぬ

 

 三月八日 夜明け方に出発。山の登りがきつくなり、やがて辺りの樹々もまばらになった。それも樺の木の小さくやせ、曲がりくねったものばかりである。ようようのことで登る途中、後ろを振り返ってみると、一昨日に野宿した辺りから、ソラチ川までが眼下に見え、上るに従って、ビエ、ベベツ、チクベツ、石狩山などがはっきりと見渡せる。かれこれ苦しい登り道にあえぎながら、谷間より雲が軽く吹き上がって来るのを見て、 えみしらも あゆみなやめる 石狩の 山路早き 雲の足かな   などと戯れ、凍った雪を口に含んだり、立ち止まって息をつなぐなどしながら、ようよう登って、午後十時を過ぎた頃、峠(ルウチシ)の上に出ることができた。
 ここまで登ると、これから十五、六町ほどの間は平地である。(※原始原のこと)
右の山をオツチシベンサイウシベ、左の山をオツチシバンザイウベシと言って、これらの峰続きに、ビエ、ベベツ、チクヘツ、石狩岳と連なって見られる。そして後方にはソラチ岳とシュマフウシ岳が並んで見え、もっと遙か向こうには、シカリベツ岳、トカチ岳、また近く南西の方向にヌノツヘ岳、その後ろにユウバリ岳、アシベツ岳の峰々が半分ずつ顔をのぞかせ、ここで今までの景色は一変する。
 しばらく行くと、五葉松(シュンク ※ハイマツのこと)の低い繁みの上に降り積もった
 雪が、暖気で柔らかくなっていて、かんじきのままで枝の間に踏み込んだりするので、まことに歩き難い。(以下の後半部略)

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 武四郎ら一行は、原始原を越えて、下ホロカメットク山の南側にあるワジ(wadi)、もしくは尻無川(火山物質が多く、水が伏流してしまう。)の伏流が終わり、合流する辺りに野営したと思われる。そして、「飲み難い」としたシユマウシナイの水を飲んだのが原因で、全員が下痢に苦しめられた。しかし、その翌日には回復したようで、佐幌川(さほろがわ)沿いに下り、十勝側に抜けていった。


 「十勝日誌」に出てきた山の名前を整理しておこう。

 ◆ビエ ― 十勝岳  ◆べべツ ― オプタテシケ山

 ◆チクベツ ―  トムラウシ山 

 ◆石狩山 ― 旭岳(?) ※石狩山と石狩岳が出てくる。

 ◆オツチシベンサイウシベ ― 前富良野
 ◆オツチシバンザイウシベ ― 富良野岳  
 ◆ソラチ岳 ― 上ホロカメットク山  ◆シュマフウシ岳 ― 下ホロカメットク山
 ◆ヌノツヘ山 ― トウヤウスベ山 ◆ユウバリ岳 ― 夕張岳
 ◆アシベツダケ ― 芦別

 

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上ホロカメットク山をめざして入山し、十勝岳温泉を経由した時のスケッチ


 【編集後記】 雪原にテント泊しながら、山スキーを使って行う山行は、スケッチのようなイメージである。これは、当時のスケッチだが、この光景が忘れられずに、その後、何枚も類似の水彩画を描いた。言わば、それらのオリジナルである。