北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和5年度 4月の俳句

         【卯月の句】

 

 ① 列島の 黄砂清める 禊(みそぎ)雨


 ②  松の芯 黙して語る 山路かな


 ③ 産声で 歴史が増えし 若緑  《緑立つ季節》

 

 昨年12月末からの臨時講師勤務は、令和5年3月31日までであったが、担当した卒業生の高校進学先も決まり、必要な書類提出も済んだので、4日を残して元の「自由人」に戻った。学校勤務という厳密な制限時間を意識した生活から、時間を自己制御する生活に戻れたという意味である。ストレス・フルな生活から解放されたという意味ではない。確かに一時期は大変であったが、健康的に過ごせたことの方が多かった。毎朝測定している血糖値・血圧・体重は良好であった。どうやら私は、多少のプレッシャーがあった方が、良い生き方ができるようだ。

 さて、佐久市役所で「国民健康保険」への復帰手続きを終えた後は、予定通りに進まなかった。私の農作業の相棒となる管理機の修理が手惑い、加えて、気が抜けてしまい、怠け気味な生活態度で、今季初の農作業は、4月8日となった。
まずは、JAからかなり前に届いていた種ジャガイモ10㎏・119個(半分にするので、238片)を土中に伏せた。
 今月一番印象深かったのは、不快な「黄砂」現象であった。しかし、これでは俳句に詠みにくいと思い、もう少し爽やかな題材を必死に見つけることにした。
そして、「緑立つ」の季語を見つけ、一句以外は、それらで詠むことにした。


 【俳句-①】は、とても不快な黄砂現象が、雨によって解消されたこと、いつもは大嫌いな雨降りだが、今回ばかりは、大気や地上の汚れ・穢れをお祓いしてくれたようで、感謝しつつ、厳かな気持ちで受け入れられたことを詠んでみた。
 季語は、「黄砂(黄沙)」である。
少し難しい言い方では、『霾(ばい・つちふる)』や『霾(よな)ぐもり』、『霾風(ばいふう)』、『霾天(ばいてん)』がある。私としては、わかりやすく気象用語でもある『黄砂』がいいと思い、採用した。
 佐久地方では、4月13日が特に酷かった。どの方向を見ても、ぼやけて見える。わかってはいても、思わず眼鏡を外し、レンズを拭いてから見直して見たが、同じであった。くすんだ四方の景色の上空は、太陽光が溢れ、晴れていることは明らかである。普通の曇り空と違って、十分な明るさは伝わってきているからだ。
 しかし、「春霞」や「朧月夜」と出会った時のような、ベール越しの情緒や風情を楽しむ気持ちには、なれない。似た気象現象なのに、原因が違うと科学的には理解できても、どこか生理的に拒否反応が起きていたのかもしれない。

                             *  *  *

例年より激しい黄砂に見舞われた

 ちなみに、「黄砂」とは、中国大陸のタクラマカン砂漠ゴビ砂漠、黄土高原(黄河の中~上流部)などの乾燥地域で、風によって上空(数1000m)まで巻き上げられた土壌・鉱物粒子が、偏西風に乗って日本に飛来し、浮遊しつつ降下する現象であると、気象庁資料などでは説明されています。

 ところで、『大陸の黄砂が、日本海を越え3000㎞も飛んで来られるの?』と、疑問に思う人もいると思うので、黄砂粒子の大きさを話題にしたい。非常に小さくて、直径が「4μm(マイクロ・メートル)のオーダー」だと言う。大気汚染物質として最近話題となる「PM2.5(直径2.5μm以下の物質の総称)」並である。              ※1μm=1/100万m=10-6 m
 さらに、雲粒と雨粒の大きさの違いがわかると、粒子の違いによって生ずる現象を理解しやすい。
 雲は、高度や密度の違いはあるが、小さな水滴や氷の粒で、大気中の上昇気流によって、重力バランスを保って浮いている。その大きさは、直径10μmほどある。これが雨粒になって落下するには、もっと大きく重たくならないといけない。少なくとも直径が1mm以上(ようやく聞き覚えのある単位である)にならないと雨粒にはなれないと推定されている。1mm=1000μmなので、雨粒は雲粒の直径の100倍以上の大きさである。体積は3次元なので、100の3乗(106)個が集まって、ようやく落下できる状態となる。これは、地球を100万個集めた太陽と地球の大きさの関係と同じである。それ程、同じ水の粒子であっても、大きさは重力に関して敏感である。つまり、自然界で普通に発生する上昇気流が無くても、もっと小さな粒子であれば、大気中で十分に浮いていられるという訳である。

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 学生時代のある時期、私はNHK気象通報を毎晩聞いて、天気図を記入していました。山行に必要な技術でもあったからです。その折、滅多に登場しない「地吹雪」や「砂塵」がアナウンスされた時のことを懐かしく思い出します。前者は「猛吹雪、white-out、blizzard」のこと、後者は「砂嵐、sand-storm」のことです。どんな気象状況なのかは想像できますが、本物に出会ったことはありません。
 春先、松本平の穀倉地帯を車で通過していた時、春颯を受け、乾燥した畑から一斉に砂埃が舞い上がる光景を目にしたことがありました。きっと「黄砂」になるには、もっと大規模で、かなりな上空まで吹き上げられた砂嵐の中で、さらに細かな粒子が選別されて大気中に浮遊するようになるのだろうと想像しました。

             *  *  *

中国の集落を襲う砂嵐

 さて、黄砂現象は、日本の平安時代の文献にも載っているようで、昔から自然現象であると理解されてきましたが、近年、その頻度と被害が甚大化しています。4月13日のインターネット情報では、中国の北京でも例年以上に視界が遮られるほど激しく、さらに今年は長江を越えて、黄砂が上海にも達したと伝えられていました。
 かつて黄土地帯は、広く森林に覆われていたと言います。それが、都市建設や要塞・長城の建設に伴なう建材利用、煉瓦製造・金属精錬・生活用などの燃料利用により森林伐採が、長い歴史の中で続き、荒地になって行った経緯もあります。それが近年、急速に悪化してきています。その原因として、草原での過放牧や、山林から農地への転換により、土地が劣化し、さらに砂漠化していることが指摘されています。
 一方で、条件の悪い農地を森林に戻したり、農家に補助金を出して果樹栽培への転換を促したり、植樹による緑化を推進したりと、環境へ働きかける動きもあると聞きました。
 ・・・佐久地方は、4月15日、珍しく一日中(24時間以上)雨降りでした。私の気を滅入らせていた黄砂を、一気に洗い流してくれました。こんな雨が、大陸の乾燥地帯にも降ってくれれば、一気に問題は解決しそうですが、神様・仏様にお願いしても、とても叶わぬ願いだと思いました。

 

 

 【俳句-②】 は、赤松の芯(雄花と雌花)を見ていると、なぜか、「山路」に関する私自身の昔の思い出が浮かんできて、しみじみとしたことを詠みました。
季語は、「松の芯」です。

『山路きて何やらゆかしすみれ草』(松尾芭蕉・1685年2月、京都伏見から大津へ向かう小関越え(峠道)の時の作品と言われている。)

 上記の「山路」は、文字通り峠を越える細い道のことですが、私がここで使ったものは我が家の慣例で「山路(やまじ)」と呼んでいた山奥の畑地の意味もあります。
 我が家は代々農家で、先祖から引き継いだ田畑・山林などがあります。昔は、男子を中心に土地を分割相続しました。相続分の無い場合は、他家に婿養子に行くか、何か他の職業に就いたようです。私の祖父は、直系に対して次男でしたが、土地を相続し、(本家に対する新宅として)居を構えました。それから、半世紀近く経って生まれた私の子供時代の話です。
 何箇所かある畑の内、「坂峰(さかみね)」と「めめず原(みみず原)」と呼んでいた畑は、その地名からも想像できるように、既に住んでいる所も山間地ですが、さらにそのまた山の中にあります。但し、「原」からわかるように山の上にある程度の平坦地が広がっています。この場所へは、リヤカー(荷車)を人力や牛の力で引いて行くと、1時間近くかかる山道の先にあったので、総称して「山路」と呼んでいました。
 参考までに地質学的に言うと、第四紀更新世に南佐久層群と呼ばれる湖成層が八ヶ岳の周囲に発達しました。その後の完新世になって、現在の千曲川水系が、山を削り浸食して、佐久平を形成していきます。現在は、比高数100mの高台になっていますが、かつての平坦面の名残です。千曲川の東西に、こんな坂の上、山の中に、なぜ平坦地があるの?と驚くような所に、集落や開拓地があります。地質学的には、ほぼ1万2000年前頃の「縄文海進」を境に、土地の相対的隆起や沖積平野が拡大するなど、地殻変動が急速に起きた結果なのかもしれません。
 さて、現在では軽トラで、7~8分も走れば着く「山路の畑」ですが、当時は行き来が大変なので、野良仕事は天気の良い日を選び、お弁当持参の一日作業となりました。坂道では、農機具などを載せたリヤカーを引いたり、押したりして進みますが、平坦となると畑に着きました。枯れ木を集めてきて、火を起こし、鉄瓶には湧き水を集めて、お湯を沸かしました。休憩や昼食時のお茶の為です。
 ある時、母が缶切りを忘れてしまい、「鯖缶」が開けられなくて困った事態になりました。祖父が、桑の芽掻き用の鎌で器用に開けて食べたこともありました。
 大人の作業中は、手伝えることが無ければ、焚火をいじったり、山野で遊びを見つけたりして過ごしていました。同様な農作業で付いてきた子らと遊ぶこともありました。小学校低学年の頃が最後だったと思います。農作業の内容は正確に覚えてはいませんが、状況から考えると、夏蚕(なつご)に向けた桑畑の手入れをしていたのだと思います。
 昭和60年代始めの頃、NHKで「大草原の小さな家」番組が放送されていて、良く視聴しました。小説を元に、米国の開拓時代のインガルス一家の生活を描いた作品で、3姉妹のローラ達の姿が、私の山路での体験と重なりました。話題として見れば長閑には映りますが、共に必死に生きた農家の光景だったはずです。
 ところで、なぜ「松の芯」なのかと言うと、確かに黄色い蝋燭のように赤松の花が、いっぱいに生えていたことが記憶に残っています。時期的には、梅雨入り前の5月中下旬であったのかもしれません。戦後植林したカラマツ林ではなく、広葉樹の雑木林の中に、赤松が点在し、その花が一斉に咲いていた光景でした。

 


【俳句-③】は、私の娘の子(孫)が誕生し、その子の人生としての歴史的第一歩が、現世に加わっていく様を、松の新芽「若緑」に例えて詠んでみました。
季語は、「若緑」です。
 みゆき会の句会は、4月13日のことで、その時点で孫は、まだ生まれてはいなかったが、出産予定日は今月中で、予め男児だとわかっていたので、無事を祈りつつ、俳句にした。
 若い頃の私が鈍感だったのか、我が子の出産は、妻任せで、妊娠の後は知らぬ間に進んでいた感がある。ところが、娘たちの出産までの様子を見聞きして、女性にとって自らの生命を掛けた危険な営みであることを痛切に感じた。同時に、誕生してくる生命の尊さと有難さについて、多少なりと言えども私なりに理解が深まった気がした。  
 私の3番目の孫が、4月19日の夜9時に誕生した。
 出産までの道程は大変で、夜中に出血があったと救急外来へ既に2度も行った。先に名前を思いつき、私の父の一字を付けることになり、父の誕生日4月14日も怪しかった。翌、4月15日に入院して出産(本格的な陣痛など)を待つことになった。そして、幸いにして、母子共に元気に出産を終えることができた。私も心配していたが、私以上に心身を込めて気をもみ、応援に駆け付けていた妻は、安堵したことだろう。しかし、これで終わりではないことが、まさに子育てである。学童期から、その後の苦労もあるが、まずは、乳幼児の介護が大変で、人生の第一歩は、親の苦しみの始まりであるとも言える。同時に、それを支える喜びと使命感が涵養されていく過程であるのかもしれない。

         *   *   *

月齢(新月→三日月→満月・十五夜→二十六日月→新月)

 ところで、4月の月齢を見ると、孫の誕生時刻が限りなく「新月」に近いことに気づいた。4月19日は月齢28.8、4月20日は0.3である。刻々と変わる月齢なので、それぞれの日の正午(12:00)を基準としている。
 月の一周期は29.5日なので、比例配分して計算してみると、厳密な意味での新月は、4月20日の明け方少し前、午前4~5時頃となる。我が孫の出産時刻が、かなり新月の時刻に近くて驚いた。
 ちなみに、調べてみると、満月や新月の時は、その他の月齢の時より、1~2割ほど出産人数が多いらしい。
 そう言えば、学生時代、古生代の珊瑚の化石情報から、地球の自転速度が今より速かったことが推定されることを学んだ。珊瑚の産卵時期が、月齢に関係していることから、当時の天体(地球と月)の運動の様子を計算したものである。
 脱線ついでに、人の誕生時期について、「大型動物の中で、ヒトだけが繁殖期をもたないで、一年中、生まれている」ということは、良く知られた話である。多くの動物は、栄養がたくさん取れる春~夏に子が成長できるように、春に子を生む。熊のように冬眠中の穴の中で出産して春を迎えるようなサイクルで子育てをしている例もある。だが、それ以外の季節での出産例は、皆無である。
 そんな情報を得るにつけ、それだけ自由に、出産時期を選べるのに、細かな女性の体内サイクル(月経など)の中では、目に見えない天体の動きが関係しているのかと思うと、進化の歴史の奥深さと共に、とても不思議なことだと思った。

 

 編集後記

  厳しい時間制約のある学校現場や勤務形態から解放され、再び「自由人」に戻れたことは嬉しかったが、やはり、生活の大きな変化は、安定して恒常状態になるまでに、多少の時間を要した。それでも、農作業や家の維持・管理(庭の手入れ、敷地内外の整備、車庫などの屋根のペンキ塗装など)が始まると、『今日はここまでにして、明日の課題は〇〇!』と、小市民的ではあるが、良く言われる『きょうようが大事』すなわち、今日することと、用事があることが、小回りの利く老人を生かせるコツらしい。

 私は、昔から、懸案の用事は、一気にやるというタイプだったが、定年退職した今でも、メインとなる課題に対して、ついでに、あれこれもやるといった感じで、延び延びになっていた事を、一気にやり遂げて満足をしている。

 4月8日の、いつもより小さいなと思いつつ、農協斡旋の北海道産「種ジャガイモ」を伏せたのが、今シーズンの農作業始めだったが、次々と、毎日の課題を決めて取り組んだ。今年度は、定年退職してから、いよいよ10年目となる。人生のひとつの目標の区切りとなる年にしたいと思う。(おとんとろ)

 

 

 

 

 

 

 

 

令和4年度 3月の俳句

     【弥生の句】

 

① 撮るよりも 母に見せたや クロッカス

②  「ただいま」と 土の匂いの 一人占め

③ 欠伸して 風聞き澄ます 木の芽山    

              《冬が過ぎ去って》

 中学校の三学期は短い。とりわけ、3月7日が公立高校後期選抜試検日(面接実施高校は翌日も)だったので、入試後の3年生は、卒業式(3月16日)に向けての諸準備で忙しくなった。
 しかし、教材研究は私の専門とする分野で、1年生だけなので、起きてからの朝1時間ほどで済み、家ではのんびりとできる時間が増えた。週休日は、以前のように散歩と布団干しなどの優雅な生活に戻った。
 唯一、大変だったのは、少々無理した「卒業記念文集」作りと、最後の学級会で渡す「送別の言葉(Be ambitious for X?)」原稿作りがあって、朝3時に起きてPCに向かったことだ。私は昔から、「絶対に、その日までにやらなくてはいけない」という状況になると、まずは少し飲んで寝て、完成まで必要とされる時間を逆算して起きることにしていたが、現場を離れた今でも、その習慣が蘇ったようだ。
 3月の「みゆき会」の句会は、高校へ送付する指導要録の写しの印刷が済んだ後の3月25日(土)にあった。私の勤務の都合で、週休日にしてもらっていた。 今月は、退職してから9年間の自適生活という「慣性の法則」を破って、多忙を極めた農閑期の季節労働と共に、厳しい冬が過ぎ去ったことの安堵感を俳句にしてみようと考えた。目標は、少しまともな俳句に戻したいということでもある。


 【俳句-①】は、母が大事に育ててきたクロッカスが咲きだしたことを、写真に撮って、老人ホームに届けるより、母に直接見てもらいたいなあと、感じたままを詠んでみた。季語は、クロッカスである。

庭に咲いたクロッカス



【細石 囲みし母の すみれ草】
 (令和元年・4月作) 種子がこぼれて殖えた草花も、大切に扱っていた。

【同じ土手 母が見つけて 蕗の花】
 (令和2年・4月作) 野山の植物にも関心が高く、散歩の時にも植物観察していた。

【母が見て とっかん花だと 昔語り】
 (令和3年・7月作) 蛍袋は、風鈴草・提灯花など、いくつかの異名がある。母に見せたら、昔に遊んだ「とっかん花」だと、懐かしい思い出話をしてくれた。

 【老梅や かはりし人と なりし母】
 (令和4年・3月作) 1年前に施設に入所した母だが、家の敷地のあちこちから出てくる草花は、母が球根を伏せたり、手入れしたりして育て、維持・管理してきたものである。そんな経緯があるので、直接見せたかった。

 ちなみに、クロッカスの花にしたのは、花言葉が「青春の喜び(youthful gladness)及び、快活さに満ちて(cheerfulness)」で、はつらつとした若さの象徴であるからである。ヨーロッパ南部や地中海沿岸から小アジアが原産地である。アヤメ科の園芸種で、花の色は、黄色・白色・紫色などがある。

 

 【俳句-②】は、多忙さは薄れてきたものの、落ち着いて庭の季節変化を見る機会がとれなかった。3月25日(金)は無人の我が家に「ただいま」と帰宅したが、今晩と明日26日(土)は、私が一人だけとなるので、「久しぶりに飲むぞ」と、意気込んでもいました。
 気づけば、庭にクロッカスの花が咲き、チューリップの緑葉が立ち上がっていた。深呼吸すると、大地の匂いの変化に気づいた。文字通り、春の訪れと言うよりは、冬が過ぎ去ったことの安堵感を一人で、十分に味わう思いであったことを詠んだ。
 風呂にも入らずに、ウイスキーのお湯割りを飲みながら、時々やる「もし、宝くじに当たったら、数億円かけて建築したい我が家の設計図作り」を始めた。
 次女の所へ泊りに行っている妻が、私が飲み過ぎないかと心配して電話してきたが、『明日は、みゆき会の句会だから、大丈夫だよ』と応えておいた。

土の匂い (長野牧場の麦畑)



 【俳句-③】は、卒業生に関する業務が完結し、産休補助の勤務から完全に解放されて、元の自由人に戻った時の心境を想像して創作した俳句です。
 私は、寝不足でも「欠伸(あくび)」をしたり、「うたた寝」をしたりすることはほとんど無いので事実ではありませんが、安堵していることは間違いありません。元々、「失敗したら困る」というより、「成功して褒められたら困るなあ」と発想する楽天的で、おめでたい性格なので、平均的な人より不安は少なかったかもしれませんが、それでも、途中から見知らぬ中学3年生(受験生)を相手に、しかも、教育現場から長年遠ざかっていた私が、果たして務まるのだろうかという不安は、常にありました。
 実際、担任したクラスでは比較的トラブルは少なかったものの、やはり誤解や多少の事件がありました。それでも、何とか乗り越えてきました。
 ところで、この句を「みゆき会」で発表したところ、推薦した人から別の解釈があることを教えてもらいました。全て「木の芽山」についての擬人法と解釈したようです。
 長い単調な厳冬に耐えてきた退屈さから、春のぬくもりを受けた時、思わず欠伸して、周囲の様子を伺うかのように聞き耳を立てて警戒しつつ、春の訪れを満喫している木の芽を抱えた里山そのもののことではないと言います。共通していることは、厳寒な冬から解放された安堵感だと思います。
 「木の芽山」という季語を初めて使ってみました。木の芽山には、秋の紅葉と違い、独特な色合いがあります。新緑の芽吹きの前は、木々の芽の蕾を包んでいた表皮の色が変化して、少し赤味がかって色づきます。
 そう言えば、【木の根開く  光輝け 別れ雪(ザラメ雪) 】(平成29年・2月作)の句がありました。雪国の「木の根開く」は季語ではありませんが、冬からの解放を意識して使ってみましたが、寒さ厳しいものの雪の少ない佐久地方では、「木の芽山」のイメージの方が、より身近な風景で、リアル感がありそうです。

冬の欅(ケヤキ) <東京電力・杉の木貯水池>


 【編集後記】

  3月31日までの4日を残して、元の自宅での生活に戻りました。初日は、自分の二階の部屋の掃除と模様替え(冬から春・夏用に)を、ほぼ一日がかりでしました。

翌、29日には、孫たちがやってくるので、私の部屋がきれいであることを見せないといけないからです。(12月の時のように、私のPCのZOOM機能を使って、皆で母と面会する予定もありました。)さらに、玄関の生け花や飾り物も整備しました。

 そして、娘が孫を連れて帰省してきました。向山の土手でフキノトウ摘み、森上の畑でナズナ摘み(29日)、母との面会~コスモタワーで遊ぶ(30日)、松本スカイパークの遊具で遊ぶ(31日)、パラダで散歩と食事(4月1日)、そして、4月2日に帰っていきました。

 私にとっても、非日常の生活が続き、少しリフレッシュした感じでした。

 さて、私の自宅勤務(農作業と地質研究)は、10年目を迎えました。気分転換ができたところで、良いスタートを切ろうと予定していましたが、少し、ぼんやりとしていたら、既に2日が過ぎようとしています。こんなに、良い天気なのに、机に向かっています。それもそのはず。実は、農作業に使う「管理機」が、修理に出して12日も経つのに、出来上がってこないからなのです。鍬柄一本で、大地に向かうのは無理なので、1日も早く修理が完了するのを待っています。

浅間山(釜山)からの水蒸気(火山灰はなさそう) 4月1日(北パラダから)

 今日は、あまりすることがなかったので、カメラを提げて散歩をしてきました。このところ、浅間山の山頂付近から噴煙が上がることが多いので、もし、やや大きな噴火があれば、写真に記録しようと持ち歩いています。     (おとんとろ)

 

令和4年度 2月の俳句

      【如月の句】

 ①放課後の 下駄箱のぞく 兆す春 (合格の春)

 ②春芝居 P波S波で 賑わいし  (大森の式)

 ③酸化して 手つなぐふたり 春の風  (酸化モデル)
                《学校の春・三題》

 多忙を極めた1月が終わり、三学期末テスト(2月8日)が過ぎると、少し楽になって来た。ちなみに、テスト日は、内科の定期検診で年休を取った。
 2月10日は、公立高校の前期選抜試検と私立S高校の入試の合否発表の日であったが、南岸低気圧の通過に伴う、いわゆる「上雪(かみゆき)」が終日降り、積雪は30cmを越えた。

 自宅では湿って重たい雪を家内が除雪してあったが、2月11日(祝日・建国記念の日)の午前中半日を使って、きれいに片づけた。翌、2月12日(日)、吹奏楽部の休日練習で登校した。練習は生徒らに任せておいて、除雪スコップを使い、雪の校庭北東隅に、アルファベットで学校名を掘って楽しんだ。(【写真】)

雪の校庭(2月12日・3階ベランダから)

 その翌日、2月13日(月)に登校した生徒が気づけば面白がるだろうと楽しみにしていたら、2日続きの快晴(最高温度6℃だったが)で、雪は完全に融け切って文字は跡形もなくなっていた。
 2月18日(土)、「みゆき会」の俳句会に参加できた。ようやく普通の週休日を過ごせるようになった。その後も何回か、休日が巡ってきたが、その度に、休みの有難さを再認識しながら、如月は過ぎていった。
 今月は、「学校の春三題」として、春を意識した場面を俳句にしてみた。


 【俳句-①】は、文字通り、放課後の生徒らの下駄箱をのぞいていると、もう1カ月ほどすれば、高校合格そして卒業という「春の日」がやってくるのかなと、思ったことを詠んでみた。季語は、「春兆す」であって、まだ本物の春ではない。だが、春が近づいてくる予兆と予感がしている。

 初めて小学校に勤務し、小学1年生の下駄箱で、彼・彼女らの靴の大きさを見た時、あまりの小ささと可愛さに驚いたことがあった。
 一方、中学生のそれは、薄汚れて踵がつぶれている場合もある。晴れの卒業式の舞台を前に、3年生の今頃(三学期末)になれば、履き崩れて汚れているだろうから、休日に靴を持ち返って自宅で洗ってこさせようと点検したら、どれもきれいで、踵を踏みつけて履いている生徒は皆無であった。
 ともすれば、髪型や顔かたちに関心の高い生徒も、汚れた運動靴をスリッパのようにして履いているという、美的感性がアンバランスな生徒もいるものだが、さすがである。全員が、望ましい生活習慣や美的センスも良く身に付けていて、健全な中学3年生である。全員合格、間違いなしと思った。
  cf.)ちなみに、佐久地方の場合、年々桜の開花は早まりつつあるが、卒業式はもちろん、入学式でも、桜は間に合わない。

桜の花と共に合格の報せが届く

 【俳句-②】は、「初期微動継続時間は、震源からの距離に比例する」ことを学んだ生徒らが、その原因は地震波のP波とS波の速度差によることを追究する場面で、劇をして理解しようとしたことを詠んでみた。季語は、春芝居であるが、正直言って、俳句とは言えない。判じ物のような、別のジャンルで、クイズである。十分承知しているが、冒険、挑戦してみた。

 中学1年生の地震の学習で、地震学者・大森房吉先生の名前をいただいた「大森の式」は直接扱わないが、速度の違う地震波と揺れ方の違いは、しっかりと理解させる必要がある。それで、劇をした。
 想定:Uさんは、筆箱を集めるのが趣味で、アマゾン社へ注文すると、社長Aが車で先に品物が届くことを報せに来て、後から従業員aが自転車で筆箱を運んでくる。次の商品(筆箱)は、Bとbが、さらにCとcがというように配達される。筆箱は、主要動を意味していることになる。
 先に実施したクラスで、『どうして筆箱はひとつだけなんですか?』と質問を受けた。これは、自然現象を劇にしようとした時の本質的な問題だと気づかされ、劇の途中からは、配達員コンビを増やすことにした。
 傑作だったのは、いつも明るく笑いを取るYが、『私も劇のスタッフにして』と立候補した時、隣に座るKが、『あなたは駄目。私たちは配達員が通る道路に建っている建物の住人だから・・。空き家になるよ』と制止したことだ。完全に、劇に参加した人間と筆箱、P波・S波の関係、そして舞台装置までわかっている。
加えて、震源地に当たる机に座っていたIは、「Amazon社」なる看板までノートで作ってくれた。ともに、優秀な生徒だったが、ユーモアセンスも抜群である。劇をやっている生徒、そして見ている生徒も、会話や仕草の可笑しさに大笑いしていたが、授業をプロモートしている私も、楽しくて仕方なかった。

地震が発生した時刻は?



【俳句-③】も、俳句の体は為しているが、判じ物やクイズの類かもしれない。
入試に向けた模擬テスト問題の『二酸化炭素中で、マグネシウムが燃える』時の化学反応式で、『CO₂+4Mg+O₂→4MgO+C』と解答してきた優秀な女生徒がいたことがきっかけである。解答の正解は『CO₂+2Mg→2MgO+C』である。

二酸化炭素モデル(手が4本)

 集気瓶の中を完全に二酸化炭素だけにしたとすれば、彼女の答は間違っているが、化学反応式自体は正しい。彼女の「酸化の概念」に、物質により酸素と結び付き易さに差があるという理解が不十分なだけである。(この問題自体は、明らかに応用題である。)
 そこで、私がC役、O役は彼女と、もう一人の女子生徒、Mg役に男子生徒2名を選び、劇をすることにした。工夫したことは、私はカーディガンの袖を外し手に見立て、4本の手を作って、2人の女子生徒とつなぎ、CO₂ ができた。ここから、男子生徒が、それぞれ女子生徒とペアとなり、MgOが2つできる。要は酸素との化合し易さは、Mgの方がCより強いということだ。女子生徒にとっては、老人より若者の方が魅力があったという落ちになる。

 実は、手をつないだ男女ペアが、もじもじして、紅潮していた。青春だなあ!自分にも、そんな心ときめく時期があったことを思い出して、嬉しくなった。


【編集後記】

  3月27日(月)、同僚が、生徒の進学した高校を回り、高校へ引き継ぐ関係書類を届けて帰校した。残務整理をしている皆へと、お土産に「鯛焼き」を買ってきた。

 当の私は、机の中身を片づけて、中を雑巾で拭いて、いつでも退校できる準備ができた。それから、「はてなブログ」を書いている。

 前回(令和4年度・1月の俳句)に続き、3学年通信に載せた原稿の一部を載せようと思う。

地磁気の変位マップ (インターネットから)

       A中学校の秘密を暴く事件

 

 『春は曙、やうやう白くなりゆく山際』で始まる清少納言の作品「枕草子」に「香炉峰の雪」の段がある。中国の漢詩(白居易)に「香炉峰の雪は御簾を挙げて見る」があることから、一条天皇正室中宮定子が、雪の降った朝、『香炉峰の雪はいかならむ?』と問うた時、その意図を理解した清少納言は、機転を利かせて反応したという“自慢話”じゃあないかと酷評する人もいると聞く。これからのエピソードも、『あまりに、マニアックだ』とも言われそうだが、まずは始めてみよう。

 2月20日佐久市で12:00に太陽が南中するという情報を得て、3年の両クラスには、『学校の時計で正午になった時の太陽の方向を確認するように』というミッションを出しておいた。それぞれA(保健体育)とB(国語)の授業中だったので、B組に期待したが、彼らは貴重な瞬間を見逃してしまったようだ。私とF先生は、しっかりと目撃した。
 この現象の意味は、『兵庫県明石市(東経135°)で太陽が南中する時の、平均の時刻を、日本の標準時(正午)と定めている』のに対して、2023年2月20日は、佐久市がその役割を担ったというものだ。実は(入試対策も兼ね)「地軸が傾きながら公転をしている為に生ずる季節変化」によって、日本の北と南では、日の出・日の入り時刻だけでなく、南中時刻も年間を通して少しずつ変っていく。佐久市(東経138°30分)では、平均14分ぐらい日本標準時より、早く南中時刻を迎えているのが普通である。だからこそ、その瞬間が重要だと、両クラスには、後で説明した。

 さて、この日の観察により、とんでもない事実に気づいてしまった。
 それは、私たちA中学校校舎は、本当の東西方向から、8°ほど(僅かではあるが・・・)、東北東側にずれて建設されているらしい。まず、校長室にあるという校舎設計図を調べることにしたが、本物は教育委員会にあるということで、青焼き(昔の素案コピー)しかなかった。
四方位しか記されていないところを見ると、校舎は東西と決めて設計したらしい。

 翌日、クリノメーターという正確な方位磁石で測定してみると、校舎の方向は、もののみごとに、東西(N90°E)方向に一致していた。つまり、設計し、土地を測量した技術者の方々は、方位磁石を使って校舎の基礎工事をしていたことが判明した。

 ところがである。方位磁石の示す「南北」は、本当の「北南(NS)」を指していないという事実がある。地球の地磁気は、少しずつ変化している。長い年月の間には、南北が逆転した時期(反転期)があったこともある。

 現実の話では、それほど目まぐるしく変る訳ではないが、佐久市付近では、7~8°西側にずれている。(西方変位:北海道札幌9°~沖縄那覇5°最新情報。日本では、ほとんどの地域で、磁石のN極の指し示す方向は、真北より西側にずれている。)
 だから、もし、建物を本当の東西方向で建設したいと意図すれば、角度で8°ほど、東側にずらせば良いことになる。
 日照時間を一秒でも長く、日当たりを少しでも良くする為だが、日本一日当たりの良い佐久の地では、それほどせこせことしなくても良いということは、十分に確かだ。
 今日も冠雪の浅間山と、抜けるような青空が広がる。いつしか、冬晴れから、春晴れに変わりつつあるが・・・そこで、一句

 空の藍(あを) 少し薄れて 土手青む

 

 

日本列島の「西方変位」

 最後に、浅間山の噴火についての話題をあげたい。令和5年3月23日の15:30Pm、

浅間山(2568mASL)の「噴火警戒レベル」が、1から2へと引き上げられた。このところ、信濃毎日新聞では、マグマの上昇に先立って起こる火山性微動(地震)の回数が、紙面で伝えられていた。規模は小さいと思われるが、今日・3月27日の午後3時頃、水蒸気爆発があったようだ。幾分、灰色がかったものは、斜面をゆるやかに流れていたので、火山灰も伴ったと思われる。

  今朝、家を出た後で、後悔した。2日続けて降った雨が、浅間山の山頂付近では雪となったようで、浅間山・山系の「前掛山」だけが冠雪で覆われていた。周囲の「黒斑山」や「牙山」には、ほとんど雪がなくて、見慣れない光景だった。愛用の写真機を持ってくれば良かった。噴火直後のきれいな小爆発を写しておきたかった。(おとんとろ)

 

 

 

 

 

 

 

 

令和4年度 睦月の俳句

      【睦月の句】 

 

 ①家路急く 宵の明星 受験生

 ②潮待てば 冬満月に 漕ぎ出でよ

 ③干支巡る 九月二日の 皆既日食 ⦅理科の授業三題》

 

 令和5年(癸卯みずのと・う)を迎える年越しや年始は、これまでの9年間と、大きく違った。ちょうど1年前の大晦日に救急搬送され、その後、治療と入院、そして退院後は、特別老人介護施設に入所したので、母が不在であった。また、長女が子ども(孫)を連れて、暮れから1カ月近く帰省していたが、今年、夫は、自宅待機で不在だったし、学齢期に入ったので、正月4日には故郷を後にした。

 さらに、勤務学校へは1月6日から登校するので、貴重な「年末年始休業」となった。『昔取った杵柄』とは言え、16年振りに教壇に立つので、少しは教材研究をしておかなくてはならない。「忘れた杵柄」になっている可能性もある。そんなつもりではいたが、二人の孫と遊んだり、我が家の趣味である散歩に全員で出かけたりしていて、大した準備もできなかった。

 休みが明け勤務が始まってみると、朝7:30には出勤し、帰宅は19:00を過ぎることも何回かあり、貴重な週休日も、定期テストの出題原稿作りや教材の準備などで、なかなか休めなかった。
 当然、俳句を作る時間もなくて、定例の一月俳句会は欠席した。2月に入って、少し余裕が出てきて、ようやく「睦月の俳句」を作ることができた。題材は、いずれも、理科の授業場面を思い出して、俳句にしてみた。


 【俳句-①】は、金星の見え方を学習した受験生が、夕闇迫る南西の空に輝く一番星を見つけ、『あれが宵の明星か』と、つぶやきながら家路を急ぐ場面を詠んでみた。受験生が春の季語となる。

「一番星って何?」の学習の中で

「最大離角」の東と西を間違えてしまった。すぐに修正をしました。

 理科授業の学習問題は、『一番星って何?』である。私と生徒とでは半世紀以上も年齢が隔たっているので、浅田美代子の歌った「幸せの一番星」や「赤い風船」は知らないだろう。それでも、雰囲気を盛り上げ、一番星を説明する為に、歌を披露した。太陽が西の空に沈み、暗くなり始めると、南西の空に明るく輝く星が見え始める。これが、一番星「金星」である。

 図のような学習カードを使って、金星の見え方を学んだ。
(ア)見える時間帯が、夕方か明け方に限られ、夜中には見えないこと。
(イ)見える方向は、宵の明星は南西、明けの明星は南東の空に見えること。
(ウ)内惑星の金星は、地球に接近した時と離れた時の距離が、約0.3~1.7天文単位(1.5億㎞)も違うので、見かけの大きさが変化することetc.を学んだ。

 高校受験を前に、下校後の家路の途中で観察することができる「宵の明星」で良かった。2023年6月4日に金星が「東方最大離角」となり、夜空で地平線から最も高く見える位置に移る。それまでは、しっかりと見えている。
 受験勉強で夜遅くまで起きている受験生は、勉強の合間に、暖房の効いた室内から厳寒な屋外に出て、星空を眺めているだろうか。

 

 【俳句-②】は、額田王の和歌を題材に、「いつ見た月で、どんな形であったのか?」を、潮の干満の様子や月の見え方から考えた時の授業での「解答」を歌にして詠んでみた。季語は、冬満月である。
 これは解説を加えないと、まったくわからないだろう。

 西暦660年、日本と親交のあった朝鮮半島百済(くだら)が、新羅(しらぎ)と唐(とう)の連合軍に侵略され、日本に援軍を要請してきた。
 661年1月、額田王(ぬかたのおおきみ)は、仕えていた斉明天皇(女性天皇)と共に、熱田津(にきたつ・現在の愛媛県松山市)を船出した。その時に詠んだ歌として、次の和歌が知られる。
 『熟田津に 船乗りせむと 月待てば 

          潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな』

 学習問題額田王が見た月は、どのようであったのか?」を追究する過程で、潮待ちは『干潮(引き潮)』であり、待っていた月は東の空から上がってくることを手掛かりに、見た月の時刻・方向・形が、3パターンあることに気づいた。

(ア)夕方、東の空に満月
(イ)夜中、東の空に下弦の半月
(ウ)明け方、東の空に二十六日月の場合があるが、どれが良いか?

 これから異国の戦に出陣するという華々しいイメージから考えると、(ア)が良いのではないかということになった。 
 それで、『潮待てば冬満月に漕ぎ出でよ』としてみた。

 ちなみに、(ウ)の二十六日月では心寂しい印象だが、例えば、出陣の前祝いを夜通し行ない、空が明るくなって、日が昇ってくるという条件で、瀬戸内海に漕ぎ出していく方が、戦略的には良いのではないかと、私が振ってみたが、生徒は全員、(ア)が良いと答えた。

「月の見え方」の学習の中で



 【俳句-③】は、太陽・地球・月が、どんな条件となった時、「日食」になるか学習した授業で、ちょうど12年後の2035年9月2日に、私たちの住む地域で「皆既日食」が起きることを詠んだ。季語は、9月2日である。

 2023年から2035年までは、12年ある。干支(卯年から卯年)の一巡りも12年となるので、12年という説明的な表現より良いかと思い、採用してみた。
 問題は、季語だった。9月以外、なかなか思いつかない。「2.26」のような歴史的事件を始め「3.11」や「9.11」のようなものなら楽だが・・・と思いつつ、直接的でも
良いかなと「九月二日」にしてみた。長野市のデータでは、同日10時04分10秒から2分16秒間、真っ暗になる。とても楽しみである。

2035年9月2日 皆既日食

【編集後記】

  今日を最後に、12月23日から臨時に勤務してきたA中学校を去る。今は、同僚が、それぞれの生徒が進学した高校へ、中学校から引き継ぐ書類を届けに出かけている。

帰校してくれば、中学3年生の進路に関する業務は全て終わるので、私の明日からの仕事はなくなるので、3月31日まで4日を残すが、勤務終了ということにしようと思う。

 農閑期だからという理由と、「佐久の地質調査物語・その3」の地質図作りがうまくいかなくて、どこかに活路を求めていたような時期で、気軽な気持ちで引き受けた産休補助の勤務ではあったが、確かに大変ではあったが、生き甲斐の一部が新たに追加されたという思いである。私の人生にとって、とても得をしたなあと感じている。

 1月の頃の「日報」を綴っていたノートを見返していたら、1月13日付けの「3学年通信」に載せた原稿が出てきた。学校のプライベートな部分は省いて、私の原稿のみ紹介してみます。

            『何のために、誰のために学ぶのか?』

 宇宙の元素を自分の周りに集めて、生命体を作ったのは「C・炭素」、岩石を作ったのは「Si・珪素」、そして、最も地球らしい物質は「H2O・水」だと、私は思う。

 実際、水は極めて特異な性質をもっている。(1)氷(固体)が水(液体)に浮くことで、地球は救われた、(2)比熱(1.0cal/g℃)が一番大きくて、温まり難く冷めにくい性質の水のある海で、地球を優しくした、(3)極性の強い水分子間の隙間があるので、良く物を溶かし、お洗濯ができたり、血液や体液として物質を循環させたりできる、(4)大地を風化・浸食して、運搬・堆積作用の中でも、水(流水)の果たす役割は大きい、(5)水があるから、晴れたり、曇ったり、雨や雪が降ったり天気の変化がある、(6)何より、私たち生き物が生きていられる・・・と、捜せばまだまだあるが、水の際立った特徴に救われ、その恵みを受けた私たちは、今日を生きている。それ故に、「水の惑星」と呼ばれるのが、私たちの地球である。

 ところで、液体で一番密度の大きい4℃の水(1.0g/cm³)を加熱して温めていくと、次第に温度が上昇していく。平均海水面の1気圧(1013hPa)の下では、約100℃で沸騰して水蒸気になる。(ただし、気化は、低温の冷蔵庫の中でもあるので、一応、理論上の沸騰と理解して欲しい。)

 信州のような標高の高い所では、もう少し低い温度で沸騰するが、液体の水は、水蒸気という気体に変わる。しかし、『100℃の水と100℃の水蒸気は、同じ温度でも、内蔵しているエネルギー量は、天と地ほど違う』ということは、言われないと気づき難い。
 理由は、「暑い夏の日に打ち水をすると涼しくなる原理で、水が蒸発して水蒸気に変わる時、気化熱(540cal/g℃)を周囲から吸収するから」である。つまり、同じ温度値であっても、液体と気体では、中身が大きく違う。エネルギー量が違うという意味なのです。

 この状態変化を、今の中学3年生に当てはめて、我々学年職員の思いを伝えたい。

 中学生の今と、高校生になった同じ年の君は、たとえ年齢が同じでも、中身が違うという意味になります。水が液体から気体に姿を変える時、多くの熱エネルギーを得て状態変化が可能なように、変化できるだけのエネルギーを蓄積しなければ、真の「高校1年生」にはなれないと思うのです。
 生きていれば年を取るので、年齢だけは成長しますが、中身が付いてこない時、大人は、謙遜して『馬齢を重ねる』と言います。馬に失礼かと思いますが、馬は自分の将来と子孫の行く末を考えているとは思えません。しかし、人間は、『心の生き物』だと、私は常々思っています。
 ※『人は、(今がだらしなく見えても)絶対に馬鹿にするな!』と、逆に、『今、立派に見える人でも、(その人が大失敗した時)温かい気持ちで見てやってほしい!』と思います。なぜなら、人は、「自分がこう生きたい」と発心して、心を入れ替えて頑張ると決意する時、大きく変わります。むしろ変えられます。それ故に、「だめな人は、いつも、いつまでも駄目なのではなく、突然、自分を変えられるものなのです。反対に、尊敬されていた人でも、不注意や出来心で不誠実な人間になることもあります。でも、それはその人の全てではないので、立ち直れる機会が欲しいものだと思います。心が変れば、元の尊敬された人に戻れるはずですから・・・。私は、そんな風に思います。
 今の君たち、A中学校3年生は、十分に誠実で、進学に向けて努力をしていると思いますが、充実した高校生活のスタートを切る為に、さらに少しでも多くのエネルギー、つまりは学力と気力・人間力などを身に付けて欲しいです。必要最低限度のエネルギーが無いと、高校生にはなれませんが、余分に身に付けたエネルギーは、必ずや、次のステージでは、余裕や広い視野を育てる温床となって、より先の自分に適した生き方を模索できるようになると思うからです。
 そして、標題に掲げた「何の為に?」、「誰の為に?」の答が変っていくように思います。
 最低限度の答は、『受かる為、自分の為』だと思うのですが、

もっとエネルギー量が増えてくると、たぶん、その中身と方向が、それだけではないと考えられるようになるかもしれません。      (おとんとろ)

令和4年度「師走の俳句」

      【師走の句】 

 

① 古稀にして 産休補助の 師走かな

② 北寄りに 寒満月や 昇り来る

③ 我が影に 歩幅を合わす 冬うらら 

              《日暮れ早まる頃》 

 令和4年の忘年会は外で開催できないが、「昼食会」でもしようということになりました。午前中に俳句会を済ませた後、お昼を囲んで雑談することになりました。8名と少ない人数の「前山みゆき会」ではありますが、全員がそろいました。
 ところで、12月は、私にとって大きな転機となりました。来たるべき新しい「シフト」に向け、期待と共に不安もあり、また、その準備に追われる1カ月となったのです。

 【俳句-①】は、文字通り、私が古希(70歳)を迎える年にして、「産休補助」に充たる教員として、中学校で働き始めるという、自身への驚きを詠んだものです。これは、説明しないと、背景がわからないと思います。

校舎の正面玄関と冠雪の黒斑山(浅間山系)

 私は、定年退職を迎えた60歳で、自宅に入り、農業と地質調査データーのまとめを始めました。地質については、既に大枠はできていましたが、将来、冊子にできたり、後輩へ資料が残せたりできれば良いとの思いからでした。それから9年の年月が流れてしまいました。その間、何度か教員補充や理科専科のお誘いを受けましたが、全て断っていました。わずかな家庭菜園とはいえ、農業には休みがありません。それに、野外での活動が好きなので、暇があれば未知な里山田圃道を歩き回ったり、散歩をしたりして過ごしていました。
 ところが、定期検診で訪れたS病院の駐車場に着いた時、見知らぬA中学校長から『12月末から3学期の間、1年生と3年生の理科を担当してもらえないか?』という趣旨の電話をいただきました。
 その後、検査をし、診察を受けた約1時間半後に、自分でもなぜそう判断したのかわからないですが、『農閑期なのでいいですよ』と、あっさりと承諾してしまいました。厳密に言うと、まだ駒込層より新しい時代の地質のまとめは完了していなかったのですが・・・、何んとかなるような気になっていました。
 さて、新規の「講師」採用に当たり、正式な健康診断書をもらう為の通院や、様々な書類整備があり、また、受験前の中学3年生を担当するので、即戦力も求められていたようで、正式採用の前の学年会にも参加しました。
 師走の公式登校は、引継ぎの日と2学期終業式を含む2日だけでしたが、気持ちの上では、のんびりと冬田道を散歩していられるのは、残り少ないかと思うと、時間を意識して大切に使うようになりました。
 そして、12月24日の初出勤日、学校放送で全校に紹介されるビデオ・カメラの前で、この俳句を披露しました。正式には、69歳と2カ月の年齢ですが、これでは俳句の語呂が合いません。そこで、ひとつおまけの古希にしてみました。

 

寒満月

 【俳句-②】は、12月8日の夕方、真東より、だいぶ北寄りの山の端から、大きな満月の月が昇ってきたことに感動して詠んだものです。米国では、12月の満月のことを「Cold moon」と呼んでいるようなので、その日本語訳のつもりで「寒満月」としてみました。
 ところで、冬空に高く昇った月は、寒気と共に澄んだ空気の中、小さく見えます。しかし、本来、月の視直径は同じはずですが、山から昇ってくる満月は、とても大きく見えます。月面のクレーターや月の海の模様が、くっきりとして神秘的でもあります。
 加えて、天球を移動していく時の経路が、冬の太陽の日周運動と反対で、より北寄りの北東側から昇り、南中高度は最も高くなります。そして、沈む時は、北寄りの北西側となります。
 そんな意味でも、ずいぶん北寄りから昇ってくる満月の方向にも、季節感を感じました。
 ちなみに、米国での月の異名は、以下のようです。
 1月:Wolf Moon 2月:Snow Moon 3月:    Worm Moon 4月:Pink Moon 
 5月:Flower Moon 6月:Strawberry Moon 7月:Buck Moon 
 8月:Sturgeon Moon  9月:Corn Moon Harvest Moon 10月:Hunter’s Moon or Harvest Moon 11月:Beaver Moon 12月:Cold Moon


【俳句-③】は、冬の日の昼下がり、自分の影と歩調を合わせ、リズミカルに、自分が歩いている様を詠んだものです。耳の中では、マーチングバンドの行進曲が流れているような気がします。そして、私自身が「バンドメジャー」になったつもりで、颯爽と歩いていました。

 

京都橘高校吹奏楽部(台湾の「建国節」に特別招待演奏)

 令和4年(2022年)10月10日、京都橘高校吹奏楽部が、中華民国建国記念日「双十国慶節」の祝賀式典に招待され、「元気いっぱい」・「笑顔いっぱい」・「夢いっぱい」のパフォーマンスを、台北市の総統府前広場で演奏・披露しました。高校生の一糸乱れぬ演奏に、蔡 英文 総統を始め、聴衆は総立ちで拍手を送りました。この映像は、台湾全土や日本にも配信され、SNS上で大きな話題となっています。
 私も、インターネット配信で、マーチングバンドの中継録画を何度も視聴しました。そして、その華麗さ、素晴らしさにすっかり魅了されてしまいました。
 それで、冬田道を散歩している時、耳に残った演奏曲が聞こえてくるのです。自分と自分の影は、行進曲に乗ってこ、互いに歩幅と歩調を合わせて、手を大きく振って歩きます。季節風は、弱く吹いているものの、穏やかな冬の日差しを浴びて、歩いていると、うっすらと汗が出てくる冬麗の日の午後でした。

 

【編集後記】

 非常に久しぶりの投稿です。「はてなブログ」を始めてから、5年目を迎えますが、まったく記事を載せなかった月はありませんでした。しかし、令和5年の1月と2月は、ついに「皆無」という記録を残してしまいました。

 定年退職してから今までの「自由に使える時間の中で」、既にある程度できていた原稿を元に、修正を加えながらブログに載せて、【編集後記】という形で補足したり、近況を話題に取り上げたりしてきました。しかし、教壇から15年以上も離れていた元教師が、9年間のブランクの後で現場に戻り、しかも、高校入試を前にした中学3年生の進路に関する書類作りと日々の授業、そして、その為の毎朝(2~3時間ほど)の事前準備と教材研究というシフトの中では、とても俳句作りや、ブログには手が回りませんでした。

 先週も、実は少し余裕があったのですが、ようやく、休日が休日らしい使い方のできる状態になってきたので、「はてなブログ」に師走の俳句を載せることにしました。

 ところで、今晩もWBCの「日本対チェコ」の試合を見ることになると思います。

私はスポーツは好きですし、競技を観戦するのも好きですが、こと野球に関しては、高校野球は見るものの、プロ野球のテレビ放送を見ることはほとんどありません。しかし、二刀流の大谷翔平選手の笑顔が好きで、にわかファンになっています。

 オリンピックの中継があると、ふだん早寝の私も、夜更かしをしてテレビ放送を見ていましたが、WBCの日本の試合があると、遅くまで起きていそうです。(おとんとろ)

 

しばらく

令和4年11月の俳句

       霜月の句

①木の葉雨 無邪気な子らの 息づかい 

②連弾す 野外ピアノに 小春風

皆既月食げっしょく)に 麗人逝けり 冬の星 

                                              《冬の始まり》

 例年、10月末から11月中旬は、けっこう毎日忙しく展開します。
 稲作を栽培委託している所から、お米が届けられます。一部親族分は現金購入しているので、支払い方々、お礼の品物を届けます。それから、米袋を保管する倉庫の大掃除をします。一方、稲刈りの済んだ水田の稲藁の束を乾燥させ、保管用藁にしたり、梅や柿の木の敷き藁にしたりします。さらに、大型コンバインの刻んだ藁くずを回収して、畑に堆肥と共に鋤混みます。
 大仕事は、夏野菜の「畑仕舞い」です。週間天気予報から雨の降る前の、少し風のある日を選んで、燃やします。今年は11月3日・文化の日でした。
 そんな中、2回の週末に「佐久市民総合文化祭」と「公園であなたの小さな秋を見つけよう(流山市総合運動公園)」なるイベントが入りました。予定していたこととは言え、少しペースが乱された日もありました。それでも最大な救いは天候で、11月1日の午前中と、13日の夜以外、連日晴天が続いたことでした。
 11月の定例俳句会が、14日と早かったので、立冬(11/7)の頃の体験を題材に、俳句をまとめました。まさに、冬の始まりです。


 【俳句-①】は、ミズナラの大木の下の落ち葉を両手で抱えて空に放り投げ、頭や顔に木の葉が落ちてくるのを楽しんでいる子どもたちの様子を詠んだものです。

元気の良い子どもたちだといえども、こんなにも激しく動き回っていれば、息が切れてしまうのではと心配しましたが、それは無用の心配でした。
 季語は、「木の葉雨」です。
  紅や黄に色付いた葉が舞い落ちてくる様子は、まさに雨降りのイメージです。特に、群生したカラマツ(唐松)の落葉を見ていると、茶褐色の針葉は、「小糠雨」そのものです。やや風が強いと、降りしきるという状態になります。

 ところで、私が目撃したのは千葉県の子らでしたが、どこの子も似ています。
 色紙は、長野県北安曇郡池田町の長福寺、大銀杏で遊ぶ子らを描いたものです。秋の遠足の付き添いで訪れた同寺の銀杏の大きさに驚くと共に、子らが落ち葉を相手に、いつまでも飽きずに遊んでいたことが印象深くて、令和元年・霜月の俳句会で、「銀杏三題」として会員に披露したものです。
 子らを「無邪気な」と表現しましたが、誰教えることなくても、本能的に持っている遊び心なのでしょう。

令和元年・霜月の作品

   【俳句-②】は、最近、流行つつある街角ピアノならぬ「野外ピアノ」で、娘と一緒に楽曲を弾いたことを詠んでみました。
「恥ずかしかったあ!」突然のことだったので、聴衆はろくに居なかったにも関わらず、緊張してかなり間違えた。でも、終わってみると、もっとやってみたくなりました。
 季語は「小春風」です。この日の天気は、文字通りの小春日和でした。暖かな日差しもあって、日中は少し汗ばむくらいでした。

 会場の流山市総合運動公園ピクニック広場の木の下に設置したピアノは、午後の1時間半ほどの演奏の他は、開放されフリーですが、弾いてくれる人は、あまり多くいません。それで、娘が演奏に参加する様子を、私たち夫婦が見に行き、誘われたという訳です。ちなみに、妻は、ピアノができるので、クラシック曲を弾きました。(誤解のないように付記すると、私は片手で、旋律を弾いただけです。)

ピクニック広場の「木の下ピアノ」

 ところで、少し長い説明になりますが、演奏する娘や孫に会うことが目的とはいえ、遠路はるばる自家用車で公園まで駆けつけたのは、イベント自体に興味をもっていたからです。
 娘の送信してくれた広報紙を見ると、イベントを統括する「machimin」さんは、市役所みどりの課と、『公園がまちのお庭になる一日~公園であなたの小さな秋を見つけよう~』について協定を締結し、公園の利用について市民を巻き込んだ会議を行なってきたそうです。

当日の催し物の全てを見た訳ではありませんが、集団遊び/地元野菜や手作り品の販売/手作りのパンやスイーツなど食物販売/木の実を使ったマラカス作り(ワークショップ)/ワイン講座と試飲/消防車に乗る・消防車へ落書き・消防士と綱引き等がありました。その中のひとつが、『木の下ピアノ~楽器を持ち寄って皆で演奏しましょう~パブリックピアノ』でした。子どもは、製作したマラカスを持って、また、大人はトランペット・ドラム・ギター・鍵盤ハーモニカと少数精鋭ですが、音楽愛好家の方々でした。当日、初対面の面々で、打ち合わせも無くスタートしましたが、そこは皆さん「お手のもの」のようでした。娘の対応にも感心し、見ていて楽しい一時でした。
 参加している子どもらは、屈託もなく馴染んでいます。田舎の子たちよりも積極的だなあと感じました。
 しかし、注意深く見ると、運営スタッフ以外は、幼児~幼稚園児~小学校低学年生と、その両親、そして、人数は少ないものの、私たちのような爺さん・婆さんという組み合わせが、ほとんどでした。音楽を楽しもうという趣旨に賛同して、幅広い世代の参加ということの難しさを感じました。
 また、公園全体の各種運動施設を見ようと、移動していたら、アスレチック・防災広場に出ました。天気が良いので、親子連れ(3~4人)がピクニックをしていたのですが、一様に、簡易テントを張っていました。それぞれの家族は、仲睦まじく楽しそうな様子ですが、穿った見方をすれば、大きな自然災害があって、自宅が無くなってしまった家族が、テントによる避難生活をしているという風にも見えてしまいました。「日よけ・風よけ」の為のテントでしょうが、主目的が各自のプライバシーを守る為だけのように思えて仕方がありません。どこか私の心情や生活習慣からは、そのまま受け入れられない違和感がありました。こちらのグループは、「公園がまちのお庭になる」イベントと関係のない方々でしたが、ある意味、個人の庭としての公園利用であったのかもしれません。

楽器を持って集まった大人と子ども

 

【俳句-③】は、11月8日の夕方、県外にいる妹から、癌を患っていた女性が亡くなったと携帯電話で知らされた。希有な皆既月食と人の死が一致したことが、ひとつの運命だったことのように思われ、星空を見上げた時の心情を詠んだものです。
 亡くなった女性は、妹にとって義理の妹となる人で、甥の結婚式に同席したことと、年賀状交換ぐらいしか交際はないが、夫婦共々、心情や生活パターンが似ていることがわかり、親近感を感じていました。また、健康的で知的美人でもあって、麗人という表現が、ぴったりと似合う女性です。
 ところが、膵臓癌がステージ4の状態で見つかり、令和2年秋、夫に先立たれ、今年の夏以降は、痛みが激しくなり、ついに立冬の翌日に、天命を終えたといいます。
 奇しくも、その晩は、皆既月食中に天王星が月に隠れるという惑星食が、442年ぶりに見られることが決まっていました。
前回は、西暦1580年7月だったというから、信長が死を迎える「本能寺の変」の2年前以来の極めて稀な天体現象が出現する晩だったのです。

皆既月食中の月に接近する天王星(下) 間もなく月の影に入り見えなくなった。



 私は、宇宙空間での天体の動きが、完全に計算通りに進行するのに、例えば、地球という天体の上で生きている人の運勢や行動が、なぜ気ままなのかと常々疑問に思うことがあります。しかし、その晩は、癌を患った麗人が、宇宙史の希有な日に亡くなったことが、運命のように感じられて、夜空を見上げました。

 実は、その時、私は信州大学医学部附属病院の駐車場にいました。佐久へ帰省中の娘(二女)が、妊娠の安定期を迎えたにも関わらず心配事ができて、2時間かけて病院まで連れてきました。家内が付き添い、私は駐車場で待機していたところへ、妹からの携帯電話があったのです。
 麗人が死を迎えた。母の胎盤の中で生命が育まれる。思えば、私の祖母の死のすぐ後に、娘(二女)は誕生した。生と死、ひとりの人間の中で、同時には起きないが、世代を超え、違う人へとバトンタッチされて行くように思えてきます。

冬の星空(イメージ)

 冬の星空を眺めていると、人知を越えた運命的な時空の広がりの中で、生きている今の自分も、生まれてきた自分も、そして死んでいく自分も、同時に見えるような錯覚を覚えました。

 そう言えば、麗人の夫(Tさん)の追悼句は、下の句でした。
 『ひと偲び 滲む明月 掌を合はす』 (令和2年10月【俳句―③】)

 おふたりのご冥福をお祈り申し上げます。      (合掌)

 

【編集後記】

 11月(霜月)の俳句会は、14日と早かったので、月内に「はてなブログ」に載せようと予定していましたが、ついに空しく12月(師走)の声を聞いてしまいました。
 11月後半は、葱・長芋・大根・白菜・人参・白菜(後蒔き)の順番で収穫しました。そして、それらを天日干しして、越冬用に囲いました。(一部は12月初めになりましたが・・・)
 同時進行で、昨年からの堆肥と肥料を畑に撒いて、耕しました。空になった堆肥置き場には、枯れ葉(落ち葉)を集め、良く踏みつけて山盛りにしました。何しろ、1年経てば容量が3分の1~4分の1になってしまいます。道路の側溝に濡れて詰まっているものなら大助かりですが、今季は雨がほとんど降らなかったので、からからに乾いていました。
 これらの作業の後になりがちですが、自宅の庭や家の周囲の落ち葉掃きや枯れた草花の後片付けも、大仕事です。今はまだ身体が動きますが、更に高齢になれば、室内は頑張って「ごみ屋敷」にはならないとは思いますが、家の周囲は草木が煩雑に茂る「荒れ屋敷」になってしまうかもしれません。
 そんな事を思い、面倒だとは感じながらも、少しずつ作業を進め辺りが綺麗になってくると、気持ちがいいものです。
 なお、11月末から12月初めに、高齢の叔母と同僚(後輩)の葬儀(告別式)もあって、「麗人のご逝去」に加え、人の寿命について考えさせられました。

越冬用野菜の天日干し(白菜・大根・人参)

 

 ところで、「スーパーでしか白菜を見たことの無い人」の為に、お伝えします。売られている(食べられる部分)白菜は、実は全体の7~8割ぐらいになります。
収穫する段階で、中央の巻いている部分を残し、外側の葉は剥ぎ取られ、畑に捨てられます。
 我が家の場合、畑の周囲にカラマツ林が多い為、カラマツの針葉が挟まっているか否かが、除去されるか否かの境目になります。捨てられた葉は、堆肥置き場に持っていきますが、葉の白い部分は、十分おいしく食べられます。
 そこで、今年は、おいしそうな部分は切り取って回収し、まず先に味噌汁や鍋物の具材にしてみました。

 白菜もひとつの組織体で、内側をおいしくする為に、犠牲となっている大きな外葉があるんですね。人間中心の擬人化ですが、「捨てられるよりは、人の口に入る方が幸せかな?」と思い、部分回収しました。

 12月に入ると、全国的に寒気が入り、急に冬らしくなりました。
佐久市では、12月3日に、今季初めて氷点下となり、-4℃を記録しました。

今季2度目の浅間山冠雪

 高い山の上は、既に冬が訪れていて、例えば浅間山(2568mASL)では、何度か冠雪がありました。いよいよ冬の到来です。   (おとんとろ)

令和4年 10月の俳句

 【神無月の句】

① 五十年(いそとせ)を 過ぎし祝いに しむ身かな 

② 摘み菜の お浸し供え 朝の膳

③ 林檎の香 歩調緩まる ウォーキング

               (晩秋の出来事)

 

 10月の俳句会では、佐久市民総合文化祭(今年は11月5日~6日の週休日)に出品する「俳画を添えた俳句」を準備するのが恒例となっている。
 文化祭は、コロナ禍による感染防止対策で、今年も会場を分散させ、分野別に開催する。ちなみに、舞台発表を伴うジャンル等は、来春に延期されている。
 俳句の題材や季語選びのヒントがないかと捜すのは毎回のことながら、今月は、既にひとつは決まっていた。高校卒業50周年記念行事があり、これに決定!
残り二題は、今まで選んだことのない季語を俳句歳時記から捜し、自分の体験と重ね、それらを俳句に詠んでみた。

 

 【俳句-①】は、私たちが高校を卒業してから50年、年齢では69歳を迎える秋に、『高校卒業50周年記念行事、及び懇談会』が開催されることを受け、青春の日々から社会人・職業人としての生活を経て、今日まで何んとか無事に人生を辿ってくることができたことに、感慨深さを覚えて詠んでみた。
「身に入(し)む」が秋の季語で、それを「しむ身かな」と倒置した。

 私は実は、この俳句を、当初、10月の俳句会に下記のように提出していた。
  卒業の 五十年過ぎし しむ身かな
 Sさんの『もしかして、「卒業」って、春の季語になっていないか?』との指摘で、調べてみるとピンポーンである。私は、「卒業式」とか「入学式」は、季語だと理解していたが、「卒業」自体が季語とは、驚きや不満と言うよりは「俳句とは制約のある言葉の中から選ぶ創作なのだ」と観念した。俳句を始めた頃とは大きく違う、ひとつの悟りである。
 それで、「卒業」を外してみたのだが、解釈する人によっては、結婚後50年を迎えた金婚式のことを詠んだ俳句かと思われてしまうかもしれない。

 ところで、式典は10月29日(土)に開催されたので、句会に提出した時は、当日の様子を想像していた背景もある。
 思えば16歳から18歳の高校生活3年間は、少しばかり波瀾もあり、そして悩み多いものの、基本的には、親の庇護の下、大らかに屈託無く過ごして卒業した。それから、半世紀が経った。卒業後、人に自慢できたり、誇れたりするような業績を挙げた訳ではない反面、空しく、そんなに悲しく惨めな生活を送ってきた訳でもない。まあ、平凡であったのだろう。そんな歩みの中でも、嬉しいこと有り、悔しいこと有り、失敗して落ち込んだことも有りながら、生きてきた。
 一方、多くの同窓生が亡くなっていた。ぜひ会って、放課後の体育館でバスケをしたこと、冬の夜道を20km歩行したこと、山や海のキャンプで飲んで騒いだこと、ボクシング練習をしたこと、マラソン大会・体育祭や文化祭・合唱大会で頑張ったこと等、追想して語りたかった友も、その中にいた。

            * * * *

校章(日輪と山桜)

 私は、卒業50周年記念行事の実行委員のひとりとして、1年半ほど前から、準備会に参加してきて、ついに、今月1日に実行決断の時を迎えました。それは、残念なことに、新型コロナ・ウイルス感染症(COVID-19)の影響で、私たちより1~3つ上の学年の卒業生は、記念行事ができなかったからです。
 ・・・・(当時の)国立大学の授業料が3倍になったこと、年金の受給年齢が突然変更になったこと、団塊の世代に続く私たちですが、世の中の動きのいくつかの境目を経験してきました。それが、コロナ禍の中で、記念行事ができる境目になれたことは、幸運だと感謝しています。
 これからの人生も、心身共に健康であることに留意して、そして希望と生き甲斐をもって歩んでいける為に、今回の記念行事がひとつの機会となり、仲間への貢献ができればいいなと思っています。


 【俳句-②】は、10月12日の父の命日に、畑で間引きしてきた葉野菜を「お浸し」にして、お仏壇に供えたことを詠んでみました。『摘(つま)み菜』が、秋の季語です。
 ちょうどこの時期、白菜・大根・野沢菜・小松菜・ほうれん草・人参などが畑で育っていて、昨夕に畑で間引いた野菜を使って、朝飯の味噌汁の具にしたり、お浸しにしていただいています。野菜を水を張った容器に入れて一晩置いておくので、新鮮そのものです。まあ、田舎ならではの贅沢のひとつです。
 ちなみに我が家では、小学生より早寝をしている私が、妻より早く起きてきて、朝飯作りをしています。
妻が怠け者と言う訳ではなく、私が「具だくさんの味噌汁」が好きで自作するのが、趣味のひとつだからです。
 妻は1時間ぐらい遅く起きてきますが、毎朝、仏壇に緑茶と線香を供えています。両親が既に亡くなっていることも関係しています。私は、気の向いた時や命日のような特別の日にお参りするだけです。
 ちょうどこの日は、父の命日で、特別老人ホームに入所した母と面会してきたことを報告しました。
 私など、あまり信心深くなくていけませんが、妻の毎朝の勤行には感心します。
そう言えば、祖母のことも思い出されます。足腰が立たなくなってからも、庭に連れ出してもらい、芝生の雑草を取りながら、伽藍の屋根しか見えない薬師堂に向かい、祈っていました。私が、『何をお祈りしているの?』と尋ねると、祖母は、『皆の健康と幸せを祈っている』と、返事が返ってきました。
 祖母は、大東亜戦争終結から、4ヶ月後に長男(父の兄)を戦病死させています。人の死は、人を信心深くさせ、敬虔な祈りのできるように導いているのかも知れません。
 幸運にも、「肺癌の5年生存率20%」と言われた私が、手術後5年以上無事に生きてこられたのも、祖母や妻の信心によるご加護を受けているからかもしれないなあとも思います。

             *  *  *  *

 余談ながら、畑は白菜・大根などを収穫した後、越冬する「下仁田葱・松本一本葱・玉葱・冬菜(菜の花)・京葱・ニラ」などを残し、「冬ぶち」と呼ばれる枯れ葉・刻んだ稲藁を入れて耕作する作業が行われることになります。

数少なくなった「櫨掛け(はぜかけ)米」



 【俳句-③】は、晩秋の散歩道を歩いていると、水田地帯の一画に「林檎畑」があり、実った林檎の甘酸っぱい独特な香りが漂い、思わず深呼吸して匂いを嗅ぐので、歩くテンポが遅くなり、歩行速度も急低下してしまうことを詠みました。 「林檎の香」が秋の季語です。句会への提出時は、「林檎香に・・・」としていましたが、一般的な表現の方がわかりやすいとのアドバイスをいただいたので、「林檎の香」と直しました。
 下五句「ウォーキング」は、少し迷いました。「散歩道」や「信濃路は」も候補でしたが、今や健康志向から、強歩(速歩)も含め、散歩よりも「ウォーキング」という言い方が一般的になっています。
 それに、佐久地方の林檎畑は、善光寺平(長野市など)のアップル・ラインや飯田市の林檎並木のように集中している訳ではありません。
 日当たりの良い山稜にあり、水田の中にあるのは例外的な存在です。
それで、「ウォーキング」を採用しました。
 ところで、佐久地方では、年配者を中心に、『ポール・ウォーキング』なる散歩が盛んで、その普及団体もあります。地面に接する部分は異なりますが、基本、スキーのストックを両手で持ち、足腰への負担の少ない状態で歩きます。山道や坂道にも安定感が出て、愛好している人もいます。転ばぬ先の杖よりは、より積極的に歩く為の物のようです。
 調べていたら、『ノルデック・ウォーキング』なる速歩、場合によっては競技に活用されている手段もあることを知りました。こちらは、距離競技スキー(ノルデック競技)よろしく、脚力に腕力も駆動手段として利用して、より速く歩く為にストックを使っています。
 かつて、中学生の「コンバインド(ジャンプとノルデック・スキーの2種目)」選手の付き添いで、練習や大会に同行したことがありますが、私は、ジャンプは無理ですが、ノルデック・スキーは購入して、やったことがあります。マラソン・ランニングでも、腕の振りは大切です。距離スキー競技では、両腕による推進力は、更に大切だと体感しました。がんばり過ぎると、腕の方が先に疲れてしまいます。まさに、全身運動です。
 もう少し、年を重ねてきたら、私が選択するのは『ポール・ウォーキング』の方でしょう。そんな頃になっても、林檎畑の脇を通過する時は、林檎の香を楽しめたらいいなあと思いました。

散歩道添いの林檎園

 

 【編集後記】
 

 佐久市民総合文化祭の「俳句の部」に、私たち「前山みゆき会」も参加しました。
           【写真参照】

野沢会館(俳句の部)

 佐久市野沢会館と佐久市民創練センターの2会場とも盛況でした。私は、初日の午後、4時間ほどかけて両方の展示会場を回り、作品を見学しました。多くの方々が、幅広い分野に興味・関心を抱いて、日々研鑽されていることが伝わってきました。

 ちなみに、私の出品作は、今年の7月の【俳句―①】「五位鷺の残す静寂星涼し」と、8月の【俳句―③】「五郎兵衛の稲の香載せて雲走る」の二句でした。
一枚の色紙の下に、もう一枚を入れておき、2日目に取り替えました。

令和4年・文月の句

令和4年・葉月の句



 ところで、私は、玄関に四季折々の草花を生けたり、庭の片隅にワンカップのガラス瓶に野山の草花や枝を挿したりする、風流人の真似事をする趣味もあるので、毎年、そんな展示コーナーも欠かさず見学します。

 「生け花」の部門では、見たことも聞いたこともない珍しい花や、一方で素朴な素材で何を表現しているのだろう?と思わせる作品がありました。   
 例えば、【写真】のような作品です。連立天守閣の松本城本丸のようなイメージと共に、親子・夫婦・兄弟姉妹のような人間関係を連想させます。それでいて、自然現象の一部だと理解して、植物同士が醸し出す一体感を感じました。
蒲(がま)の穂の位置関係にも、興味がありました。斜めの角度や、その交叉するであろう位置についてもです。

生け花



  展示場の関係から、先に見学したのですが、FA(フラワー・アレンジメント)の部門では、素材のひとつひとつが、絵画を描く時の「絵筆の絵の具」やその「タッチ」のような意味合いを持っているように感じました。
 例えば、【写真―上】のように、背の高いガラス製のグラスの上に、草花が「弥次郎兵衛」のように水平に保たれていて、微妙なバランスで空中浮遊しているようにも見えます。素材の名前は知らないのですが、ミニトマトのような赤い果実が、無造作なのか意図的なのか配されていて、気になります。作者の意図を理解しようとすると、さらに興味も湧いてきました。

 【写真―下】は、使われている素材は、比較的、私が目にする草花ですが、題名のように、左側から秋風が吹き抜け、草木をなびかせています。やや人工的な印象は否めませんが、この空間全体が、ひとつの家族や集団(様々な人々の集まる共同体)を象徴していて、ひとつの刺激に対して、少しずつ違う対応はしていても、全体としては共通な方向へなびいているようです。
 他にも、印象的な作品が多くありました。

FA・HORIZONTAL

FA・秋風が吹く

※それぞれ、作者名を紹介しませんが、ご免なさい。許可を得る手段もないので、お許しください。

 その時、思い、今でも疑問に思っているのは、
『生け花とフラワーアレンジメントは、どこが違うのだろう?』と言うことです。

 それで、インターネット検索をしてみると、次のように解説されていました。 共に「花を飾る」という点では共通しているが、下記の点については、違いがみられる。(ア)生け花:空間を豊かに見せる(引き算の美学)(イ)フラワーアレンジメント:空間を埋める(足し算の美学)・・・と。
 生け花は、使用する草花の数はできるだけ少なくし、空間を豊かに見せるのが特徴である。一方、フラワーアレンジメントでは、ふんだんに花を使用し、空間を埋めるのが特徴である。そのため、生け花は「引き算の美学」に対して、フラワーアレンジメントは「足し算の美学」ともいわれている。

 また、芸術性と実用性という点に関しても違いがみられる。(ア)生け花:芸術性が高い、(イ)フラワーアレンジメント:実用性が高い
 生け花は芸術性が高い。なぜなら、花を美しく生けるだけでなく、飾る場所の空間美を表現する芸術であるからである。また、草花を活ける器にもこだわり、中には数十万円以上する高級な器が使われることもある。
 一方で、フラワーアレンジメントは、実用性が高い。飾る場所が限られる生け花に対し、フラワーアレンジメントは、場所や形に制限はない。そのため結婚式やお葬式の装飾、さらにはブーケやプレゼントなどにもすることができる。
 こんな解説を聞いて、少し納得してしまいましたが、いずれにしろ、どちらの作品を見ても、興味・関心を覚え、心豊かにさせていだきました。
 願わくは、コロナ禍が、終息して、従来のように、ひとつの会場に全ての分野や部門の作品が展示され、市民総合文化祭が盛況となることです。

 まだ、白菜・大根などの収穫は終えていませんが、葱の収穫と堆肥作りの為の落ち葉回収が済んで、一息ついているところです。昨日の雨で、庭も濡れているので、落ち葉掃きは午後にと思いつつ、久しぶりに「はてなブログ」に載せることができました。              (おとんとろ) (id:otontoro)