北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和4年 1月の俳句(令和3年度)

      【睦月の句】

① 救急の 母案じつつ 去年今年

② 柝(たく)を聞く 大黒柱 百二年

③  浅間峯ニ 瑠璃光鮮ノ 御慶カナ 

                 《大晦日から元旦》

令和4年(壬寅)の正月は、国際政治という観点からも緊張感に満ちた年明けであったが、我が家にとっても未曾有の事態となった。(後で述べる。)
 また、新型コロナ・ウイルス感染の拡大では、変異したオミクロン株が蔓延し、年明けの全国の新規感染者は一日で「数千人/日」程度だったが、12日に1万人を越えると、2~3日間隔で、更に1万人ずつ増加していった。月末は「8万人/日」台となった。(ちなみに、2月に入ってからも増加し続け、2月6日に「10万9915人/日」と11万人に迫って、ピークを迎えている。)

 例年のように、長女夫婦が子どもを連れて暮れから帰省していて、正月前半は、二人の孫と遊んだり、我が家の趣味である散歩に、全員で出かけて、楽しい時間も過ごした。昨年の睦月の俳句は、そんな孫たちとの題材を選んだが、今年は、先に述べた未曾有の事態となった「大晦日から元旦まで」の状況を俳句の題材にしてみようと思う。


 【俳句-①】は、「お歳取り」と呼んで大きな意味のある大晦日を迎える日の晩、救急搬送された母の容体を案じつつ年越しをしたことを俳句にしてみた。
 定刻の午前7時に、私の作った味噌汁と些細な料理を母の所へ運び、朝食を食べ始めたが、母はトイレに立った。やや籠もった声で、普段と様子が違うのと、脳卒中を連想し、私は母を待った。
 『あの針が、あそこまで行ったら見に行こう』と躊躇していたが、トイレで少し音がしてたので、私は急行した。
 『立てない』と母が言う。身体を抱えて、居間に寝かせた。家内に連絡を取り、血圧と脈拍を確認した。数値的には大きな問題のない値だったので、しばらく寝かせておけば回復するだろうと判断した。
 しかし、帰省した次女が、『明日から病院は3連休になるし、お婆ちゃん、朝から回復してない』という指摘で、「119番」救急車を要請した。
 (年末に、申し訳ないと思い、私は救急要請をためらっていた。この点、若者の方が決断は早かった。聞きつけた長女も「119」通報をしてしまい、二重に電話が掛かってしまい、片方をキャンセルしたというエピソードもあった。)
 私は、救急車に同乗して佐久医療センターに入り、検査結果を見せてもらった。「アテローム脳梗塞」との診断で、脳の血管が細くなったり太くなったりしているのがわかった。脳の問題の部位は、血流が途絶えていて、右の手足と言語に影響を与えていたらしい。症状は初期段階だと言うが、高齢(93歳6ヶ月)なので、突然、何が起こるかわかりませんと言うことだった。
 後から自家用車で到着した家内と、救急外来で待機し、上記の内容を医師から伺った。その後、日暮れ前には帰宅して、母のいない「お歳取り」をした。そして、『満年齢とは別に、大晦日から元旦を迎える真夜中を境に、人は皆、1歳だけ歳が加わる』と言う話を孫たちにした。

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2歳と88歳の歩み(母の米寿祝いに使用)

 【俳句-②】は、母を案じつつ頭に浮かんだ光景が、「火の用心」を喚起させる拍子木の音と、それにまつわる母の思い出であったので、主人公は私から大黒柱に代えて、その状況を俳句にしてみたつもりである。

 私の祖父が祖母と結婚して、1年半かけて我が家は完成した。大正の始めの頃は、新築と言うと、木材の確保から、材木加工~棟上げ、瓦拭き、壁塗りや内装と、今では考えられないほど人の手間暇をかけて建てたものらしい。
 家が完成するまでの間、夫婦は本家で、祖父の旧家族と共同生活をしたらしい。(祖母は多くを語らないが、大変だったらしいことは想像できる。)
 我が家(母屋)は、築101年であるので、お歳取りの晩には、家の大黒柱は、ひとつ歳を加え102歳となる。

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雪の舞う冬の夜更け (インターネットから)

 

 ところで、俳句歳時記を調べていたら「寒柝(かんたく)・柝(たく)」という季語を見つけた。平易な表現では、冬季に「火の用心」の為などで夜警・見回りをして、拍子木を打つこと、及び、その拍子木の響く音のことである。TVの時代劇に登場する『火の用心、さっしゃりませー』(寒空に拍子木の甲高く響く音)という情景である。
 現代でも防犯や防火を目的とした夜警は行なわれているはずだが、さすがに、人々が寝静まった深夜に、拍子木を打って夜回りをしているとは想像しにくい。
 しかし、私が住む地域では、私が小学生の頃、正確ではないが、第18回東京五輪(昭和39年)の少し後の頃まで、冬季に実施されていた。近所同士の2軒ずつの「火の見当番」が、2回ほど回ってきて、深夜の午前0時を夾んで、その前と後の2度、当番が地域の夜道を拍子木を打ちながら巡回していた。
 少し脱線するが、多くの当番は拍子木だけで、「火の用心」の呼びかけはしなかった。気持ちだけ聞こえる程度の人はいたが、大声で回る名物爺さんがいて、時々、その声で起こされたこともあった。

 さて、この寒柝(かんたく)が、なぜ母の思い出に重なるかと言うと、我が家は隣家のMさん宅と組んで当番をしたが、深夜2回の巡回の間に、家の炬燵にあたり体を温め休憩するので、火の見当番(主に男性)のお茶や漬け物準備や接待の為に、母も起きていたからである。(私も、起き出してきて、お菓子をもらい、お茶を飲んだこともあった。)
 いつだった正確ではないが年末に、父が学校の宿直当番と重なり、母がMさんと火の見当番をすることになった。晩年、喘息に苦しんだ祖父が代われなかったので、かなり後のことになろう。
 その晩、夜間の休憩待機は我が家の番で、私も起きていた。二人が夜回りをしてくるのを待っていた。家の近くで拍子木の音が聞こえ、戻ってきたので、3人でお茶を飲んだ。そこに、祖母も加わった。どうも2回目の巡回をした後は、私が眠ってしまっていたようだ。気づいて、母たちの寝室を見に行ったら母がいて、とても安心したように記憶している。
 今、当時の世相や勤務体制、何よりも地域の為に「ここまでやるか!」と思うと、隔世の感がある。多くの犠牲と労力をかけて維持してきた慣習ではあったが、母という同じ人間が、生きながらえて体験してきた人生の一部だった。もちろん、存命ではあるが、奇しくも大晦日に緊急入院したので、寒柝を思い出した。ちなみに、大黒柱は102年だが、母は嫁いで70年である。

 

 【俳句-③】は、元旦の午前中、家族全員で氏神様や菩提寺に挨拶回りをする。その折り、今年は雪が多く、浅間山の冠雪が眩かった。天空から「瑠璃」色の光が山頂に降り注ぐように鮮やかに見えた。
 「御慶」とは、少し改まった表現だが、「新年おめでとうございます」という意味で、新年の祝賀の言葉である。元旦の浅間山と空の麗しさの対照が印象的で、それを俳句に詠んでみた。
 ちなみに、「瑠璃色」とは、やや紫がかった藍色のことである。日本列島周辺が冬型の気圧配置となった時、佐久地方は、写真の光景のように青空が続くが、空の深い方(上空)に目をやると、青空は寧ろ「藍色」に見える。さらに、本当に澄み切った快晴の空は、藍色よりもっと藍色が強調されて、まさに瑠璃色となる。今年の元旦の空は、まさにそんな色だった。

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根古岳(菅平)~烏帽子・浅間火山群の展望 (佐久市前山から)

 

 ところで、「瑠璃光鮮」は、昨年の12月の俳句で紹介した薬師堂鐘楼の梵鐘に刻まれていた四言詩の一部で、誰かが創作したものからの盗用であることは、先に白状しておかねばならない。それが気に入って採用したら漢字が多いので、助詞にあたる部分をカタカナにしてみた。なぜか、俳句が漢文の読み下し文のようになった。
 次にこだわったのは、「嶺」と「峰または峯」である。ほぼ似た意味ではあるが、山で例えると、「嶺」は北アルプス(山脈)のイメージ、峯(峰)は富士山(単独峰)のイメージである。
 今回の浅間山でスポットを当てたかったのは、浅間火山群全体ではなく、最高峰付近の「峯」にしたかった。御慶の挨拶は、その噴気のあがる峯と交わしたと思っている。
 こんな些細なことに私がこだわるのには、理由がある。それは、同じ山の光景を見ても、日本人と欧米人は見え方が違うのではないかと、思う節があるからだ。
 ひとつの根拠は、日本の学校に来ていた米国のAETの男性が、浅間山を見て『黒っぽい茶色だ』と表現した。私たちは山紫水明と、遠くの山は紫がかるが、季節によって青緑が深まったり、夕焼けに染まったり、季節や時間帯でも絶えず変化していると感ずる。ところが、米国人の彼は、夏を中心とした時期は乾燥して木立は枯れ落ち、山も森も茶褐色のイメージらしい。育った米国の様子からの発想だと思うが、自然の変化の微妙な違いが理解し難かったようだ。
 
 次に思うことは、山と空の境を私たちは「山の端」と表現するが、同じ箇所を英語では「スカイライン」と発想する感性についてである。
 小さな子の風景画では、緑か青のクレヨンで、山の稜線を線で直線的に描く。
しかし、少し大人になると、例えば里山稜線の木々の枝の凹凸に気づいて、少なくとも直線にはしない。
 また、『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。』(枕草子)ではないが、山の端と明けゆく空の境目は、明確な区別できる境ではなく、色彩のグラデーションで、自然に移りゆくものなのだ。そして、それが日本の美学でもあると思う。さらに、日本人は視線を山の麓から山際にと上げて、空へと移していく。
 一方、スカイラインの響きは、大地の果てと空(大気圏)の境が明確で、空の世界との国境を示すイメージがある。空が主体で、その下限を確認するような目配りと感じる。欧米人は、多分、そんな風に感じているのではないか?
 その点、「地平線・水平線」と「ホライズン」の関係は、日米共通に近いものを感じる。旅の果て、航海の先を想像し、不安の中に希望を見る時の視線は、明らかに大地や大洋が主体で、空が従だと意識する。
 さて、俳句の作成の意図を表現できなかったが、(ア)山を下から見上げた、(イ)山頂は始め瑠璃色でなかった、(ウ)御慶の祝賀に、突然、瑠璃色の鮮やかな光が見えた・・・というストーリーにしたいと思ったからだ。

 


【編集後記】(はてなプログ)

 信濃毎日新聞・朝刊「けさの一句(土肥あき子さん・俳人)」を真似て、私も自分の俳句の創作した背景を短文で説明しようと始めたが、1月号は、文書量が膨らんできている。当初は、3句全部で1頁に収めて、最大でも2頁だった。
 平成28年度から始めたので、令和4年3月まで続ければ、ほぼ丸6年となる。ただ、今年になって、再びコロナ禍で、1・2・3月と定例の句会が「オン・ライン」ならぬ、短冊に書いたものを代表が回収・印字したもので、句会を代用して、各自が3句ずつ良作と思う他の人の句を選んで、互いに評価し合っている。

            *  *  *

 ところで、今は既に3月(弥生)に入っている。2月4日(立春)の北京冬季五輪・開幕式から、2月20日(雨水の翌日)まで、オリンピック競技を毎晩遅くまで視聴していた。興味・関心の高い種目は、昼間も熱心に観戦した。
 この間、佐久地方では、まとまった降雪(15~25cm)が4回あり、早朝や午前中の雪掻きに追われた。佐久平の水田地帯が全て雪原となったのは、何年か振りであったろうか?
 北信地方の山ノ内中勤務の折り、生徒と一緒にノルデック用スキーとブーツを買った。転勤で佐久に帰ってきてから、何年かした年にも大雪となって、野山(畑や山道)、水田地帯でスキーを滑らせたことがあった。
(大学時代には、もっと本格的に、シールを着けた山スキーで、冬~春の雪山のスキーツアーをしたことがあった。

cf:かなり初期の頃に「はてなブログ」に載せた作品を参照)   
 そんな久し振りの雪景色は、光の春の訪れと共に、追加の積雪もなかったので、少しずつ解けていった。
 しかし、辺りの春の訪れを予感させる景色とは裏腹に、2月25日頃から、軍事訓練に名前を借りた怪しいロシア軍の動きが、全世界の人々の心を氷付けるようなウクライナへの侵攻が始まった。
 日本政府(外務大臣)は、『ロシア軍による侵略』と明言した。(2月26日)
以下、これらについての言及は、次回以降にするが、暖かい部屋でTV画面を通して、避難民や死傷者の様子を見ている自分に腹を立てている。(おとんとろ)