北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語(地質構造―4)

(2) 褶曲構造の形成に伴い活動した

    南北性の断層

※南北性の断層の内、「都沢断層」は、明らかに内山層の堆積した後のものであるので、 この項から外します。

 南北性の断層は、褶曲構造が形成される過程で、褶曲を造った応力に耐えきれずに断層が生じたり、逆に、断層が動くことによって褶曲の形成が促されたりした関係だと解釈しています。応力は、現在の方向で、南側の地塊が受け止める力に対して、北側からの押し上げ、覆い被さるよう応力が働き、褶曲の中心軸面が南に傾いている構造になっています。
 ただし、地質図では、褶曲構造が形成された後、それらの構造を断層が切っているという表現になります。褶曲構造が先行したことは確実ですが、その過程で断層運動も伴っていることは確実です。特に、「鍵掛沢断層群」の「ずれ」(第1章『隣接する下部瀬林層の謎』参照)は、異常に大きく、褶曲構造のあらかたが完成してから、その断層箇所だけが動き出したと考えるよりも、同時進行を示唆しているのではないかと思います。

 

(注意)「断層の位置と名称」の図は、再掲です。解説を見ても、図がないとわかりにくいとおもいますので・・・・。

 それでは、南北性の断層を東側から見ていきます。

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 【 曲久保断層(まがりくぼ・だんそう)】

 大ダル沢と曲久保の間の小さな沢から、抜井川上流部を横切り、県境のマール(marl)が露出した付近を経て、さらに先に延びる断層で、蛇紋岩帯断層を切っています。曲久保林道に沿う露頭は、岩相や化石の特徴から白井層であることは確実で、断層の西側に分布する石堂層との不連続から、推定したものです。

 蛇紋岩帯断層を水平方向で約250mずらした左横ずれ断層と推定しましたが、断層の東側ブロック(白井層分布域)が上昇したはずなので、垂直成分も大きい斜めへの移動だと考えられます。この為、横ずれより垂直方向へのずれが大きい断層のはずです。現在でも県境付近の標高が一番高い所にありますが、基盤岩の上昇に伴い、生じた断層です。

 

 【 乙女ノ滝断層(おとめのたき・だんそう)】

 棒向沢から乙女ノ滝付近を経て、大野沢上流部に達する南北性の断層で、蛇紋岩帯断層を切っています。
 白亜系を大きく二分するような意味合いがあります。断層を境に東側と西側ブロックで、分布する白亜系の中身が違うからです。

 東側ブロックは、白亜系の比較的下位層(白井層と石堂層)だけが分布しています。

 一方、西側ブロックは、石堂層・瀬林層(下部と上部)・三山層が分布し、白井層を欠いています。
 蛇紋岩帯断層を水平距離で約600mずらした右横ずれ断層と推定しました。横ずれの要素に加え、垂直方向のずれも大きかったと考えられます。基盤岩の上昇に伴い生じたものと思われますが、北側ほど大きく、大野沢上流部では、少なくとも400~450m(石堂層と下部瀬林層の層厚ほど)に達するのではないかと推定できます。相対的に、東側ブロックが上昇しています。

 

 【 棒向沢断層(ぼーめきざわ・だんそう)】

 蛇紋岩帯断層の南側に、白井層の分布域が4箇所あります。いずれも小規模な分布ですが、この内、棒向沢の2箇所で、御座山層群の中に離れ小島のようにあります。この2箇所の西側を画する断層です。白井層の東西への延びが絶たれているので、推定しました。
 白亜系の始まりである白井層の堆積盆の形成に関与した断層の一部かもしれません。
白井層の点在する分布から見て、陥没性の断層で、もし、周囲も同じ程度の浸食速度だと仮定すれば、白井層の層厚分(150m)ほどの垂直方向への移動があったと考えられます。

 

 【 鍵掛沢断層(かぎかけざわ・だんそう)】

 鍵掛沢の西側を沢と併行して走り、大上峠(おおかみ・とうげ)の少し東へ達する南北性の断層で、蛇紋岩帯断層を大きく切っています。周辺域は、複雑な地質構造であったので、後述する「大野沢断層」・「四方原-大上峠断層」と共に、3つの断層を、調査の初期段階では、鍵掛沢断層群として扱っていました。また、これらの3つの断層は、関連性があります。
 この鍵掛沢断層を境に、

(ⅰ)蛇紋岩帯断層や先白亜系が、極めて大きく「ずれ」て分布していること、

(ⅱ)白亜系の褶曲軸の延びが折れ曲がっていることが、注目すべき点です。蛇紋岩帯断層の水平移動の推定量は、5~6kmほどとなり、左横ずれ断層です。

 第1章「隣接する瀬林層の謎」や第2章「大野沢調査から断層群が見えてきた」で述べたように、白亜系の褶曲構造や基盤が横に大きくずれて移動したことを説明するのには、次の3通りの場合が考えられます。
 いずれも、乙女ノ滝断層と鍵掛沢断層の形成された時期に関する内容です。なぜなら、白亜系の分布に関して全体を二分する「乙女ノ滝断層」と、その白亜系及び基盤の構造を大きく変位させている「鍵掛沢断層」は、共に、地質構造を考察する上で、東西の横綱級に相当する関係にあるからです。

 ①「乙女ノ滝断層」のできる前に、「鍵掛沢断層」が形成されていた場合

 乙女ノ滝断層によって、白亜系は垂直方向に大きくずれてはいるものの、褶曲構造の軸までは、ずらしてはいません。つまり、褶曲構造を成すような応力に伴い、左横ずれ断層が形成され、その後で、基盤岩を上昇させる垂直方向への力が働き、乙女ノ滝断層が、できたのではないか?

 

 ②「乙女ノ滝断層」のできた後に、「鍵掛沢断層」が形成された場合

 白亜系の層厚や浸食速度が全体的に、あまり違わなかったと仮定すると、乙女ノ滝断層によって、東側ブロックが先に上昇した分だけ地層が失われていたことになります。しかし、乙女ノ滝断層を境に、石堂層の下の白井層と、逆に石堂層の上、更に、瀬林層の上位の三山層が、断層で接するのは不自然です。これは、極めて大きな断層による断崖でも想像しない限り、垂直方向への移動が優勢な乙女ノ滝断層の動きとして矛盾があります。時代の大きく異なる地層が接しているのにも関わらず、周辺にはその証拠(浸食された跡)がありません。
 
 ③ほぼ同時期に活動を始めたが、「鍵掛断層」の方が活動期間が長かった場合

 乙女ノ滝断層の東側ブロックは、現在でも標高が高く浸食量も大きいはずですが、
一部には、先白亜系の石灰岩やマールが露出しています。素直に解釈すれば、覆っていた白亜系の全てが削剥されたことになります。これは、基盤の上昇と浸食の速さを考慮しても、不自然さが残ります。つまり、元々、上位の瀬林層や三山層は薄かったか、堆積していなかったと解釈する方が自然のような気がします。
 特に、三山層を比較すると、群馬県側での安定した深海成の黒色頁岩の発達した地層に対して、佐久側では、混濁流堆積物の多い浅海性や大陸棚での地層が多いことも、これらの説明証拠になります。
 つまり、白亜系堆積後の浸食期間を通じても、鍵掛沢断層は依然として活動を続けていて、移動距離を増やしていったのではないかと思われます。

 

 ③のアイデアを採用します。基本的には、①の要素がありますが、先白亜系までが、白亜系分布域に露出することを説明するには、浸食の時間的長さを加味した方が自然だと考えました。乙女ノ滝断層の東側ブロックは、瀬林層堆積の時代から一部は陸化していたことも、十分に考えられます。

 

 【編集後記】

 本文の中で、「第○○章」という表現が出てきますが、実は、出版してはいませんが、地質調査物語は、本の体裁を成していて、全部で9章と「参考文献」から構成されています。ここの内容は、第9章「地質構造」で、既に最終章に入っています。

 ブログにするには、1回ごとに話題を変えた方がいいかなと思い、何頁・P(ページ)という表記は、避けてきました。(でも、わかり難いと思います。)

 ところで、毎回、ささやかなエピソードを載せているので、今回は、私の勉強机の上の片隅に載っている『抗火石(こうが・せき)』についてです。 

 平成25年の夏休みに三宅島に行き、島に着いて3日目に、清水岩夫先生と「ひょうたん山」から「赤場暁(あかばぎょう)」の地質調査にでかけました。

 写真は、割れ目噴火をしたスコリア丘の「ひょうたん山」の火口を撮したものです。

 

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1940年(昭和15年)噴火の「ひょうたん山」

  

 真夏の日中、火山弾やスコリアの上を歩くとどうなるかは、想像に任せますが、噴火口などを観察した後、付近の海岸に降りました。すると、写真のように、ほとんどが、玄武岩質の溶岩が波に洗われて、角の取れた礫(小石)の中に、明らかに色の違う、すなわち化学組成の異なる火成岩がありました。右端は、流紋岩です。

 三宅島は、太平洋に浮かぶ火山島で、玄武岩が多くて当たり前ですが、なぜ、ここに流紋岩がと疑問に思いました。流紋岩は、少し離れた(と言っても間は海)神津島などで産出するので、大嵐の時に流されてきたのかな? と思いました。 

 

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三宅島・ひょうたん山付近の海岸で

 海岸を捜しながら歩いていると、清水先生が、「抗火石」を見つけました。流紋岩質の軽石です。私も捜していたものです。『僕は、前に来た時のがあるから、あげますよ』と、私に譲ってくれました。

 帰宅して調べてみると、抗火石(こうかせき、こうがせき)は、流紋岩軽石の一種のようです。スポンジ状の構造を持つガラス質であり、容易に切断でき、ブロックや石材の芸術などに加工できます。軽くて、火に強いという特性も、名前の由来です。これらは、伊豆諸島の新島、式根島神津島伊豆半島天城山で産出されます。

               * * *

 だから、抗火石は、三宅島の調査の思い出と共に、私の宝物になりましたで、終わればいいのですが、今回のエピソードは、もうひとつ別な所にあります。

 「志賀溶結凝灰岩」と言うのが正式名称ですが、かつては「信州溶岩」などとも呼ばれた経緯もあります。どこが噴出場所か不明でしたが、最近、「本宿カルデラ」からのものではないかと言われています。それで、論文に触れる機会がありました。その中で、『バイモータル火山活動(Bimortal Volcanic Activity)』という科学用語が出てきました。不勉強な私は、当然知らなくて調べてみると、『大地溝帯日本海拡大に伴う活動の中で、玄武岩質溶岩と流紋岩質溶岩(火山ドーム)が、ペアになっている』と言うのです。その説明の中で、伊豆諸島の話題もありました。

 三宅島の玄武岩と、例えば一番近い神津島流紋岩(もちろん島が流紋岩だけでできているわけではないが)、つまり、その一部の抗火石が、ペアだと知りました。

 急に、この抗火石の存在が、とんでもない秘密を秘めた石だと認識しました。今までは、軽くて手で握ると気持ちがいいので、少女がお人形さんを大事にするような感触で接していましたが、これからは、そうはいきません。ちょっと神々しいです。(おとんとろ)

 

 

佐久の地質調査物語(地質構造―3)

3.褶曲構造と断層について

 地質構造を解釈する上で、いくつかの断層を推定する必要がありました。
 白亜系の延長方向に沿って延び、同時に基本的な構造を決めていると思われる「蛇紋岩帯断層」と、これを切る南北性の8つの断層があります。また、白亜系の中にも小規模な2つの断層(馬返断層と茨口沢断層)があります。

 蛇紋岩帯断層を切る8つの断層は、東側から、①曲久保断層、②乙女ノ滝断層、③棒向沢断層、④鍵掛沢断層、⑤大野沢断層、⑥四方原-大上峠断層、⑦都沢断層、⑧矢沢断層で、それぞれ関係する地域名を採用して名付けました。

 また、棒向沢と四方原山の南麓には、離れ小島のように「白井層」が分布しています。基本的には、先白亜系と不整合関係で接すると思われますが、露頭での証拠が確認できないので、図面上では断層によって接していると解釈しています。

 尚、推定断層とは言うものの、それぞれ断層で解釈した方が良いと考えられる証拠もあります。例えば、大野沢で見られた証拠から「鍵掛沢断層群」は、3つの断層であることが明らかになりました。また、矢沢では、「矢沢断層」の証拠を観察しています。
 その他、都沢断層・馬返断層・茨口沢断層は、それぞれの地層が分布する地域で、断層証拠を説明していますので、ご覧ください。

 

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断層の位置と名称

(1) 白亜系の南縁を決める

       「蛇紋岩帯断層」

 調査の初期段階で、先白亜系と白亜系の境は、主に石堂層の基底礫岩層(ie,不整合)か、蛇紋岩体であることが多く、この産状を説明する為に、大きな断層を推定していました。当時、『抜井川断層』の名前で、白亜系の堆積盆を画するような大断層をイメージしていました。
 しかし、以下の理由で、直線的な断層という解釈より、『もっと幅のある構造帯の一部である』という扱いの方が良いと考えるようになりました。

【理由】

 ① 蛇紋岩体を伴う「黒瀬川構造体」という扱いの方が良い。
 ② 蛇紋岩メランジェという固体貫入モデルがイメージできるようになった。

 

 そこで、白亜系との境のはっきりとした北縁と、わずかでも蛇紋岩の露出する南側への一定範囲を、ひとつのゾーンとして扱い、これを『蛇紋岩帯断層』と呼ぶことにしました。

【概要】
 蛇紋岩帯断層は、南北性の断層によって切られ、分布が大きくずれています。

 東側から、曲久保~新三郎沢~鍵掛沢までは、比較的連続していますが、ここで、四方原山を南へ越えた白井層分布域まで大きくずれます。その先は、都沢の奥・東ナカヤ沢上流部へと繋がると推定しています。そこからは、都沢~尾根筋(P1301、P1292)~霧久保沢へと繋がります。

 蛇紋岩帯断層を推定した東ナカヤ沢上流部と尾根筋【図版の「?」印】では、蛇紋岩の露出が無い場合もあり、また、他地域に比べて著しく少ない傾向にあります。図版では、幅を確保して推定してあります。

 反対に、白亜系が切られている部分、特に、鍵掛沢下流域と都沢の二股から上流域は、水平幅で500mにも渡り、多量の蛇紋岩露頭があります。ちなみに、鍵掛沢では石堂層と接し、沢には造瀑層が蛇紋岩の綺麗な滑滝が見られます。都沢では、石堂層と三山層と接しています。

 この違いは、蛇紋岩メランジ(第4章参照)が、地下深部から固体貫入してくる時、弱線としてより貫入しやすい箇所を上昇してきた結果ではないかと想像します。つまり、既に岩盤となっていた御座山層群と白亜系との岩質の固結の違いによるものではないかと考えました。

 

【形成時期】
 蛇紋岩帯断層の形成された過程は、2通りの方法で考える必要があります。ひとつは、蛇紋岩貫入という観点から見たもので、もうひとつは、断層の動きとして見た場合です。
 蛇紋岩の貫入は、石堂層最上位層の堆積した頃と考えられています。そして、蛇紋岩礫が肉眼で確認できたのは、三山層の堆積時です。ですから、蛇紋岩帯(メランジェ)は、少なくとも瀬林層堆積時に、少しずつ上昇し、上の堆積物が削剥された後で、地表に顔を覗かせたことになります。瀬林層上部層が欠落している都沢の二股上流部で、三山層と蛇紋岩が接する部分を見れば、瀬林層堆積時に露出していたとしても不思議ではありません。

 一方、蛇紋岩貫入の頃から断層運動は始まり、瀬林層や三山層の堆積した時代に、基盤岩の上昇を伴い、白亜系堆積盆の北方への縮小を起こしながら、活動の最盛期を迎えたのではないか。特に、御座山層群と白亜系の間を区切る(右横ずれ断層)ような動きをしていたと思われます。

 その意味で、蛇紋岩帯断層は、白亜系堆積盆の大きさを決定し、その特に南縁を区切るような役割を果たしていたのではないかと、言えそうです。

 ちなみに、第4章で紹介した広義の秩父帯を細分した「秩父累帯北帯」・「黒瀬川帯」・「秩父累帯南帯」の内、黒瀬川帯と秩父累帯南帯の境目に当たるのが、この蛇紋岩帯断層とも言えるのかもしれません。

 

 【編集後記】

 インターネット検索で、植田勇人先生の「 Hayato UEDA's research」のウェブサイトで、「蛇紋岩が固体貫入するイメージ」を見つけ、自分なりに理解できた時のことは、良く覚えています。長年の疑問が、少しずつ解けていくようでした。

 日本全体から見れば、地表への露出は寧ろ稀な岩石ですが、私たちが調査で訪れる所には、頻繁に見られました。変動帯や変成帯に伴うという程度の認識はありましたが、それ以上のことはわかりませんでした。

 ところで、児童の絵画の話題ですが、石灰岩花崗岩の多い地域に住んでいる児童が、河原の風景を描くと、多くの子が石を白くするそうです。例えば、県内だと、南信地方。佐久地方では、安山岩が多く、また堆積岩も、多くは黒~暗灰色なので、そんな系統の色合いになります。視野が広がり、それらの事情がわかると、もう少し柔軟に色付けをすることでしょう。

 ある意味、私たちも、蛇紋岩を特別な意味をもつ岩石だと、もっと早めに気づいて取りかかれば良かったかもしれません。

 蛇紋岩の露頭写真を載せようと捜しましたが、良く見られるし、いつか撮りに来るからと、あまり撮影してありませんでした。なかなか無いものでしたが・・・・。

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 何とか見つけたのは、平成10年11月15日の新三郎沢での蛇紋岩の小滝でした。 

 実は、同じ場所で、平成8年10月26日に撮影した写真とネガ(当時)は紛失したようです。露頭から落下した蛇紋岩の礫が、再凝固して「現世の蛇紋岩の礫岩」があると、川底を表面に出して撮影する為に、上流にダムを作って水を迂回させて撮影した貴重なものでした。

 それから3年、同じ場所に行くと、沢の流路が変わり、川底露頭が見えていました。そして、蛇紋岩の崖の一部が沢水の浸食作用で削られて、小さな滝と滝壺ができていました。同じ場所も刻々と変化することを改めて知り、興味深かったです。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語(地質構造―2)

2.白亜系堆積盆についての考察

 白亜系の褶曲構造は、南北性の断層によって切られ、いくつかのブロックに分かれていますが、全体としては、山中地域白亜系の延長方向(西北西-東南東)に沿って、蛇紋岩帯断層と交差することなく、ほぼ並行しています。そして、白井層を除き、他の白亜系は、全て蛇紋岩帯断層の北側に分布しています。このことは、白亜系堆積盆は、基盤岩全体の上昇傾向の中で、次第に縮小していったことと同時に、蛇紋岩帯断層が、白亜系堆積盆と基盤岩類(御座山層群など)を区切るような存在となっていたことを意味しています。

 白亜系の始まりは、基盤岩にできた凹地に白井層が堆積し、最初の海進により石堂層が全体を覆うように堆積しました。白井層への堆積物供給は、現在の方向で南ないし西の、比較的近距離から、そして、石堂層へは同様に南ないし西から運ばれてきたと思います。つまり、当時の陸地は南~西方面(現在の方向で)にあったと推定できます。 

 瀬林層は海退期で、下部層と上部層の境目は極めて浅海となり、一部は陸域になりました。上部瀬林層は欠如する地域(陸域に近い相)や、北側に偏在(やや沖合相)していますが、顕著な不整合証拠はないので、あまり間隙を置かず、次の海進(宮古海進)によって、三山層が瀬林層を覆ったと考えています。瀬林層への堆積物供給も、南~西方向からだと考えられますが、三山層の時代はわかりません。少なくとも、東側でないことは確かです。

 その意味で、佐久地域では、三山層の堆積盆は、石堂層堆積盆の規模を超えることはなかったと考えています。(他の理由は、後述します。)
 層序関係と堆積盆の広がりを模式的に図示すると、【下図】のようになります。

 

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 山中地域白亜系の東部地域(群馬県~埼玉県秩父地方)では、三山層が良く発達しています。分布域の広がりや、比較的深海成層を示す岩相から、白亜系の中では、一番堆積盆が拡大した時代(=宮古海進)だと言われています。しかし、佐久地域では、石堂層堆積盆の規模を超えることはなかったとする根拠は、以下のようです。

① 佐久地方での層厚:三山層(250~290m)<石堂層(200~350m)と、地表への露出面積では、三山層が目立ちますが、実際の層厚は薄い。


② 石堂層は、白井層を基底礫岩層に相当する角礫で覆っている。(茨口沢) 基盤岩の中の凹地に、白井層が堆積した後、それらの堆積盆をつなぐように石堂層が堆積したと考えられる。現在、白井層露頭がある南側にも薄く堆積していた可能性がある。(南への広がり?)


③ 乙女ノ滝断層の東側には、瀬林層・三山層の露頭が見られない。断層による隆起や標高が高いので浸食された可能性も否定はできないが、元々、なかったか、薄かったとする方が自然な解釈である。

④ 三山層の混濁流堆積物などの堆積構造の情報から、大陸棚斜面や浅海性の堆積環境であったと考えられる。

→佐久側の堆積盆は、小さかったのではないか。

 

 

【編集後記】

 山中地域白亜系の地質調査の後で取り組んだ「内山層」調査の途中頃から、日本海の拡大に関する内容に興味を覚えるようになりました。日本列島は、古第3紀・漸新世頃から、新第3紀・中新世頃にかけて、大陸から離れて現在の位置に移動してきて、間に日本海が生まれたという話の概要です。

 いくつかの仮説や、その過程については後述するつもりですが、大まかな言い方で、佐久地方の位置では、90°ほど反時計回りに回転した方位となっていることを知りました。つまり、白亜紀後期の頃の北は、現在の西に、白亜紀後期の頃の東は、現在の北ということになります。

 そんな意味合いを含めて、前に使用した佐久側の「山中地域白亜系復元図」を加工してみました。【下図】の上が、当時の北方向で、侵入してきた海のあった方面です。

また、瀬林層の3相(陸域に近い~沖合~更に沖合)から見ると、西側も海に近い方向ということになります。

 

 

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山中地域白亜系の復元図(現在の方向から90°反時計回りに回転させた)

 当時の基盤岩との境となる「蛇紋岩帯断層」は、南北に延びています。中央構造線は、図の左側(西)にあって、やはり南北に延びていることになります。

 褶曲構造を形成した時期は、白亜系堆積後から日本海の拡大時期(?)にかけてかもしれませんが、東西からの圧縮力によることになります。

 これ以上は、話題にしませんが、大地が動かないものとして、堆積物の供給された方向だけに注目していた場合とは、大部、複雑になってきています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語(地質構造―1)

                    地 質 構 造


 平成4年度の都沢の再調査から5年間の調査資料を元に、平成9年(1997年)に下記の地質図を作成しました。国土地理院発行の2万5000分の1地形図を元にしています。
(調査のルートマップは、5000分の1を基本に作成していますが、大きな縮尺では、細部は表せないので、詳しくは各沢や水系ごとのルートマップを参照してください。)

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山中地域白亜系の地質図 (1997年版)

 

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 【注意】 

①1997年版の後、内山層の調査後に修正されたものもありますが、基本的には変わっていません。

②「四方原(ヨモッパラ山)」の安山岩質溶岩の分布は示されていません。

③大野川最上流部の地質は、複雑で表せないので、「5.大野沢最上流部の調査から」のシリーズで見てください。

 

1.地質断面図からの考察

(1)「乙女ノ滝断層」の東側の様子

     (瀬林層と三山層の欠如)

 

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大野沢~ヨセ沢尾根断面(→1312 と →ヨセ沢尾根を結ぶ)

 乙女ノ滝断層を境に、東側では、白亜系の比較的上位の瀬林層と三山層の露頭が、見られません。①元々堆積しなかった、②(標高の高い地域なので)削剥されてしまったという可能性が考えられます。瀬林層は、海退期の堆積層なので、①と②の両方の可能性がありますが、問題は、三山層です。
 群馬県側~埼玉県秩父地方に分布する三山層は、深海性の厚い黒色頁岩層が発達していて、蛇紋岩帯断層を越えて、堆積盆が広がったと考えられています。
 この時、乙女ノ滝断層の落差や、浸食作用だけに原因を求めることは、不十分です。
 佐久地方の三山層堆積構造から、堆積環境の違いで説明しようと思います。(後述)

 

(2)四方原-大上峠断層による向斜構造の重複

 

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大野沢支流第4沢~東ナカヤ沢断面図(P1308 と 四方原山を結ぶ)

大野沢支流・第4沢の奥(P1308)~四方原山(1631m)断面は、佐久側分布域のほぼ中央の様子がわかります。四方原山-大上峠断層の北(図の左)と南(図の右)の両側に、向斜構造があります。 これは、元々、ひと続きの向斜構造でした。主向斜構造は、西側の抜井川の少し南側をNW-SE方向に延び、この断面図付近で、断層によって重複します。そして、大きく北東の大野川に移動した後、乙女ノ滝断層で、南西に戻り、石堂層の向斜構造につながり、十石峠から東側に延びていきます。
 重複する原因は、鍵掛沢断層群の横ずれ運動の結果です。(「隣接する下部瀬林層の謎」を参照)
 褶曲構造(向斜・背斜)に注目すると、非対象で、褶曲軸面が著しく南側に傾いています。これは、地層が堆積した後、地表に現れるまでの間に強い応力を受けて褶曲した時、「現在の方向で、南側からの受け止める力と北側からの押し上げ、覆い被さるような応力」による異方向の力で圧縮された結果だと考えられます。

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※尚、この断面図には、蛇紋岩帯断層が載っていませんが、実際は、さらに南側にあります。「鍵掛沢断層と大野沢断層に挟まれたブロック」の大移動が原因です。


 
(3)山中地域白亜系の西端 (都沢での上部瀬林層の欠如)

 

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腰越沢~都沢断面図(P1337 と 御所平 を結ぶ)

 腰越沢と古谷集落北側の沢の奥(P1337)~御所平(P1248)断面は、山中地域白亜系・佐久地域の西端の様子です。
 残念ながら「白井層」が無いが、下位から御座山層群・蛇紋岩帯断層(先白亜系と白亜系の境界、蛇紋岩メランジェ)・石堂層・瀬林層・三山層、そして白亜系を基底礫岩層群で不整合に覆う内山層の各メンバーが揃っている。都沢周辺で見られる典型的な層序である。ところが、注意深く見ると、抜井川の南側(図の右側)には、上部瀬林層が無い。
 都沢の下部瀬林層は、ほとんどが砂礫岩層で、この後、佐久地域の他の場所で、上部瀬林層が形成されている間、陸化していたようだ。反対に、上部瀬林層の分布しているのは、抜井川の北側だけで、偏在している。北側でも、大野沢最上流部では、シダ植物化石層準(上部層の最下部)だけが見られる露頭もある。瀬林層の時代は、海退が進んだ。
 ※地域全体の西端は、石英閃緑岩体によって覆われ、先は不明になっている。

 

 【編集後記】

 いよいよ「山中地域白亜系」の内容も終盤となってきて、褶曲構造や断層の構造、それらの活動時期の話題になります。実は、これって私が一番興味を感じる内容です。

 地球の歴史をフィクションのように述べている訳ではありませ。小さな証拠や、そう判断・推理する内容を集めて、総合的にまとめていきます。簡単そうに思えて、結構、大変なことです。

 同時に、本文に出てくる「地質断面図」も、見るとすぐに、見えないはずの地下の様子が視覚化されて、あたかも本物のように思えますが、実際は、想像と、もうひとつの方の創造があります。もちろん、でたらめではありませんが、この作図は、とても大変です。普通は、南北断面があれば、東西断面もあるはずですが、この地域の場合、重要度は少ないかな?(本当は、西と東で、無い地層があることの説明には必要だが・・)と思い、作成してありません。一番の理由は、大変だったからかもしれません。そんな訳で、「断面図」のこと、少しは大切に扱って欲しいものです。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語(化石からの情報)

      化石からの情報

1.石堂層から産出の動物化

 南佐久郡誌(昭和33年・藤本治義ほか)では、「石堂層」から46種類の動物化石を記載しています。この石堂層分布は、私たちの地層区分と多少異なる地域も含まれています。そこで、産地が石堂橋付近からと明らかなものについて、以下に示します。

○Astarte subsenecta YABE and NAGAO
・斧足綱・異歯目・エゾイラウオガイ科の一属

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エゾイラオウガイ

○Cardium ishidoense YABE and NAGAO
 ・斧足綱・異歯目・ザルガイ科・カルジウム

○Polymesoda otsukai (YABE and NAGAO)
 ・斧足綱・異歯目・キレナ(Cyrena)科
・殻はハマグリ型。淡水~汽水棲。形態や生態は、
  シジミに似ている。
・現在は、Protocyprina、Polymesoda、Costocyrena、Corbicula などに編入されている。

○Protocyprina naumanni (NEUMAYR) 大型のキレナ(Cyrena naumanni)は、白亜紀
  前期の領石動物群の代表的な化石。現在は、上記の名前に変更されている。

○Simbirskites kochibei YABE and NAGAO 頭足綱・四鰓亜綱・菊石目(Ammonoidea) ・シンビルスカイテス・北方型アンモナイト。モスクワ東方のシンビルスクを
   模式地とする黒色泥岩の中に多産する。
  白亜紀前期・バレミアン階(Barremian stage)に対比される。

○Leptoceras asiaticum YABE and SHIMIZU 頭足綱・菊石目・? アンモナイト

 

 日本化石集(Atlas of Japanese fossils №9-52) では、長野県佐久町地方の古白亜紀二枚貝化石(武井晛朔・竹内敏晴)として、以下の化石を紹介しています。
 佐久町(現・佐久穂町)大日向・石堂(石堂層)・・・黒色砂質泥岩からとあるので、石堂橋の西側露頭からのものと思われ、下部白亜系の有田統に対比しています。

 

○Nuculopsis (Palaeonucula) ishidoensis (YABE et NAGAO)
・古多歯亜綱・Nuculoida目・マメクルミガイ科(Nucula)の一属

○Nuculana (s.l.) sanchuensis YABE et NAGAO
・古多歯亜綱・Nuculoida目・チリロウバイ科の一属

○Nanonavis (Nanonavis) yokoyamai (YABE et NAGAO)
二枚貝綱・翼形(Pteriomorphia)亜綱(or ウグイスガイ亜綱)・フネガイ(Arcoida)目
二枚貝のなかでも起源の古い原始的なグループで、オルドビス紀から存在しているとされる。

○Trigonarca cf. obsoleta YABE et NAGAO
二枚貝綱・翼形(Pteriomorphia~プテリオモルファイア)亜綱・フネガイ(Arcoida)目

○Laevicardium ? ishidoense (YABE et NAGAO)
・異歯(Heterodonta)亜綱・マルスダレガイ(Veneroida)
 目、異歯亜綱のほとんどを占める大きな目である。
 ・代表種のハマグリ目とも訳す。

○Panopea (Myopsis) plicata (SOWERBY)
・異歯(Heterodonta)亜綱
  ・オオノガイ(Myoida)目
  ・ナミガイ属(Panope) の仲間

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panope(ナミガイ)

  同化石集(№43-253 ・田村 実 ) では、石堂層(石堂橋西側露頭)からとして、次の化石報告があります。

○Pinna sp. Pinna robinaldina D'ORBIGNY  ・二枚貝綱・翼形(Pteriomorphia)亜綱
 (or ウグイスガイ亜綱)・ウグイスガイ(Pterioda)目・ハボウキガイ科の一属

  また、同化石集では、瀬林層の化石の報告(武井晛朔・竹内敏晴)もあり、佐久町大日向大野沢からとして、次の化石を紹介しています。砂質泥岩からとありますが、大野沢の産地は不明です。ちなみに、瀬林層を下部白亜系の宮古統に対比させています。
 ※大野沢で砂質泥岩なら、石堂層か三山層のような気もしますが・・・。

○Tetoria (Paracorbicula) sanchuensis (YABE et NAGAO)
・異歯(Heterodonta)亜綱・マルスダレガイ(Veneroida)目・汽水棲

○Costocyrena radiatostriata (YABE et NAGAO)
・異歯(Heterodonta)亜綱・マルスダレガイ(Veneroida)目・汽水棲

 

2.白亜紀地質年代

 世界の白亜系は、主に海棲のアンモナイト化石を中心に編年され、次ページのように、下部・上部が6つずつの階(stage)で構成されています。これに対して、日本の白亜系は、下位から、高知統/有田統/宮古統/ギリヤーク統/浦河統/ヘトナイ統の6つの統(series)が対比されています。
 また、地質年代の編年には、放射性同位元素を使った「絶対年代」も併用されていて、白亜紀前期は、146Ma~97Ma(1億4600万年前~9700万年前)、白亜紀後期は、97Ma~65Ma(9700万年前~6500万年前)と測定されています。

 

※2019年(令和元年)に「国際年代層序表(International Chronstratigraphic  Chart)」が発表されました。それにより、紀(Period)・世(Epoch)・期(Age)のレベルで、俗に言われる放射性同位元素を使った絶対年代との対比が変更されました。

最新のものの方が良いので、以下のように訂正し、対応する数字も最新のものとします。(尚、誤差に相当する部分は省略してあります。)

 白亜紀前期は、145.0Ma~100・5Ma(1億4500万年前~1億50万年前)、白亜紀後期は、100.5Ma~66.0Ma(1億50万年前~6600万年前)です。

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世界v標準階と日本の白亜系(山中地域白亜系の対比)

時代論になると、私たちは完全に無力ですので、論文などで説明したいと思います。

① 白井層と石堂層の地質年代
 石堂層からは、アンモナイトの化石が産出するので、早くから世界標準との対比が確立され、西欧(特にスイス)で用いられているネオコミアン(注-*)階(Neocomian stage)だとされてきました。そこで、石堂層は有田統と考えられてきました。
【注-*;欧州の下部白亜系で、さらに、Berriasian~Valanginian~Hauterivian~Barremianの各階に細分化されている。泥灰質石灰岩(marl-limestone)で代表される。】
現在では、白井層と石堂層は、「Hauterivian前期~Barremian前期」とされ、松川正樹先生を始め、Obata et al. in松本達郎ほか1982、田代正之ほか1980などと、多くの研究者の見解が一致しています。前述の図表では、「有田統」の中に表示しました。


② 瀬林層と三山層の地質年代

 瀬林層と三山層については、研究者により見解が分かれています。
 松川先生(小畠・松川1982)は、浮遊性有孔虫(Globigerinelloides sp.)やアンモナイト(Anagaudryceras cf. sacya(FORBES))の産出から、三山層は、「Aptian後期~Albian前期」と
しました。(その後、化石産出層準を三山層最下部から、瀬林層最上部と訂正・1983)
 武井晛朔先生(1963)は、三山層の泥質岩から、(Inoceramus hobetsusensis  NAGAO et MATSUMOTO)を報告し、三山層が「Turonian」ie,上部白亜系にかかることを示唆しました。

 また、小畠・松川(1983)は、瀬林層を「Barremian後期(上半)~Aptian前期」であろうとしています。

 田代正之先生(1980・1985)は、高知県吾川郡いの町~香美市物部町の広範な調査から、白亜系を再定義し、『物部川(ものべがわ)層群』として総括しました。白亜系は、下位から『領石(りょうせき)層/物部(ものべ)層/柚ノ木(ゆずのき)層/日比原(ひびはら)層』です。
 そして、産出化石の共通性から、領石層(=白井層)、物部層(=石堂層)、柚ノ木層(=瀬林層)、日比原層(=三山層)への対応を考えました。この対応関係によれば、瀬林層は、「Barremian後期~ Aptian前期」となります。

 また、『三山層の含化石層の地質時代は、Barremian~ Aptianと考えられ、特に、Costcyrena minima や Plicatula kochiensis の出現を考えれば、物部地域の日比原層下部層、熊本県八代市の日奈久(ひなく)層下部層、徳島県勝浦郡地域の傍示(ほうじ)層などのAptianに対比でき、なかでも、それぞれの地層の基底部に近い部分に当たるとするのが、適切である。』
 そして、『三山層の基底部は、西南日本の各地で見られる宮古海進(Albian海進)の前の汽水~浅海域の堆積物と同じ物であり、主体は、その上位の宮古海進の本体を示す暗灰色泥質岩であろう。』と述べています。

 つまり、三山層は、「Aptian~ Albian」階になります。そして、山中地域東側地域での厚い黒色頁岩層は、宮古海進に伴う堆積物だと解釈しています。ちなみに、佐久地域では、混濁流(turbidite)相が見られ、黒色頁岩層は、東側地域よりも発達していません。

 

【参考】  【宮古海進】

 白亜紀には、汎世界的に海退期と海進期の繰り返しがあったことが知られています。

  ①海退期(Barremianより前)
 ②海進期(Albian)・・「宮古海進」
 ③海退期(Cenomanian)
 ④海進期(Coniacian~Santanian)・浦河海進
 ⑤海退期(Campanian後期~Maastrichtian)

 この内、岩手県の「宮古層」や北海道の「下部~中部蝦夷層群」などの堆積した 頃、大きな海進があり、厚い堆積物を貯めました。
 宮古海進は、白亜紀前期と後期を分ける位置に当たります。

 

 【編集後記】

 こう言った時代論になると、私たちは、大変に非力であることを痛感します。特に、まったくの素人の人よりは、多少は化石などに興味があっても、属名や種名の同定や、化石の組み合わせによる時代考証と対比は、極めて難しいからです。

 私など、白亜紀の地層から「三葉虫」は出ないし、恐竜化石やアンモナイトは第四紀の地層から発見されることはないという程度の理解で、中学校の理科(高校入試)レベルですから、話にもなりません。

 しかし、地道な化石調査や、物理・化学的な方法で遠く離れた地域の時代が対比され、同じ地球という舞台で地球の歴史を刻んできたことが推理できてくるということについては、とても興味を覚えています。 (おとんとろ)

佐久の地質調査物語(西端―5)

7.矢沢の調査で、ひとまずのまとめ

 平成8年には、石英閃緑岩体の分布と、推定した矢沢断層の通過位置の証拠を求めて、矢沢(やざわ)の調査を行ないました。
 小さな河川ながら、標高850~860m付近で、抜井川が蛇行し始めます。その矢沢集落に、東西方向で流れ込む抜井川の支流が矢沢です。2日間の調査でしたが、下流側から数字の順番で見ていこうと思います。
 下図に矢沢のルートマップを示します。(点線は、狭い道路および林道です。)

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矢沢のルートマップ(中央に「矢沢断層」が抜けている)

 国道299号線に懸かる橋の下から入ると、入口付近から石英閃緑岩が見られました。石英閃緑岩は、石英と斜長石、角閃石を主体とする深成岩です。肉眼でカリ長石と斜長石を区別することはほとんどできません。ホルンブレンドのような長柱状の角閃石が入っているので、石英閃緑岩として良いと思いました。(【図-①】)
 石英閃緑岩の露頭は、小さな木橋(900mASL)を過ぎた標高910m付近までは、川底にほぼ連続して見られます。
 標高890m付近では、石英の斑晶がなく、流紋岩のように見える産状の岩体が、滑滝を形成している箇所がありました。貫入岩体のほとんど西端に当たるので、急に冷やされて固まった「急冷周縁相」を示しているのかもしれないという議論もありましたが、本当のところはわかりません。この産状は、ここだけで、再び正常な石英閃緑岩になりました。
 木橋の手前8m付近では、細粒の有色鉱物が多く、玄武岩と見間違えるような岩体がありました。黄鉄鉱(pyrite)も異常に多く含まれ、捕獲岩ではないかという話題も挙がりました。(【図-②】)
 標高910m付近で、黄鉄鉱と、薄紫色の黒雲母の細粒結晶が、二次富化された部分をみつけました。由井教授からスカルン鉱物の説明を受けた産状と類似しているので、そう判断しています。ちょうど、この辺りまで、石英閃緑岩の連続した露頭が見られました。
 川が急に開け、落葉松林となります。ここにレンズ状の石灰岩(図のls)がありました。さらに、水平距離で45m上流にも、同様な露頭がありました。石灰岩自体は、熱変成されていませんが、かなり結晶質でした。
 沢の標高918m付近にコンクリート製橋、すぐ上流に堰堤(920mASL)があります。
この一帯(【図-③】)は、灰色チャートや珪質砂岩が卓越していました。ここにも、薄紫色に見える黒雲母細粒結晶や黄鉄鉱の二次富化がみられます。また、非常に小さな石英の晶洞(druse)が認められ、堰堤の上流側に幅3mの石英閃緑岩が岩枝状に露出していました。石英閃緑岩体との接触交代や熱水の移動による産状だと思われます。
 後述する「捕獲岩か?(925mASL)」とした岩体も含め、石英閃緑岩の影響は、沢の標高925m付近までと思われます。

   
 沢の標高925m付近(【図-④】)では、地質構造から目視できる断層がありました。

 沢水の流れる川底に断層面(N40°E・40°SE)が見られ、右岸側が黒色細粒砂岩、左岸側が千枚岩化した黒色泥岩と砂岩の互層(N60°W・S落ち)でした。左岸の互層部分と断層面は、ほぼ直交した関係になります。
 このすぐ上流にも、砂泥互層部があり、全体は黒色ですが、薄紫色を帯びた部分があり、千枚岩化されていました。これが、前述の「捕獲岩か?」とした岩体と接しています。有色鉱物が点紋状に集まり、閃緑岩に似た感じでした。

 標高928m、右岸を北東から流入する沢との合流点付近(【図-⑤】)では、硬い珪質砂岩が造瀑層となり小滝を形成しています。縮尺の大きい地形図ではわかりずらいですが、流路が南南東(上流側)から西南西(下流側)へと、ほぼ直角近く急変します。これは、矢沢本流と合流する支流方向を結ぶ方向に、断層(断層面:N60°E・80°NW)が走っていることが、原因と思われます。左岸側は、滝を構成する結晶質砂岩で、右岸側は、下流側から続く砂泥互層(千枚岩化はされていない。)でした。左岸側には、青味を帯びた灰色の断層粘土が認められました。

 沢の標高930m~950mにかけては、滑滝が連続していました。
 【図-⑤】の滝は、下位から灰色・黒色・再び灰色と粒度の違いで色彩を変えますが、珪質の砂岩層で構成され、滝の上は、最大経2cmの白色~灰色チャートの円礫を含む灰色珪質砂岩層でした。
 続いて、標高940m付近(【図-⑥】)では、滑り台のような四段の滝がありました。黒色と灰色の珪質砂岩で構成されています。黒色に見えるのは細粒砂岩です。

 その上流でも滑滝が随所に見られました。傾向として、次第に珪質な砂岩が減り、黒色細粒砂岩が多くなります。その中で、「白チャートと暗灰色砂岩が、縞模様となった」層準が認められました。産状を見ると、チャート(図のch)が1cmにも満たない層状で、これを切るようにして薄い砂岩層が、レンズ状または層状に、乱れて重なっています。今までフィールドで見たことのない珍しい産状なので、記載しておきます。いつか、話題になることがあるかもしれません。(【図-⑦】)

 再び、滑滝(露頭幅20m)が続きますが、珪質砂岩と普通の砂岩が混じり、灰色珪質中粒砂岩の中に、シルト片が入るような産状も認められました。
 南東から支流沢が流入する標高958m付近では、青味を帯びる明灰色の細粒砂岩がみられます。
 標高965m~975m付近(【図-⑧】・図のchの多い部分)では、黒色細粒砂岩や灰色中粒砂岩の中に、灰色~白色チャートが頻繁に挟まります。下流部の類似の砂岩と比べると、珪質傾向ではなく、明らかにチャート層が入っていることに注目してください。チャート層が卓越する範囲です。

 ちょうど、コンクリート橋付近(【図-⑨】・標高978m~979mほど)が境目です。下流側へ石英閃緑岩までが先白亜系で、上流側が新第三系(内山層)です。形成年代が大きく異なる両者は、断層で接していると考えています。
 そこで、矢沢から、古谷集落北側の沢入口付近を抜け、都沢を経由して四方原山の西側にまで達する「矢沢断層」を推定しています。ただし、一般的に言えるようですが、時代の異なる岩相では明らかに区別できるものの、目視できるような断層の証拠は認められませんでした。

 コンクリート橋(【図-⑨】)から上流へ約30m、南から小さな沢との合流点付近では、暗灰色中粒砂岩層と黒色細粒砂岩層が見られました。最初に確認できる内山層と思われます。地層の境目で、「N0°~20°W・30~35°E」と、東落ちでした。
 その10m上流では、黒色細粒砂岩層に挟まれた礫岩層があり、「N60°E・60°SW」でした。白色チャート礫が多く、粘板岩や砂岩の礫も含まれていましたが、角礫や不規則な形の礫が多いという特徴があります。これは、「礫の大きさに関わらず円礫」という内山層基底礫岩層の特徴とは明らかに違います。岩質は硬く、沢は走向に沿って流れていました。
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 標高985m~1005m(【図-⑩】)に、第1・第2・第3「クランク」と、私たちが名付けた特徴的な地形が、連続して展開します。

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矢沢のクランク地形のルートマップ

 

 かつて、地質情報が十分でなかった頃、内山層は、「内山中生層」と言われていた時代もあったくらいですが、少なくとも、ここの第1~第3クランクの産状を見る限り、非常に硬い岩質で、下流側の先白亜系よりも時代が古いのではないかという感触すらしました。
 珪質の明灰色細粒~中粒砂岩は特に硬く、これらが黒色~灰色中粒砂岩に挟まっていると、その部分は浸食に強いために削られず、沢は流路を90°近く転向して流れるようになります。その形が、日本の城郭施設の枡型(ますがた)や工具の「クランク」に似ているので、フィールドネームで呼ぶことにしました。
 記録写真が無かったので、スケッチをもとに地形の様子をイメージしました。【図】

 第1クランク(標高985m付近)では、黒色中粒砂岩層・珪質の明灰色細粒砂岩層・礫岩層(直径3cm白チャート)を挟む黒色中粒砂岩層という構成で、幅10mほどの珪質部分(方向N10°W)に対して、沢が「卍」文字の片方のように「クランク」に似た流路となります。

 第2クランク(標高1000m付近)では、全体的に珪質ですが、黒色中粒砂岩層・明灰色細粒砂岩層・灰色チャートを挟む黒色~暗灰色中粒砂岩層の構成で、下流側から、それぞれ「N20°W~N40°E~N70°E」と、流路が変わります。矢沢全体は、切り立った沢ではありませんが、ここだけは両岸が10m以上の崖に囲まれた渓谷です。下流側の黒色中粒砂岩層に、二枚貝や巻貝の化石層準があり、鏨(たがね)で叩いて、ようやく採集できました。巻貝の抜け落ちた跡も数多く観察できました。私たちは、詳しい種まで化石鑑定をすることができません。もし、文献による予備知識がなければ、砂岩の硬さから、とても新第三紀層とは思えないような印象の地層でした。

 第3クランク(標高1005mより少し下流)は、小規模で、粘板岩片の入る黒色中粒砂岩・明灰色細粒砂岩で構成され、クランクの中軸は珪質細粒砂岩「N30°~50°W・NW落ち」で、小さな滝を形成していました。

 沢の標高1005m付近で、北からの小さな沢と合流します。岩質は硬いものの、砂岩は珪質でなくなり、泥質な部分を挟むようになります。互層の滑滝では、泥が浸食されて小さな「ケスタ状」構造が観察できました。「N10~30°W・10~20°E」と、緩やかな東落ちでした。
 沢が南に振り始める標高1015m付近から、風化色が黄土色の粗粒砂岩が出始めてきました。クランク部分と標高1015m付近の間で、岩質と構造が大きく変化していますが、原因はわかりません。

 標高1020m付近(【図-⑪】)では、同質の粗粒砂岩層と暗灰色中粒砂岩層の境で、「N60°W・20°SW」と、緩やかな南西落ちに変わります。
 これより上流の標高1040m二股付近までは、同様な岩相と地質構造が変わりません。風化色が黄土色の粗粒砂岩と塊状の黒色細粒砂岩が主体です。この黄土色は、凝灰質であると思われ、黒色細粒砂岩との組合わせも、標高1015mより下流域とは異なった岩相です。


 標高1040m二股から右股沢に入りました。風化色が黄土色の粗粒砂岩と黒色細粒砂岩に加え、明らかに凝灰質の砂岩層が多くなりました。
 二股上流の小滝(【図-⑫】)の造瀑層、黒色細粒砂岩層と黄土色粗粒砂岩層の境で、
「N40°E・18°SE」のデーターを得ました。
 これより上流での走向は、N20~30°Wと安定し、20~30°Eと、東落ち傾向でした。沢は、走向に沿っていると思われ、黒色細粒砂岩と黄土色(風化色・元は暗灰色)粗粒砂岩、凝灰質中粒砂岩の互層が繰り返し観察できました。
 標高1150m付近(【図-⑬】)では、黒色で、やや珪質な細粒砂岩層の中に、3本の白色チャート層(10cm層厚)が認められました。内山層の中にはあまり見かけない産状です。

 また、標高1200mの上二股を左股に入って、すぐの所(【図-⑭】)で、石灰岩塊の転石をみつけました。転石情報ではありますが、内山層の分布域では、あまり目にすることのない石灰岩ですので、奇妙に思い記載しました。
 この後、急斜面の沢のブッシュ漕ぎをして林道に出ました。
 黒色頁岩層の露頭がありました。少し下った、標高1250m付近(【図-⑮】)の黒色頁岩層から、二枚貝と魚鱗(ぎょりん)化石を見つけました。
 林道を進み、林道の西へ張り出した標高1280m付近(【図-⑯】)では、凝灰岩露頭があります。新鮮な部分は、緑色凝灰岩として良いかと思います。

 林道の標高1260m付近では、凝灰岩の間に、斜長石が点紋状に入る安山岩質溶岩がありました。これより、林道沿いの山側露頭で、安山岩質溶岩が認められます。良く見ると、斑晶の大きさは変化しています。矢沢本流を越えた右岸側(山側)に、同質の安山岩質溶岩が観察できました。(【図-⑰~⑱】)「板石山溶岩」だと思われます。
 林道の標高1160m付近(【図-⑲】)で、黒色細粒砂岩(主)と凝灰質な黄土色(風化色)粗粒砂岩(従)の互層部の、黒色細粒砂岩層から、二枚貝化石とウニの殻模様の化石を見つけました。ちなみに、走向・傾斜は、N55°W・20°Nでした。
 林道を下った標高1120m付近(【図-⑳】)では、灰色中粒砂岩層と凝灰質粗粒砂岩層の互層部分で、N30~70°W・30~40°NEでした。

 林道が大きく北側へ「ヘアピンカーブ」する所の東側、標高1040m付近(【図-21】)で、珪質の灰色中粒砂岩層に、岩脈状に入る礫岩の異常堆積構造(コングロダイク)を見つけました。尾根を挟んだ古谷集落北側の沢でも3露頭認められています。

 私たちは、この地域の調査に続き、平成9年度~19年度の10年間、内山層を中心に調査を進めていくことになりますが、この当時は、コングロ・ダイクについて、不思議だなあと思う程度の認識でした。

 

 

 【 閑 話 】

 平成8年8月10日の調査中、矢沢の右股沢で北爪 牧 (おさむ)先生と出会いました。先生は、大学の卒業研究で内山層の研究に取り組み、都内の高校の教師になってからも、夏休みなどを利用して、継続的に調査活動を続けられているとのことでした。単独調査でした。
 私も、調査の為に、一人で山に入ることがありますが、例え里山と言えども、心寂しいものです。まして、見通しの利かない暗い沢は、恐怖心も生まれます。研究にかける姿勢を教えていただきました。
 後日、野村 哲 先生(元群馬大学教授)や小坂恭栄先生(信州大学教授)、研究グループの皆さんと同行された北爪先生と再会することになりました。私たちも、皆さんの視察調査に参加させてもらいました。

 

 【編集後記】

 矢沢のルートマップの調査者に、「宮坂」とあるのは、宮坂 晃 先生です。中高交流の人事異動で、中学校に3年間勤務していた時、地学委員会に所属して一緒に調査活動をされました。今でも精力的に調査・研究をされています。

 ところで、本文の表題に「矢沢調査で、ひとまずのまとめ」としたように、平成4年度から5年間、山中地域白亜系に取り組みました。従来の調査は、南佐久郡誌の改訂の為の資料集めという目的もあって、ひとつの沢のその先を調べるということができずにいましたが、短期間とは言え、地域と対象に集中して取り組めたので、ささやかな成果を上げることができたと思います。

 ちょうど、次の年度の人事異動で、私も教育会から出向したような職場へ移り、宮坂先生も古巣の高校に戻りました。そして、平成9年度からは、対象が内山層に移りました。私は、皆より、3年間のブランクを経て、平成12年度から合流することになりました。

              *  *  *

  昨日のブログ「編集後記」は、慌てて載せたら間違いが多くあったので、慎重に見直して、今日の分は終わろうと思ったら、あることに気づいた。

 今月から「はてなブログpro」になって、容量が大きくなったようで、ファイルの利用量が、0%のまま変わらない。それではと思い、画像を追加することにします。

 本文に、板石山溶岩の話題がありましたが、板石山(1211mASL)からの安山岩質溶岩が、矢沢の上流部に分布しています。火口から流れたと思われます。

 ここに紹介するのは、その本体とは地下で繋がっていると予想されますが、少し離れた所で噴出したと思われるものです。余地ダム湖流入する「湯沢」の上流、旧佐久町と臼田町との境界(三角点1337.4の西の尾根)に石切場があり、「火道」跡が見られました。

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火道の壁面が見えている

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火道の壁面に残った火山性物質

 ここの話題は、内山層の南域の中で、再度、触れる予定です。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語(西端―4)

5.石英閃緑岩の採石

 平成10年、11月に霧久保沢を訪れてみると、霧久保沢と林道・大日向-日影線の分岐地点付近に、採石場ができて、調査した頃と比べ、辺りの様相がすっかり変わっていました。
 捕獲岩だったのか、有色鉱物の割合が多い「閃緑岩」が、石英閃緑岩露頭の中で見られた場所は崩されていました。記録にとどめる必要があると思いましたが、写真撮影したのは、1年後でした。(平成11年11月4日)
 さらに、進行していました。(【写真】)

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捕獲岩の見られた露頭は変わっていた

 いくぶん青味を帯びて見える部分はタイガー・ロックと同じ理由で、スカルン鉱物が富化していると思われます。
 採石の過程は、次のようです。①大型重機で表土を剥がし、岩体を爆破して、ある程度の大きさにします。②それらを重機で集め、ベルトコンベアーで、砕石施設の中に運ばれます。
③中で撹拌され、用途に合わせた大きさにまで砕かれて、出てきます。④砕かれた石は、近くに山積みにされていました。

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岩を砕く機械・・・左奥は霧久保沢

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山積みされた石英閃緑岩・・・奥は林道「大日向―日陰線」

 石英閃緑岩体からは、比較的、均一で多量の石材が得られるので、「バラス」としての利用価値があります。各地に出荷されているのかもしれません。
 ちなみに、JR東日本小海線の線路の敷石は、石英閃緑岩や玢岩が多いです。産地は、きっと佐久地域からのものが多いと思います。
 かつて、国鉄小海線の時代、最寄りの羽黒下(はぐろした)駅での貨物取扱いの重量(t)は、石材という理由が大きいと思いますが、沿線の駅の中で、断トツのナンバーワンを誇っていました。現在は、トラック輸送となっているようです。花崗岩系岩体は、ここから南へ2.5kmの所に聳える茂来山(1717.60m)の地下にもあり、石英閃緑岩~花崗閃緑岩体の存在が知られています。分布域の近さや岩相からみて、関連があると思われます。
  

6.茂来山たたら

 霧久保沢や茂来山(もらいさん)の話題が登場したので、南佐久郡誌に載せた原稿の一部を手直しして、「茂来山たたら」を紹介します。
 「たたら」炉というのは、10世紀始め頃(平安時代後期)開発された「粘土製の溶鉱炉」のことです。宮崎 駿 監督のアニメーション映画「もののけ姫」の一場面に出てくるので、イメージはつかめると思います。(もののけ姫と対抗する女統領エボシが、ライ病患者を介護すると共に、杣人の家族らを指揮して、山奥で鉄を製造しています。)
 現在の製鉄業では、鉄鉱石の主な原材料に、磁鉄鉱(Fe3O4)、赤鉄鋼(Fe2O3)、菱鉄鉱(FeCO3)、褐鉄鉱(前述の微細鉄鉱・風化産物)などの酸化鉄を使っています。これらの鉄鉱石に、良質の石炭(コークス)と、不純物を取り除くために、石灰岩・硫黄・マンガン鉱などを混ぜたものを溶鉱炉の中に入れ、高温の風を送り酸化鉄を還元します。 たたら炉は、酸化鉄と炭素に高温の風を送り、鉄を還元するという原理に変わりはありませんが、コークスの替わりに木炭を使い、砂鉄(主に磁鉄鉱)を還元して、チタン(Ti)含量の少ない良質の鉄を取り出す工夫がされていました。しかし、明治時代に入り、近代的な製鉄業が軌道に乗り出すと、企業努力にもかかわらず、生産性の低い「たたら」炉は、次々と最後の火を落としていきました。

 「茂来山たたら」は、江戸時代末期、茂来山鉄山の発見(天保2年・1831年)に伴い、嘉永元年(1848年)に試験操業が開始されたと言います。そして、嘉永安政年間にかけて最盛期を迎えますが、文久2年(1862年)に、山火事のために高殿が焼失してしまい、休止に至ったようです。
 鉱炉を作るには、まず、表土を少なくとも6尺(約180cm)取り除き、この上で火を何日も焚いて、土中の水分を無くす必要があります。それから、霧久保沢の奥、「箕輪の滝」付近から、天然落葉松の巨木を切り出して加工し、高殿(たたら炉を覆う建造物)を建設しました。その大きさは、十間四方(18.2mの二乗・約331.2m2)の平屋建てで、内部を4本の柱だけで支える巨大な木造建築物であったようです。嘉永4年(1851年)には、建築が終わり、操業が開始されたと言います。
 近くに、野積みの石垣跡があります。これは、高殿の二町(約218m)ほど上流から沢水を引き、水車を回し、その原動力で「ふいご」を動かして送風する時の、水車小屋への流路跡でしょう。このような方法で、1300~1400℃の高熱を発する炉の傍らで、十数人の番子と呼ばれた人々によって、三昼夜間断なく送風されたのではないかと思われます。
 尚、「たたら」操業のためには、多量の木炭や燃料の木材が必要になります。私たちは、それらが運搬されたという霧久保沢の尾根斜面の山道を歩きましたが、険しい断崖に二体の「馬頭観世音像」を見つけました。
 その内の一体は、「元治二丑年三月吉日」(1865年)と読み取れました。今では閑散とした奥深い山中に、当時の人々と馬たちの荒々しい息づかいが偲ばれるような思いでした。(昭和63年5月8日、季節はずれのみぞれ混じりの日に)

 「茂来山たたら」跡は、霧久保沢の右岸、標高980~990mの比較的コンタが開いた場所の標高985m付近にありました。また、回収できなかった鉄くずやズリが、捨てられたと思いますが、沢側の斜面に、わずかに残っていました。

 ところで、採算が取れずに、一旦は廃坑に至った地域ですが、第二次世界大戦を前後した鉄需要背景の中で、大日向鉱山が再開されました。採掘量は不明ですが、その採掘跡が、3箇所(大日向鉱床・大露頭鉱床・茂来山鉱床)が確認されています。私たちも、その跡地をようやく覗くことができました。

 これらの情報(たたら炉の歴史など)は、地元佐久穂町出身の畠山次郎さんの論文からの記述です。また、鉱山に関する資料は、「未利用鉄資源第8号・1960年」からの情報です。新たに、発掘して情報発信をしている方もいますが、時代からは注目されない話題ですので、忘れ去られてしまうかもしれません。でも、大事にしたいですね。

 

 【編集後記】

 私は、他郡での新卒から3年間の勤務の後、佐久に赴任して佐久教育会地学委員会に参加するようになりました。ちょうど、この頃、南佐久郡誌(自然編)の改訂事業が始まっていて、南佐久全域の資料を補強する調査活動が行われていました。

 例えば、千曲川の源流(東沢)から十文字峠の山小屋に泊まり、梓白岩を経て三国峠までの県境尾根の2日間の調査で、石灰岩露頭からフズリナ化石を見つけました。県境を越えて、埼玉県の中津川林道の地質も調べました。川上村・南~北相木村佐久穂町(旧八千穂村と旧佐久町)・旧臼田町(現佐久市)の林道や沢、山岳地帯にも入りしました。

 ただ、当時の私は不勉強で、目の前の露頭や岩石は、かろうじてわかるものの、何がどのように関連しているのか、皆目見当がつきませんでした。25000分の1地形図に落としたルートマップと調査記録メモは、残っていますが、相当、忘れています。

 特に、良いカメラも無く、写真で記録しておこうという意識が薄かったので、メモからだけでは思い出し難いです。

 その当時の地質調査で入り、登った沢や山は、いずれも本格的な沢旅や登山で訪れるような山奥なので、今の私には二度と行けない場所となっています。(記録を整理し、まとめられるようであれば、挑戦してみようと思いますが・・・)

 ところで、この「茂来山たたら」の話題は、南佐久郡誌(地形・地質)の改訂で、私が担当した「地下資源」の章の一部です。どちらかと言うと、この章は実地調査というより、過去の文献や資料を整理してまとめるという意味合いがありました。その中で、大日向鉱山跡や高橋鉱山跡も含めて、実地調査できた貴重な内容です。

 当日は、風薫る5月連休の休日でしたが、午後は、少し回復したものの、あいにくの、みぞれ混じりの寒い日となりました。

 畠山次郎氏が、「茂来山たたら」を始め、大日向の郷土の歴史を解説してくれるという公開講座が企画されて、私たち以外にも、興味を覚えた方々が参加されました。

 今では「たたら炉」を「もののけ姫」の話題とからめて解説している私ですが、当時は、「たたら」を知りませんでした。『え、知らないの? 昔の鉄鋼炉のことよ』と、かなり年配のおばさんに言われ、そんなことも知らずに参加していた私は小さくなっていました。

 しかし、参加者とはいろいろ話してみるもので、東京から参加のM氏は、鉱山関係に詳しい方のようで、私の知りたかった内容について、通産省(当時)資料をコピーして送付してくれました。その一部が、大日向鉱山付近の地質略図と、鉱床の説明でした。

それを元に、記号や凡例を手直しした図が、【下図】です。

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 私は、大日向鉱床跡のひとつを見つけ、観察しました。しかし、穴の一部が残っているだけで、危険防止の為、埋められていました。また、機会があれば、紹介する予定ですが、筑北村の石炭や亜炭の炭坑跡が、綺麗に埋められて、周囲に回収されなかった石炭塊が落ちているだけという光景と似ていました。

                  * 

 最後に、エピソードを2つ紹介して終わります。

日航機墜落事故】:昭和60年(1985年)8月12日夕刻、日本航空123便(羽田発~伊丹行)が、群馬県御巣鷹山(おすたかやま・1639masl)の屋根に墜落しました。乗員・乗客524名の中で、生存者4名を残して死亡という大惨事でした。日本では「上を向いて歩こう」が、米国では「Sukiyaki Song スキヤキの歌」としてヒットした歌を歌った坂本 九 さんも亡くなりました。

 覚えている方も多いと思いますが、既に35年以上も昔のことです。奇しくも、私たちは、その日に、南相木村の林道調査をして、御座山(おぐらやま・2112masl)から西に延びる尾根を越えて、木沢川沿いの道(旧踏み分け道)の調査をしながら、北相木村に到達しました。墜落と伝えられる時刻には、解散の挨拶をしていた頃でした。 自宅に帰り、点けたテレビに、事故が報じられていて驚きました。事件発生箇所と、あまり離れていない地点に、しかも。同時刻に私たちはいたようです。

馬頭観音像】:本来の「馬頭観音」は、仏像の頭上部に馬の頭があるようなのですが、ここ(霧久保沢))は、「馬頭観音」と文字で示されていました。

 私の関心時は、霧久保沢の絶壁で、「重荷を積んだ愛馬が落ちないように」と願って建てはものなのか、それとも、「当時の滑落事故で死んだ愛馬の供養の為なのか」という推測でした。

 どちらの場合でも、人と馬が共同作業を通して、節度ある範囲で情を交わしていると思います。現代の人が。ペットにかける情とは、少し違うように思います。

 そこで、私の得た結論は、わからないに尽きますが、霧久保沢の断崖建てられたものは、愛馬への追悼碑のように思えてきまた。(おとんとろ)