北海道での青春

紀行文を載せる予定

天塩川・憧れの蛇行

 ふたつのエピソードがある。
 「ずいぶん眠ったような気もした。気がつくと、いつしか空は白み始め、雑木林の隙間から川が見え隠れしていた。鉛色に輝く川筋は、雑木林の島々の間を静かに蛇行していた。さざ波が、鈍く光る残雪を乗り越えんばかりに、力強く押し寄せていた。

(- 中略 -) これが、北国の春なんだなあと思った。」(尻別川の思い出、1973年(昭和48年)・4月13日)
 上野発の夜行列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道に入った。大学の受験は、函館で受けていたので、晴れて合格した大学生活の始まる札幌へは、初めて列車で向かっていた。河川の名前は後で知ったが、函館を出て長万部(おしゃまんべ)で分岐し、倶知安(くっちゃん)や余市・小樽を経由して札幌に入る、函館本線の車窓から見た「尻別川」の光景である。
北国の春の雪解け水を集めた川の力強い流れに感動し、その印象を日記帳に綴った。

 もうひとつは、「幾春別川(いくしゅんべつがわ)」である。
 「これで、全ての調査も終わったかと思うと、ついつい嬉しくなって、勢いよく堤防に駆け上がった。乳濁した川が、とうとうと流れていた。それが、山々や辺りの緑に対して、母なる色彩を帯びてくる。妙に大河のようなのです。どこまでも空の青さが新鮮でした。そして、休日の過ごし方について尋ねた時の、『日曜日には、子ども達はサイクリング。私は、それに付き合って散歩をします。』と答えた、あの主婦の声が聞こえてきました。その時、向こう岸を、石炭を満載した蒸気機関車が走って行きました。

(- 後半略 -)」(朝日新聞社世論調査のアルバイトを三笠市でした。1973年7月25日)
 大学1年生の夏、朝日新聞社世論調査のアルバイトをした。当時は、電話帳を使い、数えて何百人目かの人を決め、その住所を訪ねて聞き取りをした。居なかったり、断られたりして、たいへんな思いをしての調査であったが、学生の身分としては社会勉強となるアルバイトだったと思う。

 石狩川の支流である幾春別川は、私の故郷、千曲川の佐久地方辺りの様子と比べれば、はるかに川幅が狭く小さな川のはずだが、北の大地を流れる大河に写った。三笠市は炭坑の街で、当時は既に斜陽傾向にあったが、それでも活気があった。政治がらみの難しい質問に対して、『いっさい、わかりませんよ』と応えてくれた小さな居酒屋を経営していた老婆も懐かしい。あの爽やかな主婦たち炭坑労働者の家族は、三笠市営の集合住宅に住んでいた。そして、蒸気機関車が、幌内炭坑から石炭を満載した貨車を牽引して、川沿いを走り抜けていく光景は、私の故郷にないダイナミックな印象だったので、やはり日記帳に記した。
 ふたつのエピソードだけではないが、山国育ちの私にとって、大平原を象徴する大河や川の蛇行は、憧れとなった。

 

               *  *  *

 

 天塩川の川下りへの第一歩は、部の倉庫の中から古いゴムボート(6人乗り)を見つけたことがきっかけだったが、それを実現させたのは、大河やその蛇行に象徴される広大さに対する憧れからである。そして、釧路湿原とともに、人の踏み入れることのない自然遺産、天塩川下流域のサロベツ湿原の存在があった。
 しかし、物事というものは、見方ひとつで、ずいぶん異なった印象を与えるものらしい。
 盲人が象に触って、その印象を各人が主張し合う有名な話があるが、観点ばかりではなく、視野の大きさも重要な要素らしい。
 例えば、一枚のチューリップの葉を見せて、小学校教諭が、『これも、生き物ですよ』と言う。低学年の児童なら、『緑色の紙切れだい』と、言い返すかもしれない。 

 そこで、先生は、顕微鏡を持ってきて、表皮細胞の気孔や原形質流動を見せた。すると、子供らは、口々に『動いている。生きているんだ。唇みたいなものがある』と、叫ぶようなものである。つまり、肉眼ではなくミクロ的な見方によって、そのものの、ひとつの本質的な要素に触れることができ、感動し得たのだ。
 ところが、私の憧れの「蛇行」は、どうやら視野の大きさが違っていたらしい。
 5万分の1の地形図を広げ、雄大な蛇行や三日月湖を夢想し、はたまた航空写真を見て、緑の大平原に銀色に輝く川筋がくねっている姿に憧れていたようだ。だから、その実際はどうだろう。

 

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 『おい、K。あの牛、前にも見たよな』と、私が言う。
 『牛なんか、どれも同じに見えるさ』と、Kは言うが、牛にも人相のようなものがある。
 私は、確かに同じ牛だという確信をもって、地形図を取り出した。
 まっすぐな水平線に向かって漕ぎ、今度は、その逆向きに進んだ。Kは、文庫本を取り出して読書中だが、川の流れがほとんどないので、私は、深い溝のような所を懸命に漕いできたのだ。往復で500m以上も漕いだ所で、広げた地図で現在位置を確認してみると、わずか20mほどの土手を越えていれば、良かったことに気づいた。あの牛は、明らかに、見る向きが反対に変わっただけで、同じ牛だったのだ。これではまるで、ヒト用に作られた「ネズミの迷路学習装置」の中を行き来するようなものではないかと思った。しかも、真夏の太陽をもろに受けて、風もない炎天下の流路を必死に漕いでいる。夢や憧れの世界と現実との大きな差であり、これが、天塩川の蛇行地帯の一側面であった。

 しかし、それがわかった今でも、蛇行する河川の航空写真を見ると、憧れを抱いた時と同じように感動できる。私にとって、大海原にしろ、大平原にしろ、砂漠や雪原にしろ、同じようなものの繰り返しや、限りなく広い空間に憧れる気持ちは、少しも衰えることはないからだ。

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モンゴル・セレンゲ川の蛇行


 もし、気球に乗って、天塩川の上空を飛べば、もっと大きな感動が得られたかもしれないと思うこともあるが、ゴンドラから、地形図通りに流れていく川を見ていると、あの川辺に下りて、川の水と共に流されてみようとか、やはり、そんな気持ちになっていただろうと思う。
 炎天下、無風の溝の中を流れてみるのも、森に囲まれた川で水鳥と出会えるのも、夏草の中で寝そべった牛を眺めるのも、代わり映えのしない見方ではあったが、何にも代え難い下流地帯のすばらしさだった。人間の生来の身の丈での観察や体験は、安心して見聞きすることができる癒しの世界である。その平凡さが、心地良さにつながるのかもしれない。
 それは、例えば将来、多くの人々が、宇宙空間から青い地球を眺められる時代になったとしても、変わらないと思う。

 【編集後記】 私たちの小学生の頃、赤蜻蛉(アキアカネ)が里に舞い出す秋口になると、毎年、ゴム動力の紙飛行機作りが盛んになって遊んだ経験がある。上空を飛ぶ飛行機を発見すると、『あっ、ひこうきだー』と大騒ぎをする時代でもあった。しかし、なぜか私は、飛行機以上に、船を作ることが好きだった。木材を加工して、スクリューを購入して取り付け、ゴム動力の船、その種類も空母・タンカー・軍艦などを作った。そんな頃から、大河や海への憧れがあったのかもしれない。