北海道での青春

紀行文を載せる予定

佐久の地質調査物語-122

2. 尾滝沢付近の調査から

(1)苦水(にがみず)の沢

 無名沢だと思われるが、沢の内山川本流への合流点付近の集落名から、沢の名前として呼んでいます。短い沢なので、平成14年8月12日(月)の午前で調査を終えました。
 最初の北から流入する沢との合流点(【図-①】)付近では、凝灰質灰白色粗粒砂岩層でした。(ここは、止山です。)
 2番目の北東から流入する沢との合流点(【図-②】)付近では、凝灰質灰白色粗粒砂岩層でした。ここも止山です。山に入る刈り込み道は尾根に延びていました。
 3番目の北から流入する沢との合流点(【図-③】)では、石英斑岩の貫入(岩枝)が認められました。4m×3mほどの分布でした。
 合流点から上流へ40m付近(【図-④】)では、熱変質した灰白色砂質泥岩層と灰色粗粒砂岩層で、層理面は、はっきりしていません。元は、黒色泥岩や暗灰色粗粒砂岩で、茶褐色~黄土色の風化色から凝灰質だと思われます。
 南東からの沢との合流点付近で伏流しました。標高865m付近(【図-⑤】)では、沢水が戻り、熱変質した灰白色の砂質泥岩が分布していました。節理面かと疑いましたが、層理面だろうと判断して、N40°E・20°NWでした。
 標高890m(【図-⑥】)付近では、灰色中粒~粗粒砂岩と灰白色砂質泥岩の互層でした。砂岩10cmと泥岩2cmの、約12cm単位の互層が繰り返し見られました。ここも、熱変質しているものと思われます。走向・傾斜は、EW・70~80°Nでした。
 標高920mまで詰めましたが、露頭のない伐採後の疎林となった所から引き返しました。里山としては、良く管理され、間伐後の植林などもきちんとしてされていました。

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シイタケ栽培用ホダ木に伐採したクヌギ


 

 【 閑 話 】

 思っていても管理できないのが、最近の里山の現状です。苦水の沢の止山のようにマツタケ山ではなくて、管理された雑木林は珍しいです。
 写真は、シイタケを自宅の北側の日陰で栽培したら、いつも新鮮なキノコが食べられると思い、我が家の先祖伝来の雑木林の一部を伐採し、シイタケ栽培用のコナラ材を切り出した光景です。

          
(2)尾滝沢(おたきざわ)

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尾滝沢と苦水の沢、ルート・マップ

 内山川本流と尾滝沢との合流点付近(【図-①】)では、小規模に礫岩層と暗灰色中粒砂岩層が見られました。岩相の特徴から「仙ケ滝」付近の内山層の基底礫岩層群と思われます。

 

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泥質メランジェ(尾滝沢に入ってすぐ見られる)

 合流点から尾滝沢に20mほど入った左岸では、風化して脆くなった中粒砂岩層と、剪断され崩れやすくなった砂岩層があり、断層の存在を示唆すると思われる鏡面(slicken side)が見られました。岩相から、こちらは大月層です。(【図-②】)
 東側からの小さな沢との合流点付近では、剪断された泥質メランジェからなる滑滝が形成されていました。こちらも大月層です。(【図-③】)

 西からの小さな沢の高い所(標高差30m)に露頭が見え、沢を登って確かめると礫岩層でした。(【図-④】)

沢との合流点左岸には、泥質メランジェ(sheared mudstone)が見られ、走向・傾斜は、N80°W・垂直~80°Sでした。 この上流側は、黒色粘板岩(slate)で、N80°W・50~60°Nでした。(【図-⑤】)

 標高825m付近の二股から下流3mでは、黒色粘板岩が主体で、わずかに灰色中粒砂岩層が挟まれていました。
N80°E・80°Nでした。支流の沢に入ってみると、同質の粘板岩層が続いていました。また、本流でも同質の黒色粘板岩層があり、連続しているものと思われます。
(【図-⑥】)

 標高830m付近では、石英斑岩(porphyrite)の貫入が6mほど見られました。その上流にも、同様な石英斑岩の貫入(露頭幅15mと10m)が認められました。(【図-⑦】)

 標高832m付近(【図-⑧】)では、沢の湾曲部にかけて黒色頁岩層や黒色粘板岩層が崩れていて、破砕帯ではないかと思いました。石英斑岩の岩枝も認められました。

 その上流では、石英斑岩の貫入(露頭幅15m)がありました。(【図-⑨】)
 そのわずか上流の左岸側で、泥質メランジェがあり(【図-⑩】)、20m上流の右岸側に礫岩層がありました。(【図-⑪】)このふたつの露頭は、大月層と駒込層の境になります。全体の地質構造を解釈する上で、重要な岩相の違いと、位置情報です。

 

 標高840m付近から、凝灰質の明灰色粗粒砂岩層と灰色中粒砂岩層が出始めました。明灰色粗粒砂岩層からなる滑滝があり、二次堆積を示す黒色頁岩片の入る中粒砂岩層もありました。また、滑滝の砂泥互層の部分では、
【下図・上】のような礫・砂・泥と構成粒度が変化する級化層理が認められました。上流側、すなわち、北側が上位となります。(【図-⑫】) 西からの小さな沢の流入地点(【図-⑬】)では、【下図・下】のような明灰色中粒砂岩層に挟まれた礫岩層が見られました。走向の方位はN60°Eと、わかりますが、傾斜が測定できません。しかし、礫岩層が途中で切れた砂岩層の欠落した部分を補うように堆積し、全体の層厚を修正しています。礫層の中で、比較的大きな礫の配列から、上流側、すなわち北側が上位であるとわかりました。ちょうど、走向・傾斜のデーターが得られない地域だったので、貴重な堆積構造露頭です。

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 標高845m付近の東から小さな沢の流入する地点(【図-⑭】)では、下流側から、黒色頁岩層/黒色頁岩片入り粗粒砂岩層/凝灰質明灰色粗粒砂岩層が見られました。走向・傾斜は、N20°W・30°SWと、南落ちです。

 そのすぐ上流の黒色頁岩層の中に、コングロ・ダイクがありました。
 黒色頁岩層は、N10°W・20°Wと、ほぼ南北走向ですが、コングロ・ダイクは、N85°W・80°Sと、東西に近い走向でした。見えている部分は、幅20cm×長さ3mです。特徴的に、チャート礫を含まないという岩相は、内山層のものに類似していましたが、内山層でない他の時代の地層にも見られるのは、少し驚きでした。
 標高858m付近から、凝灰質の明灰色粗粒砂岩層(15cm)が主体で、数cmの黒色頁岩層との互層が現れ始めました。N10°W・35°Wです。(【図-⑮】)この後も、連続露頭で、N10~20°W・20°Wと、安定した走行・傾斜が続きました。
 標高865m付近(【図-⑯】)からは、粗粒砂岩の中に軽石(pumice)が入るようになりました。標高880m付近(【図-⑰】)では、同質の粗粒砂岩層が造瀑層となる滑滝がありました。走向と岩相からみて、【図-⑯】とほぼ同層準を観察しているものと思われます。

 標高890m付近(【図-⑱】)では、層理面がわかりずらく塊状で、わずかに礫を含む粗粒砂岩層に、目視できる小規模な断層が見られました。断層は、N70°E・80°N傾向でした。
 標高890m二股を右股に入った標高900m付近(【図-⑲】)では、縞模様(stripe)
が見られ、軽石の入る粗粒砂岩層が見られ、N80°W・80°S~垂直でした。その上流では、黒色頁岩片の入る粗粒砂岩層が続きますが、走向・傾斜は乱れていました。

 北からの小沢が入る合流点から上流部、標高910~920m付近(【図-⑳】)では、下流側から、縞模様の粗粒砂岩層/礫岩層(10cm)を挟む同質の粗粒砂岩層/明灰色粗粒砂岩層/縞模様入り粗粒砂岩層/黒色頁岩片や、それらのの二次堆積と考えられる粗粒砂岩層の順番で観察できました。走向・傾斜は、N30°W・40°SWでした。

 標高950m付近(【図-○21】)では、軽石が入り凝灰質な明灰色粗粒砂岩層が見られました。軽石凝灰岩層としても良いかもしれません。割った新鮮な部分を見ると、青味を帯びた灰色で、緑色凝灰岩(green tuff)としも良いと思われました。これから先の上流は、駒込層が分布しているだろうと考え、下山することにしました。

 

 【 閑 話 】 大月層(初谷層)のお友達は?

 内山層基底礫岩層に続き、尾滝沢にわずか入ると、剪断された泥質メランジェと出会い、大月層の特異さに驚きます。この大月層(初谷層の方が多く使われているようですが、私たちは、大月層と呼ぶことが多かったので、以下、大月層)は、基本的に下部白亜系で、群馬県下仁田町などに分布する跡倉層(あとくら・そう)に対比しようという解釈があります。
 但し、跡倉層は、含有礫岩の年代測定証拠などから、異地性岩体(クリッペ・Klippe)であることが知られ、周囲の関連岩体と共に、「跡倉ナップ群」という扱い方・見方をされています。
【下図】のように中央構造線(MTL)の領家帯(A)側にあった跡倉層(K)は、元の位置から衝上断層を移動して三波川帯(B)の上に載ってしまいました。今の分布は、三波川帯に属します。 すると、現在、内山断層の南側にある大月層も、(内山断層=中央構造線相当なら)北側から乗り越えてきたのか・・・ということになります。

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K:跡倉ナップ群(跡倉層)の動きの説明図

一方、中央構造線の北側には、同じ下部白亜系の和泉層群が細長く分布していることが知られています。愛媛県松山市讃岐山脈~淡路島の諭鶴羽(ゆづるは)山地~和泉山脈までの最大幅15km×東西延長300kmに分布しています。主に海成層で、酸性凝灰岩を挟みます。泥岩からは化石が多く産出します。【下図】は、白亜紀後期を想定した西南日本の模式断面図で、和泉層群の堆積の様子が示されています。

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      《中央構造線の活動概要》
ジュラ紀末~白亜紀初め:大陸に対して北上する

 プレートの動きで、中央構造線 の原型となる横ずれ

 運動が生じた。
白亜紀中期:離れていた領家帯と三波川帯が接する

 ように動く。領家帯の一部は 衝上断層で、三波川帯に

 乗り上げ移動した。(古期中央構造線)
白亜紀後期:プレートの沈み込みで、左横ずれ断層と

 なり、北側では岩盤が破壊 され、和泉層群などが堆積

 した。(新期中央構造線)

             *   *   *   *

 もし、大月層が、かつて中央構造線の北側にあったのなら、和泉層群と同じ関係だとも解釈できます。どうなのでしょうか?
 大月層は、内山層基底礫岩層に接する内山川本流沿いや、根津古沢、モモロ沢、初谷沢でも観察されました。特に、初谷沢では、黒色頁岩や泥岩が多い。文献では、保存の悪いサンゴ・碗足類・二枚貝の化石を挙げているが、まだ、私たちは発見していません。

 

 【編集後記】

 「大月層」は、次回の「初谷沢」で観察した内容を載せる予定ですが、尾滝沢では、冒頭の写真「メランジェ」と思われ、剪断された岩相の堆積岩が印象的でした。

 私たちは、調査の途中では、『内山層の北(大月層)と南(山中地域白亜系)に白亜紀の地層があり、その間に内山層が堆積した』ぐらいの、極めて軽い意識でいました。しかし、どうも諏訪地域から佐久~にかけて、その存在がわからない「中央構造線」に相当するのが、「内山断層」だと言われるようになり、北と南の白亜紀の地層は、仮に時代が似ていても、背景が異なっていることがわかってきました。 

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級化層理(尾滝沢)

  ところで、今日の午前は、チェーン・ソーの新しい刃(チェーン)と、草刈り機の刃を行きつけの商店で購入してきました。

 梅雨入りを前に、既に十分な降雨があり、晴天続きなので、草木はぐんぐん成長していきます。伸びすぎた唐松の枝が日陰になるので伐採したり、畑や道路の草刈りをしたりと、野菜類の周辺管理も始まりつつあります。

 先日のTBS「ひるおび」で、天気予報士・森 朗 氏の説明によれば、過去30年間の平均値を「平年」と表現していますが、『今年・2021年は、10年毎に「平年」を更新・改訂する年度にあたり、例えば、平均気温も0.5℃ぐらい高い数値が採用されました。』とのことです。つまり、平年より高いと言われたら、昨年までより、さらに下駄履き分を足した高温になっているということです。今ぐらいの天候であってくれれば、有り難いですが、そうもいきません。これから次第に暑い季節へと向かっていきます。皆さまも、健康管理に努め、ご自愛ください。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-121

第Ⅴ章 北部域の沢

 平成14年度に地学委員会では、内山川本流の調査(7/6と8/4)をしましたが、それらの資料を夏休み中にまとめていると、もっと多くのことが一刻も早く知りたくなってきました。それで、尾滝沢(8/10)、内堀沢(8/11)、苦水の沢(8/12)、牛馬沢(8/12)、初谷沢(8/13)と、連続して内山川の北側の沢に単独で入りました。この調査により、多くの情報が得られました。 また、根津古沢は、車を使ったポイント調査(2002 11/3)だったので、再調査をしてみる予定です。各沢ごとに紹介していきたいと思います。

 

1. 内堀沢の調査から

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内堀沢と周辺のルート・マップ

 内山川本流の崖露頭(内山川本流図幅1/3【図-④】)と、近接する付近が、どんな関係になっているかが課題です。

 

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内山川本流・第④露頭(大月層) ←「崖露頭」のこと


 合流点付近が複雑そうなので、少し上流の堰堤の下から調査を始めました。堰堤から下流へ55m付近から、黄鉄鉱の入る暗灰色中粒砂岩層、灰色中粒砂岩層(25m下流)、灰色と黒色中粒砂岩層(15m下流)、堅い帯青灰色中粒砂岩層(堰堤の下)の順番で、分布していました。熱変質がありますが、中粒砂岩層は内山層ではないようです。
 砂防堰堤(【図-①】)は、「平成3年復旧治山事業第42号工事(豆の窪)」と記されていました。堰堤の上流は、黒色頁岩がやや優勢な灰色中粒砂岩との互層で、走向・傾斜は、N20°W・45°Wでした。(【図-②】)
 標高810m付近の二股を、左股沢に入りました。砂防堰堤(【図-③】)の下は、灰色中粒砂岩層で、川底と左岸側に石英斑岩の貫入が認められました。堰堤の上流25mから、連続して露頭が続き、標高840mの二股(【図-④】)までは、走向N20°W、傾斜20~45°Wと、走向・傾斜が極めて安定していました。ほぼ同層準を観察していると思われますが、上流に向けて、少しずつ下位の地層を見ていると思われます。下流側(層準では下位へ)から、(ア)凝灰質暗灰色粗粒砂岩層や灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層、(イ)ほぼ同質だが、互層部が砂優勢のストライプ(縞状)となる、(ウ)軽石が入るようになり、中粒~粗粒砂岩と黒色頁岩の互層の順でした。

 標高840m二股(【図-④】)から、北西に延びる枝沢に入りました。軽石の入る凝灰質粗粒砂岩層が、広く分布しています。(【図-⑤】)駒込層の、緑色凝灰岩層(軽石凝灰岩)に相当する層準ではないかと判断し、引き返しました。

 北に延びる沢を登りました。灰色中粒砂岩~暗灰色粗粒砂岩と黒色頁岩の互層でした。(【図-⑥】)表土が崩れ、立木の根が現れていましたが、根はわずかな表土の中を這うようにして根を広げている様子が見てとれました。

 標高860m付近で、灰色中粒砂岩層の露頭を最後に沢は伏流したので、左股沢の調査を終えました。標高810m二股まで戻り、再び本流を詰めていきます。

 二股の上流15m付近から、黒色頁岩の崩れ、灰色中粒砂岩層、砂優勢な互層、再び灰色中粒砂岩層、軽石の入る粗粒砂岩層と続きます。互層で、N20°W・60°Wでした。灰色中粒砂岩層が卓越していました。(【図-⑦】)

 砂防堰堤(【図-⑧】)のすぐ下では、左岸側(南側)が灰色中粒砂岩層の崖で、川底にも広がります。幅3~4cm×長さ1.5~2mのコングロ・ダイクの4露頭が認められました。黒色のレンズ状礫岩層で、熱変質していると思われます。堰堤の上は、熱変質した明灰色の細粒砂岩層(左岸側)と凝灰質粗粒砂岩層、灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層でした。

 標高830m前後の沢が、緩く曲がりながら東北東に延びる部分(【図-⑨~⑩】)は、両岸から山が迫りU字谷のようで、きれいな滑滝がみられました。(後日、調査した志賀川本流の標高905m付近の谷の風景の小規模版です。)青味がかる灰色の粗粒砂岩層で、緑色凝灰岩として良い岩相です。ここに、黒色頁岩やストライプ(縞状)が見られる砂泥互層が挟まっていました。ここにも、小規模な黒色のレンズ状礫層(コングロ・ダイク)が認められました。互層部で、N20°E・20°Wでした。これらは駒込層です。

 標高835m(【図-⑪】)付近では、明灰色粗粒砂岩層の連続露頭でした。暗灰色から熱変質をして、明灰色となっていると思われます。N20°W・25°Wでした。
 標高840m(南東から流入する沢の合流点)(【図-⑫】)の下流側と上流側へそれぞれ10mで、石英斑岩の貫入(岩枝の一部)が認められました。
 本流に対して小さな沢状地形となる【図-⑬~⑮】は、いずれも熱変質を受けた泥岩や砂岩だと思われます。白色~灰白色の泥岩(【図-⑬】)、灰白色の砂岩(【図-⑭】)、白色泥岩、北西からの沢で、白色泥岩と粗粒砂岩(【図-⑮】)でした。
 ここで、「マムシ」を目撃しました。伝え聞いたオレンジがかった銭形模様という意味も理解しました。勇気を出して、石の下に入った蛇の写真を撮りました。

 標高860m二股(【図-⑯】)では、凝灰質灰色粗粒砂岩層でした。
 標高870m(【図-⑰】)付近では、灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層部で、間に層厚40cmの礫岩層を挟んでいました。N10°W・30°Wでした。
 標高885m(【図-⑱】)付近では、同様な岩相で、N10°W・20°Wでした。 標高900m二股(【図-⑲】)付近では、砂優勢な黒色頁岩との砂泥互層と、軽石の入る粗粒砂岩層でした。N10°W・30°Wと、この砂が優勢な砂泥互層の範囲は走向・傾斜が安定していました。これらも、駒込層の分布域です。

 しかし、「マムシ」との遭遇以降、岩石を見るよりも蛇がいないかの方を気になっていましたが、1mを優に越える茶色系の蛇(多分、オアダイショウ)が、少し先の岩の上にいて、先に進む気持ちは完全に失せてしまい、引き返すことにしました。この後、沢を下りてくる途中でも、足を踏み出そうとした下に蛇がいて、空中で足を変えました。崩れた砂岩岩塊が住処となり、沢筋には小動物もいるので、蛇にとって良い環境だったのかもしれません。

 

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墓地の対岸(左岸側)のケッチ

 一度、内堀橋まで戻った後、本流との合流点から沢に入り直しました。
 合流点から10m入った【図-a】では、黒色頁岩と灰色中粒砂岩の互層でした。
 畑に出る所の川底と右岸(【図-b】)では、
泥質メランジェのような岩相が見られました。
【a&b】は、内山層のものではないいう感触をもちました。

 そして、墓地の対岸(左岸側)(【図-⑳】)、畑から伸びる小径に沿った全体で30mほどの露頭です。岩相の特徴は、ありきたりの泥(E・F)を挟む、細粒から粗粒砂岩ですが、崩れ部分を境に北側と南側(下流側)の構造が違います。それで、スケッチをしました。(スケールはあるものの、印象と理解してください。)
 堰堤の南側の小さな崖(【図-c】)は、凝灰質粗粒砂岩でした。
 この後、駒込(地域名)に至る道路沿いに観察をしました。

 【図-d】では、凝灰質灰色細粒砂岩層、【図-e】では、凝灰質暗灰色粗粒砂岩層でした。【図-f】では、風化したぼろぼろの凝灰岩層、【図-g】では、灰色中粒砂岩層でした。そして、【図-h】では、灰白色凝灰岩層で、N20°W・40°Wでした。

 内堀沢周辺を概観すると、熱変質を受けた部分もありますが、全体的に凝灰質な砂優勢な砂泥互層がおおく、緑色凝灰岩としても良い層も含まれているので、「駒込層」という感じがします。しかし、【図-a・b】は「大月層」でしょう。
 そうなると、ちょうど両者の境付近となるスケッチをした箇所(【図-⑳】)は、深い意味のある露頭になるかもしれません。

 

 【編集後記】

 既に、「地質調査物語-山中地域白亜系」で掲載した「内山層~白亜系」の地質図ですが、本文に関わる地域は、大月層との境目に当たるので、位置関係がわかり難いと思い、再掲載しました。

 内堀沢から尾滝沢にかけての地域は、内山層の基底礫岩層群が点々と不連続で繋がり、南北性の断層で切られています。本流の第④露頭は、大月層の分布する一番西側になります。

 

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修正・内山層の地質図

  今日は、朝から一日中、雨降りで、午前中は、久しぶりに英語の勉強をしました。かつては、毎日30分ぐらい、短文書き取りや、英作文を続けていましたが、はてなブログを挙げるようになってから、気が向いた時ぐらいになっていました。

 昨日、アスパラガスの苗を48ポット定植したので、願ってもみない慈雨となり、私の学習習慣を復活させてくれた記憶起こしの雨にもなったようです。この雨は、夕方には上がり、明日は再び晴れるので、農作業に追われる日々です・・・・と言いながら、身体を動かしていることが好きなのです。

 M78星雲の惑星・「光の國」からやってきた「ウルトラマン」と同じで、太陽光を浴びていないと調子が出ません。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-120

3. 内山川本流(3/3)の調査から

 平成14年(2002)8月4日の調査の続きです。
 私たちは、内山川の本流を歩いているのですが、それが、内山層の基底礫岩層群の層準辺りと、大月層の南限付近に当たるので、足元は、大きな地質学的時間差をまたいで観察していくことになります。モモロ沢の合流点からダム湖までの説明をします。

 

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内山川本流の3 (モモロ沢~ダム湖

 モモロ沢との合流点付近(【図-①】)では、黒色の珪質細粒砂岩だけでしたが、上流へ25m付近では、黒色粘板岩と硬い黒色細粒砂岩の互層となり、滑滝を形成していました。この層準は、大月層と思われます。
 南側の湾曲部(【図-②】)では、下位に黒色細粒砂岩層、礫岩層が現れました。礫種は、チャートや黒色頁岩、珪質砂岩の円礫でした。内山層と思われます。
 北側の湾曲部(【図-③】)では、硬い黒色細粒砂岩層と黒色粘板岩です。走向・傾斜は、N70°W・45°Sでした。大月層と思われます。
 標高830m付近(【図-④】)では、幅1.5mの礫岩層があり、少し上流でも、両岸から川底へ礫岩層が見られました。N50°E・50°SEの走向・傾斜で、下位から粗粒砂岩層/礫岩層/粗粒砂岩層/細粒砂岩層と重なっています。礫種は、珪質砂岩の礫が卓越していました。理解できないのは、最下位の粗粒砂岩と礫岩層の構造を切るように、N20°E・20°Eで、火山砂の多い粗粒砂岩が、位置的には一番下に堆積していました。これらは、内山層の基底礫岩層群と思われます。

 大沼沢との合流点、わずか下流(【図-⑤】)では、暗灰色中粒砂岩層があり、二枚貝の化石を認めました。ツキガイモドキ(Lucinoma sp.)、シラトリガイ(Macoma sp.)、マテガイ(Solen sp.)です。また、水辺の植物の茎と思われる炭化物も含まれていました。この層は、内山層と思われます。
 大きく湾曲する手前から奥にかけて(【図-⑥】)、中粒砂岩層を時々挟んで礫岩層が分布していました。内山層の基底礫岩層だと思われます。砂岩層の中には、二枚貝化石が、認められました。
 湾曲部から次の湾曲部(標高840m付近)まで、約150mほど見通せます。その中間付近から湾曲部にかけて(【図-⑦】)、暗灰色中粒砂岩層が分布し、二枚貝化石が認められました。

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初谷沢合流点(橋の上から)

 

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基底礫岩層(初谷沢合流点)

初谷沢(しょやさわ)が、標高843m(推定)付近で、内山川に合流します。(国土地理院の地図では、橋のわずか上流で合流するように表されていますが、橋工事の関係なのか、今は、橋の下流で、初谷沢に懸かる橋と連続していました。)
 合流点の右岸(【図-⑧】)では、左の写真のような内山層の基底礫岩層が見られました。 間に、暗灰色粗粒砂岩層(層厚15cmほど)を挟みますが、
上も下も礫岩層です。上の礫岩層の方が、大きな礫を含んでいますが、差別的浸食というより、内山川の川底自体が浸食・下刻されていく過程なので、かつては、下の礫岩層は、当時の川底より下に位置していた時代もありました。今は、毎日削られ、特に大水の時は、大きく削られているのかもしれません。

 

 

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初谷沢合流点手前の内山層基底礫岩層群


 初谷沢に懸かるトンネル橋の下をくぐり、初谷沢の湾曲部(【図-⑨】)に出ました。ここでは、明灰色粗粒砂岩層(2m)の上に、基底礫岩層(5m以上)が載っています。さらに、直接観察できませんが、5mほど基底礫岩層の連続部分があるものと思われます。
 下の写真は、全体露頭の中央部を拡大したもので、埼玉地団研の皆さんと調査をした時に撮影しました。
粗粒砂岩層の中にも、花崗岩礫が、わずかですが含まれていました。
 粗粒砂岩層と礫岩層を合わせて、基底礫岩層群として良いと思いました。

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初谷沢入口(2002 11/3)

 

            *   *   *

 

 内山川本流に戻り、川の大きく南側に蛇行する付近(【図-⑩】)では、黒色頁岩層が見られました。走向・傾斜は、N60°W・20°SWです。この湾曲部に至る地点の中間には、薄く白色凝灰岩層を挟む黒色頁岩層があり、頁岩層から二枚貝の化石が見つかりました。走向・傾斜は、N20°W・20°Wでした。

 ・・・実は、六川・渡辺両氏は、執拗に化石を捜している間、私は、『(私たちもそうフィールド・ネームでも呼んでいる)内山断層が、中央構造線に相当するかもしれない』という、小坂共栄先生(信州大学教授)の説明の方が気になり、右岸の水田の先に広がる東側に見える風景を撮影していました。

 湾曲部の上流には、低いコンクリート製の堰堤がありました。堰堤の右岸側を登った所にも露頭があり、暗灰色中粒砂岩層(N40°W・20°SW)からも、二枚貝化石(シラトリガイMacoma sp.)を確認しました。(【図-⑪】)

 堰堤の上流から、風化すると黄土色となる青味を帯びた暗灰色(凝灰質~火山砂を含む)粗粒砂岩層か、上流部に向けて広く分布していました。

 標高855m付近(【図-⑫】)では、暗灰色中粒砂岩と、黒色頁岩の互層でした。頁岩は、剥離性がかなり強いものです。
 無名沢(神封沢の西の小さな沢)との合流点から20m上流(【図-⑬】)では、暗灰色粗粒砂岩層がありました。その上流部も同様な産状でした。
 神封沢との合流点から25m上流(【図-⑭】)では、粗粒砂岩層の中に不規則な黒色頁岩片が入った層準が認められました。黒色頁岩片は二次堆積だと思われ、特別に珍しい産状ではありませんが、堆積状況の岩相を示す鍵層(key bet)にならないかと期待しています。
 工事用の橋付近(【図-⑮】)の右岸では、暗灰色で凝灰質の粗粒砂岩層が見られました。高さ5m以上の崖となっていました。
 最後に、砂防ダム湖の下流部(【図-⑯】)は、暗灰色の凝灰質粗粒砂岩層が広く分布していました。

 この日の調査では、スタートとゴール予定地の両方に車を駐車しておきました。雲行きが怪しくなる中、急いで乗り込みました。雷鳴は、まだ遠くで聞こえます。
 スタート地点で、帰宅のために自分の車に乗って走り出すと、激しい雷雨となりました。とてもラッキーでした。

 

   【 閑 話 】

 内山川本流にある「仙ケ滝」は、各地の伝説にあるように、美しい悲運な娘が身を投げたという民話が残っている滝です。
 しかし、滝壺(たきつぼ)があってというわけではありません。沢水が、堅い礫岩と粗粒砂岩の互層部の弱い部分を縫うように、流路をみつけて流れ落ちていきます。流水の浸食作用を学習する時、良い教材になると思います。きれいな渓谷というほどではありませんが、三段の滑滝(なめたき)と淵、それに続く清流が見られます。
 ちょうど夏休みなので、親子連れの釣り人と会いました。父親の方は真剣そのものですが、釣りに飽きてきた小学生は、水面に小石を投げ込んで、父親から怒られていました。その光景を見て、私は思わず笑ってしまいました。
 その少し下流では、年配の女性(若いお婆さん)が見守る中、都会から帰省した娘(若いお母さん)と孫(二人の幼児)が、浅瀬の川にダムを作って、水遊びをしていました。二人の男の子にとって、懐かしい思い出の水辺となるでしょう。内山川は、そんな人々に安らぎを与えてくれる人里を流れる清流です。
 (下の写真は、残念ながら内山川本流ではなく、北相木川「箱瀬の滝」の上流部の淵です。)

 

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沢水に親しむ体験

【編集後記】

 平成14年11月2~3日、信州大学教授の小坂共栄教授を中心講師にした地学団体研究会埼玉支部の皆さんの研修会に、小林正昇先生と一緒にお邪魔しました。
 志賀川水系で八重久保層(やえくぼそう)の巡検をしていた時のことです。参加されていた元群馬大学教授の野村 哲 先生の行動を見て、とても感激しました。先生は、調査の傍ら、雑木に絡まり付いた蔦(フユヅタ)を見つけると、手持ち用の小型鋸(のこぎり)で切ったり、鉈(なた)で枝打ちをしたりして、立木から蔦を取り除いていたからでした。蔦とて、必死に雑木に絡まって伸びていくのは生きる為の手段ですが、巻き付かれた木々も大変です。まるで、苦しんで叫び声を発しているのが、先生には聞こえてくるのでしょうか。先生の長年のフィールド調査中もきっと他の多くの山や沢で、蔦に巻き付かれた木々を救出していたのだと思います。

 自然に対する考え方や態度は、きっと自然研究の神髄として、研究結果にも表れてきたのだと思いました。

 

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カラマツに絡まる蔦(佐久市前山)

 思えば、私たちも地質調査という名を借りて、平気で露頭を岩石ハンマーで壊しています。不用意にも一度破壊してしまえば、再現できない自然界の歴史的産物に対して、もっと深い慈愛と畏敬の気持ちを持ち続けなければならないと、その時に感得しました。

 ところで、連日晴天続きで、毎日、畑や土手、道路沿いの草刈りをしていて、はてなブログが中断していました。一応、草刈りの第1回目ローテーションが済んで、『今日の午後は、気温が上がり熱中症に注意しましょう』と言うので、デスクワークとしました。良い骨休みになりました。(おとんとろ)

 

佐久の地質調査物語-119

2. 内山川本流(2/3)の調査から

 ホド窪沢が合流する橋の上流20mで、石英斑岩(せきえいはんがんQuartz-Porphyry)の貫入露頭がありました。石英斑岩は、(半深成岩で)、珪長質組成の火成岩です。・・・かつては半深成岩という言い方もしましたが、今は使っていません。

 

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内山川本流の2 (苦水から大月の東まで)

 このすぐ上流側(【図-①】)で、やや青味がかる灰白色の中粒砂岩層が見られました。熱変質を受けていると思われます。走向・傾斜は、N70°W・20°Sでした。

 標高795m付近(【図-②】)では、層理面がはっきりしない塊状の黒色泥岩層の中に、コングロ・ダイクと「十字」に交叉した石英斑岩の貫入が見られました。

 黒色泥岩層の中に灰色中粒砂岩層が挟まっていて、走向・傾斜は、この値、N20°W・70°Eで、全体傾向を代表させてあります。
 この日(2002 7/6)の観察スケッチは、帰宅後に振り返ってまとめようとすると、詳細が不明でした。それで、尾滝沢調査(2002 8/10)の折に、観察し直しました。写真の竹箒できれいにして撮影しましたが、木漏れ日や苔が付いていて、極めてわかりにくいです。説明図を参照してください。
 中央の石英斑岩は、60°の角度で交叉するように貫入しています。貫入が同時なのか、それとも前後差があるのかは、わかりません。
 その西側に、幅15cm×長さ2mと、幅5cm×1mほどの、2つのコングロ・ダイクが泥岩層に貫入していました。コングロ・ダイクと石英斑岩は、接してはいますが、切ったり切られたりする関係は見てとれません。ホド窪沢(1010mASL)の露頭で見られたような、玢岩がとコングロ・ダイクと泥岩層を切っているような関係はわかりません。
 この露頭については、コングロ・ダイクの成因についての項で、再度、話題にしたいと思います。

 

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石英斑岩の交叉貫入とコングロ・ダイク

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十字貫入の説明図

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黒色泥岩との接触部分(拡大)

 

 そのすぐ上流では、黒色泥岩と中粒砂岩の互層でした。【図-②】露頭の上流10mほどの左岸では、黒色頁岩に石英斑岩の岩枝が見られました。下流側から、黒色頁岩/岩枝(5cm)/黒色頁岩(1m)/岩枝(25cm)/黒色頁岩と続きます。層理面は顕著ではないが、傾向としてN20°W・85°NEないし垂直と、層理面に沿って、ほぼ調和的に見えました。(【図-③】)顕著な熱変質はありませんが、釜の沢合流点付近の中粒砂岩は、灰白色になっていたので、熱変質は受けているゾーンとして良いと思います。

 尾滝沢の合流点と、その少し下流部では、砂優勢の灰色中粒砂岩と黒色泥岩の互層や砂岩層で、こちらは熱変質を受けていませんでした。(【図-④】

 標高800m、武道沢合流点から25m下流付近(【図-⑤】)から、礫岩層が現れました。礫種は、チャートや結晶質砂岩の亜角礫です。

《注》仙ヶ滝とその上流部は、一次調査(2002 7/6)をしてありましたが、不明な部分も多く、再調査しました。図幅【内山本流2/3】は、平成14年8月4日に、食堂「藤村」の看板あったの奥の橋から本流に入って内山川を下り、仙ヶ滝付近から始めました。尚、仙ケ滝付近(2002 8/4 および2002 11/3)は、複数の調査情報も合わせて報告します。

 

 武道沢の合流点から上流は、比較的大きな淵があり、その上に、仙ヶ滝が形成されていました。(【図-⑥】)滝の造瀑層は、厚い礫岩層と粗粒砂岩層の互層で、砂岩層の方が大きく浸食され、流水は中央部を蛇行するように落下していく三段の滝です。一番下の落下部分から滝の上までは、水平距離で25mほどあり、全体の落差は、5mぐらいです。滑滝(なめたき)なので、深い滝壺にはなりませんが、下流に大きな淵ができていて、子どもが水遊びをするには最適な環境です。滝付近は、N70°W・40~50°SWの走向・傾斜でした。

 

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千ヶ滝の上(上流側から)・・・突き当たりが淵になっている

 滝の上(【図-⑦】)に、流れ落ちる水を貯めた浅瀬があり、暗灰色粗粒砂岩層の上位に礫岩層が重なっていました。砂岩層が流水で浸食され、オーバーハング状態になっています。礫種は、灰色・白色・黒色のチャート礫(主)、黒色頁岩礫、灰色(結晶質)砂岩礫、花崗岩礫で、巨大な礫はありません。
この産状について、『下の粗粒砂岩が、礫岩に突き刺さっているので、砂岩を下位としていいでしょう』と、野村 哲 先生(元群馬大学教授)が指摘してくれました。
                       (2002・平成14年 11月3日)

 この礫岩層は基底礫岩層だと考え、内山層の最下部だと理解していた私たちに対し、礫岩層の堆積前に粗粒砂岩が先に堆積していたことを説明してくれました。(ちなみに、同様な産状は、初谷沢合流点付近にもあり、後述します。
 内山層堆積盆で本格的な堆積の始まる前、つまり基底礫岩層の堆積前に、既存の地層(白亜系か?)と不整合関係で、少量の粗粒砂岩が、まだ固結しない堆積物の状態にあり、その上に礫が堆積してきたという意味です。砂の上に堆積した礫が砂を押しつけ、礫同士の隙間から砂が突き刺すように入りこんでいるということになります。
 これは、「基底礫岩層は一番下だ」という私たちの固定概念(ある意味で偏見)を崩してくれました。そうなると、下位の粗粒砂岩層も含めて、『基底礫岩層群』と呼んだ方が良さそうです。

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礫岩と砂岩の境目(基底礫岩層の下に砂岩層がある)

 

 

 基底礫岩層群の露頭から50m上流の右岸(【図-⑧】)では、黒色頁岩と灰色細粒砂岩の互層で、N60°W・30°SWでした。この細粒砂岩から、二枚貝の化石を見つけました。

 内山川の湾曲部(【図-⑨】)では、砂泥の互層で、泥岩はやや古そうに見受けられました。また、目視できる断層が認められました。下流側と上流側で走向・傾斜を測ると、N85°W・38°S~N80°E・32°Sと幅があるので、図では全体を代表するものとして、「EW・35°S」と架空の値(平均)を載せてあります。
 小さな木橋付近の左岸(【図-⑩】)では、黒色頁岩層でした。(この日は、この木橋から川に入りました。)


 標高805m付近で、南東から柳沢が合流します。その上流25mでは層理面がわかりずらい黒色頁岩層がありました。北落ち(右岸)とも、南落ち(左岸)とも見えます。
 根津古沢の合流点手前の橋(【図-⑪】)では、黒色頁岩層(N60°W・60°NE)が見られました。黒色頁岩層は沢の方にも続いていて、沢に100mほど入ってみると、石英斑岩(幅5m)の貫入があり、130mほどでは、N60°E・70°SW~垂直の黒色頁岩層でした。(後日、入る沢ですが、調査が難しそうな沢との印象を持ちました。)
 本流に戻り、脇の国道254号線のコンクリート壁に沿った左岸は、同質の黒色頁岩層が続いていました。
 大月の湾曲部(【図-⑫】)では、黒色頁岩層(N80°E・50~60°S)がありました。走向・傾斜資料と同質の岩相から推理すると、根津古沢へ130mほど入った露頭とつながるかもしれません。

 そして、橋(名称不明)の上流130m付近に、コンクリート製の低い堰堤があります。ここで、内山層基底礫岩層見られました。(【図-⑬】
 堰堤から下流側30mの範囲が礫岩層で、特に白色チャートの礫が卓越した板状露頭が、左岸全体と、川底中央(2/3左岸寄り)と、下流30m川底を通じて両岸にありました。左岸側の測定で、N80°E・70°Sでした。ポットホールも見られました。
 そして、次の【図-⑭】地点まで、基底礫岩層でできた淵が続いていました。川底は、前述の白チャート礫が卓越した層準(川底中央)が、浸食された部分のようです。この走向に沿って内山川は、流れているようです。調査委員の中に、やや高所恐怖症の方がいて、右岸側をトラバースして進みましたが、大変そうでした。

 【図-⑭】から【図-⑮】および【図-⑯】付近の説明図(スケッチ)を示しました。写真と共に見てください。
 【図-⑭】地点では、礫岩層の上に暗灰色粗粒砂岩層と灰色(凝灰質)粗粒砂岩層が載っていました。暗灰色粗粒砂岩層の中には、水辺の植物の茎などと思われる炭化物が含まれていました。
 その上流、川が湾曲する地点【図-⑮】では、目視できる断層のような存在があり、内山層と大月層の境ではないかと思われる露頭が見られました。

 

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白亜系と基底礫岩層の境(断層)

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内山層(基底礫岩層)と白亜系との不整合露頭


  構造不明な砂岩の南側(F-①)と北側(F-②)は、断層と思われます。 礫岩層の中に黒色粘板岩がくさび形に入っています。また、川底から礫岩層の一部が出ています。この方向が、礫岩層全体の層理面を代表していると判断し、N60°W・50°NWと、走向・傾斜を求めました。
 一方、F-②の近くにも黒色粘板岩があり、その隣は中粒砂岩層と続きます。しかし、境が層理面とは思われませんでした。それで、少し上流部の黒色粘板岩層N20°E・35~45°Sの値を採用してあります。(【図-⑯】

 内山層基底礫岩層(1900万年前とし)と大月層(白亜紀、仮に1億年前とすると)の時代差は、8000万年以上となります。これだけの差なので、目視できる小断層が、両者を画する断層であるはずはありません。しかし、大きな時代差を決めている構造の一部を偶然に見ていることには、間違いありません。

 基底礫岩層の見られる露頭【図-⑬・⑭・⑮】の位置関係と走向・傾斜で見ると、目測30~35mの範囲が、基底礫岩層の層厚を表しているように考えられます。そこで、傾斜50°で計算してみると、層厚は24~27mほどになります。基底礫岩層の他の露頭では、一部分しか見えてないので、比較は難しいですが、最大の厚さかもしれません。尚、この礫岩層には、礫というより寧ろ「岩や小石」とでもいうような巨大な礫は含まれていませんでした。
 この日(2002 8/4)の調査は、上流部へと続きますが、図幅【内山川本流2/3】の都合で、ここで終わります。

 

 【 編集後記 】

 【内山川本流2/3】で使用した「写真」は、写りが悪いです。と言うのも、理由があって、当時、私は一眼レフ・カメラで写し、写真店で印画紙に焼いてもらった写真か、ネガフィルムからPCに読み込んだ画像を使用していました。この為、加工操作に時間がかかるので、解像度を落として、データー処理をしていました。解像度を落としてしまった写真は、きれいに再生できません。撮影場所は、山奥ではないので再撮影も可能ですが、写真に写っている人と調査した思い出と共に、同じ状況は再現不可能なので、敢えて使用しています。ちなみに、基底礫岩層群露頭で麦わら帽子の人は、渡辺正喜先生です。また、基底礫岩層と白亜系の境に立つ人は、六川源一先生です。

 ところで、PCやカメラなど、機械技術やその性能向上の変遷には、目を見張るものがあります。
 平成25年11月23日、松川正樹先生(東京学芸大学教授)の門下生・平田圭祐さん(大学院生)が、「大通嶺(だいつうれい)」の北相木層から広葉樹の化石を見つけた所を案内してくれるというので、渡辺先生と同行しました。急な尾根のみで、私は地形図を読みながら歩きましたが、平田氏は、GPSで緯度・経度・標高まで正確に捉えていました。さらに露頭を写した写真画像には、写した方位と時間(秒)までが、表示されていました。
 ただ、この日の目的は達成できずに、代わりに暗灰色中粒砂岩層からウニの殻化石を見つけました。(写真)

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ウニの化石(北相木層・大通嶺)

 ところで、今日は雨の一日で、外での農作業もできないので、ゆったりと過ごせそうです。それで、午後は、車庫の横の謂わばガレージのような所で、メロンとスイカの種子をいくつかの鉢で種蒔きをして、温室に入れようと計画しました。

 その前に、はてなブログを挙げようと始めましたが、とんだロス・タイムの発生です。最後に載せた「北相木層のウニの化石」の写真が見つからなくて、捜しまくりました。ようやく発見できたものの、予定時刻を大きく回ってしまいました。

 北相木層の地質や化石情報も、かなり集まっているので、いつかまとめようと、別の媒体にファイルを集めて保管してありました。常々、写真などの記録の大切さを痛感すると共に、その保管や整理は、もっと重要だと思いました。(おとんとろ)


 

 

佐久の地質調査物語-118

 第Ⅳ章 内山層の基底礫岩層群

 ある地域の地質調査をする時、模式地と言われている沢や、地層の走向とできるだけ垂直に流れているような沢、それに交通の便の良い河川などの調査を優先させて取りかかります。例えば、山中地域白亜系の調査では、「都沢(みやこざわ)」は、この前者ふたつの条件を兼ね備えていました。
 内山層の場合、柳沢や大沼沢あたりが良いのかもしれませんが、平成10年度の調査からは、化石調査も優先したので、北部地域の東側(館ヶ沢周辺)から始めたようです。それで、内山川水系の南側の支流調査が済んだ後、ようやく内山川本流調査に取りかかりました。平成14年度(2002年)の夏に、2日かけて相立(あいだて)から黒田(くろだ)までの調査をしました。また、同年11月には、小林正昇先生と埼玉地学団体研究会の皆さんと共に入ることができました。ここには、野村 哲 先生(元・群馬大学教授)と小坂共栄先生(信州大学教授)も同行されていて、大きな感化を受けました。
(ルートマップ図幅を3分割した都合で、実際の調査日とずれている部分もあります。説明は、「1/3・2/3・3/3」の各ルートマップごとにしています。)

 

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内山川本流の1(相立~苦水) ルート・マップ

 

1. 内山川本流(1/3)の調査から

 国道254号線沿いの「相立橋」から北西200m付近(【図-①】)で、内山層の基底礫岩層が観察できます。内山川(正式には滑津川の上流部)の右岸の河原と、水路の北側に礫岩層が広く分布しています。水路の上(東西15m×南北5m)、河原の西側(15m×10m)、河原の東側(5m×7m)で、特に大きな花崗岩や閃緑岩の礫、黒色頁岩の礫、白・黒・赤(少ない)のチャート礫、結晶質砂岩の礫が見られます。

 河原西側の花崗岩や閃緑岩の25cm×60cm大の礫の長経の並びを見ると、方向N50~60°Wに並んでいます。最大礫は、50cm×70cmの閃緑岩で、河原の東側にあります。

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くいちがい石(30×20cm)

 写真(上)は、結晶質砂岩の礫で、同一のものが中央で切れ、ずれています。俗に
「くいちがい石」と呼んでいる場合もあります。いくつもある訳ではないので、たまたま弱い部分に応力(圧縮)がかかり、割れたのかもしれませんが、いずれにしろ地殻変動によるものです。

                *  *  *


 ☆印:富沢(六川資料)で、『神社の西側で、玉葱状風化の粗粒砂岩層と礫岩層(最大5cmφ、チャート・粘板岩・花崗岩の礫)の走向・傾斜はN75°W・80°Sです。その少し上流で、基底礫岩層と思われる巨礫を含む層準がありました。川が湾曲している為、こちらの方が、相立橋の北西露頭【図-①】より下位になります。

 チャート礫も多いですが、花崗岩礫(最大90×100cm)や粘板岩礫(20×30cm)が目立ちました。』と紹介した露頭です。

 

 本流の標高770m付近と西側の尾根(【図-②】)で、20mほどに渡り基底礫岩層が見られました。礫種は【図-①】と同様で、最大礫は30cm×50cmでした。
 川底露頭の一部に、幅10~15cm×10mの周囲と色の異なる礫岩層がありました。周囲の地層と調和的で、コングロ・ダイクに似ているようにも見えましたが不明です。下流側から観察していくと、比較的上流側の一部分で、スケッチ(下)のような産状が認められました。この層も礫岩層ですし、周囲も礫岩層です。注目するのは、「?」印をつけた珪質の白色砂岩礫が、瓜二つで、まるでかつては同じ礫が割れて離れているのではないかと思わせることです。礫があることと、割れていること(くいちがい石)は少しも不自然ではありませんが、偶然にしては、あまりに奇妙な位置と形態の一致です。しかし、それ以上はわかりませんでした。

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割られた珪質白色砂岩礫

 

 この少し上流では、灰色中粒砂岩層の中に、黒色頁岩の礫(最大4×6cm)が含まれていました。長径(N60°E)方向は、堆積時の水流方向を示しているのかもしれません。

 崖の下流側へ100m付近(【図-③】)では、帯青灰色中粒砂岩層があり、部分的に細長い(最大10cm)黒色泥岩片が入ることがありました。全体は、珪長質な火山物質が多く、石英や長石も肉眼で認められました。また、黒色泥岩片もありました。
 約10m離れて、同質の砂岩層の中に、幅10cm×1.5mのコングロ・ダイクがレンズ状に入り、両端は急に細くなって消滅していました。

 少し崩れかけたコンクリートの低い堰堤の西側から川の流路に沿って、一番高い所で高さ15mほどの崖が、目測で上流まで50m以上、続いていました。(【図-④】
 これまで、異常堆積構造と言っても、せいぜい、コングロ・ダイクの産状を話題にしてきましたが、この崖露頭は、どう説明して良いかわからないほど、(ア)スランプがあり、(イ)小さな断層がいくつか入り、(ウ)きれいな堆積層もあれば、ブロック状に入る部分もあり、(エ)走向・傾斜も定まりません。
 全体を観察した後、船の舳先の形状に見える塊状の黒色泥岩(極めて硬く、泥質メランジェ?)の下は範囲は狭いが、共に明灰色の砂泥互層であったので走向・傾斜(N50°E・40°NW)を測定しました。
(写真の中央の黒く見える出っ張り部分の下です。)
 また、スランプ構造や断層のなくなったと思われる上流の厚い砂泥互層(暗灰色砂岩と明灰色泥岩)で、走向・傾斜(N30°E・20NW)を測定しました。しかし、直接、近くで観察できない崖露頭なので、これらの測定値が全体の傾向を代表するのか、定かではありません。

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コンクリートの低い堰堤の先、崖露頭(下流側から)

 

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崖露頭(上流側から)/東側から見ている

 この後で調査に入った「尾滝沢」や周辺の沢でも、明らかに内山層の岩相ではないと感じましたが、この露頭も、大月層(従来、白亜系とされてきたが・・)で、最近の研究からわかってきた『跡倉ナップ群』ではないかと思われます。
 尚、崖の最上部に蜂の巣状に風化した軽石凝灰岩層があると思われます。カメラの望遠レンズで撮影しました。特徴から、軽石の入っていた部分が抜け落ちているのではないかと考えました。(類似の風化をすることもある石灰岩の転石は、今のところ見つけていません。)

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蜂の巣状に浸食

 川の湾曲部の上流では、凝灰質灰色中粒砂岩(いくぶん剥離性)が見られ、わずかに黒色泥岩を挟んでいました。そして、「初沢」との合流点では、同質の砂岩層が見られました。

 

 標高799m(橋の下流150m)付近(【図-⑤】)では、チャートの円礫を含む礫岩層の上に、暗灰色中粒~粗粒砂岩層が見られました。礫種は、白チャートの他、珪質の灰色砂岩、黒色頁岩で、円礫と角礫が混ざっています。粗粒砂岩の岩相は、内山層のものと違うような感触をもちました。

 標高780m(橋の下流50m)付近(【図-⑥】)では、塊状の黒色泥岩層が見られました。一部は、石墨化(graphite)していて、内山層では見られないタイプです。
所々に、珪酸成分の富化部があるのか、ノジュール(nodule・凝結物)がありました。わずかに挟む灰白色細粒砂岩層との境で、N30~40°W・60°SWの走向・傾斜でした。

 所沢の合流点は、内堀橋のすぐ上流で、内堀沢との合流点までの間で、小さなコングロ・ダイク(?)に見える構造物が認められた。橋の15m上流(【図-⑦】)付近では、混濁流による縞模様(stripe)の見られる砂泥互層が見られました。砂岩には、小さな黒色頁岩片が含まれています。2つのコングロ・ダイク(?)は、ひとつは、曲がりながら堆積構造と垂直で、もうひとつは層理面に沿っていました。いずれも、幅10cm×長さ1m未満で、石英閃緑岩礫が含まれていました。

 橋の80m上流(【図-⑧】)では、灰色中粒砂岩と黒色細粒砂岩(泥岩ではない)の砂岩の互層で、N70~80°W・60~70°Nでした。層理面に沿ってコングロ・ダイク(?)が入り、こちらにも石英閃緑岩礫が認められました。

 標高790m(小さな橋の上流50m)付近(【図-⑨】)では、黒色細粒砂岩と暗灰色中粒砂岩の互層が見られました。(岩相から内山層とは似ていない。)黒色細粒砂岩層の中には、粒度は砂サイズの珪長質な物質が特徴的に入っていました。これらの互層に調和的に、幅10cmで、長さ5mと長さ6mの2つのコングロ・ダイク(?)が認められました。その80m上流にも、同様な構造物があり、今まで内山層で話題にしてきたコングロ・ダイクと同じものかどうかを悩みながら調査を続けました。

 苦水(にがみず)の日向橋の下流15m付近(【図-⑩】)では、露頭幅で6mとなる砂礫層が見られました。(・・・これは、日向橋のすぐ東側に「中村林道の沢」が合流している関係で、既に紹介してありますが、再度、紹介します。)
 比較的安定したN60~70°W・70°Sの走向・傾斜で、下位(下流側)から、礫岩層(60cm)・暗灰色粗粒砂岩層(3m)・礫岩層(40cm)・砂礫岩層(2m)と重なる連続露頭です。礫岩層に、いずれも最大な礫で、チャート礫(12×15cm)、花崗閃緑岩礫(15×20cm)、黒色頁岩片(長径5cm)が含まれていました。
 この岩相は、内山層基底礫岩層の特徴です。

 そうなると、相立の【図-①】【図-②】、富沢の神社の西【☆】、ここ苦水の日向橋【図-⑩】を結ぶラインから、南側が内山層の分布域と考えて良さそうです。中間の所沢からデータが得られなかったのは残念です。

 日向橋の上流20m(【図-⑪】)では、岩相から内山層と思われる灰色中粒砂岩層が見られ、N80°W・60°Nでした。こんな至近距離で、なぜ落ちが、しかも急角度で反対になるのか不思議です。
 しかし、コンクリート製の低い堰堤(【図-⑫】)の下流側と上流側でも、似た走向・傾斜なので、間違いではないようです。

 堰堤の下流10mでは、黒色中粒砂岩層に、砂サイズとは桁外れに違う巨大な明灰色中粒砂岩(60cm×80cm)が入っていました。転石かと疑いましたが、根付きです。基底礫岩層の礫の中でも、数少ないサイズです。N80°W・30~50°Nの砂岩層に対して、切るようにコングロ・ダイク(幅5~10cm×長さ1m)が入っていました。
 堰堤の上流60mでは、黒色泥岩と明灰色中粒砂岩の互層で、N75°W・60°Nでした。

 ホド窪沢が合流する橋(名前不明)の下流150m付近~上流の淵(【図-⑬】)では、走向・傾斜N70°W・60°Nの黒色細粒砂岩層(淵の部分は、やや剥離性あり)に計4つのコングロ・ダイクが認められました。幅は10cmていどですが、最大の長さは5mに達するものもありました。他は数mていどです。
 この日の調査は、さらに上流の仙ケ滝まで続きましたが、図幅の都合でここまでとします。

 

 【編集後記】

 地質の情報とは関係ありませんが、ルート・マップの中にある「*ケヤキ」というのは、写真(下)のような大きなケヤキ(欅)の木です。根本は、内山層の砂岩層や泥岩層があり、地層の中に根が侵入しているはずです。そして、ケヤキの木の部分だけ、周囲のコンクリート製石垣の堤防が、護岸工事されていません。

 ともすれば、ケヤキの大木を伐採してしまって、護岸工事を統一的にすることも可能だったと思いますが、そうしないで、おいてくれたことに、私は感激しました。

 

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苦水(地名・にがみず)の欅の大木

 写真(下)は、フェンスを利用して、鉄製電線が配線されていて、電流を流して、害獣対策をしているようです。素手ではなく、他の方法で触れて見ると、昼間は電流を流していないようでした。

 実は、もう少し高級タイプの電気防護柵で、電源が太陽光発電のものは、うっかり触れてしまったことがありました。感電して、もちろん驚きましたが、高電圧でも電流量は小さいので、命には別状ないようです。

 しかし、ここのは、もしかすると、正式な変圧器を使っていないものかもしれないので、恐そうです。それでも、こんな手段を使わないと、山里でなくとも、里でも農業ができないほど、山が荒れ、動物が餌を求めて出没してくるようになっています。

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ニホンシカの食害対策として、高圧電流が流れている

 ところで、別の機会に詳しく紹介しようとますが、私は、シカ捕獲用のワナ(ワイヤー製)に掛かったことがありますし、また、牧場で雄牛に追いかけられて電流の流れるバラ線で、感電と共に皮膚にかぎ裂きを作ったこともあります。今だから、笑って話題にできますが、本当にびっくりするものですよ!

 くれぐれも注意書きがあれば、それに従いましょう。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-117

4. 館ヶ沢の調査から

 平成12年9月10日(日)の午後は、細萱林道の沢の調査の後、館ケ沢(たてがさわ)別荘地の橋の下から沢に入りました。
 一軒目別荘がある、標高960m付近では、塊状の灰白色泥岩層(砂質シルト岩)で、N40°W・20°SEでした。特徴的な成長肋のある二枚貝・ツキガイモドキが認められました。(【図-①】)
 標高970m付近では、灰白色泥岩(主体)と黒色頁岩の互層が、ずれているので目視できる小断層だと思われます。二枚貝化石を含みます。互層部分で、N80°W・5°S(上流側)と、N40°W・18°S(下流側)のデーターを得ましたが、全体を代表すると思われる後者の測定値を採用しました。(【図-②】)(唐沢Location2)
 別荘の庭にバーベキュー設備がある標高980m付近で、灰白色泥岩(シルト岩)の中に、凝灰岩層(10cm)が入り始めました。(【図-③】)
 標高985m付近から、泥相から砂相へと変わり始め、凝灰質の中粒~粗粒砂岩が主体となりました。
そして、標高1000m付近の左岸側(西側)の崖(【図-④】)では、厚い砂泥互層が見られました。N80°E・20°Sと南傾斜です。下位から、5層準の互層が観察でき、黒色頁岩層(2m)/凝灰質粗粒砂岩層(2m)/黒色頁岩層(5m)/粗粒砂岩層(3m)/黒色泥岩層(2m)と、全体で14mほどの崖が見られました。
 その上流、標高1010m付近(【図-⑤】)では、中粒~粗粒砂岩層の中に何枚かの薄い(5~10cm)凝灰岩層が挟まっていて、挟みの部分で、EW・20°Sでした。
 沢の曲がり、標高1020m付近(【図-⑥】)では、凝灰質の粗粒~中粒砂岩層の中に、ラミナ(lamina 葉理)が認められ、風化面では縞模様(ストライプ)が顕著でした。標高1029m二股付近まで、粗粒砂岩層が続きます。
 右股沢を進み、標高1050m付近(【図-⑦】)では、凝灰質粗粒砂岩層に凝灰岩層(層厚5cm)が挟まっていました。明らかに青緑色を帯びたもので、緑色凝灰岩としても良いかもしれません。この後、沢は標高1070m二股で伏流しました。左股沢を詰めて、林道に出ました。
 林道(【図-⑧】)で、ゲンブ岩質溶岩(basaltic lava)を見つけました。
 林道(【図-⑨】)で、アンザン岩質溶岩(andesitic lava )を見つけました。
 林道(【図-⑩】)で、軽石凝灰岩(pumice-tuff)を見つけました。
 館ヶ沢へ林道を使って下山中、林道の標高1050m付近で、黒色泥岩層を挟む凝灰質粗粒砂岩層があり、境でN70°E・15°Sの走向・傾斜でした。(【図-⑪】)

ダム湖周辺の様子 》
 内山川の上流にあるダム湖周辺は、平成11年度に調査が行われています。(六川資料)
 ダム付近は、灰色~灰白色泥岩層(砂質シルト岩)が連続して見られ、ダム湖下流の二股から右股沢へと続いています。(唐沢Location -2と3)
 標高1000m二股付近で、凝灰質粗粒砂岩層が現れます。ここら辺が、泥相から砂相へと転換する地点で、館ヶ沢の標高985m付近に対応すると思われます。

 

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(再掲)館ケ沢~神封沢付近のルート・マップ


5. 館ヶ沢付近の化石

 当委員会に所属していた唐沢 茂 (からさわ しげる)先生が、平成10~12年度にかけて、前述の「細萱林道の沢」をはじめ、周辺地域の8箇所で採集した209個体の化石を整理して、『内山層産化石貝化石』と題して、佐久教育(第36号・平成12年度)に発表しています。内容の全ては紹介できませんが、化石についてまとめた内容と代表的な化石の説明を以下に載せました。
 全部で、27種類の貝(二枚貝19種類・巻貝8種類)を識別しましたが、種名まで同定できたのは、13種(二枚貝8種・巻貝5種)でした。内訳は、以下の「内山層産貝化石」のリストです。

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内山層産出の貝化石 (唐沢 茂 )

    《化石採集場所》
Location-1:館ヶ沢「ダム湖」の下流、標高935m付近(橋の南50m)

Location-2:館ヶ沢(本流)の標高970m付近

                                  (報告:館ヶ沢の【図-②】)
Location-3:細萱林道の沢、標高960m付近
                (報告:細萱林道の沢【図-①~②】)
Location-4:ワチバ林道の沢の標高965m二股付近
             (報告:ワチバ林道の沢【図-②】)
Location-5:大沼沢(本流)の標高940m付近
            (報告:大沼沢【図-⑥地点のわずかに下流】)
Location-6:大沼沢(本流)の標高870m付近
            (報告:大沼沢【図-②と③の間】)
Location-7:内山大橋の東側にある「草笛ドライブイン」の南側、

                              国道脇露頭、標高1010m付近(ちなみに、現在、                                                        草笛ドライブインは営業していません。)
Location-8:国道254号線の群馬県側、10号橋付近

 

《 化石産地と産状 》

 8産地(Location-1~Location-8)より、【内山産貝化石】の表で示す貝化石を識別した。
 貝化石は、灰白色の砂質泥岩(シルト岩)より散在して産出する。
 二枚貝は、合弁のものが多く、離弁の二枚貝も殻表は摩耗していないものが多い。
また、巻貝の殻口部も残っている。Loc.6からは黒色の泥岩より殻が溶解した離弁の二枚貝が、5個体得られたが、やはり殻表や咬歯はよく保存されている。したがって、これらの産地における貝化石の産状は自生的であると考えられる。
 なお、貝化石の種の同定は、上越教育大学の天野和孝助教授・・・・・〔*注-①〕のご指導・助言のもとに行った。

 

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内山層産化石(平成12年度・佐久教育)

 

【図版1】Solemya tokunagai Yokoyama
「トクナガキヌタレガイ」(産地;草笛ドライブイン横)
【図版2】Yoldia(Orthoyoldia) sajitattaria Yokoyama
 「ユナガソデガイ」(産地;大沼沢1080mASL転石)
【図版3】 Portolandia(Portolandella)  watasei (Kanehara)
 「ベッコウキララガイ」 (産地;草笛ドライブイン横)
【図版4】Macoma izurensis(Yokoyama)
「イズラシラトリガイ (産地;細萱林道の沢)
【図版5】Macoma optiva(Yokoyama)
「ダイオウシラトリガイ  (産地:舘ケ沢)
【図版6】Turritella fortilirata  chikubetsuensis Kotaka
 「チクベツキリガイダマシ」  (産地;舘ヶ沢)
【図版7】Euspira meisensis Makiyama
「メイセンタマガイ」(産地;細萱林道の沢)
【図版8・9】Acirsa watanabei Kanehara
 「オホーツクイトカケガイ」(産地;舘ヶ沢)

*スケールは、全て1cm
*クリーニングと撮影;唐 沢  茂


〔*注-①〕当時は准教授でしたが、その後、教授および副学長(平成28年)

 

《 貝化石についての説明 》

(1)Macoma izurensis(Yokoyama)「イズラシラトリガイ」【図版4】

 殻は長卵形で膨らみは弱い。殻頂は中央より、やや後方に位置している。前端は丸く、後端は細くなり、わずかに右に曲がる。殻頂から後方へ弱いひだがある。現生種の「ゴイサギガイ」(Macoma tokyoensis Makiyama)は後背縁が直線状であり、後端がより細くなることで本種と区別される。
本種は、中新世初期の滝の上層(北海道)、中新世中期の中山層(福島県)、福田層(宮城県)などからの報告がある。

 

(2)Macoma optiva(Yokoyama) 「ダイオウシラトリガイ」【図版5】

 殻は中型で卵円形。殻頂はほぼ中央で、後方へ弱い褶が出て多少右に曲がる。前縁は
丸くよく膨らむ。左右の殻の形が異なり、右殻の方がより扁平である。殻高/殻長比は、
78~92%程度の変異をもつ。(別表)
 本種は、日本各地、韓国、樺太カムチャッカ、アラスカの中新統から産出報告がある。
本調査地域からはMacoma属が多産し、上述の2種のほかに漸新統の浅貝層(福島県)から報告されているMacoma asagaienaia Makiyama、 Macoma sejugata Yokoyama
(アサガイシラトリガイ)や現生種のMacoma incongrua (V.Martens)(ヒメシラトリガイ)、Macoma tokyoensis Makiyama(ゴイサギガイ)、Macoma sectior Oyama(サギガイ)、Macoma praetexta(V.Martens)(オオモモノハナガイ)がリストアップされている。しかし、各種毎の形態の変異を考慮した上で、再度分類学的に検討する必要があるように思われる。

 

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(3)Portolandia(Portolandella) watasei (Kanehara)

         「ワタセベッコウキララガイ」

 合弁のものが1個体、左殻1個体が得られた。殻は横長の楕円形で多少膨らみがあり、前後端では狭く両側の間が開く。殻頂はやや前に寄る。前背縁はわずかに丸いが、後背縁は殻頂の近く以外はほとんど直線状。後端はやや切断状。殻表には細かな成長脈があるが、ほとんど平滑。腹縁は丸い。本種は北海道から九州までの漸新統~下部中新統から産出報告がある。【図版3-a・b】

 

(4)Yoldia(Orthoyoldia)sajitattaria Yokoyama「ユナガソデガイ」【図版2】

 右殻1個体と左殻1個体(転石)が得られた。殻は横長の卵形で扁平。殻頂は低く殻のほぼ中央に位置する。前縁は丸く、後背縁はわずかにへこみ、後端は上方へやや反っている。殻頂よりやや反った後端へ稜角が走り、細長の楯面がはっきりとている。殻表は平滑で弱い成長脈がある。本種は中新世初期の水野谷層(常磐)、五日市層(東京都)、赤平層(埼玉県)、常室層(北海道)などからの報告がある。

 

(5)Turritella fortilirata chikubetsuensis Kotaka「キリガイダマシ」【図版6】

 1個体が得られた。殻は高い円錐形。各螺層は直線状で膨らみは弱い。殻表面は強くて平坦な3本の螺肋とその上のやや弱い2本の螺肋で刻まれる。成長線は深く湾入する。
南佐久郡誌の図版(P1.11,fig.9)に掲載された Turritella tokunagai Yokoyama(トクナガキリガイダマシ)は各螺層の膨らみが強く、殻表面は3本の強い螺肋のみで刻まれていることで、本種と区別される。佐久市誌自然編にリストアップされ、北部日本の鮮新世から報告されているTurritella nipponica Yokoyama(オオエゾキリガイダマシ)は、殻表が太い螺肋とその上の幾分細い2本の螺肋で刻まれることで、本種と区別される。 本種は中新世初期の滝の上層(北海道)から報告がある。


(6)Euspira meisensis Makiyama 「メイセンタマガイ」【図版7】

 2個体が得られた。殻は球形で殻表面は平滑。体層は大きくよく膨れる。殻口は卵円形。へそ穴(臍孔)は細長く開き深い。本種は日本各地の中新統から報告がある。

 

(7)Acirsa watanabei Kanehara 「オホーツクイトカケガイ」【図版8・9】

 22個体が得られた。殻は小さく、殻高は、最大23mm。螺塔は高く円錐形。螺層は8以上で、各螺層の膨らみは弱いが、明確な縫合線で分けられる。殻表は、多くの顕著な縦肋と、低くて細かな螺肋によって刻まれる。体層の殻口付近は、縦肋が弱まり、螺肋と交わって顆粒状になっている。本種は中新世初期の水野谷層(常磐)から報告がある。

 

 【編集後記】

【 閑 話 】

 私も、学生時代に蝦夷層群(北海道の白亜系)の転石で見つけたアンモナイトの化石をクリーニングしたことがあります。堆積岩の薄片を作る傍ら、メノウで置換されて、あまりに綺麗なので「置物用」にいたずらした程度ですが、とても根気の要る作業でした。一方、産出してきた肝心な化石は、専門家に依頼して、言われるままに記載していたので、あまり化石には興味が湧きませんでした。

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メノウで置換されたアンモナイト化石(インターネットから)

 その意味でも、化石研究は緻密さと粘り強さが要求されます。また、採集した後の化石の整理・保存なども、大変そうです。さらに、化石の鑑定は、専門家でないと信憑性が薄いのが、私には好きになれなかった理由かもしれません。
 だから、草花や木々についての興味はあって、『綺麗だなあ、不思議だなあ』と愛ではしますが、植物分類となると苦手です。私は、どちらかと言うと、地学分野では堆積構造や構造発達史などに興味を覚えます。ただし、せいぜい地学同好家の範囲の話ですが・・。

 ところで、最近、農作業の前に「はてなブロク」を挙げる時間がなくなってきて、少々大変です。これから、畑に出かけます。 (おとんとろ)

佐久の地質調査物語-116

2. ワチバ林道の沢の調査から

 2000年9月15日(金)敬老の日、六川先生と二人で、コンクリート管の橋の下から沢に入りました。南に延びる林道が「ワチバ線」とあるので、沢の名称としています。
 橋のすぐ上流(【図-①】)で、玉葱状風化が見られる黒色泥岩層がありました。やや塊状で層理面は定かではありませんが、N20°E・30°Eのデーターを得ました。
 標高965m二股では、明灰色で、いくぶん剥離性のある灰白色泥岩(黒色が薄れて灰色~灰白色になる砂質シルト岩)が主体で、凝灰質暗灰色粗粒砂岩との互層が見られました。南東落ちに見えます。(【図-②】)(唐沢Location-4)

 標高985m二股の手前に堰堤があり、これを越えた後、南に延びる支流に入りました。黒色頁岩を主体に粗粒砂岩との互層部に続き、標高1010m付近では、同様な互層部が見られ、N60°E・5~10°Sでした。(【図-③】)
 標高1020m付近では、凝灰質粗粒砂岩層の上位に黒色頁岩層があり、4枚の凝灰岩層を挟んでいました。厚さは、偶然にも、下位から5・10・20・30cmと、次第に厚くなっていきます。その上に、再び、粗粒砂岩層が続いていました。(【図-④】)
 支流の沢を下り、本流に戻りました。標高998m二股付近(【図-⑤】)では、黒色泥岩層があり、N50°W・15~20°SWでした。

 ここから、南東に延びる支流を登りました。標高1060mの少し下から、凝灰質暗灰色粗粒砂岩層が現れ、標高1060~70m付近にかけて、目視できる断層と断層粘土が認められました。断層の延びる方向は、NSないし、N5°Eで、傾きは80°Wまたは垂直でした。ほぼ沢筋に沿っています。断層の延長方向が、ほぼ南北なので、東側と西側ブロックの対応関係を比べる為にスケッチをしました。それぞれの堆積層の走向・傾斜は、N60°E・10°SW(東側ブロック)と、N40°E・25°SW(西側ブロック)でした。しかし、黒色頁岩と凝灰質粗粒砂岩、場合によって火山砂の入った粗粒砂岩の互層の繰り返しでした。鍵層も、その他の特徴がなくて、両方のブロックの対応関係はわかりませんでした。(【図-⑥】)
 標高1070m+α付近(【図-⑦】)では、断層の形跡はなくなり、「軽石(pumice)が入り、扁平な最大長径30cmの黒色泥岩の礫を含む」礫岩層が見られました。図に表示はありませんが、N60°E・15°SEでした。
 少し上流の黒色頁岩層と粗粒砂岩層の境で、N20°E・20°Eを確認して、沢を下りました。そして、再び本流に戻りました。

 本流の標高1010m付近(【図-⑧】)では、黒色泥岩層で、N70°W・20°Nと、北落ちの走向・傾斜でした。
 しかし、上流の西から崖の迫る標高1025m付近(【図-⑨】)では、黒色泥岩層で、N20°E・20°Eとなりました。ところが、標高1035m付近(【図-⑩】)では、灰色中粒砂岩層を挟む黒色泥岩層との境で、N60°W・10°Nと、再び北落ちです。

 標高1050m手前から粗粒砂岩層が多くなり、1055mでは、軽石の入る粗粒砂岩が出始め、砂優勢の黒色泥岩との互層でした。(【図-⑪】)
 そして、標高1060m付近(【図-⑫】)では、軽石の入る厚い礫岩層-1(露頭幅15m、層厚は2.5~3m)が見られました。その上位は、凝灰岩層(3cm)/黒色泥岩層(10cm)/礫岩層-2(30cm)と重なっていました。
標高1070m付近では、軽石入り礫岩層-3(幅20m、層厚では3.4mほど)/凝灰質粗粒砂岩層/玉葱状風化の黒色泥岩層と、標高1060~1070mの間に、3層準の礫岩層(1・2・3)が認められました。(【図-⑬】)
 この後、同じ沢を下り、標高965m二股まで戻ります。

 そして、標高965m二股から南東に延びた後、南に延びる、寧ろ本流とも言うべき沢に入りました。入ってすぐの標高970m付近では、灰色泥岩層(砂質シルト岩)が見られました。この灰色泥岩は、神封沢の産状を見ても、ある層準に限られているように思いました。(【図-⑭】)
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 その後、しばらく露頭はなく、標高1030m付近(【図-⑮】)では、厚さ5cmの凝灰岩層を挟む凝灰質粗粒砂岩層(N30°E・5°SEとNS・20°E)がありました。図では、前者の走向・傾斜のデーターを採用しています。
 さらに沢を詰めますが、転石さえなく、ようやく標高1130m付近で、ゲンブ岩質溶岩(兜岩山のものらしい)を確認して、下山しました。

 ワチバ林道の沢の上流部・標高1060m~1070mの軽石(pumice)を多量に含む3層準の礫岩層の存在は、気になる情報です。西隣の神封沢の標高970m付近の礫岩層の不整合と共に、この辺りの地質構造を解釈する時の手がかりとなりそうです。

 

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再掲:館ケ沢~神封沢付近のルート・マップ



3. 細萱(ほそがや)林道の沢の調査から

 正式の名称ではありませんが、近くを林道「細萱線」が通っているので、細萱林道の沢と呼んでいます。天野先生には、佐久へ一泊していただき、二日目に入りました。
 林道の橋(トンネル)のすぐ上流に、大水ですぐに埋まりそうな堰堤があります。この堰堤から上流側で、二枚貝・巻き貝など多数の化石が見つかりました。(【図-①】)
 橋から水平距離で100mほど、標高960m付近で化石採集と観察をしました。当時、ここには堰堤がありませんでしたが、今は第二堰堤ができています。(【図-②】)
 全体的に塊状で、明灰色の砂質泥岩層ないしは細粒砂岩層(砂質なシルト岩)なので、走向・傾斜の測定は難しいですが、N70°E・60°Nと測定しました。
 私たちが観察した化石について紹介します。

(1)「イズラシラトリガイ」【Macoma izurensis     (Yokoyama)】(→採集した化石)
 学名は、Macoma(属の名)、izurensis(種の名)、Yokoyama(命名した人の名:有名な横山又次郎博士)の順番に付けられています。種名「イズラ・・・」のいわれは、茨城県の太平洋側の最北部、福島県との境(勿来関の跡)近くの五浦(いづら)海岸の地名からだそうです。

 写真のものではありませんが、殻長4.5cm×殻高3.0cmのイズラシラトリガイの中央部分に穴があり、他の生物に食べられた跡のあるものを、偶然にも見つけました。

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イズラシラトリガイの左殻と右殻

 

(2)「ダイオウシラトリガイ」 【Macoma optiva
   (Yokoyama) 】(→採集した化石) 同じMacomaですが、イズラシラトリガイよりも、いくぶん大きくて、殻長と殻高の比率が円に近くなります。専門的な分類では、上述の比率・左と右の殻の形・貝殻の模様・鉸歯(こうし:二枚の貝殻の蝶番のような役割)の様子など、さまざまな要素の組み合わせから決めているようです。しかし、少なくとも私にとっては、『弥生顔と縄文顔』のような印象で、貝の大きさと印象で理解しています。ただし、貝にも個体差があり、成長のどの段階かでも差があるので、正式な鑑定は、とても難しいです。

 内山層の二枚貝の化石の中で、この2つの種は、見つけやすく、また、保存状態が良いです。まるで、現世のスーパーで買ってきた蛤(ハマグリ・・・分類の広いグループ(目)では同じ)のように、貝殻が丸ごと、わずかに色彩まで残して産出することがあります。

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ダイオウシラトリガイ(堰堤の下)

 写真「ダイオウシラトリガイ」は、2016年10月9日、サイエンス倶楽部(東京都中野区・引率代表:佐々木聡美先生)の小学生の皆さんと調査した時のものです。みごとな化石床の中にありました。

 

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化石床(Macoma  Yoldia など)


(3)「フナクイムシ」の生痕化石

 フナクイムシ(Teredinidae・フナクイムシ科)の生活した跡(痕跡)がわずかに見つかりました。
 フナクイムシ(船食い虫)は、水中の木質に穴を開けて、棲息しています。しかし、単に水中の木材に穴を開けただけでは、すぐに周囲の木材が膨張して住み穴が狭まってしまうので、石灰質成分を壁面にすりつけて「トンネル」を作っているそうです。
(ちなみに、現代のトンネル工事の代表的な「シールド工法」は、木造船の被害の様子を見て、フナクイムシの行動を真似たものと言われています。)拙いスケッチがありましたが、偶然にも内山川本流で見つけたフナクイムシの化石(転石から)を載せました。

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フナクイムシ(内山川本流・転石)

(4)「ツキガイモドキ」 Lucinoma sp.

 貝殻の模様の中で、成長肋(せいちょうろく)の幅が広く、きれいに並んでいます。スケッチと写真(鮮明でない)もありますが、インター・ネットでの画像を拝借して載せてしまいました。
(産地は不明です。)

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ツキガイモドキ


(5)「キリガイダマシ」 Turritella sp.

 巻き貝です。正式には、腹足綱・キリガイダマシ科の中の「キリガイダマシ属」のひとつの種です。
 発見する確率は、かなり小さいですが、何人か複数で真剣に探せば、必ず見つかるぐらいの頻度です。

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キリガイダマシ(沢の露頭)

(6)「エゾバイ」 Buccinum sp.
巻き貝です。生物分類では、腹足綱・吸腔目・エゾバイ科の中の「エゾバイ属」のひとつです。
 北方系の要素を示す化石で、大変貴重なものだと言われたので、緊張して撮影しましたが、不鮮明で完全な姿ではありません。
 これらの化石種の組み合わせでは、この地域は、比較的浅い海底で、北方系すなわち、寒流が流れていたのではないかと、天野先生から説明を受けました。

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エゾバイガイ(沢の露頭・貴重)

(7)「ナギナタソデガイ」 Yoldia sp.
 二枚貝です。生物分類では、クルミガイ目・ロウバガイ科・「ナギナタソデガイ属」のひとつです。この沢だけでなく、調査地域の広い範囲で観察されました。写真「化石床」の中で、小さく、やや細長い形の貝が、ナギナタソデガイです。

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ナギナタソデガイ

 私たちが、この日、標高965m付近の主に左岸側露頭で観察できた化石は、以上です。
 化石研究は、化石をひとつ見つけたからそれでいいと言う訳では意義が薄く、より多くの資料を広範囲から集め、各個体差や種に着目すると同時に、頻度や平均値を出して全体的な傾向、化石種の組み合わせ等、大変なご苦労があります。(それ故に、私は少し敬遠ぎみです。)


 さて、細萱林道の沢は、もう少し登らなくてはいけません。

 標高990m~1000m(【図-③】)では、一部に黒色頁岩も認められましたが、全体は層理面がわかりにくい塊状の灰白色泥岩(砂質シルト岩)です。下流と上流で2つの走向・傾斜を求めましたが、層理面でなかった可能性もあります。N20°E・5°W(標高990m)、N30°W・20°NE、およびN10°W・5°W(標高1000m)でした。
 標高1027m二股で、沢は伏流しました。標高1040m付近(【図-④】)では、凝灰質の暗灰色粗粒砂岩を主体とする黒色泥岩との互層で、EW・20°Sでした。
 この後、沢を詰めると、標高1050m付近、および1100m付近(【図-⑤】)では、いずれも粗粒砂岩層でした。
 この後、下山しました。多忙な天野和孝先生は大学へ戻る都合もあり、この日の午後は帰宅されました。

 

 【編集後記】

 本文中の後半で、化石を多産する岩相を「全体は層理面がわかりにくい塊状の灰色泥岩・砂質シルト岩」としました。内山層の場合、黒色泥岩~黒色頁岩層の中にも、化石は認められますが、館ケ沢周辺では、「砂質シルト岩」が多いです。

 この同じ泥相の岩相でも、黒いか灰色かは、有機物が分解されずに残っているかどうかという堆積環境(酸素の有無)の違いにあります。比較的保存の良い二枚貝が多いのは、比較的浅海で、適度な埋没速度によって生物の遺骸が化石化していったのでしょう。

 特に、化石床を掘り起こした時は、まだ岩石に水分が十分にあって、貝の肋の一筋ごとが輝いて見え、感激しました。その昔、北海道の新第三系から「珪化木」を掘り出した時や、大日向の沢で「黄鉄鉱」の大きな塊を手にした次ぐぐらいかもしれません。

 何しろ、掘ったばかりは、ダイヤモンドや金鉱床のように見えます。(おとんとろ)