北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和3年卯月の句(春の子ら三題)

  【卯月の句】《春の子ら三題》

 ① 警泥の 泥ら駆けてく 日永かな
 ② 姉を追い 春の風切る ヘルメット
 ③ 花は葉に 仔犬散歩の 似た姉妹   

 

 少人数での「定例俳句会」ではあるが、新型コロナ・ウイルス感染拡大の影響で、令和3年になってから1月、2月と2度も中止としたが、3月には開催できたので、4月も敢行することした。と言うのも、月遅れの「倉沢薬師堂花祭り」に向けて、奉燈俳句・俳額の製作という大切な恒例行事があるからだ。
 4月14日に南区公民館で、全員が参加して、令和3年度「みゆき会」が発足した。幸先の良いスタートである。

 私の4月の俳句は、佐久地方の学校の春休み中に見聞きした、伸び伸びとした子供らの姿を題材にしてみようと思った。

 

 【俳句-①】は、通称「警泥(けいどろ)」と呼ばれる「鬼ごっこ遊び」に興ずる子供らを応援するように、日が延びていく嬉しさを詠んでみた。
 春休み中の児童館で、子供たちが「警泥(警察と泥棒の略)」遊びをしていた様子を、『最近の子供って、弱い子に優しいんだね』と、私の家内が神妙な面持ちで、次のようなエピソードを語ってくれた。
 かけっこの遅い子が「警」になると、「泥ら」を、いつまでも捕まえられなくなってしまい「警」の子が可愛そうだ。そこで、『タイム』が掛かり、足の速い子が抜擢されて「警」になる。すると、「泥ら」は面白いように捕まって、留置場は、すぐに「泥ら」でいっぱいになる。家内は、最後は笑いながら、事の一部始終を話してくれた。

 ふと、自分の幼い頃の「かくれんぼ遊び」や「缶蹴り遊び」の思い出が蘇る。
鬼になった子が、何度も鬼を繰り返し、最後は泣いて自宅に逃げ帰ってしまったことがあったことを!

 ところが現代の子供は、正義とかルールとか言う前に、現状で困った子がいたら、途中でルールも改正して、皆で仲良くやっていこうという処世力学が働いているようだ。家内は、その点に感動して、私に伝えてくれた。
 私も、学校教育の影響力があるだろうことは理解できる。
 ところで、『泥ら』という響きが、外国語のようでもあり、未知の言語のようでもあり、妙に新鮮に聞こえて、印象に残った。
 それで、子供らの遊びの描写に、「DORORA」を使ってみようと発想した。
 季語としては、日増しに昼間の時間が長くなり、暖かな日差しが溢れる『日永』が、ふさわしいと考えた。

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ごっこ遊びのイメージ


 【俳句-②】 は、春風を切って自転車走行をする子供らの様子を詠んでみたのだが・・・。私の俳句の特徴で、解説を加えないと、描写した背景がわかってもらえないようだ。
 会員から直される前の俳句は、『ノーヘルの春の風切る笑い声』であった。

 小学校低学年の妹は、校則を守り、ヘルメットを被っている。一方、姉の方は、春休みの開放感からか『ノーヘル』で、農道を自転車で併走する友人と、何がおかしいのか、高笑いをしながら、滑るように自転車を走らせていった。
 ところが、妹の方は、変速機の付いていない自転車なので、ペダルを必死に漕いで、姉たちを追いかけて行くのだ。

 私が、そんなエピソードを語ったら、ある会員から、『俳句では、意味のわかり難い略語は厳禁です!と、厳しく指導する先生もいますよ』と、指摘が入った。
「ノーヘル」は、ヘルメットを着用していない「ノーヘルメット」のことだが、好ましくないらしい。それで、姉とその友人の高笑いの情景より、二人に追いつこうとして必死にペタルを漕いでいた妹に、敢えて「ヘルメット」を被せた作品に作り直してみた。
 元々、感動して表現したかったのは、健気な妹のペタル漕ぎの姿だったので、私としては異論はなく、ほぼ満足である。

 ところで、人は、長男・長女であった人と、その弟や妹であった人とで、性格や考え方、他人との対応の仕方など、ずいぶん違う傾向があるという話を聞いた。
 実際、変速機付きの新しい自転車に乗る姉と、多分、姉の乗った後の「おさがり」の自転車に乗る妹の姿を見比べると、兄弟姉妹という小世界の中でさえ、不平等さが、あると思った。
 長男である私は、男の子を大事にする旧来思想の残る田舎で幼児期を過ごしたので、家族ばかりか、地域社会からも、妹と比べて段違いの特別扱いを受けていたと思う。今の、この年齢になって、そのことを振り返る。
 しかし、それを「差別だ区別だ」と騒ぐ以上に、兄弟姉妹の間の愛情があれば、ある程度、宿命的な条件として、互いに折り合いをつけて付き合っていくのも、これまた、幸せへの道筋なのかもしれないと思います。

 

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花から葉桜の季節へ

 【俳句-③】は、仔犬散歩の子に出会った時、それぞれの「生き物」としての宿命的な速さのレベルで、展開していくことに感動して、詠んだ俳句です。
 どうやら、この俳句も、私独特の飛躍があり過ぎて、解説が必要なようです。
 近所のHMさんの子供の姉と弟が、仔犬を散歩させていた。弟は鎖を持たせてもらえずに姉に附いていくだけで、少し不満もあるように見えた。
 ふと、我が家で飼っていた犬たちと、家族のことを思い出していた。母犬(テリー犬)が、4匹の子犬を産んだが、2匹の雄(♂)犬は子犬の時にもらわれて行き、雌(♀)犬2匹が残った。
 その後は、母犬を含めて3匹の犬たちを散歩させる度に、家族の誰が、どの犬の鎖を取って連れて行くかを争ったものであった。

 愛犬飼育は子ども特有の願望のようで、隣家のMMさん宅の子供さんたちも、3人の内、誰の発案かわからないが、犬を飼い始めた。

 一方、桜木は年輪を重ねていくが、基本、一年周期で改まり、春夏秋冬を繰り返す。厳しい冬を経た蕾は、春の日差しを浴びて一斉に咲き出したかと思えば、見る間に散って、葉桜の季節となる。夏から秋は、人々から注目されることもなく、樹齢を重ね、次年度への準備期間に入るのである。

 しかし、動物であるヒトとイヌは、桜と大きく違っている。寿命の差から、子供の頃に育て慈しんだ愛犬は、人が成人した頃には、老犬となって亡くなることも多い。犬の成長は、人間の6~7倍と言われている。

 直接見たのは仔犬散歩の姉弟だが、そこに我が家の姉妹らの犬へ愛情を注ぐ類似した思いを感じたので、『似た』という言葉を使った。

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長生きしたエル犬と成人した娘

 MHさんの子供たちも、私の娘姉妹が成人して結婚し、母となって行ったのと同じように、花から葉桜への移ろいを何回か重ねると、大人になっていくんだなと思い、昔のことが懐かしくもあり、現代の子供らの勢いにも感動した。

 

【編集後記】

 俳句シリーズは、久し振りです。雨降りの日が続き、農作業ができないので、俳句のまとめをする機会ができました。令和3年度の4月~7月を、「はてなブログ」載せていきたいと思います。

 私は、定年退職後、8度目の4月を迎えました。俳句の「みゆき会」には、3年目の4月に入会を誘われて、5月の会から参加したので、卯月(四月)の俳句を作るのは、今回で5回目になります。ちなみに、年度別に選んだ「季語」を振り返ってみると、

(ア)平成29年:里桜/山桜/花藥師

(イ)平成30年:春惜しむ/蕗のとう/甘茶仏

(ウ)令和元年(正確には、平成31年):春選挙/チューリップ/すみれ草

(エ)令和2年:猫の恋/初音/蕗の花

(オ)令和3年:日永/春の風/花は葉に   ・・・・でした。

  登山の折り、途中の尾根で休憩して振り返った時、自分の歩んできたルートを見ると、思わず嬉しくなるのと同じ心境です。ただ、大きな違いは、作品の出来映えには、課題が多いなあと、思うことでしょう。

 会の何人かの先輩からは、『平均年齢81歳の小さな「みゆき会」で満足しないで、立派な指導者のいる会に入って、勉強してみませんか』と促されますが、『私の専門は地質学なので』と断ります。上手に俳句を作れるようになりたいとは思いますが、月に一度の句会の度に、かなり苦しみながら三句を、ようやく作って参加している状態なので、趣味の範囲で構いません。(おとんとろ)