北海道での青春

紀行文を載せる予定

故郷として見た三宅島(前半)

 三宅島から故郷佐久に戻って、ひとつのことを考えている。

 それは、「もし、私が三宅島の村民であったら、あの玄武岩の火山島に戻るだろうか」ということである。
 本物の玄武岩溶岩にフィールドで触れてみたいという他愛のない興味と関心から、炎天下のスコリアの上を歩き、塩辛い汗が目に染みても夢中で、赤場暁玄武岩溶岩を目に焼き付けた。そして、既に固まって30年を経ている溶岩の産状から、真っ赤のまま流れ下ったであろうすざまじい姿を想像し、感激した。
 その意味で、私の三宅島自然観察の目的は、十分に達成されたのだが、自宅に戻って調査記録をまとめ終え、個人のページ作りになってから、どうしても頭書の疑問が湧いてきてしまう。

 

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赤場暁1962溶岩

 

 私の故郷・佐久地方では、毎年8月1日に、お墓参りをする風習がある。

 それは、寛保2年壬戌(みずのえいぬ)の年に千曲川流域を大洪水が襲ったことから「戌の満水」と呼ばれ、特に被害の大きかった旧暦8月1日(西暦1742年8月30日)には、271年を経た今でも、お盆の墓参りとは別に、犠牲者供養の為の墓参をする伝統が続いているからだ。お墓参りは、自分の直接の先祖というより、佐久の先人たちへの敬意を表し、自然災害が二度と無いことを祈り続ける伝統なのだと思う。

 しかし、別な解釈をすると、全国各地で様々な自然災害があったにも関わらず、佐久地方では、これを越える災害が、その後なかったことも意味している。寧ろ自然災害が少ない土地なのかもしれない。

 しかし、平成23年(2011年)3月11日に発生した未曾有の東北地方太平洋沖地震で、日本列島は、常に自然災害と隣り合わせていることを思い知らされた。

 例え、身近で災いがなくても、日本のどこかでは、毎年のように起きている。そのことに心を痛めながらも、どこか冷めた目で見ている自分がいて、これではいけないと首を振るが、それで為す術もなく、いつか現実の多忙さの中に埋没し、忘れてしまっていた。

 三宅島の人々は、雄山2000年噴火の後、4年5ヶ月間も、全島民が島を離れ、都会での避難生活を送った。そして、2005年2月に戻ることが許された。最後の一部解除が解けたのは、何と今年(平成25年)7月のことである。そんな事情を知り、わずか4日間、島で生活したことが、当事者意識を少しながら芽生えさせたのだろうか。急に興味本位で溶岩流を眺める気持ちが失せた。寧ろ火山活動が、怒りや憎しみに変わった。

 

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雄山と浅沼稲次郎の像

 しかし、どのような天災に襲われようとも、被災し避難した人々の内、極めて多くの人は、再び自分の故郷に戻っていこうとする。なぜなのだろうか。何が、人々を呼び戻すのだろうか。
 私ならどうすると、問いかけつつ、その答に共感するものがあり、そして悩んだ。

 

 【編集後記】 平成25年の夏休みに、三宅島の自然観察の旅に参加した。S先生とともに、地質調査部門を担当し、報告した。「研究のまとめ」の個人ページに載せたものである。今日は、その前半です。