北海道での青春

紀行文を載せる予定

柴犬物語(後半)

   姉妹犬の末路

 家内の友人から子犬(8ヶ月)でもらってきた柴犬のテリーであるが、5年後の秋に、4匹の子犬を生んだ。生まれた順にアース(♂)・シーザー(♂)・エル(♀)・ラブ(♀)と名付けた。
 子どもたちは、小学生ながらに、動物の妊娠~出産の秘密を理解していたらしく、
『あの茶色の野良犬が怪しい?』と、母犬テリーの相手を推定していた。時々、見かけた大きな野良犬のようだ。当時、我が家以外、近くで飼われている犬はいなかった。

 4匹の子犬は、人に例えれば「四つ子」になる。私たちが兄弟姉妹を意識しているのに過ぎないが、性格はかなり違っていた。母犬の母乳に食らいつく位置や行動に、子犬同士の争いがあった。兄アース犬は、何かにつけて堂々と振る舞い、姉エル犬が挙動不審な仕草をした。特に、上目使いに、何かを願い哀れむような目付きで私を見るので、不思議な子犬(エル)だと思った。

 4匹が庭の芝生で戯れいた時の印象では、妹ラブ犬が活発で、弟シーザーにじゃれつく。目新しい物に飛びつくのも2匹で、後から兄アース犬は参加するが、最後は
彼がまとめる。しかし、姉エル犬は、3匹の様子を見てから関わるという消極的な犬だった。

 人間の兄弟姉妹では、年齢と親の関わりという社会的な要素も加わり、基本的な部分は似ていても性格はかなり違うものだが、同時に生まれ育った犬たちも、ずいぶん違った行動をとった。有性生殖の「妙」を実感した。

 誕生からほぼ5ヶ月後、兄弟犬は、それぞれ家内の友人の所へもらわれていった。その晩、母テリー犬は、一晩中泣き明かした。子犬を呼ぶような嘆いているような、その悲しげな声を聞いていた私も、眠れなかった。しかし、翌日の午前を境に、ぴたりと止んだ。犬の記憶は24時間ぐらいなのかなと思ってたが、犬とはいえ、大いなる悟りを経て、諦めたのかもしれないと今は思う。

 その後、3匹は家族と共に散歩へ連れ出された。道路脇の石垣を好んで登る妹ラブ犬に対して、真似させようと綱を引いても拒む姉エル犬。反対に、水たまりも平気で好んで入るエル犬に対して、絶対に水を避けるラブ犬という対照的な行動もあった。「呼んだら戻ってくるような犬」にしたくて、煮干し餌で手懐けて訓練したが、綱を外すと、駆け回っていて、いつまでも戻らなくて困った。しかし、解き放たれた犬が野山を疾走する姿は、野生の狐のようで、さぞや嬉しいんだろうなと見惚れていた。

 その内に、エル犬が忠実に戻るようになった。そこで、2匹を綱で繋いで放した。
最初は私が呼ぶと、ラブ犬の抵抗に合いながらも、エル犬は戻ってきた。母犬テリーとのコンビでは、楽に戻れた。さらには誰が呼んでも、エル犬に先導されて戻ってくるようになった。

 ただ、私たちの要求レベルが上がると、呼んだ後、すぐに戻らない時、エル犬も、私に叱られた。困って救いを求めるような目付きで、私を見つめた。しかし、責任の多くがあるラブ犬を叱りつけると、顔をそむける。そこで、強引に両頬を押さえて、こちらに向けるが、目玉は横に反らして私と視線を合わせようとしなかった。本当に反骨精神旺盛な犬だと、あきれてしまった。子供らに人気のラブ犬は、風貌が良い。足が長く体格も良いが、毅然とした麗人の雰囲気がある。ただ、自主性が強過ぎて、主人の命令を素直に聞けない。

 そんなラブ犬に悲劇が訪れる。二女が高校3年生の春、大学受験で東京に出かけ、佐久に帰ってくる日の午後3時頃、東の石垣に宙づりになったラブ犬を私が発見した。石垣には爪痕が残り、もがき苦しんだことが想像された。まだ、体に温もりが残っていた。あいにく家族が不在で、私が留守にした2時間ほどの間の出来事だった。もう1時間ほど早く帰宅していれば、救えたかもしれないと後悔した。

 実は、ラブ犬は、私が1度、子どもに知らされて1度、既に計2度も、石垣の上のブロック塀から落下し、泣き叫ぶので救助したことがあった。その度に、厳重注意をしたが、懲りずに塀の上に登って景色を楽しんでいた。自業自得かもしれないが、犬を管理する人間の立場からは、犬の特性を考慮して他の犬の小屋と位置を換えるか、綱の長さを短くして登れないようにするか、逆に石垣の下まで長くするか等、何らかの措置をしておくべきであった。

 二女の悲しみは、誰にも増して大きかった。ラブ犬、8年と5ヶ月の生涯だった。
 運動能力や美貌にも優れ、自信があって無茶をする。何にも束縛されずに、自分の意思を貫き通す。そんな傲慢さが、身を滅ぼしたのかもしれないと思うと、この犬にとって、それも生き方だったのかもしれないと思った。

 その1年後の冬の朝、母犬テリーが亡くなる。家族全員に見守られての診療の後、室内の廊下で老衰死した。
 それで、いよいよエル犬だけとなった。子どもたちが大学生となって家を去り、途中から私も単身赴任となったので、家内が一人で世話することが多くなったが、休日や長期休みには、皆が揃い、4人で1匹を散歩させることもあった。
 このエル犬が、消極的で慎重な行動をする犬であることは、実は動物としては賢いことの裏返しだと理解するようになった。異物は口にしない。量の多い食事は残す。これは、晩年のテリーが貪り食いをし、自分の汚物さえ食べてしまったり、食事は残さず食べてしまったりする大食いのラブと比べると、明らかに異質だった。ある時、家族総出の外出があった時、仕方ないので2食分を与えたら、2回に分けて食べていたらしいことには驚いた。
 嫌がっていた高所だが、私が薬師堂の鐘楼で鐘を衝くのにも付き合い、階段の登り降りができるようになった。しかも、訓練によって、私の歩調に合わせて、一段ずつ対応できるようになる。若い頃は、私を引いていたが、私が歩みを止めると、同時に止まるように仕込んだ。挑戦したが、できなかったのは、車に乗ることだった。良く車の座席に犬を乗せて走っている車両を見る。あれは、とても羨ましかった。

 唯一の成果は、内山層の地質調査で、私が一人で仙ケ沢に入った時、嫌がるエル犬を軽トラの荷台に乗せて、連れていったことだ。山に入って綱を解いてやると、私がハンマーを叩いている付近を前後していて、とても心強かった。ちなみに、この沢の奥、標高1200mには、「日本で海岸線から一番遠い地点」の標識がある。

 エル犬は、家族から、とても大事にされた。平成25年3月、私と家内がバリ島へ出かけることになり、私の妹が留守の母を心配して帰省して、エルの食事にも配慮してくれた。元気に見えたが、平成26年の冬には急に陰りを見せた。帰省した長女が、最期は首輪の鎖を外してあげたいと言う。もう、自由になっても逃げ出す体力もないかもしれない。事実、解き放たれた芝生の上を歩き(写真)、疲れて寝てしまった。こうして、エルは、平成26年1月10日の早朝、亡くなった。発見は、またしても私である。
16年3ヶ月の生涯であった。柴犬としては、母(14年)より長寿の老衰死だった。

 

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亡くなる一日前、最後の立ち上がり

 【編集後記】 

  今でも強烈な印象で覚えていることは、本文の終末部分で記したように、『最期には首輪から鎖を外して、自由にさせて・・・(逃げ出す体力もないのだから)』と、長女が私に言った言葉である。

 社会生活の法律も含む管理上、飼い犬に首輪(役所登録の監察)を付け、鎖で拘束することは仕方のないこととは言え、一生を首輪と鎖で繋がれた牢獄生活を送ってきた動物である。そう思うと、もう先、何日も無い命の中で、繋がれた状態から自由になれる時間を味合わせることができる。

 実際、芝生で鎖を外すと、倒れてしまった。私たちが見守っていると、しばらくして、最後の力を絞り出すようにして立ち上がったのだ。私は、そんなけなげさも忘れられない。