北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-153

第Ⅸ章 内山層の層序

 

6.層序や岩相から示唆されたこと

 

 これまで地質柱状図で示してきた地域で、雨川水系の北側の支流と抜井川の北側支流は、主に内山層の下部層のみの分布でした。また、矢沢と灰立沢は、上部層だけのようです。

 ですから、下部層から上部層まで、内山層が連続して見られるのは、北部域の沢(特に、柳沢や大沼沢など)と、谷川だけです。
しかし、北部域・中部域・南部域を総括してみると、模式地(柳沢・大沼沢)は、全体の岩相を代表してはいませんが、堆積輪廻としての変遷や層序・堆積物の粒度変化を考える上で、以下のような内山層の特徴を表しています。

 以下の4つの観点から、模試地とその他の地域を比較して見てみます。

【観点-①】基底礫岩層の特徴(粗粒砂岩層の存在・礫の大きさ)

【観点-②】下部層の岩相と、その変化

【観点-③】下部層と上部層の境目(上部層最下部の粗粒岩の存在)

【観点-④】上部層の岩相と、その変化

 

【観点-①】

・模式地(柳沢や大沼沢)では、粗粒砂岩や粒度の小さい礫岩の上に、巨礫を含む礫岩  が載る。(基底礫岩層群)

◆その他の地域では、(ア)基底礫岩の下の粗粒砂岩のような存在は認められなかった。

  (古谷集落北側の沢は、例外)

 (イ)相立(内山川本流)と抜井川支流では、優に直径50cmを越える極めて大きな角のとれたブロックがある。

【観点-②】

・模試地では、砂優勢な砂泥互層→泥優勢な砂泥互層→黒色泥岩層にコングロ・ダイクが含まれる→泥岩層という順番で重なる。

・特定層準ということはないが、(砂質)黒色泥岩層に海棲動物化石(二枚貝化石が多い)が見られる。

◆その他の地域では、(ア)砂優勢→泥優勢という傾向は認められない。
  内山川黒田付近や抜井川第4沢では、基底礫岩のすぐ上位から、二枚貝化石を含む黒色泥岩層が厚く堆積している。

(イ)コングロ・ダイクを含む層準は、下部層の比較的上部がほとんどだが、それ以外でも1例認められた。(古谷集落北側の沢)

(ウ)コングロ・ダイクの分布は、西側に偏る。(詳しくは、別項で)

(エ)多産する神封沢付近では、灰色泥岩(シルト岩)~灰色細粒砂岩で産出している。

 

【観点-③】

・柳沢:粗粒砂岩と礫岩で、層厚2m(露頭幅10m)

・大沼沢:間に砂質泥岩層0.5mを挟み、上下に層厚2.5mの砂礫岩層
 隣接していて、層準からも、連続した砂礫岩層が顕著に認められる。

◆その他の地域では、(ア)全域で粗粒砂岩層や礫岩層の「砂礫岩相」が認められる。

(イ)巨礫が入ることはない。角礫であることもある。(基底礫岩の大きくても円礫と対照的である)

(ウ)神封沢では、礫岩層が下位層を不整合で覆う。(一時的な陸化が予想される。)

(エ)林道東山線では礫混じり層準の後、水棲植物の炭化物が入った中粒砂岩が認められる。

(オ)武道沢ではカキ殻、黒色頁岩塊が見られた。

 

【観点-④】

・模式地では、「砂礫岩相」層準の上に泥岩層が載り、海棲動物化石が見られる。その上位は砂泥互層が続く。

・上位に向けて、砂優勢・凝灰質傾向があり、凝灰岩層を含む。

・大沼沢では、玉葱状風化をする砂岩、緑色凝灰岩層が見られた。

◆その他の地域では、(ア)泥岩層はほとんど発達することなく、細粒砂岩層や中粒砂岩層のまま上位の層準へ推移する。(北部域の西側の沢、谷川)

(イ)上位に向けて凝灰質傾向が強まるのは、全域で見られる。

(ウ)北部域の東側(ワチバ林道の沢、舘ヶ沢)では、上位層準で凝灰岩層が頻繁に挟まるようになる。(かつて、駒込層として扱われていた経緯もある。)

(エ)堅い岩相でクランク状の渓谷を作る層準があるのか?(滝ケ沢林道の沢、障子岩)

 

 

6-(1) 滝ヶ沢林道の沢~仙ヶ沢付近の下部層と上部層

 

 様々な情報から「矢沢断層」が、都沢上流部から抜井川(柏木橋の西10m付近)、矢沢(コンクリート橋付近)、余地川(湯川と温泉の沢の間)を通り、滝ヶ沢林道の沢~仙ヶ沢を抜けていると推定されました。
 一方、雨川本流~滝ヶ沢林道の沢の岩相を見ると、中流部に内山層上部層を挟み、下流部~雨川本流と上流部が、内山層下部層のように思われます。また、仙ヶ沢下流部には、
内山層の下部層と上部層があるように思われます。
 それで、「まとめ」からの情報を手がかりに、地質構造を以下のように解釈しました。(数字は、ルートマップの数字です。)

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6-(2)熊倉川の内山層分布について

 

 標高865m付近にある滝(「知床滝」と名付けた)から下流側の熊倉川本流は、象ヶ滝、熊倉集落付近まで、明らかに先白亜系だと思われます。しかし、「象ヶ滝」を観察した後、本流の南側・尾根斜面から本流に降りる場所を探している途中で見かけた2露頭は、内山層上部層でした。象ヶ滝の上流側へ1本目の沢の標高920m付近(【図-⑬】)の暗灰色中粒砂岩層(N10~20°W・15~18°NE)と、2本目の沢の標高930m付近(【図-⑭】)の熱変質した灰白色細粒砂岩層(N30~40°W・10°NE)のことです。(数字は、ルートマップの数字)

 また、余地峠から東に延びる林道沿いも内山層です。標高1260m付近(【図-②】の熱変質灰白色細粒砂岩層(N25°W・20°NE)、標高1230m付近(【図-③】)の熱変質灰色細粒砂岩層・黄鉄鉱(pyrite)の晶出が顕著、(N20~30°W・10°NE)の2露頭は、内山層下部層としました。そして、「四方原山-大上峠」断層が推定され、林道分岐点(標高1140m)を過ぎた(【図-④】)の粘板岩(N40~50°W・15°SW)露頭は、内山層上部層と解釈しました。
 次に解釈の上で問題になるのが、熊倉川の【図-⑥】~【図-⑬】の扱いです。

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 問題は、礫岩層(⑧・⑨)です。礫岩層(⑥)と礫種は共通していても摩耗程度の違いから、別の時代の可能性もありますが、次の3つの理由で、全部が先白亜系だと解釈しました。

(ア)巨礫を含む礫岩は内山層基底礫岩層にもあるが、堆積盆の性質(東には開いていたと推測)から、基底礫岩層ではあり得ない。また、下部と上部の境の「砂礫相」に、巨礫は含まれない。

(イ)礫岩層の走向・傾斜がEW・北落ちである。周囲の内山層の走向は寧ろNSに近く、調和的ではない。(断層を境に変わっているとの解釈が合理的)

(ウ)推定断層の上流の帯青灰白色中粒~粗粒砂岩の変成前の原岩は、凝灰質砂岩で、内山層上部層に特徴的に見られる岩相であるのではないか。

 

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6-(3) 大上林道沿い露頭と

 第5沢の内山層分布について 

 大野沢支流第5沢と、その沢沿いに大上峠に至る大上林道で、内山層が見られるのはわかりましたが、その層序はわかりずらいです。特に、成因不明な小断層の話題(林道露頭【図-⑩】)は、依然として疑問のまま残りますが、ある程度明らかになった内山層の層序に当てはめて各露頭の所属を決め、以下のように全体像を解釈しました。

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 当範囲付近は、「四方原山-大上峠(よもっぱら・おおかみとうげ)」断層の通過が予想されました。走向・傾斜を見ると、【図-③】より西側は西落ち、【図-④】より東側は東落ちとなりますが、傾斜は50°~80°と高角度で立っています。一方、走向は、基底礫岩層(第4沢の基底礫岩と結んだ値)の「N40°W」が全体を代表しているように思います。
 それで、当地域は、全体的に見ると東傾斜で、一連のものだと解釈しました。
 また、周囲の情報(大野沢支流第6沢・第7沢や大野沢本流調査の結果)から、当地域は四方原山-大上峠断層の北側にあることが明らかになりました。ちなみに、断層の南側は、瀬林層(下部層と上部層)が、向斜構造で接している北翼になります。

 

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 【 閑 話 】

 内山層上部層の特徴について、『堅い岩相でクランク状の渓谷を作る層準があるのか?(滝ケ沢林道の沢、障子岩)』と付記しましたが、大野沢支流第5沢の標高1055m付近(【図-⑤】)の落差4mほどの滝も、非常に堅い珪質細粒砂岩で、チャート層と見間違えたほどでした。

 (ア)矢沢の第1・第2・第3クランク:珪質砂岩層が見られる、(イ)熊倉川の障子岩:全体は粗粒砂岩だが、珪質傾向である、(ウ)滝ヶ沢林道の沢のクランク状渓谷:熱変質した灰白色泥岩~細粒砂岩層、(エ)仙ヶ沢のクランク状渓谷:熱変質した中粒~粗粒砂岩層、(オ)第5沢の滝:珪質細粒砂岩層と、泥や砂で粒度は違いますが、どれも堅いです。
 堅くなった原因は、(ア)・(イ)・(オ)が珪質(siliceous)であること、(ウ)・(エ)が玢岩による熱変質であることのようです。偶然にも、内山上部層が多いですが、矢沢クランクは、内山下部層に属します。

 

【編集後記】

 元の原稿には、各沢のルートマップはありませんでしたが、もし、この章のこの内容だけ見た人は、さすがに、露頭番号がなければ、何のことだかわからないと思い、追加しました。

 内山層の分布している各地域を概観した内容をまとめたものですが、要は、模式地と言われる「柳沢や大沼沢」の岩相やその変化は、内山層全体を代表していないという結論です。それだけ、内山層の堆積盆は、広大なものではなく、地域によって堆積環境に差があったことを示しています。

 次の章では、「コングロ・ダイクの成因」について話題にしますが、この中で、堆積盆の様子についても言及したいと思います。

 ところで、前回に続き、今月のファイル使用量がまだまだ1%にも達していないので、既に、各沢のデーター紹介の折りに使った写真も含め、熊倉川の印象的なものを紹介します。

 

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「知床滝」と名付けた、いきなり川底に落下する小滝

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円形の滝壺 【破砕帯の上流】

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障子岩の大岸壁

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熊倉川の象ヶ滝

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熊倉川の自然公園

  

 救急の 母案じつつ 去年今年

 奇しくも令和3年の大晦日(12/31)の午後、119に要請をして、私の母を救急搬送してもらいました。この俳句のように、大晦日の晩から新年(元旦)にかけて時刻が移ろい、年越しの瞬間を過ごしました。

 佐久医療センターに入院した母は、明日ようやく転院できそうです。退院なら嬉しい限りですが、コロナ禍で、一番近くと希望していた病院では、一般病棟(リハビリを兼ねる)に空きがなくて、佐久総合病院(本院)へ入院の運びとなりました。

 救急隊員の方や、病院での医療関係の多くの方々のお陰です。感謝申し上げます。

 CTで見せてもらった脳の血管の様子から、かつての母の姿と同じようにとは期待できません。毎朝、午前7時には、私の作った(もちろん妻も基本的には用意しますが)味噌汁を持って、一緒に朝食を摂っていた生活に戻ることは、不可能かなと覚悟はしています。寒さ厳しい「大寒」ですが、私たち家族にとっても厳しい年明けとなりそうです。(おとんとろ)
 

 

 

佐久の地質調査物語-152

第Ⅸ章 内山層の層序

 

4.南部域・矢沢の地質柱状図

        データーから

 

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矢沢(やざわ)の地質柱状図

 コンクリート製の橋(標高978m)付近に先白亜系と内山層を分ける「矢沢断層」があります。下流は御座山層群と思われ、そこに石英閃緑岩が貫入しています。上流は、内山層で、褶曲構造が認められ、向斜軸付近の粗粒岩を境に、下部層と上部層に分かれます。最上位は、板石山安山岩溶岩に覆われています。

 

 

5.南部域・抜井川支流の

     地質柱状図データーから

 

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抜井川支流(北側)の内山層分布域の沢で対比

 図の範囲は、抜井川に北側から流入する沢で、左側が西、右側が東になります。これらの沢の中流部から上流部にかけて内山層が見られ、下流部は山中地域白亜系が分布しています。断層によって断たれていますが、大局的に見ると、東西方向に軸をもった白亜系の向斜構造があり、その北翼に当たります。
 それで、向斜軸から北側へ離れるにつれ、三山層、瀬林層下部層、瀬林層上部層(以上、白亜系)と分布し、これらを内山層(新第三系)が不整合に覆っています。内山層の基底礫岩層と接する白亜系は、いずれも瀬林層下部層です。この為、地質柱状図で表現する時、白亜系の部分は、層序の上下関係が逆になっています。(注意してください。)

 また、隣接する沢なのに、巨礫を伴う基底礫岩層が見られないことが、ひとつの根拠となって通過する位置を推定した「都沢断層」が、大野沢支流第3沢と第4沢の間を通っています。

   内山層基底礫岩層が、瀬林層下部層を不整合で覆っている露頭が、古谷集落北側の沢、腰越沢、大野沢支流第4沢の中流部にあります。礫岩層の層厚は、10~15mでした。直径が優に50cmを越える巨大な礫が含まれています。他の地域でも、巨礫は含まれていますが、この地域が一番径が大きく、その数も多いです。

 礫岩層のすぐ上位は、いきなり厚い黒色泥岩層が堆積しています。二枚貝の化石も含まれます。この傾向は、北部域と共通しています。その上位に、コングロ・ダイクを含む層準がありますが、認められたのは、西側の「古谷集落北側の沢」だけ(※)でした。
(※コングロ・ダイクは、基底礫岩層群の粗粒砂岩層にもありました。また、正常に堆積した礫岩層も見られました。)

 この地域では、内山層の下部層が見られ、大野沢支流第4沢で、最大240mでした。しかし、上部層の最下部となる粗粒砂岩ないし礫岩の「砂礫相」露頭が、観察した範囲ではありませんでした。
 尚、第4沢では、凝灰岩層や軽石(pumice)が入る層準がありますが、これらは他の沢へはなかなか追えず、鍵層(key-bed)にはならないようです。

 

【編集後記】

 各項目ごとに「地質物語」の回数を重ねてきましたが、「4.矢沢の地質柱状図のデーターから」の内容が、少ないので、次の「5.抜井川支流の地質柱状図データーから」も一緒に紹介することにしました。

 これで、北部域~中部域~南部域の代表的な地質柱状図を示しましたが、細かな部分で検討が必要な沢や、中部域の東側に位置する「熊倉川流域」については、まだ説明してありません。次の回(153回)以降で紹介していきます。 

  

             *  *  *  *

 

 ところで、今月のファイル利用量が、まだ1%にも達していないので、写真を掲載したいと思います。 

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根子岳志賀高原)~浅間火山群の眺望

 天気予報の「雨雲(雪雲)レーダー」を見ていると、連日、北陸(山陰)~東北~北海道の日本海側では、大雪となっています。その雪雲が季節風で流されて佐久地方にも降雪します。しかし、いつもそうなる訳ではありません。

 先日の雪雲の流れを見ていると内陸部へは、京都~関西、場合によって関ヶ原方面への侵入と、長野県大北地域(大町・白馬~中野・飯山)を経て、場合によっては北関東へ侵入としていました。内陸侮への侵入は、山岳地帯が壁となって、雪雲を分けていたようです。

 後者の雪雲侵入の境目になるのは、上の写真の連山です。左(北西側)の志賀高原~浅間火山群です。この北側は、野沢温泉(長野県)や越後湯沢・谷川岳尾瀬沼方面となり、豪雪地帯です。 

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浅間山と呼ばれている山並(黒斑山・牙山・前掛山)

 実は、「浅間山」という名前の実際の山頂は、存在しないという話題は、何度も紹介しました。ちょうど、北海道の「大雪山」という名前の実際のピークが無いのと同じです。

 ただし、多くの人は、浅間火山の現在の噴火口を持つ、「釜山」の佐久側から見て前掛けのように覆う「前掛山」を浅間山と理解しているようです。山の肩から写真の右(南東側)へかつての溶岩流が流下したなだらかな稜線が続きます。良く観察すると、大きく二段の溶岩流跡が確認できます。その先に、小浅間があります。(下の写真、左端)

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小浅間の南東(右)にパラダスキー場(上信越自動車道の橋脚も見える)

 上の写真の雪の白くつもった筋は、「スキーガーデンパラダ」で、主に人工降雪によるスキー場です。平尾山の北側と南側斜面にスキー場があり、こちらは南側斜面です。

 軽井沢プリンスホテル・スキー場と共に、上信越自動車道都心部から車で移動してきて、普通なら「ノーマル・タイヤ」のまま、スキー場に到達できるという便利さがPRポイントのひとつです。というのも、写真からわかるように、スキーゲレンデ以外には、雪が見あたらないほどです。

 さすがに、今シーズンは無謀ですが、これも佐久地方の厳しい寒さの割に雪の降らない気象条件の賜(たまもの)かもしれません。

 

 ところで、エピソードを2つ紹介して、終わりにします。

(ア)「天気予報は、好きな方をお選びください。」

 天気予報の全国版は、新潟・長野・(前橋~埼玉をとばし)東京の天気が紹介されます。この時期は、長野「曇り時々雪」に対して東京「晴れ」が多いですが、好きな方を選ぶと、正解です。つまり、東京と同じです。

 一方、東海地方から関東に懸けて天気の悪いとき、東京「曇り時々雨」に対して長野「晴れ、午後は雲が広がる」だったら、晴れていた方が好きなので長野を選ぶと正解です。要は、東京と長野の天気を見て、より好天気を選べば、佐久の天気予報となります。実際、晴天率も高く、反対に降水量も少ないようです。

 
(イ)「いつから浅間見学の名所になったの?」

 三枚の写真の一番上の写真に写る畑は、私が耕作している畑の一部が写っています。

 畑仕事をしていると、自家用車が止まり、いつまでも動きません。私が働いている所を監視しているような気がして、睨め付けると去っていきます。

 どうやら、例えば蓼科から大河原峠を越えてきたり、場合によっては新しくできた「美笹・深宇宙電波探査用地上局」を見学した帰りに、市道を下ってくると、視界が開けて浅間火山群が良く見えるので、下車して携帯電話で写真を撮っているらしいのです。

 先日は、プロ・カメラマンが使うような写真機と三脚を持ち、県外ナンバー車の男性が写真を撮っていたので、話しかけたら、『浅間が良く見える場所として紹介されている?』と語ったのには驚いてしまいました。

 まだ、北海道富良野のラベンダーを写す為に、畑に無断で入られて困りますというような訳ではありませんが、夏場に働いている最中に駐車するようなら困ると心配している私です。 (おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-151

第Ⅸ章 内山層の層序

 

3.中部域・谷川の

    地質柱状図データーから

 雨川の南に位置する谷川では、先白亜系(海瀬層)を内山層基底礫岩層(層厚17m)が不整合に覆い、内山層の下部層から上部層まで、ほぼ全層準を見ることができました。
 北部域で、コングロ・ダイクを含む層準を中部層として、下部層(広義)の中で、比較的上位の層準を区分しましたが、谷川でも岩相変化から区別することができそうです。下部層(広義)は、基底礫岩層を除けば、全体的に細粒砂岩層(砂相)ですが、コングロ・ダイクを含む層準は唯一の泥相で、黒色泥岩が熱変成された粘板岩(slate)でした。その意味で、中部層を区分することができます。

 また、下部層(広義)と上部層の境も顕著で、わずかに細粒砂岩層を挟みますが、層厚50mにも及ぶ礫岩層が発達しています。その上位に、熱変質した灰色中粒砂岩層が重なっています。沢の標高1165m以上では、石英閃緑岩が見られました。内山層との境は確認できませんでしたが、内山層の上部層の中でも上位層準へ貫入しているように思われます

 内山層の下部層(中部層を含む広義)の層厚は185m、上部層の層厚は、100m以上と推定しました。
 全体で、285~300mほどの厚さになります。北部域と比べると、層厚は半分ほどです。比較的、粗い砂相が多く、泥相が極めて少ないので、堆積盆の西端だったのかもしれません。
                              

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谷川(やがわ)の地質柱状図

 

【編集後記】

 谷川は、御座山層群(海瀬層)のジュラ紀の地層や、それを不整合で覆う内山層基底礫岩層や、石英閃緑岩の貫入の様子など、様々な地質現象が見られ、綺麗な沢です。

少し長い沢なので、2回に分けて入りました。

 地質の詳細や調査時のエピソードは、各沢の説明でしてありますので、そちらをご覧ください。少しイメージが湧くように、ルートマップと写真を載せました。

 

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谷川本流のルートマップ

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調査の外、滝登りも楽しめる

 ところで、新型コロナウイルス、オミクロン株の猛威は、私たちの住む田舎にも拡大中です。私の外出は、冬田道の散歩ぐらいなので、多くの人と接することは少ないですが、明日は病院へ出かけるので、少し緊張しています。

 今日は、午前10時~11時30分の短時間に激しく雪が降り、積雪は4㎝ほどでした。降り止むのを待って、さっそく雪掻きをしました。ただ、ラッキーなことに、日中は、+1℃まで上がり、雪の後は冬晴れの空が広がったので、多くは解けてしまいました。

 日本海側の地方では、竜巻の話題や大雪の情報が入ってきましたが、ちょっと雪掻きをする程度の佐久地方で、暢気なことを言っていて申し訳ないようです。ただ、日陰は、雪がなかなか解けないので、こまめに雪掻きをする必要があります。

 それにつけても、今シーズンは寒過ぎます。明日の朝も、-8℃~-9℃の予報です。がんばって寒さを乗り切りましょう。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-150

第Ⅸ章 内山層の層序

2.中部域・雨川水系の

    地質柱状図データーから

 雨川水系の北側の支流で、左側が西、右側が東です。西武道沢と林道「東山線」の間に南北性の断層が推定され、その西側ブロックでは背斜構造の南翼(主に南落ち)に当たり、東側ブロックでは向斜構造の北翼(主に北落ち)に当たっています。
 共に、北側になる内山川水系と雨川水系の分水嶺に向けて内山層上部が分布していると予想されますが、西武道沢上流部の他には露頭が見つかりませんでした。尾根の多くは、志賀溶結凝灰岩層(鮮新世・3.4Ma b.p.y)や凝灰角礫岩層(兜岩層)で覆われていました。
 観察できた範囲は、主に内山層の下部層で、林道・東山線では、最大170mほどと推定できました。
 コングロ・ダイクを含む層準は、西側の小屋たけ沢~アザミ沢で、また、東側のヌカリ久保沢~林道東山線で見られました。アザミ沢で見られた凝灰岩層が追跡できないので、両者の層準の位置関係は不明でした。

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雨川水系の北側支流の柱状図

 

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構造の理解の為、たびたび掲載している。雨川水系に注目されたし!

 

【編集後記】

 前回(第149号)の「北部域・内山川水系」のまとめでは、内山層は「海進~海退」の堆積輪廻が大きく2つあったようで、上部層と下部層に分けられますが、下部層の上位に「コングロ・ダイク」で特徴付けられる層準が認められ、中部層などとしました。

 しかし、尾根を南側に越した雨川水系の北側の支流のデーターからは、中部層として敢えて独立させるだけの資料は得られませんでした。この後、さらに南側の地域の様子を紹介していきますが、同様な結果です。

 北部域・内山層の構造は、東西に褶曲向軸が延びる構造が認められましたが、雨川水系でも同様です。ある意味、一連の大きな地質構造の中での出来事なので当然かもしれません。

 ところで、農閑期の今は、西北西~北西の厳しい寒風の中、連日のように60~70分の散歩をしているくらいなので、自由な時間はあるのですが、ついつい「はてなブログ」への投稿が毎日続きません。反省です。と言うのも、暇そうに見えて、毎日、何らかの出来事や、やらなければならない事柄があって、そちらを優先してしまいます。

 今日の午後、散歩の後、いつものように鐘楼で鐘突をして帰宅したら、「みゆき会」のM会長が自宅に訪れ、1月の句会の中止を伝えに来てくださいました。M会長も、全会員への配布物を歩いて配ったので、ちょうど私の散歩時間中、歩き回っていたことでしょう。理由は、新型コロナ・ウイルス、オミクロン株の感染拡大に対する処置です。

昨日の佐久市の新規感染者は、8名(10万人市民)でした。田舎にとっては、記録的に多い数字ですので、仕方ありません。各自が短冊に記入して、それを回収・印字して、選句します。来月の2月に句会が開催できれば、その時に、1月分も皆で鑑賞し合います。

 今季の冬は、朝の雪かき中に登校する小学生に出会ったり、午後の散歩中に下校する小中学生に合うことが多いです。感染力が強いと言われるオミクロン株の感染拡散で、休校というような事態にならないことを祈り、鐘を突いています。(おとんとろ)

 

 

 

 

                      

 

佐久の地質調査物語-149

第Ⅸ章 内山層の層序


 内山層の分布する各地域の調査した沢の基礎資料は、既に述べてきましたが、地質柱状図で比較しながら、層序と岩相・層厚などの変化について見てみたいと思います。

1.北部域の地質柱状図データーから

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北部域の地質柱状図

 基底礫岩層の露頭が見られるのは、主に内山川本流で、北部域での支流では、牛馬沢と富沢だけです。上図では、大沼沢と武道沢が本流へ合流する、内山川本流のデーターを加えてあります。
 内山川水系の支流、柳沢と大沼沢は、内山層の模式地とされています。基底礫岩層から、ほぼトップの凝灰質砂岩層ないし緑色凝灰岩層までが、ほぼ連続して観察でき、内山層の全層準が堆積していると思われます。ただし、小さな背斜・向斜構造の繰り返しがあるので、それらを考慮して、層厚を最大600mと推定しました。
 また、2つの沢では、層序の中程となる粗粒砂岩層や礫岩層の上位に、黒色泥岩層が厚く堆積しています。これは、基盤の先白亜系を基底礫岩層が不整合で覆い、急速に深まる海に堆積物を貯めた後、一時的に海が浅くなる時期があったことを意味しています。そして、再び海進があって、次第に深まる海に泥岩層が貯まりました。つまり、「海進~海退」という堆積輪廻が、内山層では2回繰り返されたことを示しています。
 層序の中間辺りの粗粒砂岩層ないし砂礫岩層が発達する層準は、北部域だけでなく、ほぼ全域で共通して見られます。そこで、ここを境に下部層と上部層に区別しました。
 しかし、北部域でも西側の沢(例えば、中村林道の沢)や、中部域・雨川水系や谷川などの岩相変化を見ると、砂礫層の上位は、泥相にならずに砂相のまま、凝灰質へと変化していきます。

 

 つまり、内山層が一番発達している柳沢や大沼沢は、全域からみると、内山層全体の岩相変化を代表していないように思います。岩相変化としては、典型的な堆積輪廻の様子を観察できますが、寧ろ、特別です。内山層堆積盆の中心部であったのかもしれません。

 もうひとつの大きな特徴は、異常堆積構造のコングロ・ダイクが、下部層の中でも、比較的、上位の層準に集中していることです。そして、大沼沢より東側の沢では見られません。
 中部域や南部域の沢でも、コングロ・ダイクを含む層準は、多くの沢で認められました。ただし、特定な層準に集中するという訳ではありませんでしたが、ほとんどが下部層に属しているように思います。
 それで、北部域での模式的な地質柱状図(層序)を、左図のようにまとめました。中部層は、大きな区分では下部層に属するものの、ひとつの区分とすることにしました。


 (ア) 内山層・下部(狭義)

① 層厚5~10mの粗粒砂岩層ないし砂礫岩層の上に、20~30mの厚さで、巨礫を含む礫岩層が載っています。
 内山川本流の相立(あいだて)と、苦水(にがみず)の日向橋下流では下位の地層との直接的な関係は確かめられないものの、基底礫岩層と考えられる礫岩層が観察されます。
 内山川本流の「千ヶ滝上流部付近」、「モモロ沢の西隣沢との合流点付近」、「黒田・初谷沢の入口付近」の3箇所で、巨礫を含む基底礫岩層の下に粗粒砂岩層があり、下位の白亜系と不整合で接していると考えられます。特に、千ヶ滝の上流部では、粗粒砂岩層から内山層の二枚貝化石が発見され、基底礫岩層との接し方からも、間違いはないという感触を得ました。

 そこで、巨礫を含む典型的な礫岩層だけでなく、その下位の粗粒砂岩層や砂礫岩層を含めて、基底礫岩層群という解釈が良いように思います。ただし、基底礫岩層の下に砂礫岩層が認められたのは、北部域の上記3カ所と、南部域の古谷集落北側の沢だけでした。

② 基底礫岩層群の上に、砂岩と泥岩の互層が載ります。大沼沢や柳沢では、砂泥互層を、さらに、下位の砂優勢と上位の泥優勢の部分に分帯できるようにも思いますが、他の沢では明確にすることはできませんでした。
 特に、黒田では、初谷沢合流点の基底礫岩層群から、推定層厚で25mにも達しない間で、完全な黒色頁岩層が現れます。この傾向は、南部域(大野沢支流第四沢など)でも認められました。砂泥互層部分は、堆積盆の拡大と海の深まりによって、砂優勢から泥優勢へと徐々に移行したわけではなく、急速な海の深化があった場所もあったと思われます。

③ 基底礫岩層群と砂泥互層を合わせて、下部内山層(狭義)です。層厚は、50~200mと推定しています。層厚に幅が大きいのは、大沼沢付近で、最大の200mを示しますが、それぞれ東西方向に層厚が、大きく減少する傾向があるからです。

(イ) 内山層・中部・広義の「内山下部層」に属する

① 下位の砂泥互層(下部内山層)に対して、砂質の黒色頁岩層が主体で、岩相は単調になります。ヒン岩(porphyrite)岩脈の貫入に伴う熱変成によって、粘板岩になっている部分もあります。

② 正常に堆積した地層(内山層プロパー)に対して、ほぼ直交するように礫岩層(コングロ・ダイク)が挟まっています。コングロ・ダイクは、大沼沢よりも東側の沢では認められません。このため、神封沢を抜ける推定断層の東側は分帯が難しく、砂泥互層と泥岩が多くなる岩相の変化によって、下部内山層と区別しました。 
 コングロ・ダイク層準は、薄い凝灰岩層を挟み、少なくとも2~3層準あると推定しています。しかし、小さな褶曲構造もあり、対応関係はつかめていません。

③ 内山層・中部層の厚さは、100~150mと推定しています。内山川水系支流の沢の中流部に、広く分布しています。


(ウ)内山層・上部(上部内山層)

① コングロ・ダイクを含む単調な泥岩層の上に、中粒~粗粒砂岩層ないし砂礫岩層が載ります。層厚10~20mの砂岩層や礫岩層を含む砂礫岩層の層準がほぼ全域で認められ、この層準から上が、上部内山層です。

② 砂礫岩層のさらに上位にくる層準は、再び砂泥互層に漸移する東側地域と、砂が卓越したままの西側地域で、岩相は大きく異なります。
 東側の舘ヶ沢付近では、砂質の黒色頁岩層や灰色砂質泥岩層(シルト岩)に二枚貝化石を多産する層準があり、その上から凝灰質砂岩層が発達します。
 また、大沼沢付近では、塊状の砂質泥岩層が多く、玉ねぎ状風化も頻繁に見られます。中間に当たる武道沢付近では、カキ殻化石を含む礫岩層が発達しています。白色チャート、蛇紋岩、緑色片岩など特徴的な礫種が見られました。釜の沢から西側では、凝灰質砂岩層が多くなります。上部内山層堆積盆は、このような岩相の違いから見ても、東西方向で性質が異なっていたと考えられます。

③ 上部内山層の層厚は、100~200mと推定しています。東側ほど厚い傾向があり、大沼沢では250mとかなり大きめな数値となりました。西側の釜の沢や中村林道の沢では、露頭がなくて上限の確認ができません。しかし、武道沢データの100mの層厚は維持されているのではないかと推定しています。

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内山層の模式層序(3区分→2区分へ)

【編集後記】

 新型コロナ・ウイルスの感染拡大が、私たちの地域でも拡大したので、野沢北高校卒50周年記念に向けた学級での打ち合わせ会(1月13日に予定)を中止しました。

 私たちは、電話連絡だけで済みますが、お店の方は、とんだ迷惑なコロナ第6波です。丁寧に、予約をキャンセルしましたが、とても心苦しい次第です。

 今日は、佐久医療センターに入院した母が、リハビリをする為に必要となった靴を届けてきました。大晦日の12月31日の朝、立てなくなり、言語が怪しくなりましたが、様子を見ていましたが、ついに決意して救急搬送を決断しました。予想していたように、脳血栓の初期段階で、右腕と右足が麻痺していたようです。発見が早かったので、回復の可能性は高いものの、高齢なので覚悟はしています。

 昨日は、医師以外の方々から今後の予定や、転院までのことを聞き、少し私がパニックとなり、アルコール量が増えてしまいました。今日は、回復しています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-148

南部域の沢 

3.内山層の分布する抜井川支流の沢

 

3―(5)大野沢支流・第5沢と

     大上林道の調査から

 

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大野沢支流第5沢付近のルートマップ

 大野沢林道の標高1010mから、大野沢支流第5沢に入りました。沢の入口は、石英や長石などを多く含むアルコース粗粒砂岩と砂質の黒色頁岩の互層でした。(【図-①】)
 アルコース砂岩(arkose sandstone)というのは、花崗砂岩とも呼ばれ、酸性~中性の火成岩やその変成岩が風化され、供給された堆積物からなる粗粒砂岩のことです。最近あまり聞かれなくなりましたが、地向斜~造山運動の後、隆起・浸食された砕屑物が周囲にできた堆積盆に、堆積した岩相の特徴です。走向・傾斜は、N10°W・80°Wと、ほぼ南北走向で、垂直に近い西傾斜を示していました。

 その上流10mに、凝灰質の明灰色中粒砂岩層で形成された滑滝(落差2.5m)がありました。軽石石英が押しつぶされていました。(【図-②】) 滝の上流は、風化すると黄土色となる凝灰質な粗粒砂岩と、砂質黒色頁岩の互層(N20°E・70°W)です。

 沢の標高1025m付近(【図-③】)では、露頭幅5mの礫岩層が見られました。最大径10cmの灰色チャートの亜角礫です。粘板岩や硬い灰色砂岩も亜角礫です。この少し下流にも、同質の礫が入る砂礫層が見られました。

 沢の標高1030m付近では、砂質の黒色頁岩層(NS・70~80°E)が見られました。これまでも垂直に近い急傾斜でしたが、ここで落ちが西傾斜から東傾斜に変わっています。【図-③と④の間】

 二股となる沢の標高1045m付近(【図-④】)に、最大径15cmのチャート円礫を含む礫岩層と、粗粒砂岩層が見られました。

 この上流から標高1055mの滝(【図-⑤】)までの間は、砂質の黒色頁岩と中粒砂岩の互層が点在し、標高1050mの露頭幅8mの互層では、NS・60°Eでした。

 

                              *  *  *  *

 

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岩の硬さから誤解していた小さな滝

 

 大上林道側(右岸)からの枝沢との合流点手前、標高1055m(【図-⑤】)に、全体が粗粒砂岩でできた落差4mほどの滝【写真の上】があります。滝の上部は、結晶質の非常に硬い細粒砂岩で、チャート礫を含む礫岩層を挟んでいました。この滝が、非常に硬いので、平成6年に調べた時、大きな誤解をしていました。
 しかし、詳細に見ると、右岸側、滝の下1/3から右上方(左岸側)へ、幅30~50cmの白色~灰色のバンドが見えます。これは、結晶質の細粒砂岩層です。「レンズ状のチャート層(1994)」と記載していたものです。しかし、岩石を割って中まで見ると、チャート状部分は表面の2~3cmだけで、内部は結晶質の珪質細粒砂岩であることが判明しました。
 これは堆積後に再結晶したもので、明らかにチャート層でないことが理解できました。同時に、この極めて硬い地層が、内山層だとわかり、更に驚きました。(矢沢のクランクで話題にした内容です。)

 そして、滝の上の平坦部・標高1062~1063mの範囲(【図-⑥】)でも、珪質の結晶質細粒砂岩層が見られました。ただ、一見チャートに見えた産状は、『チャート礫や珪酸分の多い礫などを含んだ砂岩層が、再結晶したものではないか』と推理するわけですが、本当のことはわかりません。特徴的な層準の延びを、大上林道でも確認できました。

             *  *  *  *

 

 一方、大上林道での様子です。林道の北へ大きく湾曲する「ヘアピンカーブ」の東側に、内山層基底礫岩層が観察できます。(【図-⑦】)
 大野沢本流の川底にも礫岩層を確認しました。対岸はコンクリート壁や木々で覆われていて確認できませんが、基底礫岩層の延長は、対岸から三角点1165.3の西まで続き、「四方原-大上峠断層」によって切られているのではないかと推測します。

 大野沢林道との分岐手前(【図-⑧】)に、流紋岩の岩脈があり、一部は、大野沢本流に岩枝となって抜けていました。(同様な流紋岩の岩脈は、第5沢の支流(【図-⑪】)と、大上林道沿い(【図-⑫】)にも露出していました。)

 林道沿い露頭(【図-⑨】)では、二枚貝化石を産出する黒色頁岩と明灰色砂岩の互層がありました。分級が悪く凝灰質です。この層準は、大野沢本流でも、第5沢との合流点の少し上流でも確認され、連続していると思われます。

 大上林道の標高1160m付近で、第5沢の標高1055mの滝を形成していた付近か、少し下流の互層部に対応する層準を確認できました。(【図-⑩】)
 コンクリート防護壁の東側の露頭は、滝と、その上流側に対応していると思われます。

コンクリート壁から東側に、やや黄緑色を帯びた珪質の中粒砂岩層(層理面がはっきりしない)、小断層、礫岩層、風化黄土色・灰色粗粒砂岩層という順番で観察できました。(説明図や写真は無し)

 

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構造不明部分の露頭

 コンクリート防護壁の西側は、疑問の多い構造をしていました。【露頭スケッチ参照】
 【上の写真】は、露頭全体のイメージ理解と共に、右上に着目すると、楔型に現世堆積物が入っています。その左(西側)は、黒色頁岩と黒色細粒砂岩の互層の上に、西にいくぶん傾いた形で、小断層のようなものが入っています。

 【下の写真】は、砂泥互層と小断層部分(写真上の斜めに入る)の様子です。断層の上に黒色中粒砂岩層が、下位の砂泥互層とは非調和的で、交差するように乗っています。   

 この産状を、新しい時代の地層が不整合で覆っていると解釈すれば、起こり得る地質現象ですが、上位の黒色砂岩層は、下位の内山層と同時代のものと思われます。それ故に、構造不明な奇妙な現象です。

 全体は、かなり地層が立った構造をしていますが、礫岩層(層厚3m+)付近を境に、西側の砂岩の互層部は西落ち、東側の砂泥互層部は東落ちになっています。
 また、凝灰岩層と砂岩の互層には、生痕化石のひとつであるバイオターベーション(bioturbation)と言って、底棲生物の這い回った跡が残されていました。礫岩の右側、砂岩層の表面には、蛇紋岩が付着していました。

 黒色頁岩と細粒砂岩の互層部からは、淡水性シジミ貝(corbicula)の仲間の二枚貝化石が見つかり、内山層であることが確認できました。

 平成27年8月21日に、再度確認の為に同じ露頭を見に行きましたが、木々に覆われ、露頭は隠されてしまっていました。今では貴重な資料です。

 

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小断層部分の様子

 

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大上林道の構造不明部分の露頭スケッチ

 

 【編集後記】

 地質に関する話題(佐久の地質調査物語)は、第147回を2021年(令和3年)10月29日に載せたので、第148号は、何とおよそ2ヶ月ぶりになります。改めて、サボっていたなあと思います。今回で、具体的な地質データの報告は終わりとし、次回(第149回)からは、これまでの情報をまとめた内容に言及していきます。少しは、興味も沸いてくると思います。編集方針で、地道な実地に踏査したデーターを後世にも伝えたいという意味で、詳細に載せています。動植物調査より、はるかに壊れにくい岩石や地層ですが、それでも長年の間に、浸食されて変形したり、それにも増して、勢いのある植生によって露頭が覆い隠されてしまいます。この為、私たちの後輩は、あるのに見えないということになってしまいます。実際に、自然を目撃した者の使命として、資料を残しておこうという考えからです。

 ところで、今日の午前中は、雪が舞っていました。季節風が強いので、北アルプスを越えて、佐久地方まで雪雲が流れてきているようです。真冬日ではなかったですが、やはり日差しがないと、寒さは一入です。そんな中、帰省中の孫(小学1年生)の唯一の宿題が、『木製独楽(こま)を回せるようにする』だそうで、私が指南していました。

 昨今の県外の小学校では、長期休みの宿題が無いようです。夏休みは、何もありませんでした。多分、どの家庭でも、家庭独自の方法で課題となるもの(練習帳や場合によっては塾通いなど)で勉強させているから、「学校ではノータッチ」という方針なのでしょうか?

 こうなると、経済格差だけでなく、家庭での学習に対する応援態勢の差で、今度は学力格差になるなあと懸念するのですが、実態はどうなのでしょう。ちなみに、孫は、算数は計算ドリルをやり、何と、英語は中学1年生の秋頃の内容をやっていたので、びっくりです。まさに、「名探偵コナン」の工藤進一君のように、体は子供、頭脳は大人というようなミニチュア版だと思いました。もっとも、親に問題をやらなくて、注意を受けながら、渋々とやったり、お菓子が欲しいと大騒ぎする悪がき要素のたっぷりと詰まった小学1年生です。

 私(じいじ)の仕事は、暇になるとゲームや関連のテレビを見てだらだらと過ごすので、冬田道に散歩に連れ出すことです。最初は嫌がっていますが、すぐに自然の中に興味のあることを見つけ出し、ちょうど子犬を散歩に連れ出したら、あちこち過ぎ回って寄り道をするのと同じ現象です。それも、冬晴れの雪景色は楽しいようです。

 ただ、私には運動量が少なすぎるので、私は、後でもう一回、競歩の散歩に出かけています。寒いのも我慢です。(おとんとろ) 

 

令和3年12月(みゆき会)の俳句

    【師走の句】  ~散歩道で三題~

 ① 暮れ早し 鐘(かね)突き眺む 山の影

 ② 冬晴れの 電線すずめ 数えおり

 ③ 残照に 風鎮(しず)まりて 雪浅間 

  新型コロナウイルの新規感染者数は、11月下旬から全国で1日100人台と減ってきているが、12月に入ってからも、依然として横ばいのまま推移している。忘年会は、まだ自粛傾向にあるが、外出の少ない少数の老齢者が、地区会館で会食するぐらいは許されるだろうと、昼食会を兼ねた納会と定例句会を開いた。

 私の場合、農閑期に入った12月は、午後の散歩が日課になりつつある。散歩コースは、その日の気分で変わるので、まさに漫ろ歩きだが、出かける時刻は、ほぼ一定している。人通りの少ない住宅地や冬田道、枯れ木立の山道、神社・仏閣などを訪ねることもある。時には車で、景色の良い場所や公園に出向くことはあるが、個人の趣味の為に貴重なガソリンを消費することは、気が引ける。
 それで、今月は、午後の散歩で見聞きした内容を題材に、俳句を創作してみた。

 


 【俳句-①】は、散歩からの帰宅直前に、敷地にほぼ隣接する薬師堂の鐘楼に登る。鐘を突きながら、佐久平にできる山の影を眺めたことを詠んだ。
 『智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。・・・』高村光太郎智恵子抄「あどけない話」ではないが、私の住む山里も空が無い。
 もっとも、本物の空が無い訳ではなく、佐久の地は冬晴れが続き、抜けるような青空が広がるが、盆地の西端に位置する集落では直射日光が山で遮られ、日の陰り出す時刻が、とにかく早いのだ。
 11月下旬~12月初旬の一週間ほどが、1年中で最も日没が早いが、我が家の庭は午後2時半に、山の日陰域に入る。
 一方、佐久市の日没は、早くても4時半頃なので、まだ空は明るく、鐘楼から眺める佐久平には山の影が映る。まさに、日向と日陰の最前線である。日陰前線の東側にいる人や物は、まだ直射日光が当たっているんだなあと、羨ましく思う次第である。(但し、当然のことながら、朝の事情は、これと逆の関係になる。)

              *   *   *

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田圃道から倉澤薬師堂を臨む

 ところで、帰宅前に私が突く鐘の碑文は、以下のような漢詩風に記されている。
詳しいことは不明だが、「四言詩(よんごんし)」の形式で、12フレーズ(対となる部分が6あると理解できる)から構成されている。

 

 『洪鐘再生 山畔髙懸』・『響揺霊峰 聲透頂天』・『群鳥讃法 竜虎穏眠』 ・『精舎礼楽 整備現然』・『佛日増暉 瑠璃光鮮』    ・『心願成就 何亘言詮』

 

 何と読むかは自信がないが、漢字の組み合わせから、およその意味はわかる。小学生に伝えるつもりで解釈すると、①梵鐘を作って山里に吊した、②鐘の音は山々に響き、天まで届く、③お経の素晴らしさを称えるように鳥たちが鳴き、荒れ狂う龍や虎さえも心静かに眠る、④集落に暮らす民も幸福となり、綺麗な街並みができた、⑤御佛の照らす慈悲の光は増して瑠璃色に空は光輝く、⑥願ったことが神仏に届き、その通りになるように(?)という感じだと、私は理解したが、どうだろうか。解釈が正確でないことは承知だが、『鐘を突くと、良いことがあるよ』と、私は勝手に解釈して、散歩から帰り、本堂に参拝した後で鐘を突いている。

 ただ、ひとつだけ確かなことは、「①の梵鐘の再生」の意味である。
 梵鐘の碑文の続きに、「昭和55年1月吉日」とあるので、1980年の正月前後に梵鐘が、富山県高岡市の専門業者の手により、鋳造されたとものと推定できる。私は、就職したばかりで、家を離れていた時期で、当時の事情や建設の経緯を、祖父から聞いておかなかったことを悔やむばかりだ。

 ただ、私たちの腕白小僧時代は、薬師堂と鐘楼を敵対する勢力の居城と想定し、
チャンバラごっこ(模擬戦闘)をしていた。鐘楼には、太鼓があって、出陣や退却の合図に使っていたことを覚えている。

 なぜ太鼓かと言うと、大東亜戦争時代、鐘楼は、鉄類の不足から軍事兵器の製造の為に供出されたので、その後に太鼓を備えたという話を祖父から聞いた。それが、戦後45年を経て、ようやく地域住民の発意によって、かつての鐘楼を復元しようという運びになったのだと思う。
 それ以来、倉澤薬師を訪れる人々が年始回りに訪れる、12月31日の晩から新年にかけて鐘を突く人が多かった時期もあったが、最近では、鐘を突く人は、ほとんどいない。私ぐらいになっている。陰で『鐘突き爺さん』などと呼ばれているかもしれない。

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倉澤薬師・梵鐘の碑文

 


 【俳句-②】は、散歩をしていたら、雀(すずめ)の群れが、冬晴れの電線に留まっている。その様子をしばらく観察した時の感慨を詠んでみた。『数えおり』という表現なので、文字通りの意味から、何羽いるかと指折りして数えたような印象を与えるが、真実は大部違う。
 私は、思わぬ観点から雀の群れに感動していた。それは私の観察の特徴でもあると思う。そして自然科学的な疑問でもある。
 令和3年3月に雀の群れの俳句を詠んだ。
 春一番 パシュートの如 群れ雀』
 特に、冬季から春先に雀は群れを作って生活している。そして、人が近づくと皆が一斉に飛び立ち、右に左に、上へ下へと、一糸乱れぬ飛行行動をする。その統制の完璧さは、世界記録を樹立した日本の女子パシュート・チームのようだと感心し、不思議さに感動した。
 その後、群れている雀は、その年に生まれて育った子雀であり、集団で越冬していることを知った。春になると集団お見合いから、カップルができて、次の世代の子雀が誕生していくと言う。一方、親雀は春を待たずして、半分ぐらいは自然死や凍死してしまう。雀の寿命は、せいぜい1~2年で、長生き雀でも3年以内と言われる。
 そんな実態を知って、雀の群れを見ていると、『すずめの学校の同級生同士で結婚しているのか』などと、変な所で感心してしまった。

 ところで、私が一番関心を抱いて観察したことは、電線に留まった雀たちの向きであり、その間隔であった。電線に対して直角方向を向いて留まるが、例えば多くが南を向いている時、北を向いているものもいる。私は、その数を数えていた。全部を数える前に飛び去ってしまうので、何んとも言えないが、なぜなのだろうか?

 夏の雪渓で休憩する時、『一人は雪渓の上を見ていろ!』と先輩から教わった。見晴らしの良い麓方向を見て寛いでいる最中に、岩が落石となって直撃する危険があるからだ。雀の群れも、一部は反対方向を向いていれば、天敵を発見できるのかもしれないが、その任を担う雀は決まっているのかと疑問に思う。

 それよりも、少し隣りと離れていたりすると、「ひねくれ雀」なのかなと心配したりする。そして、電線に留まる時の間隔が、ぴたりというのは無いが、少し離れ過ぎ、近過ぎというのはある。「すずめの学校」の交友関係を観察しているようである。
 もちろん、見上げる「電線すずめ」の上空には、佐久特有の群青色~紺碧色で吸い込まれるような冬晴れの青空が広がっていて、それに感動していることは言うまでもない。

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電線すずめ(青空でなくて残念ですが・・・ )

【俳句-③】は、冬の夕暮れに最後の太陽光が浅間山に当たっている。純白の冠雪は、少し薄い紅色を帯びて神々しく見える様を詠んだ。
 佐久平の冬の夕暮れの様子は、俳句―①でも説明したが、盆地の西の山に日が沈んで山の影が伸びていく。そして、最後は、標高の高い浅間山系の残照となり、やがて薄暮から夕闇に変わる。
 残照は、「夕焼け」という意味ではないが、真昼の真っ青な空と純白の雪に象徴される「爽やかスポーツ少年」のようなイメージから、光量の減少から色彩の透明感が少なくなり、少し憂いを帯びた微妙な色合いに変わる。「モルゲン・ローテ」にも似るが、時間帯の違いのせいか、印象は違う。
 見ている私が男性であるせいか、同じ若者でも、麗しく、たおやかではあるが凛とした少女のようなイメージがする。
 ジェンダー・フリーの時代なので、神聖な山を「男性名詞・女性名詞」のような例えをすると嫌がられるので、このくらいにしておく。要は、一日の中でも、時間帯によって美が異なるということが言いたい。

 ところで、俳句会に提出した元の俳句は、『残照に 神々しさ増し 雪浅間』であった。
 中七句は字余り(中八)であるが、山の素晴らしさを「神々しい」と表現したかった。しかも、昼間も良いが夕暮れはもっと良いという気持ちを表したかったので「増し」を入れた。
 会の先輩らから、『素人が中七の字余りに挑戦するのは、どうかな』、『抽象的な言葉の意味を、具体的な物や事実で表現して、それが神々しいと創造できるようにしたら』と言われ、変更することにした。
 まだ、十分に具体的ではないが、残照というスポット・ライトが浅間山に当たると、ご威光で、風も静かに凪いで、自然界全体が鎮まったというような脚色をした。それで、『風鎮まりて』としてみたのだが・・・・。

 

【編集後記】

 昨年は、がんばって12月31日・大晦日の晩に、師走の俳句を「はてなブログ」に載せることができたが、今年は、年をまたいでしまった。

 心配していた新型コロナ・ウイルスの新規感染者は、かなり抑えられていて、少しずつ増加してきているが、まだ、全国で一日500人台である。ただし、千や万を超えた頃の印象があるせいか、少なく感じるが、しかし、脅威である。

 特に、1月1日~2日の二日間で、長野県では20人台の新規感染者が、私たちの住む近く(東信地方)であった。人々が、年末年始で帰省していた影響もあるかと想像すれば、今後が心配です。

 ところで、わが家でも娘たちが家族を連れて帰省中で、寒く季節風の中、それでも日中の暖かな時間帯を選んで、全員で冬田道を散歩に出ています。

 今日も、これから出かけますが、風もなく、暖かそうです。(おとんとろ)