北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(西端―3)

3.石英閃緑岩の分布とその影響

 

 【熱変成岩】
 古谷集落北側の沢の標高945mと955mの間(古谷集落北側の沢・ルートマップを参照/図版【図-③】)には、薄紫色~青緑色を帯びた光沢のある結晶質砂岩があります。この砂岩は、かなり熱変成が進んでいるように見えました。ところが、水平距離で30mと離れていない前後の黒色頁岩層【図-②と図-④】は、剥離性が残り、熱変成による粘板岩化は進んでいません。
 一方、前年(19.July 1992)の林道・大日向-日影線の調査で、類似した色彩を帯びた結晶質砂岩を見つけていました。この砂岩の近くには、石英閃緑岩体が広く分布しています。さらに、岩体と接触している露頭もあったので、熱変成されたものであると、理解していました。
 しかし、30mと離れていない所で、強く熱変成されたものと、ほとんど影響の及ばないものがあるという産状は、不思議な気がしました。それで、平成5年度佐久教育ジャーナルには、熱変成を受けた砂岩は、先白亜系かもしれないと載せました。

 もっとも、問題になる地点(【図-②】~【図-④】は、小向斜構造としか考えられず、古い時代の地層が、わずかに顔を覗かせているという解釈に無理があります。問題のまま、残っていました。

           *  *  *  *

 ところが、平成7年10月29日に、由井俊三先生(元北海道大学教授)から、熱変成についての説明をいただき、この辺の事情が一気に明らかになりました。
 林道大日向-日影線終点に近い、北側(2本あるので)の高電圧送電線の下、標高995m付近の露頭(【図-②】)で、先生から説明をいただきました。

また、【図-③】では、砂岩層と接触する石英閃緑岩体(節理)が見られました。

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タイガー・ロック

 石灰岩などに花崗岩質マグマが貫入すると、化学反応を起こして、鉱物を富化していきます。
① 細粒の黒雲母(クロウンモ;薄紫色~薄赤紫色に見える部分)ができ、

② この後、カルシウム(Ca)成分の多い 輝石(青緑色に見える部分)ができます。

③ 最後に、黒色の磁鉄鉱が、絞り出され るようにして作られます。
 黒い部分へ、糸につるした小さな磁石 (商品名・ピップエレキバン)を近づけてみると、みごとに引き寄せられていきました。

 『秩父では、青緑色をした岩石を、俗に、「タイガー・ロック」と呼んでいます。佐久地域では、あまり調べられていないので、皆さん、せひ調査してみてはどうですか?』と、由井先生からお勧めがありましたが、皆、『難しそう』と、黙ってしまいました。

 花崗岩質マグマとして、ここでは石英閃緑岩の貫入岩体があります。「スカルン鉱床」のように、大規模に鉱物が富化する地帯では、石灰岩ドロマイトが原岩にあるようですが、ここでは、レンズ状石灰岩が付近にある程度です。「接触交代熱変成作用」を受けた変成岩であって、決して古い時代の岩石である必要はないということが、わかりました。岩相の色の原因についても明らかになりました。

 「古谷集落北側の沢」で問題となった結晶質砂岩は、三山層のものとして良さそうです。地下に熱源があり、接触交代反応が行なわれたと考えられます。地下に岩枝(がんし)状に石英閃緑岩が貫入してきていると想定すれば、無理なく産状を説明できます。

 また、熱源が小さければ、20~30m離れているという条件は、変成と非変成を十分に分ける距離だと言えそうです。

 ただ、三山層の中に、石灰岩に相当する岩体はないのが疑問でした。

 

 

4.霧久保沢の調査から

 石英閃緑岩の貫入岩体によって、白亜系の連続した西への広がりは、区切られますが、西側の接触部には白亜系が分布しているらしいことに気づきました。

 そこで、平成8年度には、林道の西端と、尾根を挟んで南側を流れる霧久保沢の調査(22.June 1996)を行ないました。 

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再掲: 林道・大日向―日陰線(霧久保沢のルートマップ)

 石英閃緑岩体として一律に扱ってきた岩体の中に、周囲より明らかに苦鉄質(mafic・鉄やマグネシウムの多い)の閃緑岩塊が、捕獲岩(zenolith)という形態で含まれている露頭が、林道終点の「P943」付近(【図-①】)で見られました。これは、貫入岩体の冷却中に、結晶分化作用が進んでいたのではないかという証拠です。
 しかし、平成10年11月に訪れてみると、石材に利用する為なのか、石英閃緑岩体を崩す作業が始まっていて、辺りの風景は一辺していました。私の報告した上述の露頭は、無くなっていました。 

 

 【説明】結晶分化作用  (crystallization defferentiation);マグマが地下深部で冷えて、鉱物が作られていく時、鉄やマグネシウムを多く含む(贅沢に使える)鉱物の方から先に作られていくという化学変化の原理があります。石英閃緑岩という、比較的、珪酸成分の多いマグマの中で、先に閃緑岩を構成する鉱物が晶出し、岩塊を作っていたことを意味しています。先に閃緑岩を作るようなマグマ貫入があり、続いて石英閃緑岩貫入があったのかもしれません。
 または、「マグマ溜り」の底に、閃緑岩を晶出して沈殿させた部分を、後から石英閃緑岩となるマグマが押し上げたことも考えられます。長時間をかけて岩体が冷えてきたことや、場合によっては二段階程度の貫入があったことの可能性を示しています。    

 ただし、火成岩の多様性は結晶分化作用だけでは説明できない。他にも、マグマの混合などの考え方もあります。

 

 霧久保沢入口から、茂来山たたら跡方面に進むと、砂岩や泥岩が「接触熱変成作用」で変成された「ホルンヘルス(hornfels)」が見られました。全体的に黒色で、一部、層が見られる状態のものもありました。
 また、石英閃緑岩が、岩脈(dyke)や岩枝(apophyse)状に貫入している産状が、観察されました。このことは、霧久保沢地域が、石英閃緑岩体貫入の中心から「ずれ」ていることを意味しているのかもしれません。全体分布から見ると、南西端になります。硬い岩盤の中で、弱線などを狙って貫入してきたものと思われます。

 蛇紋岩や石灰岩塊(時に、レンズ状の小岩体)の分布から、霧久保沢に沿った北西-南東方向に、断層を推定しました。白亜系と先白亜系を分けるもので、比較的、落差や水平移動の大きなものだと思います。調査を始めた頃は、「抜井川断層」と呼んでいました。
 しかし、専門的な情報を得て、大きな構造帯の一部というような扱いが必要だとわかり、蛇紋岩などが分布している「ゾーン」としてとらえ、「蛇紋岩帯断層」しました。

 

 【編集後記】

 霧久保沢の上流部は、硬そうな岩盤(先白亜系)に綺麗な滝があって、沢登りを楽しんだり、露頭観察をしたりと、魅力的な沢だと思いましたが、途中から尾根に上がり、「高橋鉱山」側に降りました。都沢と同じように、奥深い沢のようで、「いつかは、奥まで入ってみよう・・」と思いつつ、とうとう2回目に入ることはありませんでした。

 ところで、由井俊三先生から説明を受けたような、「スカルン鉱床」や変成作用の話題になると、私たちには難しいです。また、火成岩の鉱物組成や、まして化学分析の話題は、苦手です。私たちに、もう少し物理・化学的分析の手法があれば良いのですが・・。

 昨日(R3.3.7)、長野県の上小地区の地質を、特に火砕流や泥流などの岩石学的手法で研究されている山辺邦彦先生の案内で、地質巡検をしてきました。私たちの地域で見られる「志賀溶結凝灰岩」相当層の分布から、(ア)佐久からさらに上田方面まで噴出物が広がっていたか、(イ)本宿カルデラと同時代の「北御牧カルデラ(先生の仮説)」からのものか、と言うお話を踏査しながらお聞きしてきました。

 私たちも、鉱物・岩石学的な観察視点をもって、関連する論文にもがんばって挑戦しながら、佐久地域を見ていきたいと思いました。ありがとうございました。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語(西端―2)

2.小川が白亜系分布の西端 

 井田井沢は、古谷集落の南側にある沢で、都沢から西に延びる白亜系を追跡するには、断面が観察できる条件を備えた最適な位置にあります。ところが、表土に覆われた露頭の極めて少ない沢で、わずかな情報しか得られませんでした。
 黒色頁岩が粘板岩になっていることから、西側に分布する石英閃緑岩体が付近の地下にまで接近してきていることが予想されます。砂・礫岩の転石が多量に集積している場所があり、瀬林層の連続を推定することができました。

 一方、国道299号線沿いに付近を調査してみると、西側からの石英閃緑岩体の東縁は、(ⅰ)「広久保橋の北西10mの所にある小さな小川」であることがわかりました。
 また、林道・大日向-日影線の調査から、(ⅱ)「地図上のポイント995の北側の小さな沢、標高970m付近」から西側に、石英閃緑岩体が露出していることを確かめました。
 そこで、連続して分布する山中地域白亜系は、抜井川流域で見る限り、この2つの地点(ⅰとⅱ)を結ぶ線よりも、東側であると言えます。
 ただし、林道の西側には、石英閃緑岩の柱状節理と接する中粒砂岩や、熱変成を受けた砂岩が認められるので、厳密に言うと、白亜系の分布は、もう少しだけ西側に延長されると思われます。

 さらに付け加えれば、前述の(ⅰ-ⅱ)境界は、地下深部にあった石英閃緑岩体が迫り上がりつつ浸食されて、地表に露出したので、この上には、かつて白亜系が、あったことは十分に予想されます。

 

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石英閃緑岩の露頭 (林道「大日向―日陰」線)

  石英閃緑岩体の露頭~

 佐久地域の西側には、石英閃緑岩(quartz diorite)が広く分布し、抜井川本流や国道299号線沿い、林道・大日向-日影線で観察できます。
 石英閃緑岩は、斜長石(plagioclase)・石英(quartz)・角閃石(amphibole)を主成分とする深成岩です。閃緑岩は、有色鉱物として、角閃石に加え、輝石や黒雲母なども見られるようになります。石英が特徴的なので、このように呼ばれます。花崗岩(granite)や花崗閃緑岩(granodiolite)より、肉眼では、いくぶん青味がかった黒~灰色色合いが増して見えます。


 【編集後記】

 本文中の『さらに付け加えれば、前述の(ⅰ-ⅱ)境界は、地下深部にあった石英閃緑岩体が迫り上がりつつ浸食されて、地表に露出したので、この上には、かつて白亜系が、あったことは十分に予想されます。』という内容に関わり、補足します。

 佐久地方の白亜系が堆積した当時の方位は、現在のものと比べるとは、約90°程度ずれていることが知られています。日本海の拡大に伴い、日本列島が大陸から離れ移動してきたからです。とは言え、ここでは、現在の方向で、説明します。

 白亜系の石堂層(下部)のデーターによると、堆積物の供給方向は、ほぼ南側からと推定できます。また、瀬林層の3相(陸域に近い~さらに沖合)のデーターからも、南側が陸域に近いことがわかりました。加えて、陸域に近い所では、瀬林層上部層を欠いていることも重要です。

 一方、西側へは、まさに、確認した所では、本文で述べた通りですが、「赤字」で示したような可能性があります。ただし、佐久地域の三山層の発達状況を見ると、東側(群馬県~埼玉県)より、薄く、陸域に近い堆積構造を示しているので、西側も陸域に近かったことが推定されます。

 ですから、もう少し西側にも分布していたとは予想されますが、そんなに遠くまでではないはずです。この後、白亜系は、一度、陸化した後、(日本海の拡大と共に移動して)次の内山層を堆積するステージに移っていきますが、西側問題は、大きな謎として残ります。(後日、内山層の谷川調査のところで、再度、この話題を取り上げたいと思います。)

 ところで、明日(3月7日)は、火砕流堆積物の観察に行く予定です。天気も良さそうで、久しぶりに元・地学委員会の仲間にも会えそうで、楽しみです。(おとんとろ)

 

 
                                 

佐久の地質調査物語(西端―1)

       山中地域白亜系の西端

 佐久地方は、北西-南東方向に細長く延びた山中地域白亜系の西の端に当たりますが、「本当の西端は、どこか?」という点は、課題でした。そこで、平成5年に、「古谷集落北側の沢」調査(26.Sep.1993)と「井田井沢」周辺地域の調査(3.Nov.1993)を行なって、その限界を確かめました。また、「霧久保沢」調査(22.June 1990)や鉱山跡、石切場の調査などで、周辺地域の様子を調べました。
 
1.古谷集落北側の沢調査から

 平成5年の秋、「古谷集落北側の沢」の調査に初めて入りました。この沢は、柏木橋下流で抜井川に右岸側から合流する無名の支流ですが、古谷(こや)集落の北側にあるので、フィールドネームとして、沢の名前にしました。
 沢の地質概要は、内山層の基底礫岩層(【図-⑨~⑩】)を境に、上流側は内山層、下流側は白亜系が分布しています。
 薄く下部瀬林層(【図-①】)があり、「矢沢断層」と続きます。その北側は、抜井川本流の向斜構造の北翼に相当し、三山層(【図-②・③・④】)、上部瀬林層(【図-⑤~⑥】)、下部瀬林層(【図-⑦~⑨】)です。また、推定した落差の小さい「馬返(まけし)断層」は、この沢付近で落差が解消されていると思われます。

 

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古谷集落北側の沢・ルートマップ

 

 沢の入口(【図-①】)は、礫岩層と珪質塊状の明灰色細粒砂岩層で、下部瀬林層です。これは重要な情報です。向斜構造北翼の三山層の連続が予想されるにも関わらず、わずかでも下部瀬林層が露出している事実は、矢沢断層が通っていることを意味します。同時に、都沢付近で上部瀬林層は欠如していますが、下部瀬林層は存在し、さらに西側へと延長してることを裏付けてくれます。

 沢に少し入った標高945m付近(【図-②】)と標高955m付近(【図-④】)には、三山層を特徴付けるストライプ層準があります。それぞれ北落ちと南落ちで、傾斜が反対なので、向斜構造が考えられます。中間の小向斜構造の軸部に当たる(【図-③】)には、薄紫色~青緑色を帯びた光沢のある結晶質砂岩がありますが、熱水による後からの富化した岩相だとわかり、三山層として良いとわかりました。

 沢の標高960m付近(【図-⑤】)から上流は、上部瀬林層が分布しています。結晶質で、明灰色~黄緑色を帯びた灰色中粒砂岩が、露頭幅15mに渡り見られます。ここから水平距離で20m上流(【図-⑥】)には、同質の中粒砂岩の上に礫岩層がありました。
 標高970m付近(【図-⑦】)では、砂質の黒色頁岩層があり、熱変成されずに層理面を残しています。これが、シダ植物を含む化石層準に相当し、下部瀬林層の最上位層準です。
 標高990mの二股(【図-⑧】)の上下は、滑滝になっていて、粘板岩の間に礫岩層が挟まれていました。いずれも、礫岩は全て角礫で、最大12~15cmのチャートの角礫が見られました。【図⑤】~【図⑧】が瀬林層(上部層)です。内山層の基底礫岩層と比べると、分級が悪いという共通点はありますが、礫の大きさに関わらず円礫である内山層に対して、瀬林層の礫は、「大礫は角礫~亜角礫で、小さな礫は全て角礫」という特徴があります。礫の摩耗度から、両者は区別がつきます。

 標高1015mの二股付近(【図-⑨】)では、粗粒砂岩層(川底露頭)と、礫岩層(左岸側)がありました。粗粒砂岩層の中には、コングロ・ダイクが見られました。全体は、折れ曲がる形態で、長さは3.7m×幅15~20cmです。コングロ・ダイクの西側から、方向(長さ):「N70°E(1m)+N60°W(1.5m)+EW(1.2m)」でした。
 標高1030m付近(【図-⑩】)では、最大直径15cmの円礫を含む礫岩層が見られました。やや下流の【図-⑨】も含めて、内山層の基底礫岩層群として良いと思います。

 1050m二股(【図-⑪】)のわずかに下流では、灰色中粒砂岩層があり、わずかに黒色泥岩を挟んでいました。境で、N18°W・32°NEでした。
 1060m~1070m(【図-⑫】)では、粘板岩が優勢です。変成度が低い砂質の黒色泥層には、サンドパイプや生痕化石も見られました。
 標高1100m付近(【図-⑬】)では、細粒砂岩と黒色泥岩の互層が、「N40°W・12~32°NE」と、極めて安定した走向・傾斜を保ちながら、緩やかな傾きの地層が観察できます。水量が少なくなる上流部では、南傾斜の沢に対して、地層の傾斜か北落ちなので、ちょうど尾根に向かって続く階段のような露頭の上を歩くことになりました。
 粘板岩の原岩は、泥岩~黒色頁岩と思われますが、北側ほど強く熱変成されています。これは、北側の地下に変成の熱源となった火成岩体が潜伏しているのではないかと思われます。腰越沢上流部にも、同様な熱変成による粘板岩が認められたので、潜伏した熱源の存在を裏付けます。
 標高1130m二股(【図-⑭】)では、粘板岩が見られました。この少し下流では、白チャートの角礫が薄く入る礫層がありました。一方、少し上流で、コングロ・ダイクが見られました。幅40cmから消滅×長さ3mで、先端に向かい粒度が小さくなっていました。
 二股から右股へ進みます。標高1150m(【図-⑮】)では、厚さ50cmの礫岩層がありました。泥相の中で、固い礫岩があるので小さな段差となっています。礫種は、結晶質砂岩とチャート礫で、最大直径は、白チャート(30cm)・結晶質砂岩(6cm)でした。正常な礫岩層には、チャート礫が含まれています。N40°W・10°Nの走向・傾斜の礫岩層のすぐ上流に、鉱泉が湧きだして、「硫黄バクテリア」らしきものが認められました。
 標高1070m(【図-⑯】)付近では、砂相はほとんど無くなり、粘板岩だけになりました。かろうじて見つけた薄い砂層との境で、N70°W・12°Nでした。
 標高1200m二股(【図-⑰】)では、N40°W・16°Nの粘板岩層の中に、コングロ・ダイクをみつけました。この沢では3例目です。(【図-⑨⑭⑰】)
 さらに、上流部に向かって粘板岩の階段は続き、尾根に至るようです。推定で、標高1230m付近まで登り、引き返しました。

  余談ながら、内山層では、サンドパイプ(sand pipe・泥凄貝類の巣穴化石)【図-⑭'】、小さな鉱泉【図-⑮】の湧き出し(硫黄バクテリアが棲息)を見つけたり、素手イワナを捕らえたりする快挙もあったりと、話題の多かった沢でした。
 また、沢の入口の東側、柏木橋付近には、かつて長福寺があり、跡地に看板があります。

 

 平成18年10月1日の調査では、上流部、標高1130mの二股から左股沢に入り、標高1160~1175mのガレ場【図-⑱】で、海棲生物化石を採集しました。同行した天野和孝先生(上越教育大学教授)から、次のような化石種の説明をいただきました。素人が採集するにはいいですが、正確な種名までは分かり難いです。

○Echinoidea (ウニ類)

○Periploma (異靱帯類・斧足綱の二枚貝)

○Acilana(トクナガ貝)   ○Lucinoma (キヌタレ貝)

○Delecto pecten(デレクトペクテン・ホタテ貝の類)

 

 【編集後記】

 本文中の『中間の小向斜構造の軸部に当たる(【図-③】)には、薄紫色~青緑色を帯びた光沢のある結晶質砂岩がありますが、熱水による後からの富化した岩相だとわかり、三山層として良いとわかりました。』の内容については、このシリーズ2回後の「タイガーロック」の話題の所で、説明します。古そうな岩相だったので、先白亜系かと思い、地質構造の解析に悩みました。

 2005年(平成17年)の調査は、調査の主体が内山層に移っている時期で、この沢へは、地質や構造を調査するという目的ではなく、内山層の化石(南部域)と、コングロダイクの観察が目的となっていいました。

 そして、私たちの委員会では、天野和孝先生(上越教育大学教授)から、ご指導をいただくようになっていました。

 ところで、沢の入口で観察できる「瀬林層上部層」は、都沢付近で、同層の上部層を欠いている(堆積していない)ことを考えると、瀬林層の堆積環境の3相「【A陸域に近い相】・【Bやや沖合相】・【Cさらに沖合相】」の内、A相とB相の間、かろうじてB相ということになると思います。そして、瀬林層の上部層と下部層を大きく矢沢断層が切っていることになります。大規模な断層なので、失われた部分(瀬林層上部層)が多くあるのは、わかりますが、証拠となる地層に乱れや破壊の跡が無いのは不思議です。寧ろ、目視できるような断層と違って、反対にわからないのかもしれません。 (おとんとろ)

佐久の地質調査物語(三山層-6)

8. 三山層堆積構造のまとめ

 「ラミナが教えてくれたこと(第1章)」で紹介した、①私たちのフィールド・ネームで「ストライプ層準」や級化層理・ラミナ(葉理)、本章(第6章)で取り上げた、②フレーム現象や粘板岩の礫の位置、そして、前回紹介した、③層内滑りや混濁流堆積物などの証拠から、三山層の特徴が見えてきます。

 現在の分布を見ると、偶然にも、白亜系全体の「南に大きく傾いた向斜構造」の軸部に三山層は、分布しています。現在の方向で、南北方向からの大きな圧力(厳密には、南からの衝上する力か?)により、褶曲構造ができています。そして、その後、主に南北方向の断層により、地塊が移動していると思われます。

 また、上記の①~③のような特徴により、概ね東西に延びた堆積盆の北翼と南翼の対応の関係や概要が、実地踏査により確認することができました。。

 山中地域白亜系の東部地域(群馬県側~秩父地方)で、三山層は深海成の厚い黒色頁岩層が発達しています。一方、佐久地域では、いくぶん事情が異なります。混濁流堆積物などの証拠から、三山層は、浅海~大陸棚斜面のような堆積環境であったのではないかと考えられます。
 また、三山層の層厚や分布から、少なくとも石堂層堆積盆の広がりを越えることはなく、さらに、都沢では瀬林層上部層を欠いて下部層を覆っていたり、県境付近には分布していないことから、東部地域とは一部隔離されていたか、十分な連絡がなかった可能性も高いと思います。

 三山層は、さらに西端へ、どう変化していくのでしょう。層厚が薄れていくことは予想できますが、次の章で、言及したいと思います。 

 

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山中地域白亜系・佐久側の地質図(1997年版)

 【編集後記】

 地質図は、この後、内山層の調査を受けて、修正されていきますが、白亜系についての大局では変わっていません。

 ただし、「三山層-4」で紹介した大野沢最上流部での、瀬林層と三山層、及び、乙女ノ滝断層の関係(既に、地質図で示してある)所は、大きな縮尺の地質図では表せないので、拡大して表示しました。注意してください。

 また、四方原山(よもっぱら)の安山岩質溶岩などは、初期の頃は確認した沢の標高から、ほぼ等高線に沿って分布を示した経緯もありますが、調査が不十分なので、この図ではいっさい記入してありません。未調査の「蛇紋岩帯と白井層(?の印)」の調査と共に、いつかやろうと思いながら、とうとうできませんでした。

 それでも、いつか皆で行ってみようと、希望を繋いでおきます。 (おとんとろ)

佐久の地質調査物語(三山層-5)

7. 林道「大日向-日影線」の三山層

 霧久保沢入口(標高943m)と都沢下流部左岸(標高1040m付近)を結ぶ林道「大日向-日影線」が、抜井川の南に敷設されています。林道は、ちょうど2本の高電圧送電線(東京電力)に挟まれた間を、ほぼ等高線に沿うように延びています。

 この林道の地質概要は、第1章「模式地を訪ねて;ラミナが教えてくれたこと」の項で触れました。また、石英閃緑岩の話題は、第7章「山中地域白亜系の西端;石英閃緑岩の分布とその影響」で、詳しく述べたいと思います。そこで、ここでは、三山層の堆積構造を中心に扱います。【下図を参照】

 

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林道「大日向―日陰」線のルートマップ

 石英閃緑岩の露頭は、林道の「刈又」南側にある送電線鉄塔付近まででしたが、熱変成の影響があることと、周囲の地形の特徴から、推定分布は少し東側にしてあります。ここより東側は、白亜系(三山層)の露頭が見られました。

 地形図の「P995」付近(【図-④】)では、青味を帯びた結晶質の灰色砂岩と風化しやすい中粒砂岩の互層が見られ、「N10°W・70°W」でした。少し北東側では、帯青灰色中粒砂岩層と細粒砂岩層で、中粒砂岩層には直径2~15cmの砂岩礫(円礫)が含まれていました。走向・傾斜は、N40°W・50°NEでした。これらは、都沢付近から西に繋がる三山層ですが、都沢付近と比べると、かなり砂相になっています。

 林道の標高980m(【図-⑤】)付近では、薄紫色を帯びた結晶質の砂岩層と、珪質で灰白色砂岩層の互層部があり、互層に挟まる黒色泥岩は粘板岩化されていました。これらは、石英閃緑岩体による熱変成の影響と思われます。石英閃緑岩体の一部が、地下に岩枝状に延びているのかもしれません。石英閃緑岩との接触交代作用により、薄紫色に見える部分は細粒の黒雲母(クロウンモ)が、灰白色部分は珪酸成分が、それぞれ富化されていると思われます。粘板岩化された泥岩は、源岩の黒色頁岩が粘板岩へと熱変成されていく途中です。


 林道と井田井沢との交差部から東へ20mほどの地点(【図-⑥】)から、南側の曲がる辺りまでの切り通しに、砂泥互層(【下図】)や、それらの褶曲(向斜・北落ちの一部)などが観察できました。

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 閃緑岩(diolite)の大礫を含む砂岩層の露頭が見られました。東側(図の左)から、礫岩層を含む砂礫層(5m)、砂泥互層(3m・泥岩部分は粘板岩化)、閃緑岩の大礫を含む砂岩層(4m)、砂泥互層(7m+)の順に重なっていました。
 閃緑岩の巨礫は、直径20cmの球体と、10cm×15cmの回転楕円体の2個で、周囲の砂との境目がわかりにくくなっていました。異質なものが含まれているはずなのに、境が不明瞭となる原因はわかりません。他は、粘板岩の亜角礫のみで、チャート礫が含まれていないことも、特徴のひとつです。

 また、閃緑岩礫を含む層準と東側の砂泥互層部に「ロードキャスト」があるようにも見えます。先に堆積した泥岩層を、砂岩層が浸食したと考えると、西側露頭の方が新しいと解釈できます。両側の砂泥互層部を見ると、北東落ち(東側露頭)とも見えるし、南西落ち(西側露頭)とも見えます。西側露頭(図の右)では、傾斜が垂直から南西落ちに変化するとともに、地層が斜交するような構造になっています。

 湾曲部の東側露頭では、砂泥互層の北落ちの褶曲構造(その南翼と思われる)が見られました。層理面のはっきりとした灰白色中粒砂岩層と黒色頁岩層の互層でした。これらは、熱変成される前の状態だと思われます。石英閃緑岩体は、岩枝状に地表近くまで貫入してきていても、熱変成の影響を与える範囲は、かなり限られているのかもしれません。

 小さな沢状地形・標高990m付近(【図⑥】の東)側では、珪質中粒砂岩層があり、礫岩層との挟みで、「N60°W・82°N」でした。

 一方、井田井沢の東隣の沢の奥で、(推定した矢沢断層のわずかに西)粗粒砂岩層と礫岩層の境では、「N30°W・78°W」でした。走向・傾斜の値の不自然さから、矢沢断層通過の位置を推定しました。ちなみに、露頭幅10mの礫岩層は全て角礫で、チャートや堅い灰色砂岩(直径3~4cm・最大径20cm)でした。

 推定断層の東側、P1046の北では、泥優勢な黒色頁岩と中粒砂岩の互層で、少し東側の、黒色頁岩層では、「N30~50°W・70°N」と、走向・傾斜は、元の周囲の全体的な傾向に戻っていました。(図には、走向40°と表示してある。)また、付近には、崩壊堆積物を上に乗せた砂岩層の「ずれ」た跡が認められました。

 

            *  *  *  *

 

 P1046の北東側、(【図-⑦】)地点では、砂泥互層部分に、【写真・下】のような「く」の字に変形した露頭が見られました。
 周囲の傾斜の傾向から、【写真】の左側(NNW側)が上位と思われます。変形現象は子どもが立っている付近の無層理の砂岩と、砂泥互層を合わせた、厚さ5m~最大10mほどの部分的なものでした。
 変形の様子から、【写真】の上下方向からの応力があったことが予想されますが、後からの変形というより、堆積時の「層内滑り」ではないかと考えています。例えば、堆積盆の縁や斜面にあった地層自体が固結化が進み、層としての形は保ちながり滑り、その動きが止められた時の衝撃で、一番変形し易い上位層が持ち上げられるように曲がった。歪んだ部分には無層理の砂が埋まり、静穏に戻った後、さらに上位の砂岩層が堆積していったのかもしれません。
 もうひとつの可能性として、「氷河」が流れ下るように、少しずつ変形が進んだというアイディアもありそうですが、どこか不自然な気がします。

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「層内滑り」の露頭 林道「大日向―日陰」線

 

 P1046の北東、標高1000m付近(【図-⑧】)の林道で、【写真・下】のような露頭が見られました。
 手前から恐竜の脊椎骨が繋がっているように見える部分は、明灰色の細粒砂岩層で、元の堆積構造を残していると思われます。その周囲の地層の層理面は、極めて乱雑です。かつて砂泥互層であった部分が、いったんは堆積し、ある程度固化した後、混濁流(turbidity current 乱泥流とも言います)によって破壊され、再堆積したものと思われます。

 混濁流は、大陸棚斜面や、海底でもやや急な所で発生することが多く、不安定な堆積環境であったことが推定されます。堆積物の荷重によって自然に発生する場合もあれば、地震などの揺れがきっかけとなって起きることもあるようです。

 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災、2011年、平成23年3月11日(金)、14:46・18秒発生・Mw9.0)以来、津波による砂礫などの堆積物証拠を古文書と照らし合わせて研究する試みが盛んになっています。
 将来的に、古い時代の堆積構造も、どんな原因や理由で造られたのか、わかるようになるとすばらしいです。

 

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混濁流堆積物の説明図 (林道「大日向―日陰」線)

 

 【編集後記】

   本文中で触れた「層内滑り」の話題となると、すぐに思い出す光景が、台湾の地質です。

 1999年(平成11年)9月21日13:47に、台湾中部の南投県・集集(チーチー)の地下19kmを震源とするM奈奈7.3、最大震度6の内陸直下型地震が起き、大きな被害が発生しました。その翌年の年末から、新年正月にかけて、信州理科研究会の第4次台湾自然観察の旅に参加して、台湾の地質観察をしました。

 台湾島の中央部を車で横断するという、大ざっぱな観察でしたが、地質構造から全ての時代を外観できるという幸運に恵まれました。そして、特に地震によって山が崩壊した様子は、『雪山の全層雪崩のような現象が、地層でも起こるんだ』と驚きました。

 ところで、ちょうど平成3年の元旦は、自動車で横断したのですが、唯一、ある程度時間をとって観察した「眉渓(メイシー)」付近のエピソードを紹介します。

 尚、当時、台湾では、軍事上の秘密(?)から正確な地形図は販売されていなかったので、ルートマップは、全て歩測・目測によるものです。   

 

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台 湾 の 眉 渓(メイシー)付近のルートマップ

(1)露頭―①では、【下図】のような脆く、割れ目の入った黒色頁岩層(間に砂がわずかに挟まる)があり、全島の広い面積を占めています。地震での崩壊の元凶です。

(2)露頭―⑩では、砂と泥との境で、まさしく層内滑り(特に、泥相)が見られました。岩が崩れる為に、コンクリートシェルターか造られている。

(3)小櫻橋から仁愛橋の間(露頭―②)走向が、N0°~20°Wと振れ幅が小さいのに、傾斜は、同じ東落ちでも、20°~80°と大きく変わる。例えると、タックの入ったズボンを履いた時のゆとりと同じである。台湾にかかる歪みを、広大な量を占める地層が少しずつ解消してくれているようである。

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  また、機会があれば、地質と共に「霧社事件と眉渓層」のエピソードも取り上げたいと思います。日本列島より小さな島・台湾島なのに、富士山よりも高い山が地殻変動や圧縮・褶曲構造でできたり、台湾海峡側に堆積物を次々と溜めて成長してきたりした地史の一端を見てきたように思います。貴重な体験でした。 (おとんとろ)

佐久の地質調査物語(三山層-4)

5.大野沢最上流部の調査から

 大野沢の標高1085m付近の橋を渡り、最初の左岸側にある「無名沢」に入りました。大野沢の向斜構造の情報を得る為には、どうしても必要になる位置にあります。しかし、標高1150m二股まで踏査しましたが、全く露頭がありませんでした。

 南から流入する沢の標高1115m付近の橋の手前にある露頭では、切り立った砂泥互層部分があり、黒色頁岩層にシダ植物化石が含まれていました。N76°W・75°Nと、高角度の北落ちでしたが、ロードキャスト情報から、地層の上下関係が逆転していることがわかりました。黒色頁岩が石墨化していたり、蛇紋岩が表面に付いていたりする部分がありました。これらは、瀬林層(上部層)だと思われます。(平成6年6月11日の調査です。詳細は、第5章「8.瀬林層の植物化石について」などの項目を参照)

 

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大野沢最上流部のルートマップ

 

 平成7年(1995年)10月29日の調査には、北海道大学を定年退官され、佐久穂町に戻られていた由井俊三先生も参加していただきました。橋から南に延びる林道を進み、標高1140m二股を左股に入り、1240m二股まで踏査しました。橋付近の切り通しでの軟弱砂岩層などの特徴ある岩相から、白井層の分布範囲だと思われます。

 橋の東側の林道・切り通しは、「60°W・70°N」の走向・傾斜で、連続露頭でした。下流側(背斜構造の東翼)から、黒色頁岩/黒色頁岩と粗粒砂岩の互層/帯青灰色中~粗粒砂岩層※(級化層理から逆転か)/砂泥互層/軟弱砂岩層/帯青灰色中粒砂岩層/礫岩層※(白と黒のチャート礫、結晶質砂岩礫、石英粒も目立つ角礫・二枚貝の抜け跡)/粗粒砂岩~礫岩・・・の順番です。※印は、図の走向・傾斜を測定した層準です。

 その少し上流の左岸には縞状の礫岩層(N40°E・60°NW)の異質な部分がありました。全体は、「EW・80°S」の黒色頁岩を挟む縞状礫岩層です。前述の切通し露頭とは、異なる構造となっています

 一方、標高1130mの二股から、右股に入りました。礫岩や砂礫岩と黒色泥岩の互層で、岩相は白井層と思われます。しかし、走向・傾斜が定まりません。級化層理情報から正常と逆転の両方の情報があり、もまれていることがわかりました。

 瀬林層(シダ植物化石層準など)と白井層(軟弱砂岩層など)の地質構造関係が、明らかに不自然なので、断層が予想され、「乙女ノ滝断層」が通過する根拠のひとつになりました。
 (ただし、上述の状況から類推できるように、ひとつの断層によって、きれいに切られている関係ではないようです。)

 標高1140m二股を左股から入った白井層の様子は、礫岩層や灰色中粒~粗粒砂岩層が、点在するような感じでした。白井層の向斜構造の東翼の情報が得られるかと思いましたが、無かったです。

 この後、大野沢に戻り、上流部を調べました。
 林道の橋から、大野沢本流に入ると、合流点では、塊状(massive)で珪質の灰色中粒砂岩がありました。岩相は、下部瀬林層に似ています。「N60°W・70°NE」でした。その上流40mでは、同質の中粒~粗粒砂岩からなる滑滝がありました。水量が少ないので大きな滝にはなりませんが、造瀑層となる岩相です。ここまで下部瀬林層とです。
 左岸側からの小さな沢の流入する標高1120m付近では、「ストライプ」層が現れました。この沢の下部瀬林層と三山層が、走向も同じ傾向で傾斜も北東落ちであることから、層序に矛盾はありませんが、大野沢中流~上流部の調査から明らかになった大きな向斜構造を優先して考えると、不自然な三山層の存在です。しかし、特徴的な岩相は、三山層でしか見つかったいないので、データーを尊重して、地質図には入れてあります。

 そして、沢の標高1130mの二股の手前30m付近から、内山層の基底礫岩層が出始めました。礫種は、白色~灰色チャートが多く、最大径45cmの円礫でした。いくぶん青味を帯びた灰色中粒砂岩を主体とした砂礫層が見られた後、標高1140m付近では、直径5cmと最大径の小さくなった礫岩層が見られました。第6沢で確認できた内山層の基底礫岩層は、第7沢では断層により途切れますが、この大野沢最上部の沢まで延びてきていました。内山層分布の南限を示しています。
 大野沢最上流部では、断層によって切られながら、白井層と下部瀬林層、三山層が接し、一番新しい三山層を内山層が不整合で覆っているという複雑な地質の見られた地域でした。

 内山層基底礫岩層が連続していないという情報から、小規模ですが、「茨口断層」の存在もあると推定しました。
 これらが、複雑に絡み合っている地域が、ここ、大野沢最上流地域のようです。

 わずかに分布する三山層は、断層運動の中で、接点のような例外的な場所や存在だったろうと解釈して、基本的には、抜井川の北側(右岸側)の支流のように、内山層が瀬林層を、基底礫岩層群を伴いながら覆ったと解釈しています。

 【図・下】は、山中白亜系から内山層までを総括した、地質図(2007年修正版)の、大野沢最上流部付近の地質図です。茨口沢断層の「左横ずれ・解消」断層による、地質図幅状の解釈を含めて、乙女ノ滝断層をずらしてあります。

 

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大野沢最上流部の地質区分(三山層に注目)

 

 

 

6.大野沢調査のまとめ

①白亜系のすべての地層が観察でき、鍵掛沢断層群を始め、都沢断層や乙女ノ滝断層など、主要な断層の証拠が得られ、それらの通過位置を推定できました。
 抜井川と大野沢の合流点から、本流をたどると、瀬林層/内山層/瀬林層/石堂層/
三山層/瀬林層(シダ植物層)/※少し南にそれて、白井層/(三山層)/内山層基底礫岩層と、全ての層準を観察することができます。(わかるまでが大変でした!)

②三山層の堆積構造解析から、都沢付近で見られた「向斜軸面が著しく南に傾いた向斜構造」は、大野沢にも延長でき、佐久地域の大きな構造であることがわかりました。

③大野沢断層と鍵掛沢断層に挟まれたブロックに、石堂層と下部瀬林層があることから、瀬林層堆積時に、3つの岩相区分(AからC相)の、ひとつの根拠が得られました。
 (第1章「5.隣接する瀬林層の謎」を参照)

④下部瀬林層の最上部の「シダ植物化石」情報から、佐久地域は「領石植物群」に相当し、西南日本外帯であったことがわかりました。(気候の特徴もわかれました。) 


 【 閑 話 】

 鉱物や金属鉱床に詳しい由井俊三先生からは、私たちの地質調査の折に同行していただいたり、反対に、貴重な露頭があるからと案内をいただいたりして、懇切丁寧なご指導をいただきました。
 この平成7年10月29日の調査で、私は初めてお会いして、名刺をいただきました。何んと、使い古しのカレンダーの裏紙(厚紙の白地)を使い、ワープロ印刷の名刺でした。
 私たち教員は、名刺を使う機会も無いので、用意することもありませんが、渡される方は何度かあって、多くは上質カラー印刷も多いです。それが、思いもよらない古紙の再利用とわかり、驚いたのは言うまでもありません。

 そして、私の尊敬するKM 先生(故人)と同じように、「もったいない」を具現できる日本人であると共に、ユニークな人だと思いました。 

 

【編集後記】

 本文の中で説明していますが、地質図に「三山層→」と、極めて小さく示してあるのが、ストライプ層準の特徴のある三山層です。縮尺の大きい図福では、多分表せなくなります。特徴的な堆積構造を示す層準は、観察した限り、三山層だけなので、敢えてこだわりました。(尚、オレンジ色を塗り忘れた部分は、瀬林層です。

 ちなみに、地質図の全体がわからないと、断層に囲まれた変な図と思われるでしょうが、ふたつの断層(大野沢断層(西)と鍵掛沢断層(東))に囲まれた細長いブロックは、ブロック全体が大きくずれています。その為、褶曲構造の軸は垂直に近いほどの状態になっています。(背景理解には、「隣接する下部瀬林層の謎」をご覧ください。

(おとんとろ)

 

 

 

 

佐久の地質調査物語(三山層-3)

4.大野沢支流・1173東沢の調査から

 「1173東沢」というのは、地形図の標高表示P1173の東側にあるので名付けたフィールド・ネームです。大野沢でも向斜構造が予想され、その南翼情報がなかなか入らないので、貴重な情報源となる沢でした。本流調査の前年、平成7年(1993)8月13日に行ないました。

 大野沢林道と本流の交差する橋(標高1085m)から大野沢本流に入り、下流に移動して、1173東沢との合流点に出ました。沢の合流点から少し入った地点では、黒色頁岩層(N80°E・70°N、及びEW・65°N)が見られ、石英脈が入っていました。
 右岸からの小さな沢の合流点(標高1095m付近)から5m下流~10m上流にかけて、砂質黒色頁岩層(N80°E・60°N)、砂優勢な互層が見られました。
 この後、左岸側から1番目の沢(標高1100m)と2番目の沢(標高1110m)の間は、硬い塊状の灰色中粒砂岩層や、同質の砂岩と砂質黒色頁岩との互層が見られました。ここでいう砂質黒色頁岩層は、剥離性が乏しく、厳密な粒度分類では、黒色細粒砂岩層と呼ぶべきかもしれませんが、やや基準をあいまいにしています。

 沢の標高1120m~1130mでは、砂優勢な灰色中粒砂岩と砂質黒色頁岩の互層が続きます。いくぶん剥離性が戻りました。
 右岸側の下流から3番目の小さな沢の合流点(標高1135m付近)の10m上流では、砂優勢な互層(N60°E・50°NW)でした。
 右岸側4番目の沢の合流点(標高1150m付近)では、泥優勢な黒色頁岩と中粒砂岩の互層(N40°E・60°NW)となり、泥相が多くなりました。
 ただし、標高1160m付近では泥優勢な互層(N80°E・74°N)でしたが、標高1170m付近では砂優勢互層(N85°E・60°N)と変わり、泥と砂の割合は微妙に変化していきました。
 沢の標高1180m付近では、黒色頁岩層(N40°W・48°NE)が見られました。そして標高1200mで、沢水は伏流し、調査を終えました。

 標高1170m~1180mの間で、直径10cmのチャート円礫を含む礫岩の岩塊
(2×3×1.5m3) が、転石で見つかりました。岩相から下部瀬林層の礫岩と思われ、岩塊の大きさから、標高1200m以上の尾根に分布しているものと推測しました。

 

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大野沢中流部~上流部/ P1173東沢のルートマップ(再掲)

 

 1173東沢は、三山層の向斜構造を確かめる上で、重要な沢です。
 沢の入口から標高1180m付近までの走向・傾斜は、比較的、安定した北落ちです。また、岩相も砂泥互層や黒色頁岩層で、特徴が少なく、向斜構造の明確な証拠はありませんでした。

 しかし、この沢の下流では直接の証拠は認められませんでしたが、大野沢本流では、北落ちながら層序の上下関係が逆転していることが明らかになっています。
 そこで、「1173東沢」の中で、比較的、特徴的な塊状で硬い灰色中粒砂岩層と、同質の砂岩と砂質黒色頁岩との互層部分が、向斜軸付近であると考えました。砂泥互層の砂質傾向が強まり、黒色頁岩も剥離性の薄れた細粒砂岩となっています。(【図-層理不明】)

 全体の地質構造から見ても、「向斜軸面が南側に著しく傾いた向斜構造」の層厚から見ても、妥当な位置にあると考えました。層理面がわかり難い塊状の岩相である為、走向・傾斜のデーターは得られませんでしたが、転石情報からも沢の上流部に下部瀬林層の存在が推定できるので、都沢付近で認められた向斜構造の軸の延長は、大野沢にも延びていると考えました。

 

【編集後記】

 今日から、弥生・3月です。俗に、『行ってしまう、1月。逃げてしまう、2月、去ってしまう3月』と、学校での短い三学期(現在は、二期制も増えているようだが)を象徴するような比喩があります。

 私の「はてなブログ」も、もうじき丸一年が経過します。2月は、山中地域白亜系の話題を、26回(28日間)載せました。

 ところで、前に書いたものを、もう一度、見直しながら、推敲したり、資料を確認したりしていくと、新たな発見もあります。

 かなり前の回「都沢付近のまとめ(後半)」で、『標高1100m付近には、流紋岩の岩脈があり、左岸は板状節理が、右岸は柱状節理が見られます。』 という部分があります。そして、板状節理を紹介しました。なぜなら、一緒に撮したはずの柱状節理のデーターがなかったからです。

 しかし、いろいろ捜していく中で、ありましたので、併せて紹介します。

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流紋岩の板状節理(左岸)

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流紋岩の柱状節理(都沢上流の右岸)

 露頭の境は、都沢の川底と思われますが、観察はできません。共に、火山岩の冷却の時に、堆積が減少する時の割れ目が、節理となりますが、両方見られるというのには、理由があると思います。

 節理(特に、板状節理)を石材として利用した例として、板石山周辺で取れる「鉄平石」と呼ばれる安山岩を、手作業で加工している写真を載せて終わりにします。

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 撮影から、既に40年以上経過しているので、今でも手作業で形を整えているかどうかは、わかりません。   (おとんとろ)