北海道での青春

紀行文を載せる予定

知床岬を越えて

  知床半島での15泊目のキャンプ地は、番屋の御主人の招待を受け、石狩鍋のご馳走をいただいた日のキャンプ地(C14)から、知床岬に向けて、2kmも進んでいない。それは、ポトピラベツ川と、その南の沢の偵察をしたからだ。足手まといになる下級生を残して、Nさんと私、それに志願したT君の3人で、でかけることにした。
 その結果、偵察したふたつの沢は、河口付近に滑滝(なめたき)があるという、知床台地に特有の沢であった。ポトビラベツ川の右股沢を偵察してみたが、知床岳へのルートに使えるかどうかの確認はできなかった。しかし、ポロモイ台地へ向かう本流ルートの上流部は、半島の北側という違いはあるが、地形から判断して、私たちが苦しめられたハイマツ帯がありそうである。
 沢の偵察は嫌いではないが、岩登りや沢旅に夢中になっているNさんと違い、私には、どこかで醒めたものがあると感じた。私は、現代の消費生活を離れ、野性的な生活の中に喜びを見いだしているのに対して、Nさんは、未知なものや冒険から得られる刺激や、それを克服することに喜びを求めていたような気がする。

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 ところで、私たちの部内にあって、Nさんほど、知床半島を訪れた人はいないだろう。彼は、知床半島の四季や沢に魅せられた一人だと思う。既に、夏と冬を合わせて3度も訪れていた。私の知る限り、今回の山行に加えて、さらに翌年の正月と流氷の時期にも訪れているので、知床半島の全ての沢や海岸線を踏破したいという夢があったのかもしれない。
 そんなNさんの熱意が、今回の長期山行を実現させる原動力となった。良くコンビを組んでいたK氏が、医師の国家試験準備で忙しくなり、Nさんはサブリーダーを捜していた。夏の知床は人気があったので、5泊ぐらいであれば、候補者は大勢いたと思う。しかし、夜行や停滞日(雨天時などの予備日)をフルに消化すれば、優に20日間にも及ぶ長期間の山行計画に対して、候補者たちは二の足を踏んだ。だが、基本的に私は違う。その山行の長さ故に、気に入った。
 部の整備係長と副装備係長という関係にあったNさんから、私に、サブリーダーとしての参加を要請された時、迷うことなく賛同した。
 私は、山行というものを、一時の憩いとしてではなく、「自然人となって暮らしてみる」こと自体に興味があった。だから、知床半島の自然の魅力とともに、山行生活を通して得られるだろう、人々との交流も期待していた。
 もし、Nさんと私のふたりだけなら、机上のプランで終わっていたと思うが、幸いにも4人の後輩たちが加わることになり、山行計画は実現できた。その意味で、やや物足りない後輩たちだか、参加してくれたことに対して、ひたすら感謝している。

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 翌8月4日は、知床岬をめざした。
 岬までは直線でも10kmあるので、複雑に入り組んだ海岸線を歩いていけば、もっと距離がある。しかし、溶岩台地が作る断崖の海側には、狭いながらも石浜があったり、越えられない岩場のために海に入ったりすることもなかったので、思いのほか快調に進むことができた。昼前には、エゾスカシユリが咲き乱れる岬の草原に立つことができた。

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知床岬を越えて

 辺りの緑やユリのオレンジ色の中で、知床岬灯台の真っ白な色彩が、まぶしい。海に突き出た半島の断崖に立つと、その雄大な光景は、あたかも半島全体が、大きな船の舳先で、大海原に波をかき分けて進んでいるような錯覚に陥る。戦艦の艦長にでもなって、海を見下ろしているようだ。波の左半分が、オホーツク海へ、そして、右半分が太平洋へと流れていく。気宇広大な気分になった。

 岬の断崖には、大きな亀裂が幾筋か入っていた。Nさんは、その亀裂を何気なく跳び越えた。亀裂の幅は、わずか2mほどである。ところが、幅はわずかでも、下は15mほどの絶壁になっていて、縁から覗き込むと、今は引き潮なのか、波食台の一部が見えていた。落ちたら一貫の終わりという場所である。
 私は、自問自答を繰り返した。2mほどの幅なら、ちょっと助走すれば、十分に跳び越えられる距離である。一方、20mほど奥で亀裂は終わり、そちらを回ることもできる。20mの間を行き来する40mほどのために生命を賭けようとは思わないが、跳び越せるに決まっている断崖を恐れて、そうしない自分を許すつもりもない。
 しかし、安全策をとった訳ではなく、どうしても落下の恐怖心から逃れられずに、回り道をすることにした。そして、Nさんが跳び越した辺りの崖まで来た時、敗北感を感じるよりも、不思議と、「世の中には、これと似た事ってあるなあ」と考えていた。できることがわかっているのに、不安に駆られたり、失敗を恐れたりして、できないで終わってしまうことがある。逆に、危険を顧みず、成り行き任せでやったことが、案外うまくできてしまう。
 私たちの山行も、ある意味で、先のことを深刻に考えなかったことが、いくつかの事件を乗り越えられた原動力であったのかもしれない。天候に恵まれ、危ない場面はたくさんあったのに、幸運にも大きな事故に発展しなかった。しかし、常に危険と背中合わせの状況であったと思う。ことの重大さがわかり、そこに潜んでいる危険に気づけるようになると、冒険心だけでは行動できなくなる。「冒険」というのは、野外活動の知識・技能や、安全性への配慮などを含む総合的な判断力に基づいて、自然とのより新鮮な出会いを積極的に求める行為だからである。

 

 知床半島での最後の夜は、「赤岩」から600mほど岬寄りの海岸で、テントを張り、少し遅くまで起きていた。(C16)
 明日は、早起きの必要もない。晩には、札幌に向かう夜行列車の中にいるはずである。停滞3日の予定が、羅臼湖の1日しかなかったので、残っていた「停滞食」を開放して、豊富な食事量だった。それでも、「非常食」には手をつけないでおくのが大原則である。お金があれば、何とか通用する「人の住む世界」に戻ってきたとはいえ、まだまだ先に、何が待ち受けているのかわからない。
 午前10時、羅臼から知床岬を巡って、宇登呂に向かう観光遊覧船が、赤岩に停泊した。船からは、歩いて岬に行こうという観光客が数名降りた。多くの人は、船の上から岬灯台を眺めるだけの予定のようで、乗船したままだった。寧ろ、得体の知れない汚い格好をした6人の男たちが船に乗り込むのを、やや興味深げに振り返っていた。
 私たちのみすぼらしい格好も、知床の山や海岸では、人々に温かく迎え入れられるが、身なりの整った世界では、好奇の対象となり、その視線を受けて私たちも、少し引け目を感じてしまう。それに、自分たちでは互いに気にもしていないが、客観的に判断すれば、単に汚いだけでなく、身体から独特な体臭が漂っていることが考えられる。何しろ夜行泊も含めれば、真夏だというのに、18日間も、お風呂に入っていない。私の場合、下着のパンツの着替えは、ひとつ持ってきていて、沢水で洗い、はき替えた記憶はある。しかし、長袖シャツと学生ズボンは、札幌を出た時のままである。特に、黒の学生ズボンは、沢水や海水で濡れては乾き、また濡れて・・・という繰り返しで、最後はオホーツクの海水に浸かった後で乾いたので、黒い生地(きじ)に、塩の白い染みが浮き出ていた。

 遊覧船の乗客は、好奇な視線を私たちに送るが、紳士的なのか、それとも自分たちの観光に関心が向いているのか、やがて、私たちの存在を忘れたかのようだった。
 遊覧船の上から、自分たちが踏破した知床の山々や溶岩台地、それに海岸の岩場が眺められた。特に、どうしても越えられない岩場があって、オホーツクの海を泳いだ辺りは、懐かしさが込み上げ、感慨深いものがあった。番屋の方向も、船の上から捜した。
 『すごいね。海に直接、水が落ちてるわ』と、歓声を上げているおばさん達がいる。
 溶岩台地から、そのまま海に落下する一筋の滝が見える。
 『実は、あの滝の水の落ちている裏側が歩けるんです。私たちは、その下を歩いて抜けてきたんです』と、誇らしげに解説してあげたくなった。普通の方法で観光を楽しんでいる人々に対する、優越感を感じていた。

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 宇登呂まで観光遊覧船で移動した後、知床に来た時とは逆のコースで、乗り合いバスで斜里町まできた。そして、斜里駅から釧網本線の列車に乗った時は、本当に困った。
 時間帯から、地元女子高校生の学校からの帰宅と重なった。
 『キャー』・・・今なら、そこへ『変態がいるー』とまで言いそうであるが、Nさんの格好を見て、悲鳴が上がった。
 Nさんの姿は、例の「ポロモイ台地」のハイマツ帯のブッシュ漕ぎをした時に、ニッカズボンにかぎ裂きができた。今は、ハイソックスを脱いでいるのだが、さらに破れが拡大したので、足のすね毛に加え、太ももの毛むくじゃらな体毛や、お尻の方からは、汚いパンツが見えている。そのパンツとて、汚れと泥が付いて、見るからに浮浪者のようなものである。黒縁眼鏡は、少しは知的な雰囲気を演出するが、不精髭で御破産になってしまう。毛深いというのも、不運である。私たちが見ても、「変態な人に見える」のだから、女子高校生が、大きな悲鳴を上げて、Nさんの傍から逃げ出したのも、無理からぬ話である。薄情なことに、私たちもNさんから少し離れて、赤の他人を装っている。混んではいない車中だが、Nさんの周りだけは、空いていた。さすがのNさんも、『何で、お前らまで、逃げるんだよう』と、盛んにぼやいていた。


【忙中閑話】  汚い服装について;夏山登山の服装として、実は、Nさんだけが、「ニッカズボンとハイソックス」という正装をしていた。他のメンバーは、高校生の時に使用した「学生ズボン」が山のスタイルであった。黒の学生ズボンは、先輩方が登山用具を揃える上で、経済的な負担がないようにと推奨しただけでなく、乾きやすく丈夫な素材でできていた。その証拠に、ブッシュ漕ぎをしても、私たちのズボンは、誰も破れてはいない。

 こういったセンスに遅れた服装や身形について、私たちは耐性があった。「ボロは着てても心は錦」という自負心があり、また、意識的にそんな服装をした。それ以上に前近代的学生寮の寮生たちがいたので、目立たない。

 私自身、秋から冬の季節は、「どてら」を着て大学の講義に出席した。仲の良かったTは、「ちゃんちゃんこ」を着ていた。しかし、そんな格好をしているのは、大概、私たちHUWVの部員だった。

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 早朝の札幌駅に着いた。
 札幌の街も、政令指定都市として大きな市街地をを抱えた100万都市(当時)だが、市の中心は、札幌駅の南側に偏り、朝の通勤ラッシユも、北方面へ足を延ばす人は少ない状況だった。地下鉄の南北線の「北18条駅」で降りれば、懐かしい景色が現れる。帰省する故郷が懐かしいように、ちょうど20日間空けていたので、下宿のガラス戸を開ける瞬間、胸に迫るものがあった。さらに、懐かしい自室の勉強机の上には、日記帳と飲みかけのコーヒーがあった。
 知床半島山行に出かける前に、コーヒーを飲みながら、日記帳に出発する旨を記したページが、そのまま出ている。そして、佐久地方の旅立つ人が、「行け(生け)茶」の風習で、飲みかけの茶を残して出発するように、わざと、コーヒーを飲み残してきた。これは、他の山行でも、出かける時の私の習慣となっていた。
 「かび」が発生していたカップをよく洗い、コーヒーを入れ直してから、日記帳に向かう。事務的に、無事に帰還したことを記す短い時間の間に、知床半島での様々な思い出が、夢の中での出来事のように、次々と展開していた。

 

  【編集後記】 知床半島」に関する紀行文は、今回の8回で終わります。第2回目の「知床半島山行のはじまり」が本来のスタートですが、第1回「ドクター・オホーツク」は、山行行程の順番とは違いましたが、イントロ(導入)にもってきました。

 情報としては古過ぎますが、それでも、私たちが松浦武四郎の紀行文『○○日記』に憧れたように、数十年か前の北海道の歴史や地理の記録を伝えられれば価値があると期待しています。