北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和5年度6月の俳句

 

 

   【水無月の句】

 

① (蛇を威嚇する四十雀に気づいて)
  鳴き烈(はげ)し 親鳥助け 蛇払う

② (MRCP検査の奇怪音の中で)
  異空間 命に気づき 汗が引く

③ (農作業もなく俳句を練る一日)
  雨一日(ひとひ) 一人居の友 時鳥

        《音について三題(前書に挑戦)》

 

 気象庁からの「梅雨入り」は、西日本全域と東海地方で5月29日と発表された。6月8日には、関東・甲信地方でも平年並みと、それに続いた。
 しかし、今年の6月も、やや異常気象気味で、雨の降り方が尋常でなかった。南太平洋で発生した台風の北上に伴い、台風からの湿った大気が停滞前線の雨雲を発達させ、大雨を降らせた。さらに、インド洋上とチベット高気圧の気圧配置も影響しているようで、西から移動してくる前線自体も水分量が多かった。この為、集中豪雨ですっかり知名度を上げた「線状降水帯」もできて、太平洋側各地に大雨を降らせた。6月中旬段階で、既に平年の数倍の降水量に達している所もあり、被害も出ている。
 佐久地方では降水量が多いものの、幸い被害は無い。今のところ、夏野菜への水遣りをしたことがないほど、適度に定期的に降ってくれていて、助かっている。 ところで、梅の実の収穫や草刈り、庭の手入れ等は、梅雨晴れを選んでしているのだが、5月に受けた人間ドックの結果、精密検査が必要な検査項目が出てきて、病院通いの日が増えてしまった。それで、かなり多忙な毎日となっている。
 今月は、「音について三題」と題して、音に関して印象深かった出来事を俳句にしてみた。その際、17文字では、どうしても俳句の内容が表現できないので、「前書」を添えてみることにした。もともと私の俳句は、飛躍し過ぎで説明を聞かないと、わからないと指摘されることが多い。今月の俳句では、特に必要なのかもしれない。まずは挑戦してみる。


 【俳句-①】は、四十雀の親鳥(メス)が、何かに向かって烈しく鳴いては離れ、再び立ち向かうという行動を繰り返していた。何の意味か最初は理解できなかったが、親鳥の向かう先を覗き込むと、シマヘビが見えた。私は慌てて手箒で掃き出して、蛇を追い払った様を詠んだ。季語は、「蛇(へび)」である。

軽トラ用車庫の隅に巣があった

 4月中旬から車庫で鳥を見かけた。種類もさることながら、蝶々や蜂を見かけた時ぐらいの感じで接していたが、ホバリングをして車庫の一角を烈しく鳴き立て、一旦、外に出た後で同じ行動を続けるので、気になって隅を覗き込むと、シマヘビがとぐろを巻いているのが見えた。一瞬にして、親鳥が雛(ヒナ)鳥を守ろうとしている威嚇行動だと理解した。
それで、ゴム手袋はしていたが、少し怖いので、手箒で、とぐろの上から掃き出すように圧力をかけた。蛇は、どういうルートで車庫から逃走したか確認できなかったが、鉄骨の梁や家具の隙間を見ても跡形もないので、逃げ出したようだ。
 ただ疑問に思うのは、大きなアオダイショウならいざ知らず、小さなシマヘビが、かなり大きく育ったヒナを飲み込むのは無理なのではないかと思った。

 さて、車庫の南東隅に巣があることがわかった。『ピーピー』と鳴くのでセキレイの類かと思っていたら、私を天敵から救ってくれた恩人と感じたのか、近くを親鳥が歩くようになった。改めて見ると、通常は『ツツピー』『ツピツピ』と特徴的な鳴き声をする四十雀(シジュウカラ)だとわかった。
 それ以来、農作業に出かける前と帰宅した時に、巣を覗いて雛鳥たちの様子を見守った。車庫にカメラを用意しておいて、雛鳥の様子や、雄と雌の番で、餌を運んでくる様子を撮影した。さすがに、農作業に行かずに、近くで待機していて餌を雛に与える場面までは無理だった。

シジュウカラの雌(♀)

 

頻繁に餌を捕らえて運んで来る

だいぶ大きくなった雛鳥

 6月8日午後2時、曇り空だが、農作業に出かけようとしていた時、四十雀の警戒音に似た烈しい鳴き声を聞いた。再び、蛇の襲来かと急行すると、巣は空っぽで、3羽の雛鳥は消えていた。私が大騒ぎをしていると、妻も家の中から出てきた。

昼間は、巣の外に出ている

空っぽになっている巣

 上空の電線に止まった親鳥がしきりに鳴いている。
(ア)雛鳥が巣立って外には出たものの、うまく飛べずに地上の草むらにいるのか? 

(イ)もっと大きな蛇に食べられてしまったのか? 

 妻は、『一羽、灰色なのがよちよち歩きをしていた』と証言した。2羽の鳥が電線にいて、雄ではないので、1羽は、巣立った子なのかもしれない。
 しかし、親鳥はいつまでも呼びかけをしていたが、子らは現れなかった。 私も、番の他に1羽を合わせた3羽同時には見ないと、信用する気にはなれない。何より残りの2羽は?
 さまざまな疑問と不安を残しながら、家の周囲を見回ったり、空をいつまでも眺めたりしていた。
 傑作なのは、敷地内を歩いていて、西口で、シマヘビを見つけたことだ。例の蛇とは限らないが、もし、シジュウカラの雛鳥を食べたらお中が膨らんでいるはずだが、あまりにスマートで、人の足音を聞いたら、縁の下に滑るように入って行ってしまった。なぜか、不安もあったが、安心した。
 翌日には、親鳥の呼びかける絶唱の声は消え、いつも通りの『ツピツピ』のリズムの鳴き声が聞こえてきた。3羽は巣立ったのだと思いたい。

 

【俳句-②】は、狭苦しい検査機械(カプセル)の中で拘束され、奇怪な振動音を聞いた時、『癌に侵されずに、生命は続くのだろうか?』と、生命体としての自分の存在を自覚し、ぼんやりと生きている姿を自省し、愚かな存在を正そうとしたことを詠んだつもりです。少し真面目な気持ちです。季語は、「汗」ですが、この場合、暑くて出る汗でなく、冷や汗の方です。

 先月(5月)の俳句の中に、『蒲の穂や 十年ぶりに ドック受く』というものがありましたが、古稀を前にして、受けた人間ドックり結果、いくつか精密検査の必要な箇所が明らかになりました。
 そのひとつは、「主膵管の肥大」でした。今月は、①CT検査、②MRCP検査、③超音波内視鏡(EUS)検査の3つの方法で、精密検査をしていきます。
 私は、気が小さい方だと思いますが、ある意味では鈍感で、楽天的な所もあります。かなり危険な段階と生存率の「肺癌」手術が済んでから5年間生存できたことから、前にも増して、『人は運命に従って生きれば良くて、物事は生きている限り何とかなるさ』と思うことにしています。ただ、このような態度は、大切な事に面と向かって、将来について考えることが必要だとは思いながら、いつもそれを避け、問題を先送りしていることなのです。

 ところが、6月9日のMRCP検査の最中に、気づくことができました。
 まずは、この検査内容を知らないと、私の気持ちや心がけが、なぜ変わったかという経緯が理解できないと思いますので、説明します。
 MRI(磁気共鳴画像)検査の中で、胆管と膵管に特化した検査です。今や比較的主流となりつつあるCT検査と違い、X-ray(レントゲン線)は使いません。
 強い磁場の中で電波を照射し、身体の内部の様子を画像化します。私には、それ以上の原理は不明ですが、X-rayでは簡単に通過してしまい見落としてしまう部位を詳しく調べられます。ただし、ディメリットは、長時間かかること、電磁波の反応で大きな音が発生することです。脳や脊椎・神経・血管・筋肉などには特に有効だと言います。
・・・この時、私が、強烈な印象を受けたことは、狭い空間の中での検査だったこと、奇怪な音の世界に、長い時間(この場合30分間)、しかも動かないようにと拘束されていたということが、大きな要素でした。
 『苦しくなったら、これ(握る装置)で知らせてください』と渡された器具を握ろうかと思う瞬間もありましたが、基本は、自身の検査だから我慢すべきと思いました。それに、「脳のMRI」を以前にやった経験者ですから・・・ですから、
検査を中断する意思は基本的に無いし、してはいけないと思って臨んでいます。
 しかし、検査技師の方には悪いのですが、なぜか、非日常的な奇怪音と共に、無理難題を押し付ける指示に、地獄の獄門台の上に、私が拘束されているように感じた場面も、いくつかありました。
 『息を吸って、吐いて、止めてください』
 一番最初に、私は、この指示通りにしました。深呼吸をして、思い切り吐いて、その後で止めたら、10秒間が苦しくて仕方ありませんでした。どうやら、息を止めて、動かないでいることが目的のようで、軽く吸って軽く吐いて、酸素を温存しておくように修正しました。
 最初は、私の為の検査だと、我慢していましたが、途中で奇怪音の音調が変わります。終わりかなと思うと、再び、先ほどの内容が繰り返されました。受け止め方では、快適に感じられる部分や段階もありましたが、全体的には、やはり苦痛でした。
 そんな時、閉じた目を開けると、目の前には検査機械装置の壁面が迫ります。そして、拘束されて自由になれない身体があります。どう、好意的に解釈しても、もし、想像上の地獄があるとしたら、これに近いなと思いました。つまり、『癌に侵されているのかもしれない。この検査で、それが証明されるのかもしれない。もう少し、真面目に生きれば良かったな』等と、人生を後悔するフレーズとセリフが脳裏を駆け巡っていました。


【俳句-③】は、梅雨入りし、終日雨の一日、俳句会に向けて構想を練っていると、時鳥(ホトトギス)の鳴き声が聞こえてきた。和歌や俳句などに良く詠まれた「ホトトギス」を題材にしてみようと思い、一人居の友と詠んでみました。
季語は、時鳥です。「子規」・「不如帰」・「杜鵑」・「蜀魂」などの漢字も全て同じホトトギスと読みます。

ホトトギス

 鳴き声は耳にしても、実物は写真でしか見たことはありません。嘴(くちばし)を開けると、真っ赤な喉が見えるところから、『啼いて血を吐くホトトギス』との言葉があります。
 結核を患って、若くして亡くなった正岡子規は、喀血した自分をホトトギスに似せ、また、幼少の頃の名前(常規・つねのり)の「規」の字があることから、「子規」を俳号としました。俳句雑誌名を『ホトトギス』としたのは、この俳号に因んだものようです。(明治23年の資料)
 特徴のある鳴き声は、風情があっていいなあと思いました。


         編集後記 

 「梅雨晴れ」が続き、小梅の収穫に続き、梅の収穫をしました。2時間半休まず収穫してケース2.5個ぐらいのペースで、8個のケース分を収穫しましたが、まだ残っています。ケースが、これしか無いので一端中断です。近く帰省する妹と知人に数個ケース分を持って行ってもらい、ケースが空いたら収穫する予定でいます。今日は、太平洋側を中心に雨の一日でしたが、佐久地方でも弱い雨が断続的に続き、終日デスク・ワークでした。

カッコウ

 さて、本文【俳句-③】で話題にした「ホトトギス」について、「カッコウ」のことも話題にします。
 季語・時鳥(ホトトギス)は、実際に鳴き声が聞こえていたので採用した訳ですが、郭公(カッコウ)ではどうでしょう。
実際、カッコウが盛んに鳴いていた時もありました。
 カッコウ(郭公)とホトトギス(時鳥)が、同じホトトギス科の渡り鳥で、見かけだけでなく、生態が似ているということは、大人になってから知りました。
 私の幼少時代から、進学で佐久を離れるまで、我が家の近隣で初夏に鳴くのはカッコウばかりで、文献上有名なホトトギスの鳴き声は、後述するエピソードの頃まで、聞いたことがありませんでした。
 (これは、早春を象徴する「揚げ雲雀の囀りと飛翔」を、大学生になるまで実際に見聞きしたことがなかったことや、同様に、ゴキブリを佐久を離れ東京で下宿するまで見たことがなかったエピソードにも発展しそうですが、止めておきます。)

 平成9年(1997年)、私は「長野県M少年自然の家」に勤務し、主催事業のある時は、施設に隣接した職員宿舎に泊りました。初夏から夏にかけて、蓼科山の東側裾野の高地にある「少年自然の家(所)」は、とりわけ、夏至の頃の夜明けは早く、明るさから自然と目覚めてしまいます。
 ある時、文献で知っていた時鳥の鳴き声を聞きました。そして、有名な百人一首の『時鳥鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる』という和歌を思い出し、外に出てみました。奇しくも、南東の空に、白い下弦の二十六日月に近い月(有明の月)が見えました。時刻は、午前3時頃でした。
  私は、実際に時鳥の鳴き声を聞き、しかも、既に飛び去っていた時鳥を見た訳ではないものの、日の出前の下弦の月を見て、和歌の情景を理解できたことに感激しました。 
  ただ、和歌の作者・後徳大寺左大臣(藤原実定)は、詩歌管弦に優れ、藤原定家の従弟で、小倉百人一首の選者でもあることを知り、随分偉い人なんだと思う半面、へんなことも想像しました。夜遊びした朝帰りの実話じゃないの?と。
・・・月の学習で、『恋人と見た月は、三日月、それとも二十六日月?』などと言う学習問題で、意味深な授業をしたこともありました。

 

 子供の頃、初夏を象徴する郭公が、あれほど鳴いていたのに、今ではまったく聞こえず、代わりに時鳥が鳴いている。
 その移り変わりの趨勢について、私の想像だが、「托卵」という生態が影響しているのではないかと考えた。カッコウホトトギスも、他の鳥の巣へ自分の卵を生み付け、他の鳥の親鳥に面倒を見てもらうという不届きな習性があるという。最近の研究では、このゆゆしき子育ての実態に気づいた他の親鳥は、生み付けられた卵の段階で、放置してしまう例が知られている。
一方、カッコウホトトギスは、托卵する他の種類の鳥を新たに捜しているようだ。
 つまり、佐久地方の、少なくとも我が家付近では、カッコウ時代が滅び、ホトトギス時代へと移ってきているらしい。一方、托卵する相手も変わっていくらしいので、ホトトギス時代もいつまで続くかは、わからない。

カッコウの托卵

                      *   *   *

 最後に、「一人居の寂しさ」にふさわしい季語として「ホトトギス」を採用したが、「カッコウ」では明る過ぎる。良く「閑古鳥(かんこどり)が鳴く」と称し、盛らない店の営業を卑下するが、『郭公ワルツ(ヨハン・エマヌエル・ヨナーソン1913年作曲)』などを聞くと、「閑古鳥」のイメージと正反対である。それで、実際に聞こえた鳥の鳴き声という理由だけでなく、少ししみじみとして、趣深いホトトギスの方を選んだ。
 同時に、他の生態の鳥を想像して欲しい。雀や燕は、おしゃべりで、いけない。賑やか過ぎるし、群れや家族でいる雰囲気が常にある。鴉(カラス)も、夕暮れや夕焼け雲には良く似合うが、割りと複数か、集団での行動が多い。
  やはり、寂しさを共感してくれる鳥は、時鳥や郭公、場合によっては、鶯ぐらいが、ちょうど良いのかもしれない。
 今は、雨が一時的に上っているが、向山から時鳥の鳴き声が聞こえてきた。(おとんとろ)