(3) 砂岩層の岩相変化は、堆積環境を
反映しているのではないか。
軟弱砂岩層と緑色砂岩層は、背斜構造の東西両翼に、それぞれが対応する位置にあります。対応関係が確認できるのは、ここまでですが、西翼のさらに外側にある特徴的な砂岩層の岩相と、その順番に着目すると、構成物質の風化・浸食に対する耐性の違いに関連しているのではないかと、思いつきました。
つまり、(ⅰ)緑色砂岩と呼ぶ「青~青緑色を帯びた灰色砂岩」、(ⅱ)風化した「黄土色砂岩」、(ⅲ)風化に強い「明灰色砂岩」と、風化や変質に対して強い順に重なっています。
また、砂岩層は分級が悪く、砂と泥が混じる汚い感じがします。中心部の礫岩層でさえ、砂・泥が混じり、最下部にしては、風化しやすく、脆いことも特徴的です。
これは、白井層の堆積盆が浅く小さく、後背地の様子や堆積環境の変化を色濃く反映している結果なのではないか。色の違いや風化に対する耐性の差は、砂岩を構成する粒子の種類や物理・化学的性質が関係しているのでは、言うまでもありません。
この時、文献資料で、群馬県側に「乙父沢層(おつちさわそう)」という、白井層の堆積に先立つ地層があることを知りました。この地層の堆積した時代、海底火山活動が盛んでした。同層準が、佐久地方にあるとの報告はありませんが、先白亜系とされている御座山層群の一部に、乙父沢層の相当層準を求め、ここから火山起源堆積物の供給があったと仮定すると、比較的容易に、白井層の砂岩の特徴を説明できます。
つまり、白井層の堆積前に、後背地で、既に風化・浸食を受けていたものが、白井層の堆積盆に運ばれてきたというアイディアです。緑色砂岩層の場合、砂岩の基質に玄武岩質の火山灰が含まれていて、堆積後の続成作用や変質によって、例えば緑泥石のような鉱物に変わったことで、砂岩全体が緑色(青~青緑色)を帯びていると考えられます。ちなみに、鉄やマグネシウムに富んだ有色鉱物である雲母・角閃石・輝石が変質して、緑泥石に変わります。
このメカニズムの代表は、新第三紀の緑色凝灰岩(グリーンタフ)ですが、同じ火山性起源でも、白井層に凝灰岩層が無いのは、既に活動を終えた火山起源堆積物が、ある程度、風化・浸食されていた遺物から供給されたと考えると、説明がつくかもしれません。
茨口沢の調査
◇1987年(昭和63年)8月12日 松川・菊池・友野・小林・頓所・仁科
◇1995年 (平成7年) 6月24日 伴野・堀内・宮坂・星野・仁科
◇仁科単独調査
抜井川本流調査
◇1993年(平成5年)7月11日 伴野・小林・佐藤敬二・仁科
新三郎沢調査
◇1995年(平成7年) 8月10日 松川・伴野・堀内・宮坂・馬場・佐藤敬二・仁科
※抜井川本流の「◎印」は、石堂層中の軟弱砂岩の露頭です。詳しくは、後述します。
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【 閑 話 】 軟弱砂岩は恐竜の卵?
稀な存在かと思った軟弱砂岩ですが、平成12~13年に茨口沢と大野沢を結ぶ林道ができると、様々なタイプがあることがわかりました。(以下の露頭写真、及び、前回の「白井層・前半」の【写真―①~③】を参照)
直径45cmを越す大きなものや、偏平な形、歪んだ立体もあります。また、軟弱の名前と似付かない硬いものもありました。抜けた跡も入れれば、優に数十は越えます。写真ではわかりずらいので、載せませんでしたが、砂岩層の岩盤露頭全体に、いくつもの軟弱砂岩が露出している例もあります。
ところで、軟弱砂岩「恐竜の卵」説という冗談を佐久教育ジャーナルに載せたことがあります。硬い殻に覆われていたが、卵の中身が腐って、砂に置き換えられた。それが、軟弱な理由であるという説明です。
産状を説明するには、大きさが不揃いで、聴くに値しませんが、それでも真剣に考えたアイディア例でした。ただ、漣岩の恐竜の足跡化石さえ、真実が解明される前は、「珍しい穴」ぐらいにしか思われていませんでした。
【編集後記】
現在、茨口沢に入る林道入り口は、閉鎖されていて、車で入ることはできません。また、大野沢側からも同様です。
私たちが調査していた頃は、茨口沢と、北側の大野沢を結ぶ林道が開設されたばかりで、自家用車で入ったこともあって、助かりました。それ以上にありがたかったことは、山の斜面を掘削して、新鮮な露頭を作ってくれたことでした。その為、本文で紹介したような「軟弱砂岩」の写真を撮ることができました。
山中地域のフィールドに入ることが無くなり、露頭が、その後どうなったか確かめてありませんが、多分、岩肌は色あせたり、植物に覆われたりして、見つけ難い状況になっていると想像します。一見、変わらない岩石のようにも思いますが、野菜や魚ほどではないにしても、鮮度があるんですね。それ故、その時代に偶然にも立ち合った私たちが、記録したことには意義があったと・・・・ひとり合点しています。 (おとんとろ)