北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和3年11月・みゆき会の俳句

【霜月の句】

 ① 抜ける藍(あお)煙目に染む 冬支度(畑仕舞)

 ② 朝靄(もや)に 殿しんがり残し 紅葉散る

 ③ すきま風 あわて戸を引く 原油

 

 10月31日(日)に第49回衆議院選挙が行なわれ、自由民主党立憲民主党議席数を減らした一方で、日本維新の会議席数を伸ばして、公明党を抜いて、第3党に躍進した。内閣誕生後すぐの解散総選挙だったので、外務大臣以外は、全員が同じ顔ぶれで、第2次岸田内閣が発足した。

 新型コロナ・ウイルス新規感染者は、11月になると1日200人台となり、さらに100人台と減り、100人を切る日も現れた。若い世代へもワクチン接種が浸透したことが成果だと言われているが、同様な条件下でも再拡大している諸外国の例があることと比べれば、極めて幸運なことだと思う。

 感染予防対策をして迎えた佐久市総合文化祭(11/4~6)に、私たちは、野沢会館への作品展示で参加した。「みゆき会」は、その後の24日にあった。

 今月も題材や季語捜しに苦慮した。19日の皆既月食に近い「部分月食」や、日没が早まり夜空が身近になる星空もいいかなと思いつつ、良い機会がなかった。特に、東の山の端から昇る月食の月の出を見晴らしのよい所で待ったが、薄曇りで、輪郭が見える朧月であったは残念だった。それでも、何んとか3つの印象的な出会いがあった。


 【俳句-①】は、越冬野菜の収穫の後、畑の隅で枯らした夏野菜の茎や枝葉などに火を放ち、焼却した時の様を詠んでみた。
 煙が目に染みるので涙が出るが、そればかりではない。例えばトウモロコシやオクラの立っていた真夏の光景や、キュウリやトマトを収穫した日の思い出なども目に浮かび、少し感傷的になる。それらを笑い飛ばすかのように、初冬の佐久の空は、青色を通り越してた藍色や群青色となり、吸い込まれるようである。

 延焼の心配はないので、強風ぐらいの日が良く燃える。「熾(おき)」があると完全燃焼するので、山林からの枯れ木や剪定した枝も一緒に燃やしている。 

 ところで、現在の稲刈りは、大型コンバインで、稲穂だけを収穫し、細かく切断した藁くずを田圃に散らしていくが、昭和50年代頃までは、稲刈りをして回収した稲束から玄米と籾殻を分離させる「スルス」という農作業が田圃で行なわれていた。そして、籾殻を炭化させる「焼き糠」や藁くずを、あちこちで燃やしていた。だから、煙の微粒子が大気に満ちていた。これに朝の冷え込みが連動すると、佐久平に特有の濃い朝霧、すなわち「スモッグ」の温床となっていたものである。
 昨今では、かなり解消されたが、コンバイン収穫の後の藁くずを燃やしている農家は多い。敷き藁目的で回収しないと、機械の回転刃に絡まり都合が悪いようだ。今では、落ち葉焚きで「焼き芋」を楽しむ風情も、地球の大気環境に良くないからと敬遠される時代だ。それで、落ち葉を集めた堆肥場に、夏野菜も細かく刻んで混ぜれば良いが、大変なので、私も剪定した庭木や果樹の枝などと一緒に燃やしているのが実情である。少々、気が引ける。ただし、切断した藁くずは、なるべく多く回収して、堆肥と共に畑に鋤混んでいるので、少しは有機農法をしているつもりでいる。

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長野牧場の春小麦の畝のかなたに八ヶ岳連峰を臨む

 【俳句-②】は、庭の紅葉(モミジ)が、ある朝、一斉に散っていて驚いたことを詠んでみた。(写真参照)
 句会に最初に提出した句は、『合図あり 数枚残し 紅葉散る』であった。私は、まるで誰か、それは紅葉の根や幹、枝葉を代表するような中心的存在か、はたまた神的自然の摂理のような存在が、『今朝散るよ!』とでも合図を送り、それに皆が応えて反応したのかとさえ、思ったからだ。
 さらに、これから訪れる冬将軍(寒波)を恐れ、紅葉全軍が撤退していくようなイメージもあった。例えば、織田信長の有名な敗戦・撤退に「姉川合戦」がある。

 朝倉義景を攻めるが、中立と信じる浅井長政が裏切って連合軍を結成した。浅井氏に嫁いだ信長の妹「おいち」の方から送られた袋の両端を縛った小豆の伝令や、金ヶ崎城の退き口から命からがら逃げる信長軍の殿を務めた木下藤吉郎のエピソードを思い出した。
 そんな創作の背景を紹介をしたが、会員の評価は、『合図あり』がわからないとのことだった。
 そこで、戦国の戦(いくさ)をイメージするなら、決死で残る勇敢な「殿(しんがり)」を入れて、朝の気象条件は「靄(もや)」で創作してみることにしました。
 ちなみに、視界200m以下は濃霧、霧は1km以下と、定義された気象用語です。靄は1km以上見渡せるので、武田信玄上杉謙信の永禄4年川中島(八幡原)合戦の川霧の類ではないので、霧や夜陰に紛れてという戦略的意味はない。

 現実に忠実な気象条件なら、寒さ厳しく、場合によっては霜が降りるような朝となるだろうが、「寒さ」も「霜」も冬の季語なので使えない。それで、架空の「朝靄」という響きが良さそうなので採用してみた。

 余談ながら、「姉川の戦い」をインターネットで検索したら、戦争の直接的な当事者の織田軍や浅井軍は、合戦地の地名で『野村合戦』と呼んでいたと言う。
 また、NHKの大河ドラマの記憶から、後の豊臣秀吉こと木下藤吉郎が、殿軍に立候補して勇猛果敢に戦ったのかと想像していたが、戦列に参戦したのは事実かもしれないが、当時は地位が低かったので、歴史書の類で記載に残るような存在ではなかったということもわかった。
 さらに脱線すると、ドラマで秀吉役となった俳優から、緒方 拳 (おがたけん)氏や、竹中直人(たけなかなおと)氏に似ていたのかな(?)とも思ってしまう。

 

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庭の紅葉が一斉に散った


 【俳句-③】は、隙間風(すきまかぜ)が入って来るのを防ぐというイメージより、石油ストーブを焚いて暖かくなった部屋の空気を外に出さないように、部屋の出入りは速やかに行なうようになった生活習慣を詠んだものである。創作した後、「川柳」にしてもいいなあと思った。
 原油価格の高騰は、自家用車の給油や農業機械の燃料を購入する時に、感じていたが、さすがに初冬を迎え、風呂焚き用や暖房用灯油をドラム缶で注文するようになると、身に染みて意識するようになった。

 新型コロナ・ウイルスによる休校騒ぎのあった令和2年春には、1バレル30ドルを割り込む危機があったのに、今年になって、40、50、60ドルと上昇し続け、10月には80ドルを超えたのだから、価格は2倍以上になった。
 
 『自分の子供の頃を思い出せば、我慢できる』と、仮に豪語してみたところで、私の身体も根性も、すっかり大変身してしまっていることを確実に自覚する。
 昭和30年代の前半、我が家には石油ストーブが1台あった。それは、お蚕様(カイコ)用で蚕室を暖めるために使われていた。私たち人間用に使われるようになるのは、日本が高度経済成長期を迎えて、少しずつ家計に余裕が生まれてきてからの話である。さすがに、囲炉裏は既に無くなっていたが、寒冷地の佐久地方でも、炬燵(こたつ)があれば、生きてこられた。
 しかし、今や主な部屋に、備え付きの冷暖房設備が整い、普通に使う部屋ごとに石油ストーブがある。そんな生活に慣れた人間には、かつて辿ってきた歴史の記憶はあるが、同じ実践はできなくなっている。ある意味、悲しい現実である。

 

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 【編集後記】

 令和3年も残すところ、あと3日となりました。今日は、午前中に、「しめ縄」作りをして、午後は家中の蛍光灯などの照明器具の拭き掃除をしました。

 ちなみに、真冬の寒い時期に本格的な大掃除をするのは嫌なので、「障子張り」は、真夏に、「ガラスの窓拭き」は、真夏や秋口に済ませてあります。

 ・・・いつもの「しめ縄」と違い、帰省した孫が、『藁で船を造って』と言うので、宝船をイメージして、藁でゴンドラのような形の船を作りましたが、結構さまになる「しめ縄」となり、満足しています。例年は、わが家(母屋)と母の別棟玄関の2カ所でしたが、三つ目は郵便受けに「宝船」を飾ることにしました。

 ところで、年末は、少しずつ年越し準備を進めて行きますが、例年になくがんばったのは、私と妻が、年賀状を12月25日までに完成することができたことです。

 それで、明日(12月29日)は、神棚の清掃の後、神式に則った飾りをする予定です。その後は、新巻鮭を出刃包丁で切り身に料理して、昆布巻き用と、滓煮や塩焼き用に分けます。

 そして、12月30日に、外回りの清掃をします。間に合わなかったら、12月31日にもしますが、大晦日はゆとりのある一日にしたいものです。

 悠久の宇宙ドラマの中、同じように地球が自転して、年越しから新年を迎える訳ですが、そこに何らかの「けじめ」という価値と、それを称える意味を見いだして、充実した年度末を過ごしたいと思っています。(おとんとろ)