北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和6年 1月の俳句

     【睦月の俳句】

 

 ① 掌(てのひら)に 温もり残る 寒卵  

 ② 炬燵まで 届きし日差し 縁の先

    ③   空白む 田圃スケート 子らの声

            《冬の思い出・幼少編》

 

 令和6年(甲辰きのえ・たつ)を迎えた年始は、大変な出来事の連続で幕開けした。地域の皆さんと新年の挨拶を交わした後、氏神様や菩提寺などを歩いて回り、年賀のご挨拶を兼ねて参拝してきた。風は強かったが比較的暖かな冬晴れの下、写真撮影をしながらだったので、昼近くまでかかった。帰宅後、元旦の大仕事が終わった安堵感から、お神酒をいただいたら寝てしまった。午後4時頃、激しい揺れで起こされると、能登半島で最大震度7の大地震が発生していた。佐久地方でも震度4を記録した。だが、情報収集しようとする意欲が湧いてこなかった。
 翌2日、怠け心が出てきて、You-Tubeを視聴しながら、布団にくるまって寝ることになってしまった。夕方、日本航空の旅客機(379名)と海上保安庁の航空機(6名)が、羽田空港C滑走路で衝突炎上したという緊急ニュースが飛び込んできた。だが、この時も、ぼんやり頭で情報収集するのが面倒となり、いつしか眠ってしまった。
 そして、3日、信濃毎日新聞朝刊を見て、すっかり目が覚めた。能登半島の寒空の下で被災された方々の落胆と苦悩を慮ると、気の毒でならなかった。その被害の甚大さにも胸が傷んだ。さらに、亡くなられた海上保安庁職員5名の方々も、被災地への物資輸送任務前だったということを知り、その無念さを思った。日航機の乗客と乗員全員が、燃え盛る炎を避けて、脱出シェルターで無事退避できたことは、せめてもの救いの話題であり、快挙に感動した。
 私の惰眠の間に、大惨事が起きていたことは、忘れ得ぬこととなった。改めて、地震や事故で亡くなられた方々のご冥福を祈ります。復興にも協力していきたいです。
 さて、睦月の俳句は「新年」をテーマにと思っていましたが、年の瀬に、冬の季語を選んでいたら、そこから連想する幼少期の冬の思い出の光景がいくつか浮かんできたので、それらを俳句にしてみようと考えました。


 【俳句-①】は、産みたてのまだ暖かさが残る鶏卵を、掌(手の平)で包んだ時の感触を詠んだものです。鶏卵は未受精卵ですが、白い殻の中に命の温もりがあるような錯覚を覚えます。やがて外気の寒さから、生暖かさは失われていってしまいます。
 現在は、産みたての鶏卵を直接手にする機会は、私にもありませんが、子どもの頃の思い出があります。だが、少し複雑で、ローカルな背景があるので、補足説明してみようと思います。
 昭和30年代の一時期だが、農家で育てた鶏卵を農協に出荷して、祖母らは小遣い稼ぎをしていた。俗に言う「卵貯金」である。
 幼児の私は、農協へ祖母に連れられて行き、竹籠に入れて持って行った出荷前に割れてしまった卵(寒卵)を、「もったいないから」と、祖母から促されて吸い込むようにして飲んだことがあった。当たり前だが、産みたてのそれと違い、殻の割れた卵は、冷たく一部が滲み出ていた。脳裏に残っている寒卵の温もりとは逆の、よけい冷たさを感じた。それぞれの時の掌の光景が思い出され、その様を詠んだ。季語は、寒卵で冬である。

 「寒卵」は、特に寒い「寒中」に生み出された鶏卵のことで、特別に栄養豊富なので「生」で食べるのが良いとされる。現代でも、比較的安価で滋養のある鶏卵は人気だが、昔は貴重な存在で、経済的にも高価であったし、卵を持って病気見舞いに行くこともあった。そんな時代の話である。


 そう言えば、【写真-下・大草原の小さな家】のローラの母親、キャロラインも、手提げ籠に鶏卵を入れて街の雑貨店に売りに行き、卵を買い取ってもらった代金で布地や砂糖、雑貨などを買い求めてくる場面があったなあ。

大草原の小さな家

1974年から8年間米国で放送されたTVドラマ「大草原の小さな家」;ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝を基にした実写ドラマ「Little House on the Prairie」は、開拓精神や家族愛、敬虔な宗教心、実直な米国人の琴線に触れて大人気となった。日本でも翌年(昭和50年)からNHKで毎週放送された。再放送もあった人気番組である。

 

 現代のように透明軟プラ容器に入ってスーパーで売られている鶏卵は割れないが、籠に入れて持ち運びすると、殻が割れないまでも、ひびが入ることがある。だから、鶏卵の運搬は丁寧にしなければいけないし、卵の殻が丈夫になるようにと、シジミ貝を細かく砕いて鶏の餌に混ぜて与えたこともあった。
 しかし、殻にひびが入れば、商品価値は無いので、当然はじかれる。当時は、貴重な卵なので、それを捨てるということは在り得ず、祖母は、滋養のある生卵を、かわいい孫に飲ませた。古き良き時代の感覚である。
 幼かった私は、何をどのように理解していたか不明だが、産みたての温かった卵が割れてしまうと、今度は逆に、掌の中では冷たい殻ごと温めてから口にしなければならないことを体験した。そして、掌の中の生卵を、すすった感触を今でも覚えている。
 
 祖母が、少し欲を出して、一羽ずつ鶏を入れて飼育できるゲージを買ってきた。それまでの飼育小屋の中で放し飼いにした状態より、卵の収穫管理が楽にできる。ただ、そんな装置で本格的に飼育しようとしたら、世の中の市場流通体制が変わり、農協での買取は無くなってしまった。

         *   *   *

 俳句の解説は以上ですが、若い世代では、鶏(ニワトリ)を飼った経験など無いと思うので、鶏談義をもう少し続けてみよう。

輸卵管の中で卵が大きくなってくる

 昨今は、動物愛護の精神から、闘犬や闘鶏など見かけないが、鶏はなかなかの格闘家と言うより、いじめっ子である。飼育小屋で放し飼いにしておくと、必ず、1~2羽の鶏が他の鶏に嘴でつつかれて羽毛が無くなり、血だらけになる。良く観察すると、いじめの中心となる鶏もいるが、複数による「リンチ」である。何かのストレスを解消する手段なのかとも思う半面、雌鳥だけで飼っているので、順位付けの本能なのかとも思った。いずれにしろ、醜い姿だ。私は良く、いじめた鶏に仕返しをしてやった。
 時には、いじめられ丸裸になった鶏が弱ってしまったり、老齢で卵が産めなくなったりして場合、廃鶏されることがありました。


 祖父が、小屋に入っただけで、けたたましく泣き叫び、逃げ回ります。屠殺されることを察知するのでしょうか。鶏は、捕らえられた後でも、断末魔の悲鳴を上げました。首を包丁で落とされて、叫び声は聞こえなくなるのです。
 次に鶏の足を荒縄で縛り、梅の木(我が家の庭にあった)に吊るして首から血抜きをします。バケツで受けます。かなりな量になりましたが、使われなかった部位と共に畑に捨てていました。
 その次に、バケツの熱湯に浸けて羽毛を剥ぎ取ります。(この辺の姿になると、スーパーで売られている皮付鳥肉のイメージに近づきます。)
 ただし、【写真・輸卵管の中で卵が大きくなってくる】の光景は、見たことがないでしょう。動物(鳥)には春や秋を繁殖期とするものがいますが、鶏は一年中卵を生むことができるので、毎日でも卵を産むことができます。時々、休卵する日はありますが、一日で2回産卵したのを見たこともあります。だから、輸卵管の中には、数日先に産み落とされる卵の原型が入っていて、少しずつ生長していく様子が見られます。これを最初に目撃したのは、小学校の低学年の頃でしたが、驚き不思議に思いました。 
 今では、私自身も、パッケージされた鶏卵や鳥皮、軟骨・鶏肉を買い求めて、調理するだけです。他の臓器を見る機会もないし、ましてや、断末魔の叫び声を聞くこともありません。しかし、生卵や鶏肉の正体を実際に見たことのある経験は、ぜひ、若い世代にも伝えたいと思っています。

 

 【俳句-②】は、冬至には日影(日差し)が炬燵布団まで届いていたのに、いつの間にか日中でも縁側の端に当たるほどとなり、季節が進んだと実感したことを詠んだ。季語は「炬燵(こたつ)」で、冬ですが、俳句の内容からは春の日が近づくことへの喜びの詠嘆で、「春近し」と同義語のようなものです。

四畳半の掘り炬燵に家族6人

 上述の文字通りの解釈ならば、何も幼少期の思い出と言わず、今でも良い訳ですが、これには少し背景を説明する必要があります。
 私が子どもの頃、【イラスト】のように、我が家は三世代六人家族でした。ただし、炬燵に座る家族とは、決定的に違う点が、2つあります。
 ひとつは、家族の座る位置です。
我が家の構造から上座は西側で、ここに祖父が座りました。横座は北と南方向で、北に父、南に祖母と私、特に名前はありませんでしたが、台所に近い東側に母と妹が座りました。6人が4方向に座るのに、正方形の炬燵板の幅は同じなので、身体の小さい女性と子どもがコンビになるのには合理性がありますが、基本的に座る位置が決まっていたのが、昔からの、そして当時の常識でした。

 ふたつ目が、重要です。現在、我が家は「離れ」も含め、数字だけ聞くと16部屋ある大邸宅ですが、当時は、二階が養蚕用の大広間だったので、区切られた部屋は10部屋しかありませんでした。ところが、家族で一番多く使う居間が、一番狭い四畳半でした。夏場は開放して広くなりますが、冬場はこの狭い空間で家族6人が肩を寄せ合って寒さをしのいでいました。石油ストーブも設置していない時代なので、省エネという観点より、これが合理的だったのだと思います。


 定期的にやって来た叔父が、自分が加わると、あまりの窮屈さと我が家の窮状に鑑み、「座って足が伸ばせる広々とした炬燵」を設置してくれることを提案しました。夏に我が家へ資材・材料を持って訪れ、大きな掘り炬燵を作ってくれました。
 そんな経緯があって、冬季には我が家の居間は、西隣の12.5畳の仏間に移りました。これなら、肩を寄せ合わなくても座れるし、足も伸ばせて温かいのですが、寧ろ背中は冷たいです。父は、慌てて大型石油ストーブを購入してきました。しかし、暖気は天井に昇ってしまうので、やはり背中と腰は冷たく感じました。
 さて、俳句の話題に戻ると、12.5畳の居間には、廊下(縁側)と障子を挟みますが、冬の太陽光が差し込みました。日差しは、人工的な火種や石油ストーブからの物理的熱量を超えて、暖かさを伝えてくれました。太陽光は、身体だけでなく、心への赤外線を与えてくれているようでした。

                              *

 もう少し、古い民家(農家)の構造について話題にすると、現在のような玄関はありません。南側に面した縁側のどこからでも、訪問者が声を掛ければ、そこが玄関です。もっとも、家族が出入りする場所は、勝手口に近い方に決まっています。また、注意深く見れば、玄関の上り框(あがりかまち)となる敷石などがあるので、来客は、そこが玄関だとわかりました。
 その後、我が家は建物全体は大きく変わりませんが、内部の部屋割りや内装工事をして、現在に通ずる正式な玄関もできました。
 俳句に詠んだ当時の居間(12.5畳)は、押し入れ部分ができたので10.0畳となり、神棚と仏壇のある、普段は誰もいない空間となっています。相変わらず、日当たりの良い場所です。

 

 

 【俳句-③】は、具体的な活動の様子は、受け手の想像力にお任せしますが、冬の佐久平に臨時に作られた田圃スケートリンクで、まだ日の出前にスケートを滑っていることは、わかると思います。季語は「(田圃)スケート」で、冬です。

私が履いた「下駄スケート」より、少し古いタイプ

 

 佐久地方は、年間降水量も少ないですが、冬季の積雪量も少なく、天然の湖が凍結するので、昔からスケート競技が盛んでした。
 規模の大きなスケート大会は、松原湖(猪名湖・大月湖など湖沼群の総称)に代表される天然氷の湖で開催されましたが、子どもが練習で滑るのは近くの水田に水を引き、凍結させた田圃スケート場でした。
 私は保育園の頃から下駄スケートで滑り始めました。最初は、父らが履いた【写真】のような全体が鉄板タイプです。次に、刃の上にパイプが付いたタイプで、小学1年生の冬に1年間履きました。
 下駄スケートは、靴下を履いた後、足袋(たび)を履いて、鼻緒に入れます。それから、通称「真田紐」と呼ばれる丈夫な木綿製の平たいテープ状の紐で、足の甲や踵(かかと)を、それなりの方法で固定します。きつく縛ると足が痛いし、緩いと転倒した時の捻挫の原因にもなります。寒さで手がこごえるので、小さな子どもには、なかなか難しい技です。


 小学2年生の冬に、クラスで2番目に靴スケートを履きました。小学3年生になると、クラスのほとんど全員が靴スケートになりました。昭和30年代という時代は、1年違うだけで物量や内容が、大きく様変わりしました。このスケートに関する話題だけでも、世の中の移り変わりの激しさがわかります。
 田圃スケートの辛さは、寒さより朝の暗さです。一年中で日の出が一番遅いのは、1月7日頃で、佐久地方では日の出が東の山塊に遮られるので、7時を10分ほど回らないと太陽は昇りません。自宅で簡単な食事をして、田圃に歩いて移動し、難しい下駄スケートの準備をするのは、暗い中でします。
 そして、寒ければ寒いだけ、晴れる佐久の空が白み出す頃、子どもらは氷上に立つのです。俳句では、ちょうどこんな情景を表現したいと思いました。

佐久地方最後の「田圃スケート」(平成27年冬)

 ところで、学校が休みの日には、昼近くまで滑っていると、氷が緩んで割れる
ことがあります。割れないまでも、氷にひびが入ったり、穴が開いて水が噴き出
したりします。これも、思い出の光景です。ただ、田圃は水深が浅いので、安心
して滑ることができたことも事実でした。悲しい出来事なので、詳しくは語りま
せんが、天然氷が割れてスケート事故があったことは、生涯忘れ得ぬ辛い教訓に
もなりました。ちなみに、【写真】は、縁あって私が最後に勤務した小学校で写
した記録です。多分、「田圃スケート場の歴史」では最終記録になったと思いま
す。暖冬の続く今では、二度と再現されないと思うからです。

 

【編集後記】

 年始めの「ぐーたら」からは、信濃毎日新聞・1月3日朝刊で蘇り、能登半島地震の被害状況や地震発生に関する科学的情報などを集めています。
 地震で亡くなられた方が、日毎に増えて行く中で、ご高齢の方が奇跡的に助かった話題は、感動しました。反対に、故郷の正月に帰省し幸せ進行中の方々の突然の不幸を見聞きすると、他人事とは思えず、涙ぐみました。

 

 私は、大学で地質学を専攻したので、地震には興味・関心が高いです。先日は、地震後の海岸線隆起の話題を、新聞記事から切り抜きました。能登半島の北側が隆起しました。

 少し専門的には、逆(衝上)断層の動きによる地殻変動でしたが、短時間で顕著な動きをしました。その結果、かつての漁港の海底が隆起し、小型船でも移動できないほどの浅瀬になってしまいました。


 ・・・これらの記事を見ていて、思い出した光景があります。
 私は、北海道で学生時代を過ごしましたが、信州へ帰省する折り、東北地方の様々な鉄道路線を、意図的に利用しました。昭和49年の冬、青森駅からは羽越本線を使って日本海側を進み、直江津駅信越本線に乗り換えるルートを選んだことがありました。
 夕暮れ近く、車窓から砂の平坦地が見え、停車した駅名が、「象潟」と知り、驚きました。

 あの有名な『象潟や鶴に身を借れ時鳥(ほととぎす)』(松尾芭蕉奥の細道)の象潟なのです。その瞬間は、驚きだけでしたが、後日、調べて見ると、江戸時代の文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時ごろ)に、地震が発生し、その後で隆起した地形だと知りました。松尾芭蕉が紀行した地震前には、日本三景のひとつ「松島」にも匹敵する美しさと噂されたそうですが、今回の能登半島地震の後の豹変ぶりに似ています。(ちなみに現在は、稲作ができる状況です。)

 今度の能登半島地震については、プレート沈み込みに伴い地下まで供給された海水の影響が取りざたされていますが、そもそも、新第三紀を通じて日本列島が大陸から離れ、日本海が誕生したメカニズムを思う時、地殻は、かなりいくつかのブロックに割れていたのかもしれません。
 いくつかのプレートの境目にある能登半島を含む、日本列島本州の地下深部である。更に細かなプレート細部の情報も調べてみました。

 

輪島市・鹿磯漁港の防潮堤

 ◆追記ː
 令和6年1月18日に、前山みゆき会の睦月(1月)句会が行なわれましたが、私の修正前の第①句『出荷前 寒卵割れ 手の平に』は、先輩諸氏から集中砲火が浴びせられました。
 趣旨は、詠み手本人だけが了解している表現は駄目で、仮に、それらを説明したとしても、シャッター・チャンスのようにして印象場面を切り取ってこそ俳句の真髄と言えるというものです。指摘に対しては同感で、帰宅後に修正しました。
 会員の中には、『能登地震(ない)・・・』と、地震災害の悲惨さを憂い、地形の大きく変貌した驚異を俳句にした人がいました。
【写真-上】の地殻変動(隆起)が、主要動の伝わる数10秒間という地学的には瞬時とも言える短時間に、一気に生じたと推定されています。はたして、この地下の様子は、どうなっていたのかと思うと、学術的な興味は湧いてきますが、同時に脅威そのものです。(おとんとろ)