北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和3年 皐月の句(5月に殖えたもの)

 【 皐月の句 】

① 築山に 山百合殖えて さき楽し

② 石楠花(しゃくなげ)を 伝ふ滴に 音は無し 

③ 山藤の 山肌粧(よそお)ふ 絹衣     

 

 一時期、長野県下では新規コロナ・ウイルス感染者が、県全体で1日・48人(5月23日)と増えた事もあり、佐久地方でも警戒レベルが上がったが、比較的、早く治まったので、定例俳句会を開いた。
 私は、初夏と共に、5月に「殖えたこと」をテーマにしてみた。捜してみると、次々に題材があつまり、提出した3句の他に5句も出来た。ただし、出来の具合は怪しいが、それだけ、日常に感動のあった5月であったのかもしれない。


 【俳句-①】は、知らぬ間に「ヤマユリ」の株が、庭の築山や路地に殖えたので、花の咲く真夏を楽しみに、大事に管理している様を詠んだ。

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築山の庭石にもヤマユリが殖えた

 秋になると、ヤマユリ(山百合)は、めしべの子房部分が茶色く変化した「朔果」と呼ばれる所に、種子ができる。まるで小さなコイン(金貨)が、ぎっしりと積み重なったような形態で、この種子が散らばって殖えていくようだ。
 だから、知らぬ間にではなく、注意していれば、芽生えが観察できたのだと思う。
 一方、根付いたヤマユリは、百合根という球根ができて、翌年には、こちらからも芽生えていく。ただ、肥料を与えないせいなのか、見学した百合園から購入してきた百合の園芸種は、毎年、小さくなっていってしまった。
 今年、芽生えたヤマユリは、大事に管理して、数株は、8月1日のお墓参りの花として、献花したい。

 

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山百合の花



 【俳句-②】は、庭の石楠花(シャクナゲ)の花に、霧雨が降った後、雨粒が垂れていく様子を詠んでみた。
 石楠花は、本来は高山植物であるが、私の父が若い頃、八ヶ岳山稜から持ち帰り、庭に植えたものらしい。
 何年周期という正確なデーターはないが、明らかに、花が盛んに咲く年がある。今年は、その年度に当たっているらしく、2株とも、見事に花を咲かせた。
 霧雨の後、庭に出てみると、クチクラ層の発達した葉から、雨の滴が垂れていた。物理的に、雨粒が垂れる音は聞こえないと思うが、『音は無し』と表現してみた。

 我が家は、佐久盆地の西端の山裾に位置するので、閑静な所だ。ただ、正確に言うと、中部横断自動車道が出来たので、耳を澄ませば、自動車の加速音が、わずかに聞こえてくる。

 

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庭石に添う石楠花の花


 【俳句-③】は、農作業を終えて自宅への帰路、軽トラックから新緑の山肌の中に、淡い薄紫色の山藤(ヤマフジ)が麗しく見えた様を詠んだものです。
 遠目に里山の雑木林の中の山藤の色合いが、なぜか艶めかしい女性の下着、しかも、西洋的なものではなく、和風の「襦袢」のようなイメージで感じられました。下着の色は、白が一般的ですが、薄紫色も、またいいものです。
 それで、襦袢では露骨過ぎるので、絹の衣(ころも)と洒落てみました。
 私は、普段、こういう俳句はあまり創作しないのですが、俳句会で披露すると、会員から多くの推薦票をいただくこととなり、びっくりしています。
 ただ、中句の「粧う」は、「装う」でよかったかなとも思います。山藤とて、お化粧をした訳ではなく、ただ懸命に綺麗な花を咲かしている自然の営みに過ぎないはずなのです。

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山藤(ヤマフジ)の花

 【5月に殖えたもの(追加版)】

(ア)赤松の新芽が殖えた。そこで、一句 

 『松の芯 百年民家 黙し見ゆ』
 我が家は、今年の秋で、築101年を迎えます。赤松の歴史は、その内の半分強の60年ほどですが、庭から家屋を静かに見守ってくれています。
(赤松の新芽の芽生えは、5月初旬でしたが、松の芯は、春の季語です。)

(イ)雀の囀りが増えたように感ずる。
 『雀殖え 我を目覚ます 初夏の四時』
 番(つがい)の雀が、我が家の近くに新たに住み着いたのか、朝の鳥の囀りに、雀の鳴き声が加わった。

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赤松の新芽(松の芯)



【編集後記】

 5月にと言うより、今年度、意図的に殖やしたものは、アスパラガスの苗である。

【下の写真】のように、小さなポットに市販のアスパラの種子を蒔いて、温室でしばらく育てた後、外に出した。失敗するかもしれないと、2回に分けて挑戦したので、合計48ポット(先)+36ポット(後)、84ポットとなった。これらを、やはり2回に分けて、山の畑に定植した。 

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アスパラガスの苗を育てた(24ポット×3.5=84ポット)

 これには、次のような苦労話がある。

 まず、アスパラガス栽培のきっかけは、好きだからという理由だが、加えて、買い物の折、スーパーで価格をみたら、他の野菜類に比べてかなり高い。これなら、自分で栽培して食べようということになった。

 初年度は、苗を購入してきて植えたが、次の年からは、種を蒔いて育てることにしたが、失敗した。ようやく、3年目から蒔く時期、管理方法がわかり、次々と畝を増やしてきた。そして、念願の「好きなだけ食べる」という夢が実現できた。

 ところが、肥料が少なかったのか、弱り出してきた。慌てて追肥や土壌改良をしたが、間に合わず、加えて害虫被害が出始め、ついに昨年度は、最後に定植した一列を残して、全滅した。食べたのは、数本という悲劇だった。

 家内は、カラマツ林も近く、午後の日差しの少ない環境だから、日照時間不足だと言うが、それも事実だが、明らかなのは、「ジュウシホシクビナガハムシ」が殖えてきてたことが原因と思われる。数年前から、少しずつ被害が出ていた。

 星の数を数えたことはないが、14星というらしく、首も長いのが特徴の葉虫という名前が付いている。ジャガイモに付く「ニジュウホシ・テントウムシ」を毎日、つぶして回るのと同じように、気づけば手でつぶしていたが、ダメだった。

 

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ジュウシホシクビナガハムシ

 インターネット情報では、『 長野県内では山間の山沿いの畑に発生が多く、各地で被害が目立つようになった。・・・春先萌芽を始めると、越冬成虫が逐次固場に移動してきて、寄生し食害を始める。・・夕方になって気温が低くなると、下にくだって土塊の間や茎の切りあとの間隙に入ってしまう。

 食害されると茎は曲がったり、上部の加害部がへこんで変色したりして、次々に萌芽するアスパラガスが加害されるので、被害は大きい。
 ・・・・成虫は体長7~ 8 mmで全体が赤橙色で、14個の黒点がある。幼虫は頭部が黒色で体全体が灰褐色をしている。 3対の脚で動きまわる。』とある。

 これなら、一旦、畑を全滅させようと考え、アスパラガスの地下の根の大きいものだけ少し残し、一列を残して、害虫を見かけなくなってから、畑を白紙状態にした。

 そして、新規に84ポット(本数は、更に多い)を定植した。だから、今年採れて食べたアスパラガスは、たった一本だけだったが、来年は・・・・・と希望を抱いて、畝の除草をしています。(おとんとろ)

令和3年・奉燈俳句

 【倉沢薬師・奉燈俳句】

 

   夏空へ 届け薬師の 鐘聖し

 

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令和3年度 奉燈俳句の俳顎

 【奉燈俳句】は、夏に「東京オリンピック大会・パラリンピック大会」が無事に開催できますようにと、薬師堂の鐘楼に登って鐘を突いては祈ったことを詠んでみた。
 初冬から早春にかけての農閑期には、午後3時を少し回った頃から、寒風の日でも、1時間ほどの散歩に出かけることを日課としていた。そして、帰宅してから、我が家と隣接する薬師堂の鐘楼に登っては、『無事に東京五輪が成功しますように!』と、梵鐘を三回突いて、祈った。時刻は午後4時半前後となろうか。
 季節の移ろいの中で、日没時間は始めは早まり、その後は少しずつ遅くなってきたので、ほぼ同じ時刻でも、江戸時代の寺院のように「刻を報らせる」合図にはならなかっただろうが、近隣の人々は夕暮れの梵鐘の音を聞いていた。風流と感じた人より、迷惑であった人の方が多かったかもしれない。
 その音を『鐘聖し』と表現したのは、東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会の会長・橋本聖子氏よろしく、大会の聖火をイメージしたからだ。ちなみに、橋本聖子さんは、東京五輪大会開会式(昭和39年10月10日)の5日前に、北海道の橋本牧場で生まれたので、聖火に因んで名付けられたと言う。昭和59年サラエボ冬季大会から平成8年アトランタ夏季大会まで、スピード・スケート競技と自転車競技の2種目で、合計7回もの大会に選手として出場しているスーパー・ウーマンでもある。

             *   *   *

 さて、今年の7月23日(臨時の祝日「スポーツの日」)には、第32回東京オリンピック大会の開会式が予定されている。本来は、昨年の7月23日(同じく臨時の祝日)に開催されるはずだったが、新型コロナ・ウイルス感染の世界的大流行(Pandemic)のせいで、一年先送りされた。それでも、流行は治まらず、数ヶ月先に迫った大会開催さえ危ぶまれている。運営方法の制限だけではなく、大会中止を叫ぶ世論調査結果さえ出てきている。
 『それは無いでしょう』というのは、私で、もちろん大会推進派である。投資還元や経済に配慮した立場ではないが、何が何でも開催を叫ぶ狂信派でもない。
情報は冷静に把握して、心を痛めながらも、大会の成功を願う一国民である。

 ただし、私自身が、心理学で言う「正常性バイアス」の意識であることは事実である。危機の可能性についての情報を得ていても、『第18回東京大会を前にして亡くなった池田勇人首相に代わり、佐藤栄作首相が無事に成し遂げたように、持病の悪化で退陣した安倍晋三前首相から、バトンを受けた菅義偉首相が立派に乗り切ってくれる』と、期待している。
 私が、コロナ禍とは比較的縁の薄い田舎に住み、しかも、人と接する現場を離れた野良仕事ぐらいの状況にあるからかもしれない。
 しかし、これらの思い込みに似た状態は、新たに発生した物事を正常の範囲だと、自分に言い聞かせるような、自動的に認識する為の心の働き(メカニズム)だと言う。・・・だから、あまり強硬な発言は控えておこう。 

 ところで、昨年の奉燈俳句は、『瑠璃色の 五輪待つ空 燕交ふ』でした。
 コロナ禍で、2020東京大会が、丸一年延期されることなりました。そうなると、『1年後の晩春から初夏には、大空を燕が飛び交い、数ヶ月後の開催を、楽しみに待っているだろうな』と想像して、五輪大会開催への願いを込めて詠んだものです。まさに、二年越しの祈願を込めた奉燈句となってしまいました。


 【編集後記】

 奉燈俳句の額が出来上がり、快晴だったので4月20日の朝、H会長に電話を入れたら、『もう少し後でも良いかな』との返事でした。一方、4月26日の朝、突然に電話が入り、『風が強くてビニール・ハウスの修繕ができないので、今日やろう』ということになりました。私たち「みゆき会」は、こんな感じで、運営されています。
 令和になってから、薬師堂奉燈俳句の額は、私が担当しています。皆で俳画を描いたり(平成28年~30年)、墨書を書道家に依頼したりしてきましたが、90歳を越えるスタッフの皆さんの限界宣言から、私にお鉢が回ってきました。真実の実態は、やればできそうな人はいますが、最若手の私が引き受けると万事うまく治まるようだ。
 私も、『裸の王様』ではないから、自分の実力の程は、わきまえている。俳画を描くことも、墨書することも負担ではないが、優れているとは思っていない。それでも、敢えて挑戦してしまうのは、前向きな性格なんだと、呆れてしまう。

 奉燈俳額を掲げた後、これまで会から依頼されて墨書を担当していた、みゆき会員の夫で書家の玉峰氏が、鐘楼下の作品を見に来てくれた。偶然にも、私が外に出ていて、お会いすることができた。
 『若い人が伝統を引き継いでいてくれるので、安心しました』と、俳額の奉納を喜んでいただけた。何にも増して、励ましの言葉でした。(おとんとろ)
     

 

令和3年卯月の句(春の子ら三題)

  【卯月の句】《春の子ら三題》

 ① 警泥の 泥ら駆けてく 日永かな
 ② 姉を追い 春の風切る ヘルメット
 ③ 花は葉に 仔犬散歩の 似た姉妹   

 

 少人数での「定例俳句会」ではあるが、新型コロナ・ウイルス感染拡大の影響で、令和3年になってから1月、2月と2度も中止としたが、3月には開催できたので、4月も敢行することした。と言うのも、月遅れの「倉沢薬師堂花祭り」に向けて、奉燈俳句・俳額の製作という大切な恒例行事があるからだ。
 4月14日に南区公民館で、全員が参加して、令和3年度「みゆき会」が発足した。幸先の良いスタートである。

 私の4月の俳句は、佐久地方の学校の春休み中に見聞きした、伸び伸びとした子供らの姿を題材にしてみようと思った。

 

 【俳句-①】は、通称「警泥(けいどろ)」と呼ばれる「鬼ごっこ遊び」に興ずる子供らを応援するように、日が延びていく嬉しさを詠んでみた。
 春休み中の児童館で、子供たちが「警泥(警察と泥棒の略)」遊びをしていた様子を、『最近の子供って、弱い子に優しいんだね』と、私の家内が神妙な面持ちで、次のようなエピソードを語ってくれた。
 かけっこの遅い子が「警」になると、「泥ら」を、いつまでも捕まえられなくなってしまい「警」の子が可愛そうだ。そこで、『タイム』が掛かり、足の速い子が抜擢されて「警」になる。すると、「泥ら」は面白いように捕まって、留置場は、すぐに「泥ら」でいっぱいになる。家内は、最後は笑いながら、事の一部始終を話してくれた。

 ふと、自分の幼い頃の「かくれんぼ遊び」や「缶蹴り遊び」の思い出が蘇る。
鬼になった子が、何度も鬼を繰り返し、最後は泣いて自宅に逃げ帰ってしまったことがあったことを!

 ところが現代の子供は、正義とかルールとか言う前に、現状で困った子がいたら、途中でルールも改正して、皆で仲良くやっていこうという処世力学が働いているようだ。家内は、その点に感動して、私に伝えてくれた。
 私も、学校教育の影響力があるだろうことは理解できる。
 ところで、『泥ら』という響きが、外国語のようでもあり、未知の言語のようでもあり、妙に新鮮に聞こえて、印象に残った。
 それで、子供らの遊びの描写に、「DORORA」を使ってみようと発想した。
 季語としては、日増しに昼間の時間が長くなり、暖かな日差しが溢れる『日永』が、ふさわしいと考えた。

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ごっこ遊びのイメージ


 【俳句-②】 は、春風を切って自転車走行をする子供らの様子を詠んでみたのだが・・・。私の俳句の特徴で、解説を加えないと、描写した背景がわかってもらえないようだ。
 会員から直される前の俳句は、『ノーヘルの春の風切る笑い声』であった。

 小学校低学年の妹は、校則を守り、ヘルメットを被っている。一方、姉の方は、春休みの開放感からか『ノーヘル』で、農道を自転車で併走する友人と、何がおかしいのか、高笑いをしながら、滑るように自転車を走らせていった。
 ところが、妹の方は、変速機の付いていない自転車なので、ペダルを必死に漕いで、姉たちを追いかけて行くのだ。

 私が、そんなエピソードを語ったら、ある会員から、『俳句では、意味のわかり難い略語は厳禁です!と、厳しく指導する先生もいますよ』と、指摘が入った。
「ノーヘル」は、ヘルメットを着用していない「ノーヘルメット」のことだが、好ましくないらしい。それで、姉とその友人の高笑いの情景より、二人に追いつこうとして必死にペタルを漕いでいた妹に、敢えて「ヘルメット」を被せた作品に作り直してみた。
 元々、感動して表現したかったのは、健気な妹のペタル漕ぎの姿だったので、私としては異論はなく、ほぼ満足である。

 ところで、人は、長男・長女であった人と、その弟や妹であった人とで、性格や考え方、他人との対応の仕方など、ずいぶん違う傾向があるという話を聞いた。
 実際、変速機付きの新しい自転車に乗る姉と、多分、姉の乗った後の「おさがり」の自転車に乗る妹の姿を見比べると、兄弟姉妹という小世界の中でさえ、不平等さが、あると思った。
 長男である私は、男の子を大事にする旧来思想の残る田舎で幼児期を過ごしたので、家族ばかりか、地域社会からも、妹と比べて段違いの特別扱いを受けていたと思う。今の、この年齢になって、そのことを振り返る。
 しかし、それを「差別だ区別だ」と騒ぐ以上に、兄弟姉妹の間の愛情があれば、ある程度、宿命的な条件として、互いに折り合いをつけて付き合っていくのも、これまた、幸せへの道筋なのかもしれないと思います。

 

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花から葉桜の季節へ

 【俳句-③】は、仔犬散歩の子に出会った時、それぞれの「生き物」としての宿命的な速さのレベルで、展開していくことに感動して、詠んだ俳句です。
 どうやら、この俳句も、私独特の飛躍があり過ぎて、解説が必要なようです。
 近所のHMさんの子供の姉と弟が、仔犬を散歩させていた。弟は鎖を持たせてもらえずに姉に附いていくだけで、少し不満もあるように見えた。
 ふと、我が家で飼っていた犬たちと、家族のことを思い出していた。母犬(テリー犬)が、4匹の子犬を産んだが、2匹の雄(♂)犬は子犬の時にもらわれて行き、雌(♀)犬2匹が残った。
 その後は、母犬を含めて3匹の犬たちを散歩させる度に、家族の誰が、どの犬の鎖を取って連れて行くかを争ったものであった。

 愛犬飼育は子ども特有の願望のようで、隣家のMMさん宅の子供さんたちも、3人の内、誰の発案かわからないが、犬を飼い始めた。

 一方、桜木は年輪を重ねていくが、基本、一年周期で改まり、春夏秋冬を繰り返す。厳しい冬を経た蕾は、春の日差しを浴びて一斉に咲き出したかと思えば、見る間に散って、葉桜の季節となる。夏から秋は、人々から注目されることもなく、樹齢を重ね、次年度への準備期間に入るのである。

 しかし、動物であるヒトとイヌは、桜と大きく違っている。寿命の差から、子供の頃に育て慈しんだ愛犬は、人が成人した頃には、老犬となって亡くなることも多い。犬の成長は、人間の6~7倍と言われている。

 直接見たのは仔犬散歩の姉弟だが、そこに我が家の姉妹らの犬へ愛情を注ぐ類似した思いを感じたので、『似た』という言葉を使った。

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長生きしたエル犬と成人した娘

 MHさんの子供たちも、私の娘姉妹が成人して結婚し、母となって行ったのと同じように、花から葉桜への移ろいを何回か重ねると、大人になっていくんだなと思い、昔のことが懐かしくもあり、現代の子供らの勢いにも感動した。

 

【編集後記】

 俳句シリーズは、久し振りです。雨降りの日が続き、農作業ができないので、俳句のまとめをする機会ができました。令和3年度の4月~7月を、「はてなブログ」載せていきたいと思います。

 私は、定年退職後、8度目の4月を迎えました。俳句の「みゆき会」には、3年目の4月に入会を誘われて、5月の会から参加したので、卯月(四月)の俳句を作るのは、今回で5回目になります。ちなみに、年度別に選んだ「季語」を振り返ってみると、

(ア)平成29年:里桜/山桜/花藥師

(イ)平成30年:春惜しむ/蕗のとう/甘茶仏

(ウ)令和元年(正確には、平成31年):春選挙/チューリップ/すみれ草

(エ)令和2年:猫の恋/初音/蕗の花

(オ)令和3年:日永/春の風/花は葉に   ・・・・でした。

  登山の折り、途中の尾根で休憩して振り返った時、自分の歩んできたルートを見ると、思わず嬉しくなるのと同じ心境です。ただ、大きな違いは、作品の出来映えには、課題が多いなあと、思うことでしょう。

 会の何人かの先輩からは、『平均年齢81歳の小さな「みゆき会」で満足しないで、立派な指導者のいる会に入って、勉強してみませんか』と促されますが、『私の専門は地質学なので』と断ります。上手に俳句を作れるようになりたいとは思いますが、月に一度の句会の度に、かなり苦しみながら三句を、ようやく作って参加している状態なので、趣味の範囲で構いません。(おとんとろ)

 

  

佐久の地質調査物語-133

雨川水系の沢

9. 仙ヶ沢の調査から

 平成16年8月11日、愛犬エルと一緒に、仙ヶ沢に入ることになりました。地質情報誌に、仙ヶ沢で「熊棚」を見つけたとあり、家内の『エル犬を連れて行けば』という提案を受けて、首輪に鈴を付けてお供させることになりました。綱を外して自由にさせておいても、私が呼べば必ず戻ってくる犬なので、里山とは言え、単独行より心強い。
 他の3匹の犬と共に平成10年10月10日に生まれ、平成27年1月10日に16歳3ヶ月で死んだので、この時は、エル犬(♀)も、5歳10ヶ月と若かった。

 

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仙ヶ沢のルート・マップ【日本の海から一番遠い地点】

 

 (注)正式な沢の名称がわからないので、私たちが「滝ノ沢林道の沢」と名付けた沢の下流部近くで、「仙ケ沢」は合流している。寧ろ、仙ヶ沢が主流であるかもしれない。いずれにしろ、沢の各地点については、上のルート・マップを見て欲しい。

 尚、本文中にも出てくるが、仙ケ沢の支流の「判行沢」を詰めると、『日本の海岸線から一番遠い地点』に到達できる。林道があるので、山歩きがてら訪れる人もいるようです。

 滝ヶ沢林道の橋、標高965m付近(【図-⑥】)から、沢を離れるようにして、林道は尾根の標高沿いに延びています。仙ヶ沢の【図-①】から林道沿いに「日本で海岸線から一番遠い地点」の碑(【図-⑦】)まで調査して、林道を途中まで下山しました。その後、標高950m堰堤の少し上流の二股から、滝の下(【図-⑫】)まで調査しました。

 滝ヶ沢林道の【図-①】では、熱変質した灰白色中粒砂岩層が見られました。標高に沿う林道のコーナー(【図-②】)では、閃緑岩(diorite)が見られました。仙ヶ沢の沢底から標高差で30mあり、標高1000mほどです。

 林道の標高1010m付近(【図-③】)では、熱変質した灰白色泥岩と灰色中粒砂岩の砂泥互層で、走向・傾斜はN60°E・10°Sでした。林道の南側に振るコーナーでは、同質の砂泥互層で、N30°W・10°Sでした。(この下に、閃緑岩(diorite)でできた、推定で落差10m以上の大きな滝がありました。少し大変そうなので、帰路に確認することにして、先に進みました。)

 標高990mほどで、林道と沢が併行するようになります。全体は、熱変質した灰白色泥岩ですが、砂泥互層となる露頭(【図-④】)をみつけ、N70°W・10°Sの走向・傾斜を測定しました。
 南から流入する沢との合流点から少し下流、標高1000m(【図-⑤】)では、熱変質した灰白色泥岩層が見られました。ここから上流へ、同質の泥岩層が観察できました。
 標高1080m二股で、熱変質した灰色中粒砂岩層が見られ、二股を右股へ、南東方向に進みます。小さな沢との合流点(標高1110m・1120m・1155m付近)では、熱変質した灰白色泥岩層~細粒砂岩層がありました。広範囲に渡って熱変質があるのに、熱源となった露頭が見つかりません。

 この沢の関係では、唯一、遙か下流【図-⑥】で、閃緑岩(diorite)が見られた程度です。玢岩の岩脈露頭も、なぜか見られませんでした。

 標高1200m(【図-⑮】)に、「日本で海岸線から一番遠い地点」の碑が立ってしました。【下の写真】

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日本の海から一番遠い地点の標識

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説明板(当時は、南佐久郡臼田街/現在は佐久市

 位置は、「北緯36°10'25''、東経138°35' 01''」で、日本海と太平洋の海岸線から、約114.858km離れているとの説明がありました。一人の大学生の投げかけた疑問に対して、国土地理院のコンピューターが検索した結果だそうです。発表された平成8年(1996年)当時は、長野県南佐久郡臼田町(現在は佐久市)に所属する山奥でしたが、群馬県甘楽郡南牧村との県境から、西へ100mほどです。
(4カ所の海岸線・港からの数値は、「雨川水系の主な沢」の図福に記載しましたので、参照してください。)

 ここに着いた時は、エル犬と私だけでしたが、お昼を食べていたら(11時40分頃)、年配の男性(立科町在住)が一人で登って来ました。そして、コンビニ弁当を日本酒カップで食べているのを見て、定年退職後は、「こんな散策もいいな」と思いました。その後、林道を使って堰堤まで下山しました。
            *   *   *


 標高950m付近の堰堤まで戻り、すぐ上流の二股から仙ヶ沢に入りました。
 標高960m付近(【図-⑧】)では、熱変質した灰白色泥岩層の中に、同質の礫と砂岩塊がわずかに含まれていました。(一部、二次堆積があったか?)
 標高965m付近(【図-⑨】)では、閃緑岩(diorite)(下流側)と、熱変質を受けた灰色中粒砂岩層(上流側)が接触している露頭がありました。
 標高975m付近(【図-⑩】)では、熱変質した中粒砂岩層の中に、比較的、層理面に沿う、軟着陸タイプのコングロ・ダイク(2.5m×3.0m)が認められました。礫種は、やはりチャート礫は無く、砂岩の礫がほとんどで、黒色頁岩片は少なかったです。

 標高980mから995m(【図-⑪】)にかけて、両岸から岩盤が迫り、クランク状の渓谷になっていました。全体は熱変質した灰色中粒~粗粒砂岩層で、中間に露頭幅10mの熱変質した灰白色泥岩層を挟むものの、砂相です。そんな岩相を反映して、沢底は連続露頭になっていました。

 標高1005m、北東に延びる沢と仙ヶ沢本流との合流点(【図-⑫】)です。全体で、4段の小さな滝が連なり、本流の沢は南に延びていました。参考値NS・8°Eの走向・傾斜の熱変質した灰白色泥岩層が、階段状に小滝を形成しています。滝の先の上流部は、午前中に林道の上から簡単に観察した閃緑岩(diorite)が見られるはずです。これらをすべて合わせて、落差10m以上になります。

 ところが、危なくて登攀できないような小滝ではなかったのですが、途中の2段目で沢に落ちて、全身、特に下半身が、ずぶ濡れになってしまいました。こうなると、急にやる気が失せてしまいました。しばらく私の周りから離れていたエル犬を大きな声で呼ぶと、しばらくして鈴の音と共に、やって来ました。とても安心しました。『帰るか、エル』と、帰宅することにしました。

 

 《滝ヶ沢林道の沢と仙ヶ沢で、

       共通することから》

 滝ヶ沢林道の沢の渓谷(標高1000m付近)と、仙ヶ沢の渓谷(標高995m付近)は、熱変質した泥岩層で、沢がクランク状に湾曲しているという共通項があります。
 また、上流にはケスタ状の小滝(滝ケ沢林道の沢)と、4段の小滝(仙ヶ沢)が続き、共に流路を変える二股がある点も似ていて、さらに地質構造も、N5°E・10°E(林道の沢)に対して、NS・8°E(仙ヶ沢)であるので、ほとんど同じと見て良いかもしれません。もっとも直線距離で、500mも離れていないので、同一層準か、似た熱変質条件であったのかもしれません。
 ところで、情報がそろってくると、「滝ヶ沢林道の下流側の砂相の部分が内山層上部層であり、渓谷の辺りに断層がある」と解釈することが、合理的となってきました。【下の図】

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仙ヶ沢と地獄沢付近の地質図(特に、断層に注目してください)

 滝ヶ沢林道の沢では、小規模断層証拠がありましたが、仙ヶ沢では見あたりません。仙ヶ沢【図-⑩】~【図-⑪】間、および尾根の林道の【図-②】~【図-③】間が、推定断層の通過していそうな候補地です。
推定断層は、落差(西側が下がる)もありますが、右横ずれ的要素の大きい断層で、北に向かい落差・横ずれともに解消していくので、証拠は残していないかもしれません。
 仙ヶ沢「4段の滝」の観察が途中だったので、再調査の必要が、あるのかもしれません。再び、知的好奇心に火をつけ、地質調査に挑戦してみますか。

 

【編集後記】

 本文の最後に、小滝からの滑落(正確には、滑り落ちた程度)で観察を断念した地点を含み、推定断層の通過の証拠を捜しにいこうと述べていますが、その後は、訪れていません。

 実地に地質調査をしたことのある人ならお分かりかと思いますが、余程、特別な場所か、どうしても証拠が欲しい地点でないと、広範囲の調査地域を対象とした場合、なかなか二度目の踏査ということは、物理的にもできません。まして、年齢と共に、単独で山に入るという気力も体力も無くなってしまいます。

 

 ところで、令和3年度になってからの俳句が、まだ、一度も「はてなブログ」に登場していないので、4月・5月・6月・7月の俳句を載せようと思います。

 それで、しばらく佐久の地質調査物語は、中断してます。次回からのシリーズは、『中部域の沢』になります。

・・・今日も雨降りです。やはり、田畑に出て太陽を浴びない室内だけの生活は、気持ちが、滅入ってしまいます。それ以上に、新聞やテレビ、インターネット情報を通じて入ってくる大雨による水害や土石流での被害には、胸を痛めております。

 私の住む地域も、2019年(令和元年)10月の台風19号では、大変な水害に見舞われました。江戸中期の「戌の満水(1742年)」に匹敵すると言われましたが、多くの場合、県内や佐久を取り巻く山岳地帯に囲まれ、東・南・西からの強風や雨雲がやってきても、山岳地帯が壁となって、かなり守られているようです。北は浅間山ですが、こちらからの雨雲侵入は、あまり考えられません。

 『みんな、佐久へ引っ越しておいでよ』と言いたいところですが、冬は寒過ぎます。それに、都会から実際に引っ越して来た方が、『夜になると、虫の音がうるさくて、せせらぎの水音が気になって眠れない』という理由で、元の都会生活に戻ったという話も聞きました。やはり、人は、長年その地に適応した生き方を、選んでしまうのでしょうか。(おとんとろ) 

 

佐久の地質調査物語-132

雨川水系の沢

8. 滝ヶ沢林道の沢の調査から

 森林地図によると、「滝ヶ沢や地獄沢」は、沢を含む森林区分に付けられた名称です。また、「仙ヶ沢と判行沢」も、同様な理由で森林区分の名称です。だから、水系としての沢を表していないので、私たちが使用するには不便です。そこで、地獄沢方面まで延びている林道名を採用して、「滝ヶ沢林道の沢」と呼ぶことにしました。また、標高950m二股からの左股沢は、「仙ヶ沢」と呼ぶことにしました。
 そうすると、「日本の海から一番遠い地点」の碑は、滝ヶ沢林道の沢の支流(左股沢)・仙ヶ沢の最上流部にあると表現すれば良いことになります。(下図【滝ヶ沢林道~仙ヶ沢のルートマップ】を参照)

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「滝ヶ沢林道」の沢のルート・マップ(仙ヶ沢との兼用)

 平成16年梅雨入り前の6月5日、不老温泉の橋の下から雨川本流に入り、合流点から「滝ヶ沢林道の沢」を調査しました。沢の標高1000m付近は、両岸が流水で激しく削られ渓谷となっていました。全体的に、玢岩による熱変質の影響を強く受けていました

 不老温泉(ふろう)の橋の下(【図-①】)では、熱変質した灰白色泥岩~細粒砂岩で、【図-②】では、閃緑岩(diorite)が見られました。
 合流点から沢の中を進み、標高935m付近(【図-③】)では、熱変質した灰白色泥岩層が25mに渡り分布していました。すぐ上流に、閃緑岩(幅25m)が見られました。
 標高940m付近(【図-④】)では、熱変質した灰白色泥岩(N50°E・20°NW)が2つの小さな滝を形成していて、その間に「十文字」を成すコングロ・ダイクが認められました。

 走向に沿うもの(幅30~40cm×長さ8m)と、直交するもの(40cm×6m)が交わっていました。滝の下流2.5mにもコングロ・ダイク(30cm×2.5m)がありました。

 標高950m付近に堰堤(高さ3.5m)があり、その上流へ水平距離15mで、仙ヶ沢に分かれる二股です。共に熱変質した灰白色泥岩(主)に、灰色砂岩(従)が入る砂泥互層が見られました。
 標高960m付近(【図-⑤】)では、熱変質した灰色砂岩層の中に、2つのコングロ・ダイク(東側:15cm×2.5m・N60°W・垂直/西側:5cm×1m)が見られました。
 林道の橋、標高965m付近(【図-⑥】)では、熱変質しているが中粒と粗粒砂岩の層理面が顕著で、走向・傾斜はN50°E・20~30°NWでした。ここで、林道は2つに分かれ、ひとつは本流から地獄沢方面へ、もうひとつは、仙ヶ沢の「日本で海岸線から一番遠い地点」の碑まで延びています。
 滝ヶ沢との合流点、標高975m付近(【図-⑦】)では、熱変質の影響は少なく、暗灰色細粒砂岩層や砂泥互層、黒色泥岩層が見られました。
 標高985m付近(【図-⑧】)では、暗灰色細粒砂岩~泥岩と灰色中粒~粗粒砂岩層の互層がみられ、N40°W・5~20°NEでした。風化すると黄土色となり、累帯構造に似た縞模様が現れるタイプの凝灰質な砂岩です。(岩相から、内山層の上部層のように思いました。)
 東に振れた沢が南に戻り始める標高990m付近(【図-⑨】)から、玢岩(porphyrite)が出始めました。

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クランク状になった渓谷

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クランクの中間にある目視できる断層

 そして、標高1000m付近(【図-⑩】)付近では渓谷となり、周囲の熱変質した灰色細粒砂岩の中に、玢岩(porphyrite)の節理(優勢な方向:N50°E・70°SE)が見られました。沢がクランク状態に湾曲していました。【上の写真】

 中間部に、断層と思われる構造(N70°W・垂直)が認められました。【上の写真】

(参考:こちらのクランクは規模は小規模ですが、矢沢の標高1000m付近にある第1クランク~第3クランクを思い出しました。)
 渓谷の終わる標高1010m付近(【図-⑪】)では、熱変質した砂泥互層で、N5°W・10°Eでした。

 そのすぐ上流、標高1015m二股では、左股と右股にわたり、【写真】のような熱変質した泥岩層(主)と砂岩層(わずかに挟まる)の互層が見られました。ほぼNSの走向で、緩やかにE~SEに傾斜しています。傾斜がいくぶん南東傾向であるので、ケスタ地形のように、段差のある小さな滝状地形がしばらく続きました。

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標高1015m二股の上、調査は左股へと進む

 また、分岐付近の右股沢で、【下の写真】のような「奇妙な石灰質物質」を見つけました。一見、サンドパイプ(生痕化石)のようですが、材質は石灰質です。色と形態から、やや大型動物の脊椎(背骨)かと期待しましたが、どうも違い、地層中に溶けていた石灰成分が作り出した造形のようです。

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奇妙な石灰質物質でできた構造

 

 二股から左股を進み、標高1040m(【図-⑫】)では、粘板岩が見られ、黄鉄鉱が晶出していました。なぜ、ここだけ粘板岩(熱変成)があるのか不思議です。
 短い区間に小さな滝(NS・10°E)が連続します。標高1050m【図-⑬】)では、熱変質した灰白色の泥~細粒砂岩層があり、三段の滑滝を形成していました。N30~40°W・10°NEでした。
 標高1060m付近(【図-⑭】)では、熱変質した灰色細粒砂岩層の中に、コングロ・ダイク(幅3~5cm×長さ2m・N20°E・垂直)が認められました。

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地獄の「お釜滝」 【図-⑮】地点・林道から

 標高1070~1080m付近(【図-⑮】)では、【上の写真】のような落差10mほどの滝があり、林道の上から撮影しました。滝壺が、きれいな円形をしていて、まさに「地獄のお釜」のようなので、お釜滝と名付けました。滝の下は、熱変質した灰色細粒砂岩層でしたが、造瀑層は、観察できませんでした。滝の上(【図-⑯】)では、新鮮な玢岩が見られたので、玢岩か熱変質した堅い泥岩層だと思われます。

 滝ヶ沢林道が、沢に沿っているので、林道と沢との間を行き来して観察しましたが、「お釜滝」は、登攀できませんでした。

 地図の「地獄沢」と合流する二股付近の林道に懸かる橋、標高1095m付近(【図-⑰】)では、風化して黄土色になった中粒~細粒砂岩層が見られました。熱変質したものが風化したのか、それとも熱変質の影響が少なかったのか、いずれにしろ、周囲に比べて沢がなだらかになる場所なので、風化・浸食に弱い岩質だと思われます。

 二股からは、左股を進みました。標高1110m付近(【図-⑱】)から、玢岩露頭が随所に認められ、標高1120~1130mの、いずれも沢との合流点付近で見られました。
 標高1135m二股の少し下流(【図-⑲】)では、熱変質した帯青灰色~暗灰色の細粒砂岩層が見られました。確認できた最後の露頭です。

しばらく沢を詰め、標高1150m二股(【図-⑳】)を確認して、下山しました。

 

【編集後記】

 地質構造的な話題は、次回の「仙ヶ沢の調査から」で、触れることにします。

「地獄沢」という奇妙な名前が出てきましたが、沢全体の名称ではありません。無名な沢なので、私たちが便宜上「滝ヶ沢林道」の沢と名付けた沢の支流に、「地獄沢」があります。残念ながら、支流には入っていませんが、地形図で見る限りは、特別な地形の沢(枝沢)とは思われません。しかし、何かがあるのかもしれません。

            *   *   *

 ところで、本文中に取り上げる話題がなかったので、以下のような石の芸術を紹介します。

 自然の中には、不思議な造形美があって感動します。

【アフリカ大陸】は、滝ヶ沢林道の沢・標高1030m付近にあった熱変質した灰白色泥岩の転石です。どこにでもありそうですが、なぜか感動しました。

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アフリカ大陸

 【龍】は、谷川本流の標高920mの河岸に転がっていた木の根です。横に延びた根が角のようで、こんな偶然はないだろうと、写真に納めました。お昼を食べた場所の近くでした。

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龍の頭部

 【河童】は、香坂川上流第3沢の標高1080m付近の二股に転がっていた転石のひとつです。尾根にあった志賀溶結凝灰岩が落下したもので、3m以上あります。
 髪の毛に見える部分は、落葉が載っています。輪郭は割れ目にできた陰です。ちょうど午後の日差しと、見る角度が重要でした。

 

 

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河童の頭


 趣味という訳ではありませんが、自然の美しく雄大な風景とは、また一味違ったおもしろさを感じて、気に留めた光景を写真に納めています。特集したことはないので、いくつ紹介できるかわかりませんが、地質に関する話題が見つからない時には、載せたいと思います。

 ところで、梅雨もいよいよ本格的になってきました。日本付近の天気図の範囲に、小笠原(北太平洋)高気圧が、オホーツク海高気圧と、南と北で対立するように気圧配列しています。(7月2日の21時の予想天気図)その間で、梅雨(停滞)前線が、活発に活動中です。今日は、朝から雨降りなので、家でゆったりとしています。(おとんとろ)

佐久の地質調査物語-131

雨川水系の沢

7. 小屋たけ沢~程久保沢の調査から

 森林地図によると、「小屋たけ沢」はそのままの地名です。沢を含む西側の尾根一帯が程久保で、駒倉(こまくら)と区分されていますが、地名を使い、「程久保沢」と呼ぶことにしました。尚、内山川水系の「ホド窪沢」と発音は、まったく同じなので注意してください。(下図【小屋たけ沢~程久保沢のルートマップ】を参照)

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小屋たけ沢~程久保沢のルート・マップ

 平成16年夏休みの8月7日に、小屋たけ沢を詰め、分水嶺の尾根を経てから程久保沢を下る予定でしたが、上流部のブッシュが大変で、標高1120mの張り出し尾根を乗り越えて、沢を下りることになりました。下山後、雨川ダム湖を見下ろして食べた西瓜の味が、印象的でした。
 小屋たけ沢入口付近のブッシュを避け、標高950m(【図-①】)から入りました。玢岩(porphyrite)の露頭が続きました。標高970m付近(【図-②】)では、熱変質した灰色細粒~中粒砂岩層が見られました。

 標高975m付近(【図-③】)では、黒色頁岩層と、粘板岩(slate)層が見られ、N5°W・8°Eでした。
 この少し上流には、幅15cm×長さ50cmのコングロ・ダイク(N80°E・垂直)と、不規則な粘板岩(slate)片が、中粒砂岩層の中に取り込まれている露頭がありました。(【写真-下】)

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粘板岩片が砂岩中に入る【図-③】

 

 そして、標高1000m~1010mにかけて、5つのコングロ・ダイクが観察できました。(【図-④】)
 周囲の基盤岩は、黒色泥岩層や暗灰色細粒砂岩層で、ほぼEW・緩い北落ち(推定、5°N)です。
これに対して、図のような形態のコングロ・ダイクが、ありました。 下流側の露頭から順番に・・・
(ア)十字に交わるタイプ:板状の礫層が、交叉するようにして泥岩層に貫入している。《写真A地点》表面にコケ等が付いて、見えにくいが、礫層は垂直貫入している。

(イ)最も頻繁に見られる小規模タイプ:表面は棒状に見えるが、地下にも層状に高角度で貫入する。

(ウ)軟着陸タイプ:基盤の中への貫入は薄く、表面に広がっている。《写真C地点》かつては西側のものと繋がっていたが、浸食で開削された間が小滝になった。

(エ)湾曲していたり、形が不規則なタイプ:周囲は乱されていない。

(オ)大型タイプ:基盤岩への貫入の向きにより、高さ・長さ・幅・広がりなど、見え方が強調される。露頭の数は少ない

 

 

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標高1000m~1010m付近の露頭(スケッチ)

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直交するように交わる (A付近)

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細長い板状(ブロック) (C付近)


 標高1010m付近(【図-⑤】)で、玢岩の岩脈が見られ、標高1020mでも同様な玢岩が見られました。
 標高1040m二股で昼食をとった後、1060m二股から左股に入りました。すぐにブッシュ漕ぎが大変になってきたので、沢は最上流部まで詰めないで、途中から南西へ張り出している尾根を越えることにしました。尾根の標高1120m付近で、凝灰角礫岩(tuff breccia)が見られました。(【図-⑥】)

 尾根を下って、程久保沢の1050m二股を確認し、標高1040m付近(【図-⑦】)では、熱変質した灰白色中粒砂岩層が見られました。

同様な砂岩層が、標高1030m・1020m二股まで、点在します。

 そして、2つの沢が次々と北西から流入してくる標高1000m付近(【図-⑧】)では、花崗閃緑岩(granodiorite)の岩体の一部が見られ、周囲は熱変質した灰白色泥岩層でした。温泉の兆候があり、かつての壊れた施設(数寄屋風の建物)がありました。ちなみに、地図に記載されている程久保沢右股の「温泉」は現在はありません。
 標高990m付近(【図-⑨】)では、熱変質した灰白色細粒砂岩層が見られ、玢岩の岩脈が認められました。
 標高980m(【図-⑩】)では、再び花崗閃緑岩が、幅5m×長さ15mの大露頭で見られました。ここでは、花崗閃緑岩と玢岩の両方が見られました。全体情報から、貫入時期は、花崗閃緑岩の方が先で、玢岩が後です。

 

 標高972m付近(【図-⑪】)では、熱変質した灰白色泥岩と粘板岩(slate)が見られました。

 走向・傾斜は、N50°E・20°SEです。東隣の小屋たけ沢の(【図-③】)に対応すると思われます。観察した露頭の産状から推理すると、黒色泥岩が熱変質した灰白色泥岩の熱源は玢岩で、粘板岩(slate)の方は、もっと長い時間と圧力、それに高温状態を保ち続けられる花崗閃緑岩(granodiorite)だったのではないかと思いました。

 

 標高960m付近(【図-⑫】)では、玢岩の岩脈が、標高948m付近(【図-⑬】)では、熱変質した灰白色中粒~粗粒砂岩層が見られました。
 標高930m付近(【図-⑭】)と、小さな沢が合流する標高910m付近(【図-⑮】)では、共に玢岩の岩脈が見られました。
 隣り合う小屋たけ沢と程久保沢は、粘板岩の見られる層準が対応していると考えていますが、小屋たけ沢でのコングロ・ダイクが、程久保沢で見られなかったのは残念でした。石英閃緑岩の貫入は、温泉の記号付近の地下を中心とした範囲と推定されます。小規模な玢岩の岩脈は、両方の沢の随所で見られました。


 【 閑 話 】

 程久保沢の標高1030m付近(【図-⑦】の少し下流)と、965m二股の少し上流部(【図-⑪】の少し下流)の2カ所で、ツキノワグマの痕跡を見つけ、ドキドキしました。 標高1030mでは、ウワミズザクラの枝を何本か倒した形跡があり、近くの土に爪のある足跡と糞(フン)が、残されていました。

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ウワミズザクラ(春・花)

 ウワミズザクラ(上溝桜)は、バラ科の落葉高木です。雄しべが多くて、花弁より遙かに長いので良く目立ちます。遠くから見ると、花全体が、「ショウマ」の花のように見えます。
 木の幹を見ると、桜の木肌と似ているので、名前に納得します。
どうも、この果実をツキノワグマが好むらしい。

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ウワミズザクラ(夏~初秋・果実)

【編集後記】
 この沢(「小屋たけ沢」)では、様々なタイプのコングロ・ダイクが観察できました。

 かなり後半の章で、コングロ・ダイクの成因について検討しますが、ヒン岩との関係を疑いました。また、どうして、タイプの異なる産状なのかと疑問は深まるばかりでした。

 ところで、本文中の「閑話」に載せた写真は、借り物の写真で申し訳ありません。

現場は、ツキノワグマが、ウワミズザクラの木に乗って、枝ごと倒すようにして食べたと思われる状態でした。証拠写真は、捜しましたがみつかりません。

 同様に、かつての温泉の建物らしいのも撮影しましたが、無いのは、今振り返ると、残念です。写真を撮り放しにしないで、いつも、整理しながら消去してしまう私の処理方法も、時と場合によっては、後で欲しくなって、後悔します。(おとんとろ)      

佐久の地質調査物語-130

 

 

 雨川水系の沢

6. アザミ沢~片原沢の調査から

 森林地図によると、「のつ久保」から「1203」を結ぶ尾根を境に、阿ざみ(東側)と片原(西側)に分けられて、名称が付いています。そこで、そこを流れている沢を、それぞれアザミ沢(カタカナ表記)と、片原沢(漢字表記)と呼ぶことにしました。
 (下図、阿ざみ~片原付近のルートマップを参照)

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アザミ沢~片原沢付近のルート・マップ

 平成15年10月18日、天野和孝先生(上越教育大学教授)を六川先生が迎えに行き、田口小学校で皆が合流しました。この年の3月、田口峠付近にバイクを残したまま失踪した由井俊三先生(元北海道大学教授)の捜索隊が山に入っていました。(失踪直後の警察や消防団とは別に、教え子の皆さんや有志での捜索は、その後も続いていて、私たちも2回参加しました。)

 一日中、快晴で、その晩は、内山の相立館に皆で泊まりました。ちなみに、翌19日は、北相木で化石調査をしました。

 県道から少し入った所に立つ別荘の東からアザミ沢に入り、最初の二股、標高989m付近(【図-①】)では、熱変質して灰白色になった泥岩層が見られました。同様な岩相が、標高1010m(【図-②】)、1015m、1025mにありました。

 標高1035m付近(【図-③】)では、風化した玢岩が見られました。
 標高1055m付近(【図-④】)では、熱変質した灰白色泥岩層があり、少し上流に玢岩岩脈が見られました。
 標高1070m付近(【図-⑤】)では、凝灰質灰色中粒砂岩層、風化すると黄土色となり、累帯構造のような茶色の縞模様が現れるのが、特徴的なタイプの産状でした。

 標高1080m付近(【図-⑥】)では、熱変質した灰色細粒砂岩層が見られ、走向・傾斜は、N70~75°E・8°Sでした。

 標高1090m付近(【図-⑦】)から、熱変質の影響がなくなり、黒色泥岩層が現れました。軽石の入る凝灰岩層も挟まります。同様に、標高840m付近(【図-⑧】)でも、黒色泥岩層(N70°E・8~10°S)で、標高1110m二股までは、黒色泥岩層でした。

 沢を詰め、檜の植林の為の作業道を上って、分水嶺の尾根に出ました。
 標高1165mの鞍部(【図-⑨】)では、志賀溶結凝灰岩(welded tuff)が見られました。この後、尾根伝いに西に向かい、片原沢の標高1035m付近まで、随所に溶結凝灰岩が見られました。このアザミ沢の尾根から西側の標高の高い部分は、志賀溶結凝灰岩で覆われているようです。

 標高1105m二股を確認し、アザミ沢を下り、標高1070m付近(【図-⑩】)に至りました。黒色泥岩層(一部は黒色頁岩層)が見られました。この層が不透水層のようで、沢水が湧いてきていました。
 標高1055m二股(【図-⑪】)では、やや弱い剥離性のある黒色頁岩層が見られました。ちなみに、左股沢を経由して落下したと思われる溶結凝灰岩の転石も目立ちました。
 二股の東側に高さ5mほどの崖露頭(【図-⑫】)があり、層厚3.5mの礫岩層が見られました。走向・傾斜は、EW・5~10°Sでした。石英斑岩の巨大な礫が含まれていました。

 標高1040m付近(【図-⑬】)では、黒色頁岩層(N20~30°E・10~20°SE)が、連続して見られました。わずかに見られた粗粒砂岩層の走向・傾斜(N10°W・70~80°W)は、表示してありません。露頭は連続していても、内部は少し不安定になっている部分もあるようです。

 1030m二股の少し上流(【図-⑭】)では、全体は黒色頁岩層ですが、この中に熱変質した灰白色泥岩層と灰色細粒砂岩層が挟まれていました。境での走向・傾斜は、上流側のN5°E・22°Eから、下流側のN20°E・10°Eと移行していました。わかりにくい構造です。

 二股の黒色泥岩層と灰色中粒砂岩層の境で、N5°W・8°Eでした。走向は、あまり変わっていませんが、傾斜が緩くなっていきました。
 標高1030~1020m(【図-⑮】)は、黒色頁岩層や黒色泥岩層で、走向・傾斜はN5~10°E・10°Eでした。この中に、コングロ・ダイクが見られました。
 上流から、(ア)礫として黒色頁岩塊の入る、幅5~20cm×長さ1m、(イ)黒色頁岩塊と砂岩塊の入る1m×1.5m、(ウ)L字型、10cm×40cmです。(イ)と(ウ)は、板状(軟着陸)タイプです。

 標高1018m二股(【図-⑯】)では、黒色泥岩層に薄い凝灰岩層を挟んでいました。
N60~80°E・10°Sでした。 

 標高1010m付近(【図-⑰】)では、黒色泥岩層(N50~70°E・10°S)が、また、標高990m付近(【図-⑱】)では、5枚の凝灰岩層を挟む黒色泥岩と灰色中粒砂岩の互層が見られました。

 標高980m付近(【図-⑲】)では、玢岩(porphyite)岩脈がありました。これより下流では、玢岩の熱変質による灰色中粒~細粒砂岩層です。標高970m付近では、滑滝を形成していました。
 片原沢が雨川と合流する付近では、新鮮な玢岩露頭が見えました。

 

【編集後記】

 本調査域は、比較的、標高の高い部分には、「志賀溶結凝灰岩」が分布しています。

一番有名なのは、名前の由来となった地名の「志賀(しが)」もさることながら、内山峡(佐久市国道254号線)でしょう。【写真-下】

 

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志賀溶結凝灰岩の奇岩が残る「内山峡」

 かつては、これほど大規模な火山灰(火砕流)の証拠があるにも関わらず、どこの火山からもたらされたか不明とされていました。

 しかし、最近では、巨大カルデラ噴火に伴う灼熱の火砕流が、群馬県側から流れてきたと考えられています。さらに、「本宿(もとじゅく)カルデラ」からだったのではないかと言われています。

 今年の3月7日(日)、上田市丸子の箱畳池付近の「大杭層の下部層」の中に、志賀溶結凝灰岩に相当する地層が見られるので、見に来ないかと誘われ、そこと、少し離れた依田川沿いの「白岩」の溶結凝灰岩を観察しました。

 案内していただいた山辺邦彦先生の調査研究では、同時代の独鈷山(とっこさん)カルデラからのものではないかとのことでした。

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上田市丸子「白岩」の溶結凝灰岩

 また、比較的、新しい時代の火山灰の調査方法として、火山ガラスや鉱物を双眼実態顕微鏡を使って、噴出源を突き止めようとしているというお話もお聞きしました。もちろん、万能な手段ではありませんが、私たちには欠けていた大切な視点です。

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火山灰の中の六角柱石英

 

 ところで、この沢付近では、『 玢岩(ヒン岩)』露頭が多く見られました。

 先の、火山灰の研究のように、私たちは偏光顕微鏡を使って構成鉱物を調べるというような手段が取れていません。古くからの文献資料から、先輩諸氏が「ヒン岩」だと述べていれば、それに準じてしまいます。
 調べてみると、ヒン岩とは、『安山岩質のマグマが地下に貫入して、比較的ゆっくり冷えたときにできる岩石。ゆっくり冷えるためガラスは含まないが、深成岩ほどには大きな結晶がそろっていないという特徴がある。ただし、最近では「ひん岩」という用語は使わないことになっています。』とあります。・・・そう言われても困ります。

 閃緑玢岩(diorite porphyrite):閃緑岩と同じような鉱物組成であるが、斜長石の斑晶が大きく目立つもの。石英を含むものは石英閃緑ひん岩という。・・との解説もありますが、鉱物種ではなく、色合いから見ると、閃緑玢岩という分類になるのかもしれません。それ以上は、不明ですので、今まで通り、『 玢岩(ヒン岩)』のままでいくことにします。

 6月も残すこと、2日となり、いよいよ東京オリンピック大会の開催される7月に突入します。新規コロナ・ウイルス感染者数の推移を毎日チェックして、わずかながら減ってくると、少しだけ嬉しくなります。今日は、午前中が雨降りだったので、久しぶりの「はてなブログ」に投稿しました。(おとんとろ)