北海道での青春

紀行文を載せる予定

昆布漁(太平洋)と鱒漁(オホーツク海)

 知床半島での6泊目と8泊目はモセカルベツ川、9泊目はウナキベツ川、そして10泊目はモレイウシ川と、それぞれの川が太平洋に注ぐ、河口近くにテントを張った。海辺の人々や、その生活ぶりに接する機会が多くあった。
 ちょうど昆布漁の最盛期に当たり、海辺は慌ただしいかった。たぶん、資源保護や漁業権からの理由なのだと思うが、昆布漁は、いつでも自由にできるのではなく、許可が出て漁ができる期間や、操業する時間帯が決められているようなのだ。午前中の決まった時刻になってから、夏の間の「仮住まい」のような所の前浜から、小舟が一斉に出漁していく。一艘ずつの船は小さくても、船外機のエンジン音が一斉に鳴り響くと、水軍が出陣していくというような趣がある。全速力で漁場に向かい、目標物のない海上で、どうやって位置を決めるのか疑問だが、場所が予め決まっているようで、所定箇所に達すると、エンジンを切り、錨(いかり)を海に投げ込む。そして、木枠の付いた水中めがねで、海中を覗きながら昆布漁をする。先にふたつの鎌状のものが付いた長い棒で、海底に付着する根のような部分をかき切ったり、搦め取ったりしながら、昆布を船に引き上げる。私たちは、作業の様子を興味深く海岸から眺めていた。同じような所作の繰り返しが続くので、先を急ぐことにした。
 

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石浜の昆布と沖の小舟


 砂礫の海岸線を歩いて行くと、奇妙な石の構造物があることに気づいた。それは、直径15cmほどの石が、波打ち際から浜の上部に向けて、直線的に並べられている。砂礫の浜に、大礫(cobble)に相当する石は少ないので、人為的に配列されたのを見て、「何のためなのだろう?」と、疑問に思った。
 その謎は、昼近くになって解け、目的もわかった。収穫した昆布を浜に水揚げした後、それを天日で干すための場所を決めてある境界線だったのである。石の列は、仮設住居の両側10数m間にある。収穫した昆布を広げて並べていた。競い合うようにして沖に出て、今度は、干す場所まで厳密に決め、境界線のぎりぎりまで密着させて昆布を広げている光景を見て、無責任にも、『みみっちい感じがするなあ』と、私は、そんな風に思ってしまった。雄大な太平洋に対して、浜の「囲い込み」のような構造物のアンバランスが、偏狭だと感じたからである。
 だが、知床の日照条件を理解すれば、この辺の事情がわかる。海岸まで山が迫り、ほぼ東西に延びた知床半島の太平洋側は、午前中と昼過ぎのわずかな時間を逃すと、午後から夕方にかけての太陽は、山々の陰を残して沈んでしまう。だから、出漁する時間ばかりか、昆布を天日干しする時間も、極めて貴重なのである。
 地元の小学校は夏休み中のようで、子どもたちも昆布干しのお手伝いをしていた。家族総出の作業中、子どもが怠けていると、親が叱りつけている声が聞こえる。子どもたちには、この緊迫した事情よりも、他に興味があるようだった。
 ところが、早くも日のかげり始めた時刻になると、子どもたちは家族労働から解放される。そして、祖父母や親たちの姿が見えないのは、早朝からの準備や昆布漁で疲れ、お昼寝に入っているからなのかもしれない。

 ウナキベツ川の河口にテントを張った日の午後、そんな知床の子どもたちの姿を目撃する機会があった。
 お昼寝とは縁のない子どもたちが、浜に出て来ている。小学5~6年生ぐらいの女の子と小学3年生くらいの男の子、それに小学校に上がる前の小さな女の子の3人がいた。姉・弟・妹の関係なのかもしれない。始めは浜に乗り上げてある船外機付き小舟の近くで、うずくまって何かをしていた。

 それから、海に向かって小石を投げ始めた。小さな女の子は、助走をつけていって小石を投げるのだが、わずかに波打ち際に届く程度で、その仕草に思わず笑ってしまった。
 次に、男の子が船に乗り込んだ。そして、他の子たちにも乗るように催促しているようだ。男の子は、船から降りて、小さな女の子の手を引いている。お姉さん格の女の子の手も引く。彼女は乗船を嫌がっているか、寧ろ止めさせようとしているように、見受けられたのだが、「乗れ!」と男の子が命令しているようでもある。結局、ふたりの女の子が船に乗ると、男の子は船首を押して、波間に舟を出した。
 『おい。あいつ、一体どうするんだろう?』
 私たちが注目して見守っていると、男の子は船外機のエンジンを始動させた。そして、大胆にも船尾に仁王立ちのまま舵を操り、沖に向かって出て行ってしまったのである。
 『いいんか。あんな小学生が・・』と、私は不安になった。
 この程度の波は漁ができるぐらいだから、普段の波の状態だと思うが、それでも相手は太平洋である。船首が上がり過ぎるほど上がり、船の一部が見えなくなることもあった。船尾に立つ男の子だけは見えているが、船の形は小さく、はるか沖合に消え入りそうだ。
 「さすが、海の子なんだ」と、不安もさることながら、私はすっかり度肝を抜かれた。船のエンジン音は既に聞こえず、船の形さえ見失った沖合を見つめていたら、Y君がつぶやいた。『あの小さな子なんか、泳げるんかなあ・・・・』と。
 一旦は、海の子の無鉄砲さと勇気に感動したが、もし小船が転覆したら、とても泳いで帰ってこられる距離ではない。しかも、Y君の言うように、小さな女の子が、沖合で長く浮いていられるとも思えない。一気に不安が増したが、沖を見つめている以外、どうすることもできなかった。
 けっこう長く感じたが、遙か遠くからエンジン音が聞こえてきた。波間を切って船首が向かってくるが、男の子の姿は無い。少し船の向きが変わった時、彼が腰をかけていることがわかり、安心した。ふたりの女の子もいる。見る間に船は近づいてきた。
 少し離れた海上でエンジン音が途絶え、船は慣性で浜に乗り上げてきた。船外機を器用に外し、波打ち際に飛び降りた男の子の足元から、水しぶきが上がる。一人前の海の男のような仕草に、私は思わず微笑んでしまった。
 『親の知らないところで、子どもたちは逞しく成長していくんだなあ。
 でも、姉が弟の大冒険のことを親に告げ口したら、どうなるかな?・・・・』などと思いながら、自身の少年時代を重ねていた。
  
 【忙中閑話】 水泳技能について;この時点で、Y君が泳げないということを、誰も知りませんでした。Y君とて、知床半島の沢旅や海岸歩きをするつもりでいたので、意図的に隠していた訳ではありません。しかし、数日後、私たちは海を泳がなくてはならない状況となり、彼が泳げないということを知りました。 
 小舟に乗って沖合に出て行ってしまった小さな女の子を気遣うY君の言葉の意味が、実は大きな意味をもった「つぶやき」だったと、この後で理解しました。
 ちなみに、高校時代にラグビーをしていたスポーツマンのY君は、都会の人口急増地域に新設された小・中学校の卒業生で、運悪く、いずれもプール建設が校舎建築に間に合わなかった為、水泳の授業経験がなかったようです。 
 我々の時代、市民プールで泳いだり、スイミングスクールで補修したりすることも少なかったので、学校で水泳をしなければ泳げない人もいました。また、寒い地域の子も、真夏の水遊び程度で、本格的に泳いだ経験はなく、札幌出身で同期のS君は、泳げないので滝の高巻きは、いつも落下を恐れて嫌っていました。 
 大学卒業後、長野県に赴任した3校目の中学校での水泳大会では、毎年、大会新記録が生まれていました。校区のN高原の小学校で、夏場も泳げるようにと、屋根付き温水プールを設置し、水泳授業が充実したからです。私の担当した学年は、設置前の生徒で、臨海学習では、海の楽しさへ浮き袋で挑戦し、やや危険な体験をすることになりました。

               *  *  *

 私たちは、海岸線を歩く前に、羅臼港で、知床半島太平洋側の各浜から昆布が集められてくる漁業協同組合の施設を見学しました。昆布漁をして、浜で天日干し(第一次乾燥)をした後の昆布が集積されてきます。付近のコンクリートの防波堤にも、昆布が広げられていました。私はそれを見て、昆布一枚(一個体)の大きさが、想像していたものより巨大であることに驚きました。大きなものは、畳2枚を縦長に合わせたくらいあります。近年、大きなものは減っているとの地元の方の話でした。
 水揚げされたばかりの昆布は、確かに海藻類だと思うのですが、干して水分が失われてくると、表面にしわができ、象など動物の皮膚のように見えます。触れてみると、ぶよぶよしていて、独特な感触です。これを、さらに機械で乾燥(第二次乾燥)させるといいます。

 加工され、小さくなって袋詰めになっている商品しか見たこともなく、どうやって生産されているかも知らなかった私には、極めて新鮮な感動でした。思い出が、強烈であったせいか、「昆布だし」と出会うたびに、知床半島での昆布漁や、昆布干しをしていた浜の光景と、あの子どもたちの冒険のことを、懐かしく思い出しています。

 

            ≪ 空 飛 ぶ 鱒 ≫

 知床半島オホーツク海側の印象は、太平洋側のものとは、ずいぶん違う。まず、地形や気象など、物理的条件が大きく異なる。

 オホーツク海側では、大きな川の河口に石浜が広がることがあるが、多くは、溶岩台地が突然終わり、そのまま海に没するような断崖が、あちこちで見られる。沢水が直接、海に落下していたり、滑滝が河口付近にあったりする沢も多い。強い冬の季節風による激しい波浪や、春先に押し寄せる流氷群などによって、堆積物がきれいに洗われてしまうからだろうか。波食崖や波食台ができつつある海岸線もあり、私たちの行く手を阻んだ。
 また、日照条件が大きく違う。断崖が海まで迫るような場所は、空が明るくなっていても、太陽に照らされるのは正午過ぎからである。これは、太平洋側の山の迫った海岸で、午前中の短い日照時間の中で、昆布干し作業に追われていた状況と、まったく逆の関係になる。その代わり、日の出の遅い分、オホーツク海に沈む夕陽に最後まで照らされている。これら陸上での自然環境の違い、海流や海底の様子などの条件も加わり、海に棲息する生物も違っているのだろう。オホーツク海側では、昆布漁は行なわれていなかった。

 オホーツク海岸に出て、山行の14泊目のキャンプ地は、ポトビラベツ川のひとつ南の無名沢の河口に決めた。ちょうど私たちがテントを張っていたところへ、1艘の中型漁船が近づいてきた。
 『取れたての魚で、石狩鍋サやるから、来るっかあ』と、荒っぽい言い方だが、顔から善意が溢れる出ているような船長さんの御招待を受けた。私たちは、即決した。

 そして、海岸の波打ち際ぎりぎりまで近づいて来てくれた船に、海の中から乗り込んだ。岩登りと同じで、背の低いH君は、仲間の手で船縁に引っ張り上げられての乗船で、恐縮している。

 少し沖に出た船は、断崖を右手に見て、快調に進み出した。潮風を切って、オホーツクの海原を快走すると、真夏でも涼しさを通り越して寒く感じる。知床では、海の上が高速道路なのだと思った。
 海に突き出た小さな岬をふたつ越えると、断崖の下に人工物が見えてきた。近づくにつれ、コンクリート製の防波堤が現れ、小さな港だとわかった。大型の漁船が1艘、停泊していた。奥に番屋(ばんや)と呼ばれる家屋が建っていた。あせた赤色のペンキがトタン板に塗ってあるが、屋根にカラマツ材と石が載せてある建物で、立派な船着き場や真新しい漁船と比べると、やや貧弱な感じだ。一方、大型漁船は、近代的な装備を備えた船で、眩しいほど真っ白な船体は、海上保安庁の巡視船と見間違えるほどである。

 船というものは、かなり高価なものと聞く。1艘で数億単位に近い値段のするものらしいので、船舶や小さな港といえども、個人で所有しているとなると、相当な資産だろう。
 薄暗い感じの番屋の中に、通された。石油の臭いがするので、だだっ広い内部を見回すと、石油ストーブがあって、やかんが載っていた。早朝や霧のかかった日は寒いので、真夏でも焚くことがあるという話だ。奥に、土間から一段高い広間があって、畳の上に少し汚れたカーペットが敷かれていた。
 『髭のあんちゃん、そっちの机サ、もってこう』と、船長さんが、Nさんに向かって言うと、下級生が気を利かして運んできた。これが食卓となる。
 御招待を受けたので、私たちが話題を提供するのが礼儀である。しばらく自分たちの山行の様子や、逆に、漁業の話などを伺っていると、待望の石狩鍋が登場してきた。番屋の主人兼船長さんの奥様の手料理である。魚介類は自前であるが、野菜類は午前中に、斜里町まで船で買い出しに行ってきたばかりの新鮮な食材だそうで、私たちは本当に感謝していただいた。船長さんが、漁業の手伝いをしている年配の従業員らしい方々にも、こちらに来て一緒に食べるよう勧めているが、私たちがいるので、気兼ねしているようだった。
 ところが、私たちも遠慮はしているが、全員の遠慮を足しても一人前にはならないようで、鉄製の大鍋にかなりあった料理と、ご飯を相当量いただいてしまった。ご主人も、そのくらいの覚悟はしていたと思われるが、自分では少し食べただけで、後はお茶を飲んでいるだけなのも少し気がかりである。
 

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鱒の定置網漁


それ以上に気がかりなのは、船長さんが座った背中側にあるガラス窓を開けて、時々、双眼鏡で沖を観察していることだった。沖合には、「マスの定置網」が仕掛けられている。ソビエト船(旧ソビエト連邦で、現在のロシア連邦) や仲間の船舶が網を切らないかなど、様子を監視しているらしい。双眼鏡を借りて見てみると、ブイの形まではっきりと見えた。

                *  *  *

 『泊まってっていいぞ』という申し出には、これ以上は御迷惑になりますからと、お断りしたが、『これから網サ、引き揚げに行グガ、おめらも、来るっかあ』という話には、大賛成である。さっそく、純白の海上巡視船のような大型漁船に乗って、出航することになった。
 大型漁船は、港を出て沖合にでる。
 始めに乗せてきていただいた中型船のエンジン音と違い、身体に音が残る。特に、回転の低速域に入ると、低周波で身体が揺すられた。
 夕陽の当たった知床の山々が、ぐんぐん遠ざかっていった。船尾から船首の方に移動して、舳先で波の砕ける様子を見ようと思っていたら、エンジンの回転音が低速域に入った。いよいよ漁場に着いたようである。
 停泊した後、大きなドラムのようなものが回り出し、定置網の網綱をたぐり寄せ始めた。装置はうまくできていて、綱だけ巻き取られ、ブイの部分は分離されて収納できるようになっている。近代的な巻き揚げ機の仕組みに感心しながら海面を見ていると、海水の色が変わってきた。海面が泡だって、黒ずんだものがうごめいている。そして、大きな魚の背びれや尾びれが現れた。ここからは、手作業も加わる。網目をつかんで網をたぐり寄せると、船縁を越えて、45~60cmの大きさの「マス」 が、どっと流れ込んできた。
 マスは尾びれの筋肉を使って、ものすごい勢いで船板をたたきつけ、その反動で、1m以上もジャンプする。何十匹ものマスが一斉に、しかも船板を打ち破るような激しさで、跳び上がり始めた。こうなると、群衆の暴動に巻き込まれたかのようである。誰かにけとばされたと思って見ると、マスのキックを受けていた。
 「なるほど、獲りたてのマスというものは、こんなに恐ろしい生き物なのか。」私は、野生のマスの荒々しさと生命の躍動に感動して、しばらくマスたちの跳びはねる様子を眺めていた。しかし、捕まえて「いけす」に入れなければ・・・・と気づいた。既に、巻き揚げ機の操作を終えた船長さん自らも、甲板のマスの捕獲に取り組んでいた。
 ところが、1回目のジャンプより2回目、3回目と、跳躍する高さは減じていても、水中ならぬ空中を泳いでいるかのようなマスを捕まえることは、至難の業である。両手で、鰓(えら)の辺りを押さえつけるのだが、尾びれでたたかれて逃げられてしまう。ようやく、1匹を捕まえて、いけすに放り込んだ後で、「人間、その気になればできるものなんだなあ」などと、のんきに自己満足している内に、次のマスの嵐がやってきた。
 もたもたしている訳にもいかないが、どうも捕まえ方には、「こつ」があるようである。 網揚げ作業が済んで捕獲に加わった年配の方の仕草を見ていると、左右の片手で1匹ずつ捕まえては、いけすに放り込んでいる。良く見ると、マスの鰓ぶたに指先を引っかけるようにしていた。
 「ようし、それならば・・」と挑戦してみるが、鰓ぶたを捕らえるまでに、既に両手を使っているので、もうひとつ手が欲しい。片手だけなど、とても不可能だった。それでも、2匹目・3匹目・4匹目と、空飛ぶマスを捕らえることに成功した。4匹とはいえ、船上でのマスたちの暴動鎮圧に協力できたことに、私は満足できた。
 この後、網を復元する。ゆっくりと船を動かし、巻き取った網綱を海中に戻していく。例の低周波のエンジン音の中で、先ほどまでのマスの暴動の騒ぎが、耳鳴りのように聞こえてるのかと思ったが、耳を澄ますと、氷の入った「いけす」の中で、マスたちがまだ跳ねている音だとわかった。
 こうやってマスは捕獲され、漁業関係者の手を経て市場へと運ばれていく産業の一端を知り得た喜びに、私は心底感激した。何より船長さんたちの、私たちへの特別な計らいに感謝である。
 収穫したマスを冷凍保存した大型漁船は、港に戻り、私たちは、中型漁船で、テントを張った元の浜まで送り届けていただいた。真夏の夕陽は既にオホーツクの海に沈み、辺りは薄暗くなっていた。

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 私たちが、知床の海岸で見聞きたのは、ひと夏のほんの一時期の出来事だった。
 半島を堺に、太平洋側の昆布漁と、オホーツク海側のマス漁という産業にも大きな違いがあった。しかし、そこに住む人々の。やや言葉は荒いけれども素朴で、親切なところは、共通項だった。最盛期の夏、労働に明け暮れする多忙な毎日に、うろうろと歩き回っていた私たちに対しても、心温かく迎えてくれた。ただ、人々は真心や親切心から援助してくれたことも事実だが、多少は私たちの境遇に同情してくれた向きもあるかもしれない。
 番屋の船長さんは、私たちが海岸線をよろよろ歩く姿や、オホーツクの岩場で難儀をしている様子を海から見ていてくれたようである。羅臼の買い出しの時、食料品を半値にしてくれた店のおばあさんも、私たちの汚い身なりを見て、貧しい学生さんだから・・と、便宜をはかってくれたのかも知れない。いずれにしろ、知床の雄大で変化に富んだ自然、そこに住むおおらかで親切な人々との交流も含めて、心から感謝しております。 
 

  【編集後記】 一昔ならぬ、45年も前の目撃談なので、今では人々の暮らしぶりも大きく変わってきていることと思う。しかし、私の目に焼き付いた知床の自然の素晴らしさと、そこに住んでいた人々の心優しさの記憶は、鮮明のまま残っている。