北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和3年10月(みゆき会)の俳句

 【神無月の句】

 ① 萩の影 石灯籠に もたれ掛け 

 ② 枯れ芒 ロマンスグレーを 風が梳く

 ③ 秋茜(アキアカネ)群れて飛び交う 平和かな

 

 佐久市総合文化祭(文化の日、今年は11月4日~5日の週休日)に出品する「俳画を添えた俳句」を10月の句会で準備するのが恒例となっている。
 文化祭は、今年もコロナ禍による感染防止策の為、会場を分散させ、分野別に開催することになった。ちなみに、舞台発表を伴うジャンル等は、昨年に引き続き中止となっている。
 俳句の題材や季語のヒントがないかと捜しながら、稲刈りの進行中の田圃道や、地元の古刹・貞祥寺境内を散策してみた。何んとか、「萩の花・芒・赤蜻蛉」が目に留まり、それらを俳句に詠んでみた。

 

 【俳句-①】は、ヤマハギが寺の石灯籠を覆い隠してしまうほど、繁茂している様子を詠んでみた。萩(ハギ)の枝は、自立してはいるが、先端の方の細枝は、石灯籠に、もたれ掛かっているようにも見えた。

 「ジェンダー・フリー」と言うものの、たおやかで女性的な萩の花が、木訥として男性的な石灯籠に、寄り掛かりながら佇んでいる姿をイメージしたからである。

 ところで、ヤマハギは、我が家の庭にも生えていて、毎年、みごとに花を咲かせる。しかし、自然界に自生する萩のように、自由に繁茂させるわけにもいかない。花の時期が過ぎれば、剪定してしまうから、石灯籠を隠してしまうほどにはならない。

 ふと、萩の名称から、かつて訪れたことのある山口県萩市の山城「指月山」で見た萩の花と、眼下に広がる日本海を眺めたことを思い出した。

 

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ヤマハギの花

 

 【俳句-②】は、地元の名刹・貞祥寺の裏山で、芒(ススキ)の穂を見た時、
それが微風になびいて、絡まったり解けたりするように見えた様を詠んだ。
 実際の光景は前述の通りだが、もう少し深い訳がある。ほぼ半世紀前の高校生の頃、
彼女とのデートで、ここに来たことがある。それを思い出した時、芒の穂が、人の髪の毛の銀髪めいた、つまりは自分にも増えてきた白髪のイメージに重なり、風という天然の櫛(くし)が髪の毛を梳かしていくように感じた。

 ちなみに、「ロマンスグレー」の意味を調べてみると、魅力的な白髪混じりの男性のことを指すようだ。和製英語で、謂われは、盛田昭夫氏が、ソニーSONYアメリカ支社長時代、30代で白髪が目立ってきて悩んでいたが、『こちらでは、ローマンティック・グレーと言ってお洒落で、憧れなんだ」と米国人から言われて気を良くし、帰国した折り、このエピソードを「ロマンスグレー」と言い換えて話したことが、契機だと言う。
 私にも、白髪はあるが、気にする程でもないし、第一「ロマンスグレー」の意味には、人への包容力を供え、経済的な余裕も兼ね備えた紳士と言ったイメージも伴うようなので、私とは無縁であろうと思う。
 ところで、季語は「枯れ芒(尾花)」で冬であるが、芒(薄)だけなら秋の季語となる。現実の季節は晩秋であったが、前述した青春の日々から半世紀を経た自分を重ねた時に、枯れていた方が風情があるかなと考えて、演出しました。

 

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 【俳句-③】は、赤蜻蛉(あかとんぼ)こと「アキアカネ」の大群が、いくぶん日暮れに近づく頃、飛行編隊を組んだかのように空を覆っている様に感動したことを詠んだ。ただし、多くの人が感じるであろう感動の中身と、私のそれは少し違っていたかもしれない。

 「戦争知らない子供たち」の私は、空襲体験もなければ、機関銃の連射を見たこともないが、創作された映画やテレビ映像で、見聞きし知っている。
 なぜか、秋茜が群れて飛び交うようすが、戦闘機の飛行編隊のように、私には感じられた。日本のADIZ(航空防衛識別圏)に侵入した正体不明機に航空自衛隊機が、スクランブル発進したニュースはたまに聞く。台湾への中国軍機の威嚇飛行の話題も、昨今、よく見聞きする。
 最近の軍事情勢では、無人偵察機が主力となりつつあり、戦闘は飛行機による空爆からミサイル攻撃に替わりつつある。世界の紛争地域では、まさに日々の現実の中で繰り返されている出来事である。
 一人、平和な日本の、しかも田舎にあって、安寧な日々に感謝はしているが、この秋の赤蜻蛉が飛ぶ平和な光景は、どこの国の、どの民族の人々にとっても、本来、味わえる幸せがあってもいいのではないかと思った。

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東京五輪ブルーインパルスの飛行

 


【編集後記】

  佐久市総合文化祭の「俳句の部」に、わたしたち「前山みゆき会」も参加しました。今年は、佐久市創練センターと野沢会館の2カ所に分散し、同時開催の運びとなりました。書道・篆刻(てんこく)・刻字・木彫・短歌・俳句・・川柳・工芸銅板・表装・仏像彫刻・絵手紙・切手・写真・絵画・盆栽・水墨画・華道・押し花・民芸・フラワーデザイン・陶芸、それに菊花展の部がありました。

 冒頭で触れたように、ステージ発表の各内容の部は残念ながら、ありませんでしたが、2会場とも盛況でした。

 それにつけても、多くの方々が、幅広い分野に興味を抱いて、日々研鑽されていることが伝わってきました。 

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佐久市総合文化祭(俳句の部)

  ちなみに、私の出品作は、【俳句―②】「枯れ芒 ロマンスグレーを風が梳く」でした。しかし、どうも納得がいかなくて、もう一枚の色紙(下記)を用意して、下に入れておきました。昨年の12月の作でしたが、それに俳画(ヒイラギ)を添えて、作品にしました。

 2日目に取り替えようかと思いましたが、結局、もうひとつの会場の展示内容を見学していて、時間が無くなってしまいました。幻の出品作品になりました。

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令和2年12月のみゆき会に提出した俳句

 余談ながら、広葉樹(例えばクヌギなど)の落ち葉は乾燥して枯れ葉となると、強い季節風によって吹きだまりに集められますが、多分、気流により選別されるのか、『帯付きの札束』のようになります。

 その光景を見た時、とても感激しました。そして、「これが札束だったら」等と思いましたが、そのまま俳句にできないので、「小判」と言い換えました。

 自虐ネタで、『昔はビボウのと言われましたが、今ではビンボウの私です。』ではありませんが、本当に何億円の札束か数えられないほどでした。(おとんとろ)

 

令和3年9月「みゆき会(仲秋の俳句)」

  【長月の句】 

① 「ベカンベ」の 菱の実狩りて アイヌ

             【標茶町塘路湖にて】

②  寿(ことほぎ)に 手折りて添えし 菊の酒 

③  虫すだき 太古の眠り アルファ波 

 

 9月は雨降りから始まった。今年の夏は、お盆を夾んだ一週間でも長雨が続き、秋雨(秋霖)の先触れとも言うべき異常気象であった。幸い、強烈な台風は来なかったが、雨降りの日が多かったという印象がある。それ故、ほぼ周期的に訪れた「9~10日・15~16日・20~21日」の秋晴れは実に新鮮で、故郷の山々が見違えるほど麗しいと感じた。
 今月の国内での大きな話題は、自民党総裁選に4人が立候補して、マスコミが連日、候補者同士の政策論議を取り上げたことだろう。告示前から大きな騒ぎとなり、月末30日に決戦投票があって、岸田文雄氏が総裁に選ばれた。この後、国会で首相指名の選挙があり、第100代内閣総理大臣となる。

 

 【俳句-①】は、学生時代に北海道標茶町塘路湖を訪れて、菱の実を収穫した。それを夕食にしながら湖畔で一泊し、一昔前のアイヌの人々の生活を偲んだことを詠んでみた。「ベカンベ(ペカンペ)」は、アイヌ語で「菱および菱の実」のことらしい。
 ワンダー・フォーゲル(WV)部に所属していた私の山行(さんこう)の行き先は、四季の山や沢旅が多かったが、簡単な岩登りやゴムボートでの川下りにも挑戦した。俳句に詠んだ山行は、釧路から標茶町別海町中標津厚岸町など、道東の平地ワンデリングの思い出のひとつである。今から半世紀近くも前の大昔、昭和50年秋のことだったが、鮮明に覚えている。

 ドイツ語の「Wanderung・ワンデリング(本来の発音は、バ)」は、「さまよい歩くこと、似た英語からの外来語では、「hiking・ハイキング」が該当するかもしれない。
 私たちが好んで使った『山行とワンデリング』であったが、この道東の平地山行を企画した後輩のT君は、アルピニズムでもなく、登頂を目的としたものでもない、気ままに大地を歩いてみようという発想の持ち主だった。基本的には行き当たりばったりだが、それでも別海町の牧場で360度の地平線と、厚岸湾での牡蠣養殖を見てみたいという目的があった。さらに、もうひとつの大きな目的は、アイヌの人々が良く食べたという「菱の実」だけの夕食で、一晩過ごしてみようと言うものだった。
 今では、笑福亭鶴瓶さんの「家族に乾杯(NHK番組)」なら許されるかもしれないが、湖の浅瀬に勝手に入って菱の実を狩ることはできないだろう。まして、湖畔でテント泊は不可かもしれないが、当時は、批判されることはなかった。
 実際、札幌からの道東への行き帰りは鉄道(当時の国鉄)を利用したが、釧路からは歩きと、ヒッチハイクで移動できたというような長閑な時代であった。

 

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湖面に浮かぶ菱

 

 ところで、菱(ヒシ)の実は、ミソハギ科(ヒシ科)の一年草水草の種子であり、食べられる。平地の池や沼に生え、葉が水面に顔を出す浮葉植物で、水面を埋め尽くすように広がる。北海道~九州の日本の各地のほか、朝鮮半島、中国、台湾、ロシアのウスリー川沿岸地域などにも分布すると言う。
 私が育った佐久地方では、馴染みのなかった植物だったが、菱形や忍者の撒菱(まきびし)という言葉から、菱の実の形は想像できた。
 
 湖の浅瀬に入って採集してきた菱の実は、コッフェルの中に湖の水と共に入れて煮出した。特に、あく抜きの必要もなく、皮を剥いて食べると、栗の実の触感に似ていた。目的に従った夕食なので、菱の実と水だけの食事となった。

 

 

【俳句-②】は、9月9日(重陽節句)に長寿を祝って「菊酒」を飲む習慣があるとの口実で、庭先の菊の花を手折って花器に挿し、お酒を飲むという風流人の真似事をしてみた様を詠んだ。
 自分ながら滑稽である。実はお酒は毎晩のように飲んでいるので、特別な日という訳ではないが、9月の句会の題材捜しで、菊の酒という季語を見つけ、実体験をしてみるという手段に出た。

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重陽節句・菊の酒

 

  草の戸や日暮れてくれし菊の酒    (松尾芭蕉の俳句)
 平安の昔より、「重陽節句」には菊花酒という酒を飲む風習があり、長寿を祝うものであったという。「菊の節句」の酒も隠遁の自分には無関係とあきらめていたところ、思いがけなく日暮れになって一樽届いた。嬉しくないかと言えばそんなことはないが、日暮れて届いたところになお一抹の淋しさがないわけではない。ここに草の戸は、義仲寺境内の無名庵のこと。日暮れて酒を届けてくれたのは乙州であった。
 なお、重陽節句の日、陶淵明(唐時代の詩人)が、淋しく菊の花を野原で摘んでいると、そこへ太守から一樽が届けられたという中国の故事がある。芭蕉は、この句で陶淵明の故事を思い出しているのである。《インターネット解説から》

 

 白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の

   酒はしづかに 飲むべかりけり       (若山牧水の和歌)
 私の場合、お酒は自分で買ってきたもので、黄・白・エンジ色の菊を挿した花器をノート・パソコンの脇に置き、U-tubeを視聴しながら、図面を描き、お酒を飲んでいた。一人静かに飲んではいたが、好きな日本酒ではなく、経済的に酔えるようにと買い求めた安ウィスキーであった。一体、何に集中して取り組んでいるのかわからないが、「いい俳句ができたかも?」という気分になって、結局、飲み過ぎてしまった。
 毎度、反省して、数日間は節制する。しかし、『飛んで火に入る夏の虫』ではないが、本能のようにして失敗のサブ・ルーチンを繰り返している私だ。

 

 【俳句-③】は、秋の訪れと共に虫の音、特にコオロギの鳴き声が、夕方から深夜、そして夜が明けても聞こえてくるが、寝入りでは子守歌として聞き、起きる時には自然の目覚ましとして聴いていた。まさに、太古の人類から受け継いだ遺伝子「DNA」により眠りを誘う自然現象だと感じた、私の気持ちを詠んだ。なお、アルファ(α)波は、気持ちの安定した時に発生する脳波と言われている。

 かつて読んだ本の情報によると、日本人は虫の音を秋の風情のある音階と聞き取れるが、欧米人の中には「うるさい」と迷惑な雑音として聞こえてしまう人がいると言う。音の感覚は、視覚と同様に脳が創り出す産物だから、そんな民族的な違いがあるのかも知れない。
 しかし、都会から退職後に、わざわざ佐久の田舎に越してきた方が、夜になると小川のせせらぎの音が気になって眠れずに、当地を去った。再び、夜の騒音の聞こえる都会に戻ったという話を聞いた。ふと、私の新宿区での予備校生時代、夏の夜は灯りだけでなく、大地が揺れている音が気になったことを思い出した。

 確かに、遺伝的な要素があることは否定しないが、寧ろ、生活の音を日本文化の一部として受け止めたり、音への対応を学習して適応したりするような、後天的な要素の方が大きいのではないかとも思う。
 その証拠に、気分が優れない時や眠れない時には、虫の音が、迷惑な騒音となる。しかし、紛争下の爆発音が聞こえるわけでもなく、生命の危機を感じることもなく、安心して布団の中で睡眠に入るのを待てる幸せには、どれほど感謝してもし尽くせるものではないと心底から思う。

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エンマコオロギの雄(♂)と雌(♀)

【編集後記】

 気持ちでは、「はてなブログ」を少なくとも一週間に2~3回は挙げなくてはと思いつつ、農繁期は、少しずつでも野良仕事に出ることが多く、遠ざかっていた。農閑期に入った12月は、再び、元のペースに戻したいと考えている。

 「俳句シリーズ」の方も、8月の俳句を載せたのを最後に、中断しているが、ようやく12月になってから原稿ができた。9月・10月・11月・12月と、4ヶ月をまとめることができたので、地質の話題の間に、4回を入れることにします。

 尚、「みゆき会」は、新型コロナ・ウイルスの新規感染者が増えていた関係で、私たちの住む田舎では、ほとんど感染者はいなかったが、会長判断で会を中止として、文書回覧をして8~9月を乗り切った。

             *  *  *  *

 ところで、秋の虫の音、とりわけ「エンマコオロギ」については、令和元年の10月に下記のような俳句を作っていた。 

  夜を尽くし 閻魔蟋蟀(こほろぎ) 鳴き飽かぬ
 

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閻魔大王

 コオロギが鳴くのは、雄(オス)が雌(メス)へのラブ・コールである。羽の下に擦り合わせる器官があって、羽を振動させると音が発生する仕組みになっていると言う。

 それ故、夕方から鳴き始め、朝まで一晩中鳴いているのに、まだ叫び疲れないのかという感嘆の意味を込めた俳句だった。

 ちなみに、そんな絶倫的な精力と大きな叫び声(鳴き声)が、閻魔大王様のようなのかなと思っていたら、エンマコウロギを正面から見ると、複眼の少しつり上がった感じが閻魔様に似ていることが名前の由来だと、物の本に書いてあった。

 真剣に検討した訳ではないが、「コウロギを飼育してみようか」と思い立ったことがある。娘が小学生の時、夏休みの自由研究で、お墓の古い2つの切り株の間を往復しているように見える蟻(アリ)の行動に興味をもって、観察を手伝ったことがある。

 昼間は背中にマーキングをして、同じアリがどう動くかを調べたり、夜中も行動しているのかと、懐中電灯を照らして墓参りをしたこともあった。当時の小学生の出した結論は、『アリは働き者で、昼も夜も動き回っている』という結論だった。しかし、専門家の調査研究によると、多くのアリがいるので、寧ろ休んでいる割合の方が多いというのが真実らしい。

 それで、果たして、一匹のエンマコウロギが、休まず泣き続けるのかどうかに興味をもったからである。結局、試したことはないが、寝ながら聞いていると、同じ方向から聞こえてくるので、続けているのではないかとも思う。鳴くことを止める時は、何か動物の接近や物音に気づいて止めるようなので、その原因にも興味が沸く。

 そうこう思索している内に、脳内ではアルファ波が出てきて、寝てしまっていた。

 そんな季節は移ろい、今は冬。季節風の強い夜は、屋外の木々の擦れる音や隙間風が気になりつつも、ありがたいことに、比較的よく眠れています。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-147

 南部域の沢

3-(4) 大野沢支流・第3沢の調査から

 大野沢支流第3沢は、第4沢の調査(平成5年)の翌年に入った沢ですが、不明な箇所が多く、3回の調査(10~11.Sep.1994/28.Sep.1996)を行ないました。【下図を参照】
 大上林道の標高980m付近に第3沢の入口があります。ここから西へ約30mほどの露頭(【図-①】)からは、黒色頁岩層の中にシダ植物化石を多産する層準(瀬林層の下部と上部の境目、分帯では下部層の最下部)が見られます。

 第3沢の入口から、20mほど入ると(【図-②】)、珪質で明灰色中粒砂岩を主体とする層に、風化すると黄土色になる中粒~粗粒砂岩と、礫岩層(礫の最大径2cmチャート礫)が挟まっていました。岩相から、下部瀬林層と思われます。
 少し上流に、黄色の大型ポリタンクがありますが、これは、宿泊施設・臼石荘の簡易水道水の源泉です。
 沢の標高1020m付近(【図-③】)では、花崗岩の大礫を含む礫岩層が見られました。長径を北北東-南南西方向に向け、敷石のように配列していたので、最初、人為的に並べたのではないかと思ったほどでした。3個の巨大な礫の内、最大礫は、30×45cmにもなります。黒色頁岩片も円礫で含まれていました。【写真・下】
 この上流に、方解石の脈(calcite vein)が入る珪質で塊状(massive)の砂岩が、滑滝を形成していました。

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大野沢支流第3沢の花崗岩



 沢の標高1035m付近(【図-④】)から、泥が多くなり、灰色中粒砂岩と砂質黒色頁岩の互層が見られました。南落ちとも、北落ちとも見える構造不明部分があります。全体を代表しそうなN40°E・60°SEを採用しました。(図への記入なし。) 
  また、平成8年の調査では、同行した松川正樹先生(東京学芸大学教授)の鑑定で、量はわずかですが、発見した二枚貝化石が、「Costocyrena radiatostriata」と「Paracorbicula sanchuensis」というシジミ貝類であり、下部瀬林層であると判断しました。

 

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大野沢支流第1~第5沢のルートマップ


  

 そして、標高1040mの二股(【図-⑤】)付近にかけて、鑑定をお願いしようと予定していた化石層準があります。
 平成6年に、黒色中粒砂岩層から、ハマグリやマテガイに似たもの、シジミ類の二枚貝化石を見つけていました。また、広葉樹の植物化石もありました。
 『(向斜構造から、瀬林層の下になるので、岩相も似た石堂層?と思っていたので)もし、白亜系の中から広葉樹化石の発見となると・・』と、もちろん冗談ですが、期待していました。松川先生は、一目見て、『白亜系ということは無いです。内山層のものでしょう』ということになりました。

 すると、標高差でわすか10mにも満たない近接した地域で、白亜紀後期の地層(下部瀬林層)と新第三紀中新世の地層(内山層)が接していることになります。内山層基底礫岩層を欠いていることと考え合わせると、断層が考えられます。【図-④】と【⑤の間】に都沢断層を推定する根拠になりました。

 標高1040m二股の上流5mからは、熱変成を受けているのか、いくぶん硬い砂質の黒色頁岩層が出始め、標高1070m付近まで、砂質の黒色頁岩層と黒色細粒~中粒砂岩層の互層が続きました。

   沢の標高1080m付近に、灰色粗粒砂岩層があり、標高1090m付近(【図-⑥】)では、構造的に特徴のある暗灰色粗粒砂岩層が見られました。全体は、粗粒砂岩ですが、中に砂質黒色頁岩片やラミナ構造を残す細粒砂岩片を含んでいます。堆積後、ある程度固結したものが破壊され、粗粒砂岩に取り込まれた二次堆積と思われます。
 沢が西に振る、標高1100m付近(【図-⑦】)では、砂優勢な黒色中粒砂岩と黒色頁岩の互層が見られ、走向・傾斜は、N50°E・30°NWでした。

 標高1110m~1140m(【図-⑧】)にかけて、(ア)二次堆積と思われる黒色頁岩片を含んだ砂岩層、(イ)反対に、灰色細粒砂岩(ラミナ)が、泥によって切られた構造の砂質黒色頁岩層、(ウ)灰色中粒砂岩層と砂質黒色頁岩層の境が、短冊状に接している構造があります。二次堆積や堆積途中での移動を示唆する異常堆積構造が認められました。
 沢の標高1150m付近(【図-⑨】)には、凝灰岩層や凝灰質中粒砂岩層がありました。砂岩層には、薄い黒色頁岩層が挟まれ、黄鉄鉱も含まれています。
 その上流部(【図-⑩】)では、再び、黒色頁岩層と黒色中粒砂岩の互層が見られました。
沢水の途切れる標高1200m付近まで踏査し、調査を終えました。

 

 【編集後記】

 前回(第146)、ブッシュの少なくなった尾根で、鹿(ニホンジカ)の寝床と思われる痕跡の話題を取り上げましたので、今回は、角を木の幹に擦りつけた「ひっかき傷」を紹介します。【下の写真】

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鹿の角によるひっかき傷

 一方、熊(ツキノワグマ)の爪による「ひっかき傷」は、【写真】のようになります。かつては、「自分の縄張りを示したり、大きさを誇示したりする為」と言われたこともありましたが、実際は、樹皮を傷付けて樹液を嘗めていたことが、ビデオ撮影で証明されました。(詳細は、山中白亜系の項目で、いきさつを説明してあります。)

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熊のひっかき傷

 似た「ひっかき傷」ですが、熊の方は、斜めからだけでなく、縦(おそらく、上から下へ)にも傷が付けられています。ちなみに、鹿の角による形跡だとする証拠は、近くに、【写真】のような鹿と思われる体毛が落ちていました。

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鹿の毛

 

 いよいよ明後日(10月31日)は、ハロウィーンならぬ、衆議院議員選挙の投票・即日開票日となります。市会議員や県会議員選挙と違って、国会議員の長野県選挙区(第3区・小選挙区)となると、広範囲に立候補者が少ないので、私の住む田舎には、候補者の選挙カーは、もちろん、政党の広報車からの呼び掛け声も届きません。

 我が家では、選挙権を得てから、今まで一度も選挙を棄権したことは無いので、今回も93歳となる母を連れて、地区会館の投票所に行こうと思います。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-146

  南部域の沢

3-(3) 大野沢支流・第4沢の調査から

 平成5年8月12日に、大野沢支流第4沢の調査をしました。大上林道から入った沢の入口は、礫岩層です。礫種は、主に白色~灰色チャートで、閃緑岩礫も含まれていました。最大経は、5cmです。(【図-①】)
 入口から80m入った所にも砂礫層があり、ここにも閃緑岩礫(最大経10cm)が含まれていました。
 沢が湾曲する標高1010~1030m付近では、珪質の灰色中粒砂岩層が卓越し、小さな構造谷のような地形になりました。
 標高1020m付近(【図-②】)では、薄い礫岩層を挟み、礫種はチャート礫の他に、結晶質砂岩礫(最大経10cm)が多いという特徴がありました。1030m付近では、珪質砂岩層に黒色泥岩と礫岩(灰色~黒色チャート)が挟まれていました。走向は、N70°W~N40°Eと振れ幅はありますが、傾斜は60~70°の南落ちでした。
  沢の標高1040m付近(【図-③】)には、珪質灰色中粒砂岩を造瀑層とする滝があり、礫岩層(最大経礫15cm)と、わずかに黒色細粒砂岩層を挟んでいました。ここに、構造不明な部分があり、断層角礫ではないかという話題も挙がりました。

 沢の標高1050m付近は、沢が再び、緩く東に振れる部分で、東側と正面から尾根が迫ってきます。なぜか、崖崩れが多く、珪質砂岩の転石に覆われていました。
 標高1055m付近(【図-④】)には、「三段滝」がありました。粗粒砂岩をマトリックスとする礫岩層で、白色チャートの礫が多いので、全体が白っぽく見えます。下から、一段目(落差3.5m)、左斜めに8mの滑滝、二段目(落差2.5m)、滝壺の脇で「EW・30~45°S」、三段目(下に滝壺・落差2m)でした。
 三段滝は、左岸側から登り始め、滑滝を横切り、右岸側から滝の上に出ました。
登攀に気が向いて、途中一カ所で走向・傾斜を測定しただけで、細部の情報は見逃してしまいました。途中には珪質の砂岩層も含んでいました。

 滝の上は、珪質の灰色中粒砂岩となり、標高1065m付近に、二枚貝化石(確認のみ・小林正昇資料・10.June.1990)を含む黒色泥岩層があり、礫岩層、珪質砂岩層となります。(【図-⑤】)やや平坦部が続きます。

                    *  *  *

 

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大野沢支流第4沢のルート・マップ

 

 

 「標高1070m付近二股」合流点から下流へ約8mの地点(【図-⑥】)から、内山層基底礫岩層が現れました。ここは腰越沢と共に、内山層分布域・南部地域の基底礫岩層を観察するのに適した場所です。分級(sorting)が悪く、直径30cmを優に越える巨大な礫、寧ろ、礫と言うより岩塊のまま入っています。ただし、全体が、みごとに削られた円礫であるという特徴があります。礫種は、白色~黒色チャート礫が多く、珪質および結晶質砂岩の礫も含まれています。露頭幅は、約10mです。

 二股の上流、標高1080m付近から、黒色頁岩層が、露頭幅30mに渡って続きました。礫相から泥相へと堆積相が急変するのは、内山層最下部の特徴のひとつです。傾斜も北落ちに変わりました。
 そのすぐ上流には、泥優勢な灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層部があり、走向・傾斜は、N40°W・48°NEでした。標高1085~1095m付近(【図-⑦】)は、黒色頁岩層が続き、二枚貝化石を多産する層準がありました。
 沢の標高1100m付近で、黒色頁岩層の中に、帯青灰色・凝灰質泥岩層(凝灰岩層として良いか、層厚60cm)が、2層準、挟まれていました。
 標高1105mの二股付近では、灰色細粒砂岩が優勢な、黒色頁岩との互層が見られ、砂質傾向が強まります。二股の上流では、凝灰質泥岩層(層厚8m)が、黒色細粒砂岩層に挟まれていました。層理面が不明瞭で、走向・傾斜の測定は難しいですが、南落ちに傾斜が変わっているようにも見えました。

  標高1110m~1140mでは、砂質な黒色頁岩と灰色細粒砂岩の互層が続き、標高1130m付近(【図-⑧】)で、N30°W・20°SWと、明らかな南落ちを確認しました。また、二股手前8m地点では、N70°E・20°Sでした。
 ・・後述する「第3沢の調査」から、この傾斜が南落ちに変わる辺りに「都沢断層」が通過していることがわかりました。

 沢の標高1140mで、二股となります。右岸側からは流紋岩の転石がありますが、左岸側からはありません。本流には、落差2mの滝があり、青緑色を帯びた灰色凝灰質砂岩ないしは凝灰岩で構成されていました。ほぼ東西方向の走向で、南落ちと判断しました。本流を遡航する前に左股沢を調査し、沢の標高1170m付近(【図-⑨】)までは、凝灰岩層が分布していることを確かめました。
 この後、引き返して本流の調査に戻りました。
 標高1150m二股付近は、凝灰岩と黒色細粒砂岩の互層で、N60°W・60°Sでした。
 沢の標高1160m付近では、露頭幅15mの礫岩層がありました。分級が良く、最大径でも5mmと粒度が揃い、灰色~黒色チャート礫でした。
 標高1170m付近で、珪質の灰色細粒砂岩層、標高1180m付近で、礫岩層、標高1190mで、凝灰岩層を確認しました。
 沢の標高1200m付近の二股(【図-⑩】)で、二枚貝化石を含む黒色頁岩層が見られました。その上流5mで沢水は伏流してしまい、さらに上流で、再び水流を確認しましたが、ほとんど露頭が望めないと判断し、標高1220m付近で、調査を終えました。

 【編集後記】

 令和3年10月26日、冬型の気圧配置で、佐久平は晴れていたが、季節風が強く、長野県北信地方からの雪雲が流されてきて、浅間山にうっすらと初冠雪があった。

 佐久平から遠く眺められる飛騨山脈北アルプス)は、ずっと前に初冠雪があるはずだが、山の端は雲に覆われていた。

 夕日が浅間山を照らし出して、山の周囲を羽衣(はごろも)のような層雲が懸かり、絶好なシャッター・チャンスだと、急いで家に帰り、カメラを携えて、最初の目撃場所に戻ったが、時既に遅し! 雲で覆われてしまった。

 一時期、浅間山(釜山)の噴火が話題になった時、カメラを常に携えて散歩したことがあったが、それくらい、絶えず気にしながらシャッター・チャンスを伺っていないとだめなようだ。 ・・・ちなみに、下の写真は、平成25年の11月初めの写真です。

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佐久市駒場・長野牧場から浅間の初冠雪を臨む

 ところで、秋の地質調査は、気温も適当で有り難いのと、ブッシュが減って見通しが良くなる。そんな折り、雑木林の尾根筋を歩いていたら、少し下に【写真】のような、ササが踏みつけられたような跡があり、動物、大きさからニホンジカぐらいの寝床と思われる痕跡を発見した。写真を写している方向は、北東側からである。

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 下の【写真】は、南側からで、尾根の高くなる方向に撮したものである。

 確証はないが、南北に長いので、この方向に横たわるか、俯せしたかしたのだろう。

急な傾斜ではないが、北側が高いので、もし、人に例えれば、「北枕」にして寝ていたことになる。まさか、頭を低い方に向けたとは思われないので、そう推理してみた。          

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鹿の寝床(南側から撮影)・香坂川の上流部

 10月26日に、我が家の水田を委託栽培してもらっている方が、新米を届けてくれた。もう、そんな時期になったんだなあと思いました。(おとんとろ)
    

佐久の地質調査物語-145

南部域の沢

 

3-(2) 腰越沢の調査から

腰越沢の入口は国道299号線に面していて、すぐに礫岩層が見られます。礫種は、白色~黒色チャートが主体で、花崗岩や、黒色頁岩の直径2~3cmの円礫です。入口から40m入った粗粒砂岩層の泥岩との挟みで、N65°W・20°Nの走向・傾斜でした。
 沢の標高960m付近では、下位から、(ア)灰色中粒砂岩層(1.5m)・砂質の黒色頁岩層(0.5m)・礫岩層(4.0m)【図-拡大】、(イ)明灰色細粒砂岩と黒色頁岩の互層N52°W・78°NE、(ウ)明灰色細粒砂岩層(小滝を形成)の層序でした。
 右岸からの小さな沢との合流点、標高970mでは、(エ)珪質の細粒砂岩層があり、黒色頁岩との挟みで、N60°W・80°Nでした。
合流点から上流では、(オ)黒色頁岩層N55°W・63°S、(カ)露頭幅5mの礫岩層、(キ)灰色中粒砂岩と黒色頁岩の砂泥互層N50°W・60°NEと続きます。
 これらの走向・傾斜を地質構造に反映させると、小さな向斜構造と背斜構造が考えられます。そして、(イ)と(ウ)の間に小断層が推定できました。右岸からの小さな沢付近の崖崩れ箇所とも関係ありそうです。
  
 沢の標高985m付近から(ク)硬い黒色頁岩層が出始め、沢の流路が急変します。ここに小滝が形成されています。上部瀬林層と下部瀬林層の境を、この(ク)地点としました。
  小滝上流は(ケ)黒色頁岩と珪質の細粒砂岩の互層が続きました。標高1010m付近の互層では、N60°W・50°Sの走向・傾斜でした。その上流から標高1040m付近にかけて、(コ)珪質の明灰色細粒砂岩層が続きます。途中、同質の砂岩層から成る小滝(落差4m)も含め、下部瀬林層に特徴的な砂岩層だと思われます。

 そして、(サ)暗灰色中粒砂岩層(N60°W・70°N)までが、下部瀬林層の分布域と考えました。走向・傾斜を地質構造に反映すると、小さな向斜・背斜構造が考えられます。【図の断面図を参照】
                                      *  *  *

 大礫(最大直径50cm)を含む内山層の基底礫岩層は、標高1050mの三股の少し下流、標高1040m付近から現れます。白亜系(下部瀬林層)との関係は、不整合関係です。
 沢の二股や三股などの地形は、地下の地質の様子を良く反映している場合があります。平成8年当時の三股は標高1050m付近にあって、内山層と白亜系との境は1045mの少し下流の河床でした。標高で5mの差がありました。(cf第4沢でも、差があり、地層の境は、水平幅で8m下流にありました。)
  内山層の基底礫岩層の上流では、明灰色中粒砂岩層(左岸からの小さな沢の合流、標高1070m付近)が見られ、その上位に黒色頁岩層が熱変成により粘板岩化された層準に変わりました。
 大野沢支流・第4沢では、基底礫岩層からすぐに黒色頁岩層に、岩相が急変したので、層序変化は多少違いますが、内山層の調査から、地域により両方のパターンが認められたので、堆積環境を反映したものと思われます。

 この上流部は、N20~30°W・20~25°Eと、安定した走向・傾斜で、黒色頁岩層の単斜構造が続きました。レンズ状に礫岩層が挟まったり、凝灰質中粒砂岩層の挟みもありました。
 沢の上流部、標高1180m付近では、貝化石を多産する層準がありました。二枚貝が主ですが、巻貝も認められます。沢の標高1190m付近で沢水は伏流してしまい、調査を終了しました。

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腰越沢のルートマップと地質断面図

 

 腰越沢の内山層は単斜構造ですが、内山層の中には、いくつかの褶曲構造があります。褶曲構造の軸方向は、南北性の断層によって切られ、しかも移動しているものもありますが、概観すると、基本的には、白亜系の褶曲構造軸と共に、現在の方向で東西性を示しています。しかし、白亜系の褶曲構造は、褶曲面が南に大きく傾いた横臥構造をしている場合もあるので、褶曲構造が形成された時期は、少なくとも複数回あり、二段階以上の形成過程があったのではないかと考えています。
 図の解釈では、白亜系の褶曲構造が先に形成され、その後で、内山層も含む地域全体の褶曲構造が造られたという考え方を採用しています。
 【注;地質断面図】沢の入口から内山層基底礫岩までは、N60°W方向に、そこから上流部は南北方向に、地層断面を切って作成してあります。

 

【編集後記】

 前回(NO-144)で注意書きしたように、「腰越沢の調査から」は、山中地域白亜系の内容と重複しています。

 内山層は、基底礫岩層で基盤岩と不整合関係にありますが、北部域・中部域・南部域で、礫の大きさについて違いがあります。北部域では、敢えて「基底礫岩層群」゜と命名したように、粗粒砂岩が先で、その上に礫岩が載ります。中部域では、巨大な礫を含む基底礫岩が見られますが、南部域では、巨大な礫というより、ほとんど岩塊という物も含まれます。(下の写真)

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内山層の基底礫岩層

 この後の、言わば「まとめ」の章で説明しますが、内山層の堆積盆は、現在の方向で、より南側の方が、陸地すなわち、堆積物の供給地に近かったと考えられます。尚、中部域、特に、谷川の情報からは、西側からの堆積物供給も示唆されています。

 腰越沢の調査は、山中地域白亜系の調査の、しかも初期での調査域ですので、懐かしさも一入です。この地域調査の出発点となった「都沢」の調査と共に原点となるようなフィールドです。(下記のルートマップ及び地質断面図を参照!) 

 

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腰越沢~都沢のルートマップと地質断面図

 

 ところで、地質の話題と共にブログに載せている「俳句」の9月~10月の話題が、滞っています。こちらも、進めなくてはいけません。11月初旬の週休日には、佐久市文化祭が開催され、私たち「みゆき会」も作品を展示する予定です。

 私の本業のひとつである夏野菜の片付けは、ピーマンとトマト(ビニルで覆われているので11月までは大丈夫)を残して、「畑終い」の準備が整いました。きれいに燃えないと困るので、我が家の山林から、枯れ枝や材木を持ってきて、準備万端です。

 季節の移ろいは、寒暖や雲の移ろいだけでなく、具体的な「畑(田)終い」の農作業を通しても実感出来ます。「モズの高鳴き」が聞こえる季節になりました。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-144

南部域の沢

 

3.内山層の分布する抜井川支流の沢

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山中地域白亜系と内山層の地質図 (2007年版を一部変更・緩い向斜構造)

 内山層の分布する南端は、抜井川の北側(右岸)の支流です。下部瀬林層を不整合関係で、内山層基底礫岩層が接している様子が観察できます。各沢ごとに紹介していきます。

  (尚、すでに「佐久の地質調査物語・「山中地域白亜系」で紹介している内容と重複する内容もあります。」)                               

 

(1) 古谷集落北側の沢調査から

 平成5年の秋、「古谷集落北側の沢」の調査に初めて入りました。この沢は、柏木橋下流で抜井川に右岸側から合流する無名の支流ですが、古谷(こや)集落の北側にあるので、フィールドネームとして、沢の名前にしました。

 沢の地質概要は、内山層の基底礫岩層(【図-⑨~⑩】)を境に、上流側は内山層、下流側は白亜系が分布しています。
 薄く下部瀬林層(【図-①】)があり、「矢沢断層」と続きます。その北側は、抜井川本流の向斜構造の北翼に相当し、三山層(【図-②・③・④】)、上部瀬林層(【図-⑤~⑥】)、下部瀬林層(【図-⑦~⑨】)です。また、推定した落差の小さい「馬返(まけし)断層」は、この沢付近で落差が解消されていると思われます。

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古谷集落北側の沢のルート・マップ

 沢の入口(【図-①】)は、礫岩層と珪質塊状の明灰色細粒砂岩層で、下部瀬林層です。

 これは重要な情報です。向斜構造北翼の三山層の連続が予想されるにも関わらず、わずかでも下部瀬林層が露出している事実は、矢沢断層が通っていることを意味します。同時に、都沢付近で上部瀬林層は欠如していますが、下部瀬林層は存在し、さらに西側へと延長してることを裏付けてくれます。

 沢に少し入った標高945m付近(【図-②】)と標高955m付近(【図-④】)には、三山層を特徴付けるストライプ層準があります。それぞれ北落ちと南落ちで、傾斜が反対なので、向斜構造が考えられます。中間の小向斜構造の軸部に当たる(【図-③】)には、薄紫色~青緑色を帯びた光沢のある結晶質砂岩がありますが、熱水による後からの富化した岩相だとわかり、三山層として良いとわかりました。
(山中地域白亜系調査で、スカルン鉱物を観察した折、故・由井俊三先生(北海道大学教授)から、変色する理由を伺いました。)                      

 沢の標高960m付近(【図-⑤】)から上流は、上部瀬林層が分布しています。結晶質で、明灰色~黄緑色を帯びた灰色中粒砂岩が、露頭幅15mに渡り見られます。ここから水平距離で20m上流(【図-⑥】)には、同質の中粒砂岩の上に礫岩層がありました。
 標高970m付近(【図-⑦】)では、砂質の黒色頁岩層があり、熱変成されずに層理面を残しています。これが、シダ植物を含む化石層準に相当し、下部瀬林層の最上位層準です。
 標高990mの二股(【図-⑧】)の上下は、滑滝になっていて、粘板岩の間に礫岩層が挟まれていました。いずれも、礫岩は全て角礫で、最大12~15cmのチャートの角礫が見られました。【図⑤】~【図⑧】が瀬林層(上部層)です。内山層の基底礫岩層と比べると、分級が悪いという共通点はありますが、礫の大きさに関わらず円礫である内山層に対して、瀬林層の礫は、「大礫は角礫~亜角礫で、小さな礫は全て角礫」という特徴があります。礫の摩耗度から、両者は区別がつきます。

 標高1015mの二股付近(【図-⑨】)では、粗粒砂岩層(川底露頭)と、礫岩層(左岸側)がありました。粗粒砂岩層の中には、コングロ・ダイクが見られました。全体は、折れ曲がる形態で、長さは3.7m×幅15~20cmです。コングロ・ダイクの西側から、方向(長さ):「N70°E(1m)+N60°W(1.5m)+EW(1.2m)」でした。

 標高1030m付近(【図-⑩】)では、最大直径15cmの円礫を含む礫岩層が見られました。やや下流の【図-⑨】も含めて、内山層の基底礫岩層群として良いと思います。

 1050m二股(【図-⑪】)のわずかに下流では、灰色中粒砂岩層があり、わずかに黒色泥岩を挟んでいました。境で、N18°W・32°NEでした。
 1060m~1070m(【図-⑫】)では、粘板岩が優勢です。変成度が低い砂質の黒色泥層には、サンドパイプや生痕化石も見られました。

 標高1100m付近(【図-⑬】)では、細粒砂岩と黒色泥岩の互層が、「N40°W・12~32°NE」と、極めて安定した走向・傾斜を保ちながら、緩やかな傾きの地層が観察できます。水量が少なくなる上流部では、南傾斜の沢に対して、地層の傾斜が北落ちなので、ちょうど尾根に向かって続く階段のような露頭の上を歩くことになりました。
 粘板岩の原岩は、泥岩~黒色頁岩と思われますが、北側ほど強く熱変成されています。これは、北側の地下に変成の熱源となった火成岩体が潜伏しているのではないかと思われます。腰越沢上流部にも、同様な熱変成による粘板岩が認められたので、潜伏した熱源の存在を裏付けます。

 標高1130m二股(【図-⑭】)では、粘板岩が見られました。この少し下流では、白チャートの角礫が薄く入る礫層がありました。一方、少し上流で、コングロ・ダイクが見られました。幅40cmから消滅×長さ3mで、先端に向かい粒度が小さくなっていました。
 二股から右股へ進みます。標高1150m(【図-⑮】)では、厚さ50cmの礫岩層がありました。泥相の中で、固い礫岩があるので小さな段差となっています。礫種は、結晶質砂岩とチャート礫で、最大直径は、白チャート(30cm)・結晶質砂岩(6cm)でした。正常な礫岩層には、チャート礫が含まれています。N40°W・10°Nの走向・傾斜の礫岩層のすぐ上流に、鉱泉が湧きだして、「硫黄バクテリア」らしきものが認められました。

 標高1070m(【図-⑯】)付近では、砂相はほとんど無くなり、粘板岩だけになりました。かろうじて見つけた薄い砂層との境で、N70°W・12°Nでした。
 標高1200m二股(【図-⑰】)では、N40°W・16°Nの粘板岩層の中に、コングロ・ダイクをみつけました。この沢では3例目です。(【図-⑨⑭⑰】)
 さらに、上流部に向かって粘板岩の階段は続き、尾根に至るようです。推定、1230m付近まで登り、引き返しました。

 

 余談ながら、内山層では、サンドパイプ(sand pipe・泥凄貝類の巣穴化石)【図-⑭'】、小さな鉱泉【図-⑮】の湧き出し(硫黄バクテリアが棲息)を見つけたり、素手イワナを捕らえたりする快挙もあったりと、話題の多かった沢でした。
 また、沢の入口の東側、柏木橋付近には、かつて長福寺があり、跡地に看板があります。

             *  *  *  *

 

 平成18年10月1日の調査では、上流部、標高1130mの二股から左股沢に入り、標高1160~1175mのガレ場【図-⑱】で、海棲生物化石を採集しました。同行した天野和孝先生(上越教育大学教授)から、次のような化石種の説明をいただきました。  素人が採集するにはいいですが、正確な種名までは分かり難いです。

○Echinoidea (ウニ類) 

○Periploma (異靱帯類・斧足綱の二枚貝)
○Acilana(トクナガ貝)

○Lucinoma (キヌタレ貝) 
○Delecto pecten(デレクトペクテン・ホタテ貝の類)

 

【編集後記】

 「古谷集落北側の沢」の調査は3回行ないましたが、私たちの会員の興味の多くは、標高1160~1175mのガレ場【図-⑱】で、海棲生物化石を採集したことにあると思います。

 一方、私の興味は、沢に少し入った標高945m付近(【図-②】)と標高955m付近(【図-④】)の間にある向斜構造でした。小向斜構造の軸部に当たる(【図-③】)には、薄紫色~青緑色を帯びた光沢のある結晶質砂岩がありました。これらが、顔つきから古そうに見えて、内山層より下位にある白亜系、場合によっては更に下位のジュラ系かとも疑いました。(もっとも、背斜構造でないと可能性は小さいはずですが・・・)それに、矢沢断層が、微妙な位置関係で抜けていたので、興味はさらに高まりました。しかし、結晶質砂岩の色の正体は、黒雲母の熱変成であるという理由を故・由井俊三先生からお聞きしたり、周囲の石英閃緑岩体からの岩枝の影響を考慮したりして、規模の小さな三山層内での向斜構造だと結論付けました。様々な経緯で地質図を作成してきたことを思い出しました。

 ところで、懐かしい話題は、このくらいにして、最近の地質的現象で興味深いのは、今月(2021年10月)7日(木)22:54pm、千葉県北西部の地下80㎞を震源とする地震が発生したことです。マグニチュード6.1で、最大震度は「5強(川口市や足立区など)」でした。

 私の住む佐久市では、「震度3」でしたが、発生が、午後11時と深夜で、結構長く揺れが続いたので、寝床の中で揺れの治まるのを待っていました。我が家は築101年目の木造家屋で、私は2階で寝ていたので、『天井が崩れてくるか、一階がつぶれてしまうか』と、そんなことを想像しながら、耐えていました。揺れが治まり次第、階下に行ってテレビを点けて、上記のような情報を得ました。

 地震発生場所は、まさに私の娘夫婦と孫たちの住む所に近く、心配しましたが、高層マンンション15階住まいでも、比較的最近の構造物なので耐震構造はしっかりしているはずので、我が家より安心かもしれません。後で、情報も入りましたが、やはり驚いたようです。

 翌日のニュースでは、都会に住む多くの人々が、一斉に「3.11、東日本大震災(通称)」を想起して、首都直下型の地震発生の可能性にまで不安を募らせたという話題を拾っていました。『杞憂(きゆう)』の話ではありませんが、同じ地震でも、田舎と都会(人口過密による混乱や流言騒ぎ、交通網・生活インフラの遮断など)とでは、心配の中身が大きく違ってくるはずですので、心配の背景は笑い事では済まされないのだと思いました。 

 天変地異や自然災害の無いことを祈りつつ、一日も早いコロナ禍の終息を願っています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-143

  《 南部域の沢 》

 

2. 矢沢の調査から

 

 小さな河川ながら、抜井川は標高850~860m付近で蛇行し始めます。その右岸にある矢沢集落に、東西方向で流れ込む抜井川の支流が矢沢です。
 矢沢では、沢の入口の石英閃緑岩の露頭から始まり、千枚岩化した黒色泥岩・砂岩の互層や、珪質砂岩層、チャート層などからなる先白亜系が、下流側で見られます。ちょうど、コンクリート橋付近【図-⑨】が境目で、上流側が内山層(新第三系)となります。
 ここ矢沢から、古谷集落北側の沢入口付近を抜け、都沢を経由して四方原山の西側にまで達する「矢沢断層」が推定されます。断層は、北方にも延び、灰立沢~余地川~谷川~雨川中流部に達していると考えています。

 矢沢(やざわ)の調査は、平成8年に、石英閃緑岩体の分布と、推定した矢沢断層の通過位置の証拠を求めて、2日間行ないました。既に、『佐久の地質調査物語・山中地域白亜系』の中で、「矢沢調査で、ひとまずのまとめ」として、白亜系に関係した地域の調査の区切りとしてありました。

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矢沢のルート・マップ

 国道299号線に懸かる橋の下から入ると、入口付近から石英閃緑岩が見られました。石英閃緑岩は、石英と斜長石、角閃石を主体とする深成岩です。肉眼でカリ長石と斜長石を区別することはほとんどできません。ホルンブレンドのような長柱状の角閃石が入っているので、石英閃緑岩として良いと思いました。(【図-①】)
 石英閃緑岩の露頭は、小さな木橋(900mASL)を過ぎた標高910m付近までは、川底にほぼ連続して見られます。
 標高890m付近では、石英の斑晶がなく、流紋岩のように見える産状の岩体が、滑滝を形成している箇所がありました。貫入岩体のほとんど西端に当たるので、急に冷やされて固まった「急冷周縁相」を示しているのかもしれないという議論もありましたが、本当のところはわかりません。この産状は、ここだけで、再び正常な石英閃緑岩になりました。

 木橋の手前8m付近では、細粒の有色鉱物が多く、玄武岩と見間違えるような岩体がありました。黄鉄鉱(pyrite)も異常に多く含まれ、捕獲岩ではないかという話題も挙がりました。(【図-②】)

 標高910m付近で、黄鉄鉱と、薄紫色の黒雲母の細粒結晶が、二次富化された部分をみつけました。由井教授からスカルン鉱物の説明を受けた産状と類似しているので、そう判断しています。ちょうど、この辺りまで、石英閃緑岩の連続した露頭が見られました。

 川が急に開け、落葉松林となります。ここにレンズ状の石灰岩(図のls)がありました。さらに、水平距離で45m上流にも、同様な露頭がありました。石灰岩自体は、熱変成されていませんが、かなり結晶質でした。
 

   沢の標高918m付近にコンクリート製橋、すぐ上流に堰堤(920mASL)があります。
この一帯(【図-③】)は、灰色チャートや珪質砂岩が卓越していました。ここにも、薄紫色に見える黒雲母細粒結晶や黄鉄鉱の二次富化がみられます。また、非常に小さな石英の晶洞(druse)が認められ、堰堤の上流側に幅3mの石英閃緑岩が岩枝状に露出していました。石英閃緑岩体との接触交代や熱水の移動による産状だと思われます。
 後述する「捕獲岩か?(925mASL)」とした岩体も含め、石英閃緑岩の影響は、沢の標高925m付近までと思われます。

 沢の標高925m付近(【図-④】)では、地質構造から目視できる断層がありました。沢水の流れる川底に断層面(N40°E・40°SE)が見られ、右岸側が黒色細粒砂岩、左岸側が千枚岩化した黒色泥岩と砂岩の互層(N60°W・S落ち)でした。左岸の互層部分と断層面は、ほぼ直交した関係になります。

 このすぐ上流にも、砂泥互層部があり、全体は黒色ですが、薄紫色を帯びた部分があり、千枚岩化されていました。これが、前述の「捕獲岩か?」とした岩体と接しています。有色鉱物が点紋状に集まり、閃緑岩に似た感じでした。

 標高928m、右岸を北東から流入する沢との合流点付近(【図-⑤】)では、硬い珪質砂岩が造瀑層となり小滝を形成しています。縮尺の大きい地形図ではわかりずらいですが、流路が南南東(上流側)から西南西(下流側)へと、ほぼ直角近く急変します。これは、矢沢本流と合流する支流方向を結ぶ方向に、断層(断層面:N60°E・80°NW)が走っていることが、原因と思われます。左岸側は、滝を構成する結晶質砂岩で、右岸側は、下流側から続く砂泥互層(千枚岩化はされていない。)でした。左岸側には、青味を帯びた灰色の断層粘土が認められました。

 沢の標高930m~950mにかけては、滑滝が連続していました。
 【図-⑤】の滝は、下位から灰色・黒色・再び灰色と粒度の違いで色彩を変えますが、珪質の砂岩層で構成され、滝の上は、最大経2cmの白色~灰色チャートの円礫を含む灰色珪質砂岩層でした。
 続いて、標高940m付近(【図-⑥】)では、滑り台のような四段の滝がありました。黒色と灰色の珪質砂岩で構成されています。黒色に見えるのは細粒砂岩です。

 その上流でも滑滝が随所に見られました。傾向として、次第に珪質な砂岩が減り、黒色細粒砂岩が多くなります。その中で、「白チャートと暗灰色砂岩が、縞模様となった」層準が認められました。産状を見ると、チャート(図のch)が1cmにも満たない層状で、これを切るようにして薄い砂岩層が、レンズ状または層状に、乱れて重なっています。今までフィールドで見たことのない珍しい産状なので、記載しておきます。いつか、話題になることがあるかもしれません。(【図-⑦】)

 再び、滑滝(露頭幅20m)が続きますが、珪質砂岩と普通の砂岩が混じり、灰色珪質中粒砂岩の中に、シルト片が入るような産状も認められました。
 南東から支流沢が流入する標高958m付近では、青味を帯びる明灰色の細粒砂岩がみられます。

 標高965m~975m付近(【図-⑧】・図のchの多い部分)では、黒色細粒砂岩や灰色中粒砂岩の中に、灰色~白色チャートが頻繁に挟まります。下流部の類似の砂岩と比べると、珪質傾向ではなく、明らかにチャート層が入っていることに注目してください。チャート層が卓越する範囲です。

 ちょうど、コンクリート橋付近(【図-⑨】・標高978m~979mほど)が境目です。下流側へ石英閃緑岩までが先白亜系で、上流側が新第三系(内山層)です。形成年代が大きく異なる両者は、断層で接していると考えています。
 そこで、矢沢から、古谷集落北側の沢入口付近を抜け、都沢を経由して四方原山の西側にまで達する「矢沢断層」を推定しています。ただし、一般的に言えるようですが、時代の異なる岩相では明らかに区別できるものの、目視できるような断層の証拠は認められませんでした。

   コンクリート橋(【図-⑨】)から上流へ約30m、南から小さな沢との合流点付近では、暗灰色中粒砂岩層と黒色細粒砂岩層が見られました。最初に確認できる内山層と思われます。地層の境目で、「N0°~20°W・30~35°E」と、東落ちでした。
 その10m上流では、黒色細粒砂岩層に挟まれた礫岩層があり、「N60°E・60°SW」でした。白色チャート礫が多く、粘板岩や砂岩の礫も含まれていましたが、角礫や不規則な形の礫が多いという特徴があります。これは、「礫の大きさに関わらず円礫」という内山層基底礫岩層の特徴とは明らかに違います。岩質は硬く、沢は走向に沿って流れていました。

 標高985m~1005m(【図-⑩】)に、第1・第2・第3「クランク」と私たちが名付けた特徴的な地形が、連続して展開します。
 かつて、地質情報が十分でなかった頃、内山層は、「内山中生層」と言われていた時代もあるくらいですが、少なくとも、矢沢の第1~第3クランクの産状を見る限り、非常に硬い岩質で、下流側の先白亜系よりも時代が古いのではないかという感触すらしました。
 その中でも、珪質の明灰色細粒~中粒砂岩は特に硬く、これらが黒色~灰色中粒砂岩に挟まっていると、その部分は浸食に強いために削られず、沢は流路を90°近く転向して流れるようになります。その形が、日本の城郭施設の枡型(ますがた)や工具の「クランク」に似ているので、フィールドネームで呼ぶことにしました。

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 第1クランク(標高985m付近)では、黒色中粒砂岩層・珪質の明灰色細粒砂岩層・礫岩層(直径3cm白チャート)を挟む黒色中粒砂岩層という構成で、幅10mほどの珪質部分(方向N10°W)に対して、沢が「卍」文字の片方のように「クランク」に似た流路となります。

 第2クランク(標高1000m付近)では、全体的に珪質ですが、黒色中粒砂岩層・明灰色細粒砂岩層・灰色チャートを挟む黒色~暗灰色中粒砂岩層の構成で、下流側から、それぞれ「N20°W~N40°E~N70°E」と、流路が変わります。矢沢全体は、切り立った沢ではありませんが、ここだけは両岸が10m以上の崖に囲まれた渓谷です。下流側の黒色中粒砂岩層に、二枚貝や巻貝の化石層準があり、鏨(たがね)で叩いて、ようやく採集できました。巻貝の抜け落ちた跡も数多く観察できました。私たちは、詳しい種まで化石鑑定をすることができません。もし、文献による予備知識がなければ、砂岩の硬さから、とても新第三紀層とは思えないような印象の地層でした。

 第3クランク(標高1005mより少し下流)は、小規模で、粘板岩片の入る黒色中粒砂岩・明灰色細粒砂岩で構成され、クランクの中軸は珪質細粒砂岩「N30°~50°W・NW落ち」で、小さな滝を形成していました。

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矢沢の第1~第3クランク(ルート・マップ)

 

 

沢の標高1005m付近で、北からの小さな沢と合流します。岩質は硬いものの、砂岩は珪質でなくなり、泥質な部分を挟むようになります。互層の滑滝では、泥が浸食されて小さな「ケスタ状」構造が観察できました。「N10~30°W・10~20°E」と、緩やかな東落ちでした。
 沢が南に振り始める標高1015m付近から、風化色が黄土色の粗粒砂岩が出始めてきました。クランク部分と標高1015m付近の間で、岩質と構造が大きく変化していますが、原因はわかりません。

 標高1020m付近(【図-⑪】)では、同質の粗粒砂岩層と暗灰色中粒砂岩層の境で、「N60°W・20°SW」と、緩やかな南西落ちに変わります。
 これより上流の標高1040m二股付近までは、同様な岩相と地質構造が変わりません。
風化色が黄土色の粗粒砂岩と塊状の黒色細粒砂岩が主体です。この黄土色は、凝灰質であると思われ、黒色細粒砂岩との組合わせも、標高1015mより下流域とは異なった岩相です。

  

 標高1040m二股から右股沢に入りました。風化色が黄土色の粗粒砂岩と黒色細粒砂岩に加え、明らかに凝灰質の砂岩層が多くなりました。
 二股上流の小滝(【図-⑫】)の造瀑層、黒色細粒砂岩層と黄土色粗粒砂岩層の境で、
「N40°E・18°SE」のデーターを得ました。
 これより上流での走向は、N20~30°Wと安定し、20~30°Eと、東落ち傾向でした。沢は、走向に沿っていると思われ、黒色細粒砂岩と黄土色(風化色・元は暗灰色)粗粒砂岩、凝灰質中粒砂岩の互層が繰り返し観察できました。
 標高1150m付近(【図-⑬】)では、黒色で、やや珪質な細粒砂岩層の中に、3本の白色チャート層(10cm層厚)が認められました。内山層の中にはあまり見かけない産状です。
 また、標高1200mの上二股を左股に入って、すぐの所(【図-⑭】)で、石灰岩塊の転石をみつけました。転石情報ではありますが、内山層の分布域では、あまり目にすることのない石灰岩ですので、奇妙に思い記載しました。

 この後、急斜面の沢のブッシュ漕ぎをして林道に出ました。
 黒色頁岩層の露頭がありました。少し下った、標高1250m付近(【図-⑮】)の黒色頁岩層から、二枚貝と魚鱗(ぎょりん)化石を見つけました。
 林道を進み、林道の西へ張り出した標高1280m付近(【図-⑯】)では、凝灰岩露頭があります。新鮮な部分は、緑色凝灰岩として良いかと思います。
 林道の標高1260m付近では、凝灰岩の間に、斜長石が点紋状に入る安山岩質溶岩がありました。これより、林道沿いの山側露頭で、安山岩質溶岩が認められます。良く見ると、斑晶の大きさは変化しています。矢沢本流を越えた右岸側(山側)に、同質の安山岩質溶岩が観察できました。(【図-⑰~⑱】)「板石山溶岩」だと思われます。
 林道の標高1160m付近(【図-⑲】)で、黒色細粒砂岩(主)と凝灰質な黄土色(風化色)粗粒砂岩(従)の互層部の、黒色細粒砂岩層から、二枚貝化石とウニの殻模様の化石を見つけました。ちなみに、走向・傾斜は、N55°W・20°Nでした。
 林道を下った標高1120m付近(【図-⑳】)では、灰色中粒砂岩層と凝灰質粗粒砂岩層の互層部分で、N30~70°W・30~40°NEでした。

 林道が大きく北側へ「ヘアピンカーブ」する所の東側、標高1040m付近(【図-21】)で、珪質の灰色中粒砂岩層に、岩脈状に入る礫岩の異常堆積構造(コングロダイク)を見つけました。尾根を挟んだ古谷集落北側の沢でも3露頭認められています。

 

 【 閑 話 】
 残念でならないことは、矢沢に関する写真資料が無いことです。調査には携帯していくはずのカメラですが、平成8年の2回の調査では忘れたようです。それで、不確かですが、昔のフィールド・ノートを見返して、矢沢の第1~第3クランクのイメージを描いてみました。なぜ、200mにも満たない流路だけ、珪質砂岩層が卓越しているのか不思議です。

 『灰色チャートに見える層』と記載した内容は、当時のメモ書きでは「チャート層」と記されていました。この後、大野沢支流第5沢で、「珪酸分が表面に付いただけの珪質砂岩層をチャート層」と間違って解釈した話題が出てきますが、まさに、その原点でした。
 珪酸(SiO2 )の多い砂岩層とチャート層は、大きな違いです。放散中の化石を含むチャート層は、深い海洋底で堆積したものがプレートによって運ばれてきた付加体の産物だからです。 

 

【編集後記】

 本文中に出てきた『矢沢断層』についての話題です。

 地質図を作成する時、本来は繋がっていたと考えられる地層が連続していなかった時、地質構造の立体的な矛盾が解決できるようにと考えて、断層の存在を推定します。いわゆる「推定断層」です。・・・・もっとも、詳しいボーリング調査でもしない限り、地下の様子は目視できないので、どうしても推定せざるを得ません。

 しかし、地質構造だけでなく、明らかに堆積した時代の異なる地層が接している場合は、かなり確かな証拠として良いです。運良く、断層面が観察できたり、断層粘土があったり、崩れやすい断層帯があったりした場合は、さらに証拠として強化されます。

 『矢沢断層』の場合、推定断層とは言え、「推定」の文字を取り除いても良いくらいのいくつかの証拠に裏付けされた断層構造です。

 矢沢では、先白亜系(ジュラ系か)と内山層が至近距離で接しています。

 また、南側で、抜井川~都沢では白亜系の中の地層同士の不連続、蛇紋岩帯のずれが証拠です。一方、北側で、余地川から谷川では、先白亜系と内山層が接していることが証拠です。詳細は省きますが、都沢の奥から内山川まで、断層の道筋が追跡できました。(下図は、灰立沢と矢沢での断層の位置と、石英閃緑岩や板石山溶岩の分布がわかるように、部分的に載せたものです。)

 

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灰立沢から矢沢付近の地質図(矢沢断層や石英閃緑岩・板石山溶岩)

 今頃になって、改めて地質図を作成した頃を思い出してみると、いくつかの断層の位置や構造についての証拠集めや、地質柱状図などを作成して、断層の落差や「ずれ」を計算したことが、とても懐かしく思い出されます。

 私たちレベルの地質学や地質図は、いい加減さも確かにあると思いますが、それでも、詳細で多くのデーターを集め、最善の推理方法と、数理的処理で何んとか解明しようと努力してきています。

 さらに、現代のコンピューターを使った「3D」機能で、地質図が、立体的に視覚的に表現できれば、多くの人にわかりやすく伝えられるのになあと思っています。(おとんとろ)