北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和5年 10月の俳句

     【神無月の句】 

 

① 爽やかに アンカーの孫 晴れ姿 

② 木星に 十六夜並ぶ 西の空

③ 秋茜 千日紅が ヘリポート    ≪秋の丈比べ≫

 

 第18回東京オリンピック大会(1964年)から、59年目の秋を迎えた。  

昭和15年に日本でのオリンピック大会開催予定はあったが、第二次世界大戦が迫る中、昭和13年に開催を返上した為、昭和39年の東京大会は、アジア地域での、初の開催となった。晴れの「特異日」でもあった10月10日に開会式が開催されたことを記念して【体育の日】が設けられた。しかし、「国民の祝日に関する法律」で、名称は【スポーツの日】と改められ、今では10月の第2月曜日となっているのは、少し寂しい気がする。

 「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う!」が、この日を祝う意味である。
 韓国での第24回ソウル大会(1988年・昭和63年)や、中国での第29回北京大会(2008年・平成20年)では、それぞれ国威を盛り上げようとする雰囲気の中で開催されたという印象が強い。

 当時の日本でも、そんな色合いが濃くて、私たちも子ども心に、国際社会への初デビューという高揚感に酔っていたと思う。

 さて、今月も世界情勢の動きは目まぐるしく展開してきている。
 いくつかある中で、ノーベル賞・各賞の話題や、米国シカゴ・マラソン世界新記録樹立などは、明るい話題である。しかし、「ロシア軍のウクライナ侵攻」に加えて、中東のパレスチナガザ地区を支配する「ハマス」によるイスラエル侵攻(10/7)に対するイスラエル軍の報復攻撃が始まった。自国防衛権の行使とは言え、イスラエルを支援していた欧米諸国からも、その非人道的な空爆や市街地侵攻に反対するデモが行なわれるようになった。

 そんな世界とは無縁と思われていた田舎の高齢者たちの俳句会でも、今月は、会員の体調不良などの異変があって、参加者4名だけの寂しい句会となった。
 しかし、互いの「俳句観」を披露し合う機会となったり、今後の会運営についての意見交換の場となったりして、暗くなるのも気づかずに話し合っていた。 
 ところで、俳句の世界では、対象とする内容や事物をひとつに絞り焦点化するというスタイルが一般的だが、感動した複数の内容を共に大事にしたいという思いで、今月は、『両者を称えたい』という観点で俳句を詠もうと挑戦してみた。
サブ・タイトルは、「秋の丈比べ」である。


 【俳句ー①】は、爽やかな秋空の下、幼稚園の運動会があり、孫が、「青色たすき・そら組」のアンカーとして走り、みごと優勝したことの喜びを詠んだ。ただし、爽やかさは、天気だけでなく、孫の言動について感動したという意味もある。季語は「爽やか」で、秋である。
 今月の「並び立つ両者を共に称えたい」という観点では、秋の空であり風である秋の爽やかさに対して、孫の駆けていく姿の爽やかさである。
 季語の意味合いからは、前者が主で、後者が従であるかもしれないが、後で、孫からリレー競技のエピソードを聞いて、「従」というより「主役」にしてあげたいなと感じた。

第2コーナーのアンカー勝負



 【写真】は、トラック一周が100mにも満たない幼稚園庭の第2コーナーで、後方から追い上げてきた「黄色たすき・ほし組」のアンカーが、迫ってきている場面です。『また抜かれるかと思って必死に走った』とは、孫の後日談でした。
 詳しく聞いてみると、運動会当日までに、既に学年の全体練習が5回あって、勝率は1勝4敗だという。組の全員が走るので、抜きつ抜かれつで、アンカーにバトンが渡された時の順位は様々であったらしいのだが、「ほし組」アンカーの子に4回抜かされていたようだ。
 当日のリレーで、孫(Tちゃん)は、1位でバトンを受けた。しかし、少し遅れて2位でバトンを受けた「ほし組」は、バトン渡しもスムーズに、あっと言う間にトップに追いついた。私は、バック・ストレートで抜かれるかもしれないと、手に汗を握って心の中で必死に応援していたが、結果は何んと、抜かれるどころかホーム・ストレートでは寧ろ差を広げ、みごとゴール・テープを切った。私は安堵したが、次の瞬間、少し興奮気味である自分を、周囲から悟られはしないかと心配もした。
 表彰式では、「優勝・2位・3位」の順位ではなく、どのチームも「よくがんばりました」という賞状をいただいた。幼稚園の先生方の配慮が滲み出ている。
 ところが、子どもの本音部分では納得できない所もあったようで、練習で逆転優勝を4回果たしていた「ほし組」アンカーの男の子は、悔し泣きをしていたようだ。

一方、孫の方は、『Tちゃんは本番に強いんだね』と周囲から言われて、悪い気はしなかったようだが、比較的、冷静に対応していたように見えた。
 『賞状を皆さんに見せてください』とアナウンスされた時、正面の級友たちに見せただけでなく、360度回転して、後ろ側の観客にも見せていた孫の行動に、私は、「周囲の状況を良く判断できる大した奴だ!」と独り合点をしていた。
 しかし、真実は、我が子のゴールを見ようと本部席側に、母親(私の娘)がいて、かなりな大騒ぎをしていたので、群衆の中から、母の歓声を聞き分けたらしい。大した奴ではなく、母にも見てもらいたかったのだろう。

            *  *  *

 運動会と言えば、真っ先に思い出すのは、「万国旗」である。幼稚園の園庭に飾られた世界の国々の国旗を眺めていて、少し微笑ましい光景を見つけた。

 

星条旗(アメリカ合衆国)

日章旗(日本国)

五星紅旗(中華人民共和国)

 

 国旗掲揚塔から4方向に伸びた万国旗の列の内、南東に伸びたロープに日章旗があった。何んと、その両隣は、星条旗(米国)と五星紅旗(中国)である。まさに現代政治の「米中対立」の間に、日本が仲介役を果たしているような図柄構成になっていた。
 万国旗を用意したのは幼稚園の先生方だろうと思うが、誰の仕業かなあ? 
 と言うのも、旗の順番は、オリンピック開会式の入場行進順のように、整然としているわけではない。先生方が、手分けしてロープに国旗を結び付けていく時、自分の良く知っている国旗や、好きな国の国旗を手元に集めて作業するものなのだ。(私の経験からの推理ではあるが・・・)
 ある先生が、日本の両隣に米国と中国を選んで結んだに違いない。もし、同じ順番で保管してあった国旗を結んだとすれば、何年か前の人の選考なのだろう。毎年更新されるなら、保管されていた万国旗の中から、今年選んで来たのだろう。

 

 【俳句-②】は、十六夜の月を見た時、たまたま木星が並んで見えたことを、感動して詠んでみた。季語は、「十六夜」で、月(moon)なので秋である。
 今月の「並び立つ両者を共に称えたい」という観点では、ぴったりの素材である。季語の「十六夜」から月が主のようにも解釈できるが、月と木星黄道上での動きを見れば、ゆったりとした動きの木星(惑星)に、月が寄り添うように接近し離れていくので、木星の方が寧ろ主役だと解釈できる。

惑星と月の軌道は毎日変化している

 ちなみに、【写真-上】は、ほぼ1カ月前の23ː00の木星と月の位置関係図であるが、遠くにある木星の1日の移動はわずかだが、月は東側に、約12°、時間換算で48分、移動する。月の輝く部分の形が変わるだけでなく、同じ方向を見ていると、月の出が48分遅れる。観点を変えて同じ時刻に月を見ると、東側に角度で約12°ずれた方向で見える。
(詳細は省くが、太陰暦ː月の周期29.5日=30日に由来する。)
 今年(2023年・令和5年)の仲秋の名月は、10月29日の晩であった。14.8の月齢なので、まさしく十五夜を迎える。
 天候は悪くないので期待していたが、なぜか東の空は雲が垂れ込めていた。
 夜中に、もう一度見ることも考えたが、早寝の私には無理だった。翌、十六夜に期待したが、忘れていた。
 ところが、10月31日の早朝、西の空に、両者を見ることができた。
 それで、満月を見逃した十六夜も十分に美しいが、それ以上に、小さいながら輝く木星に魅せられた。

木星と月が接近したことを宇宙から見る

 

 【俳句-③】は、千日紅の花の上に、秋茜(アキアカネ)がとまった様を詠んだ。
蜻蛉(トンボ)の実際の姿は、昔のプロペラ複葉機に似ているが、滑走路の必要も無く離着陸できるのは、寧ろヘリコプターに似ている。だから、花の先端部分が「ヘリポート」なのかなと感じた。季語は、秋茜こと赤とんぼであり、秋である。

千日紅に蜻蛉がとまる

 ちなみに、【写真】は、我が家の庭の園芸種・千日紅(センニチコウ)の花の上にとまった「ノシメトンボ」を写したものである。
 今月のテーマ「両者を称える」という意味では、まるで苺の果実のような千日紅の花の美しさと、秋茜の共演であり、共に「赤色」をしていた。

第19回佐久市総合文化祭に出品

 本年度も佐久市総合文化祭が開催された。私は、10月に詠んだ俳句の中から、「秋茜千日紅がヘリポート」を選んで出品することにした。
色紙に俳句を墨書し、俳画は、同じ赤~朱色系統の「柿の実」が良いだろうと、枝ごと取ってきた柿をスケッチして描いた。
それを専用の掛け軸に入れて展示した。(下の写真)

展示の様子


 

 

【編集後記】
 今回もかなり遅れて、「はてなブログ」に載せることになった。11月の前半は、毎年、文化祭の出展準備や片づけ、それに各会場を回って、様々なジャンルの皆さんの作品を見学してくるので忙しい。
 そこへ、我が家の水道管漏水事件が加わった。その心配事に頭を悩ませている。すぐに対応したが、まだ解決していない。水道などのインフラは、老朽化が各地で進んでいるようで、手配しても工事の日程が組めない程であるようだ。
 試しに漏水量を計測してみると、1.5~2.0リットル/分、すなわち1日なら、約2~3立法メートルも、実際に使わないのに勝手に地下に流れていることになる。水の「もったいなさ」もと言いたいが、本音では料金が嵩むことも心配である。なにしろ、上水道の使用に比例して、下水道料金も換算されるからだ。
 使用しない時間帯は、元の止水栓を回して水流を止めようかと思い相談したら、「古いタイプは、回してバブルが壊れたら大変です」とアドバイスされた。おとなしく、業者さんの他での作業が済んで、我が家の番になる日を待つしかないという結論になった。納得はいかないが、仕方の無いものは、成り行きに任せるしかないという心境です。

2023.11.14(13:15pm)



 さて、浅間山に初冠雪のあった翌日、いつもより多めに噴煙が上がっていたので、急いでカメラを持ちに行って、撮影しました。火山活動を観測している研究者よろしく、毎日、水道メーターを眺めている(おとんとろ)です。  

令和5年 9月の俳句

      【長月の句】

 

① 木漏れ日の 柔花(やわはな)捜す 秋茗荷(ミョウガ)

②  収穫の 轟音去って 蝗(イナゴ)とり 

③ 入日さす 南瓜(カボチャ)の蔓を 北へ矯(た)め        

               ≪収穫の秋・三題≫

 

 夏休みが短い長野県では、お盆が明ければ2学期が始まり、朝晩は涼しく感じられるようになるものなのだが、近年は、特に今年は、9月に入っても暑い日が続いた。「確か9月1日に、ニンニクを定植したなあ」という記憶があったが、あまりの暑さのせいで、「10月1日の間違いだったかな?」と疑い始めるしまつだ。8月31日に、種苗店で青森県産ニンニクの種球が売られているのを見て、安堵すると共に、種球3㎏を購入してきた。

 ところが、今年はニンニクを植える畝を作ってなかった。なぜなら、錆病が、2年続けて発生してしまっていたので、定植場所をまだ決めてなかったからだ。急いで南瓜を育てていた区画を整理して(9/2~3)、畝を作り(9/6)、そして、ようやく定植(9/7)できた。
 私の農作業の話なら例年より段取りが少し遅れた程度のことだが、グローバルな世界では、様々な政治問題と共に、自然災害による被害と苦難が勃発していた。

 いくつかある中から、内容を3つに絞り込むと、ひとつ目は、東京電力福島第一原子力発電所のALPS処理水の海洋放出に対して、中国政府が日本産・海産物の輸入全面禁止策を取ったことである。その後のIAEA総会でも、執拗に議題にしてきた。加えて、中国人民が、日本各地へ抗議の国際電話をかけてくるという、まったく正気の沙汰とは思えない事態がしばらく続いた。

 二つ目は、現地時間9/8の23時11分頃、モロッコアトラス山脈の北側、マラケッシュ・サフィ地方の地下19㎞を震源とするM6.8の地震が発生した。日本の震度階では最大5強~6弱と推定されるが、泥レンガや石積みだけの構造物なので、建物倒壊により2.95万人以上の人が亡くなった。世界文化遺産に登録されているマラケッシュの旧市街地は、壊滅的な状況となったと報じられた。

 そして、三つ目は、9月始めにイオニア海で発生した低気圧(台風)が、地中海を南下し、リビア東部に上陸した。デルナ市上流の2つのダムが大雨で決壊し、大洪水となって押し寄せ、死者7200人以上、さらに1万人近い行方不明者がいると伝えられている。

 そんなニュースを見聞きするにつけ、私は、平和な日本の、しかも、さらに平和な田舎で、のうのうと暮していてもいいのかという自責の念に駆られる思いである。それでも、真剣に生きている私なりの現実生活もある。今月は、農業体験の中で、感動した出来事を俳句に詠んでみようと思う。


 【俳句-①】は、『茗荷を取ってきて』と言う妻の依頼に快く応えた私だったが、収穫に戸惑った挙句、無事に収穫できた嬉しさを詠んでみた。季語は「秋茗荷」で、秋である。

茗荷(ミヨウガ)の花と蕾


 【写真】では茗荷の白色の花や蕾が良く見えるが、我が家のものは、カラマツ林の下草の中に自生しているものなので、叢に隠れて良く見えない。しかも、夕刻に近い木漏れ日の中である。しかし、実のところ、私は、「茗荷」なるものは見たことも、食べたこともあるが、まだ取ったことは無かったので、どこに生えているのか知らなかったというのが真実であった。


 茗荷(ミヨウガ)という食べ物は、【下の写真】のようなものであり、私の経験では、冷や素麺や蕎麦の薬味として良く利用した。添えられると、独特の味わいがあって満足する。そんな食体験はあったが、収穫した実体験がなかったので、茗荷の上の方ばかりを見ていた。
「茎の一部かな?」という発想であったが、見つからない。「ラッキョウに似ているから地下茎か?」と思って、根の部分に視線を移した。すると、何やら周囲の色とは異質の白い、ただし、(時期が遅いので)落ちて少し色褪せたものがあった。拾い上げようとして、私の知っている茗荷を見つけ、歓喜した。「そうか、ここにできるのか」と理解した。そして、まさに「柔花」の下を探せば、茗荷があることを発見し、収穫したのである。・・・・私は、馬鹿にされるのは承知で、妻に、茗荷収穫の報告をした。

 

茗荷(ミョウガ)

 

【俳句-②】は、大型コンバインによる稲刈りの後、わずかに数匹ではあるが、蝗(イナゴ)を発見したことで、かつての「蝗とり」の思い出が蘇り、感動したことを詠んでみた。季語は、「蝗とり」で、秋である。

稲の収穫風景

 佐久地方の稲刈りは、大型コンバインが、数列の稲を根本からかき集めて持ち上げ、稲穂の籾殻付きの米だけを収穫し、稲の茎は粉砕する形式が一般的である。収納タンクが、いっぱいになると、待機しているトラックの荷台に収穫米を移す。(【写真・上】を参照)
 但し、粉砕せずに、稲の茎を必要とする場合は、稲束が作れる機能も備わっている。我が家では、一部、稲束にしてもらい、果樹と家庭菜園用、お盆の松明(藁を燃やす)にしている。刻まれた残りの藁は、可能な限り回収して畑に入れると、半年ぐらいかかって分解され、大地に還元されていく。
 私の子どもの頃までは、農家の冬の藁仕事で、様々な方法で利用していたが、今では、大型機械による農作業の能率が悪くなるからと、稲藁を野焼きしている農家も多い。
 (余談だが、稲作は広くアジア地域で営まれてきたが、稲藁を捨てたり燃やしたりしないで、様々な方法で完全に利用していたのは、日本民族だけらしいことを知り、農業分野でも、日本文化の奥深さに感動した。)

              *    *    *    *

イナゴ(蝗)

 さて、「蝗とり」の思い出である。
 私の妻が小学生の頃(昭和30年代後半~)、稲刈りの済んだ水田で全校児童が「蝗とり」をして、業者に渡した収益金で学校図書を購入したという話がある。

 我が家は、家庭の食用であった。母が「和手ぬぐい」で縫った袋に、捕らえた蝗を入れる。そして、お釜で沸かした熱湯の中に、袋ごと入れる。「キューorクー」という鳴き声が聞こえる。子ども心に、可愛そうだと感じていたが、大切な稲の成長を阻害した蝗なので、「地獄の閻魔さまの煮え湯の刑」を受けているのだと、少し納得していた。

 ただ、昆虫は鳴かないので、熱さの中で必死にもがいたあげく、体の擦れる音だったのだろう。その後、洗浄して、母や祖母が、砂糖と醤油で、言わば「佃煮」に仕上げる。それを私たちは、食べたのだが、比較の世界では、おいしく決してまずいと感じることはなかった。 
 私が大学生の頃、母が何度か「蝗の佃煮」を送ってくれた。行きつけの居酒屋「山ちゃん」のマスターの所へ持って行って食べてもらったことがあった。
 『信州では、バッタを食べるんですか?』と言われたが、食べてみて、まずくは無いことは、確認したらしい。
 山国信州では、蜂の子(ウジ)・ザザムシ(水棲昆虫)・蚕のサナギなど、まるで魚の餌のようなものを、「タンパク質源」として古くから食べてきた歴史がある。私も、「蚕の蛹(サナギ)」には抵抗があって食べたことはないが、「蝗」は平気である。
 それにしても、九州・大分県出身の「山ちゃん」こと、Iさんが、蝗(イナゴ)のことをバッタと言うのは当然で、確かに姿形は、「バッタ」である。
 調べて見ると、蝗は、【直翅目・バッタ亜目・バッタ科(Acridiae)・イナゴ亜科(Oxyinae)】に属する種で、サバクトビバッタの類縁であるらしい。日本の風土と豊かな植生のお陰で、突如として大発生して「群生相」となり、あたりの農作物も含めて緑を食べつくして移動する話題は、極めて少ない。

                   *  *  *

 ところで、「昆虫食(Entomophagy/Insect eating)」の話題が、良く上がるようになった。昆虫は動物性タンパク質が豊富で、牛肉や豚肉に代わる環境負荷が少ない食べ物としても期待されている。既に、食糧難もあり、様々な昆虫を貴重な食料としている国もある。また、国連・食糧農業機関(FAO)は、食糧危機の解決策だけでなく、気候変動を遅らせることができる代替タンパク源として、昆虫食を奨励する報告書を発表している。
 一方、自然界ではトビバッタ等による「蝗害(こうがい)」被害も凄まじい。 
 2019年12月上旬、東アフリカを襲ったサイクロンにより洪水が発生したことが、繁殖増加に繋がった。トビバッタの大群は、南スーダンケニアエチオピアソマリア地域にも拡大し、2020年5~6月に、小規模農家の収穫予定だった穀物や農作物にも被害が出た。
 トビバッタは3~5カ月の寿命の内に、1日で自分の体重分の作物を食べ尽くすので、人々の暮らしに大きな打撃を与える。
 これに対抗して、殺虫剤を散布すれば、その経済的負担ばかりか、残留農薬の影響を後世まで引きずることになる。
 大発生したバッタを全て捕まえて、食糧にすれば、「一石二鳥」だなどと考えている私には、想像もつかないメカニズムのようだ。
 日本の場合、稲作に農薬を使って稲の害虫(ウンカなど)を殺虫したり、病気を退治したりする過程で、かつての自然環境は大きく変化した。
 かつて、田圃の畔や土手で見られた「小さな土のパイプのような巣」は、もう無い。成虫自体が、いなくなったのだから、当然だろう。少し寂しい気がする。

サバクトビバッタ (南スーダン)

 

 

 【俳句-③】は、南瓜(かぼちゃ)は育てているようで、実際は、勝手に育って蔓(つる)を伸ばしてしまうので、他に育てている作物の場所に侵入してしまう。
それで、『あなたの伸びる方向は、こちらだよ』と、蔓の先端の向き変えたことを詠んでみた。その時間帯は、農作業を終えて帰宅する頃なので、南瓜には夕陽が当たっていた。季語は、「南瓜」で、秋である。

 「みゆき会」定例俳句会で披露したところ、先輩諸氏が推してくれた句である。
特に、Sさんは、『北に矯め』の部分を、「今年の夏は稀に見る猛暑なので、少しでも涼しい北側に避難させた」と理解したようで、方向が話題になった。
 しかし、真実は隣のトウモロコシから遠ざけようとしただけで、私としては、
『入日の西、カボチャの南、蔓を向ける北』と、敢えて東西南北の方向を意識して俳句を詠んだと、裏話をしました。
 我が家では、日本南瓜と西洋南瓜を種から育てて、畑で栽培しています。植える頃は、枯れてしまうことを心配して、多めに定植しますが、収穫時期には多すぎたことを後悔します。
 今年の場合、収穫時期が遅れたことと、あまりの少雨で割れてしまったことで、約半分は畑に放置しました。残りが、写真の南瓜です。(【下の写真】参照)
 それでも全部は食べられないので、人にあげたり、母の入所している老人ホームで食べてもらえるように持って行ったりしました。
 かつて、私は「南瓜嫌い」で、柿と共に完全に食べませんでしたが、自分で育てたという縁で食べてみると、「かなりな美味」であることを知りました。欧米で、「パンプキン・パイ」や「パンプキン・スープ」が人気であることを、こんな高齢になって、ようやく理解できました。
 「くわず嫌いは、やめましょう!」

 

収穫した南瓜を軒下に並べた



【編集後記】 

 今回もまた、俳句会から一カ月以上も遅くなって「はてなブログ」に載せることになりました。

小型機械で稲刈りした後、「はぜ掛け」をする農家

 9月から10月にかけては、夏野菜の片づけから、冬前に収穫したり、冬越しする野菜へと交代していく作業に追われました。
 その間、今シーズンは最期の畑や周囲の草刈りをしました。
 夏野菜は、植えた時期は、ほぼ一緒でしたが、片づけるのには差が出てきて、ひとつの種類ずつ畑から消えていきます。トウモロコシやカボチャが最初で、キュウリ、オクラ、ナス、ピーマン類と続き、昨日、トマトの棚を片づけました。そして、今日は、これからミニトマトを片づけます。

 良く、小学校や中学校の卒業生が、「これが最期の行事」と言って感慨に浸る心境に似ています。但し、また来年も同じようなサイクルで農作業は続いていきます。   今シーズンで、10年目の夏野菜の収穫時期を終えた(おとんとろ)

令和5年 8月の俳句

            葉月の句

 

① 人知れず いのちを生きる 錦鯉
② 台風禍 住めば都の あとかたす
③ 魂送り 煙のゆくえ 星の川  【夏のあとさき】

 

 佐久地方の8月は、1日の「お墓参り」から始まる。
 江戸時代中期の寛保2年(西暦1742年)、「戌の満水」と呼ばれる未曽有の洪水被害の追悼行事が、280年を経た今日でも続けられているからである。我が家でも、この慣習に従って、帰省した娘や孫を伴って墓参した。
 今年の7月下旬~8月中旬、日本列島を含む極東地域では、立て続けに台風が襲来し、大きな自然災害に見舞われた。地球温暖化によるものなのか、世界各地で、猛暑や旱、それに伴う山林火災被害も頻発した。さらに、国際紛争や内戦・飢餓、自国では将来への希望が持てず、脱出する難民の数も夥しい。
 一人日本だけが昔の災害を、静かに追悼できる平和社会である訳ではないが、国際政治や時事ニュースを見聞きするにつけ、我が国土や郷土が恵まれた土地であると、しみじみと思う。
 今月は、「夏のあとさき」と題して、たまたま「生死」に関わる出来事に触れる機会があったので、それらを俳句にしてみた。ただし、俳句として表現するには難しい題材だろうなという懸念はある。


 【俳句-①】は、一年前に行方不明となった錦鯉と再会して感動したことを詠んでみた。季語は、錦鯉で夏である。
 昨年の夏休みに帰省した長女が、イベントでもらう錦鯉の稚魚を、『実家には池があるので、特別に』と、冷水に酸素を溶かしたビニール袋に3匹を入れ、慎重に持ってきた。
 さっそく、水槽に移すと、元気が良くて飛び出してしまうものもいた。しかし、気に入っていた「青味を帯びたプラチナ色」の錦鯉は、金魚用餌をあまり食べずに死んでしまった。いずれ池に放流する予定でいたが、残り2匹は様子を見守ることにした。
 それは、池に流れ込む清水はきれいだが、長い間に落葉が溜まって、棒で池底を突き挿すとメタンガスが出てくるので、孫にも手伝わせて泥上げをしようと計画していたからだ。すぐに取り掛かったが、ヘドロ化した泥を持ち上げる作業は小さな子らには無理で、結局、私が孤軍奮闘することになった。水抜き、泥上げ、水の流入、そして、池の水が澄むまで待っている間に、紅白と黒の3色の錦鯉も死んでしまった。
 それで、池に放流するのは、錦鯉でも、頭が赤で、その他は尻尾まで黒色の、真鯉とあまり変わらない二色の錦鯉1匹だけとなった。元気がいいので、流出口から逃げ出さないように、厳重に金網を張った。
 ところが、放流してから数日後、行方不明になってしまい、隅々まで捜したが、見当たらない。そんなある日、何やら黒い生き物が水中を泳ぎ、コンクリートの敷居を乗り越え、水の取り入れ口から上流部に移動していく光景を見た。大きさは錦鯉より大きく、敷居を乗り越える時は四つ足で這う動作だったので、ネズミではないかと考えた。錦鯉は食べられてしまったのではないかと想像し、諦めた。


 それ以後、オオカナダモが繁茂して池を覆ってしまうので、何度も掬いあげて、畑へ移して肥料にした。その度に水面は広がり、池の底まで見える状態になるのだが、錦鯉のことは、すっかり忘れていた。
 この夏、池への流入量が多くなり過ぎ、石垣を浸透した水が地下水として道路に浸み出るようになったので、流入量を減らした。すると、水が停滞するようになり、大雨で池が濁ったことも加わり、アオミドロが発生した。美観が損なわれるので、アオミドロを除去し、水量を増やした。その折、1回目は蛙と思ったが、
2回目は魚影だった。いつか、昔のようにニジマスか鯉でも飼いたいと思っているが、現在、池に魚はいないので、誰かが、フナでも放したのかなと思っていた。
 そんな話をした翌朝、『昨年放流した赤・黒の錦鯉だ』と妻が言うので、半信半疑で静かに近づくと、確かに一回りも大きくなってはいるが、錦鯉であった。生き残って、冬を乗り越えていた。特別な餌はやらなかったので、池の中の動植物や昆虫などを食べていたのだろう。

様々な色と模様の錦鯉(にしきごい)

 

 ふと、昭和31年、第1次南極観測隊の犬橇犬として参加した「タロとジロ」という名前の樺太犬のことを思い出した。
 昭和33年2月、第2次隊は天候不良の為、野犬化・共食い防止の為、鎖につないで15頭の犬を南極に残さざるを得なかった。
 昭和34年1月、第3次越冬隊は、昭和基地で2頭の犬の生存を確認した。それが「ジロ」で、もう1頭も「タロ」と呼ぶと反応したので、兄弟犬だとわかった。鎖から首輪を外し、どうやって生き延びたかは諸説あるが、日本国中に感動をもたらした。(詳細は略)

映画「南極物語」兄弟犬


 この有名な「タロ・ジロ」犬の実話を基に、南極の厳しい環境下で、15頭の樺太犬の生への奮闘と南極観測隊員たちの交流の姿を描いた映画が、『南極物語』(昭和58年作品)であった。

          *   *   *

 話を錦鯉に戻すと、稚魚の時は、水槽の中を激しく動き回っていたが、再会した池の中では、必要があれば尾びれを使って移動するが、胸鰭を動かすぐらいで、ほとんど動かない。きっと、オオカナダモを掬い取って水揚げする時も、存在がわからないように、水草に隠れていたのだろうと推理する。池に一匹だけでは、寂しいので、今後、仲間を放流してやりたいと思っているが・・・。

 


 【俳句-②】は、台風による被災地の様子がテレビで報道される。被災された方々は、身の不運や窮状を訴えつつも、誰一人として土地を捨て去ろうとはせず、明日の生活の為に復旧作業に精を出す、未来志向が伝わってくる様を詠んでみた。季語は台風(禍)で、秋である。

台風5号(2023年)

 気象観測の統計上、台風の規模や人的被害・被害総額の大小は様々であるが、その台風による直接的な被害感覚は当事者でないと、本当の悲惨さと苦悩の中身は、わかり難いと思う。
 私の住む佐久地方では、「戌の満水」以外、全域に及ぶ台風被害の例は、伊勢湾台風(昭和34年)と台風19号(令和1年)ぐらいだったのではないかと思う。ちなみに、私が6歳と66歳を迎える年の夏であった。

 毎年のように日本を襲う台風に対して、佐久地方でも、それなりの影響や個別の被害はあるが、日本全体から見れば、比較的、台風による風水害等は少なく、恵まれた土地だと感謝している。それ故、まさに「住めば都」なのである。
 さて、今年の台風5号による中国、河北省やその中心・北京市での被害は、実に140年振りという規模の大雨によるものであった。情報が正確でない可能性もあるので数値は控えるが、元々年間降水量が少ない地域に、大雨が降ったので、河川の氾濫・家屋浸水・自動車流失の道路・山の崩壊による土石流・土地の流失や陥没など、およそ考えられる様々な被害があった。紫禁城天安門広場の冠水も象徴的である。ただ、日本の事情と違い、「調整ダムや河川の危険水位を越えた場合、優先する地域や構造物を水害から守る為、予め、たとえ人が住んでいても放流して良い対応策が決められている」という話題は、強烈だった。
 「多」を守る為に「少」が犠牲になると言う合理性より、「上」が生き残る為に「下」が消え去るという価値観の意味に聞こえたからである。いかなる立場の人権も基本的に平等と考えるキリスト教的発想(※注意)に根ざす民主主義の世にあって、主君への臣下の忠義を果たすという古風な美意識のレベルだからである。
(※注意:欧米人は、自国民や白人以外の人類は、劣ったヒトと、露骨な人種差別をしていた過去の歴史的事実もある。その意味で、現代の理想とする民主主義社会とは同一視できない。共産主義のめざす理想の平等社会とも違う。)

 

 

沖縄(台風6号の再来)

 台風6号(アジア名・カーヌン)による沖縄周辺の被害もすごかった。元々、琉球諸島や南西諸島は台風ルートに当たり、台風襲来になれてはいるが、気圧配置の関係で、一度襲来して大陸方面に去った後、再び戻ってきた。こんな2度目の被害も被ったという例は少ない。しかも、対策を取りにくい強風被害が大きかった。
 かつて私は、3泊4日の沖縄(本島)旅行をして、その魅力の一端と共に不便さも体験したが、毎年のように台風が襲来して何らかの被害のある島には住みたくないという思いは、冬季の暖かさでは挽回できない。しかし、都会生活を捨てて、沖縄地域を第二の故郷として選ぶ人々も多いと聞く。所得水準だけでは表せない、幸福度があるのだと思う。こちらも、「住めば都」なのである。


 

2つの台風(2023年8月9日)

    台風7号は、小笠原諸島を経由して北上し、紀伊半島から本州に上陸した。台風の最盛期には良くあるルートで、日本列島各地に大きな被害を及ぼした。ここでも申し訳ないが、やはり自分の住む地域に直接の被害が無いと、テレビ報道での情報収集のレベルになってしまう。
 そして、『台風被害が嫌だったら、故郷を捨てて、佐久へ移住しておいで!』と、つぶやいてしまう。ところが、その土地で暮らす人々は、それぞれの事情を抱えていて、故郷を捨てられない現実生活という柵があるらしい。
 私が、似た状況に遭遇した場合、どうするかと考えれば、打算や感情だけでは、生きていく場所を選ばない。もっと、ずっと大きな情念世界、すなわち運命とも信念とも区分はできないが、明らかに合理性を越えた心情によって、災害の地を離れられない行動をすると思った。まさに、「住めば都」なのだろう。
 最後に、「かたす」は、「片づける」の意味の東日本、特に関東地方の方言で、東京都市圏にも伝わったようなので、使ってみることにした。

 


 【俳句-③】は、送り盆(8月16日)の時、送り火(魂送り)を焚いた煙の行方を追って上空に目をやると、星空が広がり、煙がそのまま天に届いたかのような思いに駆られた心境を詠んでみた。季語は「魂送り」で、秋である。
 ちなみに、たなびく稲藁の煙が地上から空に昇って、白く霞んだかと錯覚した「星の川」は、『天の川(Galaxy or, Milky Way)』を連想するようで格好良いかなと思い、下五に採用してみた。「天の川」は秋の季語なので、使った場合は季重なりとなってしまう。
 当日の日中は曇り空だったが、夕方から雲が切れ、晴れ間が広がった。それで、星座早見盤を使って星空観察をした。全天が観察できたわけではないですが・・・。

 

夏の大三角形と天の川

 【写真】は、夏の大三角形と天の川の画像です。(インターネットから引用)
 銀河系の構造から、星が密集している方向を見ると、無数の星の光が重なって白く(ミルクのように)見えるのが、天の川です。全天88星座のひとつの星座・白鳥が、この上を飛ぶように見えます。両翼を広げた白鳥の尾に当たる位置に、一等星デネブ(Deneb)が見えます。白鳥の頭側に、天の川を挟んで対峙するのが、牽牛星(彦星)と織女星(織姫星)です。それぞれ、鷲座の一等星アルタイル(Altair)と、琴座の一等星ベガ(Vega)です。2つの星は、七夕行事では有名です。(「七夕」は、俳句の世界では、秋の季語になります。新暦の7月7日頃は、梅雨の真っ盛りで、快晴の夜空になることは少ないです。)
 上記の3つの一等星を結んでできる三角形は、「夏の大三角形」と呼ばれています。冬の大三角形シリウス(Sirius)、プロキオン(Procyon)、ぺテルギウス(Petelgeuse)を結んでできる三角形」とは、反対方向にあります。

                     *  *  *

 星を見ていて、「そう言えば、父の33回忌になるなあ」と、元号と西暦年度を計算しました。平成2年(1990年)から令和5年(2023年)で、33年が経過しています。
 後日、「回忌」をインターネットで調べてみると、仏教では、亡くなって1年後は「1周忌」、初めて迎える盂蘭盆会が「新盆」だが、2年後が「3回忌」となるようだ。つまり、数字は1年ずつ早まる。だから、「33回忌」は32年後となり、昨年の秋だったことになる。
 遥か昔になるが、7回忌の法要をした記憶がある。それにしても、1世紀の3分の1の年月は長い。この夏95歳となった母は、夫と死別して、その年月だけ長生きしてきた。もちろん、私もであるが・・・・。
 翌、8月17日には、お盆用の祭壇に並べた「位牌」を、元の仏壇に戻した。並べた時、位牌に書かれた戒名と命日を見ながら、祭壇への配列を考えたが、今度は、狭い仏壇なので、前列と後列の二列にしないと、置き切れない。
 各自の位牌は、仏壇の中で、線香の煙を浴びているので、色合いが微妙に違い、年季を経たと見えるものは、昔の人のものである。我が家は、祖父の代で分家したので、一番古い位牌は祖父の父、つまり私の曾祖父である。
 皆、高齢で亡くなっているが、唯一、戦病死した父の兄は25歳だった。写真でしか知らない人である。写真も無い人から記憶に残る人まで様々である位牌を手に取って、並べる年に一度の所作であったが、どうやら、お盆とはご先祖様と自分との関係史を思い出す行事でもあるようだ。

 

 【編集後記】
 
 俳句会の後、「はてなブログ」に挙げるまで、ついつい何日かを経てしまう。言い訳になるが、夏野菜の手入れや敷地内外の整備作業など、次々にやることが出てくる。今年も夏草の勢いは、まさに「半端無い」ので、草と追いかけっこであった。加えて、お盆明けから長年の懸案だった二階倉庫の片づけに挑戦したことも、影響している。
 二階倉庫には、祖母の時代からの古い寝具や食器類から始まって、四季の行事(雛祭り・鯉幟・恵比寿講)に使う品々等、とにかく雑多なものが詰まっている。中でも、大量の布団や座布団類は、完全に場所だけを占領している。

      *  *  *

 ここで脱線するが、個人の家に、なぜ布団類が大量に保管されているかは、都会の人や若い世代には、説明しないと理解できないだろう。
 戦前、戦後しばらくも、冠婚葬祭があると、自分の家はもちろん、近所の同族の家も含めて、訪問客を接待したり、宿泊させたりしたからである。葬式の場合が一番大変で、遠方から葬儀(前日の通夜)に来訪した方々を、本葬をしない家が泊めて接待する。これを「小宿(こやど)」と言う。・・・私が保育園の頃、一度経験している。交通手段がなかった時代の話である。
 このエピソードに象徴されるように、日常の行事に人が集まったり、親戚が泊りにきたりすると、少なくとも座布団や食器類は、10~15人くらいは必要となる。冬季の宿泊ともなれば、上掛け布団も一人2枚は無いと寒くて耐えられない極寒の信州佐久の地である。
 我が家の場合、祖父の葬儀(昭和44年冬)、祖母の葬儀(昭和62年秋)を自宅で挙行したのが最後だったが、平成の声を聞く前後して、冠婚葬祭は、全て関連施設やホテル等で行われるようになった。だから、既に無用となった品々であり、新築されたお宅では、処分されたと思う。
 ところが、我が家では、「祖父母が、苦しい生活の中から工面して用意した調度品なので・・・」と、捨てずに保管し、さらに、次々と追加してきた。
 『使う当ても無いので処分して欲しい』と母から言われていたが、定年退職後も、ついつい先送りになっていた。

   

軽トラに布団を載せる


 

 

               *  *  *

 さて、話題は戻る。極めて丈夫な妻が、かぜを引き、腰痛で寝込んだのが契機となった。低い整理能力にも関わらず、もったいながって捨てられず、何でも貯め込む妻の居ぬ間に、私と長女で思い切り良く断捨離を実行に移すことにした。
既に結婚して家を出ている二人の娘の書籍や衣類等も多量に残されたままである。倉庫をやった勢いで、隣の書斎(図書)と周辺の部屋も対象とした。「断捨離」の発想は、何が不要で何だけ残すかの選択を、妻にも迫る効果があったようだ。
 詳細は省くが、やはり、「もったいないことをしているなあ」という気持ちは、最後まで捨てきれなかった。ちなみに、二階倉庫の食器類や古物は、来年以降の課題として残ったままだが、片付くことの良さを実感した、今年の夏だった。(おとんとろ)

 

令和5年 7月の俳句

         【文月の句】

①  暁の 冷気に背伸び 花擬宝珠

②  らっぱ飲み 鍔より見上ぐ 雲の峰

③  古稀にして ソバーキュリアス 夕焼け雲 

              《夏の一日》

 

 昨年は、異常に短い梅雨で、早い梅雨明けの後、佐久市では、6月下旬~7月始めにかけて猛暑日が続いたが、今年は、寧ろ雨の少ない梅雨を迎えている。
 梅雨前線の動きを見ると、関東甲信地方の梅雨入りが発表された6月8日から7月9日頃までは、沖縄地方から次第に北上してきて平年通りの梅雨かと思っていたら、留まることなく、一気に東北地方まで北上してしまった。梅雨前線は、水蒸気を多量に含んだ温暖な空気塊が前線面に添って西から東へ流れる「大気の川」と呼ばれる現象で説明できる場合が多いことがわかってきた。今年の場合、中国の揚子江の北部付近から朝鮮半島の中央部、日本海を経て、東北地方北部、そして太平洋へと流れる2000㎞以上にも及ぶ大気中の大河が、同じ地域の上空に居座って大雨を降らせていた。被害は九州各地と山陰地方、北陸地方、そして最後は東北地方へと及んだ。一方、梅雨前線が留まらなくて移動した地域、特に関東地方では、猛暑日が続いている。佐久地方でも、すっかり盛夏である。
 俳句での七月は、晩夏ではあるが、現実は夏真っ盛りなので、私自身の「夏の一日」をテーマにして、俳句(朝・昼・夕)の三題を創作してみようと思った。


 【俳句-①】は、朝の冷気の中で、背伸びをして深呼吸をする。その先には、同じく背伸びをしているかのように、台座のような葉から、すくっと茎が伸びて擬宝珠の白い花が咲いている様を詠んでみた。
 「(花)擬宝珠(ぎぼし・ギボウシ)」が、夏の季語である。

擬宝珠(ぎぼし・ぎぼうしゅ・ギボウシ)

 【写真】は、我が家の庭の一部で、アスナロの木の下に「ギボウシ」が咲いている。
 朝の日課のひとつは、自宅露地の防犯灯を消して、門のゲートを開ける。それから、味噌汁とポテトサラダと、今は夏野菜料理を作る。出来上がったところで、新聞受けに「信濃毎日新聞」を取りにいく。
 新聞は、朝食後に読むことになるが、新聞受けが門の内側にあるので、毎朝配達してくれるHさんが配る前に、ゲートを開けておかないといけない。だから寝坊は許されない。
 その折、晴れて気持ちの良い朝は、思わず腕を上げて背伸びをしながら深呼吸をする。今頃は、ヤマユリオニユリも咲いているので、そちらの匂いもしてくる。そんな朝が迎えられると、今日も一日頑張ろうという気持ちになる。

 


【俳句-②】は、十分過ぎるほどのお茶を飲んでから、野良仕事に出掛けるが、汗になって出てしまい、冷水を入れた水筒から「ラッパ飲み」をする。帽子の鍔(つば)が見えるほど顔を上げるので、夏空が良く見える。水の「うまさ」と白い雲の「爽やかさ」に感動したことを詠んでみた。季語は、「雲の峰」である。

 

入道雲

巻積雲 【巻(or絹)雲より少し低空】

 
 この俳句を内輪の句会で披露した時の季語は、「夏の雲」でした。また、実際に目撃した雲の種類は、巻雲や巻積雲などでした。
 『でも、鍔より見上ぐなので「雲の峰」というのも様になるけど、物理的には不自然だからなあ』と付け加えました。すると、会の仲間から、『俳句は自然観察記録ではないんだから、情緒がある方がいい』とアドバイスをいただき、「雲の峰」入道雲にすることにしました。
 一刻も早く水を飲みたいものだから、水筒を逆さにすると、視線は天頂に向く。すると快晴の日に見えている雲は、巻雲や巻積雲、場合によっては晴れ積雲である。実際、俳句の原体験となった空には、そんな雲が浮かんでいて清々しく涼しげに感じられた。
 一方、入道雲なら視線を少し上にするだけで見えるし、ラッパ飲みをするまでもない。もし、ラッパ飲みして入道雲が視線上にあれば、積乱雲の真下にいることになって、空は真っ黒で落雷の恐れもある。そんな気持ちから、「夏の空」にしようかに迷い、「夏の雲」にしたのだが、文学的には、確かに雲の峰の方が、ずっと趣がある。

 

【俳句-③】は、古稀、すなわち70歳にして夕焼け雲が美しいと感動したことらしいとはわかるが、説明を聞かないと、何のことか理解できないだろう。実際、補助説明がないとわからないような俳句は、明らかに下作だと言わざるを得ないが・・・。季語は、夕焼け雲で、「ゆやけぐも」と読む。夏の季語である。
 「ソバー・キュリアス」とは、英語の「sober(酒を飲んでいない、しらふの)とcuriour(興味がある)」の造語で、お酒が飲めないので飲まないのではなく、お酒は好きで飲めるのだけれど、健康やその他の目的で寧ろ飲まない生活をしようという現代のトレンドだそうである。若者の間に広がりつつあり、欧米から日本にも、その波が届き始めていると言う。それまでの日本語では、「断酒」という言い方に近いことになるが、少しばかり理論武装した哲学がある雰囲気もある。
 実は、私が、もうじき古稀を迎えるのだが、この「ソバーキュリアス」な生活を始めようと決心した。これまでの人生の中で、既に、「禁酒」や「断酒」は、何十回、否、何百回も試みてきたが、せいぜい、連続3~4日間ぐらいが限界で、
試みの回数分だけ挫折してきた。

 同じような試みと挫折は、喫煙でも経験してきた。こちらは64歳を迎える夏を境に、きっぱりと止めることができた。煙草を吸いたいのを我慢していた苦痛や、喫煙所を捜し回った煩わしさは、私の中で昔話となった。
 それで今度は、古稀を迎える夏に、「禁酒」でも「断酒」でもない、「ソバーキュリアス」な生活をしようと、少し本気を出して誓ってみた。

夕焼け雲は美しいが・・・

 野良仕事をして、気持ちの良い汗をかき、体調も良いと、アルコールが欲しくなる。朝や日が高い時は、アルコールの「ア」の字も頭に浮かぶことはないが、
夕方になると、美しい夕焼け雲を眺めていても、心が「そわそわ」してくる。
 それで、「ついつい」という経験を何度となく繰り返してきたが、この俳句を創作した時は、約1カ月間、飲むのを止めていて、夕焼け雲を見ても、誘惑されない自分がいることに気づき、自分への応援歌のつもりで、俳句を詠んでみた。
この先、どうなることやら?


【編集後記】

 「花擬宝珠」の季語は、初めて使ってみました。先輩Sさんの話では、人気の季語であるらしい。確かに、草花の特徴の他に、名称でも趣がある。
 ちなみに、植物分類では、キジカクシ科・リュウゼツラン亜科ギボウシ属で、学名「Hosta」の総称である。名称については、擬宝珠(ぎぼうしゅ)の転訛であるようだ。蕾や包葉に包まれた若い花序が、擬宝珠に似ていることに由来する。各地での地方名もあるようだが、英語名「plantain lily」は、「オオバコ・ユリ」と訳せて、オオバコの葉に似た葉の拡大形なので、納得してしまう。
 
 ところで、「ギボウシ」は、我が家の庭の少し日陰な一画にあるが、歴史から言うと、比較的新しい部類になる。
 すぐ後ろの「アスナロ」は、父の存命中の植樹だが、それ以降である。「チャボヒバ」「ムクゲ」を、私が除いた後なので、少なくとも平成に入ってから植えられたと思う。

ハイジの里のバラ(ギボウシの葉の手前)

 ここで話題にしたいのは、最近、北杜市の「ハイジの里」を旅行して、綺麗な薔薇を購入してきたことだ。狭い庭には様々な思い入れの草花が既に植えられているので、ギボウシの横にようやくスペースを見つけて植えた。5月連休前には、深紅の花を付けて目立っていたが、ギボウシが大きく背丈を伸ばしてくると、埋もれてしまっている。ギボウシの花が枯れて、葉っぱだけが目立つようになると、再び見えるようになると思うのだが・・・。

航空機から見た「金床雲」(インターネットより)

 入道雲の話題があったが、写真のような巨大入道雲の画像を見つけた。「金床(かなとこ)雲」である。雲の上限は、対流圏と成層圏の境で、まさに空の天井に上昇気流が激しく突き当たって横に広がっている姿だ。季節や緯度によって差はあるが、高度は、約1万mである。
 私たち世代は、中学校の技術・家庭科の時間に金属加工の単元があり、実際に金床を使ったので、懐かしい響きと共に理解できるが、若い世代では、知らないようだ。形は本当に良く似ている。

 金属加工で、製作した「文鎮」は、奉燈俳句の俳額を墨書する時に使っている。トタン板材で作った「ちりとり」は、取っ手は無くなってしまったが、まだ残っている。半世紀以上昔の物が残っているのはすごいと思う。(おとんとろ)

令和5年度6月の俳句

 

 

   【水無月の句】

 

① (蛇を威嚇する四十雀に気づいて)
  鳴き烈(はげ)し 親鳥助け 蛇払う

② (MRCP検査の奇怪音の中で)
  異空間 命に気づき 汗が引く

③ (農作業もなく俳句を練る一日)
  雨一日(ひとひ) 一人居の友 時鳥

        《音について三題(前書に挑戦)》

 

 気象庁からの「梅雨入り」は、西日本全域と東海地方で5月29日と発表された。6月8日には、関東・甲信地方でも平年並みと、それに続いた。
 しかし、今年の6月も、やや異常気象気味で、雨の降り方が尋常でなかった。南太平洋で発生した台風の北上に伴い、台風からの湿った大気が停滞前線の雨雲を発達させ、大雨を降らせた。さらに、インド洋上とチベット高気圧の気圧配置も影響しているようで、西から移動してくる前線自体も水分量が多かった。この為、集中豪雨ですっかり知名度を上げた「線状降水帯」もできて、太平洋側各地に大雨を降らせた。6月中旬段階で、既に平年の数倍の降水量に達している所もあり、被害も出ている。
 佐久地方では降水量が多いものの、幸い被害は無い。今のところ、夏野菜への水遣りをしたことがないほど、適度に定期的に降ってくれていて、助かっている。 ところで、梅の実の収穫や草刈り、庭の手入れ等は、梅雨晴れを選んでしているのだが、5月に受けた人間ドックの結果、精密検査が必要な検査項目が出てきて、病院通いの日が増えてしまった。それで、かなり多忙な毎日となっている。
 今月は、「音について三題」と題して、音に関して印象深かった出来事を俳句にしてみた。その際、17文字では、どうしても俳句の内容が表現できないので、「前書」を添えてみることにした。もともと私の俳句は、飛躍し過ぎで説明を聞かないと、わからないと指摘されることが多い。今月の俳句では、特に必要なのかもしれない。まずは挑戦してみる。


 【俳句-①】は、四十雀の親鳥(メス)が、何かに向かって烈しく鳴いては離れ、再び立ち向かうという行動を繰り返していた。何の意味か最初は理解できなかったが、親鳥の向かう先を覗き込むと、シマヘビが見えた。私は慌てて手箒で掃き出して、蛇を追い払った様を詠んだ。季語は、「蛇(へび)」である。

軽トラ用車庫の隅に巣があった

 4月中旬から車庫で鳥を見かけた。種類もさることながら、蝶々や蜂を見かけた時ぐらいの感じで接していたが、ホバリングをして車庫の一角を烈しく鳴き立て、一旦、外に出た後で同じ行動を続けるので、気になって隅を覗き込むと、シマヘビがとぐろを巻いているのが見えた。一瞬にして、親鳥が雛(ヒナ)鳥を守ろうとしている威嚇行動だと理解した。
それで、ゴム手袋はしていたが、少し怖いので、手箒で、とぐろの上から掃き出すように圧力をかけた。蛇は、どういうルートで車庫から逃走したか確認できなかったが、鉄骨の梁や家具の隙間を見ても跡形もないので、逃げ出したようだ。
 ただ疑問に思うのは、大きなアオダイショウならいざ知らず、小さなシマヘビが、かなり大きく育ったヒナを飲み込むのは無理なのではないかと思った。

 さて、車庫の南東隅に巣があることがわかった。『ピーピー』と鳴くのでセキレイの類かと思っていたら、私を天敵から救ってくれた恩人と感じたのか、近くを親鳥が歩くようになった。改めて見ると、通常は『ツツピー』『ツピツピ』と特徴的な鳴き声をする四十雀(シジュウカラ)だとわかった。
 それ以来、農作業に出かける前と帰宅した時に、巣を覗いて雛鳥たちの様子を見守った。車庫にカメラを用意しておいて、雛鳥の様子や、雄と雌の番で、餌を運んでくる様子を撮影した。さすがに、農作業に行かずに、近くで待機していて餌を雛に与える場面までは無理だった。

シジュウカラの雌(♀)

 

頻繁に餌を捕らえて運んで来る

だいぶ大きくなった雛鳥

 6月8日午後2時、曇り空だが、農作業に出かけようとしていた時、四十雀の警戒音に似た烈しい鳴き声を聞いた。再び、蛇の襲来かと急行すると、巣は空っぽで、3羽の雛鳥は消えていた。私が大騒ぎをしていると、妻も家の中から出てきた。

昼間は、巣の外に出ている

空っぽになっている巣

 上空の電線に止まった親鳥がしきりに鳴いている。
(ア)雛鳥が巣立って外には出たものの、うまく飛べずに地上の草むらにいるのか? 

(イ)もっと大きな蛇に食べられてしまったのか? 

 妻は、『一羽、灰色なのがよちよち歩きをしていた』と証言した。2羽の鳥が電線にいて、雄ではないので、1羽は、巣立った子なのかもしれない。
 しかし、親鳥はいつまでも呼びかけをしていたが、子らは現れなかった。 私も、番の他に1羽を合わせた3羽同時には見ないと、信用する気にはなれない。何より残りの2羽は?
 さまざまな疑問と不安を残しながら、家の周囲を見回ったり、空をいつまでも眺めたりしていた。
 傑作なのは、敷地内を歩いていて、西口で、シマヘビを見つけたことだ。例の蛇とは限らないが、もし、シジュウカラの雛鳥を食べたらお中が膨らんでいるはずだが、あまりにスマートで、人の足音を聞いたら、縁の下に滑るように入って行ってしまった。なぜか、不安もあったが、安心した。
 翌日には、親鳥の呼びかける絶唱の声は消え、いつも通りの『ツピツピ』のリズムの鳴き声が聞こえてきた。3羽は巣立ったのだと思いたい。

 

【俳句-②】は、狭苦しい検査機械(カプセル)の中で拘束され、奇怪な振動音を聞いた時、『癌に侵されずに、生命は続くのだろうか?』と、生命体としての自分の存在を自覚し、ぼんやりと生きている姿を自省し、愚かな存在を正そうとしたことを詠んだつもりです。少し真面目な気持ちです。季語は、「汗」ですが、この場合、暑くて出る汗でなく、冷や汗の方です。

 先月(5月)の俳句の中に、『蒲の穂や 十年ぶりに ドック受く』というものがありましたが、古稀を前にして、受けた人間ドックり結果、いくつか精密検査の必要な箇所が明らかになりました。
 そのひとつは、「主膵管の肥大」でした。今月は、①CT検査、②MRCP検査、③超音波内視鏡(EUS)検査の3つの方法で、精密検査をしていきます。
 私は、気が小さい方だと思いますが、ある意味では鈍感で、楽天的な所もあります。かなり危険な段階と生存率の「肺癌」手術が済んでから5年間生存できたことから、前にも増して、『人は運命に従って生きれば良くて、物事は生きている限り何とかなるさ』と思うことにしています。ただ、このような態度は、大切な事に面と向かって、将来について考えることが必要だとは思いながら、いつもそれを避け、問題を先送りしていることなのです。

 ところが、6月9日のMRCP検査の最中に、気づくことができました。
 まずは、この検査内容を知らないと、私の気持ちや心がけが、なぜ変わったかという経緯が理解できないと思いますので、説明します。
 MRI(磁気共鳴画像)検査の中で、胆管と膵管に特化した検査です。今や比較的主流となりつつあるCT検査と違い、X-ray(レントゲン線)は使いません。
 強い磁場の中で電波を照射し、身体の内部の様子を画像化します。私には、それ以上の原理は不明ですが、X-rayでは簡単に通過してしまい見落としてしまう部位を詳しく調べられます。ただし、ディメリットは、長時間かかること、電磁波の反応で大きな音が発生することです。脳や脊椎・神経・血管・筋肉などには特に有効だと言います。
・・・この時、私が、強烈な印象を受けたことは、狭い空間の中での検査だったこと、奇怪な音の世界に、長い時間(この場合30分間)、しかも動かないようにと拘束されていたということが、大きな要素でした。
 『苦しくなったら、これ(握る装置)で知らせてください』と渡された器具を握ろうかと思う瞬間もありましたが、基本は、自身の検査だから我慢すべきと思いました。それに、「脳のMRI」を以前にやった経験者ですから・・・ですから、
検査を中断する意思は基本的に無いし、してはいけないと思って臨んでいます。
 しかし、検査技師の方には悪いのですが、なぜか、非日常的な奇怪音と共に、無理難題を押し付ける指示に、地獄の獄門台の上に、私が拘束されているように感じた場面も、いくつかありました。
 『息を吸って、吐いて、止めてください』
 一番最初に、私は、この指示通りにしました。深呼吸をして、思い切り吐いて、その後で止めたら、10秒間が苦しくて仕方ありませんでした。どうやら、息を止めて、動かないでいることが目的のようで、軽く吸って軽く吐いて、酸素を温存しておくように修正しました。
 最初は、私の為の検査だと、我慢していましたが、途中で奇怪音の音調が変わります。終わりかなと思うと、再び、先ほどの内容が繰り返されました。受け止め方では、快適に感じられる部分や段階もありましたが、全体的には、やはり苦痛でした。
 そんな時、閉じた目を開けると、目の前には検査機械装置の壁面が迫ります。そして、拘束されて自由になれない身体があります。どう、好意的に解釈しても、もし、想像上の地獄があるとしたら、これに近いなと思いました。つまり、『癌に侵されているのかもしれない。この検査で、それが証明されるのかもしれない。もう少し、真面目に生きれば良かったな』等と、人生を後悔するフレーズとセリフが脳裏を駆け巡っていました。


【俳句-③】は、梅雨入りし、終日雨の一日、俳句会に向けて構想を練っていると、時鳥(ホトトギス)の鳴き声が聞こえてきた。和歌や俳句などに良く詠まれた「ホトトギス」を題材にしてみようと思い、一人居の友と詠んでみました。
季語は、時鳥です。「子規」・「不如帰」・「杜鵑」・「蜀魂」などの漢字も全て同じホトトギスと読みます。

ホトトギス

 鳴き声は耳にしても、実物は写真でしか見たことはありません。嘴(くちばし)を開けると、真っ赤な喉が見えるところから、『啼いて血を吐くホトトギス』との言葉があります。
 結核を患って、若くして亡くなった正岡子規は、喀血した自分をホトトギスに似せ、また、幼少の頃の名前(常規・つねのり)の「規」の字があることから、「子規」を俳号としました。俳句雑誌名を『ホトトギス』としたのは、この俳号に因んだものようです。(明治23年の資料)
 特徴のある鳴き声は、風情があっていいなあと思いました。


         編集後記 

 「梅雨晴れ」が続き、小梅の収穫に続き、梅の収穫をしました。2時間半休まず収穫してケース2.5個ぐらいのペースで、8個のケース分を収穫しましたが、まだ残っています。ケースが、これしか無いので一端中断です。近く帰省する妹と知人に数個ケース分を持って行ってもらい、ケースが空いたら収穫する予定でいます。今日は、太平洋側を中心に雨の一日でしたが、佐久地方でも弱い雨が断続的に続き、終日デスク・ワークでした。

カッコウ

 さて、本文【俳句-③】で話題にした「ホトトギス」について、「カッコウ」のことも話題にします。
 季語・時鳥(ホトトギス)は、実際に鳴き声が聞こえていたので採用した訳ですが、郭公(カッコウ)ではどうでしょう。
実際、カッコウが盛んに鳴いていた時もありました。
 カッコウ(郭公)とホトトギス(時鳥)が、同じホトトギス科の渡り鳥で、見かけだけでなく、生態が似ているということは、大人になってから知りました。
 私の幼少時代から、進学で佐久を離れるまで、我が家の近隣で初夏に鳴くのはカッコウばかりで、文献上有名なホトトギスの鳴き声は、後述するエピソードの頃まで、聞いたことがありませんでした。
 (これは、早春を象徴する「揚げ雲雀の囀りと飛翔」を、大学生になるまで実際に見聞きしたことがなかったことや、同様に、ゴキブリを佐久を離れ東京で下宿するまで見たことがなかったエピソードにも発展しそうですが、止めておきます。)

 平成9年(1997年)、私は「長野県M少年自然の家」に勤務し、主催事業のある時は、施設に隣接した職員宿舎に泊りました。初夏から夏にかけて、蓼科山の東側裾野の高地にある「少年自然の家(所)」は、とりわけ、夏至の頃の夜明けは早く、明るさから自然と目覚めてしまいます。
 ある時、文献で知っていた時鳥の鳴き声を聞きました。そして、有名な百人一首の『時鳥鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる』という和歌を思い出し、外に出てみました。奇しくも、南東の空に、白い下弦の二十六日月に近い月(有明の月)が見えました。時刻は、午前3時頃でした。
  私は、実際に時鳥の鳴き声を聞き、しかも、既に飛び去っていた時鳥を見た訳ではないものの、日の出前の下弦の月を見て、和歌の情景を理解できたことに感激しました。 
  ただ、和歌の作者・後徳大寺左大臣(藤原実定)は、詩歌管弦に優れ、藤原定家の従弟で、小倉百人一首の選者でもあることを知り、随分偉い人なんだと思う半面、へんなことも想像しました。夜遊びした朝帰りの実話じゃないの?と。
・・・月の学習で、『恋人と見た月は、三日月、それとも二十六日月?』などと言う学習問題で、意味深な授業をしたこともありました。

 

 子供の頃、初夏を象徴する郭公が、あれほど鳴いていたのに、今ではまったく聞こえず、代わりに時鳥が鳴いている。
 その移り変わりの趨勢について、私の想像だが、「托卵」という生態が影響しているのではないかと考えた。カッコウホトトギスも、他の鳥の巣へ自分の卵を生み付け、他の鳥の親鳥に面倒を見てもらうという不届きな習性があるという。最近の研究では、このゆゆしき子育ての実態に気づいた他の親鳥は、生み付けられた卵の段階で、放置してしまう例が知られている。
一方、カッコウホトトギスは、托卵する他の種類の鳥を新たに捜しているようだ。
 つまり、佐久地方の、少なくとも我が家付近では、カッコウ時代が滅び、ホトトギス時代へと移ってきているらしい。一方、托卵する相手も変わっていくらしいので、ホトトギス時代もいつまで続くかは、わからない。

カッコウの托卵

                      *   *   *

 最後に、「一人居の寂しさ」にふさわしい季語として「ホトトギス」を採用したが、「カッコウ」では明る過ぎる。良く「閑古鳥(かんこどり)が鳴く」と称し、盛らない店の営業を卑下するが、『郭公ワルツ(ヨハン・エマヌエル・ヨナーソン1913年作曲)』などを聞くと、「閑古鳥」のイメージと正反対である。それで、実際に聞こえた鳥の鳴き声という理由だけでなく、少ししみじみとして、趣深いホトトギスの方を選んだ。
 同時に、他の生態の鳥を想像して欲しい。雀や燕は、おしゃべりで、いけない。賑やか過ぎるし、群れや家族でいる雰囲気が常にある。鴉(カラス)も、夕暮れや夕焼け雲には良く似合うが、割りと複数か、集団での行動が多い。
  やはり、寂しさを共感してくれる鳥は、時鳥や郭公、場合によっては、鶯ぐらいが、ちょうど良いのかもしれない。
 今は、雨が一時的に上っているが、向山から時鳥の鳴き声が聞こえてきた。(おとんとろ)
 

令和5年度5月の俳句

      【皐月の句】

 

①  菖蒲湯の バスタブ狭し 爺と孫(こ)ら

②  蒲の穂や 十年ぶりの ドック受く

③  植田澄む 透ける葉影に 夕陽射す

               《5月の出来事》

 

 今年は、3月の気温が非常に高く、桜の開花は二週間以上も早かった。5月に入ってからも、夏日(5回)や真夏日(2回)と記録的な暑さの日もあった。後半は、大陸からの寒気が入り込み、周期的に雨降りもあり、変化に富んだ初夏である。
 3年前から、『夏野菜は五月連休が明けるまで待とう』と決め、野菜苗の購入は連休後にした。但し、「ズッキーニ」の苗は、苦労して見つけた昨年の経緯もあったので、先に購入した。
 今年の薬師堂・春祭りは、4年に一度回ってくる燈篭当番で、私たちは提灯の飾り付けをした。コロナ渦で中止されていた「やしょうま撒き」も復活し、盛り上がった。ほぼ同時期に、「佐久バルーン・フェスティバル」も盛大に開催され、佐久の空には熱気球が上り、一気に活気を取り戻した感があった。
 連休後、夏野菜の苗を急いで定植し、畑や農道の草刈りをして、例年のペースに戻った頃、今月の定例俳句会を迎えた。今月は、特にテーマは思いつかなくて、『5月の出来事』として、印象深かったことを俳句にした。


 【俳句-①】は、2人の孫と私の3人で「菖蒲湯」に入った時から、3年後、
同じ3人で、一緒に湯船に入ってみたら、身動きもできないくらい窮屈だった。
私は少しも成長していないのに対して、2人の孫は手足も長くなり、身体も大きくなったことを実体験したことの驚きを詠んでみた。季語は、「菖蒲湯(しょうぶゆ)」です。

 

菖蒲湯(令和2年5月)

 【写真(上)】は、令和2年5月に、3人で入った菖蒲湯です。
 それから、3年経った令和5年、私は66→69歳、孫の兄は5→8歳、弟は2→5歳へと、それぞれが3年ずつ成長が加わりました。 今年は、連休中に引っ越しがあり、兄が小学3年生への進級もあるので、3月下旬~4月始めに、長女らは6日ほど帰省しました。
 私が一緒の入浴を誘うが、兄は、一人で入る。しかし、明日帰るという晩に、私と弟が楽しそうにしていたので、後から風呂場に入ってきました。
 その結果、3人で湯船に入ることになったので、それが、この俳句です。だから、厳密に言うと、「菖蒲湯」ではないのですが、上述したように、3年の間に、孫たちは、元々、同年齢の子らより十分に大きい上に、さらに成長していました。私は、若者(孫)らの大きな変容に比べ、成長していない自分に気づき、すっかり、老いを感じてしまったのです。しかし、気持ちだけは、いつまでも若々しくありたいものだと思います。


 【俳句-②】は、人間ドックを受診したら、10年ぶりだということがわかり、随分、年月が流れたなあと感慨深くなった。同時に、その頃に見た「蒲の穂」を思い出し、その懐かしさを詠んでみました。

 手術後の定期検診を受けているので、「人間ドック」からしばらく遠ざかっていたが、関係機関から補助金がもらえるという情報を得て、受診してみることにした。
 病院の問診中に、2013年に受診していたことを知り、10年前だと気づいた。定年退職となる最終年度の1カ月前、59歳の時だった。そして、今回は、古稀を迎える前の69歳と6カ月目となった。
 幸い、手術した後の経過及び検査の結果も緊急を要する内容はなかったが、ピロル菌退治と大腸・膵臓の精密検査をすることになった。年齢より若姿を自認していても、叩けば埃が出る如く、調べれば身体のあちこちにガタが出てきている老体になってきているのは確かなようだ。

蒲(ガマ)の穂の群生

 さて、問題は季語である。10年ぶりの人間ドックに感激したが、それにふさわしいのは何かと思案した。その時、農作業が2日間も中断してしまうからと、人間ドック受診の前日に、堂入という山間の畑の草刈りをした時、思い出したことがあった。蒲の穂である。
 参考:(蒲・ガマ・学名:Typha latifolia L. ガマ科の多年草抽水植物。ガマの穂の花粉は蒲黄(ほおう)とよばれ、薬用にされる。)

 

 この畑は、沢状地形の中にあり、湧き水が畑の中央と西側を流れていて、水路は石垣で補強してある。その為、サワガニがいたり、カエルがいたり、それを捕食するヘビも多くて、草刈りをしていると良く目撃した。そして、一部にガマの群生もあった。時折、「生け花」用の素材にと、野良土産として持ち帰ったものだった。
 しかし、中部横断自動車道の敷設工事に伴い、地下水を大きなトンネル水路で一箇所に集中させ、畑の西側をコンクリート製のU字溝で流すようにしたので、湧き水が次第に無くなり、我が家の畑は乾いてきた。いつの間にか、ガマの穂も見られなくなってしまった。『そう言えば、この辺りにガマの穂があったなあ』とつぶやきながら、草刈りをした。それで、夏の季語「蒲の穂」を採用した。

 ちなみに、「因幡の白兎(古事記)」の大国主神(おおくにのぬし)が、ワニ(鮫)たちによって毛皮を剝ぎ取られた兎を治療する為の方策が、蒲の穂を敷いて休むことであった。これなら、人間ドックのイメージにも繋がると、一人で合点してしまった。

 


 【俳句-③】は、外出からの帰り道、我が家の水田に稲が植えられているのに気づいた。午前中に田植えが済んだようで、水は澄んでいた。太陽は、まだ西山の少し上方にあって、厳密には夕陽が射していた訳ではないが、今はまだ隙間だらけの水面に、稲苗の影が映って、すがすがしいて。もうしばらくすると、夕陽が葉影を照らす光景になるだろうなと想像し、詠んでみた。

夕陽と茜雲

 我が家には、小字名「六反田」と「森上」という所に水田があるが、森上の1反(10a)を家庭菜園として利用する以外は、大規模に農業経営をされている方に委託して、管理~栽培の全てをお願いしている。
 今や、稼働しているトラクターやコンバインに代表される農業用大型機械類は、価格が1000万円近いか、それ以上するものもあるので、それらを維持するだけでも大変で、私のようなものがする中途半端な経営ではとても叶わない。

 昔通りに家族で水田管理をしている方は極めて少数派となり、かつての兼業農家の多くは、水田管理を委託している。その結果、大規模経営をしている方や、農業労働者を雇い入れて企業体のような組織にしている場合も増えてきている。
米国の大規模農業や牧場経営では、広大な土地も含めて所有していることも多いが、日本の委託栽培を請け負っておられる方は、耕作の為の土地の管理と耕作・栽培だけを任されている。それでも、100ha(100町歩)近いか、それ以上を経営されている方もあると聞いた。
 さて、我が家がお願いし委託している方は、この地域で一番最初に六反田の水田から田植えを始める。「もち米」用のようだ。そして、森上の我が家の水田が一番最後となる。その差は3週間ぐらいにも及ぶ。
 同様に稲刈りも六反田から始め、最後は森上に、特に我が家の順番になる。一部を稲藁束(注*)にしてもらうので、稲刈りの終了を待って、果樹の敷き藁や保存用を軽トラックで運び出している。だから、六反田の田植えの始まりと、反対に、森上の稲刈りの終了は、いつも注意しながら見守っている。
 (注*:コンバインによる稲刈りは、稲穂の実だけを収穫し、稲の茎や葉は、細かく切り刻んでしまうのが普通である。稲藁として利用する為に、括り紐で稲束にする装置もある。切り刻んだ藁は農作業の障害にもなるので、その後で、回収したり、燃やしたりしてしまうこともある。)

田植え風景(インターネットから)

            *    *    *

 

 そんな背景があるので、六反田の我が家の田植えの始まりは、我が家から近い範囲の佐久平が、水だけだった「鏡田」が「植田」となり、その後次第に「青田」へと姿を変えていく農業歳時記の転換点にもなっています。
 日本の六季のひとつ梅雨を経て、真夏のうだるような時期を迎えます。ただし、風が吹けば稲の葉ずれがしたり、水田からの水の蒸発を想像したりして、少しは涼しげな風情もあります。時には、落雷や雷雨による大自然の脅威を感じたり、台風被害を心配したりすることも、自然と直接関わる農業の宿命です。
 田植えから、約5カ月後、水田は緑色から黄色~黄金色に変わり、稲穂が垂れて稲刈りの季節へと移っていきます。こちらもまた、刈り取りの済んだ田圃と、収穫前の田圃のモザイク模様が、高台から眺めることができ、趣深いものです。
 ・・・そんな、これからの稲の成長の周期を思いながら、植田を眺めました。

 

【編集後記】

 【俳句-③】で、佐久平の最近の農業事情の説明もしたが、初夏の五月連休期間中に、「佐久バルーン・フェスティバル」というイベントが、3日間開催されるのも、佐久平の四季の特徴を良く生かしている。

 【写真(下)】は、千曲川の河川敷を「熱気球」が出発地として、競技を行う会場の様子です。いくつかの競技種目の他に、係留した熱気球に見学者を乗せて、大空の冒険の一端を体験できる催し物も企画されている。

 新型コロナ・ウイルス感染拡大防止の為、数年間中止となっていたが、今年は、開催30周年を経た、第31回の熱気球競技大会も開催された。ほぼ、平成の歴史に相当する歴史ある佐久の名物のひとつとなっている。

 

佐久バルーン・フェスティバル

 その昔、私たちが小学~中学生の頃(昭和30年代後半~40年代前半)、義務教育学校には「お田植休み」という休業日が、週休日を含めて4~6日ほど年間行事に組まれていて、子どもたちが、農家の大切な補助労働力として、田植えの手伝いをしていた。

 その頃の田植え時期は6月に入っていたが、今では、年々早まり、大型機械を使った田植えは、5月いっぱいに完了している。それに伴い、水田に水を入れて耕作する「代掻き」作業がある。さらにその前は、「春ぶち」と呼ばれる耕作が行われる。

 「佐久バルーン・フェスティバル」の開催される5月連休の3日間(5/3~5/5)は、上述の「春ぶち」と「代掻き」の間の時期に当たる。つまり、水田は、柔らかく耕作されていて、水がまだ張られていない。

 知っての通り、熱気球には独自の推進力はなく、もっぱら風に任せて、吹かれるまま移動する。ただ、不思議なことに、上空と地上付近では、微妙に風向きや強さが違っていて、その複雑な気流を読んで、目的地に向かう。だから、当日の全体的な風向を見て、目的地(ゴール、もしくは通過点)を決めている。

 ところが、出場チームの中には、とういう風の吹き回しかわからないが、結構、見当違いの方向に流されていく気球もあった。

 私は、長年この地に住んで、何度か目撃しているが、一度は、我が家から南に見える山の中のわずかな所へ不時着したり、比較的近くの水田の中に着陸したり、はたまた、農道に着陸して車で応援隊がやってきて再出発する光景を見たりと、様々なトラブルも目撃したことがある。それでも佐久平の水田地帯は、比較的障害物はないし、何かあっても、どこにでも安全に不時着できる条件が備わっている。

 最近は、風向きが南西~西であることが多く、残念ながら、私の家の方に飛んでくることは減った。また、全体的な技術も向上したようで、見当違いの方向へ流されていく気球も無くなった。

 ところで、今年は、私たちの地元・倉澤薬師堂の春祭り(花まつり)の燈篭当番で、準備や片付けで気球は、遠くから眺めただけだった。そう言えば、我が家の森上の水田近くの川の堤防に、熱気球が不時着し、それをしっかり撮影したが、画像処理の段階で消失してしまったことを思い出した。来年は、しっかりと撮影したい。(おとんとろ)

 

令和5年度4月(奉燈俳句)

   【倉沢薬師・奉燈俳句】

  風にのる 梵鐘の音や 緑立つ

 

令和5年度 奉燈俳句額

 私は、退職後3年目の平成28年の5月から「前山みゆき会」に参加し、翌、平成29年度から、奉燈俳句に名前を連ねるようになった。
 長年、墨書は、高野玉峰さんに依頼していた。私が参加していから、額の俳画は、4月の句会で、皆で下絵を描いて、その後は、色塗りおよび修正を、私がすることになった。
 ところが、玉峰さんは、ご高齢で筆を持つと手が震えて書けないと言われるので、令和元年度からは、恥ずかしげも無く、私がチャレンジ精神で、墨書も含めて一手に引き受けることになった。
 それで、毎年、4月になると憂鬱になるものの、意を決して、何日間かは、書家兼絵師にでもなったつもりで、奉燈俳句の額の創作に取り掛かることにしている。描いたばかりは、高揚感もあって、少し嬉しくなるが、何日かが経過すると、墨書の出来栄えも含めて、未熟さを実感する。それでも、『素人の作品なんだから、愛嬌』と、自身を慰めている。
 それで、今年は5年目を迎えたのだが、本年度・【写真(上)】は、なぜか達成感が薄い。完成させたばかりは、少しだけ満足感が生まれるものなのだが・・・
なぜだろうか?
 その理由を探りたくて、令和になってからの奉燈俳句額を見返してみることにした。

令和元年度

令和2年度

 理由のひとつは、私自身の俳句の内容なのかもしれない。
 新しい年号を迎えた喜び(令和1年度)、東京オリンピックが延期されたこと(令和2年度)、夏のオリンピック開催への期待(令和3年度)、ウクライナ侵攻の平和への願い(令和4年度)と、倉澤薬師堂の神仏への「願い」が込められていた。ところが、令和5年度の俳句では、祈願するものがあまり感じられない。
 本年度の俳句の意味合いは、『薬師堂の梵鐘の音が遠くから聞こえてきて、趣深い。季節は緑立つ季節なんだなあ』という程度のもので、感動が十分に伝わらない。
 鐘を突いているのは、散歩の後、薬師如来へ参拝した後の私自身の所作であり、私にとっての日常である。まったく、変わり映えの無い状況であるからだ。

 二つ目は、緊張感の無い4月の生活があるかもしれない。冬の3箇月間、フルタイムで臨時講師で勤務した。そこで、若い人々と接して活力をもらい、新年度からは途絶えていた地質の「ブログ」を再開するつもりでいた。ところが、敢えて言い訳になるが、様々な理由もあって、生活が乱れてしまっていた。本当に、『人間は、"気"の動物だ!』とつくづくと思う。

 

令和3年度

 

令和4年度

 三つ目は、全体的に作品として、やはり失敗作だと感じている。    
 俳画のアイディアが思い付かなくて、我が家の庭の風景を画題とした。厳密には、赤松の下は「芍薬」であったが、少し離れた所にあった「牡丹」を描いた。
風景画にすると、素材が崩れそうなので、松と牡丹の周囲は白紙とした。
 そして、新聞紙で練習した後、清書を二回したがいずれも失敗した。三回目に挑戦したが、これも途中で間違えた。
 鉛筆やペン書きの文字と違い、太筆で書こうとすると、簡単な「ひらがな」すら間違える。それで、『もう、これ以上、墨書を続けても上手くならないだろう』と諦めて、二回目の作を採用せざるを得なかった。
 そんな個人的な背景があったのだが、令和5年4月27日(木)、「前山みゆき会」のH会長とSさんの協力を得て、昨年の奉燈俳句の紙を外して、本年度のものに張り替え、倉澤薬師堂・鐘楼の下に飾った。そこで、「来年こそは!」という気持ちになれた。更に、良いものを求めたいという向上心は大切にしたい。

           *   *   *

 最後の話題として、ひとつだけ期待していることがある。それは、本年度使用した絵具に、「パステル絵具」を採用してみたことである。
 昨年・令和4年度の「紫木蓮と観音像」は、使用した絵具の性質が原因なのか、夏を過ぎると色落ちが激しくて、見る度に気にしていた。参拝者は極めて少ない薬師堂ではあるが、地域の方の参賀する正月前にはと思い、薄れた色付けをした。それでも、4月に外した時は、再び色褪せていた。
 本年度使用したパステル絵具が、「乾いた後は耐水性もあり、色落ちしない」という説明通りの仕様であれば、作品としては、かなり不満ではあるが、色彩は鮮やかなまま残ることが期待できる。これからが楽しみである。

 

 編集後記

 当初は、自分の名前は匿名で、アルファベットで示していたが、こうやって、倉澤薬師堂の奉燈俳句額に、会員の名前が記されていると、必然的に氏名もわかってしまう。

まあ、それでも「おとんとろ」というペンネームで、「はてなブログ」には載せていきたいと思います。

 さて、今日は、かなり変わった話題を上げます。下の写真は、私の左手の親指です。

良く見ると、爪の先が紫色になっています。実は、これ、約4カ月前に、理科室のガラス窓拭き掃除をしていて、うっかり窓枠を強く閉めた時に皮下出血したことが原因で生じた怪我です。

 最初は、親指の爪と皮膚の「付け根」が、紫色に変色していました。私が鈍感なのか、痛みは感じましたが、それほど痛くて大変という訳でもありません。ですから、特に、気にすることは無いものの、なぜか紫色の変色部位が、少しずつ先端に向かって移動していくことの方は、興味深く見守っていました。

 そして、2日ほど前に、ついに爪の先端に来たことと、爪も伸びたので、爪切りをしました。ほんのわずかですが、先端部分は切った爪と一緒にとれてしまいました。

『これは、貴重なデータになるぞ』と思い、急いで撮影した次第です。人の爪の成長速度は、私の場合、4~5カ月ぐらいで、根本から先端まで、約1.5cm成長しながら移動していくことがわかりました。

4カ月かかって、紫の変色部分が移動した

  毎日、畑の点検をして、夏野菜の成長の様子を見ています。どうも畑の条件が良くないのか、緑色の色彩が、健康そうに色づいていかないのを心配しながらいます。

 今シーズンは、一週間ぐらいの周期で、適度な雨降りがあって、水遣りをすることがほとんどありません。今日は、大陸からの高気圧が停滞前線を押し下げて、佐久地方は晴れていますが、明日から再び、前線の影響で雨降りの予報です。もしかすると、そのまま梅雨入りに突入してしまうかもしれません。もう少し、日差しが欲しいです。夏野菜たちの成長を楽しみに、日々過ごしています。(おとんとろ)