北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-124

4. 牛馬沢の調査から

 当時まだ営業していた「ドライブイン草笛」さんに駐車させてもらい、北側の遊歩道を下って、牛馬沢の標高915m付近(【図-①】)から、調査を始めました。いくぶん青味を帯びた暗灰色の粗粒砂岩層がありました。凝灰質で、風化すると黄土色に変色し、滑滝を造るタイプの粗粒砂岩層です。
 標高918m、南東からの小さな沢の流入する付近(【図-②】)では、暗灰色粗粒砂岩
層が滑滝を形成していました。砂相が圧倒的に優勢ですが、わずかに黒色頁岩層を挟み、繰り返すこの境を周期に、水流が浸食して凹地(窪地)を作ります。

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内山川上流部・牛馬沢のルート・マップ

 これから観察していく上流側でも、同様な窪地群ができていました。【写真-下】
全体の岩相は大きく変わらないものの、沢水の浸食に差ができて、沢底がやや深くなって小さな淵ができます。

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ヒキガエルが一匹ずつ棲息する窪地

 その窪地群に、なぜかヒキガエルが一匹ずついるのです。最初は「あっ、いるな」ぐらいの認識でしたが、あまりに発見の偶然が重なるので、最後はヒキガエルが居ないと捜しました。きっと、窪地群ぐらいの規模の水域の広さが、「なわばり」なのかなと思いました。

 粗粒砂岩層の走向・傾斜は、黒色頁岩層との境で、N30°W・30°SWでした。
 ここから標高935m付近まで、同様な粗粒砂岩層の滑滝が続き、わずかに、黒色頁岩層が挟まります。そして、ヒキガエルを見つけました。

 標高920m付近(【図-③】)では、粗粒砂岩層の中に黒色頁岩片や同質の塊が取り込まれていました。【写真-下】粗粒砂岩の茶色がかった色は、風化色です。最大なものは、80×100cmほどでした。ちぎれたような不規則な岩片もあります。ここでは、N70°W・30°NEと、北落ちになっていました。

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黒色頁岩片の塊が入る

 標高935m付近(【図-④】)では、いくぶん黒色頁岩層が多くなり、砂優勢ですが粗粒砂岩層と互層していました。N60°W・20~30°NEと、ここでも北落ち傾向でした。
 少し上流で、目視できる互層部の小褶曲が見られたので、同質の層準が褶曲しているのかもしれません。

 標高940m付近(【図-⑤】)では、凝灰質のいくぶん青味を帯びた暗灰色粗粒砂岩層が見られました。走向・傾斜は測定できませんでしたが、傾斜が水流と逆(北落ち傾向)なので、落差2mほどの小滝を形成しています。

 小さな枝沢を登り、最初の二股(【図-⑥】)でも、同質の粗粒砂岩層が見られました。ここは、民有地で牧場となっていて、露頭はありませんでした。【図-⑦】には、牧場の牧舎などの施設がありました。

 同じルートで沢に戻り、2番目の小さな沢との合流点(【図-⑧】)付近でも、同質の粗粒砂岩層があり、落差1.2mの滝ができていました。
 合流点の上流15m、標高950m付近の右岸(【図-⑨】)では、黒色頁岩層が見られるようになり、粗粒砂岩層との互層が見られました。N30°E・30°NWでした。

 標高955m付近(【図-⑩】)では、小さな黒色頁岩片を含む灰色粗粒砂岩層が見られました。構成粒子の砂と黒色頁岩片が「ゴマシオ」のように見えるので、そう呼びましたが、凝灰質ではなくなっていました。そして、標高960m付近(【図-⑪】)では、黒色頁岩の塊や不規則な岩片が入る粗粒砂岩層が見られました。前述の【図-③】の産状に類似していました。

 東から小さな沢と合流する標高965m付近(【図-⑫】)では、大きな安山岩の転石が親子の熊のように見え、「熊石」などと名付けました。

 標高970m(【図-⑬】)では、黒色頁岩層が見られました。やや崩れやすくなっていましたが、N30°E・50°NWの測定値を得ました。
 標高975m付近(【図-⑭】)では、同質の黒色頁岩層ですが、激しく崩れていました。東からの小さな沢の合流点で、蛇紋岩や白チャートの転石があり、疑問に思いました。(道路も近いので、人為的なものであるかもしれません。)

 

      《内山層の基底礫岩層群》

 標高980m(東からの小さな沢)から985m付近(【図-⑮】)では、内山層の基底礫岩層が見られました。沢の流路から見て、層準的には上位から観察していきます。
 最初は、わずかに黒色頁岩層を挟む礫岩層で、最大20×15cm(白チャート礫)の巨大な礫を含みます。礫種は、白~灰色チャート、黒色粘板岩の岩片、結晶質砂岩です。
 次に、白色チャートの層状や塊状礫を集めた礫岩層、最大50×60cm(塊状の白色チャート)です。非常に巨大な岩塊と言っていいです。
 そして、チャート礫・黒色粘板岩礫・砂岩礫の礫岩層があり、その下が、粗粒砂岩層でした。・・・・地層の堆積した順番は、以上述べてきた順番を逆にしたものです。
 この傾向は、内山川本流で見られた基底礫岩層群の特徴と同じでした。すなわち、不整合で良く観察される「基底礫岩層」と言われる礫岩層の堆積に先立ち、まず、粗粒砂岩層が堆積しています。次に、基底礫岩層、そして、巨大な岩塊を含む礫岩層の順番です。この露頭が、佐久側で見られる内山層の基底礫岩層の最も東側になります。
(但し、巨大な岩塊を含む礫岩層は、堆積盆の端と思われ、全域で見られるわけではありません。)

              *   *   *

 

 このすぐ上流(牛馬橋まで目測で150m)(【図-⑯】)で、明らかに内山層のものではない礫岩層が見られました。礫種は、軽石(1cm×3cmの押しつぶされている)や黒色頁岩片、砂岩片で、稀にチャート礫が含まれます。全体は極めて凝灰質で、ハンマーで叩くと鈍い音がします。層厚20cmほどの凝灰岩層も見られました。水分を含むと青味を帯びた灰色で、断層粘土のようにも見えました。兜岩層の礫岩層です。

 標高990m・南東からの沢の合流点(【図-⑰】)では、巨大な礫岩の転石がありました。言わば、拳大の礫が固まった集塊岩のような形態です。
 牛馬橋の上、標高995~1000m付近(【図-⑱】)では、広く礫岩層が分布していました。礫種は、安山岩・ガラス質安山岩(黒色)・結晶質砂岩・粗粒砂岩で、最大径15cmほどあります。これらの礫岩層は、内山層を覆う「兜岩層」と考えられます。

5. 根津古沢の調査から

 

【編集後記】

 この後、北部域の沢『5 根津古沢(ねづこさわ)・俗称「ねっこさわ」』の原稿がくることになっていますが、未完成です。

 調査は、平成11年度(1999年)に委員会で、東隣りの「モモロ沢」と共に行いましたが、入口付近からわずかでした。(六川資料)

 私自身は、二度、足を運んでいますが、いずれもちょっと立ち寄っただけです。

 根津古沢のルート・マップは、「地球科学45巻3号(1991年5月)P203~P216」の小坂共栄先生らの論文で見ているので、概要はわかりましたが、素人なので、自分で実際に見聞きしたデーターでないと良く説明できません。

 平成14年(2002年)11月3日に、小坂共栄先生・野村哲先生・地団研埼玉支部の皆さんと、車で入りました。そして、「内山断層が通過しているであろう」と推定できる場所の観察をしました。【写真―下】の砂防ダムの建設中でした。

 根津古沢の標高850mの二股から、直線距離で70mほど下流の、標高838m~840m付近です。左岸側を見ると、ほぼダム建設の箇所から下流側に幅30mほどの破砕帯があり、すなわち断層(内山断層)の証拠かと思われました。 

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砂防目的のダム工事中(2002年11月3日に撮影)

 ここを訪れた後、その後、正式に調べようと思いつつ、さらに定年退職後、何度も調査を口にしながらも、新たな地域が課題となって、そちらに出かけ、とうとう未実施です。(しかし気持ちだけは、再調査するつもりでいます。)

 ちなみに、内山断層は、初谷鉱泉から、この砂防ダムの下を経由し、尾滝沢、内堀沢~温泉の西側沢(フィールドネーム)付近まで追跡できました。また、完全ではありませんが、内山層の堆積後に生じた「南北性の断層で切られている」ことも確認しました。

 当時の地学委員会の仲間は、ほとんどが退職しているので、年一回ぐらい、「交流と調査感を維持する為に、フィールドに入ろう」などと話題にはするものの、なかなか腰が重くなってきています。(おとんとろ)