① 山法師 戦(そよ)ぐ卍(まんじ)葉 経を読む
② 夏木立 遺言(いごん)の境 石口上(こうじょう)
③ また来たな 寸止め鳴きの 四十雀(しじゅうから)
今月は、「自然が語ること」をテーマに俳句を作ってみた。実際は、観察した自然事象を、人間が解釈する行為でもある。ただ、俳句なので、自然科学でいう根拠を追究するような範疇には当たらないだろう。
【俳句-①】は、風に戦ぐ山法師(ヤマボウシ)の葉ずれの音と陰影が、抑揚の少ない読経のように感じられたことを詠んだ。
ここ数年来、5月下旬、教員時代の先輩から、陶芸作品の個展案内の招待を受け、松本へ伺う。佐久への帰路、峠路に山法師の群生地があり、生け花用に失敬してくる。悲しいかな、感動的な枝も数日で萎れてしまう。
しかし、手折る前は、俳句に詠んだ通りの様だ。
生物学的には、花に見える白い十文字も葉である。
花は、その中央にあり、小さく地味な存在である。そんな花を白い葉と緑の葉で守っている。風に葉が戦ぐと、僧侶の読経ように感じられた。植物名から仏事を連想して、「卍」葉としてみた。
【俳句-②】は、私有地(山林)の境に、巨大な安山岩が使用されていること知り、先祖が子孫へと遺言する智恵に感動して詠んだ。
燻製チップ材に落葉樹が欲しいと、木材業者が買い付けに来た。我が家の山林の境を登記簿と照らし合わせ、私は業者の方と、実地に踏査してみる機会が発生した。祖父とも、父とも山林に入ったことはあったが、境界を一周して確認したことはなかった。
だから、私にとって、有り難いことでもあった。山林の更新時期としても、適当らしい。前回の伐採後に生えた二股幹も目に付いた。一世代(約30年)程かけて山林は復元していくようだ。
『石口上』は比喩だが、私の知る二代前(祖父)よりもっと昔の先祖からの遺言のように感じられて、感動した。
【俳句-③】は、いつもの時間にやってきて、いつものように囀る四十雀が、愛おしくて詠んだ。しかし、いつも鳥語の意味を推理している。
繁殖期の『ツツピー』を3回繰り返して囀るのは良く聞いた。その後、私の起床時刻と前後して、『ピツ・ピツ・ピ』を3回繰り返した囀りを聞くことがあり、『また来たな』と、来訪を楽しみにしていた。ところが、囀りの最後を空手の「寸止め」のようにして3回で終わりにするパターンと、2回で終わるパターンが組み合わさっていた。
私が聞いて疑問に思ったぐらいなので、専門家たちは興味を持って調べているらしい。研究情報によれば、囀りを繰り返すことがあり、異なる回数の組み合わせを使って、情報交換をしているのではないかという仮説があり、研究されている。
今月テーマの「自然が語ること」より、主体的に人間に伝えようとする意志の存在があるのだと思う。擬人ではない、自然の真実を見極めたい。
【編集後記】
【俳句―②】に登場した広葉樹の山林が、周囲の他の方の所有する民有地の山林と共に伐採された。この句を詠んだ時から、ほぼ一年を経て、まだ、近くの山林の伐採しているようだが、散歩を兼ねて様子を見にでかけた。
チェーンソーで伐採した後、大型の重機を使って運搬するので、林内は重機のキャタピラ跡が、林道のようになっていて、驚いた。障害物の無くなった山の斜面から、浅間山系や佐久平が一望できて、胸のすく思いだが、地面を見ると悲しくなった。
後日、可能な限り整地してくれると言うが、団栗が落ちた実生が、果たして何年かかって、豊かな林に戻っていくのだろうか?
昭和30年代~40年代前半頃の「山仕事」と言うと、主に屋外での農作業がなくなる冬期から春先に、燃料用の「薪(まき)」や「ぼや(小枝)」の束を作るために、森林を伐採していた。ただし、間伐というイメージである。これだけ、完璧に伐採された荒れ地を見ていると、周囲から供給されないので、団栗を他から拾ってきて撒くか、苗木を植樹をしないといけないかなあと思っている。