北海道での青春

紀行文を載せる予定

学びの道を踏み行きて(後半)

 ところで、中学校では、学級の皆で共通体験した行事などを通して、学級や、その構成員の雰囲気が変わっていくことがあります。

 1学年が5学級ある中学校のことでした。学級編成は、各小学校からの資料や情報を基に、それぞれの学級が、なるべく均質になるようにします。特に、学習成績と運動能力には配慮します。
 ところが、私たちが担任した学年では、1年生の始めから、かなりなアンバランスが現れました。2学期になり、その差は更に顕著となり、期末テストの学級毎の5教科平均点が、90点差になりました。つまり、ほぼ1教科分、得点差が開いたことになります。
 しかも、学年の平均点が、5学級の第1位と第2位の間にありました。親指だけが抜きん出て、他の指が団子状態で、小指だけが離れた「3本指ミトン(手袋)」に例えられます。そして、小指に当たる学級が、私の担任するクラスでした。スポーツ系クラスマッチの成績も、必ず5位。救いなのは、『家のお母さんが、あんた達のクラス、劣等生だけ集めたんじゃないって言うけど、楽しいもん』と、強がりを言う子が多かったことです。しかし、生徒自身も、内心は穏やかでなかったと思います。

 途中でのクラス替えがなかったので、同じ仲間で2学年に進級しました。(この2年生で、学級が転換していく少なくとも、4つの大きな出来事がありましたが、紙面の都合と、本文の趣旨から、話題はひとつに絞ります。)

 ある日、ルーム長で指揮者も務めたS君が、『合唱コンクール優勝!』の目標を提案しました。昨年は、選曲にも難があったと思いますが、他の4学級と、明らかに音楽レベルが違っていることは、素人にもわかるほどでした。無理なことは承知ですが、心意気には大賛成です。

 幼い頃からピアノを習っていたS君は、やや易しいと思われる『小さな木の実 海野洋司・作詞 /ビゼー・作曲』を推し、専門的な要求を級友にもしながら、皆をリードしていきました。
 そして、当日です。やはり1学級うまいクラスが目立ちますが、残りの4学級には、あまり差がありませんでした。
 『第3位』のアナウンスで歓喜する我が学級の生徒を前に、私は、『どうせ、4~5位だろうな』と思っていた自分を恥じました。

 入学以来、初めて手にした賞状でした。学級が大きく転換していく機会だったように思います。(ちなみに、3学年では、担当した理科と数学で、トップのクラスに迫ることもありました。)
 7つの公立(国・市・町・村立)中学校と、県の施設、ふたつの小学校の、全部で10の職場に勤務した私は、今年の三月で定年退職を迎えます。最近に勤務したふたつの小学校の音楽会では、中学校で経験した他の学級や学年と優劣を争うような緊張感はありませんが、別な意味で感動しています。

 初めて小学校の音楽会を目にした時、私は、ステージ・バックの装飾を見ただけで、思わず、うるうるしてしまいました。それには、さすがに慣れてきましたが、児童の歌唱や演奏に、ほのぼのとした安らぎを覚え、失敗しないかな等と心配しながら参加しています。
 どのステージにも感動をいただきますが、特に、本校の音楽会で、参観に来られた保護者、祖父母、地域の方々の全員で歌った「A小学校校歌」の斉唱には感動しました。

 

  行く末遠き 千曲川 たえぬ流れに ならわずや
  水草清き 青沼の 学びの庭に まどいして
  みそらにけむる 浅間山 高き姿に ならわずや 
  水草清き 青沼の 学びの道を ふみゆきて
                 不島定治・作詞/桜井信影・作曲

 

 全体合唱を写真撮影しようと、体育館のステージに上りました。おじいちゃん・おばあちゃんから、小学1年生まで、ファインダーから覗くと、いい顔をして歌っています。誰を写そうか迷っている内に、校歌は終わってしまいました。皆さんの歌う姿と旋律の中に、学びの原風景が見えたような気がしました。
                          平成26年 1月19日

 

【忙中閑話】   学びの道をふみゆきて
 平成25年度・A小学校の文集に寄せた文章です。標題は、A小学校校歌の最終歌詞から採りました。私は、勤務したどの学校の校歌も、それぞれ懐かしく、良い歌詞とメロディーだと思っていますが、歌詞では最も短い。それ故に、上記のように「誰を写そうか迷っている内に」終わってしまったのだが、趣深い味わいがあります。
 N 先生(大阪大名誉教授)が、最晩年の頃、A小学校の記念式典に参加された時、『校歌がもう一度歌いたい』と所望されたという。長いA小学校史の中で、戦時下の一時期、軍国への士気を高めようと、歌詞の一部を少し変えて歌われたこともあったと聞くが、「学びの道」を大切にしている里である。

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明治時代の西洋建築校舎

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旧中込学校・太鼓楼(現存)

【編集後記】 A小学校の幻の校舎(上の写真はイメージ)

 長野県では、明治時代に建てられた西洋式学校として、旧・開智学校(明治9年・1876年建設)が有名で、2019年(令和元年)に国宝に初指定された。

 このレベルと比べると、建物の規模が小さく、見劣りはするが、佐久市にも旧・中込学校(明治8年・1875年建築)の通称「太鼓楼」(重要文化財国史跡)がある。

 ところが、A小学校には、これらより更に1~2年前の明治7年(1874年)に建築された西洋式建築の校舎があった。残念ながら、新校舎が造られた後は、物置倉庫のような方法で使用し、最後は廃棄してしまったと聞く。当時のことを覚えている人々も多い。

 明治5年の「学制」発布の、わずか二年後に、小さな村でお金を出し合い、西洋式学校を建てたというのは、たとえ規模が小さかったにせよ、教育に懸ける人々の情熱と、先見性・将来への期待の高さに感動する。