北海道での青春

紀行文を載せる予定

春の訪れを感じて(弥生の句)

① 庭先で 小仏あやす 春うらら

② 春大河 先を競うや 波と枝

③ 風にのり 放送聞こゆ 日永(ひなが)かな

 

 春の彼岸過ぎに3月の句会があり、本年度が終了した。

 佐久医療センターへの入院で、私にとっては大変な年であったが、それ以上に、長女の妊娠のトラブルが発生したり、次女の結婚式があったりと、我が家にとって数年分の行事をこなした感があった。1月に誕生した孫は、胎児のまま我が家にやってきて、来月の4月中旬まで10ヶ月も過ごしたことになる。それでも、全てが無事に過ぎ去り、春が迎えられた。今月の俳句は春の訪れを詠んでみたい。


 【俳句-①】は、穏やかな春の庭先で、生まれたばかりの孫を抱いて子守をしている自分自身を詠んだ。冒頭で触れたような経緯で生まれたので、母子ともに健康で退院できて、良かったと安心した。

 多くの諸先輩方を見ていても、孫の話をする時には例外なく形相を崩して語る。私は、そうでもないと思っていたのだが・・・。

 嬰児を「小仏」と表現したら、相応しくないという批判もあったが、生命への畏敬の念を感じながら、目を閉じている姿は、ほんとうに仏像そっくりだと思った。ただ、母親が長く寝た切りだったせいか、頭をいつも同じ側に向けていて、頭骨の形も気になった。

 娘たちが嬰児の時、私は頭頂部を押して、縫合線が付着していないことを密かに確認したが、孫にはできなかった。しかし、生後3ヶ月が経過して、10ヶ月分の荷物等を車に積んで、住宅まで送っていった頃には、安心できるような状態になっていた。

【写真は、それから二年半が過ぎた様子】

 

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二年半が経ち(令和2年夏)


 【俳句-②】は、雨上がりの千曲川べりを散歩していたら、波と競争するかのように小枝が流されていく様子が、雪解け水で濁った大河のように見えて、その懐かしくもある感動を詠んだ。普段の散歩は自宅から歩きだが、この日のように自動車で現地まで行って散策してくることもある。

 千曲川の大水は、台風などの大雨の後だけだが、雪国や積雪地を控えた水系は、春の増水が顕著で、雪解け水を集めて力強く流れていく、まさに春大河である。同じ増水でも、安心感のある流れだ。

 かつて、ゴムボートで川下りをしたことがあるが、川波と流されていく物体の動きは、速度が微妙に違う。川の水深や水流、物体の形や質量等によって、差が出てくるのに物理的理由があることを、素人なりに発見した。そんなつもりで、川面を見ているのも楽しい。 

 


 【俳句-③】は、散歩の方向を変えて、市内のI小学校方面に足を向けたら、下校を報せる校内放送が聞こえてきて、その風情を詠んだ。

 季節が進み、春のお彼岸頃になると日が延びて、下校放送が鳴っているのに日は十分に高い。家路に向かう小学生も、心なしか道草を楽しむようになる。

 春風に乗って聞こえてくる音楽やアナウンスの声は、どこか伸び伸びと張りがあり、優雅に感ずる。実際、気温や風向きによる「ドプラー効果」で、音に変化のあることは事実だが、主な原因は音を聞き取る人の心理状態と健康によるのだろう。今日の放送は、特に心豊かな音色に聞こえた。

 

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校舎の屋根の塗装(足場から屋根に登る)

 【編集後記】

 本文中の「小仏(こぼとけ)」なる方の孫は、弟の方だが、知らぬ間にいだずらを良くする子に育っていた。我が家に保管しておいたビニール製の小プールが見つからず、

昔懐かしい桶(おけ)での水遊び風景である。後方には、簡易テントがある。兄が、一晩、一人で寝てみたいと言い出した。「ソロキャンプ」だが、結局、恐くなって中止となる。園児では、さもありなんと言うところか。

  ところで、今回で、平成29年度の「俳句の一年」が終わります。次回は、平成30年から令和元年へと進む予定です。