北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和4年8月の俳句

      【葉月の句】

 

① 乳房雲 列島荒れて 盆送る

② 寝そべれば 蕎麦の花揺れ 孤雲去る

③ 五郎兵衛の 稲の香載せて 雲走る【秋の雲・三題】 

 

 例年になく暑い日が続いた8月の日本列島であったが、同時に、東北の日本海側や北陸地方では、一足早く「秋霖」を迎えたかのような気圧配置となって長雨が続いた。朝鮮半島から日本海を経て東北地方へと延びた停滞前線に雨雲の帯が連なった。
 世界に目を転ずると、発生時期は前後するが、欧州では熱波に襲われ、森林火災が頻発した。中国華南地方では河川や湖の水が干上がり、農業被害も出ている。その一方で、パキスタンでは国土の3分の1が水没するほどの大洪水が発生した。 気象科学的に見れば、それぞれ理由があって説明できた自然現象ではあるが、全く雨の降らない所と、まったく逆の降り過ぎる所が生ずるのは、非常に不経済的で理不尽な現象である。これも、地球的規模の異常気象現象なのだろうか。
 今月は、詳しくは後述するが、『秋の雲』を季語(季題)とするNHK俳句に刺激されて、季語は外のものではあるが秋の雲を題材にしてみることにした。


 【俳句-①】は、今年の盂蘭盆会の「送り火」を見ながら詠んだものである。佐久地方では、夕方18時頃から小雨が降り始めた。「迎え盆(8/13)」は、なるべく早く先祖の霊を迎え、「送り盆(8/16)」は、別れを惜しむようにゆっくりと暗くなってからというのが慣例だが、本降りになる前に、皆を急がせて藁束に火を点け、線香を焚いた。

乳房雲(2022年8月16日・佐久市にて撮影)

 そう言えば午後、乳房雲(Mammatus)を見た。前線や低気圧の影響で激しい風雨となる前兆の雲のひとつとして知られている。天気図を見ると、朝鮮半島から日本列島の日本海側、オホーツク海に前線が延び、雨雲レーダーでは線上降水帯が、みごとに発生していた。
 幸い、佐久地方では、この程度の雨で済んでいるが、日本各地での送り盆は、どうなっているのだろうか?
 きっと、家の外に出ることも出来ないくらいの激しい雨が降っている所が多く、
ご先祖様の精霊を送ることなく過ごしていたのではないかと思った。
 もとより、先祖の霊が、稲藁や麦藁を炊いた煙に乗って、天界と地上とを行き来するという伝統的な感性(意識)は、非科学的な発想には違いないが、日本の多くの人々が、送り火を炊くことができずに、残念無念な思いをしただろうなと思うと、悲しくなった。
 さらに、お盆の4日間だけ、奉公先から故郷への帰省が許された時代、送り盆の訪れは、今以上に哀しみを深めただろうなと察する。

 

 

 余談ながら、8月15日は、大東亜戦争終結を発表した日として、日本人にとっても大切な日ですが、佐久に住む人々にとっては特別な思い入れがある日です。野沢・中込商店街や佐久の企業の協賛で、「佐久・千曲川花火大会」が挙行されます。
 コロナ禍の為、2年間中止され、3年振りに開催できました。私は、自宅から家族と眺めることができました。まさに、夏の風物詩として欠かすことの出来ない伝統行事ともなっているのです。改めて、打ち上げ花火の素晴らしさを称え、終戦記念日の夜の意義を感じました。
 ちなみに、当夜は各地で花火大会がありますが、県内では、諏訪湖の花火が有名です。

 

 【俳句-②】は、山奥の蕎麦畑へ生育の様子を見に行って、畑の脇で草を枕に寝そべった時、目に入った風景を詠んだものです。鮮やかな畑一面の白い花や、草生きれのする真夏の蕎麦畑と違い、草花の勢いが温和しく感じられ、涼やかに蕎麦の花が揺れていました。そして、空も夏の雲から秋へと変わり、高積雲から、ひとつの塊が静かに離れていきました。そんな印象的な、蕎麦畑での草枕風景を思い出した俳句です。

蕎麦の花

 今から23年ほど前、「M少年自然の家」という県の施設で働いていたことがありました。
その折、『青空そば大学』と銘打った主催事業を計画し、①種蒔き~②除草・土寄せ~③収穫~④脱穀~⑤そば打ちを体験してもらいました。(子ども連れ参加もありましたが、年配者も多かったです。)参加者は、土曜日の昼前に入所し、夕食の後で、専門家から蕎麦に関する講義や夜のイベント参加等があります。日曜日の昼食後に退所するという日程でした。農作業もしますが、体験程度なので、実際のお膳立ては、所員が担当しました。
 蕎麦の若葉が出てきた頃、ニホンジカの食害に合いました。カセット・テープレコーダーに「人の話し声や歌」のエンドレス・テープを入れ、一晩中、流しておき、朝夕に点検しました。除草・土寄せと言っても一回という訳にもいかず、私たち所員が炎天下に汗水を流して取り組みました。収穫後の天日干し管理も、私たちで、脱穀は精米所に持って行きました。ビニル制シートの上で干して回収した蕎麦の実から、殻を取り除いて蕎麦粉にすると、悲しくなる程、量が少なくなってしまいます。その収量の少なさに驚くと共に、稲作が蕎麦作りより何十倍も効率の良いことを体験して知りました。
 ・・・そんな、裏話のひとつとして、収穫前の蕎麦畑の様子を点検に行き、「まだ、蕎麦の花が枯れずに付いている」と、花の揺れる光景や、寝ころんで見上げた孤雲の青空を覚えていて、懐かしみました。

蕎麦の実

            * * * *

 ところで、メインイベントは、何んと言っても蕎麦打ちで、自分で(種蒔き・収穫した蕎麦粉から)打った蕎麦を食べることです。
これは、参加者のみならず、私たち所員も同感で、最終回となるこの日は格別でした。

 そして、『青空そば大学』ですから、講義や体験等の単位が認められ卒業証書が授与されます。さらに、「年越し蕎麦」用に蕎麦粉3㎏が、お土産として贈与され、参加者は、きっと満足して帰宅されて行ったことと思います。
 私も子どもの頃、「お餅」や「手打ちうどん」を祖母や母が伸すのは見ていましたが、「蕎麦打ち」体験は初めてでした。私も、残った蕎麦粉を所(少年の家)からいただいてきたので、その年の「年越し蕎麦」を、家内の協力を得ながらも、自力で作ってみました。
 『蕎麦粉だけでは切れてしまうので、伸し粉を何割か入れます』とか、『出来上がりの蕎麦の硬さは、茹で方で決まるのでは無く、練った時の硬さで決まる』などと講釈しながら、伸した蕎麦粉を包丁で切断した。大鍋で2回茹でて、少しは成功に近い方を、家内の弟の所へ届け、残りの方を我が家の年越し蕎麦としていただきました。
 結果は、蕎麦というより太いうどん、生茹でではないが少し違和感がある。濃いめの汁に葱と山葵をたくさん入れて食したが、気持ちで満足はしたが、そう美味くはなかった。
 まあ、古典落語の『そばの殿様』のようにならなくて良かったというべきところだろうか。
 翌年も、青空そば大学は継続したが、年越し蕎麦は止めた。何しろ、年末から年越しまでの準備は他にもいろいろあって手が回らなかった。
 そして、3年目は、募集定員に満たず、主催事業を止めることとなった。

盛りそば(イラスト)

 

 【俳句-③】は、風に揺れる稲穂の香りが空高く上り、雲と一緒に流れて行くかのような気がして、俳句にしてみた。
 ただし、厳密に言うと、佐久地方の8月の稲穂は、まだいくぶん青味がかり、種子を潰してみれば、将来の米になる胚乳の部分は、まだ液体状態である。実りの秋のイメージは、もう1ヶ月ほどして、稲穂が黄色くなって、穂先を垂れるようになってからかもしれない。もっとも、俳句の世界では、8月はもう秋なのである。
 浅間山を背に、佐久平に稲穂の波が続く。
生産された米は、JA佐久浅間農協を通じて「佐久米」の名称で出荷され、流通・販売経路に乗る。極めてわずかだが、我が家の水田で取れた米も佐久米だ。
 しかし、敢えて佐久市浅科地域で『五郎兵衛米』のブランド名で販売している米に因んで、名前をお借りした。
 『五郎兵衛』とは、江戸時代の始めに新田開発をした市川五郎兵衛(上野国甘楽郡羽沢村・現「南牧村」の生まれ)に由来している。水利が悪く、荒れ地であった土地に、蓼科山山腹の標高1900m付近の湧き水を引き、新田を開発した。
 江戸時代の佐久地方での新田開発は、五郎兵衛新田(市川五郎兵衛)の他に、「八重原新田(黒沢嘉兵衛)」・「御影新田(柏木小右衛門)」・「塩沢新田(六川長三郎)」の4新田が知られている。いずれも、多大な労力と出費などと共に、忍耐強く取り組み人々を統率したリーダーの存在も大きい。

稲穂が頭を垂れ始める

                           *  *  *  *

 ところで、冒頭で予告しましたが、今月は、季語は別々でも、秋の雲を詠んでみたいと思いました。
 ①盆送る→乳房雲(乱層雲の類)
 ②蕎麦の花→孤雲(高積雲)
 ③稲の香→雲走る(絹雲・巻雲)
季語と登場した雲の関係は、上記のようだが、それは、「秋の雲」を詠んだ代表的な句として、次の俳句が紹介され感動したからだ。
『ねばりなき 空にはしるや 秋の雲』 (丈草)
 内藤 丈草(じょうそう、寛文2年~元禄17年・現在の犬山市出身)は、江戸時代の俳人で、松尾芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人となったと言う。
 秋の空を詠んだ俳句で、「粘り無き」と「走る」が気に入ってしまった。とりわけ、「走る」に魅了され、【第三句】の『雲走る』とした。
 どこか、盗作をしたような気持ちもあるが、実際、秋の絹雲は、箒で掃いたような筋が、清掃の余韻のように見えて、清々しい。それで、採用してみました。

 

野辺山高原(令和4年9月11日撮影)

 

 

【編集後記】

 今日は「秋分の日」(9月23日)で、お彼岸の「お中日」です。
 恒例の同族(同じ名字の方々)会で、共同墓地の清掃と墓参をする日でしたが、生憎の雨降りです。ご高齢の参加者も多くなって、ぬかる参道が大変だろうし、今年もコロナ禍の為に懇親会は中止となっているので、全ての活動を中止することになりました。とても残念ですが、懸案だった「はてなブログ」を挙げられる時間もできたので、頑張ろうと決めました。

 さて、本文(第3句)の中に出てきた「五郎兵衛米(ごろべえまい)」の生産地である「五郎兵衛新田」について、話を少し膨らませます。
 平成17年の夏休み、8月5日に、『五郎兵衛用水を歩く会(第13回)』に参加したことがあります。講師は、斉藤洋一(五郎兵衛記念館学芸員)先生と、山浦清利(五郎兵衛用水理事長)先生でした。(いずれも、当時の役職名です。) 中型バスで、いくつかの拠点へ移動し、付近を歩いて回り、約20カ所の観察場所を巡りました。【図を参照/場所の説明は数字に○の地点】
 解説を聞いたり、現地のスケッチをしたりした内容は残っていましたが、記録写真は見つかりません。代表的な地点について、報告します。

 

(1)佐久の4つの新田開発の中でも、一番大変だった「五郎兵衛新田用水」
 蓼科山山稜の湧き水を細小路川に落とし、鹿曲川との合流点付近で取水した。
【図-⑳地点】それから「掘り抜き」や「掛け樋」、等高線に沿った水路を経て、貴重な水を引いてきた。その距離が長いことと、掘削などの工事が困難であった。

 

(2)水が到達しても大変な工程が残されていた。
 矢嶋・上原・中原・下原などの地名があるが、全体に水を配する為に、用水は一番高い地点【図-①】を通している。地形の高低を無視して用水の高さを一定に保つため、「つちせぎ・土樋」を築いた。盛り土の高さもまちまちであった。特に、漏水していまうので、様々な工夫をしたり、崩れるのでメンテナンスも大変だった。コンクリート製の水路が完成した最近まで、江戸時代から延々と人々は補修工事を毎年続けてきたと言う。

 

(3)市川五郎兵衛真親(いちかわ・ごろべえ・さねちか)の墓【図-⑤】
 94歳で亡くなった五郎兵衛は、出身地の甘楽郡羽沢村・現在の群馬県南牧村(なんもくむら)に埋葬された。浅科の墓は、没後100周年記念で作られた。地域の人々は、戒名から『圓心(えんしん)』様と呼んでいる。

 

(4)江戸初期から優れた土木技術が使われていた。
 入布施の【図-⑮】には、「掛け樋」跡がある。用水は、布施川の上を通過しなければならないからである。耐久性の無い木製の樋なので、どうなるかは自明である。ちなみに、現在は、「サイフォンの原理」で、川の下をパイプを通して水を渡している。
 【図-⑤】~【図-⑮】の用水路の形を見ると、等高線に沿っていることがわかる。水平を保つには高度な土木技術が必要で、他の用水(例えば多摩西部から江戸への飲料水供給の玉川上水など)でも高度な土木・建築技術があったことが知られている。

 

(5)高度な技術を学ぼうとして、悲劇が起きた。
 【図-⑱】の「片倉隧道」~【図-⑯】の「矢田尻跡」まで、隧道(トンネル)が掘られ、用水は地下を流れた。
(参考:現代のトンネル工事では、鞍部は選ばないと言うが、当時(江戸時代)は、掘る距離が一番短くなるルートを選んだと思われる。また、正確に言うと、現在の用水路および隧道の位置は、江戸期のものとは少しずれている。)
 昭和12年11月27日、「御牧ヶ原修練農場」の訓練生が、研修の為に、ここ片倉隧道を訪れ、穴口から中に入った。穴の中で先頭が転倒して、8名が窒息死するという悲劇が起きた。 その慰霊碑が、【図-⑰】にあった。
(古老の話によれば、片倉隧道に人が入れたと言うが、(少し場所は移動したが)今は鉄格子があって入れない。ちなみに、隧道の上下から掘り進んだわけだが、中央部では、左右or上下に少しずれていたという2説が伝わっている。)


 かなり久し振りに、はてなブログが挙げられて満足です。忙しかったのも事実ですが、少しサボっていました。   (おとんとろ)