北海道での青春

紀行文を載せる予定

西暦2035年 9月2日、A小へ集合

 

 6年生の5月21日(月)に、A小学校の校庭で、金環日食を観察した。残念ながら、私は、佐久病院の定期検診で、年休(一日)だったので、自宅で、たまたま帰省していた妹や家族と一緒に見た。
 待ち遠しいのは、2035年9月2日の日曜日である。
 今から22年後である。(生きてるぞ!)今度は本物の皆既日食であり、当地も、ちょうど午前10時頃、皆既日食帯の真下に入る。天気が良かろうが、悪かろうが、数分間は真っ暗になるはずだ。雲がなければ、きれいにコロナが見えているだろう。

 天体の動きは、精巧で緻密な計算で求められ、私たちは、決まった事が決まった通りに進行していく宇宙世界の中で生きているのに、なぜか、人の生きる様は、そうもいかない。私たちは、日常の喜怒哀楽の中で、精一杯やっていくしか他に方法はないのか。それが生き物の定めなのかとも思う。それでも逞しく生命を繋いでいこう。

 君らの卒業する年の初夏、私は、君たちと一緒の日食観察を見のがしてしまったので、次は、本物の皆既日食を共に見よう。どんなにか心身共に成長し、逞しく、美しく変身した皆さんとの再会が、とても楽しみである。卒業おめでとう。

 

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皆既日食金環日食のイメージ

 【忙中閑話】  「無常観」の別解釈?

 鎌倉時代の「徒然草(吉田兼好)」と共に有名な「方丈記(鴨 長明)」の冒頭の一節は、『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。』である。散歩の折、近所の片貝川縁で見かける光景を見ていて、ふと口ずさむ。

 だが、私には、自分の生涯を越えた天文学上の出来事で、例えば日食がいつどこで起きるのかが決まっていると言うより、計算できるのに、自分の人生(生き様)が推測できないことが不思議でならない。それだけ、私たち生物の行動の方が、数式で予測できない複雑で、未知なものなのだからだと思うのだが。

 それにしても、私は計算して予見できる地球上の生き物であり、まさに、その上で生きている。大きな集合の中に含まれる極めて小さな一要素なのに、それが未知数であることが不思議なのである。

 方丈記で言う、「うたかた(泡・バブル)」を見ることができる、もう少し大きな存在(集合)にしか過ぎないのであるが・・・。
 そうなると、二通りの解釈ができる。ひとつは、既に運命は決まっていて、どうあがいてもだめですよというものであり、もうひとつは、全体は決まっていても、あなたに関する集合の中では自由ですよというものである。当然、私は後者の発想の方を選びたいが、私の自由行動によって、日食の時刻を一秒たりとも遅らせることはできないと思うと、これもまた、空しい努力に思えてしまう。
 要は、自分の丈(生きる範囲)をどう解釈するのかということなのかもしれない。

 

 【編集後記】 本文の方は、小学校の卒業する六年生に送る文集からのものである。

 私は、この日本の中部地方で見られる西暦2035年(令和16年)9月2日(日)の皆既日食の話題が気に入ったのか、ふたつの小学校で少しだけ内容を変えて書いている。しかし、テーマは、お祝いというより、「人の運命は決まっているのか、それとも開拓・改革していくべきものなのか?」ということである。当然な思いと願いとして、後者の生き方をしようと呼びかけたものである。