北海道での青春

紀行文を載せる予定

霜月の出来事から三題

① 九十九(つくも)経し 家に気遣い 新米(こめ)を入れ 

                             (11月5日)
② 天高し 令和御列(おんれつ)スマホ撮り

                                (11月10日)
③ 生きるごと 孫が追う夢 シャボン玉

                            (11月3日・文化の日

 

 10月31日未明に、電気系統から失火。沖縄県那覇市首里城・正殿等が焼失した。4月15日夕方から翌日にかけて焼失崩壊したフランス・パリの「ノートルダム大聖堂」にも心を痛めたが、こちらも残念でならない。

 沖縄空襲で燃えてしまった後、建物のみならず、文献に基づき調度品まで正確に復元されていたと言う。
 こんな悲しい出来事が嫌で、霜月の明るい生活話題に絞り俳句にしてみた。

 

 【俳句-①】は、新米の入った重い米袋が届けられたが、建築後99年を経た木造家屋なので、縁側から廊下~部屋を経由して倉庫に運ぶ時、床が抜けないかと心配しながら運搬作業した様を詠んだ。

 我が家は、大正9年(1920年)秋に完成した。当時は、ゆったりとした昔の工法で建てたので、一年半かかったらしい。今年(令和元年)の秋で99年目を迎えた。

 築200年を越えても、びくともしない叔父の旧家は、柱や梁の太さが城郭並であり、さすがと感心したことがあるが、我が家はごく普通の古い建物なので、床が歪んで軋む音がする。それで、重いものを運搬する時は、気遣いながらする。

 もっとも、私が子供の頃、父の時代から『静かに歩かないと、床が抜けるぞ!』と、注意を受けていた。それから、既に50年以上も経っているので、昔の家屋は、案外、丈夫なのかもしれない。

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私の子どもの頃の米俵 (写真は、装飾用のもの)

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紙袋に入った玄米(30㎏入り)

 

 【俳句-②】は、10月22日の『即位礼正殿の儀』の後、台風被害等で延期となった『御列の儀』が快晴の下、執り行われた沿道の様子を詠んだ。

 NHKのTV中継放送を多くの国民が視聴していたと思う。早朝から沿道に並んだ人々は、スマホ撮りに忙しく、日章旗の小旗はあまり揺れていない。

 少し皮肉を込めた表現だが、警備の皆さんのご苦労は計り知れないものの、まさに、平和日本を象徴するような場面だった。

 

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令和元年 11月10日 御列の儀

 

 

 【俳句-③】は、幼子が大きなシャボン玉を、必死に背伸びしながら追い求めている楽しさを詠んだ。

 当初は、『玉を追う孫の指先小春風』として、句会に提出した。シャボン玉は、春の季語であるからである。冬季語の「小春風」が使いたいので、「玉」となったのだが、会員評では、玉が何のことかわからないという。さも有りなん。それで、シャボン玉にした。
 『シャボン玉は季語として使い、春の句会まで持ち越したら?』というアドバイスもいただいた。 季節外れとなってしまったが・・この孫の仕草が印象的で、俳句にした。それにしても、シャボン玉は、なぜ春の季語なの?

                  *  *  *

 ところで、昨今は、シャボン玉の材料や発生装置が改良・工夫されていて、直径1mぐらいな玉ができる。小さな玉が、春風の微風に飛んでいくのも一興だが、大きな玉はなぜか憧れの「表徴」のようにも見える。

 私には、孫がこれからの人生で追い求めていく目標や理想を掴もうとしているかのように写った。
 シャボン玉のような儚く割れてしまう夢だとも言えるが、壊れても次のシャボン玉を目がけて何度も何度も挑戦していく様子は、『人間が生きていくようだ』とも感じた。
 しっかり学び、心身を鍛えて、協調性と独自性を備わった日本国民になっていって欲しいと願う。爺じの庭での思い出の写真になるかな。

 

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孫が追う夢

【編集後記】

  今朝のインターネットのニュースで、農林水産省水稲の害虫「トビイロウンカ」による被害について、警報を発令したとあった。京都府は33年振りの事で、西日本の11府県で警報が出ている。今シーズンは、長かった梅雨期の西からの強風に乗って中国本土から、「トビイロウンカ」が多く飛来したという。稲の茎から、養分を吸い取ってしまうので、早めの収穫をと呼びかけている。

 佐久平は、ちょうど今が、稲の刈り取り時期である。大型コンバインが、着々と稲穂を収穫し、付随したトラックに移し替えている。稲刈り鎌で、一株ずつ刈り取っていた時代とは、隔世の感がある。

 私の子どもの頃、小・中学校では、年間計画の中で『稲刈り休み』が4日ほど組まれていた。土曜の半日と日曜日を合わせると、一週間弱の学校休業日となり、子どもたちは、家の「稲刈り作業)」のお手伝いをした。

 昭和39年(1964年)東京オリンピック大会の開会式が行われた10月10日、我が家は稲刈りをしていた。私と妹、祖母の3人は、開会式の実況中継を白黒テレビで見ることができた。ビデオ機器など普及していない時代なので、後でハイライトで視聴できても、2時間に及ぶ実況場面を共有できるのは、その放送時に限られていた。

 「未来ある子どもだから、見させてあげよう」と父母が判断したのかもしれないが、とにかく3人はテレビを見る為に帰宅できた。こういう特別行事が好きだった祖母が、案外、言い出したのかもしれない。

 そんな時代から、半世紀が過ぎた。再び、東京にオリンピック・パラリンピックが、やって来た。コロナ禍で、延期になったが、来年の夏がとても楽しみである。

               *  *  *

 さて、脱線してしまったが、米俵(こめだわら)の変遷について話題にしたかった。

 【俳句―①】のように、我が家は、かつての大地主の所へ小作人が米俵を担いで運んで来たのとは完全に180°違い、自分で耕作できないので、専業農家の方に米作りを御願いし、収穫の一部をいただいている。

 水田の維持・管理経費が高騰していくのに、米価は寧ろ下がり気味傾向で、我が家も農家でありながら、必要量の半分の米は買っている。独立した子どもや、妹への分も含めれば、農家が米を買う時代なのだ。

 一応、額面上、小作した人が新米を届けてくれるのだが、私の運ぶのは、30㎏入りの紙袋である。これを持ち上げ、わずかな距離を運ぶのも大変である。

 しかし、私は、米を収納する俵の歴史を実体験しているので、とてもありがたいことだと実感している!

 私の子どもの頃、祖父は、冬の間に、稲藁(いなわら)を使って、俵を編んでいた。米俵が、胴の部分と蓋(ふた)に相当する円形部分に分けて作られることを知る程度であるが、昭和30年代前半、稻藁による米俵が使われていた時代の目撃者ではある。

 その後、米俵は「麻袋」に替わった。私は、小学校高学年から中学生の頃、これを運んで、大人から褒められた思い出がある。何しろ重い。素材が、稻藁から麻に替わったが、中身の60㎏の玄米の重さは、変わらないからである。

 『一俵を運べれば、一人前の男』という時代に、私はそれを運び、褒められたことに嬉しくなった。しかし、腕・足・腰の全てを使い、しかも最大な握力を要して、ようやく運べた60㎏は、長く休んだ後でないと、何回も運べるものではなかった。

 その意味で、紙製の袋となり、半分の30㎏になったことは、とてもありがたい。

 私は、冬期の山行で、25㎏のザックを背負って、9泊ほどのスキーツアーをした経験はあるが、30㎏のキスリングを背負って夏尾根を歩いた経験はない。

 同年代の人と比べて、私は体格がいい方だが、昔の人が、一俵またはそれ以上の荷物を担いで歩いている記録写真を見ると、人種が違うのではないかとさえ思う。

 最近では、30㎏の玄米を、2つの袋に分けて、精米に行くようになった。

 人々は、だんだん非力になっていくのだろうか?