北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(西端―4)

5.石英閃緑岩の採石

 平成10年、11月に霧久保沢を訪れてみると、霧久保沢と林道・大日向-日影線の分岐地点付近に、採石場ができて、調査した頃と比べ、辺りの様相がすっかり変わっていました。
 捕獲岩だったのか、有色鉱物の割合が多い「閃緑岩」が、石英閃緑岩露頭の中で見られた場所は崩されていました。記録にとどめる必要があると思いましたが、写真撮影したのは、1年後でした。(平成11年11月4日)
 さらに、進行していました。(【写真】)

f:id:otontoro:20210309142049j:plain

捕獲岩の見られた露頭は変わっていた

 いくぶん青味を帯びて見える部分はタイガー・ロックと同じ理由で、スカルン鉱物が富化していると思われます。
 採石の過程は、次のようです。①大型重機で表土を剥がし、岩体を爆破して、ある程度の大きさにします。②それらを重機で集め、ベルトコンベアーで、砕石施設の中に運ばれます。
③中で撹拌され、用途に合わせた大きさにまで砕かれて、出てきます。④砕かれた石は、近くに山積みにされていました。

f:id:otontoro:20210309142339j:plain

岩を砕く機械・・・左奥は霧久保沢

f:id:otontoro:20210309142453j:plain

山積みされた石英閃緑岩・・・奥は林道「大日向―日陰線」

 石英閃緑岩体からは、比較的、均一で多量の石材が得られるので、「バラス」としての利用価値があります。各地に出荷されているのかもしれません。
 ちなみに、JR東日本小海線の線路の敷石は、石英閃緑岩や玢岩が多いです。産地は、きっと佐久地域からのものが多いと思います。
 かつて、国鉄小海線の時代、最寄りの羽黒下(はぐろした)駅での貨物取扱いの重量(t)は、石材という理由が大きいと思いますが、沿線の駅の中で、断トツのナンバーワンを誇っていました。現在は、トラック輸送となっているようです。花崗岩系岩体は、ここから南へ2.5kmの所に聳える茂来山(1717.60m)の地下にもあり、石英閃緑岩~花崗閃緑岩体の存在が知られています。分布域の近さや岩相からみて、関連があると思われます。
  

6.茂来山たたら

 霧久保沢や茂来山(もらいさん)の話題が登場したので、南佐久郡誌に載せた原稿の一部を手直しして、「茂来山たたら」を紹介します。
 「たたら」炉というのは、10世紀始め頃(平安時代後期)開発された「粘土製の溶鉱炉」のことです。宮崎 駿 監督のアニメーション映画「もののけ姫」の一場面に出てくるので、イメージはつかめると思います。(もののけ姫と対抗する女統領エボシが、ライ病患者を介護すると共に、杣人の家族らを指揮して、山奥で鉄を製造しています。)
 現在の製鉄業では、鉄鉱石の主な原材料に、磁鉄鉱(Fe3O4)、赤鉄鋼(Fe2O3)、菱鉄鉱(FeCO3)、褐鉄鉱(前述の微細鉄鉱・風化産物)などの酸化鉄を使っています。これらの鉄鉱石に、良質の石炭(コークス)と、不純物を取り除くために、石灰岩・硫黄・マンガン鉱などを混ぜたものを溶鉱炉の中に入れ、高温の風を送り酸化鉄を還元します。 たたら炉は、酸化鉄と炭素に高温の風を送り、鉄を還元するという原理に変わりはありませんが、コークスの替わりに木炭を使い、砂鉄(主に磁鉄鉱)を還元して、チタン(Ti)含量の少ない良質の鉄を取り出す工夫がされていました。しかし、明治時代に入り、近代的な製鉄業が軌道に乗り出すと、企業努力にもかかわらず、生産性の低い「たたら」炉は、次々と最後の火を落としていきました。

 「茂来山たたら」は、江戸時代末期、茂来山鉄山の発見(天保2年・1831年)に伴い、嘉永元年(1848年)に試験操業が開始されたと言います。そして、嘉永安政年間にかけて最盛期を迎えますが、文久2年(1862年)に、山火事のために高殿が焼失してしまい、休止に至ったようです。
 鉱炉を作るには、まず、表土を少なくとも6尺(約180cm)取り除き、この上で火を何日も焚いて、土中の水分を無くす必要があります。それから、霧久保沢の奥、「箕輪の滝」付近から、天然落葉松の巨木を切り出して加工し、高殿(たたら炉を覆う建造物)を建設しました。その大きさは、十間四方(18.2mの二乗・約331.2m2)の平屋建てで、内部を4本の柱だけで支える巨大な木造建築物であったようです。嘉永4年(1851年)には、建築が終わり、操業が開始されたと言います。
 近くに、野積みの石垣跡があります。これは、高殿の二町(約218m)ほど上流から沢水を引き、水車を回し、その原動力で「ふいご」を動かして送風する時の、水車小屋への流路跡でしょう。このような方法で、1300~1400℃の高熱を発する炉の傍らで、十数人の番子と呼ばれた人々によって、三昼夜間断なく送風されたのではないかと思われます。
 尚、「たたら」操業のためには、多量の木炭や燃料の木材が必要になります。私たちは、それらが運搬されたという霧久保沢の尾根斜面の山道を歩きましたが、険しい断崖に二体の「馬頭観世音像」を見つけました。
 その内の一体は、「元治二丑年三月吉日」(1865年)と読み取れました。今では閑散とした奥深い山中に、当時の人々と馬たちの荒々しい息づかいが偲ばれるような思いでした。(昭和63年5月8日、季節はずれのみぞれ混じりの日に)

 「茂来山たたら」跡は、霧久保沢の右岸、標高980~990mの比較的コンタが開いた場所の標高985m付近にありました。また、回収できなかった鉄くずやズリが、捨てられたと思いますが、沢側の斜面に、わずかに残っていました。

 ところで、採算が取れずに、一旦は廃坑に至った地域ですが、第二次世界大戦を前後した鉄需要背景の中で、大日向鉱山が再開されました。採掘量は不明ですが、その採掘跡が、3箇所(大日向鉱床・大露頭鉱床・茂来山鉱床)が確認されています。私たちも、その跡地をようやく覗くことができました。

 これらの情報(たたら炉の歴史など)は、地元佐久穂町出身の畠山次郎さんの論文からの記述です。また、鉱山に関する資料は、「未利用鉄資源第8号・1960年」からの情報です。新たに、発掘して情報発信をしている方もいますが、時代からは注目されない話題ですので、忘れ去られてしまうかもしれません。でも、大事にしたいですね。

 

 【編集後記】

 私は、他郡での新卒から3年間の勤務の後、佐久に赴任して佐久教育会地学委員会に参加するようになりました。ちょうど、この頃、南佐久郡誌(自然編)の改訂事業が始まっていて、南佐久全域の資料を補強する調査活動が行われていました。

 例えば、千曲川の源流(東沢)から十文字峠の山小屋に泊まり、梓白岩を経て三国峠までの県境尾根の2日間の調査で、石灰岩露頭からフズリナ化石を見つけました。県境を越えて、埼玉県の中津川林道の地質も調べました。川上村・南~北相木村佐久穂町(旧八千穂村と旧佐久町)・旧臼田町(現佐久市)の林道や沢、山岳地帯にも入りしました。

 ただ、当時の私は不勉強で、目の前の露頭や岩石は、かろうじてわかるものの、何がどのように関連しているのか、皆目見当がつきませんでした。25000分の1地形図に落としたルートマップと調査記録メモは、残っていますが、相当、忘れています。

 特に、良いカメラも無く、写真で記録しておこうという意識が薄かったので、メモからだけでは思い出し難いです。

 その当時の地質調査で入り、登った沢や山は、いずれも本格的な沢旅や登山で訪れるような山奥なので、今の私には二度と行けない場所となっています。(記録を整理し、まとめられるようであれば、挑戦してみようと思いますが・・・)

 ところで、この「茂来山たたら」の話題は、南佐久郡誌(地形・地質)の改訂で、私が担当した「地下資源」の章の一部です。どちらかと言うと、この章は実地調査というより、過去の文献や資料を整理してまとめるという意味合いがありました。その中で、大日向鉱山跡や高橋鉱山跡も含めて、実地調査できた貴重な内容です。

 当日は、風薫る5月連休の休日でしたが、午後は、少し回復したものの、あいにくの、みぞれ混じりの寒い日となりました。

 畠山次郎氏が、「茂来山たたら」を始め、大日向の郷土の歴史を解説してくれるという公開講座が企画されて、私たち以外にも、興味を覚えた方々が参加されました。

 今では「たたら炉」を「もののけ姫」の話題とからめて解説している私ですが、当時は、「たたら」を知りませんでした。『え、知らないの? 昔の鉄鋼炉のことよ』と、かなり年配のおばさんに言われ、そんなことも知らずに参加していた私は小さくなっていました。

 しかし、参加者とはいろいろ話してみるもので、東京から参加のM氏は、鉱山関係に詳しい方のようで、私の知りたかった内容について、通産省(当時)資料をコピーして送付してくれました。その一部が、大日向鉱山付近の地質略図と、鉱床の説明でした。

それを元に、記号や凡例を手直しした図が、【下図】です。

f:id:otontoro:20210309151727j:plain

 私は、大日向鉱床跡のひとつを見つけ、観察しました。しかし、穴の一部が残っているだけで、危険防止の為、埋められていました。また、機会があれば、紹介する予定ですが、筑北村の石炭や亜炭の炭坑跡が、綺麗に埋められて、周囲に回収されなかった石炭塊が落ちているだけという光景と似ていました。

                  * 

 最後に、エピソードを2つ紹介して終わります。

日航機墜落事故】:昭和60年(1985年)8月12日夕刻、日本航空123便(羽田発~伊丹行)が、群馬県御巣鷹山(おすたかやま・1639masl)の屋根に墜落しました。乗員・乗客524名の中で、生存者4名を残して死亡という大惨事でした。日本では「上を向いて歩こう」が、米国では「Sukiyaki Song スキヤキの歌」としてヒットした歌を歌った坂本 九 さんも亡くなりました。

 覚えている方も多いと思いますが、既に35年以上も昔のことです。奇しくも、私たちは、その日に、南相木村の林道調査をして、御座山(おぐらやま・2112masl)から西に延びる尾根を越えて、木沢川沿いの道(旧踏み分け道)の調査をしながら、北相木村に到達しました。墜落と伝えられる時刻には、解散の挨拶をしていた頃でした。 自宅に帰り、点けたテレビに、事故が報じられていて驚きました。事件発生箇所と、あまり離れていない地点に、しかも。同時刻に私たちはいたようです。

馬頭観音像】:本来の「馬頭観音」は、仏像の頭上部に馬の頭があるようなのですが、ここ(霧久保沢))は、「馬頭観音」と文字で示されていました。

 私の関心時は、霧久保沢の絶壁で、「重荷を積んだ愛馬が落ちないように」と願って建てはものなのか、それとも、「当時の滑落事故で死んだ愛馬の供養の為なのか」という推測でした。

 どちらの場合でも、人と馬が共同作業を通して、節度ある範囲で情を交わしていると思います。現代の人が。ペットにかける情とは、少し違うように思います。

 そこで、私の得た結論は、わからないに尽きますが、霧久保沢の断崖建てられたものは、愛馬への追悼碑のように思えてきまた。(おとんとろ)