北海道での青春

紀行文を載せる予定

冬晴れの佐久平(師走の句)

① 水掻きは 冷たかろうに 風に抗(こ)

② 風神は 木の葉小判を 吹き溜めし

③ 行く水の 瀬音健気に 年惜しむ

 

 コロナ禍で忘年会も自粛のご時世だが、ふだん外出の少ない人々が、地区公民館で会食するぐらいは許されるだろうと、忘年会を兼ねた昼食会を夾んで、師走の定例句会を開いた。
 残念ながら、全員は揃わなかったが、佐久市民文化祭に出品した銘々の作品を手に持って、記念撮影をした。みゆき会の平均年齢は、昨年よりひとつ増えて、81歳となる。
 今月は、冬型気圧配置となると、朝晩は冷えるが日中は良く晴れる「冬晴れ」の佐久の自然風景を俳句にしてみようと思う。


 【俳句-①】は、寒風の吹き抜ける冷たい水に入って泳いでいる水鳥の様子を見て、しばし童心に返った発想で詠んでみた。

 農閑期に入ると、主に午後、近所の冬田道や山道の散歩をする。時には、自動車で遠出して、散歩愛好家の集まる所に出かける。この日は、千曲川沿いの東京電力・杉の木貯水池の周回コースを歩いてみた。

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鴨(カモ)の水掻き

 マガモを始めとする、主にカモ類が、群れを成している。いつも水の中という訳ではなく、貯水池の人工の浮洲や周囲の土手に上がることもあるが、水中に浮かんだり、舞い降りたり、飛び立ったりする様子を見て楽しんでいる。
 ところで、ここの水鳥は、既に秋口から居たものと、最近渡ってきた主に冬鳥で、シベリアなどの厳寒の地から、全面結氷しない、寧ろ暖かな湖にやってきたものである。だから、寒さには滅法強はずで、また、その様に進化してきた水鳥たちである。
水鳥の羽には脂質があって水をはじき、鳥の40℃以上ある体温は、羽毛で保温されている。
 それでも、骨と皮だけの「水掻き」は、厳寒の中、さらに冷たい水中にあって、『冷たいだろうに』と労ってみた。多分、真実は、「温点・冷点」など神経細胞が無くて、感じないのだろうなと思う。 
 ちなみに、会員の一人は、『冷たい』と表現しないで、冷たさが読み手に伝わるような工夫が欲しいと批評してくれた。もっともと拝聴したが、水鳥は、どう見ても、寒さを苦にしている様子はない。仮に、やせ我慢をしているとしても、その素振りは少しも見てとれない。ふと、黄門様こと、水戸光圀の作と伝わる短歌を思い出す。
 【見ればただ 何んの苦もなき水鳥の足に暇なき 

 (or たいまなし(絶え間)) わが思いかな】

 

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土手の鴨

 


 【俳句-②】は、欅(けやき)の落ち葉が、まるで、帯で封をされた札束のように、整然と重なっている現象を見て驚いた。少し大袈裟かと思ったが、風神様が形作ったのではないかと、詠んでみた。

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葉を落とした欅(ケヤキ

 山道と言っても、田舎でもアスファルト舗装されている市道であるが、その側溝に欅の落ち葉が集まっていた。
 U字溝という特殊な事情が成せる技なのか、少し障害物のある辺りを先頭にして、落ち葉の塊ができる。その断面を見ると、葉の裏表と、上下・左右までもが揃えられて、まるで、新札ばかりを揃えた札束のように見えるのである。
 【写真】の落ち葉は、その感動から数日を経た後で、撮影したもので、少し感動から印象が薄れた感じがする。たまたま、霜が解けて濡れていたことも影響してか、風により枯れ葉の大きさや向きが選別され、同じ条件の葉だけが吹き寄せられていたのだろう。自然現象の不思議さに、思わず「風神」を登場させたくなった。
 ちなみに、札束に見えた時の本音の一部は、「これが宝くじに当たった賞金の札束だったら、さぞや贅沢な年越しをして、笑いが止まらない正月が迎えられるだろうな」と思ったこともあったと、正直に述べておこう。

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札束のようにきれいに並ぶ枯れ葉

 

 

【俳句-③】は、千曲川の堤防を散歩していた時、瀬音が絶え間なく聞こえてきたことで、「コロナ禍や国際情勢、自身のつまらぬ事で悩んでいる」私たち人間に対して、ひたすら律儀に、健気に流れる水の営みが、もっと崇高な歴史の流れのような気がして、その思いを詠んだ。
 「健気(けなげ)に」という表現は、その言葉を掛ける対象物を、自分よりもやや格下と見て、感心している時に使うことがある。しかし、同時に、その姿や言動が、自分には到底真似のできないほど立派で、寧ろ敬いたくなる存在として映ることが多い。小さな子どもなのに、大人顔負けだったり、困窮や苦痛にも辛抱強く平然と取り組んでいたりする場面を見て、感動する。
 この千曲川の瀬音も、単純な水が石や互いの水とぶつかり合って、流下る音を発しているに過ぎないが、世の中でどんな事が起きようが、自分の分を守り、地道な活動をしている。果ては、日本海に注ぐ為に。
 生命や意志の無い無生物だから、ただ、有るだけの存在なのかもしれないが、大宇宙の中で立派な存在なのかもしれない。
 そう思うと、自分自身も無為に一日を生きることなく、大切に生きようという意欲も湧いてきた。もう時期、年の瀬、今年も終わると思うと、一年を心静かに振り返ってみようという気持ちにもなった。

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千曲の瀬音は絶えずして

 

 【編集後記】

  奇しくも今日そして今晩は、令和2年12月31日の夕刻である。室内の清掃と庭の落ち葉掃き(昨晩の吹雪で枯れ葉が飛んできた、積雪2㎝なので解けた)の後、今年最後の散歩をしてきた。冷え切った体をお風呂で温め、皆の入浴が済んで、年越しの膳までの間に、仕上げようとしている。

 本当に、新型コロナウイルスの話題に尽きることのない年だった。そして、明日迎える新年になっても、まだまだ、心配な日々は続くことだろうと覚悟している。

 今はただ、コロナ禍の一日も早い解消を願って、令和2年の年越しを迎えたい。