北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和5年 8月の俳句

            葉月の句

 

① 人知れず いのちを生きる 錦鯉
② 台風禍 住めば都の あとかたす
③ 魂送り 煙のゆくえ 星の川  【夏のあとさき】

 

 佐久地方の8月は、1日の「お墓参り」から始まる。
 江戸時代中期の寛保2年(西暦1742年)、「戌の満水」と呼ばれる未曽有の洪水被害の追悼行事が、280年を経た今日でも続けられているからである。我が家でも、この慣習に従って、帰省した娘や孫を伴って墓参した。
 今年の7月下旬~8月中旬、日本列島を含む極東地域では、立て続けに台風が襲来し、大きな自然災害に見舞われた。地球温暖化によるものなのか、世界各地で、猛暑や旱、それに伴う山林火災被害も頻発した。さらに、国際紛争や内戦・飢餓、自国では将来への希望が持てず、脱出する難民の数も夥しい。
 一人日本だけが昔の災害を、静かに追悼できる平和社会である訳ではないが、国際政治や時事ニュースを見聞きするにつけ、我が国土や郷土が恵まれた土地であると、しみじみと思う。
 今月は、「夏のあとさき」と題して、たまたま「生死」に関わる出来事に触れる機会があったので、それらを俳句にしてみた。ただし、俳句として表現するには難しい題材だろうなという懸念はある。


 【俳句-①】は、一年前に行方不明となった錦鯉と再会して感動したことを詠んでみた。季語は、錦鯉で夏である。
 昨年の夏休みに帰省した長女が、イベントでもらう錦鯉の稚魚を、『実家には池があるので、特別に』と、冷水に酸素を溶かしたビニール袋に3匹を入れ、慎重に持ってきた。
 さっそく、水槽に移すと、元気が良くて飛び出してしまうものもいた。しかし、気に入っていた「青味を帯びたプラチナ色」の錦鯉は、金魚用餌をあまり食べずに死んでしまった。いずれ池に放流する予定でいたが、残り2匹は様子を見守ることにした。
 それは、池に流れ込む清水はきれいだが、長い間に落葉が溜まって、棒で池底を突き挿すとメタンガスが出てくるので、孫にも手伝わせて泥上げをしようと計画していたからだ。すぐに取り掛かったが、ヘドロ化した泥を持ち上げる作業は小さな子らには無理で、結局、私が孤軍奮闘することになった。水抜き、泥上げ、水の流入、そして、池の水が澄むまで待っている間に、紅白と黒の3色の錦鯉も死んでしまった。
 それで、池に放流するのは、錦鯉でも、頭が赤で、その他は尻尾まで黒色の、真鯉とあまり変わらない二色の錦鯉1匹だけとなった。元気がいいので、流出口から逃げ出さないように、厳重に金網を張った。
 ところが、放流してから数日後、行方不明になってしまい、隅々まで捜したが、見当たらない。そんなある日、何やら黒い生き物が水中を泳ぎ、コンクリートの敷居を乗り越え、水の取り入れ口から上流部に移動していく光景を見た。大きさは錦鯉より大きく、敷居を乗り越える時は四つ足で這う動作だったので、ネズミではないかと考えた。錦鯉は食べられてしまったのではないかと想像し、諦めた。


 それ以後、オオカナダモが繁茂して池を覆ってしまうので、何度も掬いあげて、畑へ移して肥料にした。その度に水面は広がり、池の底まで見える状態になるのだが、錦鯉のことは、すっかり忘れていた。
 この夏、池への流入量が多くなり過ぎ、石垣を浸透した水が地下水として道路に浸み出るようになったので、流入量を減らした。すると、水が停滞するようになり、大雨で池が濁ったことも加わり、アオミドロが発生した。美観が損なわれるので、アオミドロを除去し、水量を増やした。その折、1回目は蛙と思ったが、
2回目は魚影だった。いつか、昔のようにニジマスか鯉でも飼いたいと思っているが、現在、池に魚はいないので、誰かが、フナでも放したのかなと思っていた。
 そんな話をした翌朝、『昨年放流した赤・黒の錦鯉だ』と妻が言うので、半信半疑で静かに近づくと、確かに一回りも大きくなってはいるが、錦鯉であった。生き残って、冬を乗り越えていた。特別な餌はやらなかったので、池の中の動植物や昆虫などを食べていたのだろう。

様々な色と模様の錦鯉(にしきごい)

 

 ふと、昭和31年、第1次南極観測隊の犬橇犬として参加した「タロとジロ」という名前の樺太犬のことを思い出した。
 昭和33年2月、第2次隊は天候不良の為、野犬化・共食い防止の為、鎖につないで15頭の犬を南極に残さざるを得なかった。
 昭和34年1月、第3次越冬隊は、昭和基地で2頭の犬の生存を確認した。それが「ジロ」で、もう1頭も「タロ」と呼ぶと反応したので、兄弟犬だとわかった。鎖から首輪を外し、どうやって生き延びたかは諸説あるが、日本国中に感動をもたらした。(詳細は略)

映画「南極物語」兄弟犬


 この有名な「タロ・ジロ」犬の実話を基に、南極の厳しい環境下で、15頭の樺太犬の生への奮闘と南極観測隊員たちの交流の姿を描いた映画が、『南極物語』(昭和58年作品)であった。

          *   *   *

 話を錦鯉に戻すと、稚魚の時は、水槽の中を激しく動き回っていたが、再会した池の中では、必要があれば尾びれを使って移動するが、胸鰭を動かすぐらいで、ほとんど動かない。きっと、オオカナダモを掬い取って水揚げする時も、存在がわからないように、水草に隠れていたのだろうと推理する。池に一匹だけでは、寂しいので、今後、仲間を放流してやりたいと思っているが・・・。

 


 【俳句-②】は、台風による被災地の様子がテレビで報道される。被災された方々は、身の不運や窮状を訴えつつも、誰一人として土地を捨て去ろうとはせず、明日の生活の為に復旧作業に精を出す、未来志向が伝わってくる様を詠んでみた。季語は台風(禍)で、秋である。

台風5号(2023年)

 気象観測の統計上、台風の規模や人的被害・被害総額の大小は様々であるが、その台風による直接的な被害感覚は当事者でないと、本当の悲惨さと苦悩の中身は、わかり難いと思う。
 私の住む佐久地方では、「戌の満水」以外、全域に及ぶ台風被害の例は、伊勢湾台風(昭和34年)と台風19号(令和1年)ぐらいだったのではないかと思う。ちなみに、私が6歳と66歳を迎える年の夏であった。

 毎年のように日本を襲う台風に対して、佐久地方でも、それなりの影響や個別の被害はあるが、日本全体から見れば、比較的、台風による風水害等は少なく、恵まれた土地だと感謝している。それ故、まさに「住めば都」なのである。
 さて、今年の台風5号による中国、河北省やその中心・北京市での被害は、実に140年振りという規模の大雨によるものであった。情報が正確でない可能性もあるので数値は控えるが、元々年間降水量が少ない地域に、大雨が降ったので、河川の氾濫・家屋浸水・自動車流失の道路・山の崩壊による土石流・土地の流失や陥没など、およそ考えられる様々な被害があった。紫禁城天安門広場の冠水も象徴的である。ただ、日本の事情と違い、「調整ダムや河川の危険水位を越えた場合、優先する地域や構造物を水害から守る為、予め、たとえ人が住んでいても放流して良い対応策が決められている」という話題は、強烈だった。
 「多」を守る為に「少」が犠牲になると言う合理性より、「上」が生き残る為に「下」が消え去るという価値観の意味に聞こえたからである。いかなる立場の人権も基本的に平等と考えるキリスト教的発想(※注意)に根ざす民主主義の世にあって、主君への臣下の忠義を果たすという古風な美意識のレベルだからである。
(※注意:欧米人は、自国民や白人以外の人類は、劣ったヒトと、露骨な人種差別をしていた過去の歴史的事実もある。その意味で、現代の理想とする民主主義社会とは同一視できない。共産主義のめざす理想の平等社会とも違う。)

 

 

沖縄(台風6号の再来)

 台風6号(アジア名・カーヌン)による沖縄周辺の被害もすごかった。元々、琉球諸島や南西諸島は台風ルートに当たり、台風襲来になれてはいるが、気圧配置の関係で、一度襲来して大陸方面に去った後、再び戻ってきた。こんな2度目の被害も被ったという例は少ない。しかも、対策を取りにくい強風被害が大きかった。
 かつて私は、3泊4日の沖縄(本島)旅行をして、その魅力の一端と共に不便さも体験したが、毎年のように台風が襲来して何らかの被害のある島には住みたくないという思いは、冬季の暖かさでは挽回できない。しかし、都会生活を捨てて、沖縄地域を第二の故郷として選ぶ人々も多いと聞く。所得水準だけでは表せない、幸福度があるのだと思う。こちらも、「住めば都」なのである。


 

2つの台風(2023年8月9日)

    台風7号は、小笠原諸島を経由して北上し、紀伊半島から本州に上陸した。台風の最盛期には良くあるルートで、日本列島各地に大きな被害を及ぼした。ここでも申し訳ないが、やはり自分の住む地域に直接の被害が無いと、テレビ報道での情報収集のレベルになってしまう。
 そして、『台風被害が嫌だったら、故郷を捨てて、佐久へ移住しておいで!』と、つぶやいてしまう。ところが、その土地で暮らす人々は、それぞれの事情を抱えていて、故郷を捨てられない現実生活という柵があるらしい。
 私が、似た状況に遭遇した場合、どうするかと考えれば、打算や感情だけでは、生きていく場所を選ばない。もっと、ずっと大きな情念世界、すなわち運命とも信念とも区分はできないが、明らかに合理性を越えた心情によって、災害の地を離れられない行動をすると思った。まさに、「住めば都」なのだろう。
 最後に、「かたす」は、「片づける」の意味の東日本、特に関東地方の方言で、東京都市圏にも伝わったようなので、使ってみることにした。

 


 【俳句-③】は、送り盆(8月16日)の時、送り火(魂送り)を焚いた煙の行方を追って上空に目をやると、星空が広がり、煙がそのまま天に届いたかのような思いに駆られた心境を詠んでみた。季語は「魂送り」で、秋である。
 ちなみに、たなびく稲藁の煙が地上から空に昇って、白く霞んだかと錯覚した「星の川」は、『天の川(Galaxy or, Milky Way)』を連想するようで格好良いかなと思い、下五に採用してみた。「天の川」は秋の季語なので、使った場合は季重なりとなってしまう。
 当日の日中は曇り空だったが、夕方から雲が切れ、晴れ間が広がった。それで、星座早見盤を使って星空観察をした。全天が観察できたわけではないですが・・・。

 

夏の大三角形と天の川

 【写真】は、夏の大三角形と天の川の画像です。(インターネットから引用)
 銀河系の構造から、星が密集している方向を見ると、無数の星の光が重なって白く(ミルクのように)見えるのが、天の川です。全天88星座のひとつの星座・白鳥が、この上を飛ぶように見えます。両翼を広げた白鳥の尾に当たる位置に、一等星デネブ(Deneb)が見えます。白鳥の頭側に、天の川を挟んで対峙するのが、牽牛星(彦星)と織女星(織姫星)です。それぞれ、鷲座の一等星アルタイル(Altair)と、琴座の一等星ベガ(Vega)です。2つの星は、七夕行事では有名です。(「七夕」は、俳句の世界では、秋の季語になります。新暦の7月7日頃は、梅雨の真っ盛りで、快晴の夜空になることは少ないです。)
 上記の3つの一等星を結んでできる三角形は、「夏の大三角形」と呼ばれています。冬の大三角形シリウス(Sirius)、プロキオン(Procyon)、ぺテルギウス(Petelgeuse)を結んでできる三角形」とは、反対方向にあります。

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 星を見ていて、「そう言えば、父の33回忌になるなあ」と、元号と西暦年度を計算しました。平成2年(1990年)から令和5年(2023年)で、33年が経過しています。
 後日、「回忌」をインターネットで調べてみると、仏教では、亡くなって1年後は「1周忌」、初めて迎える盂蘭盆会が「新盆」だが、2年後が「3回忌」となるようだ。つまり、数字は1年ずつ早まる。だから、「33回忌」は32年後となり、昨年の秋だったことになる。
 遥か昔になるが、7回忌の法要をした記憶がある。それにしても、1世紀の3分の1の年月は長い。この夏95歳となった母は、夫と死別して、その年月だけ長生きしてきた。もちろん、私もであるが・・・・。
 翌、8月17日には、お盆用の祭壇に並べた「位牌」を、元の仏壇に戻した。並べた時、位牌に書かれた戒名と命日を見ながら、祭壇への配列を考えたが、今度は、狭い仏壇なので、前列と後列の二列にしないと、置き切れない。
 各自の位牌は、仏壇の中で、線香の煙を浴びているので、色合いが微妙に違い、年季を経たと見えるものは、昔の人のものである。我が家は、祖父の代で分家したので、一番古い位牌は祖父の父、つまり私の曾祖父である。
 皆、高齢で亡くなっているが、唯一、戦病死した父の兄は25歳だった。写真でしか知らない人である。写真も無い人から記憶に残る人まで様々である位牌を手に取って、並べる年に一度の所作であったが、どうやら、お盆とはご先祖様と自分との関係史を思い出す行事でもあるようだ。

 

 【編集後記】
 
 俳句会の後、「はてなブログ」に挙げるまで、ついつい何日かを経てしまう。言い訳になるが、夏野菜の手入れや敷地内外の整備作業など、次々にやることが出てくる。今年も夏草の勢いは、まさに「半端無い」ので、草と追いかけっこであった。加えて、お盆明けから長年の懸案だった二階倉庫の片づけに挑戦したことも、影響している。
 二階倉庫には、祖母の時代からの古い寝具や食器類から始まって、四季の行事(雛祭り・鯉幟・恵比寿講)に使う品々等、とにかく雑多なものが詰まっている。中でも、大量の布団や座布団類は、完全に場所だけを占領している。

      *  *  *

 ここで脱線するが、個人の家に、なぜ布団類が大量に保管されているかは、都会の人や若い世代には、説明しないと理解できないだろう。
 戦前、戦後しばらくも、冠婚葬祭があると、自分の家はもちろん、近所の同族の家も含めて、訪問客を接待したり、宿泊させたりしたからである。葬式の場合が一番大変で、遠方から葬儀(前日の通夜)に来訪した方々を、本葬をしない家が泊めて接待する。これを「小宿(こやど)」と言う。・・・私が保育園の頃、一度経験している。交通手段がなかった時代の話である。
 このエピソードに象徴されるように、日常の行事に人が集まったり、親戚が泊りにきたりすると、少なくとも座布団や食器類は、10~15人くらいは必要となる。冬季の宿泊ともなれば、上掛け布団も一人2枚は無いと寒くて耐えられない極寒の信州佐久の地である。
 我が家の場合、祖父の葬儀(昭和44年冬)、祖母の葬儀(昭和62年秋)を自宅で挙行したのが最後だったが、平成の声を聞く前後して、冠婚葬祭は、全て関連施設やホテル等で行われるようになった。だから、既に無用となった品々であり、新築されたお宅では、処分されたと思う。
 ところが、我が家では、「祖父母が、苦しい生活の中から工面して用意した調度品なので・・・」と、捨てずに保管し、さらに、次々と追加してきた。
 『使う当ても無いので処分して欲しい』と母から言われていたが、定年退職後も、ついつい先送りになっていた。

   

軽トラに布団を載せる


 

 

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 さて、話題は戻る。極めて丈夫な妻が、かぜを引き、腰痛で寝込んだのが契機となった。低い整理能力にも関わらず、もったいながって捨てられず、何でも貯め込む妻の居ぬ間に、私と長女で思い切り良く断捨離を実行に移すことにした。
既に結婚して家を出ている二人の娘の書籍や衣類等も多量に残されたままである。倉庫をやった勢いで、隣の書斎(図書)と周辺の部屋も対象とした。「断捨離」の発想は、何が不要で何だけ残すかの選択を、妻にも迫る効果があったようだ。
 詳細は省くが、やはり、「もったいないことをしているなあ」という気持ちは、最後まで捨てきれなかった。ちなみに、二階倉庫の食器類や古物は、来年以降の課題として残ったままだが、片付くことの良さを実感した、今年の夏だった。(おとんとろ)