北海道での青春

紀行文を載せる予定

調査物語(ラミナが教えてくれたこと)

      三山層のゆくえ

 昭和62年(1987)に、都沢と上流部尾根筋の計4回の調査を行なっていましたが、地質構造理解は、どこから手を付ければよいか見当も付きませんでした。しかし、間物沢川で見た顕著な岩相変化を手がかりにすれば、解明できそうな見通しが持て、都沢でも、恐竜の足跡化石が発見できるかもしれないという淡い期待と希望が湧いてきました。
 そこで、平成4年(1992)8月10日、松川先生を佐久にお招きし、私たちの都沢の再調査に同行していただくことにしました。この日の調査は、都沢の標高1020m二股付近まででした。翌、11日は、ご都合で帰られた松川先生に代わり、岡部 静 先生が、『都沢の流紋岩露頭の写真が撮りたいから』と、久しぶりに参加していただきました。
 都沢は、山深く長い沢で、本流を東ナカヤ沢に詰めるだけで、優に2日はかかってしまいます。詳しい地質については後述しますが、二股付近の「蛇紋岩帯断層」を境に、地層の繰り返しが見られます。2日かけて、下流側と上流側の調査をしました。

 間物沢川と都沢の岩相は、似ているように見える反面、一致しない点も数多くありました。共通しているひとつは、石堂層の不整合が、上流部の東ナカヤ沢(標高1270m付近)で認められます。先白亜系御座山層群の砂岩層を不整合で覆っていました。また、もうひとつは、下流側で、閃緑岩の大礫を含む砂岩層が認められました。
 しかし、下部瀬林層を特徴付ける珪質砂岩が、都沢下流部では見られず、礫や砂から成る厚い粗粒岩層となっています。(珪質砂岩は、二股より上流側では、認められます。)
 何より大きな違いは、三山層があるとすれば、典型的な黒色頁岩層でないことでした。

 再調査で、間物沢川と都沢の「岩相」は、寧ろ、似ていないことが明らかになりましたが、『20kmも離れているのだから、当然だろう。しかし、層序は似ていると解釈した方がいいのではないか』と考え、資料を整理しながら、下位層から地層を分帯していきましたが、どうしても、一層準分、特に最上位に当たる三山層の分が無くなってしまうのです。 

 私たちは、平成7年度まで、問題を引きずりながら、別な意味では寧ろ気づかないまま、懸命に調査を続けることになりました。しかし、「佐久の調査物語」としましたが、自然科学ですので、誤解が無いように、先に結論を【下図】に示します。その上で、どのように解決されていったかを物語ろうと思います。

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瀬林層上部層の欠如に気づかず、地層を分帯していた!

 間物沢川での白亜系の岩相変化は、明確で、強烈な印象を持ちました。特に、閃緑岩の大礫が入る砂岩層が、上部瀬林層の最上部に位置している点は、「鍵層」として使えるのではないかと考えました。
 そこで、都沢~腰越沢の調査結果から、観察した地層を「石堂層」⇒「瀬林層下部層」⇒「瀬林層上部層」と区分し、層序を組み立てました。そして、「ラミナが教えてくれたこと」で後述しますが、軸が著しく南に傾いた向斜構造の軸付近に閃緑岩大礫を含む層準があり、ここを瀬林層上部層の最上位に当たるとすれば、佐久地域では『三山層』を欠いていると考えました。実際、三山層に典型的な黒色頁岩層は発達せず、ストライプ層準や級化層理が見られたり、混濁流堆積物を示唆したりする岩相が数多く見られました。
 これらが、瀬林層上部層に当たるのではないかと解釈してしまっていたのでした。
 また、詳細は後述しますが、閃緑岩の大礫は、花崗岩の大礫と共に、瀬林層と三山層の両方に入っていて、大礫の存在は鍵層(示準性)にはならず、寧ろ示相性を示すことも明らかになります。平成7年度まで、この解釈のまま調査を続けていました。

 

   ラミナが教えてくれたこと

 

 平成4年の都沢の再調査で、私たちは、構造解釈にとって強力な手がかりとなる大きな発見をしました。それは、ストライプ層準の中のラミナ構造です。

 

 都沢で観察される比較的上位の地層に、私たちがフィールドネームで「ストライプ」と呼ぶ特徴的な層準があります。これは、黒色頁岩層(5~20cm層厚) と灰色細粒砂岩層(数mm~3cm層厚)の互層が、縞模様になっているところから名付けたものです。黒く見える部分は泥で、白く見える部分は砂で構成されています。黒と白の鮮やかなコントラストは、数m~10mほどの露頭幅となって表れます。
 さらに、ストライプを作っている単層に注目すると、砂岩層の中に、薄い泥岩層が、
逆に、泥岩層の中に砂岩層が、それぞれ数mmの単位で何層か見られます。これは、
ラミナ(葉理;堆積していく時、堆積物を構成する粒子が作る葉片状の配列の様子)と呼ばれるものです。
 この「ラミナ」に、堆積当時の地層の上下関係を知らせてくれる貴重な情報がありました。例えば、砂岩層の単層の中に見られる黒色泥岩の「ラミナ」を見ると、下位は平らになっているのに、上位はくさび形になりながら、何箇所かで切られ、上下は砂質部分でつながっています。これは、ラミナを切っているものの方が、後から堆積したことを意味し、堆積当時に上位であったことを示しています。 (説明図を参照)

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堆積時の上下関係が、ラミナ構造からわかる

 

 このストライプ層準の露頭が、7箇所ありました。この内、上流側の4箇所は、北落ちの傾斜に対して、北側が上位であることが確かめられました。しかし、下流側の3箇所は、地層の傾斜は北落ちながら、北側が、寧ろ下位層であることを示していました。つまり、下流側の地層は、見かけとは反対に、上下が逆転しているのです。

 この時、下位の瀬林層との関係で見ると、背斜構造は不合理で、また断層を推定するような証拠もないので、私たちは、褶曲面(中心軸)が、著しく南側に傾いた向斜構造を考えました。
 そうなると、向斜軸は、ちょうど送電線の真下辺りにあることになり、上流側の4箇所のストライプ層準に、下流側の3箇所が対応することになります。また、閃緑岩の大礫を含む層準が、向斜軸付近に当たります。

 ところで、ストライプ層準の層厚や位置関係が、南翼と北翼で完全に対応しているわけではありません。南翼の層序から最上位のストライプ層準の上に厚さ10cmの灰色層状チャートがあるのに対して、北翼では、構造上最下位となるストライプ層準の下に、同様なチャート層があります。産状が層状チャートなだけに、対応の証明には不十分でした。

 しかし、後述する大野沢では、ストライプ層準の他に、同様に堆積時の上下関係を証拠付ける「級化層理」も数多く見られ、向斜構造を支持してくれました。

 また、抜井川を挟んだ、都沢の対岸・腰越沢の資料も見返してみました。第三紀内山層が白亜系を不整合に覆っている露頭が、腰越沢の標高1040m付近で観察できますが、それまでは小さな褶曲構造が複雑にある沢です。沢の入口の礫岩は、チャートや硬砂岩、黒色頁岩の礫のほか、花崗岩礫も混じっているという特徴があります。また、塊状で珪質な砂岩や、明灰色中粒砂岩と黒色頁岩の互層もあります。岩相から見て、北翼にも瀬林層があることがわかってきました。

 この後の【「都沢~腰越沢ルートマップ」及び、「都沢の地質柱状図」を参照】

 これらの情報も合わせると、都沢付近から大野沢にかけての向斜構造は、断層で分断される前は、一連のものであったことが類推できます。

 

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小規模なストライプ層準の露頭

 【写真上】の説明:【小規模なストライプ層】

 白っぽい部分は砂岩層、黒から灰色部分は泥岩層である。ラミナや単層レベルで、砂と泥の互層が見られる。
 写真の左側には、5cmほどの単層のずれが見られる。堆積し、固まりかけた直後の破壊だろうか。白と黒のコントラスを成す層(ラミナも含め)は、混濁流堆積物のひとつの特徴で、砂(白)と泥(黒)が、ひとつのユニットになっている。 (大野沢中流部で撮影)

 

             * * * *

 

 こうなると、さらに側方への追跡です。西への追跡は、新しく林道「大日向-日影線」ができたのを機に行ないました。
 都沢の西側は、砂が優勢な砂泥互層で、黒色頁岩は熱変成され粘板岩(slate) になっているものもありました。地形図のポイント995の北側、標高970m付近から霧久保沢に向かう林道には、石英閃緑岩(Quartz-diorite)の岩体があって、熱変成の熱源であると考えられます。

 また、井田井沢と林道の交差点から東に20mの露頭で、閃緑岩の大礫を含む礫岩層が認められたことから、向斜軸は西側まで延びていることがわかりました。

 一方、東側への追跡です。既に先白亜系であることが確認できている約2.5km先の鍵掛沢までの間に、9本の小さな沢があり、これらを都沢に近い方から順に入ることにしました。
 調査の結果、「ストライプ」層準は、1本目、3本目(崩れ沢)と8本目の沢で認められました。つまり、都沢で見られた向斜構造の南翼は、東側にも延びていると思われます。

 これは、ちょうど向斜構造の北翼に当たる大野沢下流部で採集し、鑑定されたシダ植物などの植物化石層準に対応すると考えています。しかし、比較的、露頭の良かった都沢では、発見できなかったものです。(瀬林層上部の欠落と推定断層の根拠にもなりました。)


 さらに、9本目の沢(イタドリ沢)では、都沢下流部の粗粒岩の存在が確かめられました。それまでの小さな沢で、瀬林層下部層に特徴的な白チャートが多く、粒度がそろってきれいな粗粒砂岩や礫岩の転石を見かけ、上流部には瀬林層下部層があるはずと予想していたことを裏付けてくれました。

 平成4年度、間物沢川と都沢の地質を比較しながら再調査したことをきっかけに、佐久地域の白亜系の概要がわかってきました。また、岩相を手がかりに、都沢の西側と、東側の沢を調べてみると、主向斜軸は、ほぼ東西に延び、大局的に見て向斜構造は、抜井川に沿っていることがわかりました。

 

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向斜構造は抜井川に沿って伸びていた

 

 【編集後記】

 当時、真剣に地層の中の「小さなラミナ構造」を見たので、わかってきたことですが、もう一度、同じ場所に案内して説明してくれと言われたら自信はないです。

 露頭の場所は記録から指定できますが、実際のところ、級化層理との組み合わせや、砂泥互層をどこで区分するか等の総合的な判断で、ようやく解明できました。何しろ、自然界の真実は、白か黒かではなく、少し白に近い灰色とか、反対に黒に近い灰色で、どうしても人為的な判断(偏見とか先入観という類)が生まれ勝ちです。

 ただ、当時の新鮮な露頭も今はどうなっているか、わかりません。その意味で、貴重な記録を残せたと思っています。まだ、回顧を楽しむ年齢ではありませんが・・・

                              (おとんとろ)