北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-122

2. 尾滝沢付近の調査から

(1)苦水(にがみず)の沢

 無名沢だと思われるが、沢の内山川本流への合流点付近の集落名から、沢の名前として呼んでいます。短い沢なので、平成14年8月12日(月)の午前で調査を終えました。
 最初の北から流入する沢との合流点(【図-①】)付近では、凝灰質灰白色粗粒砂岩層でした。(ここは、止山です。)
 2番目の北東から流入する沢との合流点(【図-②】)付近では、凝灰質灰白色粗粒砂岩層でした。ここも止山です。山に入る刈り込み道は尾根に延びていました。
 3番目の北から流入する沢との合流点(【図-③】)では、石英斑岩の貫入(岩枝)が認められました。4m×3mほどの分布でした。
 合流点から上流へ40m付近(【図-④】)では、熱変質した灰白色砂質泥岩層と灰色粗粒砂岩層で、層理面は、はっきりしていません。元は、黒色泥岩や暗灰色粗粒砂岩で、茶褐色~黄土色の風化色から凝灰質だと思われます。
 南東からの沢との合流点付近で伏流しました。標高865m付近(【図-⑤】)では、沢水が戻り、熱変質した灰白色の砂質泥岩が分布していました。節理面かと疑いましたが、層理面だろうと判断して、N40°E・20°NWでした。
 標高890m(【図-⑥】)付近では、灰色中粒~粗粒砂岩と灰白色砂質泥岩の互層でした。砂岩10cmと泥岩2cmの、約12cm単位の互層が繰り返し見られました。ここも、熱変質しているものと思われます。走向・傾斜は、EW・70~80°Nでした。
 標高920mまで詰めましたが、露頭のない伐採後の疎林となった所から引き返しました。里山としては、良く管理され、間伐後の植林などもきちんとしてされていました。

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シイタケ栽培用ホダ木に伐採したクヌギ


 

 【 閑 話 】

 思っていても管理できないのが、最近の里山の現状です。苦水の沢の止山のようにマツタケ山ではなくて、管理された雑木林は珍しいです。
 写真は、シイタケを自宅の北側の日陰で栽培したら、いつも新鮮なキノコが食べられると思い、我が家の先祖伝来の雑木林の一部を伐採し、シイタケ栽培用のコナラ材を切り出した光景です。

          
(2)尾滝沢(おたきざわ)

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尾滝沢と苦水の沢、ルート・マップ

 内山川本流と尾滝沢との合流点付近(【図-①】)では、小規模に礫岩層と暗灰色中粒砂岩層が見られました。岩相の特徴から「仙ケ滝」付近の内山層の基底礫岩層群と思われます。

 

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泥質メランジェ(尾滝沢に入ってすぐ見られる)

 合流点から尾滝沢に20mほど入った左岸では、風化して脆くなった中粒砂岩層と、剪断され崩れやすくなった砂岩層があり、断層の存在を示唆すると思われる鏡面(slicken side)が見られました。岩相から、こちらは大月層です。(【図-②】)
 東側からの小さな沢との合流点付近では、剪断された泥質メランジェからなる滑滝が形成されていました。こちらも大月層です。(【図-③】)

 西からの小さな沢の高い所(標高差30m)に露頭が見え、沢を登って確かめると礫岩層でした。(【図-④】)

沢との合流点左岸には、泥質メランジェ(sheared mudstone)が見られ、走向・傾斜は、N80°W・垂直~80°Sでした。 この上流側は、黒色粘板岩(slate)で、N80°W・50~60°Nでした。(【図-⑤】)

 標高825m付近の二股から下流3mでは、黒色粘板岩が主体で、わずかに灰色中粒砂岩層が挟まれていました。
N80°E・80°Nでした。支流の沢に入ってみると、同質の粘板岩層が続いていました。また、本流でも同質の黒色粘板岩層があり、連続しているものと思われます。
(【図-⑥】)

 標高830m付近では、石英斑岩(porphyrite)の貫入が6mほど見られました。その上流にも、同様な石英斑岩の貫入(露頭幅15mと10m)が認められました。(【図-⑦】)

 標高832m付近(【図-⑧】)では、沢の湾曲部にかけて黒色頁岩層や黒色粘板岩層が崩れていて、破砕帯ではないかと思いました。石英斑岩の岩枝も認められました。

 その上流では、石英斑岩の貫入(露頭幅15m)がありました。(【図-⑨】)
 そのわずか上流の左岸側で、泥質メランジェがあり(【図-⑩】)、20m上流の右岸側に礫岩層がありました。(【図-⑪】)このふたつの露頭は、大月層と駒込層の境になります。全体の地質構造を解釈する上で、重要な岩相の違いと、位置情報です。

 

 標高840m付近から、凝灰質の明灰色粗粒砂岩層と灰色中粒砂岩層が出始めました。明灰色粗粒砂岩層からなる滑滝があり、二次堆積を示す黒色頁岩片の入る中粒砂岩層もありました。また、滑滝の砂泥互層の部分では、
【下図・上】のような礫・砂・泥と構成粒度が変化する級化層理が認められました。上流側、すなわち、北側が上位となります。(【図-⑫】) 西からの小さな沢の流入地点(【図-⑬】)では、【下図・下】のような明灰色中粒砂岩層に挟まれた礫岩層が見られました。走向の方位はN60°Eと、わかりますが、傾斜が測定できません。しかし、礫岩層が途中で切れた砂岩層の欠落した部分を補うように堆積し、全体の層厚を修正しています。礫層の中で、比較的大きな礫の配列から、上流側、すなわち北側が上位であるとわかりました。ちょうど、走向・傾斜のデーターが得られない地域だったので、貴重な堆積構造露頭です。

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 標高845m付近の東から小さな沢の流入する地点(【図-⑭】)では、下流側から、黒色頁岩層/黒色頁岩片入り粗粒砂岩層/凝灰質明灰色粗粒砂岩層が見られました。走向・傾斜は、N20°W・30°SWと、南落ちです。

 そのすぐ上流の黒色頁岩層の中に、コングロ・ダイクがありました。
 黒色頁岩層は、N10°W・20°Wと、ほぼ南北走向ですが、コングロ・ダイクは、N85°W・80°Sと、東西に近い走向でした。見えている部分は、幅20cm×長さ3mです。特徴的に、チャート礫を含まないという岩相は、内山層のものに類似していましたが、内山層でない他の時代の地層にも見られるのは、少し驚きでした。
 標高858m付近から、凝灰質の明灰色粗粒砂岩層(15cm)が主体で、数cmの黒色頁岩層との互層が現れ始めました。N10°W・35°Wです。(【図-⑮】)この後も、連続露頭で、N10~20°W・20°Wと、安定した走行・傾斜が続きました。
 標高865m付近(【図-⑯】)からは、粗粒砂岩の中に軽石(pumice)が入るようになりました。標高880m付近(【図-⑰】)では、同質の粗粒砂岩層が造瀑層となる滑滝がありました。走向と岩相からみて、【図-⑯】とほぼ同層準を観察しているものと思われます。

 標高890m付近(【図-⑱】)では、層理面がわかりずらく塊状で、わずかに礫を含む粗粒砂岩層に、目視できる小規模な断層が見られました。断層は、N70°E・80°N傾向でした。
 標高890m二股を右股に入った標高900m付近(【図-⑲】)では、縞模様(stripe)
が見られ、軽石の入る粗粒砂岩層が見られ、N80°W・80°S~垂直でした。その上流では、黒色頁岩片の入る粗粒砂岩層が続きますが、走向・傾斜は乱れていました。

 北からの小沢が入る合流点から上流部、標高910~920m付近(【図-⑳】)では、下流側から、縞模様の粗粒砂岩層/礫岩層(10cm)を挟む同質の粗粒砂岩層/明灰色粗粒砂岩層/縞模様入り粗粒砂岩層/黒色頁岩片や、それらのの二次堆積と考えられる粗粒砂岩層の順番で観察できました。走向・傾斜は、N30°W・40°SWでした。

 標高950m付近(【図-○21】)では、軽石が入り凝灰質な明灰色粗粒砂岩層が見られました。軽石凝灰岩層としても良いかもしれません。割った新鮮な部分を見ると、青味を帯びた灰色で、緑色凝灰岩(green tuff)としも良いと思われました。これから先の上流は、駒込層が分布しているだろうと考え、下山することにしました。

 

 【 閑 話 】 大月層(初谷層)のお友達は?

 内山層基底礫岩層に続き、尾滝沢にわずか入ると、剪断された泥質メランジェと出会い、大月層の特異さに驚きます。この大月層(初谷層の方が多く使われているようですが、私たちは、大月層と呼ぶことが多かったので、以下、大月層)は、基本的に下部白亜系で、群馬県下仁田町などに分布する跡倉層(あとくら・そう)に対比しようという解釈があります。
 但し、跡倉層は、含有礫岩の年代測定証拠などから、異地性岩体(クリッペ・Klippe)であることが知られ、周囲の関連岩体と共に、「跡倉ナップ群」という扱い方・見方をされています。
【下図】のように中央構造線(MTL)の領家帯(A)側にあった跡倉層(K)は、元の位置から衝上断層を移動して三波川帯(B)の上に載ってしまいました。今の分布は、三波川帯に属します。 すると、現在、内山断層の南側にある大月層も、(内山断層=中央構造線相当なら)北側から乗り越えてきたのか・・・ということになります。

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K:跡倉ナップ群(跡倉層)の動きの説明図

一方、中央構造線の北側には、同じ下部白亜系の和泉層群が細長く分布していることが知られています。愛媛県松山市讃岐山脈~淡路島の諭鶴羽(ゆづるは)山地~和泉山脈までの最大幅15km×東西延長300kmに分布しています。主に海成層で、酸性凝灰岩を挟みます。泥岩からは化石が多く産出します。【下図】は、白亜紀後期を想定した西南日本の模式断面図で、和泉層群の堆積の様子が示されています。

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      《中央構造線の活動概要》
ジュラ紀末~白亜紀初め:大陸に対して北上する

 プレートの動きで、中央構造線 の原型となる横ずれ

 運動が生じた。
白亜紀中期:離れていた領家帯と三波川帯が接する

 ように動く。領家帯の一部は 衝上断層で、三波川帯に

 乗り上げ移動した。(古期中央構造線)
白亜紀後期:プレートの沈み込みで、左横ずれ断層と

 なり、北側では岩盤が破壊 され、和泉層群などが堆積

 した。(新期中央構造線)

             *   *   *   *

 もし、大月層が、かつて中央構造線の北側にあったのなら、和泉層群と同じ関係だとも解釈できます。どうなのでしょうか?
 大月層は、内山層基底礫岩層に接する内山川本流沿いや、根津古沢、モモロ沢、初谷沢でも観察されました。特に、初谷沢では、黒色頁岩や泥岩が多い。文献では、保存の悪いサンゴ・碗足類・二枚貝の化石を挙げているが、まだ、私たちは発見していません。

 

 【編集後記】

 「大月層」は、次回の「初谷沢」で観察した内容を載せる予定ですが、尾滝沢では、冒頭の写真「メランジェ」と思われ、剪断された岩相の堆積岩が印象的でした。

 私たちは、調査の途中では、『内山層の北(大月層)と南(山中地域白亜系)に白亜紀の地層があり、その間に内山層が堆積した』ぐらいの、極めて軽い意識でいました。しかし、どうも諏訪地域から佐久~にかけて、その存在がわからない「中央構造線」に相当するのが、「内山断層」だと言われるようになり、北と南の白亜紀の地層は、仮に時代が似ていても、背景が異なっていることがわかってきました。 

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級化層理(尾滝沢)

  ところで、今日の午前は、チェーン・ソーの新しい刃(チェーン)と、草刈り機の刃を行きつけの商店で購入してきました。

 梅雨入りを前に、既に十分な降雨があり、晴天続きなので、草木はぐんぐん成長していきます。伸びすぎた唐松の枝が日陰になるので伐採したり、畑や道路の草刈りをしたりと、野菜類の周辺管理も始まりつつあります。

 先日のTBS「ひるおび」で、天気予報士・森 朗 氏の説明によれば、過去30年間の平均値を「平年」と表現していますが、『今年・2021年は、10年毎に「平年」を更新・改訂する年度にあたり、例えば、平均気温も0.5℃ぐらい高い数値が採用されました。』とのことです。つまり、平年より高いと言われたら、昨年までより、さらに下駄履き分を足した高温になっているということです。今ぐらいの天候であってくれれば、有り難いですが、そうもいきません。これから次第に暑い季節へと向かっていきます。皆さまも、健康管理に努め、ご自愛ください。(おとんとろ)