北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和3年・水無月の句(夏の花三題)

 水無月の句】・・・《夏の花 三題》

 ① 木天蓼(またたび)の 白葉癒す 緑雨かな
 ② 花見つけ 現の証拠や 祖母の味
 ③  白日下 桑の実採りし 夫婦の手  

 

 今年の5月中旬から6月中旬にかけての天気は、適度な量の雨降りの後、必ず一週間ぐらい晴天が続き、野菜の水遣りをしたことがなかった。
 気象予報士の解説では、偏西風が例年よりも大きく蛇行し、その波が変わらない状態が続いたことが原因だと言う。日本列島の快適さに対して、北京やモンゴルの高温・異常乾燥と、太平洋を夾んだアメリカ西海岸の記録的猛暑は、地球規模で関連があった気象現象のようだ。

 さて、今月の句会には、「夏の花」を題材にしようと決め、実地に捜したり、俳句歳時記を手がかりに、花の候補を選考した。

 詠んだことのない花をと考えているが、俳句歴の短い私なので、よりどりみどりで、花の名前が挙がる。それでも、実体験の素材であった方が良いとの思いで、3つの花を選んだ。

 

 【俳句-①】は、新緑に静かに雨が降り注いでいるが、木天蓼(マタタビ)の白色の葉を、癒して元の緑色の葉に戻してくれるかのように感じて、詠んでみた。
 雑木林の中で見かける「マタタビ」や「アケビ」の葉は、病気になって葉が白くなる訳ではないが、新緑の木々の中で、葉緑体の抜けた「斑入り葉」や「白葉」は目立つ。どんな理由で、白くなるのか知らないが、緑色が無くなった可愛そうな存在に思えてしまう。
 新緑の頃に降る雨のことを、俳句の季語で、「緑雨(りょくう)」と言うようだ。

 あたかも白葉に治療薬を注ぎかけるかのように、雨水が優しく癒してくれるような気がした。しかも、緑色の雨という表現も、面白いなと考えた。

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木天蓼(マタタビ)の葉


 【俳句-②】は、特徴のある葉と、白い可愛い花を付けた「ゲンノショウコ」をみると、祖母の煎じた薬草茶の苦い味を思い出すことを詠んだ。
 胃の弱かった私の祖母は、野山から薬草を採ってきたり、それらを敷地に植えたりして利用した。

 子供心に覚えているのは、ドクダミ、クコの実、センブリ、そしてゲンノショウコである。
 これらの葉や茎・根などを乾燥させ、和手ぬぐい製の手縫い袋に入れて、煮沸する。要するに、「煎じ薬」にする。

 漢方薬の伝統的民間薬としては有名なものだと聞いた。時々、私も祖母と一緒飲んだ。言うまでもなく苦い。諺の『良薬は口に苦し』と言うのはこのことだと実感した。

 余談ながら、祖母の胃は、漢方治療だけではだめで、入院して胃潰瘍手術をすることになった。父は仕事で遅く、母が付き添いで病院に泊まり、小学低学年の私と妹の食事は、祖父が作ることになった。大きく切断した野菜が、生煮えで、とても奇妙な食事を、2晩ほどいただいたことを覚えている。


 「現の証拠」は、薬草の効果がすぐに(現に)証拠となって現れることから命名されたと聞くが、私にとって、まさに現の証拠は、祖父母との思い出と共に、なぜか強烈な味の印象も残っている。

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現の証拠(ゲンノショウコ)の花 (白花)

 

 【俳句-③】は、私たち夫婦で、ジャムに加工しようと、桑の実を採ったが、
手袋を外してみると、指先は「どどめ色」になっていて、誰の目にも隠しようもないくらい(白日の下に晒された)証拠となっていたことを詠んだ。

 上句の「白日下」には無理があると思う。本来の意味は、太陽の照っている真昼にと言う意味なのだが、隠そうにも、簡単に洗い流せない色素が証拠だという意味を込めた。まさに、コンビニ店や銀行等を対象に実施する、逃走犯人や車に「カラーボール」を投げつけた跡のようなものである。

 佐久地方で、桑の実は、『メド』と呼ばれる。これを食べると、舌(べろ)を中心に、口の中は濃い青紫色に染まる。この色を「どどめ色」と呼ぶようだ。藍(あい)の濃い青紫色より、少しだけ赤の要素がある。

 私の父母の世代までは、桑の実を食べたようだが、私たちの世代は、「スグリ」や「グミ」は食べたが、「メド」は敬遠した。しかし、最近になって、健康食ブームから、桑の実ジャム作りに励んでいる。

 ところで、私が桑の実を取っている桑は、俗称「おうしゅう桑」と呼ばれる桑の木である。かつて、養蚕が盛んであった頃、植えられた低木の桑は「いちのせ」と俗称され、実の成る前に、枝ごと伐採されて蚕に供せられたので、桑の実を見たことはない。

 俗名の「おうしゅう桑」の大木は、佐久地方で養蚕産業が廃れた昭和40年代後半(1970年以降か)に、「いちのせ桑」が根ごと抜かれて畑になっていった中で、畑の周囲に、そのまま残ることとなった。

 昨今、蚕(カイコ)の糸は、絹糸としての利用というより、例えば絹糸タンパク質から人工血管となったり、遺伝子組み換えの素材に使われたり、様々な目的で注目されていると聞く。また、桑の葉も健康食品やお茶に加工されているようだ。

 我が家の場合、大木を伐採するのを躊躇したから残っているのわけだが、蚕からの絹織物の歴史は古く、中国では紀元前数世紀に遡ると言う。夏休みに孫たちが田舎に来たら、桑の大木の下にブランコを設置したり、木登りをさせたりして、遊ばせようと思っているが、はたして、その誘いに乗ってくるだろうか。

 可能なら、大人になった時、桑と蚕、その起源や絹の歴史について、実地に桑の木に触れて、思い出のひとつとなれば良い。

 そう言えば、「桑実杯」もある。大学入試で生物を専攻した人なら「桑実杯」を覚えていると思う。受精卵が、細胞の数を殖やしていく卵割段階で、概観が、桑の実に似ていることから名付けられた生物学の科学用語である。しかし、桑の実の実物を見る人も少なくなった現代、「桑実杯」は、そのイメージを若い人々に伝えているのだろうかと、少しだけ不安になる。「苺(イチゴ)に似ている」なんて言うかもしれない。

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桑の実 (メド)

 

【編集後記】

  本文中に、蚕(カイコ)の話題が出てきました。

 養蚕(ようさん)は、天皇家の宮中における伝統行事として、皇后陛下が取り組まれ、蚕に桑の葉を与えられたりするニュースが、報道されることがありますが、逆に、庶民や若い人は、知らないことが多いのではないかと思います。それで、私が子供の頃に関わった、蚕にまつわるエピソードを紹介したいと思います。

 まず、カイコの一生について、概要を理解しておきましょう。(※難しい漢字は、2回目から、ひらがな・カタカナ表記とすることもあります。)

 人工飼育でない自然状態だと、蚕(かいこ)は、繭(まゆ)の中で、蛹(さなぎ)という状態となってが冬越し、春になると、マユを破って、羽化し、外に出ます。カイコ蛾(が)で、成虫です。これには、雄(♂)(幾分小さい方)と雌(♀)(お腹の太く大きい方)があって、互いに相手を見つけて交尾して、卵(たまご)を生みます。

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カイコの一生(生活段階)

 私は、どんな卵か見たことはありませんが、昆虫の卵のイメージでしょう。

 養蚕農家に届けられるのは、この卵が孵化(ふか)して、とても小さな幼虫の段階からです。大きさというか、長さが1cmにも満たないので、何匹というより、何グラムという単位で取引されます。

 最初の幼虫段階では、桑の葉を細かく刻んで与えます。小さな白い塊が動いて、緑色の葉が無くなってしまいます。正確に何日後のことかは子供にはわかりませんでしたが、大人はカイコの桑の食べっぷりから、幼虫が第一脱皮状態(カイコの場合、セミのような脱皮をする訳ではない)になったことを知ります。半日か1日後には、次の幼虫の段階になって、盛んに桑の葉を食べます。こうなると、農家では、1日に2~3回、山の畑へ桑の葉採り(桑採り)に出かけないと間に合いません。

 このようなサイクルを4回経て、長さが5~6cmになると、急に動かなくなります。蚕の体内では、生糸を吐き出す為の変化が進行しているのかもしれません。大人は、「しきた」と言い、『お蚕あげ』の準備をします。

 お蚕あげとは、蚕を一匹ずつ丁寧に掴んで容器に入れて運び、マユを作らせる装置、「まぶし」(昔は、藁(わら)で編んだもの、後に、紙製の仕切りのあるものに代わる)に入れた。よく、ぎっしりと詰まった状態を蚕棚(かいこだな)のようだと言うが、狭い空間の有効利用の為、「まぶし」籠(かご)を棚に保管した。

 この後、蚕に桑の葉を与えて育てた床の片付けをする。蚕が大きくなってくると、葉だけを与えるのではなく、本文で紹介した「いちのせ」桑という枝ごと供していたので、棒も片付ける。しかも、蚕の糞尿(ふんにょう)がたまり、発酵しているので、生暖かく、匂いもある。私は、抵抗感もなく扱ったが・・・。

 さて、「まぶし」の中の蚕は、口から生糸を吐き出して、マユ玉を作っていく。その手順については省略するが、私の中学校の国語の教科書には、この科学レポートが掲載されていた。1匹の蚕が吐き出す生糸の長さは、1.5~2kmにもなるという部分は、覚えている。

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蚕は口から生糸を出していく

 「まぶし」の中にできた蚕のまゆ玉は、中央部の玉と、その回りの部分があり、綺麗な中央部だけ、品質の良いものだけを選別する。「繭掻き(まゆかき)」作業という。手動の装置で行う。そして、養蚕農家は、農協(今のJA)などの仕入れ業者に運んでいく。

 

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蚕の繭(まゆ)玉ができた

 養蚕農家の仕事は、ここまでだが、まゆ玉をお湯に漬けて、生糸をほどいて、長い繊維状の糸を取り出す工程がある。かつての製糸工場である。世界遺産となっている群馬県富岡製糸場などが有名だが、全国各地にあった。

 この繭玉(まゆだま)の中には、糸を吐き出した後の蚕が、茶褐色の塊のような蛹(さなぎ)となって、入っている。製糸工場で扱われた蛹は、もちろん死んでしまうが、自然状態のまま繭の中にいる蛹は生きて、越冬する。再び、カイコガとして蘇り、次の世代へと、生命を繋いでいくのだ。

           *   *   *

 「カイコの一生」の概要と言いながら、養蚕農家の話題も入れたので、長くなってしまいました。

【エピソード-1】 

 「真綿で首を絞める」ようにという表現があるが、若い世代は、真綿の実物を知っているのだろうか? ・・・まず、言葉の意味だが、『いきなりではなく、遠まわしに、じわじわと責めたり、痛めつけたりすることのたとえ』である。

 次に『真綿』だが、これは「繭掻き(まゆかき)」工程の中で、繭玉の周囲から取り除いた蚕の糸や、不良品となった繭玉をほぐした生糸のことである。それを綿状にしたものである。この利用方法は、様々だと思うが、私の知る限り、木綿の綿を入れて布団作り(その昔は、古い布団綿は専門業者が洗って加工してくれていた)をする時、綿がずれないように、外側を覆った。伸縮性があり、しかも切れない。この性質が、最初の「首を絞める」のにふさわしいのだろう。

 私は、スケート大会に出場する時、祖母に、肌着の上に真綿を張ってもらい、その外側にセーターを着た。現代のスケーターは、ワンピー(スケート競技用のワンピースの高性能素材)を着て滑っているが、昔は防寒、防風の為・・・何より、背中に家族の声援を背負っていたようなものである。下の写真は、ある日の松原湖大会である。

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背中に「真綿」を背負ってスケート滑走

 

【エピソード-2】

 「蚕食(さんしょく)する」という表現があるが、これも若い世代では、イメージし難いと思う。 言葉の意味は、『じわじわと侵食していくこと。領地などを端のほうから徐々に侵略していく様子。鯨が、一気に飲み込む様子と併せて、他領を侵略することを蚕食鯨呑(さんしょく・げいどん)との表現もあると言う。

 養蚕農家は、気象条件や供給できる桑の量に応じて、「春蚕(はるご)」・「夏蚕(なつご)」・「秋蚕(あきご・しゅうさん)」・「晩秋」さらに「冬蚕(ふゆご)」まで飼ったようだ。寒さ厳しい信州では、ぎりぎり「晩秋」蚕を少しだけというのが、限界であった。

 私が子供の頃、蚕は家の中で飼うのが当たり前で、特に、量が多くなる夏蚕の場合、人が住む母屋も蚕を飼育する場所となった。我が家は、母屋と長屋、別棟を合わせると、現在19部屋ある。この訳は、養蚕の為に広い空間が必要であったものを、その必要が無くなった後で、空間を簡易壁で仕切ったから、部屋数だけが増えたからである。

 夏蚕の時期になると、今も私が勉強部屋として使用している2階の10畳の部屋の内、南側の板敷4畳分には、蚕を飼育する為の蚕籠が4枚設置され、蚕を飼育されている空間とは、カーテンで仕切られた。

 ほぼ夏休み中のことであり、昼間は、家の北側に物好きで設置した、ビニルシート製の秘密基地ならぬテントで過ごしたり、外で遊んでしたりして良かったが、蚕の隣りの畳の部分が、私の寝室であったので、古典落語の『寝床』に登場する大店の小僧さんではないが、泣きべそになる。しかし、1日遊び疲れた私は、あまり気にしない。

 それでも、寝付くまでの何分間は、夕方に「いちのせ桑」を供せられた蚕が、桑の葉を食べる音を聞いていた。蚕という昆虫の口は小さいが、結構硬い桑の葉を少しずつ、かじっていく。擬音語表現では、『ザワザワ・サワザワ』と、途中に少し音の変化を含みながらというのが、近いのかもしれない。こればかりは、実体験した人でないとわからないと思うが、いずれにしろ、尖閣諸島にしつこくやってくる中国公船のイメージである。

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桑の葉を食べる蚕(何齢かの内、後半の幼虫)

 

【エピソード-3】

 ある日を境に、『はるさめサラダが食べられなくなってしまった』理由。

 世に「トラウマ」という心理的な現象があって、人々を苦しめていると聞くが、どうやら、私にも当てはまりそうだ。

 養蚕農家では、たかが蚕に対して、「お蚕様」と様付で呼んでいた。稲作を通して得られる米の収入が生計を維持する主力ではあるが、比較的、短時間で効率の良い現金収入のあった養蚕は、昆虫飼育に「様」を付けるだけの理由と現実があった。

 冒頭に示した、野菜サラダに「はるさめ」があると食べられない理由は、「蚕あげ」だけでは無いが、うかつにも、上記「エピソード-②」で語ったように、蚕の身近にいて、うっかり蚕を踏みつけてしまったことがあるからだ。

 蚕を摘んでみると、その柔らかさと、冷たいさに驚く。

 無脊椎動物で、変温動物なので、と説明すれば済むが、実際に触ってみた人と、想像する人では違うと思う。

 脱線するが、旅行で訪れた沖縄で、人がようやく抱えられるほどの大きさの「ニシキヘビ」を観光客の首に巻いて撮影させるイベントが行われていた。当時、同世代の若い女性が、首の後ろ側から大蛇を垂らされて、『冷た-い』と、騒ぎながら笑っていた。しかし、私は、恐く無い蛇ではあったが、家内が写真を撮るからと言うものの、本心は恐くて、できなかった。

 私は、本来、蛇を、そんなに嫌いでもない。少年自然の家に勤務していた時、所員旅行で伊豆方面に出かけた昼食時、アオダイショウが、ヒキガエルを飲み込もうとする場面に遭遇したことがある。蛇は無理して、大きすぎる相手を飲み込んだのだろう。蛇の歯や顎の形態から、吐き出すこともできず、飲み込めもできず、苦しんでいた。

 私が『自然の摂理ですから、放っておきましょう』という意見に反して、S次長は、ヒキガエルの体を、蛇の飲み込んだ口から、強引に引きずり出してしまった。

 蛇の締め付けの他、唾液なのか胃液なのか、ヒキガエルの体は変色して、絶命の一歩手前であったが、その状態から、逃げて行った。その後の様子は不明である。

            *   *   *

 さて、「蚕上げ」の日に、うかつにも、私は、「お蚕様」を踏みつけてしまった。

 破裂して、内蔵の腸(消化系)と思われる部分が見える。祖母や母が大切に育てている蚕を、踏みつけた罪は重い。

 そんな思いを抱いて後悔していた時の、何とTVの昼番組で、「少し大型のヘビが、少し小型のヘビを飲み込む場面」を映し出していた。自然現象に関して、かなり残酷と思えるシーンであったとしても、それが、どうしようもない自然現象の一部であれば、手を加えずに、「あるがままに」と言うことが、私の考えである。

 それが、不思議なことに、いつまでも、気待ち悪いというイメージに変わりました。それは、たぶん蚕を踏んでしまったという後悔と、蛇が同じ蛇を飲み込むという場面に「透き通ったカイコの消化管」の視覚映像が重なり、たまたま食べていた「はるさめ」を見て、気分を害したのだと思います。

 それ以来、好きな野菜サラダは、毎朝、作っていますが、「はるさめ」を使うことは無くなりました。

 

 ★最後に、今日は、ほぼ一日中雨降りで、上記のような昔話を集めてしまいました。今の関心事は、梅雨の晴れ間をみつけて畑の除草を兼ねた耕作をしたいということですが、なかなか計画通りにはいきません。梅雨明けを待っています。(おとんとろ)