北海道での青春

紀行文を載せる予定

知床半島山行の始まり

 若い頃は無理が効くからなのか、若者は無計画を実行してしまうものらしい。O先輩には、札幌から約1800km離れた九州・熊本まで、山行用非常食のコンデンスミルク缶ひとつで、帰省したという武勇伝がある。夏の山行から学生寮に帰還した後、故郷までの普通乗車券(一部は急行)を買い求めたら、所持金がほとんど残らなかった。それから2日と半日を非常食をなめながら過ごしたという。その体験を、笑いながら語るOさんだが、接続列車の待ち合わせ時間もたっぷりある鈍行列車の旅で、空腹と暑さに加え、退屈さを紛らわすために読書をしたり、眠ったりしながら、ようやく辿り着いた故郷の駅は、さぞかし待ち遠しく感じられたことだろう。そして、故郷の温かさと、父母の有り難さが身に染みたのではないかと察する。

 実は私も、知床半島(車中2泊とテントでの16泊17日)の山行の後で、これと似たような悲哀を味わった。
 山行に出かけると、何日か分の食費は前払いしたようなもので、山ではお金を使うことがないから、いたって気楽なものである。ヒッチハイクをして帰るからと、帰りの交通費さえ持たずに出かけてしまう強者もいた。f:id:otontoro:20200323114323j:plain

私は、そこまで覚悟を決めた特攻隊員にはなれずに、少なくとも帰路の交通費は所持していたが、心優しい北海道の人々のお陰で、車に乗せていただいたことも数多くあった。

 ところで、知床半島山行では、夏場で長期間に及ぶことや、市街地を通過できることを考慮して、途中で食料品の買い出し計画を入れていた。それに最終日は、観光シーズン中に運行している遊覧船を利用して帰ってくる予定なので、船賃だけは残しておかなくてはならない。さすがに、船をヒッチハイクした人は、まだ誰もいなかった。
 もともと山行後の残金計画も希望的なものであったが、思いのほか出費がかさみ、札幌へ帰ってきた時には、千円札が一枚と小銭が残っていただけだった。ちょうど、母と妹が、私を訪ねながら札幌近郊の小旅行を計画していて、私の生活費は、その折りに持ってきてくれることになっていた。しかし、母たちの到着する日までは、2週間を残していた。(ちなみに、台風の影響で青函連絡船が半日遅れた。)
 前半の一週間と4日ほどは、インスタントラーメンをおかずに、「ラーメン・ライス」で過ごしたが、最後は、数十円だけとなった。それでも、慌てたり嘆いたりする気持ちにならないのは、一人暮らしの学生という自由な身分が成せる技である。部屋で本を読んだり勉強をしたりしていれば、何んとかなった。幸いにも、お米と味噌は残っていて、一度に3合ほど炊いた御飯の上に味噌を載せて食べた。炊きたては美味しいが、冷えてくると、さすがに空しい気持ちになったのは、言うまでもない。
 知床半島への山行というと、楽しかった多くの思い出と共に、無事に札幌に帰ってからの耐乏生活も、なぜか強烈な印象として残っている。

       ≪生活道路を一歩離れれば≫

 昭和50年(1975年)7月19日、午後10時。私たちは、札幌から夜行列車に乗り込んだ。一行は、リーダーのNさん、サブリーダーの私、2年生のK君、1年生のT君・Y君・H君と、先輩のK氏の7名である。
 列車の終点が網走だという安心感から、岩見沢駅でうとうとし始め、辺りが白んできたと感じた北見駅で目を開けたものの、起こされるまで、しっかりと眠っていた。その間に、列車は石北本線経由で、北海道の脊梁山脈を越え、オホーツク海の見える地に移動していた。網走駅で列車を乗り換え、斜里駅まではオホーツク海岸沿いに進む。それから、定期バスを乗り継いで、宇登呂(うとろ)を経て岩尾別(いわおべつ)まで来た。
 私たちが乗ったバスは空いていたが、夏の観光シーズンなので、知床五湖を控えた観光商店街は、マイカー客などで賑わっていた。北海道のどこの土産物店にも陳列されている熊の彫り物を始め、食べ物では焼きとうもろこし、それに「知床ラーメン」なる奇妙なものまである。ヒグマの小熊が、鎖で繋がれているのに同情しながら、雑踏を離れて知床五湖を観光することにした。
 知床五湖は、イワウベツ川とイダシュベツ川に挟まれた溶岩台地にある。湖に流れ込む川も、反対に流れ出す川もない。融雪水や地下水を集めた湖沼群なのだが、地の果て知床にあるので、水は澄み、蒸発量とのバランスもとれているようだ。針葉樹を中心とした森林が湖を取り囲み、羅臼岳などの知床の山々を逆さに映した湖面は風情があった。ただ、観光商店街の方から微かに聞こえてくる知床旅情のメロディーと、スカートひだを揺らした若い女性の存在に、私は、時々、心を奪われてしまう。
 一般的に、大自然の観光地は景勝地が多い。すばらしい自然美だから観光地になっているわけだが、訪れる人が多くなり過ぎると、趣深さは半減してしまう。私は、山行を通して道内をあちこち歩き回ったが、多くの人々が訪れる観光地には縁がなかった。だから、北海道旅行をした人が、観光地での土産話をしている場面では、いつも寂しい思いで聞いていた。それが、今度は皆が見たのと同じ光景と接することができたのだ。私は、それなりに満足していた。
 湖の散策を終えて、観光商店街へ戻った。そして、小熊に別れの挨拶をして、先に延びる林道に入った。知床旅情のメロディーが遠ざかり、私たちの足音だけが炎天下の林道で聞こえるようになると、そこには知床の大自然が待ち受けていた。
 道路の中央に、ヒグマの糞が点々と落ちていた。『ほら』と注意を促すと、『えっえー。これがヒグマの糞なんですか?』と、1年生のYくんが聞いてきた。『そうだよ。ほら、フキの茎みたいな繊維も見えるだろ。』かつてM先輩が、私に説明してくれたような口調で答えた。
 晩秋の夕張岳(ゆうばりだけ)をめざしていた時、山道で初めて出逢ったヒグマの糞に恐れをなしたことを思い出していた。人食い羆の話を聞いたり、ヒグマによる悲惨な遭難事件を本で読んだりしていたので、生活の痕跡である糞や足跡を見た時、私は震え上がった。そして、木陰にヒグマが潜んでいるのではないかと、辺りを見回し、動物臭がしないかと深呼吸をして、周囲の空気を鼻に集めた。冬籠もりをする前に餌をたくさん食べる時期なので、ヒグマの糞には、フキなどの植物繊維の他に、木の実もかなり混じっていた。ヒトの糞の1.5倍以上ある太さと長さのものが2箇所に集中し、その間は点々と続いていた。「どうして灰色がかった糞なのだろう」という素朴な疑問を抱きながら、ヒグマが歩きながら排泄するという習性にも驚いた。糞の新旧を確かめるために、棒でつつきながら、『こいつ、ケツの穴が小さい奴だ』などと、冗談を言うM先輩を見て、私は憎らしく感じた。
 ここのは、夏場ということもあるが、糞の量から見ると小さいヒグマのようだ。しかし、かつて私が恐れおののいたように、Y君たちには関心のあることのようで、さらに尋ねてきた。『知床にもヒグマはいるんですか?』
 『馬鹿だな。いるから、ここに糞があるんだろ!』
 『どのくらいいるんですか?』
 『それはわからないけど、ここは植生が乏しいから、大雪山系や夕張山地より少ないかもしれないな。でも、海辺に棲息する種類は、獰猛だと言うぞ』と、答えた。
 私にとっての最大な驚きは、マイカーや観光客で賑わう場所から500mと離れていない林道を、夜間や早朝かもしれないが、野生のヒグマが餌を求めて徘徊しているという事実だった。『案外、これ以上、自分のナワバリを荒らすなというヒグマのマーキングかもしれないな』と、Y君には話した。

 知床半島は、700km2 ほど広がりがあるが、一部の海岸線付近はヒトが住んだり、漁業施設があったりして、野生生物が安心して住める環境は、急速に少なくなってきている。現に、利用する人がほとんどいない林道とはいえ、ヒトの付けたマーキングに恐る恐る近づいて来ているヒグマなのかもしれない。私たちが恐れるのと同様に、ヒグマたちもヒトを恐れていると思うからだ。だから、もし、ヒグマが、「ヒトは、一吼えで逃げ出してしまう動物だ」と知ったのなら、この緊張関係は、たちまち崩れてしまうことは確実だ。私は、ヒトとヒグマ双方の「緊張関係の原理」が、経験から理解できるようになり、多少は心に余裕がもてるようになったからで、内心びくびくしているのは、下級生と何ら変わらない。
 私たちが話す意味のわからない言葉や、得体の知れない風体を、きっと、森林の草葉の陰から、こっそりと見聞きしていたヒグマがいただろうと思う。

【忙中閑話】 平成17年(2005年)、知床半島とその周辺海域(海岸から3km)が、世界自然遺産に認定された。(UNESCO) それに伴い、地域内の自然環境や動物・植物の保全と共に、産業や観光、生活に関して、ヒトとの共存関係を、どのように図ればよいかが、課題のひとつになっている。
 知床半島を扱ったTV番組の中で、海岸や河口、小規模港湾施設の中を日中堂々と歩いているヒグマの姿を見たことがあった。ヒグマを野生のまま観光資源にという立場と、人間生活への有害性の除去という立場から、議論や具体的対策がなされ、保護と駆除を区分するために「ヒグマの段階区分」ができていると言う。まさに、ヒトとヒグマとの「緊張関係の原理」が保たれているかどうかの判断である。ヒトに対してどんな対応をするか、また、人為的な生ゴミ・魚介・農作物に対してどう反応するかで、危険度が4段階に区分されている。
 俗な言い方をすれば、ヒトの様子を賢く見抜き、自然物でないものへの適応能力の高いヒグマは、危険だということになる。事実、「人間なんか恐くない」と理解したヒグマは、テロリスト以上の危険分子に違いない。 
 番組の中で、『ヒグマにヒトが、危険を与える敵だと思わせる必要はないが、一線を画して、常に恐い者だと感じさせる必要はあります』という趣旨の解説をしていた。
ふと、国同士の外交姿勢か、はたまた民話の「山姥と牛飼い」の失敗談を思い浮かべた。理屈では少し理解できても、『ヒグマとは仲良くなりたくないし、自然の中では絶対に会いたくもない』という思いを新たにした。 

          ≪波乱に富んだ沢旅の始まり≫

 林道に懸かる橋から、沢に入り、イダシュベツ川の川原にテントを張った。(C1)
 明日は、硫黄山の南東コルをめざして沢を詰め、山頂にアタックする計画である。そして、稜線を羅臼岳方面に進み、オッカバケの鞍部辺りで2泊目を迎えたいと考えていた。 ところが、2日目の朝は、最初からうまくいかない。まず、K氏の体調がすぐれない。夜行列車の中から軽い頭痛があったそうで、風邪かもしれない。でも、『大丈夫だ』と言うので、そう心配する必要はなさそうである。問題は、朝食を前に下痢気味だというK君とY君だ。ふたりの共通点は、焼きとうもろこしを岩尾別で買って食べたことだが、それらのお裾分けをしてもらったNさんやT君が元気なのを見ると、食中毒というわけではなさそうである。原因は不明だが、これから沢に入るというのに、体調不十分な人がいるのは、大きな不安材料だ。そんな理由から、本格的な知床半島への第一歩は、安静療養時間から始まった。
 正露丸(胃腸薬)を飲んで、2時間ほど寝ていたふたりが、『朝食の残りはあるでしょうね』と、念を押すように言い出したので、大丈夫だと判断して出かけることにした。沢水に浸しておいたワラジ(【注】)も、旅立ちを待ちわびている頃である。

【注】沢旅と草鞋(わらじ) ;沢を歩く時は、ゴム底の地下足袋に稲藁でできたワラジ
を付ける。川底の石や岩に付いた苔や藻類で滑ることがなくて便利である。使用前に、
しばらく水に浸しておくと、切れにくい。使い古しのワラジは、目立たない所に捨て
てきた。(今なら、きちんと持ち帰らないといけない。) 
 メンバーの体調も気がかりだし、沢旅に慣れない1年生部員も多いので、かなり慎重に登った。それでも、石の上をつたい渡って調子が出てくると、どうしても速くなってしまう。
 ところで、沢旅では、注意することがいくつかある。水面に出た石に正確に着地しなければならないという一歩一歩の緊張感から、筋肉は疲れていても、それを自覚できない。足からくる冷えも計算しておかなくてはならない。さらに重要なことは、合流する沢を地図で必ず確認することだ。分水嶺の同じ水系側に降った雨水は、合流を繰り返し、やがてひとつの河口に達するが、沢の遡行はこの逆で、右股と左股を取り違えると、最後はとんでもない尾根に辿り着くことになるからだ。この時、沢水の水量も当てにならないことがある。地図に表された「水線の沢(本流など)」だからといって、必ずしも水量が多いとは限らない。だから、沢の合流点を見逃さないことと、必ず立ち止まって、進路を確認する必要がある。
 合流点で地図を広げていると、1年生もなんとか追いついてきた。私たちは、しだいに高度を上げていった。
 ところが、悲劇は、何度かの滝の「高巻き」を経て、私のすぐ後ろに付いてきたT君から始まった。前方に、落差が5mほどの滝が現れた。両岸がVの字をなす斜面で、問題は岩盤に薄く土壌が載り、苔や水草が張り付くように生えていることだ。人が乗れば簡単に剥がれ落ちそうである。右側か左側か悩むところで、条件は五分五分のように見えたが、私は、T君の後ろから来るK氏に相談した。

『Kさん。どちらを行きますか?』
『どっちも同じだな。でも、落ちるなら、左からの方がいいな』と答を出してくれた。
私は、ジョークだと解釈したが、滝壺から湧き出す沢水の流れに従うと、K氏の言うように左からの方が良さそうである。そこで、左側斜面を使って、滝壺の上を高巻くことにした。予想したように薄い土壌に苔や水草が付着していて、それらが剥がれて滑る。四つんばいになって進むが、両手・両足のどれかひとつで次のステップを捜して、体重を移動させていく。根の張った植物も完全には信頼できないが、体重の三分の一分だけ信用することにして、慎重に進んだ。
 T君も、四輪駆動車を操り、慎重運転をしてきたはずだが、どれかのタイヤがスリップして、私が気配を感じて振り返った時には、ものも言わずに静かに滝壺へ向かって滑り落ちて行った。だが、私は、あまり驚かなかった。大騒ぎをしないで滑り落ちていくT君を見て、寧ろ、感心な奴だと思ったくらいだ。と言うのも、滝壺への落下が安全であるはずもないが、本当に恐いのは岩に頭や身体をぶつけることで、リュックサック(キスリング)を背負っている限り、滝壺の中に沈み込んでしまうことはないからだ。荷物をぎっしりと詰めた重いリュックでも、比重は明らかに水より小さいから、水の中では浮き袋を身にまとっているようなものである。
 沢の斜面を滑り落ちたT君は、滝壺からの水流に運ばれて、対岸にリュックごとぶつかり、少し流された後、下流の浅瀬で立ち上がった。
 『大丈夫かあ』と呼びかけると、『大丈夫です』という返事と共に、目を細めて笑っている姿が見えた。幸い、軍手をしていたので、まくり上げたシャツの間から出ていた腕の擦り傷程度で済んだ。身体は、どこも打っていないようだが、最大な被害は、ずぶ濡れになった。ただし、真夏なので影響はない。
 T君の名誉の負傷によって、他のメンバーは滝壺の高巻きはしないで、滝のずっと手前から、まず垂直に、急斜面を登ってチシマザサの藪の中に入り、ササの枝に捕まりながらトラバースして、かなり遠回りをして、この最初の難所を乗り切った。
 高巻きして滝の上に陣取った私とK氏は、メンバーに動きを指示した。果敢にも再挑戦したいというT君も、他のメンバーと同じルートを採るように指示した。
 ただし、リーダーNさんを除いての話である。Nさんは、沢水のしぶきを顔に浴びながらも、滝壺の縁を経由して中央突破した。登攀技術がありさえすれば、沢登りのスリルと醍醐味を味わう方法である。『Nは、本当に岩登りが好きなんだなあ』と、K氏も感心していた。

 続いて、二人目の悲劇の人物が登場する。
 今度の滝は滑滝(なめたき)で、沢の様子から高巻くことは難しい。まず、一番下に大きな滝壺があり、少し上に二段の滝壺ができかかっている。もちろん、Nさんでも中央突破は無理だが、最初の滝壺の右側をトラバースして、滝の側面を登って上に出れば、その後は登れそうなイメージである。そこまで行けば落ちる心配はなさそうだとが、「もしも」という場合は、落差があるだけに最後まで気は抜けない。
 しかし問題は、最初の滝壺の側面を越えて、上に登れるかどうかに懸かっている。誰か一人ぐらいは、登攀し切れずに落ちそうな予感がする。確実に登れそうなのは、Nさんぐらいで、体調不十分とはいえK氏と、私が合格ラインに届きそうで、他のメンバーは未知数である。もっとも、深そうな滝壺への滑落という恐怖感さえ取り除けば、落ちても濡れるだけで、落ちる分には危険はなさそうである。後は、個人の努力と運まかせだろう。
 まず、Nさんが、お手本を示すかのように登り始めた。それを見ていたK氏は、『かぜ気味なので、止めとこ』と言う。私は、K氏が何を考えたのか、事情が飲み込めた。かなり身長のあるNさんでさえ、やっと手足が届くホールド箇所が2箇所ほどあるからである。背の低いK氏は、体調にも配慮し、確実に濡れない方法を採ろうと判断したようである。沢を下流に戻ると、登れそうな斜面があった。面倒でも、チシマザザのブッシュ漕ぎをして、ササの中を遠回りをして滝の上に出るルートに決めたようである。この案に、2年生のK君も賛同した。
 『皆さんは、どうなさいます?』
 Nさんに続いて、「私なら登れる」と判断したので、私は、わざと丁寧な口調で残った3人の1年生に選択を迫った。1m80cm以上ある長身のY君はいいとして、H君は、無理だろうと思った。T君も、もう一度水の中に入ることななれば酷だなと案じていると、3人とも『やります』と言う。
 先に登ったNさんは、滝の上の岩に腰掛けて、「蜘蛛の糸」のお釈迦様よろしく、岸壁を登ってくる後輩たちを、煙草をくわえながら見ている。私も、3人が登り終わるまでは時間がかかりそうなので、リュックを下ろし、喫煙タイムにすることにした。
 人間、必死になればできるもので、T君は、問題のホールド箇所を膝も使ってクリヤーした。2番手のY君は、慎重過ぎるほどゆっくりではあったが、長い手足を使い、お釈迦様の指示通りに登って行った。二人の成功に発奮したH君も、元気に登り始めたが、やはり案じていたように、問題の2番目の箇所で進退窮まった。かなり長い間粘っていたが、ついに力尽きて落下した。滝壺の中で、恐怖感を味わったようで、しばらく休んでから再挑戦すると言う。
 そこで、先に私が登ることにした。登った後でロープを垂らし、H君のリュックを釣り上げよう。空身なら、彼もロープを補助に登れるだろうと判断した。
 なんとかH君も滝の上に登った。そして、『落ちた時は、これで死ぬかと思いましたよ』などと言うH君の体験談を聞きながら、残りのK氏とK君の二人を待っていると、遠くのササ藪が揺れて、K氏が斜め前方から降りてくるようである。滝の音を手がかりに、そろそろ高度を下げてもいいと判断したらしい。もうひとつのササ藪の揺れは、さらに遠くに見えたが、やや見当外れの方向に進み出した。
 『Kさーん。どっちですかあ』というK君の声がして、『こっちだ』と答えるK氏の声が聞こえる。遠くの揺れは、方向転換をして、軌道調整ができたようだった。

              *    *    *

 ハプニングが多かった第一日で、これからの長い山行の行く末を占うには、不安要素もある。日も西に傾き始めたし、稜線までのブッシュ漕ぎは、不可能である。水線の沢の傾斜が変わる手前で、やや広い場所を見つけ、テントを張ることにした。(C2)

【編集後記】 2回目にして写真画像の挿入方法がわかったので、半島の手書き地図を挿れました。カメラに海水が入り、実はあまり良い写真はないのです。なんせ、45年も前の話ですから。