北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-125

第Ⅵ章 雨川水系の沢

 平成15年度、地学委員会では、調査域を内山川水系から、田口峠を越えた広川原や、尾根の南側の雨川水系へと広げました。(次頁:【雨川水系の主な沢の位置と名称】を参照。)
 示した名称は、林務関係者が使用した森林地図(原図は大正時代)に記されていたもので、沢の名称というより、場合によっては尾根筋に付けられたものや、使用目的であった森林区分を示す名称が多く載っていました。ですから、私たちが知りたい沢の名称が記載されていない場合も多くありました。例えば、以下のような状況です。

 

(ア)雨川砂防ダム湖の「不老温泉(鉱泉)」に、湖月荘(当時の佐久町の公営宿泊施設)ができました。その西側の一帯は『うりう』と呼ばれ、小さな尾根を境に、東側から  「東うりう」・「中うりう」・「西うりう」と、森林区分で呼ばれています。
  また、「荷通り」も沢の名称ではなく、周囲の尾根に囲まれた沢の一帯が、この名称で呼ばれ、場所は、枝番を使って区分しています。

(イ)現在、林道「東山線」は、尾根を経て雨川水系と内山川水系が繋がっていますが、古くは「大沼林道」と記載されていました。

(ウ)「西武道」と「東武道」は、尾根で東西に区分されていて、尾根と沢を含む一帯の名称です。沢がその中心にあるので、私たちのフィールド・ネームでは、沢の名称として採用することにしました。(ただし、地図では「東武道」を流れている沢は、西武道沢川と記されていました。雨川との合流点の橋が、西武道橋なので記載の間違いではなさそうです。そして、ひとつ上流の橋は東武道橋です。)

 

 以上のような事情がありますが、私たちは沢の名称の方が都合が良いので、森林区分に付けられた場合でも、沢を「土地の名前+沢」として、呼ぶことにしました。
 また、調査した順番にできるだけ忠実に、紹介していきたいと思います。

 

 広川原方面・馬坂川支流(6/8 2003)・小唐沢~つめた沢~大唐沢(7/6 2003)・中原倉沢~ヌカリ久保沢(8/11 2003)・西武道沢(9/6 2003)・林道東山線(10/19 2003)・阿ざみ沢~片原沢(10/18 2003)・小屋たけ沢~程久保沢(8/7 2004)の順番です。
 そして、『滝ヶ沢林道・地獄沢(6/5 2004)・仙ヶ沢~判行沢(8/11 2004)・不老沢(2004)』の雨川水系の南西側の沢は、まとめて別項にします。

 

 

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雨川水系の沢の名称

 

1. 広川原・馬坂川の支流の調査から

 内山川本流と北側の支流の調査を終えた平成15年度の最初の調査は、田口峠を下った広川原で西から合流する馬坂川の支流に入りました。(下図、ルートマップを参照)

 

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馬坂川の支流の沢、ルート・マップ

 

 県道93号線(田口峠から広河原や狭岩集落を経て、群馬県に抜ける)の橋から支流に沿って、かつての生活道路があり、堰堤から沢に入った。「昭和51年、谷止工事・コンクリート広川原№1長野県林務部」とある。(【図-①】)
 凝灰質な火山砂をマトリックス(基質)にして、玄武岩質岩塊や黒色の結晶質砂岩の礫を含む凝灰角礫岩からなる層が見られました。山中地域白亜系の調査(平成4~8年度)で、白井層に影響を与えたと推定する「新三郎沢層(先白亜系、ジュラ系か?)」に類似しているとの感触を得ました。

 標高775m付近(【図-②】)では、軽石が含まれた粗粒砂岩~礫岩層がありました。そして、標高785m付近(【図-③】)では、再び凝灰角礫岩層が見られました。
 標高795mには「昭和40年コンクリート谷止工事」の堰堤(【図-④】)があり、直下は、緑色を帯びた灰色の結晶質砂岩の滑滝となっていました。一帯は、続成作用で変質したと考えられ緑色を帯びた結晶質砂岩層でした。緑色岩など、火山性堆積物の存在は、新三郎沢層の下部層を想起します。

 続く標高800m付近(【図-⑤】)でも、薄紫色(細粒黒雲母の変質)や、黒色、灰色の結晶質砂岩層が見られました。岩相から、先白亜系であることは確かなようです。

 北から小沢の合流する標高810m付近(【図-⑥】)では、珪質の灰色砂岩層が見られ、N20°W・60~70°Wの走向・傾斜を測定しました。
 標高830m付近(【図-⑦】)では、玢岩(porphyrite)が見られ、少し上流の川底では、暗灰色の結晶質砂岩層と接していました。わずか上流の左岸には、小さな祠(ほこら)がありました。

 南からの沢と北西からの沢の合流する標高840m付近(【図-⑧】)では、川幅が広がり、玢岩の岩脈が頻繁に見られました。標高880m付近(【図-⑨】)までは、玢岩岩脈だけでしたが、再び図-⑥と同様に、基盤岩の暗灰色結晶質砂岩と接する露頭が観察できました。

 そして、標高910m二股です。右股の標高920~930mに、緑色を帯びた暗灰色の粗粒砂岩層があり、断層粘土と思われる露頭が認められました。(【図-⑩】)

 戻って左股に入ります。標高950m付近(【図-⑪】)に、緑色を帯びた凝灰角礫岩でできた滝(落差5m)がありました。滝の下と滝の左岸は、玢岩で、この滝を境に断層が推定されます。断層面は、N20°W・70~80°Eでした。大滝は両岸とも登ることができず、滝の上流への調査は断念し、引き返しました。

 右股の標高970m付近から、暗灰色粗粒砂岩層が現れ始め、これらが造瀑層となって小さな滑滝を形成しています。標高1010m付近(【図-⑫】)で、粗粒砂岩層の走向・傾斜は、N10°W・70~80°Wでした。

 これら大滝と推定断層の上流側(層位的には上位)は、断層を挟んでいますが、走向・傾斜はほとんど同じです。ただし、岩相は違い、緑色岩や緑色を帯びた凝灰質の傾向はありません。兜岩層だと考えています。

 

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田口峠から群馬県側(東)を臨む・・狭岩へは峠を南東に下っていく

 

【 閑 話 】 広川原の思い出

 標高差で田口峠から300m以上も下った広川原は、分水嶺を越えて群馬県側になりますが、なぜか、佐久市(旧・南佐久郡臼田町)に属しています。

 佐久の民話に、『昔、田口と下仁田の殿様が、日の出から双方で城を出発して出会った所を国境にするという約束をしました。田口の殿様は、馬でなく牛に乗って出かけるので、夜明け前に城を立ちました。ところが、田口峠を越えた広川原の狭岩(せばいわ)で、下仁田の殿様と出会い、そこが国境となりました。』という趣旨の話があります。

 佐久市との南の境は熊倉川ですが、東の境は馬坂川の狭まった辺りで、群馬県甘楽郡南牧(なんもく)村と接しています。

 調査年度(平成15年)、杉林の手入れをしていた老人の話では、『現在、私たち夫婦を含め、4世帯5人で、若い人は群馬県側に出てしまい誰もいない』ということでしたが、かつては、田口小学校「広川原分校」がありました。

 私が野沢中学校1年生(昭和41年)の夏休み、この分校で一泊二日のキャンプをしました。所属していた理科クラブ(現在の専門部活動)の顧問(故)小林茂男先生のご指導の下、狭岩にある「地下湖」の水質調査の為のサンプリングをしました。神秘的で巨大な地下洞窟や地下湖、特に、抜け穴の細い岩盤の「ほふく前進」は強く印象に残っています。
 翌年の夏休み、理科クラブを止めて、バスケットボールクラブに移りましたが、級友と自転車で再び訪れました。片道でも優に25km、自動車でも1時間以上かかる山道の、しかも往復、よくもまあ自転車で移動したかと思うと、今では感心してしまいます。

 

 【編集後記】

  広川原のことを、もう一度思い出す機会は、令和元年(2019年)10月11日(金)~12日(土)に佐久地方を含めて、日本各地を襲った台風19号でした。

 下の長野県内各地の10月の降水量は、ほぼ2日間に渡る台風による雨です。

 長野・群馬県境が特に多いことがわかります。ちなみに、10月12日の24時間雨量は、北相木395.5mm、佐久市303.5mmでした。

 この台風による洪水被害は、長野市の「新幹線車両基地の浸水」や「千曲川堤防の決壊」などが、全国に大きく報道されました。佐久地方でも、千曲川の主に東側から流れ込む支流が溢れ、床上浸水や堤防の決壊などの被害が多く発生しました。

 ところで、広川原集落は、佐久市に所属しますが、地形的には湿った大気が秩父山系や県境の山にぶつかって上昇し、激しい雨雲となる条件を備えた場所に当たります。

 正式な気象データはありませんが、北相木や佐久市の東部地域よりも、もっと多くの降水量だったことが予想されます。数名が暮らす集落からは、田口峠を越えて長野県側(佐久市臼田)へも移動できず、反対に群馬県下仁田側にも下れません。まさに、陸の孤島として、高齢者ばかりが取り残されました。台風通過後、ヘリコプターが出動して、佐久市側に救出されたニュースが流れました。 

 

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令和元年(2019年)10月の長野県内各地の降水量

 令和元年の10月の俳句会へ、

『秋出水 案ずる行方 難無きと』という句を出しました。

 私の住まいは、同じ佐久市内でも西山の際で、やや高台にあるので、降った雨は、そのまま低い佐久平に流れて行ってしまいます。だから、どうしても、高見の見物のように聞こえてしまいそうですが、この日は、『これだけ降れば、下流域では大きな被害になるだろうな』と予感し、流れていく水の行方がとても気に掛かりました。そして、案の定という災害となってしまいました。

 流行時期には、やや遅れてしまいましたが、新書ベストセラー「人新世の『資本論』(斉藤幸平氏)」の本を、最近読み返しました。筆者の述べたい趣旨は、最後半の、人々の意識が変わり、政治・経済体制が改善されないと、例えば、二酸化炭素の削減をめざしたとしても、根本的解決には繋がらないということの意味も、多少なりとも理解できるようになりました。

 そんな目線で、『米国ユナイティド航空が、現行のジャット旅客機の2倍の速度が出せる超音速旅客機(Overture)を購入する』と発表したニュース(6/5)を見ると、そんな必要ないよ!と感じます。この計画には、日本航空も投資していると言います。

 海外など、私の場合は、滅多に行かないですが、渡航に半年もかかるようでは困るけれど、一日二日で行ければ、それで十分ではないかと思う。長野新幹線は、東京まで行くのに大変有り難いが、リニア新幹線まで・・・必要なの?と思う。

 物欲を離れて、悟りを開いた人間では決してないが、自分の幼少期と比べ、もう十分に物については幸せ過ぎるからいいです、満足していますという心境です。それだけ、老人になったのかな・・。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-124

4. 牛馬沢の調査から

 当時まだ営業していた「ドライブイン草笛」さんに駐車させてもらい、北側の遊歩道を下って、牛馬沢の標高915m付近(【図-①】)から、調査を始めました。いくぶん青味を帯びた暗灰色の粗粒砂岩層がありました。凝灰質で、風化すると黄土色に変色し、滑滝を造るタイプの粗粒砂岩層です。
 標高918m、南東からの小さな沢の流入する付近(【図-②】)では、暗灰色粗粒砂岩
層が滑滝を形成していました。砂相が圧倒的に優勢ですが、わずかに黒色頁岩層を挟み、繰り返すこの境を周期に、水流が浸食して凹地(窪地)を作ります。

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内山川上流部・牛馬沢のルート・マップ

 これから観察していく上流側でも、同様な窪地群ができていました。【写真-下】
全体の岩相は大きく変わらないものの、沢水の浸食に差ができて、沢底がやや深くなって小さな淵ができます。

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ヒキガエルが一匹ずつ棲息する窪地

 その窪地群に、なぜかヒキガエルが一匹ずついるのです。最初は「あっ、いるな」ぐらいの認識でしたが、あまりに発見の偶然が重なるので、最後はヒキガエルが居ないと捜しました。きっと、窪地群ぐらいの規模の水域の広さが、「なわばり」なのかなと思いました。

 粗粒砂岩層の走向・傾斜は、黒色頁岩層との境で、N30°W・30°SWでした。
 ここから標高935m付近まで、同様な粗粒砂岩層の滑滝が続き、わずかに、黒色頁岩層が挟まります。そして、ヒキガエルを見つけました。

 標高920m付近(【図-③】)では、粗粒砂岩層の中に黒色頁岩片や同質の塊が取り込まれていました。【写真-下】粗粒砂岩の茶色がかった色は、風化色です。最大なものは、80×100cmほどでした。ちぎれたような不規則な岩片もあります。ここでは、N70°W・30°NEと、北落ちになっていました。

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黒色頁岩片の塊が入る

 標高935m付近(【図-④】)では、いくぶん黒色頁岩層が多くなり、砂優勢ですが粗粒砂岩層と互層していました。N60°W・20~30°NEと、ここでも北落ち傾向でした。
 少し上流で、目視できる互層部の小褶曲が見られたので、同質の層準が褶曲しているのかもしれません。

 標高940m付近(【図-⑤】)では、凝灰質のいくぶん青味を帯びた暗灰色粗粒砂岩層が見られました。走向・傾斜は測定できませんでしたが、傾斜が水流と逆(北落ち傾向)なので、落差2mほどの小滝を形成しています。

 小さな枝沢を登り、最初の二股(【図-⑥】)でも、同質の粗粒砂岩層が見られました。ここは、民有地で牧場となっていて、露頭はありませんでした。【図-⑦】には、牧場の牧舎などの施設がありました。

 同じルートで沢に戻り、2番目の小さな沢との合流点(【図-⑧】)付近でも、同質の粗粒砂岩層があり、落差1.2mの滝ができていました。
 合流点の上流15m、標高950m付近の右岸(【図-⑨】)では、黒色頁岩層が見られるようになり、粗粒砂岩層との互層が見られました。N30°E・30°NWでした。

 標高955m付近(【図-⑩】)では、小さな黒色頁岩片を含む灰色粗粒砂岩層が見られました。構成粒子の砂と黒色頁岩片が「ゴマシオ」のように見えるので、そう呼びましたが、凝灰質ではなくなっていました。そして、標高960m付近(【図-⑪】)では、黒色頁岩の塊や不規則な岩片が入る粗粒砂岩層が見られました。前述の【図-③】の産状に類似していました。

 東から小さな沢と合流する標高965m付近(【図-⑫】)では、大きな安山岩の転石が親子の熊のように見え、「熊石」などと名付けました。

 標高970m(【図-⑬】)では、黒色頁岩層が見られました。やや崩れやすくなっていましたが、N30°E・50°NWの測定値を得ました。
 標高975m付近(【図-⑭】)では、同質の黒色頁岩層ですが、激しく崩れていました。東からの小さな沢の合流点で、蛇紋岩や白チャートの転石があり、疑問に思いました。(道路も近いので、人為的なものであるかもしれません。)

 

      《内山層の基底礫岩層群》

 標高980m(東からの小さな沢)から985m付近(【図-⑮】)では、内山層の基底礫岩層が見られました。沢の流路から見て、層準的には上位から観察していきます。
 最初は、わずかに黒色頁岩層を挟む礫岩層で、最大20×15cm(白チャート礫)の巨大な礫を含みます。礫種は、白~灰色チャート、黒色粘板岩の岩片、結晶質砂岩です。
 次に、白色チャートの層状や塊状礫を集めた礫岩層、最大50×60cm(塊状の白色チャート)です。非常に巨大な岩塊と言っていいです。
 そして、チャート礫・黒色粘板岩礫・砂岩礫の礫岩層があり、その下が、粗粒砂岩層でした。・・・・地層の堆積した順番は、以上述べてきた順番を逆にしたものです。
 この傾向は、内山川本流で見られた基底礫岩層群の特徴と同じでした。すなわち、不整合で良く観察される「基底礫岩層」と言われる礫岩層の堆積に先立ち、まず、粗粒砂岩層が堆積しています。次に、基底礫岩層、そして、巨大な岩塊を含む礫岩層の順番です。この露頭が、佐久側で見られる内山層の基底礫岩層の最も東側になります。
(但し、巨大な岩塊を含む礫岩層は、堆積盆の端と思われ、全域で見られるわけではありません。)

              *   *   *

 

 このすぐ上流(牛馬橋まで目測で150m)(【図-⑯】)で、明らかに内山層のものではない礫岩層が見られました。礫種は、軽石(1cm×3cmの押しつぶされている)や黒色頁岩片、砂岩片で、稀にチャート礫が含まれます。全体は極めて凝灰質で、ハンマーで叩くと鈍い音がします。層厚20cmほどの凝灰岩層も見られました。水分を含むと青味を帯びた灰色で、断層粘土のようにも見えました。兜岩層の礫岩層です。

 標高990m・南東からの沢の合流点(【図-⑰】)では、巨大な礫岩の転石がありました。言わば、拳大の礫が固まった集塊岩のような形態です。
 牛馬橋の上、標高995~1000m付近(【図-⑱】)では、広く礫岩層が分布していました。礫種は、安山岩・ガラス質安山岩(黒色)・結晶質砂岩・粗粒砂岩で、最大径15cmほどあります。これらの礫岩層は、内山層を覆う「兜岩層」と考えられます。

5. 根津古沢の調査から

 

【編集後記】

 この後、北部域の沢『5 根津古沢(ねづこさわ)・俗称「ねっこさわ」』の原稿がくることになっていますが、未完成です。

 調査は、平成11年度(1999年)に委員会で、東隣りの「モモロ沢」と共に行いましたが、入口付近からわずかでした。(六川資料)

 私自身は、二度、足を運んでいますが、いずれもちょっと立ち寄っただけです。

 根津古沢のルート・マップは、「地球科学45巻3号(1991年5月)P203~P216」の小坂共栄先生らの論文で見ているので、概要はわかりましたが、素人なので、自分で実際に見聞きしたデーターでないと良く説明できません。

 平成14年(2002年)11月3日に、小坂共栄先生・野村哲先生・地団研埼玉支部の皆さんと、車で入りました。そして、「内山断層が通過しているであろう」と推定できる場所の観察をしました。【写真―下】の砂防ダムの建設中でした。

 根津古沢の標高850mの二股から、直線距離で70mほど下流の、標高838m~840m付近です。左岸側を見ると、ほぼダム建設の箇所から下流側に幅30mほどの破砕帯があり、すなわち断層(内山断層)の証拠かと思われました。 

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砂防目的のダム工事中(2002年11月3日に撮影)

 ここを訪れた後、その後、正式に調べようと思いつつ、さらに定年退職後、何度も調査を口にしながらも、新たな地域が課題となって、そちらに出かけ、とうとう未実施です。(しかし気持ちだけは、再調査するつもりでいます。)

 ちなみに、内山断層は、初谷鉱泉から、この砂防ダムの下を経由し、尾滝沢、内堀沢~温泉の西側沢(フィールドネーム)付近まで追跡できました。また、完全ではありませんが、内山層の堆積後に生じた「南北性の断層で切られている」ことも確認しました。

 当時の地学委員会の仲間は、ほとんどが退職しているので、年一回ぐらい、「交流と調査感を維持する為に、フィールドに入ろう」などと話題にはするものの、なかなか腰が重くなってきています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-123

3. 初谷沢の調査から

 地質調査を進めていく上で、いくつかの波があります。仲間と一緒に入ることはあっても、単独で入ることは、あまり多くありません。しかし、平成14年の夏休みは、夢中になって単独調査にのめり込みました。


初谷沢の内山川との合流点付近(【図-①】)と沢の入り口付近(【図-②】)については、内山川本流(3/3)で説明しましたが、内山層の「基底礫岩層群」が分布しています。明灰色粗粒砂岩層(2m)の上に、礫岩層(5m以上)が、載っています。

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再掲載:【図-①】露頭

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再掲載:【図-②】露頭

 「大月層」と内山層の不整合は、『内山川本流(2/3)【図-⑮露頭』で確認できますが、断層で接しています。但し、目視できる2つの断層で、大月層の黒色粘板岩や中粒砂岩が破壊されて、内山層の礫岩層と接しています。
 また、南部域(後述)の、例えば腰越沢では、山中地域白亜系を巨礫を含む基底礫岩層が、不整合関係で接しています。
 基底礫岩層の下位に粗粒砂岩層が認められる産状は、北部域だけの特徴のようです。

              *  *  *

 沢の湾曲部(【図-③】)では、やや砂質ではあるが、黒色粘板岩(slate)が見られました。黒色頁岩層も見られ、境でN80°W・30°Sでした。 次の湾曲部(【図-④】)では、黒色粘板岩層(EW・40°S)が見られました。

 沢が南東に湾曲する付近(【図-⑤】)では、黒色粘板岩層、暗灰色粗粒砂岩層、礫岩層(50cm以下)の互層が見られ、層理面でN70°W・45°Sでした。一部、黒色粘板岩の上に載る粗粒砂岩層が整合しない所があり、目視できる小断層が認められました。

 標高860m~865m付近(【図-⑥】)では、安定して黒色粘板岩層(slate)が続きました。一部に砂質な黒色頁岩層も挟まれています。同質の岩相の為、走向・傾斜は測定できませんでしたが、全体状況からは、南傾斜40°ほどと推定できそうなので、泥相部分の層厚は、120mぐらいになります。結構な厚さです。

 東からの小さな沢の合流点付近(【図-⑦】)では、川底に礫の入る粗粒砂岩層が見られました。

 標高870m付近の沢の湾曲部分(【図-⑧】と【図-⑨】)では、再び黒色粘板岩層が見られました。走向は、N80°Eで、湾曲部の小さな崩れでは、一部で30°Sと緩くなる所もありましたが、40°S~50°S~65°Sと、傾斜が増し、南落ちでした。

             *  *  *

 標高875m二股から、東南東に延びる沢(右股沢)に入りました。入口から20mほどで、暗灰色細粒砂岩層がありました。その上流から、標高950m付近までは、黒色粘板岩層で、わずかに黒色頁岩層も挟まれていました。走向・傾斜は、EW・垂直~60°Sと、南落ちでした。走向は、沢の延びる方向とほぼ一致しているようです。

 (【図-⑪】)岩相と厚く連続した露頭は、本流の【図-⑥】に対応しそうです。

 

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初谷沢のルート・マップ

 同じ二股に戻ります。本流のすぐ上流では、黒色頁岩層(N80°W・50°S)でしたが、沢の湾曲部分(【図-⑫】)では、下流側から中粒砂岩層(N10°E・60°E)/崩れた部分/黒色頁岩層(N20°W・30°E)と、走向・傾斜が乱れています。そこで、北から流入する小さな沢を登って、道路露頭を確認してみることにしました。

 【図-⑬】付近では、北から流入する小さな沢の西側に、コンクリートの防護壁がありました。沢の川底は中粒砂岩層です。そして沢の東側の黒色頁岩層(N60°W・垂直)に対して、防護壁の西側の黒色頁岩層(N60°E・70°N)は、走向・傾斜が大きく乱れていました。【図-⑫】の崩れ部分は、道路露頭【図-⑬】と関連しているものと思われます。周囲が、比較的安定した走向・傾斜なので、断層の可能性が高いです。

 同じ沢を使って再び、本流に戻りました。
 合流点から上流部は、黒色頁岩層が続き、EW・65°Sと、走向・傾斜は元の傾向に戻っていました。(【図-⑭】)
 ところが、標高890mの沢の湾曲部(【図-⑮】)では、黒色頁岩層の中に、暗灰色中粒砂岩片が入っていて、N70°W・50°Nと、北落ちに変わりました。少し上流でも、黒色頁岩層(EW・40°N)は、同様な傾向でした。

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 共に東から小さな沢の流入する標高895~905m付近(【図-⑯】)では、黒色頁岩層が続き、EW・80°Nでした。

 標高910m付近では、黒色頁岩層(N80°W・80°N)があり、右岸側に、礫岩層がブロック状に貫入していました。内山層で話題にしてきたコングロ・ダイクに似た産状
です。幅5cm×長さ3mが、曲がりながら入っていました。(【図-⑰】)

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内山断層か? 【図-⑱】露頭

 標高915m付近(【図-⑱】)では、下流側から黒色頁岩層が続き、層厚40cmほどの礫岩層が見られました。その上に、熱変質による珪酸分の富化した泥岩層があり、石英斑岩(Quartz-Porphyry)(【図-⑲】)と接していました。

 礫岩層は、長さ1~2mの3ブロックが、上流側から長い敷石を並べたように分布していました。ちなみに、N50°W/N60°W/N20°Wの方向に蛇行するように配置されていました。
 また、礫は現世の川底の石かと見間違えるような印象を感じさせるもので、最大20×15×15cm3もありました。

 砂岩の礫が多く、珪質砂岩や火成岩(流紋岩や粗面岩など)の礫も認められました。
珪質化した泥岩と石英斑岩は、シャープであるので、断層で接しているのではないかと思われます。方向は、N50°E・30°NWと測定できました。
 石英斑岩の露頭(【図-⑲】)の上流側は確認してありません。

 

 《初谷沢の地質のついての解釈》

 初谷沢全体の情報から走向・傾斜だけを見ると、中流部の【図-⑭】と【図-⑮】の間に、背斜軸がある褶曲構造も考えられます。(そういう風に解釈した先人の資料もあります。)
 しかし、下流側は黒色粘板岩層で、上流側は黒色頁岩層で、変成程度は大きく違います。

 寧ろ、【図-⑫】と【図-⑬】付近で断層が推定されるので、褶曲構造(背斜)ではないと考えています。

         

 【編集後記】

 初谷鉱泉の少し下流で、『内山断層ではないか?』と思われる断層面を観察した時、

感動しました。

 しかし、大きな時代を画する割には地味な存在で、それにも驚きました。ただ、この露頭は、小坂共栄先生や野村哲先生らが、存在を証明してくれたものなので、きっと確かなんだろうなと、思いました。

 ところで、今日は、ニンニクの土寄せ(午前)と、ジャガイモの土寄せ(午後)と、鍬での農作業だったので、疲れた一日でした。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-122

2. 尾滝沢付近の調査から

(1)苦水(にがみず)の沢

 無名沢だと思われるが、沢の内山川本流への合流点付近の集落名から、沢の名前として呼んでいます。短い沢なので、平成14年8月12日(月)の午前で調査を終えました。
 最初の北から流入する沢との合流点(【図-①】)付近では、凝灰質灰白色粗粒砂岩層でした。(ここは、止山です。)
 2番目の北東から流入する沢との合流点(【図-②】)付近では、凝灰質灰白色粗粒砂岩層でした。ここも止山です。山に入る刈り込み道は尾根に延びていました。
 3番目の北から流入する沢との合流点(【図-③】)では、石英斑岩の貫入(岩枝)が認められました。4m×3mほどの分布でした。
 合流点から上流へ40m付近(【図-④】)では、熱変質した灰白色砂質泥岩層と灰色粗粒砂岩層で、層理面は、はっきりしていません。元は、黒色泥岩や暗灰色粗粒砂岩で、茶褐色~黄土色の風化色から凝灰質だと思われます。
 南東からの沢との合流点付近で伏流しました。標高865m付近(【図-⑤】)では、沢水が戻り、熱変質した灰白色の砂質泥岩が分布していました。節理面かと疑いましたが、層理面だろうと判断して、N40°E・20°NWでした。
 標高890m(【図-⑥】)付近では、灰色中粒~粗粒砂岩と灰白色砂質泥岩の互層でした。砂岩10cmと泥岩2cmの、約12cm単位の互層が繰り返し見られました。ここも、熱変質しているものと思われます。走向・傾斜は、EW・70~80°Nでした。
 標高920mまで詰めましたが、露頭のない伐採後の疎林となった所から引き返しました。里山としては、良く管理され、間伐後の植林などもきちんとしてされていました。

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シイタケ栽培用ホダ木に伐採したクヌギ


 

 【 閑 話 】

 思っていても管理できないのが、最近の里山の現状です。苦水の沢の止山のようにマツタケ山ではなくて、管理された雑木林は珍しいです。
 写真は、シイタケを自宅の北側の日陰で栽培したら、いつも新鮮なキノコが食べられると思い、我が家の先祖伝来の雑木林の一部を伐採し、シイタケ栽培用のコナラ材を切り出した光景です。

          
(2)尾滝沢(おたきざわ)

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尾滝沢と苦水の沢、ルート・マップ

 内山川本流と尾滝沢との合流点付近(【図-①】)では、小規模に礫岩層と暗灰色中粒砂岩層が見られました。岩相の特徴から「仙ケ滝」付近の内山層の基底礫岩層群と思われます。

 

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泥質メランジェ(尾滝沢に入ってすぐ見られる)

 合流点から尾滝沢に20mほど入った左岸では、風化して脆くなった中粒砂岩層と、剪断され崩れやすくなった砂岩層があり、断層の存在を示唆すると思われる鏡面(slicken side)が見られました。岩相から、こちらは大月層です。(【図-②】)
 東側からの小さな沢との合流点付近では、剪断された泥質メランジェからなる滑滝が形成されていました。こちらも大月層です。(【図-③】)

 西からの小さな沢の高い所(標高差30m)に露頭が見え、沢を登って確かめると礫岩層でした。(【図-④】)

沢との合流点左岸には、泥質メランジェ(sheared mudstone)が見られ、走向・傾斜は、N80°W・垂直~80°Sでした。 この上流側は、黒色粘板岩(slate)で、N80°W・50~60°Nでした。(【図-⑤】)

 標高825m付近の二股から下流3mでは、黒色粘板岩が主体で、わずかに灰色中粒砂岩層が挟まれていました。
N80°E・80°Nでした。支流の沢に入ってみると、同質の粘板岩層が続いていました。また、本流でも同質の黒色粘板岩層があり、連続しているものと思われます。
(【図-⑥】)

 標高830m付近では、石英斑岩(porphyrite)の貫入が6mほど見られました。その上流にも、同様な石英斑岩の貫入(露頭幅15mと10m)が認められました。(【図-⑦】)

 標高832m付近(【図-⑧】)では、沢の湾曲部にかけて黒色頁岩層や黒色粘板岩層が崩れていて、破砕帯ではないかと思いました。石英斑岩の岩枝も認められました。

 その上流では、石英斑岩の貫入(露頭幅15m)がありました。(【図-⑨】)
 そのわずか上流の左岸側で、泥質メランジェがあり(【図-⑩】)、20m上流の右岸側に礫岩層がありました。(【図-⑪】)このふたつの露頭は、大月層と駒込層の境になります。全体の地質構造を解釈する上で、重要な岩相の違いと、位置情報です。

 

 標高840m付近から、凝灰質の明灰色粗粒砂岩層と灰色中粒砂岩層が出始めました。明灰色粗粒砂岩層からなる滑滝があり、二次堆積を示す黒色頁岩片の入る中粒砂岩層もありました。また、滑滝の砂泥互層の部分では、
【下図・上】のような礫・砂・泥と構成粒度が変化する級化層理が認められました。上流側、すなわち、北側が上位となります。(【図-⑫】) 西からの小さな沢の流入地点(【図-⑬】)では、【下図・下】のような明灰色中粒砂岩層に挟まれた礫岩層が見られました。走向の方位はN60°Eと、わかりますが、傾斜が測定できません。しかし、礫岩層が途中で切れた砂岩層の欠落した部分を補うように堆積し、全体の層厚を修正しています。礫層の中で、比較的大きな礫の配列から、上流側、すなわち北側が上位であるとわかりました。ちょうど、走向・傾斜のデーターが得られない地域だったので、貴重な堆積構造露頭です。

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 標高845m付近の東から小さな沢の流入する地点(【図-⑭】)では、下流側から、黒色頁岩層/黒色頁岩片入り粗粒砂岩層/凝灰質明灰色粗粒砂岩層が見られました。走向・傾斜は、N20°W・30°SWと、南落ちです。

 そのすぐ上流の黒色頁岩層の中に、コングロ・ダイクがありました。
 黒色頁岩層は、N10°W・20°Wと、ほぼ南北走向ですが、コングロ・ダイクは、N85°W・80°Sと、東西に近い走向でした。見えている部分は、幅20cm×長さ3mです。特徴的に、チャート礫を含まないという岩相は、内山層のものに類似していましたが、内山層でない他の時代の地層にも見られるのは、少し驚きでした。
 標高858m付近から、凝灰質の明灰色粗粒砂岩層(15cm)が主体で、数cmの黒色頁岩層との互層が現れ始めました。N10°W・35°Wです。(【図-⑮】)この後も、連続露頭で、N10~20°W・20°Wと、安定した走行・傾斜が続きました。
 標高865m付近(【図-⑯】)からは、粗粒砂岩の中に軽石(pumice)が入るようになりました。標高880m付近(【図-⑰】)では、同質の粗粒砂岩層が造瀑層となる滑滝がありました。走向と岩相からみて、【図-⑯】とほぼ同層準を観察しているものと思われます。

 標高890m付近(【図-⑱】)では、層理面がわかりずらく塊状で、わずかに礫を含む粗粒砂岩層に、目視できる小規模な断層が見られました。断層は、N70°E・80°N傾向でした。
 標高890m二股を右股に入った標高900m付近(【図-⑲】)では、縞模様(stripe)
が見られ、軽石の入る粗粒砂岩層が見られ、N80°W・80°S~垂直でした。その上流では、黒色頁岩片の入る粗粒砂岩層が続きますが、走向・傾斜は乱れていました。

 北からの小沢が入る合流点から上流部、標高910~920m付近(【図-⑳】)では、下流側から、縞模様の粗粒砂岩層/礫岩層(10cm)を挟む同質の粗粒砂岩層/明灰色粗粒砂岩層/縞模様入り粗粒砂岩層/黒色頁岩片や、それらのの二次堆積と考えられる粗粒砂岩層の順番で観察できました。走向・傾斜は、N30°W・40°SWでした。

 標高950m付近(【図-○21】)では、軽石が入り凝灰質な明灰色粗粒砂岩層が見られました。軽石凝灰岩層としても良いかもしれません。割った新鮮な部分を見ると、青味を帯びた灰色で、緑色凝灰岩(green tuff)としも良いと思われました。これから先の上流は、駒込層が分布しているだろうと考え、下山することにしました。

 

 【 閑 話 】 大月層(初谷層)のお友達は?

 内山層基底礫岩層に続き、尾滝沢にわずか入ると、剪断された泥質メランジェと出会い、大月層の特異さに驚きます。この大月層(初谷層の方が多く使われているようですが、私たちは、大月層と呼ぶことが多かったので、以下、大月層)は、基本的に下部白亜系で、群馬県下仁田町などに分布する跡倉層(あとくら・そう)に対比しようという解釈があります。
 但し、跡倉層は、含有礫岩の年代測定証拠などから、異地性岩体(クリッペ・Klippe)であることが知られ、周囲の関連岩体と共に、「跡倉ナップ群」という扱い方・見方をされています。
【下図】のように中央構造線(MTL)の領家帯(A)側にあった跡倉層(K)は、元の位置から衝上断層を移動して三波川帯(B)の上に載ってしまいました。今の分布は、三波川帯に属します。 すると、現在、内山断層の南側にある大月層も、(内山断層=中央構造線相当なら)北側から乗り越えてきたのか・・・ということになります。

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K:跡倉ナップ群(跡倉層)の動きの説明図

一方、中央構造線の北側には、同じ下部白亜系の和泉層群が細長く分布していることが知られています。愛媛県松山市讃岐山脈~淡路島の諭鶴羽(ゆづるは)山地~和泉山脈までの最大幅15km×東西延長300kmに分布しています。主に海成層で、酸性凝灰岩を挟みます。泥岩からは化石が多く産出します。【下図】は、白亜紀後期を想定した西南日本の模式断面図で、和泉層群の堆積の様子が示されています。

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      《中央構造線の活動概要》
ジュラ紀末~白亜紀初め:大陸に対して北上する

 プレートの動きで、中央構造線 の原型となる横ずれ

 運動が生じた。
白亜紀中期:離れていた領家帯と三波川帯が接する

 ように動く。領家帯の一部は 衝上断層で、三波川帯に

 乗り上げ移動した。(古期中央構造線)
白亜紀後期:プレートの沈み込みで、左横ずれ断層と

 なり、北側では岩盤が破壊 され、和泉層群などが堆積

 した。(新期中央構造線)

             *   *   *   *

 もし、大月層が、かつて中央構造線の北側にあったのなら、和泉層群と同じ関係だとも解釈できます。どうなのでしょうか?
 大月層は、内山層基底礫岩層に接する内山川本流沿いや、根津古沢、モモロ沢、初谷沢でも観察されました。特に、初谷沢では、黒色頁岩や泥岩が多い。文献では、保存の悪いサンゴ・碗足類・二枚貝の化石を挙げているが、まだ、私たちは発見していません。

 

 【編集後記】

 「大月層」は、次回の「初谷沢」で観察した内容を載せる予定ですが、尾滝沢では、冒頭の写真「メランジェ」と思われ、剪断された岩相の堆積岩が印象的でした。

 私たちは、調査の途中では、『内山層の北(大月層)と南(山中地域白亜系)に白亜紀の地層があり、その間に内山層が堆積した』ぐらいの、極めて軽い意識でいました。しかし、どうも諏訪地域から佐久~にかけて、その存在がわからない「中央構造線」に相当するのが、「内山断層」だと言われるようになり、北と南の白亜紀の地層は、仮に時代が似ていても、背景が異なっていることがわかってきました。 

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級化層理(尾滝沢)

  ところで、今日の午前は、チェーン・ソーの新しい刃(チェーン)と、草刈り機の刃を行きつけの商店で購入してきました。

 梅雨入りを前に、既に十分な降雨があり、晴天続きなので、草木はぐんぐん成長していきます。伸びすぎた唐松の枝が日陰になるので伐採したり、畑や道路の草刈りをしたりと、野菜類の周辺管理も始まりつつあります。

 先日のTBS「ひるおび」で、天気予報士・森 朗 氏の説明によれば、過去30年間の平均値を「平年」と表現していますが、『今年・2021年は、10年毎に「平年」を更新・改訂する年度にあたり、例えば、平均気温も0.5℃ぐらい高い数値が採用されました。』とのことです。つまり、平年より高いと言われたら、昨年までより、さらに下駄履き分を足した高温になっているということです。今ぐらいの天候であってくれれば、有り難いですが、そうもいきません。これから次第に暑い季節へと向かっていきます。皆さまも、健康管理に努め、ご自愛ください。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-121

第Ⅴ章 北部域の沢

 平成14年度に地学委員会では、内山川本流の調査(7/6と8/4)をしましたが、それらの資料を夏休み中にまとめていると、もっと多くのことが一刻も早く知りたくなってきました。それで、尾滝沢(8/10)、内堀沢(8/11)、苦水の沢(8/12)、牛馬沢(8/12)、初谷沢(8/13)と、連続して内山川の北側の沢に単独で入りました。この調査により、多くの情報が得られました。 また、根津古沢は、車を使ったポイント調査(2002 11/3)だったので、再調査をしてみる予定です。各沢ごとに紹介していきたいと思います。

 

1. 内堀沢の調査から

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内堀沢と周辺のルート・マップ

 内山川本流の崖露頭(内山川本流図幅1/3【図-④】)と、近接する付近が、どんな関係になっているかが課題です。

 

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内山川本流・第④露頭(大月層) ←「崖露頭」のこと


 合流点付近が複雑そうなので、少し上流の堰堤の下から調査を始めました。堰堤から下流へ55m付近から、黄鉄鉱の入る暗灰色中粒砂岩層、灰色中粒砂岩層(25m下流)、灰色と黒色中粒砂岩層(15m下流)、堅い帯青灰色中粒砂岩層(堰堤の下)の順番で、分布していました。熱変質がありますが、中粒砂岩層は内山層ではないようです。
 砂防堰堤(【図-①】)は、「平成3年復旧治山事業第42号工事(豆の窪)」と記されていました。堰堤の上流は、黒色頁岩がやや優勢な灰色中粒砂岩との互層で、走向・傾斜は、N20°W・45°Wでした。(【図-②】)
 標高810m付近の二股を、左股沢に入りました。砂防堰堤(【図-③】)の下は、灰色中粒砂岩層で、川底と左岸側に石英斑岩の貫入が認められました。堰堤の上流25mから、連続して露頭が続き、標高840mの二股(【図-④】)までは、走向N20°W、傾斜20~45°Wと、走向・傾斜が極めて安定していました。ほぼ同層準を観察していると思われますが、上流に向けて、少しずつ下位の地層を見ていると思われます。下流側(層準では下位へ)から、(ア)凝灰質暗灰色粗粒砂岩層や灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層、(イ)ほぼ同質だが、互層部が砂優勢のストライプ(縞状)となる、(ウ)軽石が入るようになり、中粒~粗粒砂岩と黒色頁岩の互層の順でした。

 標高840m二股(【図-④】)から、北西に延びる枝沢に入りました。軽石の入る凝灰質粗粒砂岩層が、広く分布しています。(【図-⑤】)駒込層の、緑色凝灰岩層(軽石凝灰岩)に相当する層準ではないかと判断し、引き返しました。

 北に延びる沢を登りました。灰色中粒砂岩~暗灰色粗粒砂岩と黒色頁岩の互層でした。(【図-⑥】)表土が崩れ、立木の根が現れていましたが、根はわずかな表土の中を這うようにして根を広げている様子が見てとれました。

 標高860m付近で、灰色中粒砂岩層の露頭を最後に沢は伏流したので、左股沢の調査を終えました。標高810m二股まで戻り、再び本流を詰めていきます。

 二股の上流15m付近から、黒色頁岩の崩れ、灰色中粒砂岩層、砂優勢な互層、再び灰色中粒砂岩層、軽石の入る粗粒砂岩層と続きます。互層で、N20°W・60°Wでした。灰色中粒砂岩層が卓越していました。(【図-⑦】)

 砂防堰堤(【図-⑧】)のすぐ下では、左岸側(南側)が灰色中粒砂岩層の崖で、川底にも広がります。幅3~4cm×長さ1.5~2mのコングロ・ダイクの4露頭が認められました。黒色のレンズ状礫岩層で、熱変質していると思われます。堰堤の上は、熱変質した明灰色の細粒砂岩層(左岸側)と凝灰質粗粒砂岩層、灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層でした。

 標高830m前後の沢が、緩く曲がりながら東北東に延びる部分(【図-⑨~⑩】)は、両岸から山が迫りU字谷のようで、きれいな滑滝がみられました。(後日、調査した志賀川本流の標高905m付近の谷の風景の小規模版です。)青味がかる灰色の粗粒砂岩層で、緑色凝灰岩として良い岩相です。ここに、黒色頁岩やストライプ(縞状)が見られる砂泥互層が挟まっていました。ここにも、小規模な黒色のレンズ状礫層(コングロ・ダイク)が認められました。互層部で、N20°E・20°Wでした。これらは駒込層です。

 標高835m(【図-⑪】)付近では、明灰色粗粒砂岩層の連続露頭でした。暗灰色から熱変質をして、明灰色となっていると思われます。N20°W・25°Wでした。
 標高840m(南東から流入する沢の合流点)(【図-⑫】)の下流側と上流側へそれぞれ10mで、石英斑岩の貫入(岩枝の一部)が認められました。
 本流に対して小さな沢状地形となる【図-⑬~⑮】は、いずれも熱変質を受けた泥岩や砂岩だと思われます。白色~灰白色の泥岩(【図-⑬】)、灰白色の砂岩(【図-⑭】)、白色泥岩、北西からの沢で、白色泥岩と粗粒砂岩(【図-⑮】)でした。
 ここで、「マムシ」を目撃しました。伝え聞いたオレンジがかった銭形模様という意味も理解しました。勇気を出して、石の下に入った蛇の写真を撮りました。

 標高860m二股(【図-⑯】)では、凝灰質灰色粗粒砂岩層でした。
 標高870m(【図-⑰】)付近では、灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層部で、間に層厚40cmの礫岩層を挟んでいました。N10°W・30°Wでした。
 標高885m(【図-⑱】)付近では、同様な岩相で、N10°W・20°Wでした。 標高900m二股(【図-⑲】)付近では、砂優勢な黒色頁岩との砂泥互層と、軽石の入る粗粒砂岩層でした。N10°W・30°Wと、この砂が優勢な砂泥互層の範囲は走向・傾斜が安定していました。これらも、駒込層の分布域です。

 しかし、「マムシ」との遭遇以降、岩石を見るよりも蛇がいないかの方を気になっていましたが、1mを優に越える茶色系の蛇(多分、オアダイショウ)が、少し先の岩の上にいて、先に進む気持ちは完全に失せてしまい、引き返すことにしました。この後、沢を下りてくる途中でも、足を踏み出そうとした下に蛇がいて、空中で足を変えました。崩れた砂岩岩塊が住処となり、沢筋には小動物もいるので、蛇にとって良い環境だったのかもしれません。

 

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墓地の対岸(左岸側)のケッチ

 一度、内堀橋まで戻った後、本流との合流点から沢に入り直しました。
 合流点から10m入った【図-a】では、黒色頁岩と灰色中粒砂岩の互層でした。
 畑に出る所の川底と右岸(【図-b】)では、
泥質メランジェのような岩相が見られました。
【a&b】は、内山層のものではないいう感触をもちました。

 そして、墓地の対岸(左岸側)(【図-⑳】)、畑から伸びる小径に沿った全体で30mほどの露頭です。岩相の特徴は、ありきたりの泥(E・F)を挟む、細粒から粗粒砂岩ですが、崩れ部分を境に北側と南側(下流側)の構造が違います。それで、スケッチをしました。(スケールはあるものの、印象と理解してください。)
 堰堤の南側の小さな崖(【図-c】)は、凝灰質粗粒砂岩でした。
 この後、駒込(地域名)に至る道路沿いに観察をしました。

 【図-d】では、凝灰質灰色細粒砂岩層、【図-e】では、凝灰質暗灰色粗粒砂岩層でした。【図-f】では、風化したぼろぼろの凝灰岩層、【図-g】では、灰色中粒砂岩層でした。そして、【図-h】では、灰白色凝灰岩層で、N20°W・40°Wでした。

 内堀沢周辺を概観すると、熱変質を受けた部分もありますが、全体的に凝灰質な砂優勢な砂泥互層がおおく、緑色凝灰岩としても良い層も含まれているので、「駒込層」という感じがします。しかし、【図-a・b】は「大月層」でしょう。
 そうなると、ちょうど両者の境付近となるスケッチをした箇所(【図-⑳】)は、深い意味のある露頭になるかもしれません。

 

 【編集後記】

 既に、「地質調査物語-山中地域白亜系」で掲載した「内山層~白亜系」の地質図ですが、本文に関わる地域は、大月層との境目に当たるので、位置関係がわかり難いと思い、再掲載しました。

 内堀沢から尾滝沢にかけての地域は、内山層の基底礫岩層群が点々と不連続で繋がり、南北性の断層で切られています。本流の第④露頭は、大月層の分布する一番西側になります。

 

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修正・内山層の地質図

  今日は、朝から一日中、雨降りで、午前中は、久しぶりに英語の勉強をしました。かつては、毎日30分ぐらい、短文書き取りや、英作文を続けていましたが、はてなブログを挙げるようになってから、気が向いた時ぐらいになっていました。

 昨日、アスパラガスの苗を48ポット定植したので、願ってもみない慈雨となり、私の学習習慣を復活させてくれた記憶起こしの雨にもなったようです。この雨は、夕方には上がり、明日は再び晴れるので、農作業に追われる日々です・・・・と言いながら、身体を動かしていることが好きなのです。

 M78星雲の惑星・「光の國」からやってきた「ウルトラマン」と同じで、太陽光を浴びていないと調子が出ません。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-120

3. 内山川本流(3/3)の調査から

 平成14年(2002)8月4日の調査の続きです。
 私たちは、内山川の本流を歩いているのですが、それが、内山層の基底礫岩層群の層準辺りと、大月層の南限付近に当たるので、足元は、大きな地質学的時間差をまたいで観察していくことになります。モモロ沢の合流点からダム湖までの説明をします。

 

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内山川本流の3 (モモロ沢~ダム湖

 モモロ沢との合流点付近(【図-①】)では、黒色の珪質細粒砂岩だけでしたが、上流へ25m付近では、黒色粘板岩と硬い黒色細粒砂岩の互層となり、滑滝を形成していました。この層準は、大月層と思われます。
 南側の湾曲部(【図-②】)では、下位に黒色細粒砂岩層、礫岩層が現れました。礫種は、チャートや黒色頁岩、珪質砂岩の円礫でした。内山層と思われます。
 北側の湾曲部(【図-③】)では、硬い黒色細粒砂岩層と黒色粘板岩です。走向・傾斜は、N70°W・45°Sでした。大月層と思われます。
 標高830m付近(【図-④】)では、幅1.5mの礫岩層があり、少し上流でも、両岸から川底へ礫岩層が見られました。N50°E・50°SEの走向・傾斜で、下位から粗粒砂岩層/礫岩層/粗粒砂岩層/細粒砂岩層と重なっています。礫種は、珪質砂岩の礫が卓越していました。理解できないのは、最下位の粗粒砂岩と礫岩層の構造を切るように、N20°E・20°Eで、火山砂の多い粗粒砂岩が、位置的には一番下に堆積していました。これらは、内山層の基底礫岩層群と思われます。

 大沼沢との合流点、わずか下流(【図-⑤】)では、暗灰色中粒砂岩層があり、二枚貝の化石を認めました。ツキガイモドキ(Lucinoma sp.)、シラトリガイ(Macoma sp.)、マテガイ(Solen sp.)です。また、水辺の植物の茎と思われる炭化物も含まれていました。この層は、内山層と思われます。
 大きく湾曲する手前から奥にかけて(【図-⑥】)、中粒砂岩層を時々挟んで礫岩層が分布していました。内山層の基底礫岩層だと思われます。砂岩層の中には、二枚貝化石が、認められました。
 湾曲部から次の湾曲部(標高840m付近)まで、約150mほど見通せます。その中間付近から湾曲部にかけて(【図-⑦】)、暗灰色中粒砂岩層が分布し、二枚貝化石が認められました。

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初谷沢合流点(橋の上から)

 

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基底礫岩層(初谷沢合流点)

初谷沢(しょやさわ)が、標高843m(推定)付近で、内山川に合流します。(国土地理院の地図では、橋のわずか上流で合流するように表されていますが、橋工事の関係なのか、今は、橋の下流で、初谷沢に懸かる橋と連続していました。)
 合流点の右岸(【図-⑧】)では、左の写真のような内山層の基底礫岩層が見られました。 間に、暗灰色粗粒砂岩層(層厚15cmほど)を挟みますが、
上も下も礫岩層です。上の礫岩層の方が、大きな礫を含んでいますが、差別的浸食というより、内山川の川底自体が浸食・下刻されていく過程なので、かつては、下の礫岩層は、当時の川底より下に位置していた時代もありました。今は、毎日削られ、特に大水の時は、大きく削られているのかもしれません。

 

 

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初谷沢合流点手前の内山層基底礫岩層群


 初谷沢に懸かるトンネル橋の下をくぐり、初谷沢の湾曲部(【図-⑨】)に出ました。ここでは、明灰色粗粒砂岩層(2m)の上に、基底礫岩層(5m以上)が載っています。さらに、直接観察できませんが、5mほど基底礫岩層の連続部分があるものと思われます。
 下の写真は、全体露頭の中央部を拡大したもので、埼玉地団研の皆さんと調査をした時に撮影しました。
粗粒砂岩層の中にも、花崗岩礫が、わずかですが含まれていました。
 粗粒砂岩層と礫岩層を合わせて、基底礫岩層群として良いと思いました。

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初谷沢入口(2002 11/3)

 

            *   *   *

 

 内山川本流に戻り、川の大きく南側に蛇行する付近(【図-⑩】)では、黒色頁岩層が見られました。走向・傾斜は、N60°W・20°SWです。この湾曲部に至る地点の中間には、薄く白色凝灰岩層を挟む黒色頁岩層があり、頁岩層から二枚貝の化石が見つかりました。走向・傾斜は、N20°W・20°Wでした。

 ・・・実は、六川・渡辺両氏は、執拗に化石を捜している間、私は、『(私たちもそうフィールド・ネームでも呼んでいる)内山断層が、中央構造線に相当するかもしれない』という、小坂共栄先生(信州大学教授)の説明の方が気になり、右岸の水田の先に広がる東側に見える風景を撮影していました。

 湾曲部の上流には、低いコンクリート製の堰堤がありました。堰堤の右岸側を登った所にも露頭があり、暗灰色中粒砂岩層(N40°W・20°SW)からも、二枚貝化石(シラトリガイMacoma sp.)を確認しました。(【図-⑪】)

 堰堤の上流から、風化すると黄土色となる青味を帯びた暗灰色(凝灰質~火山砂を含む)粗粒砂岩層か、上流部に向けて広く分布していました。

 標高855m付近(【図-⑫】)では、暗灰色中粒砂岩と、黒色頁岩の互層でした。頁岩は、剥離性がかなり強いものです。
 無名沢(神封沢の西の小さな沢)との合流点から20m上流(【図-⑬】)では、暗灰色粗粒砂岩層がありました。その上流部も同様な産状でした。
 神封沢との合流点から25m上流(【図-⑭】)では、粗粒砂岩層の中に不規則な黒色頁岩片が入った層準が認められました。黒色頁岩片は二次堆積だと思われ、特別に珍しい産状ではありませんが、堆積状況の岩相を示す鍵層(key bet)にならないかと期待しています。
 工事用の橋付近(【図-⑮】)の右岸では、暗灰色で凝灰質の粗粒砂岩層が見られました。高さ5m以上の崖となっていました。
 最後に、砂防ダム湖の下流部(【図-⑯】)は、暗灰色の凝灰質粗粒砂岩層が広く分布していました。

 この日の調査では、スタートとゴール予定地の両方に車を駐車しておきました。雲行きが怪しくなる中、急いで乗り込みました。雷鳴は、まだ遠くで聞こえます。
 スタート地点で、帰宅のために自分の車に乗って走り出すと、激しい雷雨となりました。とてもラッキーでした。

 

   【 閑 話 】

 内山川本流にある「仙ケ滝」は、各地の伝説にあるように、美しい悲運な娘が身を投げたという民話が残っている滝です。
 しかし、滝壺(たきつぼ)があってというわけではありません。沢水が、堅い礫岩と粗粒砂岩の互層部の弱い部分を縫うように、流路をみつけて流れ落ちていきます。流水の浸食作用を学習する時、良い教材になると思います。きれいな渓谷というほどではありませんが、三段の滑滝(なめたき)と淵、それに続く清流が見られます。
 ちょうど夏休みなので、親子連れの釣り人と会いました。父親の方は真剣そのものですが、釣りに飽きてきた小学生は、水面に小石を投げ込んで、父親から怒られていました。その光景を見て、私は思わず笑ってしまいました。
 その少し下流では、年配の女性(若いお婆さん)が見守る中、都会から帰省した娘(若いお母さん)と孫(二人の幼児)が、浅瀬の川にダムを作って、水遊びをしていました。二人の男の子にとって、懐かしい思い出の水辺となるでしょう。内山川は、そんな人々に安らぎを与えてくれる人里を流れる清流です。
 (下の写真は、残念ながら内山川本流ではなく、北相木川「箱瀬の滝」の上流部の淵です。)

 

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沢水に親しむ体験

【編集後記】

 平成14年11月2~3日、信州大学教授の小坂共栄教授を中心講師にした地学団体研究会埼玉支部の皆さんの研修会に、小林正昇先生と一緒にお邪魔しました。
 志賀川水系で八重久保層(やえくぼそう)の巡検をしていた時のことです。参加されていた元群馬大学教授の野村 哲 先生の行動を見て、とても感激しました。先生は、調査の傍ら、雑木に絡まり付いた蔦(フユヅタ)を見つけると、手持ち用の小型鋸(のこぎり)で切ったり、鉈(なた)で枝打ちをしたりして、立木から蔦を取り除いていたからでした。蔦とて、必死に雑木に絡まって伸びていくのは生きる為の手段ですが、巻き付かれた木々も大変です。まるで、苦しんで叫び声を発しているのが、先生には聞こえてくるのでしょうか。先生の長年のフィールド調査中もきっと他の多くの山や沢で、蔦に巻き付かれた木々を救出していたのだと思います。

 自然に対する考え方や態度は、きっと自然研究の神髄として、研究結果にも表れてきたのだと思いました。

 

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カラマツに絡まる蔦(佐久市前山)

 思えば、私たちも地質調査という名を借りて、平気で露頭を岩石ハンマーで壊しています。不用意にも一度破壊してしまえば、再現できない自然界の歴史的産物に対して、もっと深い慈愛と畏敬の気持ちを持ち続けなければならないと、その時に感得しました。

 ところで、連日晴天続きで、毎日、畑や土手、道路沿いの草刈りをしていて、はてなブログが中断していました。一応、草刈りの第1回目ローテーションが済んで、『今日の午後は、気温が上がり熱中症に注意しましょう』と言うので、デスクワークとしました。良い骨休みになりました。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-119

2. 内山川本流(2/3)の調査から

 ホド窪沢が合流する橋の上流20mで、石英斑岩(せきえいはんがんQuartz-Porphyry)の貫入露頭がありました。石英斑岩は、(半深成岩で)、珪長質組成の火成岩です。・・・かつては半深成岩という言い方もしましたが、今は使っていません。

 

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内山川本流の2 (苦水から大月の東まで)

 このすぐ上流側(【図-①】)で、やや青味がかる灰白色の中粒砂岩層が見られました。熱変質を受けていると思われます。走向・傾斜は、N70°W・20°Sでした。

 標高795m付近(【図-②】)では、層理面がはっきりしない塊状の黒色泥岩層の中に、コングロ・ダイクと「十字」に交叉した石英斑岩の貫入が見られました。

 黒色泥岩層の中に灰色中粒砂岩層が挟まっていて、走向・傾斜は、この値、N20°W・70°Eで、全体傾向を代表させてあります。
 この日(2002 7/6)の観察スケッチは、帰宅後に振り返ってまとめようとすると、詳細が不明でした。それで、尾滝沢調査(2002 8/10)の折に、観察し直しました。写真の竹箒できれいにして撮影しましたが、木漏れ日や苔が付いていて、極めてわかりにくいです。説明図を参照してください。
 中央の石英斑岩は、60°の角度で交叉するように貫入しています。貫入が同時なのか、それとも前後差があるのかは、わかりません。
 その西側に、幅15cm×長さ2mと、幅5cm×1mほどの、2つのコングロ・ダイクが泥岩層に貫入していました。コングロ・ダイクと石英斑岩は、接してはいますが、切ったり切られたりする関係は見てとれません。ホド窪沢(1010mASL)の露頭で見られたような、玢岩がとコングロ・ダイクと泥岩層を切っているような関係はわかりません。
 この露頭については、コングロ・ダイクの成因についての項で、再度、話題にしたいと思います。

 

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石英斑岩の交叉貫入とコングロ・ダイク

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十字貫入の説明図

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黒色泥岩との接触部分(拡大)

 

 そのすぐ上流では、黒色泥岩と中粒砂岩の互層でした。【図-②】露頭の上流10mほどの左岸では、黒色頁岩に石英斑岩の岩枝が見られました。下流側から、黒色頁岩/岩枝(5cm)/黒色頁岩(1m)/岩枝(25cm)/黒色頁岩と続きます。層理面は顕著ではないが、傾向としてN20°W・85°NEないし垂直と、層理面に沿って、ほぼ調和的に見えました。(【図-③】)顕著な熱変質はありませんが、釜の沢合流点付近の中粒砂岩は、灰白色になっていたので、熱変質は受けているゾーンとして良いと思います。

 尾滝沢の合流点と、その少し下流部では、砂優勢の灰色中粒砂岩と黒色泥岩の互層や砂岩層で、こちらは熱変質を受けていませんでした。(【図-④】

 標高800m、武道沢合流点から25m下流付近(【図-⑤】)から、礫岩層が現れました。礫種は、チャートや結晶質砂岩の亜角礫です。

《注》仙ヶ滝とその上流部は、一次調査(2002 7/6)をしてありましたが、不明な部分も多く、再調査しました。図幅【内山本流2/3】は、平成14年8月4日に、食堂「藤村」の看板あったの奥の橋から本流に入って内山川を下り、仙ヶ滝付近から始めました。尚、仙ケ滝付近(2002 8/4 および2002 11/3)は、複数の調査情報も合わせて報告します。

 

 武道沢の合流点から上流は、比較的大きな淵があり、その上に、仙ヶ滝が形成されていました。(【図-⑥】)滝の造瀑層は、厚い礫岩層と粗粒砂岩層の互層で、砂岩層の方が大きく浸食され、流水は中央部を蛇行するように落下していく三段の滝です。一番下の落下部分から滝の上までは、水平距離で25mほどあり、全体の落差は、5mぐらいです。滑滝(なめたき)なので、深い滝壺にはなりませんが、下流に大きな淵ができていて、子どもが水遊びをするには最適な環境です。滝付近は、N70°W・40~50°SWの走向・傾斜でした。

 

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千ヶ滝の上(上流側から)・・・突き当たりが淵になっている

 滝の上(【図-⑦】)に、流れ落ちる水を貯めた浅瀬があり、暗灰色粗粒砂岩層の上位に礫岩層が重なっていました。砂岩層が流水で浸食され、オーバーハング状態になっています。礫種は、灰色・白色・黒色のチャート礫(主)、黒色頁岩礫、灰色(結晶質)砂岩礫、花崗岩礫で、巨大な礫はありません。
この産状について、『下の粗粒砂岩が、礫岩に突き刺さっているので、砂岩を下位としていいでしょう』と、野村 哲 先生(元群馬大学教授)が指摘してくれました。
                       (2002・平成14年 11月3日)

 この礫岩層は基底礫岩層だと考え、内山層の最下部だと理解していた私たちに対し、礫岩層の堆積前に粗粒砂岩が先に堆積していたことを説明してくれました。(ちなみに、同様な産状は、初谷沢合流点付近にもあり、後述します。
 内山層堆積盆で本格的な堆積の始まる前、つまり基底礫岩層の堆積前に、既存の地層(白亜系か?)と不整合関係で、少量の粗粒砂岩が、まだ固結しない堆積物の状態にあり、その上に礫が堆積してきたという意味です。砂の上に堆積した礫が砂を押しつけ、礫同士の隙間から砂が突き刺すように入りこんでいるということになります。
 これは、「基底礫岩層は一番下だ」という私たちの固定概念(ある意味で偏見)を崩してくれました。そうなると、下位の粗粒砂岩層も含めて、『基底礫岩層群』と呼んだ方が良さそうです。

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礫岩と砂岩の境目(基底礫岩層の下に砂岩層がある)

 

 

 基底礫岩層群の露頭から50m上流の右岸(【図-⑧】)では、黒色頁岩と灰色細粒砂岩の互層で、N60°W・30°SWでした。この細粒砂岩から、二枚貝の化石を見つけました。

 内山川の湾曲部(【図-⑨】)では、砂泥の互層で、泥岩はやや古そうに見受けられました。また、目視できる断層が認められました。下流側と上流側で走向・傾斜を測ると、N85°W・38°S~N80°E・32°Sと幅があるので、図では全体を代表するものとして、「EW・35°S」と架空の値(平均)を載せてあります。
 小さな木橋付近の左岸(【図-⑩】)では、黒色頁岩層でした。(この日は、この木橋から川に入りました。)


 標高805m付近で、南東から柳沢が合流します。その上流25mでは層理面がわかりずらい黒色頁岩層がありました。北落ち(右岸)とも、南落ち(左岸)とも見えます。
 根津古沢の合流点手前の橋(【図-⑪】)では、黒色頁岩層(N60°W・60°NE)が見られました。黒色頁岩層は沢の方にも続いていて、沢に100mほど入ってみると、石英斑岩(幅5m)の貫入があり、130mほどでは、N60°E・70°SW~垂直の黒色頁岩層でした。(後日、入る沢ですが、調査が難しそうな沢との印象を持ちました。)
 本流に戻り、脇の国道254号線のコンクリート壁に沿った左岸は、同質の黒色頁岩層が続いていました。
 大月の湾曲部(【図-⑫】)では、黒色頁岩層(N80°E・50~60°S)がありました。走向・傾斜資料と同質の岩相から推理すると、根津古沢へ130mほど入った露頭とつながるかもしれません。

 そして、橋(名称不明)の上流130m付近に、コンクリート製の低い堰堤があります。ここで、内山層基底礫岩層見られました。(【図-⑬】
 堰堤から下流側30mの範囲が礫岩層で、特に白色チャートの礫が卓越した板状露頭が、左岸全体と、川底中央(2/3左岸寄り)と、下流30m川底を通じて両岸にありました。左岸側の測定で、N80°E・70°Sでした。ポットホールも見られました。
 そして、次の【図-⑭】地点まで、基底礫岩層でできた淵が続いていました。川底は、前述の白チャート礫が卓越した層準(川底中央)が、浸食された部分のようです。この走向に沿って内山川は、流れているようです。調査委員の中に、やや高所恐怖症の方がいて、右岸側をトラバースして進みましたが、大変そうでした。

 【図-⑭】から【図-⑮】および【図-⑯】付近の説明図(スケッチ)を示しました。写真と共に見てください。
 【図-⑭】地点では、礫岩層の上に暗灰色粗粒砂岩層と灰色(凝灰質)粗粒砂岩層が載っていました。暗灰色粗粒砂岩層の中には、水辺の植物の茎などと思われる炭化物が含まれていました。
 その上流、川が湾曲する地点【図-⑮】では、目視できる断層のような存在があり、内山層と大月層の境ではないかと思われる露頭が見られました。

 

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白亜系と基底礫岩層の境(断層)

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内山層(基底礫岩層)と白亜系との不整合露頭


  構造不明な砂岩の南側(F-①)と北側(F-②)は、断層と思われます。 礫岩層の中に黒色粘板岩がくさび形に入っています。また、川底から礫岩層の一部が出ています。この方向が、礫岩層全体の層理面を代表していると判断し、N60°W・50°NWと、走向・傾斜を求めました。
 一方、F-②の近くにも黒色粘板岩があり、その隣は中粒砂岩層と続きます。しかし、境が層理面とは思われませんでした。それで、少し上流部の黒色粘板岩層N20°E・35~45°Sの値を採用してあります。(【図-⑯】

 内山層基底礫岩層(1900万年前とし)と大月層(白亜紀、仮に1億年前とすると)の時代差は、8000万年以上となります。これだけの差なので、目視できる小断層が、両者を画する断層であるはずはありません。しかし、大きな時代差を決めている構造の一部を偶然に見ていることには、間違いありません。

 基底礫岩層の見られる露頭【図-⑬・⑭・⑮】の位置関係と走向・傾斜で見ると、目測30~35mの範囲が、基底礫岩層の層厚を表しているように考えられます。そこで、傾斜50°で計算してみると、層厚は24~27mほどになります。基底礫岩層の他の露頭では、一部分しか見えてないので、比較は難しいですが、最大の厚さかもしれません。尚、この礫岩層には、礫というより寧ろ「岩や小石」とでもいうような巨大な礫は含まれていませんでした。
 この日(2002 8/4)の調査は、上流部へと続きますが、図幅【内山川本流2/3】の都合で、ここで終わります。

 

 【 編集後記 】

 【内山川本流2/3】で使用した「写真」は、写りが悪いです。と言うのも、理由があって、当時、私は一眼レフ・カメラで写し、写真店で印画紙に焼いてもらった写真か、ネガフィルムからPCに読み込んだ画像を使用していました。この為、加工操作に時間がかかるので、解像度を落として、データー処理をしていました。解像度を落としてしまった写真は、きれいに再生できません。撮影場所は、山奥ではないので再撮影も可能ですが、写真に写っている人と調査した思い出と共に、同じ状況は再現不可能なので、敢えて使用しています。ちなみに、基底礫岩層群露頭で麦わら帽子の人は、渡辺正喜先生です。また、基底礫岩層と白亜系の境に立つ人は、六川源一先生です。

 ところで、PCやカメラなど、機械技術やその性能向上の変遷には、目を見張るものがあります。
 平成25年11月23日、松川正樹先生(東京学芸大学教授)の門下生・平田圭祐さん(大学院生)が、「大通嶺(だいつうれい)」の北相木層から広葉樹の化石を見つけた所を案内してくれるというので、渡辺先生と同行しました。急な尾根のみで、私は地形図を読みながら歩きましたが、平田氏は、GPSで緯度・経度・標高まで正確に捉えていました。さらに露頭を写した写真画像には、写した方位と時間(秒)までが、表示されていました。
 ただ、この日の目的は達成できずに、代わりに暗灰色中粒砂岩層からウニの殻化石を見つけました。(写真)

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ウニの化石(北相木層・大通嶺)

 ところで、今日は雨の一日で、外での農作業もできないので、ゆったりと過ごせそうです。それで、午後は、車庫の横の謂わばガレージのような所で、メロンとスイカの種子をいくつかの鉢で種蒔きをして、温室に入れようと計画しました。

 その前に、はてなブログを挙げようと始めましたが、とんだロス・タイムの発生です。最後に載せた「北相木層のウニの化石」の写真が見つからなくて、捜しまくりました。ようやく発見できたものの、予定時刻を大きく回ってしまいました。

 北相木層の地質や化石情報も、かなり集まっているので、いつかまとめようと、別の媒体にファイルを集めて保管してありました。常々、写真などの記録の大切さを痛感すると共に、その保管や整理は、もっと重要だと思いました。(おとんとろ)