7.柳沢の調査(1)から
平成13年11月23日(金)、コングロ・ダイクの写真撮影と、柳沢全域の調査をした六川資料(1999 6/12)を検証する為に、柳沢下流部の調査に入りました。
柳沢入口の空き地に駐車して、最下流部や堰堤は飛ばして、標高848m付近から見ることにしました。泥優勢な砂泥互層です。繰り返してしまいますが、内山層の黒色泥岩層は、厳密にはやや砂質ながら、泥岩として扱います。(【図の①】)
標高860m付近(西からの小沢2番目)(【図-②】)では、互層部の安定した走向・傾斜(N70°W・20°SW)が広範囲で見渡せたので、写真に撮りました。
その上流で、堅い灰色中粒砂岩層の中に、黒色泥岩の不規則な岩片が入っていました。時々見られる堆積現象で、一度堆積したものが、壊されて二次堆積したものと解釈しています。上位に黒色頁岩層、灰色中粒砂岩層と重なっていました。(【図-③】)
標高875m付近(西からの小沢の4番目)の合流点(【図-④】)の前後で、川筋の方向が変わります。
【875mASL付近】図のA-Bの中間に、灰色中粒砂岩層の淵(緩い滑滝)がありました。砂岩層の内部に異質砂岩の角礫を取り込んだ棒状の岩塊が、5個以上含まれています。幅は2~5cmと極めて細く、長さは1m内外~最大2.5mという形状です。特に、最大幅の露頭は、境がシャープでなく、途中で切れ、周囲の本体の砂岩が入り込んでいます。初めて見るタイプですが、産状からはコングロ・ダイクの一種なのかもしれません。(武道沢の「生痕化石」付近で見つけた産状に似ているかもしれません。)
この淵露頭から東に10m、南に20mほど進むと、地点Cに達します。ここで黒色泥岩が出始め、合流点の少し下流の地点D(転換点)から上流側は単一の黒色頁岩層へと変わっていきました。
地点Dの極めて薄い礫岩層との挟みで、N70°W・15°Sでした。
ちなみに、転換点の右岸に、炭焼きの竈(かまど)跡がありました。河川の石が「イグルー」のように積んであります。炭焼き跡は、あちこちで目撃しましたが、ここのは立派です。また、見晴らしが効き、特徴のある地点なので、炭焼きをした山の主の家族は、迷わずに荷物を届けられたんだろうなと想像しました。
標高878m付近で、西から流入する5番目の沢との合流点になります。この少し下流で、熱変質を受けた灰白色泥岩層(元は黒色泥岩)が見られました。
合流点E付近の礫岩層(2cm)を2層含む黒色泥岩層で、N60°W・15°SWでした。
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そして、標高880m付近(【図-⑤】)です。付近の地形概要は、【柳沢880mASL付近】図のようで、西から流入する小さな沢の5番目と6番目の間に当たります。
沢の左岸と右岸の両側に、コングロ・ダイクがありました。
周囲は、N60°W・10~15°SWの走向・傾斜傾向の黒色頁岩層を主体とした砂泥互層です。
『2.広がるコングロ・ダイク【写真3】』で紹介した写真は、【同図】地点Bから地点A方向に撮影したものです。
一方、次の写真は、両岸のコングロ・ダイクを川側から、その正面を写したものです。
《右岸側》
幅12~25cm×長さ3m、上下とも境は不明だが、川底へは延びているように見えます。礫種および角礫である点は、左岸側とほぼ同じです。ただし、水分が多いせいなのか、風化が進んでいました。周囲は、剥離性が強い黒色頁岩層です。ほぼ垂直に貫入しています。
《左岸側》
幅10cm×長さ2m、上部は不明だが、上には続いていないように見えます。礫種は、黒色頁岩や中粒砂岩の礫で、チャート礫は見あたりません。いくぶん角がとれてはいるものが多いですが、角礫がほとんどで、最大径4cmφです。やや湾曲しながら貫入しています。
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上の写真は、【柳沢880mASL付近】図のB地点から地点Cの方向に向けて、上流の滝を写したものです。中央の黒い部分は、黒色頁岩層で、現在の滝の造瀑層になっています。写真ではわかり難いですが、手前の硬い(珪質ではない)明白色中粒砂岩層と、滝を形成している黒色頁岩層の間は1mほど間が開いていて、堆積物ががありません。左岸側の中粒砂岩は残っていますが、右岸側は、下流側に崩れ落ちています。(【同図】を参照)
つまり、かつては砂岩層が造瀑層で、滝の先端だったものが、沢水の浸食により削られ、滝が上流側に後退してしまったものと解釈できます。それで、左岸側の硬い中粒砂岩だけが、かつての滝の名残として、滝の前に扉のように存在しています。実際、北米大陸のナイヤガラ瀑布などの有名な滝も、滝の後退現象が知られています。
そうなると、両岸のコングロ・ダイクの岩相や層厚の特徴が、ほぼ同じで、しかも対応関係にあるという産状を見れば、両岸のコングロ・ダイクは、かつて連続していたと考えても、不思議ではありません。寧ろ、上流の滝の後退現象から類推すれば、かつて、沢を塞ぐ壁のように、場合によっては滝となって広がっていたものが、流水によって浸食され尽くし、わずかに痕跡が両岸に残っているのではないかと推理します。
この推理が正しければ、「層厚10~25cm×川幅(約5m)×地下への延び3m以上」の板状のコングロ・ダイク(4m3 以上)が、存在していただろうと考えられます。
《滝の様子》
滝は、黒色頁岩層(主)と砂泥互層でできていて、左岸側で、N20°W・10°SWでした。現在の滝は、流れの方向に直角ではなく、走向方向に少し偏っています。南東奥側の浸食量が大きいです。
滝(落差2mほど)の途中に、コングロ・ダイク(幅5cm×1m以内)が認められました。また、滝の少し上流でも、コングロ・ダイク露頭を見つけました。
標高882m(西から流入の6番目の沢と合流点)を確認し、さらに標高895m(西から流入の7番目の沢との合流点)の少し上流で、黒色泥岩層の中にコングロ・ダイクがありました。泥岩層のN80°W・18°Sに対して、礫層は、EW・85°Sで貫入し、極めて走向と類似しています。(形態の記録無し)
尚、六川資料では、この辺りの泥岩中からMacoma sp.の発見が報告されています。
標高900m(西から流入の8番目の沢との合流点)付近では、粘板岩(slate)が、滑滝を形成していました。この滝の上で、コングロ・ダイク(幅3cm×1m)が認められました。粘板岩のN70°W・10°Sに対して、礫層は、EW・垂直(?)です。
これも、貫入の方向は極めて走向と類似していました。
【編集後記】
偶然にも、大型コングロ・ダイクのかつての姿を連想させる「滝C」があったものだと、感激しました。本文中に出てきた「ナイアガラの滝」に限らず、滝が出来るのには、必ず造瀑層となる硬い地層があり、それが長い年月を経て崩れたり、削られて滝が上流側へ後退していくことがあります。それを実地に見て、納得しました。
ところで、今日で4月も終わります。4月後半は、外での作業が多くなり、疲れも溜まります。昨日、祝日「昭和の日」は、雨天で骨休めの一日でした。
と言うのも、4月26日(月)の「倉沢薬師堂への奉燈俳句・俳額」の設置に続き、4月27日(火)・28日(水)と2日間は、屋根の一部ペンキ塗りをしたからです。家の敷地内から見ると、1階ですが、石垣の上に建っているので、下を見ると2階分に相当します。年齢と共に、高所に立つと恐怖心が先行して、とても緊張します。屋根の端は恐いので、石垣の下から梯子(アルミ製)を掛けて、縁の部分と雨樋の塗装をしました。ヘルメットを被り、ロープで梯子を固定して、安全には配慮していますが、寄る年波を確実に感じていました。『あと何年できるかな?』と思いながら、がんばっています。(おとんとろ)