北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和5年度5月の俳句

      【皐月の句】

 

①  菖蒲湯の バスタブ狭し 爺と孫(こ)ら

②  蒲の穂や 十年ぶりの ドック受く

③  植田澄む 透ける葉影に 夕陽射す

               《5月の出来事》

 

 今年は、3月の気温が非常に高く、桜の開花は二週間以上も早かった。5月に入ってからも、夏日(5回)や真夏日(2回)と記録的な暑さの日もあった。後半は、大陸からの寒気が入り込み、周期的に雨降りもあり、変化に富んだ初夏である。
 3年前から、『夏野菜は五月連休が明けるまで待とう』と決め、野菜苗の購入は連休後にした。但し、「ズッキーニ」の苗は、苦労して見つけた昨年の経緯もあったので、先に購入した。
 今年の薬師堂・春祭りは、4年に一度回ってくる燈篭当番で、私たちは提灯の飾り付けをした。コロナ渦で中止されていた「やしょうま撒き」も復活し、盛り上がった。ほぼ同時期に、「佐久バルーン・フェスティバル」も盛大に開催され、佐久の空には熱気球が上り、一気に活気を取り戻した感があった。
 連休後、夏野菜の苗を急いで定植し、畑や農道の草刈りをして、例年のペースに戻った頃、今月の定例俳句会を迎えた。今月は、特にテーマは思いつかなくて、『5月の出来事』として、印象深かったことを俳句にした。


 【俳句-①】は、2人の孫と私の3人で「菖蒲湯」に入った時から、3年後、
同じ3人で、一緒に湯船に入ってみたら、身動きもできないくらい窮屈だった。
私は少しも成長していないのに対して、2人の孫は手足も長くなり、身体も大きくなったことを実体験したことの驚きを詠んでみた。季語は、「菖蒲湯(しょうぶゆ)」です。

 

菖蒲湯(令和2年5月)

 【写真(上)】は、令和2年5月に、3人で入った菖蒲湯です。
 それから、3年経った令和5年、私は66→69歳、孫の兄は5→8歳、弟は2→5歳へと、それぞれが3年ずつ成長が加わりました。 今年は、連休中に引っ越しがあり、兄が小学3年生への進級もあるので、3月下旬~4月始めに、長女らは6日ほど帰省しました。
 私が一緒の入浴を誘うが、兄は、一人で入る。しかし、明日帰るという晩に、私と弟が楽しそうにしていたので、後から風呂場に入ってきました。
 その結果、3人で湯船に入ることになったので、それが、この俳句です。だから、厳密に言うと、「菖蒲湯」ではないのですが、上述したように、3年の間に、孫たちは、元々、同年齢の子らより十分に大きい上に、さらに成長していました。私は、若者(孫)らの大きな変容に比べ、成長していない自分に気づき、すっかり、老いを感じてしまったのです。しかし、気持ちだけは、いつまでも若々しくありたいものだと思います。


 【俳句-②】は、人間ドックを受診したら、10年ぶりだということがわかり、随分、年月が流れたなあと感慨深くなった。同時に、その頃に見た「蒲の穂」を思い出し、その懐かしさを詠んでみました。

 手術後の定期検診を受けているので、「人間ドック」からしばらく遠ざかっていたが、関係機関から補助金がもらえるという情報を得て、受診してみることにした。
 病院の問診中に、2013年に受診していたことを知り、10年前だと気づいた。定年退職となる最終年度の1カ月前、59歳の時だった。そして、今回は、古稀を迎える前の69歳と6カ月目となった。
 幸い、手術した後の経過及び検査の結果も緊急を要する内容はなかったが、ピロル菌退治と大腸・膵臓の精密検査をすることになった。年齢より若姿を自認していても、叩けば埃が出る如く、調べれば身体のあちこちにガタが出てきている老体になってきているのは確かなようだ。

蒲(ガマ)の穂の群生

 さて、問題は季語である。10年ぶりの人間ドックに感激したが、それにふさわしいのは何かと思案した。その時、農作業が2日間も中断してしまうからと、人間ドック受診の前日に、堂入という山間の畑の草刈りをした時、思い出したことがあった。蒲の穂である。
 参考:(蒲・ガマ・学名:Typha latifolia L. ガマ科の多年草抽水植物。ガマの穂の花粉は蒲黄(ほおう)とよばれ、薬用にされる。)

 

 この畑は、沢状地形の中にあり、湧き水が畑の中央と西側を流れていて、水路は石垣で補強してある。その為、サワガニがいたり、カエルがいたり、それを捕食するヘビも多くて、草刈りをしていると良く目撃した。そして、一部にガマの群生もあった。時折、「生け花」用の素材にと、野良土産として持ち帰ったものだった。
 しかし、中部横断自動車道の敷設工事に伴い、地下水を大きなトンネル水路で一箇所に集中させ、畑の西側をコンクリート製のU字溝で流すようにしたので、湧き水が次第に無くなり、我が家の畑は乾いてきた。いつの間にか、ガマの穂も見られなくなってしまった。『そう言えば、この辺りにガマの穂があったなあ』とつぶやきながら、草刈りをした。それで、夏の季語「蒲の穂」を採用した。

 ちなみに、「因幡の白兎(古事記)」の大国主神(おおくにのぬし)が、ワニ(鮫)たちによって毛皮を剝ぎ取られた兎を治療する為の方策が、蒲の穂を敷いて休むことであった。これなら、人間ドックのイメージにも繋がると、一人で合点してしまった。

 


 【俳句-③】は、外出からの帰り道、我が家の水田に稲が植えられているのに気づいた。午前中に田植えが済んだようで、水は澄んでいた。太陽は、まだ西山の少し上方にあって、厳密には夕陽が射していた訳ではないが、今はまだ隙間だらけの水面に、稲苗の影が映って、すがすがしいて。もうしばらくすると、夕陽が葉影を照らす光景になるだろうなと想像し、詠んでみた。

夕陽と茜雲

 我が家には、小字名「六反田」と「森上」という所に水田があるが、森上の1反(10a)を家庭菜園として利用する以外は、大規模に農業経営をされている方に委託して、管理~栽培の全てをお願いしている。
 今や、稼働しているトラクターやコンバインに代表される農業用大型機械類は、価格が1000万円近いか、それ以上するものもあるので、それらを維持するだけでも大変で、私のようなものがする中途半端な経営ではとても叶わない。

 昔通りに家族で水田管理をしている方は極めて少数派となり、かつての兼業農家の多くは、水田管理を委託している。その結果、大規模経営をしている方や、農業労働者を雇い入れて企業体のような組織にしている場合も増えてきている。
米国の大規模農業や牧場経営では、広大な土地も含めて所有していることも多いが、日本の委託栽培を請け負っておられる方は、耕作の為の土地の管理と耕作・栽培だけを任されている。それでも、100ha(100町歩)近いか、それ以上を経営されている方もあると聞いた。
 さて、我が家がお願いし委託している方は、この地域で一番最初に六反田の水田から田植えを始める。「もち米」用のようだ。そして、森上の我が家の水田が一番最後となる。その差は3週間ぐらいにも及ぶ。
 同様に稲刈りも六反田から始め、最後は森上に、特に我が家の順番になる。一部を稲藁束(注*)にしてもらうので、稲刈りの終了を待って、果樹の敷き藁や保存用を軽トラックで運び出している。だから、六反田の田植えの始まりと、反対に、森上の稲刈りの終了は、いつも注意しながら見守っている。
 (注*:コンバインによる稲刈りは、稲穂の実だけを収穫し、稲の茎や葉は、細かく切り刻んでしまうのが普通である。稲藁として利用する為に、括り紐で稲束にする装置もある。切り刻んだ藁は農作業の障害にもなるので、その後で、回収したり、燃やしたりしてしまうこともある。)

田植え風景(インターネットから)

            *    *    *

 

 そんな背景があるので、六反田の我が家の田植えの始まりは、我が家から近い範囲の佐久平が、水だけだった「鏡田」が「植田」となり、その後次第に「青田」へと姿を変えていく農業歳時記の転換点にもなっています。
 日本の六季のひとつ梅雨を経て、真夏のうだるような時期を迎えます。ただし、風が吹けば稲の葉ずれがしたり、水田からの水の蒸発を想像したりして、少しは涼しげな風情もあります。時には、落雷や雷雨による大自然の脅威を感じたり、台風被害を心配したりすることも、自然と直接関わる農業の宿命です。
 田植えから、約5カ月後、水田は緑色から黄色~黄金色に変わり、稲穂が垂れて稲刈りの季節へと移っていきます。こちらもまた、刈り取りの済んだ田圃と、収穫前の田圃のモザイク模様が、高台から眺めることができ、趣深いものです。
 ・・・そんな、これからの稲の成長の周期を思いながら、植田を眺めました。

 

【編集後記】

 【俳句-③】で、佐久平の最近の農業事情の説明もしたが、初夏の五月連休期間中に、「佐久バルーン・フェスティバル」というイベントが、3日間開催されるのも、佐久平の四季の特徴を良く生かしている。

 【写真(下)】は、千曲川の河川敷を「熱気球」が出発地として、競技を行う会場の様子です。いくつかの競技種目の他に、係留した熱気球に見学者を乗せて、大空の冒険の一端を体験できる催し物も企画されている。

 新型コロナ・ウイルス感染拡大防止の為、数年間中止となっていたが、今年は、開催30周年を経た、第31回の熱気球競技大会も開催された。ほぼ、平成の歴史に相当する歴史ある佐久の名物のひとつとなっている。

 

佐久バルーン・フェスティバル

 その昔、私たちが小学~中学生の頃(昭和30年代後半~40年代前半)、義務教育学校には「お田植休み」という休業日が、週休日を含めて4~6日ほど年間行事に組まれていて、子どもたちが、農家の大切な補助労働力として、田植えの手伝いをしていた。

 その頃の田植え時期は6月に入っていたが、今では、年々早まり、大型機械を使った田植えは、5月いっぱいに完了している。それに伴い、水田に水を入れて耕作する「代掻き」作業がある。さらにその前は、「春ぶち」と呼ばれる耕作が行われる。

 「佐久バルーン・フェスティバル」の開催される5月連休の3日間(5/3~5/5)は、上述の「春ぶち」と「代掻き」の間の時期に当たる。つまり、水田は、柔らかく耕作されていて、水がまだ張られていない。

 知っての通り、熱気球には独自の推進力はなく、もっぱら風に任せて、吹かれるまま移動する。ただ、不思議なことに、上空と地上付近では、微妙に風向きや強さが違っていて、その複雑な気流を読んで、目的地に向かう。だから、当日の全体的な風向を見て、目的地(ゴール、もしくは通過点)を決めている。

 ところが、出場チームの中には、とういう風の吹き回しかわからないが、結構、見当違いの方向に流されていく気球もあった。

 私は、長年この地に住んで、何度か目撃しているが、一度は、我が家から南に見える山の中のわずかな所へ不時着したり、比較的近くの水田の中に着陸したり、はたまた、農道に着陸して車で応援隊がやってきて再出発する光景を見たりと、様々なトラブルも目撃したことがある。それでも佐久平の水田地帯は、比較的障害物はないし、何かあっても、どこにでも安全に不時着できる条件が備わっている。

 最近は、風向きが南西~西であることが多く、残念ながら、私の家の方に飛んでくることは減った。また、全体的な技術も向上したようで、見当違いの方向へ流されていく気球も無くなった。

 ところで、今年は、私たちの地元・倉澤薬師堂の春祭り(花まつり)の燈篭当番で、準備や片付けで気球は、遠くから眺めただけだった。そう言えば、我が家の森上の水田近くの川の堤防に、熱気球が不時着し、それをしっかり撮影したが、画像処理の段階で消失してしまったことを思い出した。来年は、しっかりと撮影したい。(おとんとろ)