北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-158

  第Ⅹ章 コングロ・ダイクの成因

 

6.混濁流( turbidity current )による運搬と重力落下説

 

 大きな重量のある物体が運搬されるには、物体自身の重力が、運搬の営力になれば良い。すなわち、重力落下である。
 また、板状の物体が途中で破壊されずに、しかも、貫入時の衝撃が和らげられるためには、水(海水)のような存在があればいい。浮力や水の抵抗で、物体はゆっくりと落下していくだろう。そして、境界面がシャープのまま、無理なく貫入できるためには、海底は未凝固の堆積物であった方がいいだろう。

 一方、礫種にチャート礫を含まない礫岩層が堆積する為には、堆積物を供給した後背地にチャートが無いことであるが、それば、堆積盆に近く、狭い範囲からの特別な供給を想定しなければならないだろう。

 つまり、内山層の堆積盆とあまり離れていない所で、チャート礫を含まない堆積物による一次または二次堆積があって、ある程度、固結していたコングロ・ダイクの礫岩層は、大規模な海底地滑りを起こすような混濁流によって、海水中に投げ出され、浮力や水の抵抗を受けながら、静かに海中を落下し、最後は未凝固の泥質堆積物の中に、重力貫入したのではないかというアイディアが浮かんできました。

 このアイディアは、内山層の堆積輪廻からも都合がいいです。内山層は、大まかに2つのステージがあります。基底礫岩層群に始まり、次第に深まる海に堆積物をためた内山層下部(中部を含む)の時代、そして、急速に海退が進む短い時期をはさみ、再び海が深まり、堆積物をためた内山層上部の時代です。(ちなみに、内山層の上部では、岩相の違いから堆積環境の分化が進んだことが予想されます。)

 コングロ・ダイクを含む内山層の堆積した時期は、安定した泥相が発達しているので、当時の海は最も深まり、堆積盆が最も拡大したと考えられます。そうなると、あまり離れていなかった場所に、一次または二次堆積していたコングロ・ダイクの礫岩層は、内山層プロパーの堆積盆とつながり、共通の堆積盆に組み込まれました。そして、海進と海の深化に連動して、堆積盆の端(大陸棚)で発生した混濁流によって、コングロ・ダイクの礫岩層は、海底に運ばれたのではないかと、説明できるからです。

 

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コングロ・ダイク「混濁流説」

 このアイディアを思いついた時、私は身震いするほど感激しましたが、落ち着いて考えてみると、次のような疑問が出てきました。

 

①なぜ、コングロ・ダイクの礫岩層だけ、異常に固結が進んでいるのか?
 

②混濁流によって一緒に運ばれた砂や泥は、どこに行ってしまったのか?

 ③コングロ・ダイクの礫岩層の中で、破壊されたものは無いのか?

 ④未凝固の泥堆積物に貫入したとしても、すべて垂直に突き刺さるものなのか?

 ⑤コングロ・ダイクの貫入は、何回ぐらいあったのか?

 

 第①の疑問:一次または二次堆積場所に堆積したのはコングロ・ダイクの礫岩層だけなのかという意味と、どうして礫岩の固結が進んでいるのかという、二つの意味があります。
 礫岩層の固結が進むには、上位に載った堆積物の荷重圧が必要です。しかし、礫岩層が固結するぐらいなら、上位の堆積物(仮に砂や泥)もある程度は固まっていたはずです。ところが、非調和的構造はコングロ・ダイクの礫岩だけなので、一次堆積場所で堆積していたのは礫岩層だけだった可能性があります。もうひとつの可能性は、礫岩層だけが少し前の時代の地層であり、他の砂や泥の層より固結が進んでいたという状況です。さらに、やや不自然ではありますが、礫岩は短期間で固結が進みやすい性質があるという、3つの可能性です。
 かつて私は、蛇紋岩地帯の川底に、現世の蛇紋岩の礫岩ができているのを見つけて驚いたことがあります。本来、風化・浸食に弱いはずの蛇紋岩ですが、崩れて落ちた蛇紋岩片が、何らかの膠着物質によって短時間で固まったのでしょう。蛇紋岩の礫岩だと勘違いしました。コングロ・ダイクの礫岩についての情報を、もっと集める必要があります。

 第②の疑問:仮に①の状況で、コングロ・ダイクの礫岩層だけが陸域に近い所にあったとしても、混濁流によって礫岩層が運ばれたのであれば、流れ下る大陸棚斜面に堆積していた砂や泥も、一緒に巻き込まれ、海底に到達していたはずです。だから、アイディアが正しいとすれば、それらの堆積物がコングロ・ダイクの周辺に見られるはずです。

 

 第③の疑問:「第Ⅱ章コングロ・ダイクとは」の項で述べたように、小規模なコングロ・ダイクは、大規模なものが破壊されたり、一部が剥がれたりしたものだと推理します。もし、アイディアが正しいとすれば、露頭の周囲に破壊された証拠があるはずです。 
(後述しますが、小規模コングロ・ダイクの中には、大規模なものが割れて小さくなったという理由では、とうてい説明しにくく、成因すら理解できない事例もあります。)

 

 第④の疑問:日常生活の中でも経験することですが、プラスチック製の直定規を水に落とした時、水中をゆらゆら揺れながら落下していき、様々な侵入角度で底に達します。力学的に必然であっても、最初の落とし方や定規の侵入角度などの偶然があります。かなり長い距離を落下(沈下)させれば、水の抵抗を一番受けにくい向きとなり、最後は垂直に近い角度で水底に到達することは、容易に理解できます。
 だから、コングロ・ダイクの産状でも、急角度で泥岩に貫入しているのだと思います。しかし、自然現象として、多様な沈下条件があるはずです。アイディアが正しいとすれば、コングロ・ダイクの中には、垂直に貫入しないで、あたかも不時着したように層理面と調和的に軟着陸したものも発見できるはずです。  

 

 第⑤の疑問:コングロ・ダイクが「鍵層」として利用できるかどうかの、最も基本的な問題です。混濁流の発生が、比較的、限られた期間とすれば、火山灰や凝灰岩層が鍵層となるように、ある程度は同時性を示す可能性はあります。これには、層序とともに分布範囲も関係付けて考えないといけない、難しい問題かもしれません。

 

 ☆疑問に対して、「太い文字とした部分」の内容は、営力を混濁流に求めたアイディアの正しさを証明するには、必要不可欠なことです。はたして、そんな証拠はあるのだでしょうか。
(「コングロ・ダイクが、内山層だけでなく、他の時代でも見られる現象である」という点は、大きな話題ですが、取り敢えず話を先に進めることにします。)

 

 編集後記

 コングロ・ダイクの成因として、いくつかの可能性を考えてきましたが、一応、「混濁流説」で進めてみようと考えました。本文では、これから証拠集めをするような表現となっていますが、そこは少し違い、『実際のフィールドでの証拠(説明し難い現象)』のことが頭に引っかかっていました。

 特に、春先の2階自室から、隣家の屋根瓦の上を残雪のザラメ雪の塊が滑り落ちる様を見た時、『コングロ・ダイクの礫層も、全体が一気に全層雪崩のように落ちて行ったのではなく、全体の中から隔離された部分が、落下して行ったのではないか? はたまた、落下の途中で、適度な大きさの塊に割れたのではないか?』と、想像していました。正確には、いつの年の春(春休みか、春の週休日か)のことかは、覚えていませんが、降ったばかりの淡雪が、その日の日中には解けて、瓦の上を滑り落ちていました。

 

 

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千曲川の河床(佐久市・御影橋付近の巨大岩塊)

 ところで、上の写真は、佐久地方の水鳥飛来地として知られる東京電力杉の木貯水池(佐久市のさくら咲く小径の北側)近くの御影橋での河床の様子です。千曲川の河床に巨大な岩塊が転がっています。上流の小海町付近なら、良く見られる光景ですが、佐久平に入って少しだけなだらか(?)になった所では、従来あまり見られませんでした。

 原因は、2019年(令和元年)秋の台風19号による大洪水で、多量の土砂と共に上流部から流されて来て、堆積したものです。翌、2020年から、更なる護岸工事と、土砂を片付けて、河川敷は大部すっきりとしました。
 

 方丈記(鴨 長明)の一節 「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

ではありませんが、佐久の地を流れる水は、絶えず流れ下り、さの先は新潟の日本海へと達します。同時に、泥や砂礫も少しずつは流水によって運搬されていくはずですが、私たちの目にしてわかるような大移動は、やはり台風によるような大水の時に、一気に進むのでしょう。

 混濁流も、連続した現象ではなく、ある程度まとまった時期に、一気に雪崩落ちるのかもしれません。

 話は脱線しますが、長野県では、台風19号で中小河川で氾濫が相次いだことから、「水防法」では作成が義務付けられていない県内321の河川でも、浸水想定区域図を作成しました。大雨の想定は、台風19号の規模(500mm~/24時間)を遙かに超える「24時間で821mm」の降雨量のようです。

 また、千曲川本流に対する「遊水池」の設置や、私たちの住む近くの洞源湖でも土砂の取り除き工事が、現在、行われています。

 実際、「千年に一度」という自然災害が、私の一生どころか、ごくごく最近の数年間の中で起きています。もちろん、進行中の「ロシア軍によるウクライナ侵攻(侵略)」もです。毎日が歴史的な瞬間を生きていると思うことしきりです。(おとんとろ)