北海道での青春

紀行文を載せる予定

燕去る(長月の句)

 ① いかづちは 戒めが如 地を揺らす

 ② 叔父逝きぬ 兄追ひ三十年(みとせ) 天の川

 ③ 沙汰も無く コロナ禍残し 燕去る 

 

 

 防災の日に始まる9月は台風シーズンでもあるが、今年は台風が日本にひとつも上陸していない。しかも、7月中の台風発生は0回で、4・5・8・9・10号は、いずれも沖縄付近から九州の西側を通り抜けて、中国や朝鮮半島方面へと向かうコースを辿った。ペルー沖の海水温が低下する「ラニーニャ現象」で、日本の上空を流れる偏西風が、大きく北へ蛇行していることが原因らしい。
 今月の重大ニュースは、7年8ヶ月に渡る長期間続いた第二次・安倍晋三内閣を、菅 義偉内閣官房長官が引き継ぐ形で、新内閣を組閣(9月16日)したことである。
 そして、今年は春から、叔父の逝去を始め、私とはそれほど年齢の離れていない知人や先輩諸氏の不幸が続いた。それで、「生きていること」を題材にして創作してみたが、風情ある秋にはふさわしくないと考え、暗い感じのする2句は排除して、1句だけを残した。

 

 【俳句-①】は、夜中の雷鳴を聞いていると、『人間ども、自然環境を破壊するな。馬鹿者!』とでも戒めを受けているように感じた、雷鳴と落雷の激しい様を詠んだ。
 9月5日の晩から6日未明にかけて、台風10号の本体は、遠く離れた太平洋上の大東諸島付近にあるのに、台風を取り巻く雨雲は遠く離れた関東平野から秩父山系に延び、激しい雷雨となった。
 群馬県(東)側から、しだい雷鳴は佐久地方に近づき、我が家の近くにも数回落ちたと思われる。窓ガラス越しの稲光と共に炸裂音が、山々に反響し、大地が揺さぶられる。ガラス板も震動する。「いかづち」か雷神が、私たち人類を戒めているかのようにも感じられた。

 地球大気は、少しずつ変化してきている。それに伴い、気象現象の揺れ幅も大きくなってきている。

 アマゾンの熱帯雨林では、焼き畑が行なわれていて、その煙は気象衛星からも観察できる。熱波によるカルフォルニア州の山林火災も続く。シベリア凍土地帯の融解による温室効果ガスの放出もある。それ以上に、世界各国での二酸化炭素排出量を減らそうとしているが、至難の技のようだ。これは、一個人の努力や心がけレベルの話で解決するような問題ではない。それでも、ただ放っておくことのできない問題である。

 雷雲は、西~南西方向に移動していったようで、雨脚も次第に弱まってきた。深夜の午後11時頃から2時間ほど、私は起きて、雷鳴と雨音を聞いていた。

 

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い か づ ち(落雷現象)

 

 【俳句-②】は、先月にも叔父の追悼句を詠んだが、ふとしたことで、父の死から30年目になることについて、特別な思いを馳せる気持ちになった。
 「9.11」は、「3.11」と共に、多くの人々にとって忘れ得ない日となっている。この日を前後して、我が家でも大事件があった。
 米国で「同時多発テロ事件」のあった平成13年の9月11日の夕方を、わずかに過ぎた12日の未明に、私の義父が亡くなった。一方、平成26年の9月13日未明には、出産を控えた長女が我が家で破水して、私と妻は、病院へ妊婦を搬送した。間もなく、明け方、孫が誕生した。
 ちょうど、明日が句会という9月13日に、そんな当時のことを思い出していたら、「生きること・生命」についてへの思いが移り、父たち3兄弟のそれぞれの寿命のことが頭を過ぎった。
 私が写真でしか知らない父の兄(伯父)は、終戦の翌年、昭和21年2月に戦病死した。生まれ故郷に帰還できただけでも幸福だったかもしれないが、享年は25歳である。私の父(次男)は、その44年後の10月に、肺癌で病死した。享年65歳であった。父の弟(叔父)は、それから30年後の8月に、肺炎症状が死因だが、ほぼ老衰死だった。92歳誕生日を迎えたばかりだった。
 同じ父母から生まれ、少年時代を仲良く過ごした3兄弟が、異なった生き方で寿命を全うしたわけだが、その歳月の差が、約4分の3世紀もの長きに渡った歴史の一部であったと思うと、ある種、運命もいうべき大きな天体力学の中で、繰り広げられていたのだと、しみじみと悟った。
 そんなイメージとして、季語「天の川」を使ってみた。

 

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盆飾りと位牌(令和2年夏)

 

 【俳句-③】は、気がつくと燕たちの姿が見えない。別れの挨拶もしないで、夜逃げでもしたかのように去っ後でも、まだコロナ禍は続いていることを、皮肉を込めて詠んでみた。

 オスカー・ワイルド(Oscar Wilde 1854―1900)の『幸せな王子(The Happy Prince)』のようなお話(メルヘン)の世界ではないので、燕が律儀に、人間に別れを告げて南の国に帰っていくということはあり得ない。

 春の終わりから初夏にかけて、燕がやってきて、『あっ、ツバメだ!』と飛行する姿を発見して驚くのに、なぜか、居なくなった時には気づけない。毎日、熱心に観察していれば、空の異変に気づいて、燕の渡り始めの日時を特定できるはずだが・・・。

 燕が居なくなって、きっと何日か経って、気づいているのだろう。毎年、来年こそは、「いつ来て、いつ去ったか」を記録しようとするが、果たせないでいる。

 まさに、本当に大切なもの、貴重なものは、無くなった時に、その有り難さに気づいたり、病気になって初めて、健康の有り難さに気づいたりするようなものにも通ずる。

「常態」を当たり前と意識してしまうと、慣れによる鈍感さは、感謝の念や物事を慈しむ気持ちも薄れさせてしまうようなものなのかもしれない。

 

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燕の飛行

【編集後記】

 序文の冒頭で述べたように、今年は特に夏以降、不幸が続いたことから、人の寿命について考えることがあった。その時、連想したのが、生前の私の祖父から聞いた、祖父のまたその祖父の『時世の句』のエピソードである。

 『以都萬伝モ 南賀良遍無登王 於母比柳茂 人ノイノチ盤 加幾リアル茂能』

(いつまでも ながらえむとわ おもひるも ひとのいのちは かぎりあるもの)

 ・・・・・実に単純な表現であると思う。おそらく最晩年の作と思われるが、生前に時世の句を毛筆で短冊に認め、本人の葬儀に訪れた親戚や友人らに配ったということを、祖父は私に良く語った。もしかすると、私の祖父は、短冊に書いている時に、その傍で見ていたのかもしれない。

 私たち一族は、禅宗寺院の檀徒で、葬儀も仏式だが、この時世を認めた主は、幕末から維新への転換期に、「平田派国学」を学んでいた人のようで、墓石は神式である。

 

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6代前の先祖の墓の前で

 有名な時世の句がある。調べれば、数えきれないと思うが、私としては次の二つが印象深い。

『散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』

  (細川ガラシャ・1600年、慶長5年)

露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

  (豊臣秀吉・1598年、慶長3年)   

 いずれも、安土桃山時代から江戸時代へと以降する頃の、有名人の時世の句であり、その人の生き様や生きてきたエピソードから想像すると、思わず、『うまい』と、作品としての評価をしてしまう。

 一方、先に紹介した私の祖父のまたその祖父は、名はあったかもしれないが、取り立てて、広く歴史に残る人ではありません。そして、作品はお世辞にもうまいとは言い難いです。

 しかし、自分の寿命は、運命とも、また神的な大きな存在から与えられたものであり、限界があることを悟ったこと、そして、著名人のような生き様を真似て、時世の句を認めたということに於いて、すばらしい先祖だったと思います。それを後世(私)に伝えてくれた祖父にも感謝です。