北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和3年12月(みゆき会)の俳句

    【師走の句】  ~散歩道で三題~

 ① 暮れ早し 鐘(かね)突き眺む 山の影

 ② 冬晴れの 電線すずめ 数えおり

 ③ 残照に 風鎮(しず)まりて 雪浅間 

  新型コロナウイルの新規感染者数は、11月下旬から全国で1日100人台と減ってきているが、12月に入ってからも、依然として横ばいのまま推移している。忘年会は、まだ自粛傾向にあるが、外出の少ない少数の老齢者が、地区会館で会食するぐらいは許されるだろうと、昼食会を兼ねた納会と定例句会を開いた。

 私の場合、農閑期に入った12月は、午後の散歩が日課になりつつある。散歩コースは、その日の気分で変わるので、まさに漫ろ歩きだが、出かける時刻は、ほぼ一定している。人通りの少ない住宅地や冬田道、枯れ木立の山道、神社・仏閣などを訪ねることもある。時には車で、景色の良い場所や公園に出向くことはあるが、個人の趣味の為に貴重なガソリンを消費することは、気が引ける。
 それで、今月は、午後の散歩で見聞きした内容を題材に、俳句を創作してみた。

 


 【俳句-①】は、散歩からの帰宅直前に、敷地にほぼ隣接する薬師堂の鐘楼に登る。鐘を突きながら、佐久平にできる山の影を眺めたことを詠んだ。
 『智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。・・・』高村光太郎智恵子抄「あどけない話」ではないが、私の住む山里も空が無い。
 もっとも、本物の空が無い訳ではなく、佐久の地は冬晴れが続き、抜けるような青空が広がるが、盆地の西端に位置する集落では直射日光が山で遮られ、日の陰り出す時刻が、とにかく早いのだ。
 11月下旬~12月初旬の一週間ほどが、1年中で最も日没が早いが、我が家の庭は午後2時半に、山の日陰域に入る。
 一方、佐久市の日没は、早くても4時半頃なので、まだ空は明るく、鐘楼から眺める佐久平には山の影が映る。まさに、日向と日陰の最前線である。日陰前線の東側にいる人や物は、まだ直射日光が当たっているんだなあと、羨ましく思う次第である。(但し、当然のことながら、朝の事情は、これと逆の関係になる。)

              *   *   *

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田圃道から倉澤薬師堂を臨む

 ところで、帰宅前に私が突く鐘の碑文は、以下のような漢詩風に記されている。
詳しいことは不明だが、「四言詩(よんごんし)」の形式で、12フレーズ(対となる部分が6あると理解できる)から構成されている。

 

 『洪鐘再生 山畔髙懸』・『響揺霊峰 聲透頂天』・『群鳥讃法 竜虎穏眠』 ・『精舎礼楽 整備現然』・『佛日増暉 瑠璃光鮮』    ・『心願成就 何亘言詮』

 

 何と読むかは自信がないが、漢字の組み合わせから、およその意味はわかる。小学生に伝えるつもりで解釈すると、①梵鐘を作って山里に吊した、②鐘の音は山々に響き、天まで届く、③お経の素晴らしさを称えるように鳥たちが鳴き、荒れ狂う龍や虎さえも心静かに眠る、④集落に暮らす民も幸福となり、綺麗な街並みができた、⑤御佛の照らす慈悲の光は増して瑠璃色に空は光輝く、⑥願ったことが神仏に届き、その通りになるように(?)という感じだと、私は理解したが、どうだろうか。解釈が正確でないことは承知だが、『鐘を突くと、良いことがあるよ』と、私は勝手に解釈して、散歩から帰り、本堂に参拝した後で鐘を突いている。

 ただ、ひとつだけ確かなことは、「①の梵鐘の再生」の意味である。
 梵鐘の碑文の続きに、「昭和55年1月吉日」とあるので、1980年の正月前後に梵鐘が、富山県高岡市の専門業者の手により、鋳造されたとものと推定できる。私は、就職したばかりで、家を離れていた時期で、当時の事情や建設の経緯を、祖父から聞いておかなかったことを悔やむばかりだ。

 ただ、私たちの腕白小僧時代は、薬師堂と鐘楼を敵対する勢力の居城と想定し、
チャンバラごっこ(模擬戦闘)をしていた。鐘楼には、太鼓があって、出陣や退却の合図に使っていたことを覚えている。

 なぜ太鼓かと言うと、大東亜戦争時代、鐘楼は、鉄類の不足から軍事兵器の製造の為に供出されたので、その後に太鼓を備えたという話を祖父から聞いた。それが、戦後45年を経て、ようやく地域住民の発意によって、かつての鐘楼を復元しようという運びになったのだと思う。
 それ以来、倉澤薬師を訪れる人々が年始回りに訪れる、12月31日の晩から新年にかけて鐘を突く人が多かった時期もあったが、最近では、鐘を突く人は、ほとんどいない。私ぐらいになっている。陰で『鐘突き爺さん』などと呼ばれているかもしれない。

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倉澤薬師・梵鐘の碑文

 


 【俳句-②】は、散歩をしていたら、雀(すずめ)の群れが、冬晴れの電線に留まっている。その様子をしばらく観察した時の感慨を詠んでみた。『数えおり』という表現なので、文字通りの意味から、何羽いるかと指折りして数えたような印象を与えるが、真実は大部違う。
 私は、思わぬ観点から雀の群れに感動していた。それは私の観察の特徴でもあると思う。そして自然科学的な疑問でもある。
 令和3年3月に雀の群れの俳句を詠んだ。
 春一番 パシュートの如 群れ雀』
 特に、冬季から春先に雀は群れを作って生活している。そして、人が近づくと皆が一斉に飛び立ち、右に左に、上へ下へと、一糸乱れぬ飛行行動をする。その統制の完璧さは、世界記録を樹立した日本の女子パシュート・チームのようだと感心し、不思議さに感動した。
 その後、群れている雀は、その年に生まれて育った子雀であり、集団で越冬していることを知った。春になると集団お見合いから、カップルができて、次の世代の子雀が誕生していくと言う。一方、親雀は春を待たずして、半分ぐらいは自然死や凍死してしまう。雀の寿命は、せいぜい1~2年で、長生き雀でも3年以内と言われる。
 そんな実態を知って、雀の群れを見ていると、『すずめの学校の同級生同士で結婚しているのか』などと、変な所で感心してしまった。

 ところで、私が一番関心を抱いて観察したことは、電線に留まった雀たちの向きであり、その間隔であった。電線に対して直角方向を向いて留まるが、例えば多くが南を向いている時、北を向いているものもいる。私は、その数を数えていた。全部を数える前に飛び去ってしまうので、何んとも言えないが、なぜなのだろうか?

 夏の雪渓で休憩する時、『一人は雪渓の上を見ていろ!』と先輩から教わった。見晴らしの良い麓方向を見て寛いでいる最中に、岩が落石となって直撃する危険があるからだ。雀の群れも、一部は反対方向を向いていれば、天敵を発見できるのかもしれないが、その任を担う雀は決まっているのかと疑問に思う。

 それよりも、少し隣りと離れていたりすると、「ひねくれ雀」なのかなと心配したりする。そして、電線に留まる時の間隔が、ぴたりというのは無いが、少し離れ過ぎ、近過ぎというのはある。「すずめの学校」の交友関係を観察しているようである。
 もちろん、見上げる「電線すずめ」の上空には、佐久特有の群青色~紺碧色で吸い込まれるような冬晴れの青空が広がっていて、それに感動していることは言うまでもない。

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電線すずめ(青空でなくて残念ですが・・・ )

【俳句-③】は、冬の夕暮れに最後の太陽光が浅間山に当たっている。純白の冠雪は、少し薄い紅色を帯びて神々しく見える様を詠んだ。
 佐久平の冬の夕暮れの様子は、俳句―①でも説明したが、盆地の西の山に日が沈んで山の影が伸びていく。そして、最後は、標高の高い浅間山系の残照となり、やがて薄暮から夕闇に変わる。
 残照は、「夕焼け」という意味ではないが、真昼の真っ青な空と純白の雪に象徴される「爽やかスポーツ少年」のようなイメージから、光量の減少から色彩の透明感が少なくなり、少し憂いを帯びた微妙な色合いに変わる。「モルゲン・ローテ」にも似るが、時間帯の違いのせいか、印象は違う。
 見ている私が男性であるせいか、同じ若者でも、麗しく、たおやかではあるが凛とした少女のようなイメージがする。
 ジェンダー・フリーの時代なので、神聖な山を「男性名詞・女性名詞」のような例えをすると嫌がられるので、このくらいにしておく。要は、一日の中でも、時間帯によって美が異なるということが言いたい。

 ところで、俳句会に提出した元の俳句は、『残照に 神々しさ増し 雪浅間』であった。
 中七句は字余り(中八)であるが、山の素晴らしさを「神々しい」と表現したかった。しかも、昼間も良いが夕暮れはもっと良いという気持ちを表したかったので「増し」を入れた。
 会の先輩らから、『素人が中七の字余りに挑戦するのは、どうかな』、『抽象的な言葉の意味を、具体的な物や事実で表現して、それが神々しいと創造できるようにしたら』と言われ、変更することにした。
 まだ、十分に具体的ではないが、残照というスポット・ライトが浅間山に当たると、ご威光で、風も静かに凪いで、自然界全体が鎮まったというような脚色をした。それで、『風鎮まりて』としてみたのだが・・・・。

 

【編集後記】

 昨年は、がんばって12月31日・大晦日の晩に、師走の俳句を「はてなブログ」に載せることができたが、今年は、年をまたいでしまった。

 心配していた新型コロナ・ウイルスの新規感染者は、かなり抑えられていて、少しずつ増加してきているが、まだ、全国で一日500人台である。ただし、千や万を超えた頃の印象があるせいか、少なく感じるが、しかし、脅威である。

 特に、1月1日~2日の二日間で、長野県では20人台の新規感染者が、私たちの住む近く(東信地方)であった。人々が、年末年始で帰省していた影響もあるかと想像すれば、今後が心配です。

 ところで、わが家でも娘たちが家族を連れて帰省中で、寒く季節風の中、それでも日中の暖かな時間帯を選んで、全員で冬田道を散歩に出ています。

 今日も、これから出かけますが、風もなく、暖かそうです。(おとんとろ)