北海道での青春

紀行文を載せる予定

羆(ヒグマ)に襲われる

 ペテガリ岳・Cカールで迎えた夜は、幻想的であった。
 カール壁を見上げると、稜線に上弦の月が懸かり、ハイマツや岩壁の影絵が、くっきりと見えた。天の川が、南側の稜線から天頂を経て北の空に流れ、満天の星空であった。
 だが、視線を下に移し、カール底のハイマツ帯に目をやると、ハイマツの枝が、わずかに揺れている。ひんやりとした夜風が背中に触れ、ちょっと身震いした。

 先ほどまでテントの中で話題にしていた「九の沢カール付近での山岳遭難事故」のことを思い出すと、静かな宵の美しい風景も、突然、不気味な光景に見えてきた。ハイマツの陰に、ヒグマが潜んでいるような気がして、不安になったからだ。カーバイドを土の中に埋めて、寝ることにした。

 

 *「カーバイド」とは?   化学式は、CaC2 で、灰色~暗灰色の塊である。これを土の中に埋めておくと、土中の水分と反応してアセチレンガス(H2C2)を発生する。かつて使用したお祭りの夜店で燃やしたアセチレン灯のように、明かりとして利用するのではなく、臭いをヒグマに嗅がせる意図がある。純粋なカーバイドは、エーテルに似た芳香がすると言うが、不純物が入っていると不快な臭いになる。自然のものではない変な臭いを発生させ、ヒグマが警戒してテントに寄りつかないのではないかと考えた。
 ちなみに、「CaC2+2H2O→H2C2+Ca(OH)2 」という化学反応式になる。

 

              *  *  *

 

 今回の私たちの山行(昭和49年)のほぼ4年前、昭和45年7月25日~27日にかけて、衝撃的な山岳遭難事故が起きている。

 九州のF大ワンダーフォーゲル部のパーティー5名が、札内川上流の稜線でヒグマに襲われ、3人の学生が亡くなった。ショッキングな事件でもあり、私たちの身にも直接降り懸かる可能性のある関心事なので、テントの中で話題に挙がった。要旨は、以下のような内容である。

 F大パーティーは、日高山脈の北から南への縦走を計画していた。芽室岳(めむろだけ) から入山し、ピパイロ岳、幌尻岳、エサオマントッタベツ岳と、日高山脈の稜線を順調に南下してきた。1900m峰直下の「九の沢カール」には、7月25日の午後3時20分に着いた。そして、テントを設営して、夕食を食べ終えた午後4時半頃のことだ。
 ヒグマとの最初の接触があった。テント付近を30分ほどうろついていたヒグマは、外のリュックをあさり始めた。大胆にもヒグマの隙をついて、リュックをテントの中に入れた後で、ラジオの音量を上げたり、食器を鳴らしたり、火を焚いたりして、ヒグマを追い払ったらしい。しかし、逃げたかに思えたヒグマだが、午後9時頃、再び鼻息が聞こえ、一撃で天幕に穴を開けた。この後、二人ずつ交替で不寝番をして朝を迎えたという。

 7月26日の起床は、午前3時であった。各自のパッキングが終わりに近づいた午前4時半頃、ヒグマが現れた。15分ほど様子を見ていたが、近づいてくるので全員がテントに入って様子を伺った。ヒグマはテントまでやってきて、テントを引き倒そうとするので、ポールや天幕をつかんで5分ほど防戦したようだ。これ以上は無理だと判断して、入口とは反対側の天幕を上げ、中間ピーク(彼らの命名)側に向かって全員で逃げた。振り返ると、ヒグマは、テントを倒し、リュツクをあさっていた。

 ここで、サブリーダーB君と1年生部員のD君の二人(生存した二人である)は、助けを求めて九の沢を下る。午前5時頃のことである。

 午前7時15分、八の沢出合いで、二人は同じようにヒグマを見かけたので下山途中のH学園大パーティー10名と出会い、事件の状況を話し、警察等への救助依頼をした。そして、地図と磁石、燃料などを譲り受けて、仲間の待つ稜線へ、距離的に近い八の沢を経由して戻った。
 午後12時30分、カムイエクウチカウシ山の北側の稜線に出た。午後1時、テントやリュックを九の沢カールから稜線へ運び上げたリーダーA君ら3人と合流し、中間ピークにテントを張り、夕飯作りとテントの修繕をした。
 しかし、夕飯の後、寝る準備をしていた午後4時半頃、再びヒグマが現れた。
 カムイエクウチカウシ山への稜線を60mほど逃げた。(この時、メンバーのほとんどが、慌ててテントを飛び出したので、登山靴を履いていなかったようだ。)
 リーダーA君が、様子を見に行くが、ヒグマはテントから離れる気配はなかった。
(2回目の偵察をする前に、C君とE君が、通り過ぎたT大パーティーが、八の沢カールでテントを張ったのを確認に出かけた。)
 A君の2回目の偵察の後、ヒグマはまだ居座っていたので、T大のテントで保護してもらうことを決断し、「八の沢カール」をめざした。途中で、C君とE君とも合流した。
 八の沢カールに至るには、カムイエクウチカウシ山(1979m)のピークを越えるのが安全なルートである。しかし、全員が疲れていたので、頂上手前から、ハイマツ帯の薄くなっている部分を選び、T大のテントをめざして下山した。
 午後6時30分頃、稜線から60~70m下った所で、ヒグマが追ってくるのを、振り返ったD君が見つけた。B君は少し下がって横にそれ、ハイマツの中に身を隠すと、傍らをヒグマが走り抜けて行った。そして、25mほど下で人の悲鳴が上がり、E君が、ハイマツ帯をヒグマに追われ、カール底に走っていくのが見えたと言う。(※この時、E君は、ビグマに背後から噛みつかれて倒され、命を落とした。)
 互いに声を掛け合い、「全員集合」を叫んだが、C君からの応答はあったものの、ついに出てこなかった。A君、B君、D君の3人は、T大テントに向かった。T大パーティーは、火を焚いたり、笛を吹いたりしてくれたが、その後、下山した。午後8時頃、3人は、安全と思われる岩場で、ビバークをした。

 翌7月27日の起床は、午前7時30分であった。視界は5mと、ガス(霧)が濃かった。E君の所在を確認する為に、8時頃、カール底に降りるが、突然、ヒグマが現れた。先頭を行くA君が、ヒグマに追われ、カール底に逃げるのを霧の中から、B君は目撃したと言う。(※この時、A君は、ヒグマに背後から噛みつかれ、命を落とした。)
 残されたB君とD君の二人は、山の斜面をトラバースし、左岸側から八の沢を下り、麓に向かって走った。B君は、逃げた時に靴を履いていなかったので、くつ下のままの歩行であった。午後1時、五の沢の砂防ダム工事現場に到着する。そして、自動車で送ってもらい、午後6時、中札内駐在所に到着した。

 一方、C君である。
 ヒグマに襲われるE君を目撃したと言う。(※その為、呼びかけても出てこなかった。)
 3人がT大パーティーのテントにたどり着いた頃、ハイマツ帯の中にいた。崖の下に焚火が見えたので、下り始めると、下からヒグマが、鼻息も荒く登ってきた。そこで、一度も振り返ることなく、一目散にハイマツの中を、中間ピークの自分たちのテントをめざして駆け上がり、無事に戻った。しかし、そこには誰もいなかった。それからシュラフに入るが、なかなか眠れない。

 翌日の7月27日は、午前4時頃、目覚めた。シュラフの中にもぐり込んで時を稼ぐが、午前7時、握り飯を作り、意を決して外に出た。しかし、ヒグマは、やはり居た。再び、テントに戻ってシュラフにくるまった。
 (※この後、C君は、手記を残しながら、シュラフの上から頭部を囓られて絶命した。C君の遺体は、テントから100mほど離れた所で、捜索隊によって発見された。)
 そして、7月29日午後4時過ぎ、C君の遺体が発見された場所から15mほど離れた岩陰で、一頭のヒグマ(3歳の雌(♀)、体重350kg重)が、射殺された。

 

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9の沢カール周辺の地図(手書き図)

 

 以上が、F大パーティーの遭難事故の概要である。

 内容は、二人の生存者の内の一人、サブリーダーB君の話と、シュラフの中で最期の手記を記したC君のメモなど、警察等で公表されたものを簡潔に書いてみた。
 「どうすれば、ヒグマによる遭難事故が防げたのか?」、「他のパーティーの行動は、どうすれば良かったのか?」など、もちろん意見はあるが、それには触れないでおこう。

 

 【編集後記】 北海道の自然の中に足を踏み入れれば、まず第一に、ヒグマと遭遇することの怖さを、たぶん誰もが感じるだろう。かつて、北海道の開拓時代には、オオカミの群れもいたが、今はいない。ヒグマは、子育て中の母子の時期があるが、基本的に単独行動をし、たくましく生き延びている。

 もっとも、人間の勝手な理由で、ヒグマを避けようとしているのであって、大自然を誠実に生きる権利は、羆を始め、どの動物や植物にも平等にあるはずである。北海道の山には、恐いヒグマがいるということで、いい加減な気持ちで入山する人がいないのは、良いことだと思っている。人間の自然の中でのレジャー(登山も)は、恐れと共に、『畏れ』も感じて楽しみたいものである。